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【黄河文明と宇宙人】

●真夏の夜の大ロマン(宇宙人は、私たちに何をしたのか?)

+++++++++++++++++

以前、ドレイクの公式について
書いた。(2009年11月)
「宇宙人が存在する確率」を求める公式
ということになる。

そのドレイクの公式について、もう
一度、考えてみたい。

その前に、以前書いた原稿を、再掲載
する。

++++++++++++++++++

●知的生命体

 先日、ある本を読んだ。
それには、こうあった。

現在、文明が存在する確率は、銀河系(銀河系だぞ!)、
20個の銀河につき、1個分程度だそうだ(「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP))。
つまりこの地球に、われわれ地球人という知的生物(?)がいるということは、
この銀河系には、ほかに文明を築くほどの知的生物は、ほぼいないということになる。
が、それでも、この大宇宙には、数千億個の銀河系があるから、全体では、
約50万個以上の知生体文明があることになるという。

 50万個以上! (すごいね!)

 この計算の基礎になっているのが、ドレイクの法則。
つまり「銀河文明の法則」と呼ばれているものだそうだ(同書)。

N=RfL

R; 銀河系で1年間に生まれる星の数
f;1つの星のまわりに知生体が生まれる確率
L; 知生体の文明が存続する年数

 が、この計算には、重大な欠陥がある。
つまり、「自滅指数」。
それを組み込んでいない。

 人間が知的生物かどうかという議論はさておき、知的生物は、その進化の過程で
エネルギーを大量に消費するようになる。
そのとき環境を破壊する。
かつての火星がそうだったかもしれない。
あるいは現在の地球がそうかもしれない。
結果、知的生物は、そのまま自滅する。

 そこで知的生物が、宇宙へ飛び出す確率となると、きわめて少ない……というより、
惑星の大きさに比例することになる。
それが「自滅指数」ということになる。

 惑星が小さければ小さいほど、環境破壊が起こりやすくなる。
そのため知的生物がいたとしても、宇宙へ飛び出すほどまで、じゅうぶん進歩する
前に、自滅してしまう。
一方、惑星が大きければ大きいほど、環境破壊は起こりにくくなる。
環境が破壊される前に、解決方法を見つけたり、あるいは宇宙へ飛び出したりする。

 では、この地球は、どうか?
それには、隣の火星と比較してみればよい。

 かつてはあの火星も、地球と同じような、水の惑星であったという。
それが何らかの理由で、現在のような火星になってしまった。
人類と同じような知的生物がいて、進歩の過程でやはり、環境を破壊してしまった。
……という説もある。

 火星の直径は、地球の半分程度。
体積は10分の1程度。
その分だけ、大気の層も薄かったにちがいない。

 そこで私が考えた、「自滅公式」。

J=Ax(惑星の直径)

 自滅までの年数(J)は、(惑星の直径)に比例する。
Aは係数だが、地球人と火星人の自滅までの年数を入れて計算すれば、求まるはず。
たとえばこの地球人が新石器時代をやっと抜け出たのが、今から約5500年前。
この先、約数百年で滅亡するとして、長くても6000年。

 この6000年という年月は、宇宙的時間の中で見れば、星がまばたきする
一瞬より短い。
つまりこの大宇宙に現在、50万種類の知的生物がいるといっても、それは一瞬
にすぎない。
一瞬に生まれ、つぎの一瞬には、滅亡する。
この公式をドレイクの公式に上乗せすると、知的生物どうしが、たがいに接触する
などということは、計算上、さらにありえないということになる。

●知的生命体

 が、現実には、UFOは存在する。
(私とワイフは、巨大なUFOを目撃している!)
ということは、それに乗っている宇宙人は、宇宙人というより、私たちの仲間、
もしくは同類とみてよい。

 が、これについても、あのホーキング博士は、こんな興味深い事実を、講演の中で
述べている。
「同時に、2つの知的生命体は共存しえない」と。

 仮に近辺に、2つの知的生命体が同居したとする。
その知的生命体は、どういう形であれ、他方を抹殺するまで、戦争を繰り返す、と。
となると、地球人と、あのUFOに乗っている宇宙人との関係を、どう考えたらよいのか。

 2つの知的生命体が、同時にこの太陽系という小さな世界で、誕生する確率は、ゼロ。
しかも2つの知的生命体が共存できるという可能性も、ゼロ。
しかし現実には、(あくまでも私の個人的な体験に基づくものだが)、宇宙人は近くに存在
する。
となると、そこから引き出される答は、ただひとつ。

 私たちがいうUFOに乗った宇宙人というのは、別の知的生命体ではなく、私たち自身、
もしくは、その仲間ということになる。

 もう少し詳しく「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP)を、詳しく読んでみよう。
そこには、こうある。

「この100年間に人口は5倍以上に増加しているし、放出した炭酸ガスは大気中に、
1・5倍にもなっています。
このままいきますと、2050年には100億人に達し、大気中の炭酸ガスも、
400ppmに達すると言われています。
こうなると温暖化が進行し、海水の水位が上昇することになります。
その高さは100メートルに達するという説もあります」(同書、P35)。

「すべての星に生命の誕生する惑星が1つずつあるとすれば、図の式(後述)から
わかるように、0・05〜0・005程度となります。
これでは銀河系の中でたがいに通信できる知生体はありそうでないということに
なってしまいます。
人類はこの銀河の中で、唯一無二なのかもしれません」(P36)。

 が、その人類も、このままでは、文明を築いてから、「200年」で、滅亡しようと
している(同書)。

【ドレイクの公式】

銀河系で考えると、ドレイクの公式(N=RfL)により、

R;0・5
f;10億分の1
L;1000万〜1億
N=0・05〜0・005

 しかしたった「200年」(同書)では、どうしようもない。
「6000年」でも、どうしようもない。

 ……こう考えていくと、私たち人類が、こうしてこの地球上の存在していること自体、
奇跡中の奇跡ということになる。
が、その価値を、人類は、いまだに理解できないでいる。
私も含めてどの人も、そこに私がいて、あなたがいるということを、当たり前のように
考えている。
しかしこれほど、もったいないというよりは、恐ろしいことはない。
人類は、その奇跡を自ら、末梢しようとしている。
地球火星化という問題の前では、第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ただの
小競(こぜ)りあい程度のものでしかない。

 では、どうするか?

 ドレイクの公式の中の(L)値を大きくするしかない。
文明の進化の速度を落としてでもよいから、人類の存続する年数を長くする。
長くしながら、その間に、人類は、より賢くなる。
現在のように、サルが核兵器をもったような状態で、人類が長く存続できると
考えるのには、無理がある。
あと10年もすれば、そこら中の国々が核兵器をもち、あちこちで、
戦争を始めるようになるかもしれない。
そうなれば、「200年」も、むずかしいということになる。

 さあ、みなさん、もっと賢くなろう!
自分で考える力を、身につけよう!
人類を救うために!
(少し大げさかな? 自分でもそれがよくわかっています!)

(はやし浩司 知的生命体 存在の確率 宇宙人 存在 確率 家庭教育 育児 教育評論 
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 銀河系 ドレイクの公式)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宇宙人

 2か月前に、「聖書」について書いた。
もう一度、そのとき書いた原稿を読んでみてほしい。

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●聖書(Ryrie版聖書より)

1 THE CREATION OF THE WORLD
世界(天地)の創造

A The begining of Creation
創造の始まり

In the begining God created the heavens and the earth.
最初に神は、天と地を創造した。

Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, and the 
Spirit of God was hovering over the water.
そのとき大地は、形がなく、空だった。
暗闇が深淵の表面をおおい、神の霊が、水の上をただよっていた。

B The Days of Creation
創造の日々

And God said, "Let there be light", and there was light.
そして神はこう言った。「光よ、あれ」と。すると光が現われた。

God saw that the light was good, and he separated the light from the darkness.
神は光がよいことを知った。そこで神は、光を暗闇から分けた。

God called the light "day", and the darkness he called "night".
神は光を、「昼」と呼び、暗闇を「夜」と呼んだ。

And there was evening, and there was morning-the first day.
そして夕方と朝があった。それが第1日目だった。

 ……このあと神は、地上のもろもろのものを創造し、第6日目に、「自分に似せて、人間を創
造する」(So God created man in his own image, in the image of God he created him; male 
and female he created them.)

++++++++++++++++++

 聖書を否定する人たちは、まっさきにこの部分を指摘する。
「人間は20数万年という進化の過程を経て、人間になった。
たった6日の間に、神によって作られたのではない」と。

 しかし聖書でいう「日」は、あくまでもたとえに過ぎない。
「6日」だから、今で言う24時間x6=6日というわけではない。
「段階を経て」という意味であり、またそう解釈すると、ここに書いてあることが
まちがっているというよりは、まさに地球と人類の歴史そのものであることがわかる。
が、それはそれとして、この部分で重要なことは、「神は自分に似せて、人間を創造した」
という部分。
神はどうやって、自分に似せて人間を創造したのか?

 そこで登場するのが、遺伝子操作説。
UFOを信ずる人の多くは、人間は宇宙人の遺伝子を組み込まれて、今に見る知的
生物になったと考える。
実のところ私もその1人だが、若いころ東洋医学(漢方)を勉強していて、それに
気づいた。

●謎の書物『黄帝内経(こうていだいけい)』

 東洋医学のバイブルと位置づけられているのが、『黄帝内経・素問・霊枢』。
黄帝というのは、中国では伝説上の帝王ということになっているが、まったくの架空の
人物だったかというと、そうでもない。
司馬遷の『史記』は、この黄帝で始まっている。

 その黄帝は、私の計算によれば、今から5500年ほど前。
紀元前3500年ころ。
ちょうど黄河文明が、それまでの新石器時代に別れを告げて誕生したころ、この地上に
現れた。
私がその黄帝内経に興味をもつようになったいきさつについては、何度も書いてきた。
やはり以前書いた原稿を、そのままここに紹介させてもらう。

この原稿の中で、とくに注意してほしい部分は、つぎの点である。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯
曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている部分。

これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、
あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。

 わかるかな、この科学性!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●神々の言葉

 私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。漢方(東
洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わない
が、しかしこの本がその原点にあることはまちがいない。

 その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆
であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(ぎはく)という学者の問答形式で書かれてい
るが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質問、さらには矛盾に
つぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。

 一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」とい
う形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書い
ている。

 そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な権威と
いうことになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分もあるが……。)岐
伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由が考えられる。

 黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢書
「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたことが正しいか
どうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって
「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかという疑問はある。

が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。科
学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。その科
学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点
のまちがいもない)にキズがつくことになる。ここが宗教という哲学と大きく違う点である。つまり
黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。

 もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。
黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。しかし断片的
な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。たとえばこ
の私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるもの
は、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。

もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはでき
ない。できないというより、たいへん困難なことである。つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよ
いが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。これは実は聖書についても同
じことが言えるが……。


●黄帝内経(こうていだいけい)の謎

 私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎの
ような記述があることを知ったときのことだ。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯
曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。これを訳すと、「地は人の下に
あります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、
虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。

しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の中にあ
る」と。「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加え
たかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当時の常識と考えてよいの
か。漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前一世紀ということになると、少なくと
も、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだ
としても、西暦七六二年の常識ではなかったはずである。

ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮内氏も、
「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考えるの
が正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。気のひとつである。そ
の気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚という。今風に言えば、まさに真空の状態と
いうことになる。

 もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿
って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋
天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。恐らく事実
は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さんには苦
心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)

その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。つまりわざと
医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。さらに百歩譲って、もしこの
部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこんなところに書く必要はない。
この文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べているのである。王冰としても、散
逸した黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかったのではないかと思う。

 話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時の私
は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえ
た。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五〇〇年。今から
五五〇〇年前ということになる。(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正
しくないが……。)少なくとも、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、
まちがいない。


●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか

 黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。
それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文
句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。

 たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の
訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたも
との位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほう
では、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には
一年のずれを生じます……」とある。

薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと
思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置
づけようとした痕跡が随所に見られる。この部分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだ
が、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が見られる。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」
という言葉を補って翻訳している。たとえば……

 「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこ
にもない!)

 こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたとも
とれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。中国
には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。そういう時代
に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをしたため、弾圧された人
すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の回転について」)。

宇宙創造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。さらに中国では、中国
式権威主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。そういう時代的
背景を忘れてはいけない。

 が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければ
ならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについ
て、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」と
いうように反論する。しかしこの視点はおかしい。

もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっさきに削除さ
れたであろうということ。それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるが
ゆえに、今に残ったというふうに考えられる。今、あいまいだからといって、さらにその内容を負
(マイナス)の方向に引くことは許されない。私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、
よりプラスの方向に引きつけて、その向こうにある事実を見ることなのである。「そういうふうに
も解釈できる」という言いかたではなく、「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべき
でなのである。


●三六五日余で、もとに戻るものは何か

 黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上
の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあ
る。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。

 今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷
わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三六五日余で
一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。

 しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、医
学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、そん
な常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。こう
ある。

 「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きにつ
いて聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。いわんや大
気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほ
うが正しい。その理由はいくつかある。

 もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く
必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。

 つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改め
て書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそま
さに木に竹をつぐような文章になってしまう!

 ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はお
ろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう前提で訳し
ている。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部
分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれ
は正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。もし「左右に(回
って)」と訳すと、意味がすっきりする。

 「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもど
る」と。

 地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つまり右
転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。つまり左転し
ている。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったも
のである。
 

※コペルニクス
(ラテンNicolaus Ccpernicus ニコラウス―)本名はコペルニク。ポーランドの天文学者で、ロー
マカトリック教会の聖職者。ギリシア思想の影響を受け、肉眼による天体観測に基づいて地動
説を提唱。著書「天球の回転について」は、教会との摩擦を避けて死の直前に刊行された。
(一四七三〜一五四三) 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●大ロマン

 遠い昔、推定では今から5500年ほど前、きわめて知的能力のすぐれた生命体が、
この地球にやってきた。
そして何かの目的があって、人類の祖先に、彼らの遺伝子を組み込んだ。
同時に、その子孫に、(1)科学と、(2)哲学を教えた。

 そうして開花したのが、黄河文明と、メソポタミア文明ということになる。

 黄河文明に落とした「科学」は、その後「医学」と姿を変えた。
メソポタミア文明に落とした「哲学」は、その後「宗教」と姿を変えた。
それらが東洋医学の原点であり、キリスト教の原点ということになる。

 ……というのは、ひとつの、はやし浩司説に過ぎない。
しかし想像するだけでもワクワクするような話ではないか。
(自分でワクワクしていても、しかたないが……。)

私はこの種の話が大好きで、眠られぬ夜は星々をながめながら、よくそれを想像する。
が、まったくのデタラメかというと、そうでもない。
何度も書くが、私とワイフは、ある夜巨大なUFOを目撃している。
見たものは見たのであって、これまたどうしようもない。
「あのはやし(=私)は、頭がおかしい」と言われても構わない。
この年齢になって、ウソは書きたくない。
同時に世俗的な常識の中に埋もれるのも、いや。
見たものは、見た!

 だとするなら、あの夜見たものは、何だったのか。
……ということを過去へとつなげていくと、ここに書いたような話になる。
なおこの世界では神様のように思われている、デニケンもシッチンも、同じような説を
唱えているが、黄河文明については、一言も触れていない。
黄帝内経についてはさらにそうで、黄帝内経宇宙人説は、はやし浩司のオリジナルである。
もし私を疑うようなら、つぎの原稿をじっくりと読んでみてほしい。
まさに、壮大な謎とロマン。
私が書いた『目で見る漢方診断』(飛鳥新社版)の末尾に掲載した原稿である。
この原稿を読めば、(かなり難解であることを覚悟して読んでほしいが)、私の書いている
ことが、けっして荒唐無稽なデタラメでないことがわかるはず。

HPを紹介しておく。

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黄帝内経・世界最古の地動説

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http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page055.html

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 真夏の夜、眠られない夜がつづいたら、ぜひ一読してみてほしい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
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の黄帝内経 司馬遷 史記 世界最古の地動説 シュメール人 ヤンシャオ人 メソポタミア文
明 黄河文明)


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「目で見る漢方診断」(はやし浩司著)……壮大なロマン……

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Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司


(2)
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●子育てが不安でならない

●ある母親からの相談

++++++++++++++++++++

たまたま2人の母親から、同じような相談が
届いていた。
ひとつつは、掲示板に。
もうひとつは、相談フォームで。

++++++++++++++++++++

【Mさんより、はやし浩司へ】

娘の事です。
いじめとはちがうのかもしれませんが、
転校して初めの1週間は友達ができていたのですが、
みんな離れて行ってしまい、昼休み一人で過ごすことになっています。
ヒマになったら、トイレをしたくなるらしく、昼休み、下痢をしています。
学校には行きたくないと時々言います。
友達に入れてと言う勇気はありますが、「無理」と言われます。娘になにか問題があるのか?と
ても悩み、以前担任に聞いてみたら、一人ではないということでした。
娘の感じている孤独は、先生は知らないままで、「大丈夫」の一点張りです。
娘は宿題も手につかないし、悩みが深いので、それを見ている私はどうしたらいいのか、とても
恐怖を感じています。
私は短気で、感情的に娘を育ててきたことをとても後悔しています。
毎日が自己嫌悪の育児でした。娘の性格がおかしくなってしまったのかもしれません。
私自身、感情がコントロールできなくて、心療内科に通ったこともありますが、治らず、とても苦
しいです。
今、このような娘の問題を抱えると、自分の体が震えます。不安で不安で家事もできないほど
です。
もう一度、担任の先生に相談したいのですが、「モンスターペアレント」と思われたらどうしよ
う・・とか、心配症の親だけですまされそう・・・などと考えどうすることもできません。
昼休み、一人で過ごすことに、苦痛を抱えた娘は、もう、見守るしかないのか?
この状況を受け入れることを頑張って考えてみるのですが、なかなか頭をきりかえるのが、難
しく、説教でもいいので、どうかお返事をいただきたいです。
よろしくお願いいたします。(以上、原文のまま)

【はやし浩司よりMさんへ】

 どの家庭も、どの親子も、みな、うまくいっているようで、うまくいっていません。
こうした問題では、「私だけが……」とか、「私の娘だけが……」とかいうように、
悩んではいけません。
また悩む必要はありません。
みんなそうです。

またそうであるからといって、自分を責めてはいけません。
みんな懸命にがんばっています。
じゅうぶんすぎるほど、がんばっています。
が、どこかで小さな歯車が狂う。
狂ったまま、それが日々の積み重ねとなってしまう……。

たまたま掲示板のほうにも、こんな相談がありました(2010年8月)。
それをそのまま紹介させてもらいます。

+++++++++++++++++++++++

●掲示板へ

家族構成 祖父母・夫・私・娘(小3)息子(年中)
娘について相談させて下さい。

去年半年程不登校になり先生のHPを参考にスキンシップ、温かい無視など出来るだけ
実践し復学できるまでになりました。
それでもまだ私の顔色を見たり指示、許可を求めるところなど気になります。
私は怒鳴って叱りつけることはありませんが、育児の指針がなく不安定です。

二世帯住宅で同居している実の両親と話はしますが心を開くことができません。
両親共に許容範囲が狭く、干渉してきます。
両親は不仲で会話は全くありません。

私の子ども時代はTV一つにしても見る時間、番組、姿勢など細かく注意されてきした。
そういったことからくる潜在的意識なのか、
子どもがTVを見ているだけで許せなくなってしまう時があります。
そういった日によって違う子育てがよくないのは頭ではわかりますが
自分をコントロールできません。
経済的に別居は無理です。(一部改変)

+++++++++++++++++++++++++

●みんな不安なんですよ!

 こう見えても(?)、私も毎日、不安で孤独です。
正直に告白しますが、毎日、さみしいです。
何をしていても、さみしいです。
友だちも少なく、3人の息子もいますが、自分たちの生活で精一杯。
『便りのないのは、よい知らせ』とはいいますが、その便りも、数か月に1度あるか、
ないかだけ。

 このところ毎日のように、「私たちの子育ては、いったい何だったのか」と、よく考え
ます。
気がついてみたら、そこにはだれもいない。
がんばってきたはずなのに、その実感がない。
貯金も、子どもたちの学費で使い果たしてしまった。
「どうやって老後を過ごそうか?」を考える前に、「どうすればみなに、迷惑をかけないで
死ねるか?」。
そんなことばかりを考えています。

 が、幸いなことに、目が見える。
音が聞こえる。
歩くことも、自転車に乗ることもできる。
さらに幸いなことに、今の私は健康です。
したいことができます。
言い替えると、それ以上、私は何を望むことができるのでしょうか。

●ないものをさがさないで……

 Mさんにしても、掲示板に書き込みをくださった人も、(ないもの)を、
さがしてはいけません。
(ないもの)をねだってもいけません。
またそういう自分を、嘆いてもいけません。
(そこにあって、あなたに見つけてもらうのを、そっと待っているもの)を、
さがしてみるのです。
たくさんあるはずです。
またその価値に気づくのです。

 2人とも娘さんのことで悩んでおられれるようですね。
お子さんの年齢も、近いのでは?
お気持ちはわかりますが、「あそこが悪い」「ここが悪い」と考えていると、
視野がどんどんと狭くなってしまいます。
それともあなたは、自分の娘さんに、いったい、どうなってほしいのですか。
どうであれば、あなたは満足するのですか。

 私の印象では、あなたの娘さんがどうなっても、あなたの心配や不安は解消
されないと思います。
あなた自身が、(不平・不満)のかたまりだからです。
それが娘さんという対象に、「投影」しているだけ!

それが(心配)の種となって、あなたを悶々と苦しめている……。
わかりやすく言うと、自分の心の隙間を埋めるために、娘さんを利用しているだけ。
つまり娘さんには、どこにも問題はない!
よく見てください。
どこにも問題はない!

 健康でしょ!
あなたのそばにいるでしょ!
あなたと話をするでしょ!
心が通い合っているでしょ!

 なのにあなたは満足できない?

●夢と希望

 人は夢と希望をもって生きる動物です。
夢や希望がなかったら、生きていくことはできません。
が、どんな小さなものであって、夢や希望があれば、生きていくことができます。

 が、夢や希望は、向こうからやってくるものではありません。
自分で作るものです。

あなたは誤解していますよ。
あなたは娘さんのことを悩んでいます。
しかしそれはあなたの勝手です。
それ以上に、あなたの娘さんは、あの小さい心で、あなた以上に悩んでいます。
が、あなたは自分のことしか、考えていない。
自分だけが不幸だと思っている。
しかし本当に不幸なのは、娘さんのほうです。

 だからあなたが娘さんに言うべき言葉は、「〜〜しなさい」ではなく、「あなたも
苦しいのね」と、娘さんの立場に立つことです。
くだらない親意識は、捨てなさい。
上下意識は捨てなさい。
あなたが心を開かないで、どうして娘さんが、心を開くことができるでしょうか。

 もう一度、あなた自身が自分の人生を送るつもりで、……つまりあなたが送りたかった
人生を再現する形で、娘さんと人生を共にすればよいのです。
あなたは子どものころ、どんなことをしたかったですか?
あなたの母親に、どんなことをしてもらいたかったですか?

 それを今、実行すればよいのです。
思い切ってやればいいのです。
今のあなたなら、それができるはずです。
せっかくのチャンスでは、ないですか!

 はっきり言いましょう。
「学校へ行きたくない」と娘さんが言ったら、あなたもこう言えばよいのです。
「私も行きたくなかった」と。
「行きたくなかったら、行かなくてもいいのよ。無理をしないでね」と。

それともあなたは優等生で、一流高校、一流大学を出ていますか?
そうでないと思います。

 あまり気負わないで、肩の力を抜いて、娘さんといっしょに遊びなさい!
人生を楽しみなさい!
学校、学校といいますが、中身は、どうせつまらない(勉強)ですから……。

●運命を受け入れる

 あなたは苦しんでいる。
しかしそういう親のほうが、真の愛に近いのですよ。
中には、幸運にも(?)、何も問題なく子育てする人もいます。
数は少ないですが、います。
しかしそういう人は、ただの親から、ただの人で終わってしまう……。
その苦労の最中には、苦しいことかもしれません。
「どうして私だけが……」と思うものです。

 しかしだからこそ、それを乗り越えたとき、あなたはその先に、広い平原を見ること
ができます。
どこまでも広く、おおらかな平原です。
無数のドラマもそこから生まれます。
そのドラマにこそ、生きる価値があるのです。

つまり、子育ても山登りに似ています。
登るときは苦しいですが、登り切ったときの達成感がすばらしい。
だから登山家たちは、山に登るのです。

 ただひとつ条件があります。
いやいや登ってはいけません。
楽しんで登るのです。
が、今のあなたは、何を見ても、「いやいや」ですね。
では、そういうときは、どうするか?
方法は簡単です。

 『運命は受け入れ、居直るのです』。

●運命
  
 運命論については、たびたび書いてきました。
私たちの体には、無数の「糸」がからみついています。
社会の糸、家庭の糸、家族の糸、親子の糸、過去の糸、両親の糸などなど。
そういった糸が無数にからんで、私たちの進むべき方向を決めてしまいます。
ときに私たちを望まない方向に、引っ張っていってしまう。
それが「運命」です。

 そうした運命を感じたら、「あきらめ、受け入れる」。
娘さんのことについて言うなら、「ようし、十字架のひとつやふたつ、背負ってやる」と
宣言してみてください。
娘さんの悩みや苦しみを、共有するのです。
とたん、気が楽になりますよ。
気が晴れますよ。
その先に、道が見えてきます。

 運命というのは、それに逆らえば、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。
しかしいったん、受け入れてしまえば、運命はシッポを巻いて向こうから去っていきます。
運命というのは、そういうものです。

 あなたは今、何か病気をしていますか?
どこか具合が悪いですか?
が、もしそうでないなら、今、ここに元気で生きていることを喜びなさい。
まだ若いですよ。
36歳というと、もっとも輝いている年齢です。
こんなことを書くと不謹慎かもしれませんが、女性にしても、もっとも美しくなる年齢
です。

 だからあなたも心を開いて、通りを歩いてみればよいのです。
私は見える。
私は聞こえる。
私は歩くことができる、と。

 そのすばらしさに、もっとすなおに感動してみてください。
生きていることの、すばらしさに、もっとすなおに感動してみてください。
とたん、娘さんの問題など、どこかへ消えてなくなりますよ!

●あとは……

 あとは愛情。
「私はどんなことがあっても、あなたを守ってあげますよ」と。
口に出して言うことでもないですが、その覚悟だけはしっかりともち、(仮にあなたが
今、娘さんに愛を感じていなくても……)、あとは娘さんを、その愛情でくるんで
あげます。

『暖かい無視』というのは、そういう意味です。

 そしてここが重要ですが、(1)やり過ぎないこと。
(2)求めてきたときが与えどきと心得ること。
(何かを相談してきたら、そのときは、真剣に応じてあげる。)
(3)娘さんから視点をはずし、あなたはあなたで、したいことをする、です。

 私も毎日、ささやかな夢と希望を作りながら、生きています。
たまたま明後日もある地区で講演会があります。
みなに拍手で迎えられ、拍手で見送られます。
見た目には、派手な生活ですが、講演をする私自身は、孤独です。
そこに200人いようが、1000人いようが、孤独です。
心の隙間を埋めることはできません。
また私自身がかかえている問題については、何一つ、役に立ちません。
講演をするからといって、孤独が癒されるということはないということです。

 ただゆいいつの楽しみは、たいてい最後列で、ワイフが私を見ていることです。
私はそういうワイフの顔をチラチラ見ながら、話します。
それだけが希望です。

 またこの9月には、40年来の友人が我が家に来ます。
オーストラリア人です。
学生時代、2人で、オーストラリアの夏を過ごしたことがあります。
が、最近がんを患い、日本へやってきます。
1か月の滞在になるのか、3か月の滞在になるのかは、わかりません。
しかし私は彼が「帰る」というまで、我が家に泊めてあげるつもりでいます。
「いたいだけ、いていいよ」と、メールには書きました。
それが希望です。
私にとっては、希望です。

●Mさんへ

 人生は短いですよ!
あっという間に終わりますよ。
だったら、今、ここで人生を楽しむのです。
娘さんといっしょに、楽しむのです。
心を開いて、娘さんといっしょに、外に向かって歩くのです。
自由の空気を思う存分、吸い込むのです。
体はあとからついてきます。

 あなたの娘さんは、すばらしい子どもですよ。
どこかのドラ娘たちとは、ちがうでしょ。
繰り返しになりますが、このメールを読み終えたら、あなたの娘さんにこう言って
あげてください。

「お母さんも苦しかったけど、あなたも苦しかったのね。ごめんね」
「お母さんがつらかった以上に、あなたもつらかったのね。ごめんね」と。
負けを認めます。
つっぱっていないで、すなおに負けを認めます。

 それですべての問題は解決しますよ。
……というか、何も問題はありませんよ!


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司


(3)
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●信念と態度

+++++++++++++++++++++++

私は子どものころから、信念に乏しい人間だった。
今も、その傾向がつづいている。
付和雷同型というか、よい意味では、和合型人間。
悪い意味では、優柔不断型人間。
それには私の生い立ちが、深く関与している。

では、私の「信念」とは何か。
たとえば社会心理学の世界には、「態度」という言葉がある。
その「態度」というのは、ズバリ「信念」をいう。
ものごとに対して、どのような信念をもっているか。
それを「態度」という。

俗世間でいう、「表面的な様子」のことではない。

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●信念

 信念にも2種類、ある。

(1) 注入された信念。
(2) 自己創造した信念。

 注入された信念というのは、カルト教団の信者たちが共通してもっているような
信念をいう。
(自分で考えた信念)ではない。
(与えられた信念)をいう。
特徴の第一は、みな、言うことが同じ。
テープレコーダーを回したような意見を口にする。

 これに対して(自己創造した信念)は、自分で作り上げた信念をいう。
特徴としては、そこに至るまでの長い道のりがある。
それに常に柔軟性を保留している。
進歩もするし、ばあいによっては、後退もする。
「ひょっとしたら、どこかに穴(まちがい)があるかもしれない」という迷いもある。

 もちろんその中間型というのもある。
ある程度の指導を受けながら、その上に自分の信念を作り上げていく。
あるいは似たような信念をもつものどうしが集まって、信念を一定の形に仕上げていく。

●カルト

 カルトの特徴には、いろいろある。
ざっと思いつくまま並べてみる。

(1) 排他性(ほかの思想を否定する。)
(2) 独善性(自分たちだけが正しいと思い込む。)
(3) 隔離性(他者との交わりを制限する。)
(4) 絶対性(教祖、教団を絶対視する。)
(5) 催眠性(指導の一部に、催眠的方法を取り入れる。)
(6) 集団性(つねに集団行動をし、個人的行動を制限する。)
(7) 誇大性(ささいな事実を、誇大視する。)
(8) 神秘性(神秘的な要素を重要視する。)
(9) 権威性(釈迦、キリストなど、最高権威をもちだす。)
 
 幼児期から少年少女期にかけての教育(?)ほど、効果的とされる。
そのため、フランスやベルギーなどでは、カルト教団への入信年齢を逆にきびしく
制限している。
(日本では野放し。)
さらにその危険性から、国よって、(1)政治活動を禁止したり、(2)営利活動
を禁止したりしている。
(日本では事実上、野放し。)

●「柱」

 一般的に原始的な信念は、わかりやすく、人に受け入れやすい。
観念的、抽象的であればあるほど、人に受け入れやすい。
たとえば日本の武士道など。
(だからといって、武士道がまちがっていると書いているのではない。誤解の
ないように。)

 一方、哲学的思想をもった信念は、わかりにくく、人に理解されにくい。
事実や解釈に基づいた思想性があればあるほど、人に理解されにくい。
たとえば平和運動や人権運動など。

 どうであれ人は信念という「柱」をもつことによって、自分の生き様を補強する
ことができる。
思考プロセスとして機能するため、それぞれのばあいに信念に応じて、ものを考え、
結論をくだすことができる。
わかりやすく言えば、信念は、「生きていくための便利な道具」ということになる。
が、もちろんそれだけには、終わらない。

●「態度」

 信念には、それを支えるに足りる、強い意志がなければならない。
意志がなければ、ただの思想。
で、その意志がどういう状況で、どう作られるかが問題。
それにはその人の人生観、哲学観、過去の経験が集約される。
が、それは簡単なことではない。

たとえば真・善・美に追求にしても、一朝一夕にできることではない。
そこに至る過程には、長い道のりと時間、忍耐と苦痛、努力と精進が必要。
その結果として、意志が総合されて、「信念」へと固まる。
社会心理学で言う「態度」は、そうして生まれる。

●坂本龍馬

 で、最近は、坂本龍馬ブーム。
書店へ行っても、「坂本龍馬」の文字が、あちこちから飛び込んでくる。
私と縁がないわけではない。

 私がオーストラリアへ渡ったとき、私の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏。
美智子皇后陛下の父親である。
その正田氏のもとで、事務手続きをしてくれたのが、坂本二郎氏(東京商工会議所
所属)。
坂本龍馬の直径のひ孫氏。
その坂本龍馬は、自分の信念に命をかける。
どういうプロセスを経て、そのような強固な信念をもつようになったかは知らない。
当時の殺伐とした社会状況が、大きく影響していたのかもしれない。
が、「命をかける」だけなら、イラクで自爆テロを繰り返す若い女性にだってできる。
大切なのは、やはりそれを支える「強固な思想」ということになる。
坂本龍馬には、それだけの思想性はあったのか?

 ……という話は、また別のところで考えたい。
私が書きたいのは、坂本龍馬にせよ、それと対峙した新撰組にせよ、どこかに
狂信性もあったのではなかったかということ。
思想性を裏付ける文書が、あまり残っていないことにもよる。

●信念の人

 私も自分の人生の中で、「これは信念の人」と思えるような人には、あまり出会って
いない。
命をかけて、正義と闘ったような人をいう。
ただ誤解がないように言っておきたいのは、欲得の追求のために闘志を燃やすというのは、
「信念」ではない。
わかりやすい例としては、「金儲け」がある。
さらに最近の例としては、日本の相撲界がある。
「国技」とは名ばかり。
国技意識など、どこにもない。
おそらく「国技」の意味もわかっていないのでは?

 一方、K国による拉致問題に取り組んでいる人たちがいる。
横田めぐみさんの両親が、そうである。
ああいう人たちを見ていると、本当に頭がさがる。
神々しい尊ささえ感ずる。
「信念」、つまり「自己創造した信念」には、そういう力がある。

●信念

 人生も、カウントダウンの段階に入った。
平均寿命まで残り16年。
この段階で、「信念」と言えるものをもっている人は、幸福な人だ。
信念に燃え、そこに命をかけている人は、幸福な人だ。

 が、私には、それがない。
闘うといっても、不毛の荒野の中で右往左往しているだけ。
泡ぶくの波の上で、見栄や体裁に踊らされているだけ。
自分が何を求め、どこへ進んでいるかさえ、わかっていない。
信念など、自分に求めようもない。
これでよいとは思っていないが、しかしだからといって、どうしようもない。
そういう状況で、今日も始まった。
2010年7月11日。

 ところで昨夜は、ワイフと、映画『プレデターズ』を観てきた。
途中であくびが出るほどのダ作。
意味のない戦闘映画。
制作費も、ほとんどかかっていない。
星は1つか2つの、★。
ついでに一言。
信念のない映画というのは、ああいうのをいう。
ボケ防止には役に立つかもしれないが、観るだけ時間の無駄。
お金の無駄。

 ということで、みなさん、おはようございます!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 信念と態度 社会心理学 態度 心理学でいう「態度」 信念の人)


(4)
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【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



++++++++++++++++



子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



++++++++++++++++



●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。そのせ
いか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参観している私の
ほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときには、脳
内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化
し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつぶ
る。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳内ホルモ
ンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始め
る。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象
である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことがあった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当
たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休みになる少
し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。ウソや仮
面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思
う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あな
たのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉があ
る。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。相手の
好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助手席
に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれませんが、
今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解した。頭も
よい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力)





Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司



●ほめる(2)※



●明るい4人兄弟



 Gさんの家には、男の子ばかり、4人の子どもがいます。が、どの子も、屈託なく、明るい。伸
びやか。その秘訣は、すぐわかりました。母親が、上の子どものお下がりを、下の子どもに与
えるとき、いつもこう言うのです。



 「あら、あなたも、Aちゃん(すぐ上の兄)のが着られるようになったわね。大きくなったわね」
と。



 母親がまず、それを心底喜んでみせる。それを受けて、下の子どもたちが、「大きくなった」と
喜ぶのです。そういう雰囲気を、母親が、無意識のうちにも、つくりあげていたのです。



●不思議なパワー



 子どもを伸ばす最大の鉄則、それは、子どもをほめることです。スキナーという学者は、ほめ
ることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを前向
きに伸ばしていくと説明しています。



さらに最近の研究によれば、ほめることによって、脳内で、カテコールアミンというホルモンが
分泌され、それが、子どもの集中力(ノルアドレナリン)や思考力(ドーパミン)を活性化させるこ
ともわかってきました(澤口俊之「したたかな脳」)。



 ほめることには、私たちが想像する以上の、ものすごいパワーがあるようです。が、いくつか
条件があります。



●ほめる条件



 ほめるとしても、努力とやさしさ。この2つは遠慮なく、ほめます。顔やスタイルは、ほめない。
頭については、時と場所を慎重に選んで、ほめます。顔やスタイルは、ほめれば、関心がそち
らばかりに向いてしまうということになりかねません。頭については、ほめすぎたため、かえって
うぬぼれてしまうというケースも、少なくありません。



 また当然のことですが、ほめるときには、心底、その気になってほめます。ウソや体裁では、
効果がないばかりか、かえって逆効果。子どもは、親の心の隠された意図(シャドウ)を、敏感
に読み取ってしまいます(ユング)。



●学習面では……



 たとえば子どもの学習。子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばす、です。苦手な分野、
不得意な分野には、目をつむります。



 こうすることで、先に書いた、カテコールアミンという脳内ホルモンの分泌を促し、脳を活性化
させることができます。



 1科目が伸びたら、ほかの科目もつられて伸び始める……という現象が、子どもの世界で
は、よくあります。これを「相乗効果」と呼んでいますが、「うちの子は学習面ではどうも……」と
思ったら、1科目なら1科目だけを、集中的にほめて伸ばします。



●好意の返報性



 が、それでも、よくこんな質問を受けます。「子どものほめ方が、わかりません」と。しかし答え
は簡単。まず、本心で、自分の子どもをいい子と思うことです。不安や心配は禁物。本心で、で
す。



英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思う』というのがあります。あ
なたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あなたのことをいい人だと
思っているもの。心理学の世界ではそれを、「好意の返報性」という言葉を使って説明していま
す。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとします。相手
の好意には、好意でもってこたえようとします。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ば
します。親が、「…うちの子は、ダメ…」と思っていて、どうして子どもが伸びることができるでし
ょうか。



 もうおわかりですね。「うちの子は、すばらしい」と、まず信ずること。心ができれば、ほめ方
は、自然と、あとからついてきます。

(はやし浩司 相乗効果 ノルアロレナリン カテコールアミン 脳の活性化)



【補記】



 子どものやる気、思考力に、脳内ホルモンが、関係している。昔から『好きこそ、もののじょう
ずなれ』と言うが、好きなことをしていると、脳内で、カテコールアミンというホルモンが分泌され
る。



 このカテコールアミンには、ノルアドレナリンとドーパミンの2種類があるが、そのうちノルアド
レナリンは、注意力や集中力と関係があり、ドーパミンは、思考力に関係があるとされる。



 カテコールアミンが分泌されると、脳が覚醒状態になるという。そしてその結果、脳の機能そ
のものが活性化される。



 教育の世界には、「相乗効果」と呼ばれる、よく知られた現象がある。たとえば英語なら英
語、1科目が伸び始めると、とくにほかの科目を勉強したわけでもないのに、数学や国語まで、
伸び始めるという現象である。この現象に、ここに書いた脳内ホルモンの働きを重ねてみる
と、なぜそうした現象が起きるのか、うまく説明できる。



 そこで重要なことは、子どもを伸ばそうと考えたら、どんな分野でもよいから、ひとつのことを
楽しんでさせるようにすること。その前向きな取り組みが、子どもの脳を活性化させる。その結
果として、子どもは、ほかのあらゆる分野で、伸び始めるようになる。



まずいのは、不得意な分野や苦手な分野を、子どもに押しつけるような行為である。逆の相乗
効果(?)が働いてしまい、子どもは、今度はあらゆる面で、伸び悩むようになってしまうかもし
れない。

(はやし浩司 子供の集中力 子供の思考力 子どもの集中力 カテコールアミン ノルアドレ
ナリン ドーパミン)



【注、ノルアドレナリン】



ホルモンとして副腎から血液に放出され、また、シナプス伝達の間にノルアドレナリン作動性ニ
ューロンから放出される神経伝達物質である。それは、ストレス・ホルモンの1つであり、注意と
衝動性(impulsivity)が制御されている人間の脳の部分に影響する。アドレナリンと共に、この化
合物は闘争あるいは逃避反応を生じさせて、心拍数を直接増加させるように交感神経系を動
かし、脂肪からエネルギーを放出し、筋肉の素早さを増加させる。(Wikipedia フリー百科事典
より転載)。


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

【常識論】



【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。



●日本の常識は世界の非常識



(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1
4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長
二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。



ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。



(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマー・スクールという学校がある。そこはチャールズ皇太
子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラ
ムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな
子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。



なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●「自由に学ぶ」



 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。

(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識論
 はやし浩司 教育評論 教育論 オーストラリア はやし浩司 ジーロン・グラマー・スクール 
ジーロング グラマー スクール Geelong Grammar School)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司


(5)
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●幸福論

+++++++++++++++++

人生、いろいろ。
人、さまざま。
100人の人がいれば、100通りの
生き方がある。
生き方は、みな、ちがう。

問題のない人は、いない。
みな、それぞれに問題をかかえ、
懸命に生きている。
どこかの哲学者は、こう言った。
『幸福な家庭はみな似ている。
が、不幸な家庭は、みなちがう』と。

子育ても、またしかり。
問題のない子どもは、いない。
外から見ると、みなうまくいっているように
見える。
が、うまくいっている家庭など、それこそ100に
1つもない。
1000に1つもない。

だからこれだけは言える。
多くの親たちは子どもの問題をかかえると、
真っ先にこう悩む。
「どうしてうちの子だけが……」と。

しかしそう思ってはいけない。
問題のある子どもをかかえているのは、
けっしてあなただけではない。

+++++++++++++++++

●原点

 こんなことは、めったにあってはいけない。
しかしある母親は、自分の子ども(2歳児)が死ぬか、生きるかの死線をさまよったとき、
病院の廊下で天に向かって、こう祈ったという。
「私の命はどうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、あの子の命を救って!」
と。

 それを子育ての原点とするなら、子育てにまつわる問題は、すべて解決する。
「成績がなんだ!」「いじめがなんだ!」「学校がなんだ!」となる。

●家庭騒動

 「盗み」にしても、そうだ。
その親には2人の娘がいた。
下の娘は、6年ほど前に結婚した。
が、上の娘は、仕事もせず、家の中でブラブラしていた。
かなり裕福な家庭ということもあった。
上の娘は、父親の金庫から現金を盗み、それでブランド品を買いあさっていた。
ハンパな額ではない。
一度に、100万円単位で盗んでいた。
買い物依存症である。
同じものでも、それがほしくなると、それにブレーキをかけられなくなる。
そのため娘の部屋には、その種のブランド品が、山のようになっていた。

 が、父親も母親も、娘を叱ることができなかった。
何回か注意しようとしたことがあるが、そのつど上の娘は、逆にキレた。
台所から包丁をもってきて、自分の首を切ろうとしたこともある。
父親の腹に包丁を向けたこともある。

 が、やがて父親は悟った。
「殺されてもいい」と。

●上の娘

 「どうせ私が死ねば、財産はすべて娘たちのものになるではないか」と。
そう割り切ったとき、父親の目の前には一本の道が開けた。
「娘は、私たち以上に苦しんでいるのだ」と。

 27、8歳ごろまでは、男とつきあっているという話もあったが、30歳を
過ぎると、それも消えた。
男のほうが、みな、去っていった。
35歳を過ぎると、娘は化粧もせず、過食と拒食を繰り返すようになった。
私がここに書いた話を聞いたときには、上の娘は相撲の関取のように太っていた。

 父親は金庫を数度、替えた。
が、そのつど上の娘は狂ったように鍵をさがした。
ときどき父親と母親は、1、2泊の旅行に出かけることもあった。
そういうとき上の娘は、一睡もせず鍵をさがしたという。
が、それでもないとわかると、近所の鍵屋を呼んで、金庫を開けさせた。
そういう娘を知りながら、父親も母親も何も言わなかった。
ただ金庫の中には、いつも小さなメモを書いて入れておいたという。

「○○へ、もう、こういうことはやめようね」と。
が、効果はなかった。

●買い物依存症

 買い物依存症は、メカニズム的にはアルコール中毒やニコチン中毒と同じ。
脳の中枢部(視床下部)から発せられた信号によって、ドーパミンが分泌される。
それが線条体に作用して、そこで猛烈な条件反射反応が起きる。
ふつうの理性でコントロールできるようなものではない。
一度この反応が起きると、そのものが猛烈にほしくなる。
ほしくなって、自分が自分でなくなってしまう。

 そのものが必要だから、ほしいのではない。
「ほしい」という欲望を制御できなくなる。
だから買う。
買って自分の欲望を満足させる。
平たく言えば、心の病気。

●共感

 父親の職業を言い忘れたが、父親は、少し離れた通りで、公認会計士の事務所を
開いていた。
1人の税理士も、いっしょに仕事をしていた。
年齢は55歳。
そのころその男性はテニスで腰を痛め、同時に五十肩に苦しんでいた。
そこへ緑内障が追い打ちをかけた。
パソコンを相手に仕事をするのが、むずかしくなった。

 引退も考えたが、それを思いとどまらせたのが、上の娘だった。
上の娘のことを考えると、「引退どころではない」となった。
「がんばれるだけ、がんばるしかない」となった。

 そこで父親と母親は、スポーツジムに通うようになった。
週に1度だが、プールで泳ぐようにもなった。
そしてこう宣言した。
「70歳まで現役で働く」と。

 私も同じことを書いていたので、ともに共感を覚えた。
「共に70歳まで、がんばりましょう!」と。

●バネ

 私にもいろいろあった。
今も、いろいろある。
さみしいことやつらいことのほうが、多い。
それを忘れるために、映画を観たり、旅行に出かけたりする。
それでそこにある問題が解決するわけではないが、一時的であるにせよ、それを
忘れることができる。
心の中にたまったゴミを掃除することができる。

 言い替えると、問題があるから悪いのではなく、それを受け入れてしまえば、
それがプラスの方向に作用するということ。
その男性もこう言っていた。

「金庫からごっそりと札束が消えていたときのこと。
私は、こう思いました。
『もって行きたければもっていけ。その分だけ、私は仕事をするだけだ』と」と。

 つまり発想をほんの少し変えるだけで、不幸(?)を自分のバネとすることができる。

●運命

 私たちの体には、無数の糸がからんでいる。
その「糸」がときとして、私たちの進むべき道を決めてしまう。
「私はこっちへ行きたい」と願っていても、その糸が別の方向に引っ張ってしまう。
それを「運命」というのなら、だれにでも運命はある。

 その運命は、逆らえば、キバをむいて襲いかかってくる。
が、受け入れてしまえば、向こうからシッポを巻いて逃げていく。

●腐る体と心
 
 私たちはたしかに、今ここで、生きている。
しかし本当のところ、生きているのではなく、生かされている。
たとえば昨日も、こう思った。

 私とワイフは昼食後、いつも30〜40分ほど昼寝をする。
それが日課になってしまった。
そのときのこと。
起きるのはつらい。
「もっと寝ていたい」と思う。
しかしそういう体と心にムチを打って、体を起こす。
仕事に向かう。
自転車にまたがる。
だからこそ、かろうじてだが、こうして健康を維持することができる。
が、もしその緊張感がなかったら……。

 私は悠々自適な老後生活が、けっしてあるべき理想の老後生活とは思わない。
またそうだからといって、幸福とは思わない。
もしそんなだらしない生活を半年もつづけたら、体も心も腐ってしまうだろう。
つまりそこに問題があるから問題なのではなく、大切なのはその問題を
どう生かして生きていくかということ。

●今が原点

 子育ても、またしかり。
先にも書いたが、問題のない子どもはいない。
したがって問題のない家庭はない。
それぞれがそれぞれの問題、つまり悩みや苦しみ、悲しみを背負って懸命に生きている。
が、それを「問題」と思ってしまうから、それが重荷になる。
十字架になる。
だから、こう考えたらどうだろう。
「それが当たり前」と。

 居直り?
あきらめ?
受け入れ?
言葉は、何でもよい。
大切なことは、そこを原点としてものごとは、前向きに考える。
過去を悔やむ必要はない。
のろう必要は、さらにない。
今、私たちはここに生きている。
そこを原点としてものごとは、前向きに考える。

●失う

 とくに50歳を過ぎると、失うものばかり。
60歳を過ぎると、さらに失うものばかり。
「失う」ことを前提として、生きる。
また失うことを、恐れてはいけない。
どうせそれで失うものは、その程度のもの。
もともと価値のないもの。
あるいは価値あるものと、思いこまされていたもの。

 が、もし体と心を腐らせたら、おしまい。
本当におしまい。
それだけは最後の最後まで守る。
またそれだけは、その気になれば、最後の最後まで守ることができる。
失うことはない。

●許して、忘れる(For・give & For・get)
 
 親が子どもを育てるというのは、ウソ。
子どもが親を育てる。
しかも皮肉なことに、できの悪い子どもをもてばもつほど、親は子どもに育てられる。
が、それにはひとつ、重大な条件がある。
それが「愛」ということになる。

 親は子どもにどれほど叩かれ、罵倒されても、あるいはつらい思いをさせられても、
「愛」だけは見失ってはいけない。
方法は簡単。
『許して忘れる』。
それだけを念じて、その場を去る。

 仲直りするとか、関係を修復するとか、そういうことは考えなくてよい。
子どもの機嫌を取る必要もない。
嫌われることを恐れてはいけない。
去っていくことを、悲しんではいけない。
子どもたちにしても、1人の人間。
つまり、人、それぞれ。
あとは忘れて、自分の人生を歩む。

●「70歳までがんばろう」

 その男性はこう言った。
「林さん(=私)、70歳までがんばりましょう」と。
私はそれに答えて、こう言った。
「70歳? 私なんか今のままだと、75歳までがんばらなくてはならないかもしれ
ません」と。

 「今」はそのためにある。
まず、体を鍛える。
心を腐らせない。
今日1日がんばれば、明日がある。
今週1週間がんばれば、来週がある。
今月1か月がんばれば、来月がある。
だから今年1年がんばれば、たぶん来年もあるだろう。
あとはそれを繰り返す。
繰り返して、75歳までがんばる。
つまりそのあとのことは考えない。
運がよければ、ポックリと死ねるだろう。

 だからともかく、今日は今日で懸命に生きる。
今夜死ぬことになってもよいように、懸命に生きる。
……というのが、この原稿の結論ということになる?

 2010年7月20日、今日も始まった!
扇風機の風が、心地よい。
何でもこい!
やってこい!
私は負けない!

Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●離婚のあとに…… 
 
 Aさん(38歳、秋田県H市在住)。5年前、二人の子どもを夫に預けて、離婚。原因は、
Aさんの不倫。そのAさんは、現在、そのときの不倫相手と再婚。「今は、最高に幸福な生
活を送っている」(Aさんのメール)とのこと。

 が、その一方で、Aさんは、二人の子どもに対する、恋慕に苦しんでいる。二人の子ど
もは、上の子どもが、11歳(兄)、8歳(妹)。「会いたいが、会うべきではない」「もし
子どもたちが、自分を求めていたら、どうしたらいいのか」「この5年間、まったく連絡を
とっていない」と。

 前夫が再婚しているかどうかも、知らないという。現在、前夫の住んでいるところとは、
70キロくらい離れているとのこと。(以上、Aさんからのメールを要約。)

++++++++++++++++++

 メールの内容によれば、離婚相談のとき、Aさんは、「自分のわがままで離婚するのだか
ら、二人の子どもは、前夫に渡した」とのこと。しかしその文面からは、引き裂かれた母
子の苦しみが、にじみ出ていた。それで私に、「アドバイスしてほしい」と。

 しかし私は、こういう事例については、まったく無力でしかない。とても残念だが、私
の心には、Aさんを理解するだけの「心のポケット」がない。つまり人というのは、同じ
ような苦しみや悲しみを経験して、はじめて他人の苦しみや悲しみを理解できるようにな
る。それを昔、学生時代の私の恩師は、「心のポケット」と呼んだ。

 ただ、想像できなくはない。そしてそれほどまでの事例ではなくても、子どもと別れた
母親の事例は、いくつか経験している。ひとつずつ、順に、心の紐(ひも)をほどいてみ
よう。

 Aさんは、不倫をした。しかしそれは決して、「浮気」と言えるような、浅いものではな
かった。その証拠に、Aさんは、二人の子どもと別れて、その不倫相手の男性と再婚して
いる。

 そういうAさんを、だれが責めることができるだろうか。Aさんは、真剣だった。まじ
めだった。そして自分の心の、「強烈な命令」に従って、前夫と離婚した。その強烈な命令
は、Aさん自身の心の迷いという範囲を超えた、まさに「人間として、その根底から、わ
き起こる命令」だったにちがいない。

 Aさんは、何も、まちがったことはしていない。もしAさんの行為がまちがっていると
いうのなら、人間そのものがまちがっていることになる。

 Aさんは、結婚していた。二人の子どももいた。しかし電撃に打たれるような恋をした。
そしてそれに打ちのめされるようにして、離婚した。そこらの浮ついた男女が、遊びです
る浮気とは、中身も深みも、ちがっていた。

 で、その結果として、二人の子どもを、夫のもとに置いて、離婚した。そのときの判断
が正しかったかどうかは別として、Aさんにしてみれば、Aさんが感ずる「罪」に対する、
せめてもの「つぐない」だったかもしれない。Aさんは、こう言う。「前夫にすべてを捨て
ろというのは、できなかった」と。

 不幸か不幸でないかといえば、こうした結末は、二人の子どもにとっては、不幸に決ま
っている。とくに今の状態では、二人の子どもは、「母は、私たちを捨てた」と思っている。
またそう思って、当然である。

 いくらAさんが、「そうでない」と思っていても、それはAさんの身勝手。事実として、
Aさんは、二人の子どもを捨てた。この親としての「罪」は、決してつぐなえるようなも
のではない。夫に子どもたちを渡すことで、Aさんは、夫に対しては、つぐなったつもり
でいるが、それは夫に対して、だけ。

 そこでAさんは、子どもへの思いが断ちきりがたく、思い悩んでいる。「どうしたら
いいか」と。

 Aさんは、不倫相手と再婚はしたものの、一日とて、心の晴れる日はなかったはず。「今
は最高に幸福です」とは書いているが、それは精一杯の虚勢であるにちがいない。朝起き
れば、子どものこと。昼の時報を聞けば、子どものこと。夜、床に入れば、子どものこと。
近所の同年齢の子どもを見ては、自分の子どものこと。それを思いやりながら、「今ごろは、
9歳になったはず」「今ごろは、10歳になったはず」と。一日とて、いや一分とて、子ど
ものことを忘れたことはないはず。

 それはものすごい閉塞(へいそく)感である。おまけに、Aさんを見る、世間の目は冷
たい。恐らく、親戚中から、白い目で見られている。「ひどい女だ」「子どもを捨てた、悪
女だ」と。

 世間的な常識を言えば、そういうことになる。これに対して、Aさんが、抵抗したり、
否定したりしたところで、意味はない。先に書いた、「強烈な命令」の前には、世間的な常
識など、道端のスミにたまったホコリのようなもの。この強烈な命令が、いかに強烈であ
るかは、あの川端靖成をみればわかる。ノーベル文学賞までとった文学の大家でも、晩年、
10代の女性と、恋をしている!

 しかしこうした閉塞感は、何もAさんだけが経験しているものではない。Aさんは、子
どもと生き別れたが、死に別れた人だって多い。さらに子どもではなく、親や兄弟と、生
き別れたり、死に別れたひともいる。夫や妻と、生き別れたり、死に別れた人だっている。
恋人と生き別れたり、死に別れた人となると、五万といる。あるいはもっと多い。

 それぞれが、それぞれに重い十字架を背負っている。こんな例もある。

 B氏(50歳)は、そのとき、母親と決別状態にあった。だから母危篤(きとく)の報
を受けたときも、母親のもとには走らなかった。やがてすぐ母親はなくなったが、葬儀に
も出なかった。B氏が、45歳のときのことだった。

 そのB氏には、一人の妹がいた。身体に障害があり、介護がないと、満足にトイレへも
行けない状態だった。しかしB氏は、その妹を、叔母に預けた。(本当は、見るに見かねて、
叔母が、その妹のめんどうをみることになった。決して、叔母のほうから、引きとったわ
けではなかった。)

 このケースでも、B氏は、世間からは白い目で見られた。親戚からも、「ひどい息子」と
ののしられた。しかしそのB氏が、実は、父親の子どもではなく、祖父と母親との間にで
きた子どもだった。それにいろいろと複雑な家庭の事情がからんだ。B氏は、母親を、心
底、うらんでいた。

 が、それから5年。

 B氏の心が晴れることは、一日もなかった。B氏は、母親の死に目にもあわなかったこ
とを悔やんだ。葬儀に出なかったことも悔やんだ。そのときは「正しい決断」と思ってい
たが、時がたつにつれて、心が変化するということは、よくある。

 毎日が、その「悔やみ」との戦いでもあった。今になってB氏は、こう言う。「どうして
私は、もっと早く母を許せなかったのか」と。

 こうした事例は、形こそちがえ、いくらでもある。幸福な家庭は、どれもよく似ている
が、不幸な家庭は、みなちがう。顔もちがう。しかしつきつめれば、「不幸な思い」は、ど
の人も共通している。

 だからAさんについても、「あなただけではないですよ」と言いつつも、しかし今、Aさ
んが感じているであろう閉塞感は、B氏とは比較にならないほど、重いものであるにちが
いない。私やあなたが安易に、アドバイスできるような内容のものではない。メールには、
「私は幸福です」とはあるが、幸福になれるはずはない。

 これから先、Aさんがすべきことは、(今は、まだ子どもたちが小さいから、しないほう
がよい)、いつか、二人の子どもたちの前で、両手をついてあやまることである。しかしそ
のときでも、二人の子どもが許してくれるとはかぎらない。しかしそれでも、Aさんは、
あやまるべきである。

 そういう日は、必ず、やってくる。でないと、この種の閉塞感は、日増し、年ごとに大
きくなり、ますますAさんを苦しめる。「忘れよう」「忘れよう」と、もがけばもがくほど、
クモの巣のからんだ、あり地獄の中に落ちていく。はっきり言えば、今、Aさんが感じて
いる「幸福感」などというものは、紙のように薄いガラスでできた、箱のようなもの。

 つまりAさんは、こうした現実を、はっきりと認識しなければならない。逃げてはいけ
ない。認識する。それは同時に、とても苦しいことだが、それは自分がかかえた大病と、
真正面から向きあうのに、似ている。心の中の(わだかまり)を理解しないかぎり、その
人は、そのわだかまりと、戦うことすら、できない。

 本来なら、メールをくれたAさんに対して、「こうしたらいいですよ」というような返事
を書かねばならない。しかし職業柄、どうしても、私の視点は、捨てられた二人の子ども
のほうに、向かってしまう。「どれほど、さみしい思いをしただろうか」「つらい思いをし
ただろう」と。恐らく今の今も、二人の子どもは、Aさんを慕いながら、その一方で、そ
れ以上に、Aさんをうらんでいる。

 不倫がすべて悪というわけではない。

 真剣であるなら、不倫も許される。ある女性(35歳)は、一人の男性(43歳)と、
一年にわたって不倫をつづけた。週一回ほど会っては、濃厚なセックスを繰りかえした。
しかしその女性は、結局は、その男性と別れた。

 その女性は、別のところで、こんなことを言っている。「私は不倫をしました。あの世で
は、まちがいなく地獄に落ちます。その覚悟はできています。ただ不倫をした分だけ、私
は今の夫に尽くしています。ですから不倫をしたおかげで、おかしなことですが、夫婦の
仲もよくなりました」と。

 いろいろな不倫があるが、そういう不倫もある。今さら過去を取り消すことはできない
が、Aさんも、まだその段階であれば、いろいろ打つ手はあったのだろう。しかしその前
に、その不倫は、前夫の知るところとなってしまった。
 
【Aさんへ】 

 メール、ありがとうございました。

 多分、私に相談してくださっても、問題の根本が、解決しないかぎり、あなたの心が整
理されることはないと思います。お力になりたいのですが、私は、あまりにも無力です。
ゆいいつあなたができることと言えば、二人のお子さんの幸福を願うことだけですが、し
かしそれとて、もう、あなたとは、関係のない世界のことです。

 あなたは「ひょっとしたら、二人の子どもが、今でも私を求めているかもしれない」「私
はそれに答えてあげたい」というようなことを書いておられますが、それは、その通りで
あると同時に、まったく、その通りではありません。

 自分たちを捨てた(この表現は適切ではないかもしれませんが、お子さんたちは、そう
思っています)母親を、二人の子どもたちも、まさに毎日、恋焦がれています。それは当
たり前のことではないですか! しかし同時に、内心の奥深くではそうであるとしても、
それと同じくらい、あなたという母親をうらんでいます。それも当たり前のことではない
ですか!

 5年という歳月は、あまりにも長すぎます。母への恋慕が、うらみに変るのは、一日で
じゅうぶんです。もちろんあなたには、あなたの言い分があります。夫のもとに子どもを
置いていったのは、夫への罪滅ぼしということですね。それはわかりますが、言いかえる
と、あなたは自分の子どもを、取り引きの材料にしてしまったのです。

 多分、あなたは親意識の強い女性なのでしょう。子どもの心を確かめることもなく、ま
た聞くこともなく、一方的に、そうしてしまった? いただいたメールでも、子どもたち
自身の心が、まったく見えてきません。

 では、どうするか?

 答は簡単です。

 あなたは重い十字架を、死ぬまで背負います。重い、重い、十字架です。この十字架か
らのがれる方法は、残念ながら、ありません。いくら弁解しても、いくら自己正当化して
も、この十字架からのがれることは、できません。

 あなたの二人の子どもが幸福になっても、仮に不幸になれば、なおさら、あなたの心が
晴れることはありません。そういう現実を、しっかりと見つめ、あなたはあなたで、懸命
に今を生きていくしかないでしょう。

 だからといって、私はあなたを責めているのではありません。あなた自身ですら、「あな
たがあなたである前」の、「人間」という、まさにその人間から発する「強烈な命令」によ
って、自分の行動を決めたのです。

 ゆいいつの望みは、そういう「強烈な命令」を、いつか、あなたの二人の子どもも、理
解する日が、やってくるかもしれないということ。まさにあなたは、(命がけの恋)をした
わけです。しかしその命がけの恋は、二人の子どもの心に、ナイフを突き刺してしまった!
そのキズを、だれが、どうやっていやすことができるというのでしょうか。

 私は、不可能だと思います。

 しかしね、Aさん。

 これが人生なのですね。今はまだおわかりにならないかもしれませんが、そういった自
分も含めて、「人間って、そういうもの」と、わかるときがやってきます。40代とか、5
0代になると、です。

 いろいろなドラマを繰りかえしながら、同時に、無数のドラマを、人間は、あとに残し
ていく……。つまり「私」という人間を、「人間」という視点から、見ることができるよう
になります。そして、ですね、そこが不思議なところですが、そういう人間に、「美しさ」
を見ることができるようになります。

 あなたも、いつか、そうして悩み、苦しみながらも、そういう自分の中に、「美しさ」を
見ることができるようになります。ですから、今は、懸命に生き、懸命に幸福を求め、そ
して同時に、懸命に悩み、苦しんだらよいのです。

 逃げてはだめです。真正面から、ぶつかっていきます。そういう中から、あなたは、別
のあなたを見出していく。そしていつか、気がついたとき、あなたはふつうの人をはるか
に超えた、すばらしい人になっています。

 いいですか? だれしも、一つや二つ、そういう十字架を背負って生きています。この
一年間だけでも、こんな事例があります。

 一人息子(19歳)を、自殺に追いこんでしまった両親。同じく妻を、自殺に追いこん
でしまった夫。少し前には、自宅に放火して、娘を殺してしまった母親など。一見、極端
な例に見えるかもしれませんが、そういう人たちが背負った十字架とくらべると、あなた
の背負った十字架など、軽いものです。軽い、軽い、本当に、軽い!

 だからあなたはあなたで、前向きに生きていきなさい。

 あなたはあなたというより、人間が本性としてもつ「強烈な命令」に従った。それはま
ちがっていない。以前、こんな原稿(この返事のあとに添付)を書きましたので、送りま
す。中日新聞に掲載してもらったものです。何かの参考になると思います。

 そしてあなたは今の苦しみや悲しみを、つぎの段階にまで昇華させます。そうそう、先
に書いた、B氏ですが、今は、ボランティアで、老人福祉をしています。もう少し具体的
には、自分にも別の仕事があるので、妻に、その仕事をしてもらっています。その妻の仕
事を、応援しています。

 なぜB氏が、そうなのか? そうしているのか? あなたなら、その理由がわかるはず
です。

 たしかにあなたの二人の子どもは、あなたに捨てられた。これは事実です。心に大きな
キズを負った。これも事実です。

 しかし二人の子どもは、必ず、それを乗りこえます。すでに乗りこえているかもしれま
せん。子どもの側からしても、その程度の問題をかかえている子どもは、いくらでもいま
す。今どき、離婚など、珍しくも何ともないです。アメリカでも30%の夫婦が、離婚し
ています。意外と意外、この日本でも、離婚率は、ヨーロッパ各国より、高くなりつつあ
ります。

 ですから離婚の数だけ、あなたの二人の子どものような子どもも、いるわけです。(だか
らといって、あなたが背負った十字架を軽く感じてもらっては困りますよ。)

 私があなたなら、その分だけ、あなたの今の夫に、尽くします。尽くして、尽くして、
徹底的に尽くします。あなた自身の幸福というよりは、あなたの夫の幸福を、最優先しま
す。そしてできれば、あなたの周囲に、あなたの助けを必要としている子どもたちのため
に、尽くします。

 ある女性(現在45歳くらい)は、今の夫と結婚する少し前、別の男性と遊んで、妊娠
してしまいました。それで中絶したのですが、そのときつけた子宮のキズが原因で、妊娠
できない体になってしまいました。

 それでその女性は、それ以後、今に至るまで、何かの団体で、不幸な子どもたちの福祉
活動を繰りかえしています。つまりあなた自身も、何らかの形で、今の苦しみや悲しみを、
昇華させることができるはずということです。

 が、だからといって、あなたの心が晴れることにはならないでしょう。死ぬまで、晴れ
ることはないでしょう。あなたがまじめで、そして懸命に戦えば戦うほど、そうです。し
かし人生というのは、もともと、そういうものなのですね。そうでない人生を、さがすほ
うが、むずかしいくらいです。

 とにかく前向きに生きていきましょう。もう、どうにもならないことは、どうにもなら
ないのです。大切なことは、今日できることを、懸命にすること。明日は、その結果とし
て、必ず、やってきます。そして明日のことは、明日に任せればよいのです。

 そしていつか、あなたの二人の子どもは、あなたを求めてやってきます。そのとき、あ
なたはもうこの世の人ではないかもしれない。(もちろんその前に求めてきたら、あなたは
全幅に心を開いて、子どもたちを受け入れます。)

 そんなときでも、あなたはあなたの二人の子どもが、部屋の中に入ってくることができ
るように、しっかりと窓だけはあけておいてあげてください。「私の母は、すばらしい母だ
った」と思うような、そんな人をめざしてください。それが今できる、あなたの子どもた
ちへの、せめてもの罪滅ぼしではないでしょうか。

 長い返事で、参考になったかどうかはわかりませんが、どうかどうか、前向きに生きて
ください。

++++++++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに
幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではない
が、その充実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。
どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋を
したが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際
を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある
田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)
と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れて
いた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフラン
チェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じ
こもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。

彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」とい
う状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のよう
な状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。H
さんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何
が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるスト
レスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、
こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わ
ってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買い
に行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということ
だった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だ
った。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そうい
うものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がい
たが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手
伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさ
んは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、
あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のよ
うなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、そ
れが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、
アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでま
た風は吹き始める。人生は動き始める。
(040312)

Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

●幸福論

 幸福とは何か。イギリスの教育格言に、『子どもを幸福で包んであげるのが、最高の教育』
というのがある。それはわかる。そのとおりだと思う。しかし問題は、その中身である。
イギリスの「自由投稿サイト、The Quote Cache Daily Random Quote List」に載っている
格言から、いくつかを選んで、訳してみた。(訳がおかしいと思うときは、原文を読んでほ
しい。)

 まず登場するのが、アンディ・ルーニィ。

★For most of life, nothing wonderful happens. If you don't enjoy getting up and 
working and finishing your work and sitting down to a meal with family or friends, 
then the chances are that you're not going to be very happy. If someone bases his 
happiness or unhappiness on major events like a great new job, huge amounts of money, 
a flawlessly happy marriage or a trip to Paris, that person isn't going to be happy 
much of the time. If, on the other hand, happiness depends on a good breakfast, flowers 
in the yard, a drink or a nap, then we are more likely to live with quite a bit of 
happiness.ー Andy Rooney
人生では、すばらしいことなど、めったにない。朝起きて、仕事をして、それを終えて、
家族や友といっしょに食事することを楽しみなさい。そうすれば、それぞれのときに、あ
なたは幸福になる。もし人が、幸福の基盤を、新しい仕事や、莫大なお金や、完ぺきな結
婚生活や、パリへの旅行など、そういった大きなできごとに置くなら、ほとんどの時間で、
その人は、幸福ではないということになる。しかし一方、幸福を、おいしい朝食や、庭の
花や、飲んだり、昼寝したりすることに求めるなら、あなたはすばらしい幸福とともに、
人生を過ごすことができる。

★Think of all the beauty that's still left in and around you and be happy! ー Anne 
Frank
あなたのまわりにまだ残っているすべての美しいものを、思い浮かべなさい。そして幸福
になりなさい。(アンネ・フランク)

★We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet 
the same. ー Anne Frank
私たちはみな、幸福になりたいと思って生きている。つまり人生はみな、異なっていても、
目的は同じ。(アンネ・フランク)

★Happiness is a warm puppy. ー Charles Schulz
幸福は、暖かいぬいぐるみ。(チャールズ・シュルツ)

★When I meet people from other cultures I know that they too want happiness and do 
not want suffering, this allows me to see them as brothers and sisters. ー Dalai Lama, 
Tenzin Gyatso
他の文化をもっている人に会ったとき、彼らもまた幸福を求め、苦しみを望んでいない。
それがわかるから、私は彼らをみな、私の兄弟だと思う。(ダライ・ラマ)

★There is a very fine line between "hobby" and "mental illness." ー Dave Barry
「趣味」と、「心の病気」の間には、明確な一線がある。(D・バリー)

★You get more joy out of the giving to others, and should put a good deal of thought 
into the happiness you are able to give. ー Eleanor Roosevelt
他人に分け与えることで、あなたはもっと大きな喜びを得る。それはそうだが、しかしそ
れを与えるとき、幸福とは何か、それをよく考えて、すべきである。(E・ルーズベルト)

★We tend to forget that happiness doesn't come as a result of getting something we 
don't have, but rather of recognizing and appreciating what we do have. ー Frederick 
Koenig
もっていないものを手にしたとき、その結果として幸福がやってくるのではないというこ
とを、私たちは忘れてはいけない。そうではなく、幸福というのは、今、私たちがもって
いるものに気づき、それを評価することの結果として、やってくる。(F・コーニグ)

★There is work that is work and there is play that is play; there is play that is 
work and work that is play. And in only one of these lies happiness. ー Gelett Burgess
仕事の仕事がある。遊びの遊びがある。仕事の遊びもあるし、遊びの仕事もある。しかし
これらの一つだけに、幸福がある。(G・バーゲス)

★If you have nothing else to do, look about you and see if there isn't something 
close at hand that you can improve! It may make you wealthy, though it is more likely 
that it will make you happy. ー George Matthew Adams
ほかに何もすることがなかったら、あなたの近くで、あなたができることがないかを、見
てみたらよい。そうすれば、あなたは幸福になるだろうし、お金持ちになれる。(G・M・
アダムズ)

★Shall a man go and hang himself because he belongs to the race of pygmies, and not 
be the biggest pygmie that he can? Let everyone mind his own business, and endeavor 
to be what he was made. ー Henry David Thoreau, "Walden"
彼がピグミー(中央アフリカの小人の黒人)だからといって、自殺する人はいるだろうか。
あるいは彼が、最大のピグミーでないからとって、自殺する人はいるだろうか。他人のこ
とは、ほっておけ。そして自分のおかれた境遇で、努力せよ。(H・D・ソロー)

★For every moment of triumph, for every instance of beauty, many souls must be 
trampeled. ー Hunter S. Thompson
すべての成功の瞬間に、そしてすべての美の瞬間に、多くの魂が、踏みにじられる。(H・S・ト
ンプソン)

★The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. ー J.D. Salinger
事実は、いつも明らかに、あとになってわかる。「幸福」と「喜び」の、もっとも大きな違
いは、幸福というのは、固体だが、喜びは、液体であること。(J・D・サリンジャー)

★Three grand essentials to happiness in this life are something to do, something 
to love and something to hope for. ー Joseph Addison
幸福の三つの大きな要素は、すべきことがあること。愛すべきものがあること。そして希
望とすべきものがあることである。(J・アジソン)

★One of the first conditions of happiness is that the link between Man and Nature 
shall not be broken. ー Leo Tolstoy
幸福の最初の条件は、人間と、自然のつながりを、壊してはいけないということである。
(L・トルストイ)

★Happiness lies only in that which excites, and the only thing that excites is crime. 
ー Marquis de Sade
幸福というのは、エキサイトするものに存在し、エキサイトする唯一のものというのは、
犯罪である。(M・Sade)

★I've learned from experience that the greater part of our happiness or misery depends 
on our dispositions and not on our circumstances. ー Martha Washington
私は、つぎのことを学んだ。つまり幸福にせよ、悲惨にせよ、その大部分は、私たちのお
かれた環境ではなく、私たちの気質によるものだということを。(M・ワシントン)

★Everything exists in limited quantity ー especially happiness. ー Picasso
すべてのものには、かぎられた量しかない。とくに幸福は!(ピカソ)

★Sooner or later in life everyone discovers that perfect happiness is unrealizable, 
but there are few who pause to consider the antithesis: that perfect unhappiness is 
equally unattainable. ー Primo Levi
遅かれ早かれ、だれもが、完ぺきな幸福というのは、自分ではわからないものだというこ
とを発見する。しかしほとんどの人は、その正反対については、考えない。つまり完ぺき
な不幸というのは、同じように、達成しがたいものであることを。(P・レビ)

★It's a funny thing about life; if you refuse to accept anything but the best , you 
very often get it. ー Somerset Maugham
もしあなたがいつも最高のもの以外は受け取らないとするなら、あなたはそれをしばしば
手に入れることができるというのは、人生でも、おかしなことだ。(S・モーガム)

★The supreme happiness in life is the conviction that we are loved ーー loved for 
ourselves, or rather, loved in spite of ourselves. ー Victor Hugo
人生で最高の幸福というのは、私たちが愛されているという確信である。つまり、私たち
自身のために愛されているか、もしくは、むしろ、私たち自身のかわりに愛されていると
いう確信である。(V・ユーゴ)

★The essentials to happiness are something to love, something to do, and something 
to hope for. ー William Blake
幸福の重要な部分は、愛すべき何か、すべき何か、そして希望とすべき何かをいう。(W・
ブレイク)

●改めて幸福論

世界の賢人たちは、身近な、ごく平凡な、かつ、ごく日常的な生活の中に、「幸福」を見い
だしているのがわかる。つまりこのあたりに、幸福の原点があるのでは。ここまで書いて、
私は、ボームという人が書いた、「オズの魔法使い」を思い出した。それについて書いたの
が、つぎの原稿である。「家族主義」について書いた原稿である。(私の本から、転載。)

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家族主義と幸福論

●幸福の原点は家庭にある

ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロシーとい
う女の子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するという物語である。こ
んなことがあった。

 オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシア
軍に襲われたらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」と。「おや
じの故郷のスコットランドへ帰る」と言ったのもいた。何という愛国心! 私があきれて
いると、一人の学生がこう言った。「ヒロシ、オーストラリア人が手をつないで一列に並ん
でもすきまができるんだよ。どうしてこの国を守れるか」と。

 英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで質問
を変えて、「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞くと、皆
血相を変えてこう言った。「そのときは、命がけで戦う」と。これだけではないが、私はい
つしか欧米人の考え方の基本に、「家族」があることを知った。愛国心もそこから生まれる。

たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日本語に訳する「愛
国者」ということになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパトリス、つ
まり「父なる大地」という語に由来する。つまり欧米で、「ペイトリアチズム(愛国心)」
というときは、「父なる土地を愛する」あるいは、「同胞を愛する」を意味する。その映画
の中でも、国というよりは家族のために戦う一人の父親が、テーマになっていた。

 家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは誤解。冒
頭にあげたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そんな遠くにあるのでは
ない。あなたのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを、息を潜めて待っている…。ド
ロシーは長い冒険の末、それを教えられる。

 明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事第一主
義が生まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。発展途上の国として
やむをえなかったのかもしれないが、しかし今、多くの人がそうした生き方に疑問をもち
始めている。九九年の終わりに中日新聞社がした調査でも、四五%の日本人が「もっとも
大切にすべきもの」として「家族」をあげた。日本人は今、確実に変わりつつある。

++++++++++++++++++++++

こうした賢人の中で、私の心をとらえたのは、F・コーニグの、つぎの言葉だ。いわく…
…。

「もっていないものを手にしたとき、その結果として幸福がやってくるのではないという
ことを、私たちは忘れてはいけない。そうではなく、幸福というのは、今、私たちがもっ
ているものに気づき、それを評価することの結果として、やってくる」と。

 同じようなことだが、アンディ・ルーニィ※も、こう言っている。
 
「人生では、すばらしいことなど、めったにない。朝起きて、仕事をして、それを終えて、
家族や友といっしょに食事することを楽しみなさい。そうすれば、それぞれのときに、あ
なたは幸福になる。もし人が、幸福の基盤を、新しい仕事や、莫大なお金や、完ぺきな結
婚生活や、パリへの旅行など、そういった大きなできごとに置くなら、ほとんどの時間で、
その人は、幸福ではないということになる。しかし一方、幸福を、おいしい朝食や、庭の
花や、飲んだり、昼寝したりすることに求めるなら、あなたはすばらしい幸福とともに、
人生を過ごすことができる」と。

 それはそのとおりで、もし名誉や地位、肩書きや権威、権力が、幸福の条件とするなら、
人間は、数十万年のうちの、(数十万年、引く、二〇〇〇年)の間は、不幸だったというこ
とになる。
なぜなら、こうした亡霊が人間社会を支配するようになったのは、せいぜい、この二〇〇
〇年にすぎないからである。……とまあ、こんなこと改めて、書くまでもない。

 しかし現実には、こうした亡霊にとりつかれている人は、多い。あなたのまわりにも、
いる。私の知人の中にも、いる。定年退職をしてからも、過去の栄光(?)にしがみつき、
それをふりかざして、いまだに威張りちらしている。もっともそれで本人がそれなりにハ
ッピーなら、それでよいのだが、実際には、(多分?)、日々を悶々とした気分で過ごして
いる。そういう人にとっては、過去の栄光を否定されることは、自分の人生を否定される
ことに等しい。だから、猛烈に反発する。

 これは本当の話だから、正直に書く。ウソの話ではない。

その人は、長い間、ある研究所の研究員をしていた。そして四〇歳くらいのとき、H大学
の助教授になり、つづいて五〇歳少し前に、教授になった。現役時代には、ある研究団体
の会長にもなっている。その彼と議論しているとき、ふとしたことから、喧嘩になってし
まった。彼は、メールで、私にこう言ってきた。

 「君だって、文部省あたりから仕事が回ってくれば、シッポを振る口ではないのかね」「君
だから、正直に言ってやるが、君が称している研究など、この世界では、価値がない。い
いかね、研究というのは、公的な機関で認められてはじめて、意味をもつんだよ」「田舎の
おばちゃんたちを相手に、偉そうな文章を書いても、意味はないよ」「君の書いている本な
どというのは、資源のムダづかい。君が一冊、本を出すたびに、インドネシアの森林が、
数十本、犠牲になるんだよ」「偉く国際人ぶっているが、君が本当に知っている外国は、オ
ーストラリアという田舎だけではないのかね」と。最後には、こう言った。「君は、知識を
ひけらかしている、ただのバカだ」と。

 しかし私とて、負けていない。

 「公的機関で、税金で研究している男が、何を偉そうなことを言うか」「あなたのまわり
の人間は、自分もその恩恵にあやかりたいから、あなたにペコペコしているだけだ」「文句
があるなら、裸で私と勝負してみろ」「こちらは生きる糧(かて)を稼ぎながら、そのあい
た時間で、ものを書いている。あんたとは、立場が基本的に違う」「文部省から仕事がくれ
ば、ありがたいことだ。いくらでもシッポを振ってやる。そのかわり、ちゃんと、お金を
もらう」「文化というのは、大衆がつくる。あんたが言うところの、田舎のおばちゃんたち
がつくる。あんたのような雲の上の、偉い人ではない。文句あるか!」と。

 そうそう、こんなことも言った。「君は、教育で金もうけする。私は、教育そのものに生
きる」と。そこで私はこう反論した。「あなたは、上ばかり見て、教育論を書く。私は、下
の人のために、教育論を書く」と。

 実のところ、こうした不毛の議論が、三か月ほど、つづいた。で、私のほうがあるとき
から返事を書かなくなり、それでその人との交際は、終わった。今も、まったく音信はな
い。私も若かった。しかしその心意気だけは、今も変わらない。

 ずいぶんと熱い話になってしまったが、この事件が、私の考え方に大きな影響を与えた
ことは言うまでもない。以後、私は、権威や権力を振りかざす人には、生理的な嫌悪感を
覚えるようになった。

ところで、この話には、余談がある。一つは、その人からメールが入るたびに、はげしい
動悸と、不快感が私を襲ったということ。不愉快だった。それにもう一つは、それまでそ
れほど好きではなかった、尾崎豊の『卒業』が好きになったこと。ある時期は、毎日、そ
の曲を聞きながら、うさ晴らしをした。(これは本当に、ホント!)

 さてさて、幸福というのは、私たちの身のまわりにある。そして今の今も、私たちに見
つけてもらうのを、じっと、静かに待っている。賢明な人は、それをなくす前に気づき、
そうでない人は、なくしてから気づく。もう一言、つけ加えるなら、賢明な人は、若いう
ちにそれに気づき、そうでない人は、死んでも気づかない。
 
M・ワシントンが言っているように、幸福とは、心のもち方で決まる。いわく、「私は、つ
ぎのことを学んだ。つまり幸福にせよ、悲惨にせよ、その大部分は、私たちのおかれた環
境ではなく、私たちの気質によるものだということを」と。この言葉は、おおいに参考に
なる。
(030722)

※アンディ・ルーニィ……1919生まれ、アメリカの著名

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ついでに「恨み」について

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恨(うら)み

 恨みは、人間を小さくする。腐らす。そしてその恨みが多ければ多いほど、深ければ深
いほど、その人の人生を、見苦しくする。

 いろいろな賢者が、その「恨み」について、語っている。

 
Hatred comes from the heart; contempt from the head; & neither feeling is quite within 
our control. ー Arthur Schoperhauer
恨みは、心から生ずる。侮蔑は頭から生まれる。ともに、我々の意思ではコントロールで
きない。(A・ショーペンハウエル)

I will permit no man to narrow and degrade my soul by making me hate him ー Booker 
T. 
Washington
だれも、私をしてその人を恨ませるようなことで、私の魂を小さく、低めることはできな
い。(B・T・ワシントン)

Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ。(H・フォスディッ
ク)

Nothing Brings People together more, then mutual hatred ー Henry Rollins
互いに恨みあうことほど、互いを近づけるものはない。(H・ロリングズ)

If you hate a person, you hate something in him that is part of yourself. What isn't part 
of ourselves doesn't disturb us. ー Hermann Hesse
あなたがだれかを恨むなら、あなた自身の中の何かを恨むということ。私たち自身の中に
ないものであれば、それで心がわずらわせられるということはない。

Don't hate, it's too big a burden to bear. ー Martin Luther King, Sr.
人を恨むな。それは耐え難いほどの重荷になる。(M・L・キング・SR)

Hate and bitterness are the only weapons wielded by the blade. ー Thomas Gregory
恨みと辛苦は、剣をもって戦う、唯一の武器である。(T・グレゴリー)


 こうして並べてみると、自然と、その答が、出てくる。人を恨むということは、短い人
生の、その貴重な「時」を、ムダにするということか。では、どうするか。オーストラリ
アの格言に、「もうすべては終わった。さあ、前に向って、笑って進もう」というのがある。
どうにもならない問題に、いつまでも引き回されていると、やがてその泥沼に引きずりこ
まれてしまう。

 そして、H・フォスディックが言っているように、「人を恨むというのは、ネズミを殺す
ために(=つまらない人間にかかわっていることは)、家(=人生)を燃やす(=ムダにす
る)ようなものだ」ということになる。「恨み」は、「ネズミ」ということか。

 人間の心には、無数のゴミがある。そのゴミがあることは、しかたないことだが、でき
るだけ、そのゴミは、少ないほうがよい。ゴミが多ければ多いほど、その人の生活態度は、
醜悪なものになる。顔も醜悪になる。よい例が、J党の中枢部でがんばっている政治家た
ちである。見るからに醜悪な顔をしている。ああなる。

 そのゴミになるものとして、邪悪な心、横しまな心、嫉妬、ねたみ、策謀、インチキな
どがある。ここでいう恨みも、その一つ。

 だから、あなたも、もうすべては終わった。さあ、前に向って、笑って進もう! それ
ですべては、解決する。
(030817)




(6)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F

●謎の衛星「フォボス」

+++++++++++++++

火星には2つの衛星がある。
そのひとつが、「フォボス」。
まさに謎の衛星。
私はこのフォボスに、たいへん
興味がある。
ひょっとしたら、人類の起源、
さらには人類の未来の謎を解く鍵が、
このフォボスに隠されているかもしれない。
けっしておおげさなことを書いているのではない。
「ありえる」という話で、私は信じている。

真夏の夜のロマン。
大ロマン。
そう、夏になるといつも決まって、
フォボスが気になる。

++++++++++++++

2007年の4月に書いた原稿より

++++++++++++++

●宇宙ステーション

++++++++++++++++++

もっとも効率的で、高性能、かつ安価な
宇宙ステーションの作り方といえば、
宇宙に漂う、惑星の中をくりぬいて作る
という方法。

小さな衛星でもよい。

衛星でなくても、もっと小型のものでも
よければ、隕石がある。

外殻が、固い岩石でおおわれているため、
各種の宇宙線から、乗員を守ることが
できる。大きな衛星になれば、それなりの
重力もあるから、観測機器などを、内部で
固定することもできる。

では、どうすれば、そういう衛星を、ちょうど
よい場所に、もってくることができるか?

これも、方法は、簡単。

岩石の表面に、すり鉢状の穴を掘り、その
中心部で、ものを爆発させればよい。

大きな衛星であれば、小型核爆発でもよい。
爆発力をうまくコントロールすれば、
衛星を移動させることができる。

++++++++++++++++++

 現在、いろいろな国が集まって、宇宙空間に、宇宙ステーションを建設している。しかし地球
から、そのつど資材を持ち運ぶため、莫大な費用がかかる。

 そこでもっとも簡単で、安価な宇宙ステーションの建設方法と言えば、宇宙に漂う衛星の内部
を、くりぬいて作るという方法がある。直径が、1〜2キロもあればじゅうぶん。あるいはそれ以
上でもよい。
それ以下でもよい。

 重力といっても、軽いから、削岩機を使えば、まるで雪を削るように簡単に穴を掘れるはず。
掘った岩石は、そのまま、衛星表面の補強に使うこともできる。うまくいけば、岩石の中に閉じ
こめられている(水)を取り出すこともできるかもしれない。

 衛星内部に研究室や実験室、居住室などを作ればよい。

 では、そういう衛星を、どうやって、ちょうどよい位置にもってくることができるか。これも簡単
である。

 衛星の一部に、すり鉢状の穴を掘る。茶碗のような穴を想像すればよい。その穴の中心部
で、火薬を爆発させればよい。あるいは大きな衛星であれば、小型の核爆発を起こしてもよ
い。

 こうして衛星を移動させる。速度は、遅くても構わない。危険なコースに入りそうになったら、
そのときはそのときで、軌道修正すればよい。

 衛星を止めるときは、隕石の向きを180度変えて、また火薬を爆発させればよい。衛星を、
ちょうどよいところで静止させることができる。

 ……というのは、SFの世界の話だが、しかしそれをすでに考え、実行した生物がいるのでは
ないか。それを思わせる痕跡は、いくつかある。

 たまたま今朝のヤフー・ニュースは、こんな記事を載せている。

 『火星と木星の間にある、珍しい双子の小惑星、「アンティオペ」は、日本の探査機「はやぶ
さ」が着陸した小惑星「イトカワ」と同様に、岩石片が集まってできており、内部にすき間が多い
ことが分かった。パリ天文台などの研究チームが10日までに、南米チリにある欧州南天天文
台の大型望遠鏡などを使って、精密に観測した成果を、米惑星科学誌イカルスに発表した』
と。

 どうやって「かすかすであること」がわかったかということは、別として、「かすかす」ということ
は、「内部が空洞である」というふうには、考えられないだろうか。もしそうだとするなら、自然
に、空洞になったとは、考えにくい。

 ……けっして、荒唐無稽(こうとうむけい)なことを書いているのではない。この太陽系には、
それを疑わせる衛星がいくつかある。私がとくに注目しているのは、「フォボス」という火星の衛
星である。

 この惑星には、先に書いたような、すり鉢状の穴が、一方の端についている。隕石の衝突で
できた穴ということになっているが、ならば、こんなふうに穴があくためには、正確に真上から、
隕石が当たらなければならない。写真でみるかぎり、穴は、真円に近い。しかもその穴からの
びる直線状の縞模様は、観測されるたびに、数がふえているという。

 このフォボスも中は、「かすかす」と言われている。

 繰りかえすが、衛星をくりぬいた宇宙ステーションであれば、中に住む生物を、危険な放射線
や太陽光から守ることができる。小さな隕石だったら、当たっても、ビクともしない。宇宙空間を
漂うゴミと衝突しても平気。部屋をふやしたかったら、穴を掘って作ればよい。それでできた土
砂は、衛星の表面に捨てればよい。

 形こそぶかっこうだが、もっとも効率のよい宇宙ステーションということになる。

 ……ということで、この話はおしまい。で、ここから先は、私のSF的空想物語。

 遠い昔、火星にも、人間に似た知的生物が住んでいた。そして現在の人間のように、宇宙へ
飛び出すほどの知的能力を身につけた。

 そして宇宙空間を漂う衛星や惑星を、つぎつぎとくりぬいて、宇宙ステーションを建造した。
が、火星は、急速に温暖化現象を迎えた。火星に住んでいた知的生物たちは、太陽系のあち
こちへと非難を開始した。もちろん地球にもやってきた。

 が、地球には住むことができなかった。太陽から注ぎこむ放射線、太陽光に、彼らは耐えら
れない。太陽に近い分だけ、量も多い。まぶしい。それに地球の重力がある。で、彼らは、地
球の衛星の、月に目をつけた。彼らは、月をくりぬいて自分たちの宇宙ステーションを作ること
にした。

 やがて火星は、生物の住めない惑星となってしまった。火星に住んでいた知的生物たちは、
そのままそれぞれの衛星に、住むことにした。地球の上に輝く、月も、その一つである。

 ……ハハハ。私の説によれば、あの月も、どこかの衛星で生まれた知的生物たちの宇宙ス
テーションというわけ。(この説を信じているのは、けっして私だけではないが……。)

 しかしそんな思いをもって、あの月を見ると、これまた楽しい。ヤフーのニュースを読むと、さ
らに楽しい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●謎の縞模様

 フォボスの縞模様をながめているだけで、壮大なロマンがかきたてられる。
いろいろな説がある。
もっとも有力視されている説は、隕石の衝突によってできた爆発痕。
(いろいろな本にそう書いてあるだけだが……。)
しかしこの説は、一読しただけで、ウソとわかる。
フォボスの写真を見れば、すぐわかる。

 爆発痕なら、放射状に縞模様が残るはず。
が、フォボスの縞模様は、どれも並行に並んでいる。
縞模様が交差している部分もある。
さらによく見ると、その縞模様が、小さなクレーターの山を越え、谷を越え……
というように途切れることなくつづいている。
爆発によってできたものなら、クレーターの谷の内側部分にまで、縞模様が残る
ことはない。

●ふえる数

 フォボスの縞模様の数が、観測のたびにふえているという話は、よく聞く。
以前、どこかのサイトでも、その比較写真を紹介していた。
あとでもう一度、そのサイトを調べてみる。
もしこの縞模様が何らかの自然現象によってできたものなら、「ふえる」ということは、
ありえない。
しかも仮にこの20年にうちにふえたとしても、宇宙的な時間から見れば、「瞬時」。
自然現象によって縞模様ができたと考えるのには、無理がある。

 まだある。

 ロシアの探査衛星は、フォボスに近づいたところで「きりもみ状態」になり、墜落
してしまったという。
そのとき最後の1枚に、巨大なUFOが写っていたという。
加えてフォボスから、水蒸気が立ち上るのも観測されている。

 ……などなど。

●ウィキペディア百科事典より

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より転載++++++++++++

【特徴】

フォボスは太陽系の惑星の衛星の中で最も主星に近く、火星の表面から6,000km以内の軌道
を回っている。

フォボスの軌道は火星の静止軌道より内側にあるため、公転速度は火星の自転速度よりも速
い。従って、1日に2回西から上り速いスピードで空を横切り東へ沈む。表面に近いため、火星
のどこからでも見えるわけではない。また、火星の自転より早く公転しているので、フォボスは
火星の潮汐力のために徐々に火星に引きつけられ(1.8m/世紀)、いずれ壊れる運命にある。
5000万年以内に火星の表面に激突するか、破壊され火星の環となると考えられている。

ソ連の探査機フォボス2号は、故障直前にフォボスからごくわずかな気体が安定して噴出して
いることを発見した。この気体は水蒸気だと考えられている。

フォボスは、ダイモスと共に火星の重力に捕捉された小惑星だと考えられている。実際、両者
はC型小惑星同様に炭素化合物に富んでいるが、密度が非常に小さいことから、氷と岩石の
混合物だと考えられている。

【地形】

フォボスには一つの峰 (Ridges) と十数個のクレーターが確認されている。峰はヨハネス・ケプ
ラーに因んでケプラー・ドルスムと名付けられた。クレーターは天文学者、および『ガリヴァー旅
行記』の登場人物に因んで名付けられた。

フォボス最大のクレーターは直径が10kmあり、ホールの妻アンジェリンの旧姓にちなみスティッ
クニー・クレーターと命名されている。スティックニーを中心としてフォボスには放射状の溝が見
られるが、これはスティックニーを作った天体が衝突した際の衝撃でできたと考えられている。

【フォボス空洞説】

1950年代から60年代にかけて、フォボスの奇妙な軌道と密度の低さから、フォボスは中空の人
工天体ではないかという説が唱えられたことがある。

1958年頃、フォボスの公転の永年加速について研究していたロシア人の宇宙物理学者ヨシフ・
シクロフスキーは、フォボスが「薄い金属板」構造であると提唱した。これはフォボスが人工的
な起源を持つことを示唆するものである。シクロフスキーは火星の上層大気の密度の推定値
に基いて、微弱な制動効果でフォボスの永年加速を説明するためには、フォボスが非常に軽く
なければならないと推論した ……ある計算では直径が16km、厚さは6cm未満の中空の鉄の
球が導かれた。

アイゼンハワー合衆国大統領の科学顧問を務めていたジークフリード・シンガーは、"
Astronautics" 誌の1960年2月号でシクロフスキー説を支持し、さらに「フォボスの目的は、おそ
らく火星人が彼らの惑星の周囲で安全に活動できるように、火星の大気中の放射を吸い取っ
てしまうことだろう」というところまで飛躍させた。また、シクロフスキーと親しかったカール・セー
ガンやフレッド・ホイルも人工的要素を指摘していた。

しかし、後にこうした考えが生まれるきっかけとなった永年加速に関する疑問が提示され、そし
て1969年までにはこの問題は解決された。初期の研究では、軌道高度が低下する速度を5cm
/年という過大な値を使用していたが、後に1.8cm/年まで修正された。現在では、永年加速は
当時考慮されていなかった潮汐効果の結果だと考えられている。また、フォボスの密度は1.9 g
/cm3と測定されており、これは中空の殻であるという説とは矛盾する。さらに、1970年代にバ
イキング探査機によって得られた画像は明らかに天然の天体であり、人工物ではないことを示
していた。

同様の月空洞説や地球空洞説も唱えられたことがある。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より転載++++++++++++

●1立方センチ当たり、1・9グラム

 1立方センチメートル当たり、1・9グラムという。
それを「重い」というか、「軽い」というか。
アルミでさえ、1立方センチメートル当たり、2・7グラム。
花崗(カコウ)岩も、ほぼ同じ、2・7グラム。
マントルによるカンラン岩で、3・3グラム。
鉄にいたっては、8・1グラム(以上、「地質教室」HPより)。

 つまりフォボスは、アルミの約3分の2の密度ということになる。
現在地球上にあるもっとも軽い金属は、マグネシウム。
そのマグネシウムの密度は、1・74グラム。
マグネシウムよりはやや重いかなという程度。

 フォボスはやはり、カスカスの状態か、あるいは中が空洞になっていると考えるのが
妥当ということになる。
で、調べてみたら、学研より、こんな本が出版されていることを知った。

「失われた火星人の謎とサンドワーム エイリアンの改造天体フォボスと超古代アルテミュア
文」(あすかあきお著)。
長いタイトルだが、興味をググーッとそそる。
さっそく注文してくる。

●否定派と肯定派

 UFOを認めるか、認めないか。
これについては、徹底した否定派と、徹底ではないが、その否定派を攻める肯定派に
分かれる。
たとえばアメリカのNASAなどは、徹底した否定派。
「あやしい」ということすら、認めない。

 で、こうまで徹底して否定されると、かえって「何かあるのでは?」と、そこまで
勘ぐってしまう。
もう少し歩み寄れないものか?
それともUFOの存在を認めると、何かまずいことでもあるというのだろうか。
一説によれば、UFOの存在を認めると、社会秩序そのものが崩壊するという。
しかし仮にそうであっても、それをコントロールする権限は、NASAにはないはず。
ありのままの宇宙の姿を、ありのままに私たちに見せる。
それがたとえ混乱を招くものであっても、私たちにはそれを乗り越える力がある。
つまり混乱は、一時的で終わる。

 数日前も私とワイフは、こんな会話を交わした。
「あの夜、ぼくたちが見たものが何であるか。その正体を突きちめるまで、ぼくたちは
死ねないね」と。
私が火星の惑星のフォボスに興味をもっているのも、そういう理由による。

 もしあなたも宇宙人に興味があるなら、フォボスあたりから、調べてみたらよい。
シュメール人でもよい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 火星 フォボス 謎 謎の縞模様 謎の衛星 夏の夜のロマン フォボス空洞説 
UFO シュメール シュメール人 衛星フォボス)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●謎の衛星『フォボス』

 少し前、火星の衛星のひとつである、「フォボス」について書いた。
その中で、フォボスの比重について書いた。
それがどうも気になる。
今日も気になる。
フォボスの比重は、1立方センチ当たり、1・9グラム!
たったの1・9グラム。
その一部を、もう一度ここに掲載する。

●1立方センチ当たり、1・9グラム

 フォボスの比重は、1立方センチメートル当たり、1・9グラムという。
それを「重い」というか、「軽い」というか。
アルミでさえ、1立方センチメートル当たり、2・7グラム。
花崗(カコウ)岩も、ほぼ同じ、2・7グラム。
マントルによるカンラン岩で、3・3グラム。
鉄にいたっては、8・1グラム(以上、「地質教室」HPより)。

 つまりフォボスは、アルミの約3分の2の密度ということになる。
現在地球上にあるもっとも軽い金属は、マグネシウム。
そのマグネシウムでも、比重は、1・74グラム。
マグネシウムよりはやや重いかなという程度。

 フォボスはやはり、カスカスの状態か、あるいは中が空洞になっていると考えるのが
妥当ということになる。

●中身は「水」?

 このカスカス説に対して、「内部は水(氷)」という説があることがわかった。
外殻は写真を見てもわかるとおり、岩石ぽい。
少なくとも水ではない。

 が、この説はどう考えてもおかしい。
どうして比重がより軽い「水」が内部にあって、(水は1立方センチメートル当たり、
1グラム)、それよりも重い岩石(?)が、外側にあるのか?
物理学の常識に反する。

仮に氷であるとするなら今度は、フォボスはいったいどのようにして形成されたのか
という謎が生まれる。
ゆいいつ考えられるのは、宇宙をただよっていた氷の塊(かたまり)に、ほこりのような
岩石が積もって、現在のような姿になったという説。
(だれもこんな説を主張していないが……。)

 やはりフォボスは、カスカスか、もしくは中が空洞になっていると考えるのが
自然である。
もしそうでないというのなら、かなり強力な反証がないかぎり、私は納得しない。
ロシアの探査機は、フォボスの一部から水蒸気が吹きあげているのを観察している。
水蒸気?
宇宙空間の温度は、マイナス270度と言われている。
温度というのは、間に熱を伝える粒子があってはじめて伝わる。
無に近い宇宙では、太陽に近いところでも、遠いところでも、均一にマイナス270度と
考えるのが正しい。

 ただ太陽から吹き出る気体(太陽風)は、太陽の近くで100万度、地球の近くで
10万度と言われている(OK・Waveサイト)。
しかし太陽風といっても、先にも書いたように太陽の熱で暖められているわけではない。
わかりやすく言えば、太陽からの電磁波が物体の分子に当たり、そこで振動を起こす。
その振動が「熱」になる。

 ではフォボスでは、どうか?
内部から水蒸気が出るということは、内部は100度以上に加熱されていなければ
ならない。
理論上は、太陽に面した部分は、数百度になる反面、反対側の部分は、マイナス270
度。
宇宙の絶対0度にかぎりなく近づく。
それに放出されたとしても、水蒸気というのは、宇宙空間に飛び出した直後、今度は
こまかい氷の粒子になるはず(?)。

(若い頃、宇宙船の乗組員が小便を船外に放出したら、こまかい氷の粒子になった
という話を聞いたことがある。)
よくわからないが、どうして水蒸気なのか。

 現在、欧州宇宙機関(ESA)の火星探査機、「マーズ・エクスプレス」が、
火星の周囲を回っている。
そのマーズ・エクスプレスが、フォボスの詳細な情報を届けつづけている。
その結果を待ちたいが、しかし同時に、発見したことをすべてそのまま公表してくれる
かどうかについては、大きな不安が残る。

たとえば2008年、マーズ・エクスプレスは、奇妙な「峰」を発見している。
「フォボス表面に、全体の姿とは明らかに不釣り合いな、学者達が「一枚岩」と呼んだ、90メー
トルの高さの奇妙な「峰」が発見されました」(ロシア「The Voice of Russia」)と。

 フォボス表面に、90メートルの高さの「峰」があったというのだ。
「一枚岩」と呼べるような「峰」?
何か?
「塔」ではないのか?
どうして「塔」であっては、まずいのか?
どうしてわざわざ「明らかに不釣り合いな峰」と、遠回しな言い方をするのか?

 ……フォボスについての謎は、このように底なしに深い。
知れば知るほど、謎が深まる。
興味のある人は、インターネットで片っ端からフォボスについて、調べてみるとよい。
ものの考え方が一変するかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 フォボス 90メートルの峰 一枚岩 フォボスの謎 謎の衛星 フォボス)

●フォボスの写真集

PSP_007769_9010_IRB-enhanced phobos-mars-enhanced phobos_5800 phobos img1f2862920qcuy7 img8d13ee3bdqd1o2 フォボス180度回転したあと、上下反転
(上の写真の中の1枚を、180度回転したあと、上下反転した写真)


(7)
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【臨界期・精読】

(Critical Period for Children & Class Re-Union Party at Kanazawa)

+++++++++++++++++++++

理化学研究所の論文を、精読してみたい。

(読んで頭の痛くなりそうな人は、下の(*)

まで、skipしてください。

+++++++++++++++++++++

『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽する
と、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この変化
は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきましたが、この
ような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳機能発達の
「臨界期」を示す例として注目されてきました。

(中略)

サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、大脳
皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見され、
その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、多数の
研究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは
生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間
は「臨界期」と呼ばれるようになりました。

この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほかの領域
にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例
として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影響を与えてき
ました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の
科学的根拠とする主張も出現してきました。

最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳皮
質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 2003)。
しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持されるとすれ
ばどの程度なのかは不明のままでした。

研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、
それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の
解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

●(*)精読

★ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽す
ると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。

いろいろな専門用語が並ぶ。

大脳皮質視覚野神経細胞、幼若期、遮蔽、反応性などなど。

つまり視覚を司る神経細胞は、乳幼児期に遮蔽されると、「反応性」を失う、と。

ここで重要な言葉は、「反応性」。

 神経細胞が機能を失うというのではない。

神経細胞は、基本的には、ふえたり、減ったりはしない。

退化するということもないし、消滅するということもない。

あくまでも「反応性を失う」ということ。

わかりやすく言えば、眠ったままの状態になるということ、

 つまり光に対して反応しなくなる、と。

その結果、開いていたほうの目だけで、ものを見るようになってしまう。

イコール、遮蔽されていたほうの目は、反応性を失い、視力を失うということになる。

なおこの実験は、よく知られた実験で、別の論文などによれば、子ネコのばあい、「生後、2〜
3週間」遮蔽していただけで、「反応性を失う」ということらしい。

(たったの2〜3週間!)

★この変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきまし
たが、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳機
能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

「幼若期体験が、脳機能を変える」。

これを言い換えると、幼若期でなければ、脳機能は変わらないということになる。

たとえばおとなの私たちが、何かの病気か事故で、しばらくの間、片目を遮蔽していたとして
も、再びその遮蔽していたものを取り除けば、視力は回復する。

多少のリハビリは必要かもしれないが、そのまま失明するということはない。

 つまり先にあげたような現象は、「一時期」にしか起こらない。

それを「臨界期」という。

 が、ここで注意しなければならないことは、「例」、つまり一例として、あげられているというこ
と。

臨界期というのは、それぞれの機能すべてにあるというように考えてよい。

たとえばよく言われるが、音楽教育についても、幼少のある時期から始めないと、ものにならな
いと言われている。

小学校に入学してから、音楽教育をほどこしたとしても、子どもはそこそこにはできるようにな
るかもしれない。

しかし「すばらしい才能を発揮して・・・」というところまでは、ならない。

ただ「音楽教育」とまでいかなくも、「音楽」に慣れ親しんで育ったばあいには、小学校に入学し
てからでも、手遅れということにはならない。

「音楽」といっても、(感性)(技術)(鑑賞力)(音感)などに分けられる。

臨界期を過ぎたからといって、すべてがだめになるというわけではない。

 最近では、論理性、さらに具体的には、読書力や表現力などについても、同じような臨界期
があると説く人もふえてきた。

最近、「作文力にも、臨界期がある」というような意見も聞いたことがある。

多くは我田引水型の拡大解釈なので、そのまま鵜呑みにすることはできない。

たとえばどこかの音楽教室などでは、さかんにこの「臨界期」という言葉を使って、乳幼児期に
おける音楽教育の重要性を主張している。

 が、私の経験からも、「臨界期はある」と断言できる。

たとえば4〜5歳の時期に、(数)の指導を施すと、子どもは、たしかに数に鋭い子どもになる。

一方、小学生になってから、数にうとい子どもを、鋭い子どもにしようとしても、たいていうまくい
かない。

 (中略)

★サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、大
脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見さ
れ、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、多
数の研究が行われてきました。

 人間の子どもに対して実験するわけにはいかない。

しかし人間も、哺乳動物。

サル、ネコ、ラット、マウスでもそうなのだから、人間もまた、同じと考える。

が、こうした現象は、すでに1960代に発見されていたという。

今から50年も前のことである。

 しかしこれはほんの一例。

「生後の体験によって、脳機能は変化を起こす」。

その代表的な例が、大脳皮質視覚野の神経細胞が起こす反応ということになる。

で、こうした現象を拡大解釈すると、たとえば、聴覚はどうなのか。

嗅覚はどうなのか。

味覚はどうなのか。

つぎつぎと興味の範囲が広がっていく。

 おそらくそれについては、すでに多くの研究者が取り組み、その結果を発表しているはず。

さらには先にも書いたように、音感や、数的感覚、論理性、言語能力などなど。

こうしたものにも臨界期があるとするなら、それぞれの臨界期に、適切な環境で適切な指導を
する。

子どもの指導を考えるとき、これはとても重要なことである。

★さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは生後の特定の期間だけ
であったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間は「臨界期」と呼ばれるよ
うになりました。

 ここで「刷り込み」という言葉が出てくる。

この研究とは別に、発達心理学の世界でも、人間にも「刷り込み」があることが、最近、わかっ
てきた。

生後直後から、7か月前後までの間と言われている。

この時期を、発達心理学の世界では、「敏感期」という。

この論文によれば、「敏感期」イコール、「臨界期」ということになる。

この時期を通して、母子関係は、絶対的なものとなる。

言うまでもなく、子どもは母親から生まれ、母親から乳を得て、成長する。

「絶対的」というのは、本能に近い部分にまで、その関係が刷り込まれることをいう。

 が、この時期に刷り込みがなされなかったら、どうなのか。

よくあるのが、何らの事情により、生後直後から、親の元を離れて育てられるケース。

「ホスピタリズム」という言葉もあることからわかるように、子どもの心に大きな影響を与える。

反対に、生後7か月を過ぎて、確固たる親子関係を築こうとしても、臨界期(敏感期)を過ぎて
いるため、それはむずかしいということになる。

 しっかりとした親子関係を作ろうとしたら、生後7か月まで、ということになる。

この時期の家庭環境、とくに母子関係が、重要であることは、今さら言うまでもない。

★この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほかの領
域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す
例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影響を与え
てきました。

 大脳生理学や生物学の世界では、人間のことを「ヒト」と表記する。

教育の世界では、もちろん「人」もしくは、「人間」である。

「ヒト」というのは、「種」としての人間をいう。

サル、ネコ、イヌと並べて、「ヒト」という。

私はこの言い方に、いまだに違和感を覚える。

 

 この中で、論文は、こう書いている。

「・・・臨界期における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例として・・・」と。

 ここが重要である。

「刺激」という言葉が出てくる。

つまり(できる・できない)ではない。

(覚えた・覚えない)ではない。

刺激である。

その刺激が大切。

 わかりやすく言えば、刺激を与える。

与えても、仮に効果らしきものがなくても、気にしない。

刺激というには、「教え育てる」という意味での「教育」とは、ちがう。

このことは、私も経験則上、納得する。

たとえば年少のはじめごろの子ども(3〜4歳児)などにものを教えても、反応がまったく見られ
ない状態が、しばらくつづく。

子どもによっては、数か月から半年近く、つづく。

教えても教えても、乾いた土に水がしみ込んでいくように、教えたことが、どこかへ消えてしま
う。

が、けっして無駄ではない。

無駄と考えてはいけない。

そうして与えた情報は、やがて子どもの頭の中で膨らみ、臨界点に達する。

とたん、子どもは大きく変化する。

ある日を境に、子どもが階段を上るように、まるで別人のように変化していくことも珍しくない。

 が、それはそれとして、この時期に与える刺激が、いかに重要なものであるかが、これでわ
かる。

すばらしい音楽を聞かせる、すばらしい絵画を見せる、すばらしい本を読んであげる、あちこち
へ旅行に連れていってやる、など。

こうした刺激が、子どもの才能を、いつかやがて開花させる。

★その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の科学
的根拠とする主張も出現してきました。

 「早期教育」というと、「早取り教育」と誤解している人も多い。

たとえば小学校で学ぶ掛け算を、幼児に教えるなど。

足し算にしても、引き算にしても、そうである。

しかし「早取り教育」は、「早期教育」ではない。

いくら臨界期があるといっても、幼児に掛け算を教えることは、早期教育ではない。

 同時に忘れてならないのは、子どもを楽しませること。

楽しませることによって、脳内で特殊な反応が起こる。

たとえばカテコールアミンというホルモンが分泌され、それが子どもを前向きに引っ張っていく。

それがどういうものか知りたければ、生き生きと反応している子どもの顔を見ればよい。

(生き生きとしている)ときの顔のツヤ、それがカテコールアミンである。

 つまりいくら(刺激)といっても、子どもが逃げ腰になっていたのでは、効果はないということ。

★最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳
皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 
2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持される
とすればどの程度なのかは不明のままでした。

 「可塑性」というのは、「元に戻る可能性」のこと。

先ほどから、「反応性を失う」と書いてきた。

つまり「元には戻らない」と。

またそれが今までの常識だった。

しかし理化学研究所の研究員の研究によれば、「もとに戻ることがある」、あるいは、「戻る部
分もある」ということになる。

 もちろん程度の問題もあるだろう。

「戻る」といっても、「元通り」ということではない。

そのことは、1920年代に見つかったオオカミ姉妹を例にあげるまでもない。

あるいはもっとわかりやすい例で言うと、手乗り文鳥がいる。

文鳥という鳥を手乗りにするためには、その時期までに、人間の手で育て始めなければならな
い。その時期を逸すると、手乗り文鳥は、「手乗り」にならなくなる。

 まったく不可能ではないが、野生化し、たいへんむずかしくなる。

「元に戻る」といって、その程度のことをいう。

★研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別し
て、それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性
の解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

 ここから先は、さらに専門的になる。

神経回路には、(興奮性)と(抑制性)がある。

いつもペアで、働いている。

たとえば指を上下させるときも、(動かせ)という命令と、(動かすな)という命令が、同時に働
く。

それがバランスよく働くから、指はスムーズかつなめらかに動く。

(興奮性)が強ければ、パッパッと、かみそりでものを切るように動く。

(抑制性)が強ければ、ダラダラとしたような動きになる。

 (行動の世界)のみならず、いわゆる(精神の世界)でも、同じようなことが起きている。

 理化学研究所の研究員たちは、その「可塑性」の研究に臨んできたという。

●再び、臨界期

 私が音痴なのも、芸術に親しみがないのも、運動神経がイマイチなのも、ものさがすのが苦
手なのも、女性が苦手なのも、すべてそれぞれの臨界期において、適切な刺激を受けてこな
かったせいかもしれない。

 その一方で、私は子どものころから、かなり理屈ぽい人間だったようだ。

ものごとを理詰めで考えるのが得意だったし、またそうでもしないと、納得しなかった。

そういう自分は、ひょっとしたら、すでに幼児期にはできていたのではないか。

記憶に残っているのは、近くの公園で遊んでいるとき、だれかが私に向かって、こう言ったこ
と。

「浩ちゃん(=私)は、哲学者だなあ」と。

 私はまだ幼稚園児だった。

「テツガクシャ」という言葉だけが、ずっと記憶に残った。

 で、そういう自分をフィードバックしてみると、私という人間がそうなったのは、すでにそのころ
までにそうなっていたということ。

このことも、今、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

年長児でも理屈ぽい子どもは、理屈ぽい。

そうでない子どもは、そうでない。

小学生になると、この傾向は、さらに大きく分かれる。

 幽霊や霊の存在をまったく認めない子どももいる。

一方、まじないや占いに凝っている子どももいる。

ちなみに、私は、まじないや占いを、まったく信じていない。

信じていないというより、体が受けつけない。

 ともかくも、「臨界期」を知ることには、2つの意味がある。

ひとつは、それによって、より自分のことが深くわかるようになるということ。

もうひとつは、あなた自身が、自分の子どもを見る目が変わってくるということ。

小学生にもなった子どもに、「どうしてあなたは〜〜ができないの!」と叱っても、意味がない。

その子どもの中身のみならず、方向性のほとんどは、乳幼児期にできあがる。

言い換えると、その後の「私」は、その「燃えカス」のようなもの。

そういったこともわかるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 臨界期 理化学研究所 敏感期 大脳皮質 視覚野 神経細胞 臨界期終了後
 可塑性 はやし浩司 敏感期 刷り込み 刷りこみ 臨界期)



(8)
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【父と子(親子断絶の問題)】

●葛藤する父子

+++++++++++++++++++++

20年ぶりか、何年かぶりに、父と子が再会する。
連絡を受けて子が病院へかけつけると、父は
臨終状態。
枕元には、思い出の品々が並んでいる……。
その中に古ぼけた一冊の本。
その本を開くと、子が子どものころに描いた絵。
それを見て子は涙を流す。
父は目で子を許す。

映画によく出てくるシーンである。
映画『送り人』の中にも、そんなようなシーンがあった。
最近見たDVDの『カイル』の中にも、そんなようなシーンがあった。

父と子、とくに父と息子は、そういう形で断絶しやすい。
私の知り合いにも、30年以上、たがいに会っていない
という父子(父親、84歳、息子50歳前後)がいる。

何かがあったのだろう……というより、その(何か)が、
引き金となってそこでそれまでの(わだかまり)が
一気に爆発する。
そしてそれが「永遠の別れ」になる。

が、たがいに悶々とした気分で、日々を過ごす。
一日とて気が晴れることはない。
それが臨終の場で、同じように爆発的に解消される。

……というのは、映画の中の話。
映画『マジソン郡の橋』の最後も、そのようなシーンで
終わっていた。
が、現実は、もう少し生々しい。

++++++++++++++++++++++

●ある補導で

 ずいぶんと前のことだが、テレビでこんなシーンを見た。
東京のK町といえば、世界に名だたる歓楽街。
その歓楽街で、深夜遅くたむろする少女たち。
ものほしそうな目つきで、通行人をながめている。
 
 そこへレポーターが、突撃取材を試みる。
「年齢は?」「住んでいることは?」「お母さんは?」と。

 それに答えて、まだあどけなさを残している少女たちが、
「中学だヨ」「ウッセーナー」「親なんて関係ネーダロ」と。

 が、レポーターは、何とか1人の少女を説得して、
名前と住所を聞き出す。
ついでに電話番号も聞きだす。

 そこでレポーターはその電話番号に、電話をする。
が、ここで意外な展開となる。
レポーターが家に電話をすると、母親が電話口に出る。
その母親が、こう言う。

「そんな子は、どうなってもいいです。知りません。
私には関係ありません」と。
(詳しい内容は、後述。)

 ここで私がもっていた「親だから……」「子だから……」
という常識が、ひっくり返る。

 そこでレポーターを携帯電話を少女に回す。
少女は、母親と直接話す。
が、話し合い始めたとたん、喧嘩。
最後に母親は、その少女(娘)にこう言う。

「うちへなんか、戻ってくるんじゃ、ないわよ」と。
つまり「あんたとはもう関係ない」と。

●親子であるが故に

 こうした事例を、極端なケースとみるか?
それとも例外的な事例とみるか?
あるいはごくありふれた事例とみるか?
程度の差もあって、統計的な数字で表すことはむずかしい。
しかし親子といっても、基本的には1対1の人間関係。
壊れるときには、壊れる。
が、それだけではない。
親子であるが故に、確執も深く、溝も大きい。

 が、ここで誤解してはいけないことがある。
こうした断絶は、ある日突然、一回の事件で起こるものではない。
そこに至るには、それまでの長い過去がある。
葛藤がある。
根が深い。
それが積もりに積もり、ある臨界点に達したとき、爆発する。
爆発して、断絶する。
だから先の番組の中で、レポーターが電話で説得したくらいで、
氷解するような問題ではない。
それで「万事、めでたし」と終わるというような問題ではない。

●面会

 映画を例にとるなら、ああした映画は、多くは若い制作者によって、
作られたものではないかということ。
つまり「子」の立場で作られたもの。
「親」の立場ではない。
そう考えてよい。

 つまり「子」というのは、「親」というより、「親」という言葉に、
かぎりない幻想とあこがれをもちやすい。
つまりそこに自分の理想像を入れ混ぜてしまう。
そして勝手に、「親は、こうあるべき」という「像」を作ってしまう。

 その結果、20年ぶりに病院で再会したとき、「親は子を許し……、
子は親を許し……」となる。
感動的なシーンだが、先にも書いたように、現実はもう少し生々しい。

 私が親なら、こう思うかもしれない。
「20年も、私を放っておいて、何を今さら……」と。
実際、そういう映画もあった。

 やはり20年ぶりくらいで子(息子)が病院へかけつけてみると、
親(父親)の方が面会を拒絶する。
「会いたくない」と。
子は病室のドアの外で、父の死を見送る。
つまり親といっても、1人の人間。
神様でも仏様でもない。
会いたくないものは、会いたくない。
親だから子どもの過ちを、すべて許すというわけではない。
またそれをしないからといって、親の愛の深さを疑ってはいけない。

●ふつうの人間

 否定的なことを書いた。
理想としては、また映画としては、親子が許し合いながら、
ハッピーエンドで終わるのがよい。
またそのほうが、感動的。

 しかしこの私も60歳を過ぎるころから、考え方が少しずつ変わってきた。
先に書いた私の知り合いの話を知ったときのこと。
父親の年齢は84歳。
息子は50歳くらいと聞いているが、詳しいことは知らない。
ひとり息子。
息子は大学を卒業すると家を飛び出し、以後、一度も家には帰っていない。
母親とはどうかということになるが、よくわからない。
父親の話によれば、母親とも連絡を取っていないようである。
言い忘れたが、母親も今年84歳になり、今は有料の老人ホームにいる。

 その父親は、当然のことながら(?)、息子の話になると
顔をそむける。
ただときどき、「あいつも早く嫁さんを見つけるといい」と言う。
またそれが口癖になっている。
が、その程度。

●幻想と現実

 で、そういう話を知ったとき、私は、こう思った。
「いつかは父子で、許し合うときがくるだろう」と。
しかし今は、ちがう。
「父のほうが、許さないだろうな」と。
最期の最期であればなおさら、もしそこで許してしまえば、
父親は自己否定をすることになってしまう。
「愛」とか「愛の深さ」とか、そんなロマンチックな話ではない。
つまりそれが現実ということ。
もし私がその知り合いなら、私は許さないまま、死ぬ。
面会に来ても、会わない。
それで地獄へ堕ちようとも、息子が作りあげた幻想とあこがれを
容認するよりはよい。

 つまり親だって、ふつうの人間。
だからこそ、許せることと許せないことがある。
息子が、(娘でもよいが)、その一線を越えたとき、「たとえ子でも
許せない」と、なる。
それはまさに自分の人生観をかけた闘いということになる。
もう一言、念を押すなら、こういうことになる。

 先に「親子の確執」という言葉を使った。
が、その確執というのは、何も、子どものほうだけの問題ではないということ。
親の方にも、ある。
親の方の確執が爆発することもある。

●ある姉・弟

 これは親子の話ではない。
姉・弟の話である。

 弟氏は生涯、定職にはつかなかった。
そのため弟氏は歯科医師の妻をしていた姉氏のところへ来ては、生活費を
受け取っていた。
弟氏には、3人の息子と娘がいたが、その学費もすべて姉が負担した。

 それに加えて弟氏は女性にだらしなく、浮気はし放題。
偽物だったがロレックスの腕時計を身につけて、夜の繁華街を遊び歩いた。
で、50歳を過ぎるころから、姉氏は、弟氏と距離を置くようになった。
それまでは言うなりにお金を出していたが、姉氏は躊躇するようになった。
とたん弟氏は、泣き落とし戦術に出るようになった。
しかも回数が減った分だけ、額がふえた。
それまでは20〜50万円という少額だったが、200〜500万円の
高額になった。
ときに1000万円を超えることもあった。

 そのつど弟氏は借用書を用意し、勝手に姉氏のところに置いていった。
まったく意味のない借用書だった。
姉氏もそれをよく知っていた。

 で、その姉氏が、85歳で倒れた。
再発した乳がんが、体中に転移していた。
そのときのこと。
弟氏は、何度か見舞いにきたというが、姉氏は、最期の最期まで、
弟氏には会わなかったという。
そばにいる人たちに、「X男(=弟)だけは、部屋に入れるな」と、
いつも言っていた。
「葬儀にも出てほしくない」とも。

 が、ノー天気な弟氏にはそれがわからない。
葬儀の席にやってきて、みなの前で大泣きをしてみせたという。
私はその話を聞いたとき、こう思った。
「私がYさん(=姉氏)なら、化けて出てやる!」と。

●確執

 「確執」というのは、そういうものかもしれない。
つまりたがいに平等というのではない。
多くのばあい、一方的なもの。
子が親にいだく確執。
しかし親はそれに気づかない。
反対に親が子にいだく確執。
しかし子はそれに気づかない。
気づかないまま、どちらか一方が、ある日突然爆発する。

 何も親子、兄弟にかぎらない。
夫婦の間でも、それはよく起こる。
20〜30年前から「定年離婚」という言葉が、よく聞かれるようになった。
夫が定年で退職したとたん、妻のほうから離婚を申し出る。
このばあいも、夫にとっては寝耳に水……というケースがほとんどという。
妻の方はその何年も前から、離婚の準備に入る。
が、夫のほうは、それに気づかない。
気づかないまま、「私たちはいい夫婦」という幻想にしがみつく。
だから夫は、あわてる。
狼狽する。
「どうして離婚?」と。

 こうしたケースのばあい、たとえば夫(元夫)が臨終を迎えたとしても、
妻(元妻)は、その場にはかけつけないだろう。
いわんやたがいに許し合うなどということは、ありえない。
(アメリカ映画などでは、そういうシーンもよくあるが、日本では
考えられない。)

 「夫婦と親子はちがう」と言う人もいる。
たしかに母子関係、つまり母と子の関係には、特別なものがある。
しかし父子関係は、母子関係とくらべると、ずっと希薄。
「精液、ひとしずくの関係」と言ってもよい。
私がここで問題にしているのは、父子関係。
母子関係ではない。

●なぜか?

 臨終の場で息子との面会を拒絶する父親。
娘との面会でもよい。
しかしそれは息子を許せないからではない。
こういうケースのばあい、父親は自分を許せない。
つまり自分という、「親バカ」を許せない。
たとえば『許して、忘れる』という言葉がある。
しかしそれは自分以外の人に向かって使う言葉。
自分自身については、『許して、忘れる』は、使えない。
だから親はもがく。
苦しむ。
それは心を引き裂くような苦しみといってもよい。
その過程で、親は息子を消し、娘を消す。
とことん、消す。
たとえ息子にせよ、娘にせよ、どこかでのたれ死にしたところで、
何も感じない。
そこまで自分を消さないと、その苦しみから逃れることはできない。

 で、その息子にせよ、娘にせよ、それが臨終の場にやってきて、「お父さん!」と
声をかける。
そのとき父親は、「おお、お前か!」と言うことができるだろうか。

 ここから先は私の想像になる。
なるが、私なら、言えない。
息子にせよ、娘にせよ、「何を今さら……」となる。

 東京のK町でたむろしていた少女と母親の関係を、思い浮かべてみればよい。
その少女の母親は、娘の不幸を、とことん願っていた。
「そんな親がいるのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし現実には、いる。
こんな話を、以前、ワイフから聞いたことがある。

 実の娘に対して、「あんたが不幸になるのを、墓場の中から
見届けてやる!」と。
それを口癖にしている、実の母親がいるという。
親子関係でも、こじれると、親子であるがゆえに、そこまでこじれる。

+++++++++++++++++

原稿をさがしていたら、先のK町で
たむろしていた少女について書いた
原稿が見つかりました。

日付は、2006年の4月になって
いました。
そのまま再掲載します。

+++++++++++++++++

●幻惑からの脱出

++++++++++++++++

親子であるがゆえに生まれる、
強烈な関係。そしてそれが生まれる
束縛感。

これを心理学の世界では、「幻惑」という。
しかし実際には、そうでない親子も多い。

そうでないというのは、親子関係と
いっても、心理学の教科書どおりには
いかないケースも、あるということ。

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テレビ局のレポーターが、一人の少女に話しかけた。

レポーター「学校は、行っているの?」
少女「行ってない」
レ「いつから?」
少「もう、3か月になるかなア」

レ「中学生でしょう?」
少「一応ね」
レ「お父さんや、お母さんは、心配してないの?」
少「心配してないヨ〜」

 東京の、あるたまり場。まわりでは、それらしき仲間が、じっと二人の会話を聞いてい
る。その少女は、埼玉県のA市から来ているという。家出をして、すでに3か月。居場所
も転々と、かえているらしい。

レ「おうちに電話してみようかしら?」
少「ハハハ、無駄よ」
レ「無駄って?」
少「だって、さア〜」と。

 「家族」には、家族というひとつの、まとまりがある。そのまとまりは、ある種の束縛
をともなう。それを「家族自我群」という。しかしその束縛というか、それから生まれる
束縛感には、相当なものがある。

 たとえば親子という関係で考えてみよう。

 いくら親子関係がこじれたとしても、親子は親子……と、だれしも考える。そのだれし
も考えるところが、「家族自我群」というところになる。

 しかしさらにその関係がこじれてくると、親子は、その幻惑に苦しむようになる。こん
な例がある。

 ある父親には、生活力がなかった。バクチが好きだった。そこでその父親は、生活費が
必要になると、息子の勤める会社まで行って、小遣いをせびった。息子は、東京都内でも、
大企業のエリートサラリーマンだった。父親はそこで、息子が仕事を終えて出てくるのを
待っていた。

 息子は、そういう父親に苦しんだが、しかし父親は父親。そのつど、いくらかの生活費
を渡していた。

 多分、「お父さん、もう、かんべんしてくれよ」、「いや、今度だけだよ。すまん、すまん」
というような会話をしていたのだろうと思う。もちろん、その反対の例もある。

 ある息子(30歳)は、道楽息子で、放蕩(ほうとう)息子。仕事らしい仕事もせず、
遊びまわっていた。いつも女性問題で、両親を困らせていた。

 そういう息子でも、息子は息子。両親は、息子にせびられるまま、小遣いを渡し、新車
まで買い与えていた。

 これらの例からもわかるように、親子であるがゆえに、それが理由で、そのどちらかが
苦しむことがある。「縁を切る」という言葉もあるが、その縁というのは、簡単には切れな
い。もちろん親子関係も、それなりにうまくいっている間は、問題は、ない。むしろ親子
であるため、絆(きずな)も太くなる。が、そうでないときは、そうでない。ときには、
人格否定、自己否定にまで進んでしまう。

 ある地方では、一度、「親捨て」のレッテルを張られると、親戚づきあいはもちろんのこ
と、近所づきあいもしてもらえないという。実際には、郷里にすら帰れなくなるという。

 反対にある男性(現在、50歳くらい)は、いろいろ事情があって、実の母親の葬儀に
出ることができなかった。以後、その男性は、それを理由にして、ことあるごとに、「自分
は人間として、失格者だ」と、苦しんでいる。

 家族自我群から発生する幻惑というのは、それほどまでに強力なものである。

 が、親子の関係も、絶対的なものではない。切れるときには、切れる。行きつくところ
まで行くと、切れる。またそこまで行かないと、親であるにせよ、子どもであるにせよ、
この幻惑から、のがれることはできない。

 冒頭の少女は、何とか、レポーターに説得されて、母親に電話をすることになった。こ
れからは、私が実際、テレビで聞いた会話である。そうでない親子には信じられないよう
な会話かもしれないが、実際には、こういう親子もいる。

少女「やあ、私よ…」
母親「何よ、今ごろ、電話なんか、してきて…」
少「だからさあ、テレビ局の人に言われて…」
母「それがどうしたのよ。あんたなんか、帰ってこなくていいからね」

 その少女の話によれば、父親は、ごくふつうのサラリーマン。家庭も、どこにでもある
ような、ごくふつうのサラリーマン家庭だという。

 そこで少女にかわって、レポーターが電話に出た。

レポーター「いろいろあったとは思うのですが、お嬢さんのこと、心配じゃありませんか?」
母親「自分で勝手に、家を出ていったんですから…」
レ「そうは言ってもですねえ、家出して3か月になるというし…。まだ中学生でしょう?」
母「それがどうかしましたか? あなたには、関係のないことでしょう。どうか、私たち
のことは、ほうっておいてください」と。

 こうした幻惑から逃れる方法は、ただひとつ。相手が親であるにせよ、子どもであるに
せよ、「どうでもなれ」と、最後の最後まで、行きつくことである。もちろんそれまでに、
無数のというか、常人には理解できない葛藤というものがある。その葛藤の結果として、
行きつくところまで、行く。またそうしないと、親子の縁は切れない。

 「もう、親なんて、クソ食らえ。のたれ死んでも知るものか」「娘なんて、クソ食らえ。
どこかで殺人事件に巻きこまれても知るものか」と、そこまで行く。行かないと、この幻
惑から逃れることはできない。

 が、問題は、そこまで行かないで、その幻惑の中で、悶々と苦しんでいる人が多いとい
うこと。たいへん多い。ある女性は、見るに見かねて、自分の母親のめんどうをみている。
母親は、今年、80歳を超えた。

 その女性が、こう言った。

 「近所の人に、あなたは親孝行な方ですねと言われるくらい、つらいことはない。私は、
何も、親孝行をしたくて、しているのではない。ただ見るにみかねて、そうしているだけ。
本当は、あんな母親は、早く死んでしまえばいいと、いつも思っている。だから親孝行だ
なんてほめられると、かえって、みんなに、請求されているみたいで、不愉快」と。

 あなたは、この女性の気持ちが理解できるだろうか。もしできるなら、親子の問題に、
かなり深い理解力のある人と考えてよい。

 もしあなたが今、相手が親であるにせよ、子どもであるにせよ、ここでいう幻惑に苦し
んでいるなら、方法はただひとつ。徹底的に行きつくところまで行く。そしてそのあとは
割り切って、つきあう。それしかない。

 この家族自我群による幻惑には、そういう問題が含まれる。

 で、ここまで話したら、ワイフがこう言った。

 「夫婦の間にも、同じような幻惑があるのではないかしら?」と。つまり夫婦でも、同
じような幻惑に苦しむことがあるのではないか、と。

 いくら夫婦げんかをしても、どこかで相手のことを心配する。もし心配しなければ、そ
そのとき、夫婦関係は終わる。そのまま離婚ということになる、と。

ワイフ「夫婦のばあいは、最終的には、別れることができるからね。でも、親子ではそれ
ができないでしょう。少なくとも、簡単にはできないわ。だから、よけいに、苦しむのね」
と。
私「ぼくも、そう思う。つまりそれくらい、家族自我群による幻惑は、強力なものだよ」
と。

 幻惑……今も、多くの人が、家族という(しがらみ)(重圧感)の中で苦しんでいる。し
かしそれは、どこか東洋的。どこか日本的。

 あなたという親が幻惑に苦しむのは、しかたないとしても、あなたの子どもは、この幻
惑から解放してやらねばならない。具体的には、子どもが、親離れを始める時期には、親
自身が、子どもに親離れができるように、仕向けてあげる。

 こうすることによって、将来、子どもが、その幻惑に苦しむのを防ぐ。まちがっても、
ベタベタの親子関係で、子どもをしばってはいけない。親孝行を子どもに求めたり、それ
を強要してはいけない。いつか子ども自身が自分で考えて、親孝行をするというのであれ
ば、それは子どもの問題。子どもの勝手。

 世界的にみても、日本人ほど、親子の癒着度が高い民族はそうはいない。それがよい面
に作用することもあるが、そうでないことも多い。それが本来あるべき、(人間)の姿かと
いうと、そうではないのではないか。議論もあるだろうと思うが、ここで、一度、家族自
我群というものがどういうものか、考えてみることは、決して無駄なことではないように
思う。

 先の少女について、ワイフはこう言った。「実の娘でも、そこまで言い切る母親がいるの
ね。何があったのかしら?」と。

【付記】

 心理学の世界でも、「幻惑」という言葉を使う。家族という、強力な束縛感から生まれる、
重圧感をいう。

 この重圧感は、ここにも書いたが、それで苦しんでいる人にとっては、相当なものであ
る。

 ある女性(35歳)は、その夜、たまたま事情があって、家に帰っていた。その間に、
父親が、息を引き取ってしまった。「その夜だけ、5歳になる娘のことが心配で、家に帰っ
たのですが……」と。

 そのことを、義理の父親が、はげしく責めた。「父親の死に目にも立ち会えなかったお前
は、人間として、失格者だ」「娘なら、寝ずの看病をするのが、当然だ」と。

 以来、その女性は、ずっと、そのことで悩んでいる。苦しんでいる。そう言われたこと
で、心に大きなキズを負った。

しかし、だ。その義理の父親氏は、そういう言い方をしながら、「自分のときは、そうい
うことをするな」と言いたかったのだ。家族自我群をうまく利用して、子どもをしばり
つける人が、よく用いる話法である。自分の保身のために、である。だから私は、その
女性にこう言った。

 「そんな老人の言うことなど、気にしないこと。私があなたの父親なら、こう言います
よ。『また、あの世で会おうね。ゆっくり、おいで』と」と。

 この自我群は、親・絶対教の基本意識にもなっている。つまり、カルト。それだけに、
扱い方がむずかしい。ひとつまちがえると、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。
だから、適当に、妥協するところはして、そういう人たちとつきあうしかない。そういう
人たちに抵抗しても、意味はないし、この問題は、もともと、あなたや私の手に負えるよ
うな問題ではない。

 ただつぎの世代の人たちは、この家族自我群でしばってはいけない。少なくとも、子ど
もが、いつか、自我群で苦しむような下地を、つくってはいけない。

 いつか、あなたの子どもが巣立つとき、あなたは、こう言う。

 「たった一度しかない人生だから、思う存分、この広い世界を、はばたいてみなさい。
親孝行? くだらないことは考えなくていいから、前だけを見て、まっすぐ、進みなさい。
家の心配? バカなことは考えなくていいから、お前たちは、お前たちの人生を生きてい
きなさい」と。

 こうして子どもの背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての義務を果たしたことに
なる。

 親としては、どこかさみしいかもしれないが、そのさみしさにじっと耐えるのが、親の
愛というものではないだろうか。

【付記2】

 家族自我群から生まれる幻惑を、うまく使って、親としての保身をはかる人は多い。こ
のタイプの親は、独特の言い方をする。

 わざと息子や娘の聞こえるようなところで、ほかの親孝行の息子や娘を、ほめるのも、
それ。「Aさんとこの息子は、偉いものだ。親に、今度、離れを新築してやったそうな」と
か。

 さらにそれがすすむと、親の恩を着せる。「産んでやった」「育ててやった」「大学まで、
出してやった」と。「だから、ちゃんと、恩をかえせ」と。あるいは生活や子育てで苦労し
ている姿を、「親のうしろ姿」というが、わざと、それを子どもに見せつける親もいる。

 が、それだけではない。最近、聞いた話に、こんなのがあった。

 一人の娘(50歳くらい)に、その母親(75歳くらい)が、こう言ったという。「○夫
(その母親の長男)に、バチが当たらなければいいがね」と。

 その長男は、最近、盆や暮れに、帰ってこなくなった。それをその母親は、「バチが当た
らなければいい」と。つまりそういういい方をして、息子を、責めた。

息子にバチが当たりそうだったら、だまってそれを回避してやるのが親ではないのか…
…というようなことを言っても、ヤボなこと。もっとストレートに、息子に向って、「(私
という)親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちるぞ」と、脅した母親もいる。

 中には、さらに、実の娘に、こう言った母親ですら、いた。この話は、ホントだぞ!

 「(私という)親をそまつにしやがって。私が死んだら、墓場で、あんたが、不幸になる
のを楽しみに見ていてやる!」と。

 もちろん大半の親子は、心豊かな親子関係を築いている。ここに書いたような親子は、
例外とまではいかないが、少数派にすぎない。が、そういう親子がいると知るだけでも、
他山の石となる。あなた自身が、よりよい親子関係を築くことができる。

 それにしても、世の中には、いろいろな親がいる。ホント!

【付記3】

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をもらう。そしてその中には、子育てというよ
り、家族の問題についてのも、多い。

 そういう人たちのメールを読んでいると、「家族って、何だ?」と考えてしまうこともあ
る。「家族」という関係が、かえってその人を苦しめることだって、ある。

 東京都のM区に住んでいるH氏(50歳くらい)は、こう書いてきた。

 「父親の葬式が終わったときは、心底、ほっとしました。もう葬式は、こりごりです。
息子がいますが、息子には、そんな思いをさせたくありません」と。

 H氏は、葬式を問題にしていた。しかし本音は、「父親が死んでくれて、ほっとした」と
いうことか。何があったのかは、わからない。しかしそういうケースもある。

 私たちは、子であると同時に、親である。その親という立場に、決して甘えてはいけな
い。親は親として、自分の生きザマを確立していかねばならない。つまり親であるという
ことは、それくらい、きびしいことである。それを忘れてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 家庭内問題 親子の葛藤 確執 親子の確執 断絶 断絶問題 父と子 父子問
題 はやし浩司 自我群 幻惑)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司

●子どもや孫とのつきあい

+++++++++++++++++

孫と同居したがる日本人。

が、それは決して、世界の常識ではない。

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 老後になったら、子どもや孫と、どのようにつきあえばよいのか?

 内閣府が、平成12年に調査した、「高齢化問題基礎調査」によれば、子どもや孫とのつ
きあいについて、日本人は、つぎのように考えていることがわかった。

(1)子どもや孫とは、いつもいっしょに、生活ができるほうがよい。

      日本人   …… 43・5%
      アメリカ人 ……  8・7%
      スウェーデン人…… 5・0%

(2)子どもや孫とは、ときどき会って、食事や会話をするのがよい。

日本人   …… 41・8%
      アメリカ人 …… 66・2%
      スウェーデン人……64・6%

 日本人は、欧米人よりも、はるかに「子どもや孫との同居を望んでいる」。それがこの調
査結果からもわかる。一方、欧米人は、老後は老後として、(1)子どもたちの世話にはな
らず、(2)かつ自分たちの生活は生活として、楽しみたいと考えている。

 こんなところにも、日本人の依存性の問題が隠されている。長い歴史の中で、そうなっ
たとも考えられる。

 「老後は、子どもや孫に囲まれて、安楽に暮らしたい」と。

 そうそう、こんな話もある。

 このところ、その女性(48歳)の母親(79歳)の足が、急に弱くなったという。先
日も、実家へ帰って、母親といっしょに、レストランへ行ったのだが、そこでも、その母
親は、みなに抱きかかえられるようにして歩いたという。

 「10メートル足らずの距離を歩くのに、数分もかかったような感じでした」と。

 しかし、である。その娘の女性が、あることで、急用があって、実家に帰ることになっ
た。母親に連絡してから行こうと思ったが、あいにくと、連絡をとる間もなかった。

 で、電車で、駅をおりて、ビックリ!

 何とその母親が、母親の友人2人と、駅の構内をスタスタと歩いていたというのだ! 
「まるで別人かと思うような歩き方でした」と。

 が、驚いたのは、母親のほうだったかもしれない。娘のその女性がそこにいると知ると、
「しまった!」というような顔をして、突然、また、弱々しい歩き方で歩き始めたという。

 その母親は、娘のその女性の同情をかうために、その女性の前では、わざと、病弱で、
あわれな母親を演じていたというわけである。

 こういう例は、多い。本当に、多い。依存性の強い人ほど、そうで、同情をかうために、
半ば無意識のうちにも、そうする。

 しかし、みながみなではない。

 反対に、子どもの前では、虚勢を張る親も、いる。「子どもには心配をかけたくない」と
いう思いから、そうする。

 どこでそう、そうなるのか? どこでどう、そう分かれるのか?

 私などは、いくら疲れていても、ワイフや息子たちの前では、虚勢を張ってみせるほう
だから、反対に、同情をかう親の心が、理解できない。気持ちはわかるが、しかしそれで
よいとは思わない。

 ひょっとしたら、この問題も、冒頭にあげた調査結果で、説明できるのではないか。少
し脱線したような感じだが、それほど大筋から離れていないようにも、思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●コンフリクト(葛藤)

+++++++++++++++

人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。

+++++++++++++++

 二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリ
クト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。

 コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。

 たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。

 このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。

 反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。

 このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。

 また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。

 正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。

 ……というような話は、心理学の本にも書いてある。

 では、実際には、どうか?

 たとえば私は、最近、こんな経験をした。

 ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。

 が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。

 お金のために体を売る、あの娼婦である。

 そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。

 あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。

 それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。

 ほかにも、いろいろある。

 たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。

 本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。

 そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。

 自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。

 そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。

 そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。

【補記】

 ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。

 ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。

 で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。

 すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。

 このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。

 しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。

 もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 コンフリクト 葛藤 葛藤の中身 親子の葛藤 夫婦の葛藤)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●息子や娘の結婚

++++++++++++++++

息子や娘の結婚、さらには結婚式に
ついて、どのように考えたら、よいのか。

自分の息子たちのこともあり、このところ、
それについて、よく考える。

++++++++++++++++

 息子や、娘の結婚について。結婚というより、その結婚相手について。最初、息子や娘
に、その相手を紹介されたとき、親は、何というか、絶壁に立たされたかのような、孤立
感を覚える。

 これは、私だけの感覚か。

 最初に聞きたいのは、通俗的な言い方だが、どんな家庭環境に生まれ育ったかというこ
と。……ではないか?

 「まとも」という言い方は、あまり好きではないが、こと、結婚ということになると、
保守的になる。「まともな家庭環境」という言葉が、自然な形で、口から出てくる。

 もちろん結婚というのは、当人たちの問題だし、その段階で、あれこれ口を出しても、
意味がない。

 そこで、あえて聞かない。聞いたところで、どうにかなる問題ではないし、かえって取
り越し苦労をすることにもなりかえない。当人たちが、幸福になれば、それでよい。

 で、親は、そういうとき、(1)相手の家族構成、(2)相手の親たちの仕事、(3)生ま
れ育った環境が、気になる。どんな教育を受けたかということで、(4)学歴も気になる。
が、何よりも気になるのは、(5)その相手の性格、である。

 おだやかで、やさしい性格ならよい。情緒や、精神的に安定していれば、なおさら、よ
い。すなおな心であれば、さらによい。

 ……と、相手ばかりに求めてはいけない。それはよくわかっているが、どうしても、そ
れを求めてしまう。

 ただ、これは私の実感だが、女性も、25歳をすぎると、急に、いろいろなクセが身に
つくものか? 18〜25歳までは、画用紙にたとえるなら、白紙。しかし25歳をすぎ
ると、いろいろな模様が、そこに現れるようになる。

 つまり計算高くなったり、攻略的になったりする。だからというわけではないが、どう
せ結婚するなら、それまでの時期に、電撃的な衝撃をたがいに受けて、結婚するのがよい。
映画『タイタニック』の中の、ジャックとローズのように、である。


●結婚式(PART2)

 数日前、結婚式について、エッセーを書いた。それについて、何人かの人たちから、コ
メントが届いている。

 「おかしい」「考えさせられた」と。1人、結婚式場で働いていたことがあるという女性
からは、こんなものも……。

 「結婚式場って、儲かるのですよ。何でも、追加料金で、すみますから」と。

 で、昨日、オーストラリアの友人の長男が、その結婚式をした。日本円で、総額、40
万円程度とのこと。それでも、豪華なほうだという。

 二男も、数年前、アメリカで結婚式をしたが、総額で、30万円程度。貸衣装などに、
10万円。教会(チャペル)と牧師さんへの費用が、10万円。そのあとの飲み食いパー
ティに、10万円程度。計、総額で、30万円弱。

 もう一度、数日前に書いた原稿を、ここに載せておく。

++++++++++++++++++

●結婚式に、350万円プラス150万円!

 知人の息子が結婚式をあげた。浜松市内の、あるホテルであげた。費用は、350万円
プラス150万円!

 これでも安いほうだそうだ。

 知人いわく、「最初、350万円と聞いていたので、その範囲ですむかと思ったていたら、
それは基本料金。テーブルクロス一つにしても、ピンからキリまであり、値段も、みな、
ちがっていた。追加料金で、150万円も取られた」と。「あんなのサギだ」とも。

 日本のみなさん、こんなバカげた風習は、もうやめよう! みんなで、1、2の3でや
めれば、それですむ。

 あんな結婚式に、どれほどの意味があるというのか。意味だけでは、ない。まったくの
ムダづかい! 新郎新婦のほうは、祝儀でその費用をまかなえると思っているかもしれな
いが、世間に甘えるのも、ほどほどにしたらよい。

 大切なのは、2人だ。中身だ。

 ……というのは、少し過激な意見かもしれない。しかしもう少し、おとなになれば、こ
うした結婚式が、いかにつまらないものか、わかるはず。聖書すら読んだこともない2人
が、にわかクリスチャンになりすまし、張りぼての教会で、ニセの祭儀をあげる。もちろ
ん牧師もニセモノ。

 (オーストラリアでは、ニセ牧師を演じて、お金を取ると、逮捕されるそうだ。)

 ワイフは、こう言った。「狭くても、みすぼらしくても、自分の家で、質素に、本当に岩
ってくれる人だけが集まって、結婚式をすればいい」と。

 私もそう思う。日本人独特の、「家」意識。それに見栄、メンツ、世間体が融合して、今
に見る、日本歌型結婚式の「形」ができた。もし、それでもハデな結婚式をしたいという
のなら、自分たちで稼いで、自分たちですればよい。

 どこまで親のスネをかじったら、気がすむのだ!

 知人の息子の結婚式の話をしながら、さらにワイフは、こう言った。「今では、祝儀も、
3万円から5万円。夫婦で出席すれば、その倍よ。みんな、そんなお金、出せないわよ」
と。

 ……と、書いたが、これはあくまでも、参考意見。かく言いながらも、私は、今まで、
数え切れないほどの結婚式に、出席してきた。それに私の息子たちはともかくも、相手の
女性の両親が、「そういう結婚式をしたい」と言えば、それに従わざるをえない。へんにが
んばっても、角が立つ。

 妥協するところは妥協しながら、あまり深く考えないで、ナーナーですますのも、処世
術の一つかもしれない。ハハハ。(ここは、笑ってごまかす。)

++++++++++++++++

【追記】

 結婚式場では、「○○家」「△△家」と、書くならわしになっている。私は、あれを見る
たびに、「結婚式って、何だろう?」と考えてしまう。

 昔の武家なら、それなりの意味もあるのだろう。そこらの町民や農民が、武家のマネを
して、どうなる? どうする? こんな伝統や文化、本当に、それが日本人の伝統や文化
なのだろうか。守らなければならないような、伝統や文化なのだろうか。

 アメリカ人の友人に、こう聞いたことがある。「どうして、アメリカには、日本のような、
結婚式のような結婚式がないのか?」と。アメリカでは、結婚する2人が、自分たちで、
ほとんどを準備する。

 すると、その女性(30歳)は、こう言った。

 「カルフォニア州の大都市なんかへ行くと、そういうビジネスもあるようだけど、アメ
リカには、定着しないでしょうね」と。

 そして結婚式と言えば、お決まりの、ヨイショ。ただ騒々しいだけの、ヨイショ。新郎、
新婦の友人たちが集まって、ギャーギャーと、騒ぐだけ。安物のバラエティ番組風。「祝う」
という意味が、ちがうのではないのか?

 いろいろ考えさせられる。

 ちなみに、私たち夫婦は、その結婚式をしていない。貯金が、当時、10万円しかなか
った。それでワイフに、「結婚式をしたいか。それとも、このお金で、香港へ行きたいか」
と聞いたら、「香港へ行きたい」と。それで、おしまい。

 毎月、収入の半分を、実家へ仕送りしている身分だった。どうして、親のスネをかじる
ことなど、できただろうか。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 結婚式 結婚式について)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●もう一人の私

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心の状態と表情の一致している
人を、すなおな人という。

そうでない人を、そうでないという。

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 情意(心)と、表情が遊離してくると、人間性そのものが、バラバラになる。

わかりやすく言うと、本心と外ヅラを使い分け、表ヅラばかりとりつくろっていると、
本当の自分がわからなくなってしまう。つまりこうして、自分の中に、もう一人の、自
分でない自分が生まれてくる。

 こうした二面性は、その立場にある人に、よく見られる。ある程度は、しかたのないこ
とかもしれないが、そういう立場の中でも、もっともその危険性の高いのが、実は、教師
ということになる。

心理学の世界にも、「反動形成」という言葉がある。みなから、「あなたは先生だ」と言
われているうちに、「そうであってはいけない、ニセの自分」を、その反動として、作っ
てしまう。

 たとえば牧師という職業がある。聖職者ということで、「セックス(性)」の話を、こと
さら、嫌ってみせたりする。本当にそうなのかもしれないが、中には、自分をつくってし
まう人がいる。

 まあ、どんな職業にも、仮面というものが、ある。みんな、それぞれ何らかの仮面をか
ぶりながら、仕事をしている。「コノヤロー」「バカヤロー」と思っても、顔では、にこや
かに笑いながら、その人と応対する。

 実は、教育の世界には、それが多い。教育というよりは、教師という職業は、もともと
そういうもの。反対に、もし教師が、親や生徒に本音でぶつかっていたら、それこそ、た
いへんなことになってしまう。

 たとえば私は、幼児教育にたいへん興味がある。しかし「幼児が好きか?」と聞かれれ
ば、その質問には、答えようがない。医者が、「病人が好きか」と聞かれるようなものでは
ないか。あるいは、仕事を離れては、幼児の姿を見たくない。それはたとえて言うなら、
外科医が、焼肉を嫌うのと似ている。(焼肉の好きな外科医もいるが……。)あるいは、ウ
ナギの蒲焼き屋のおやじが、ウナ丼を食べないのに、似ている?

 しかし一度、幼児に、仕事として接すれば、幼児教育家モードになる。子ども、とくに
幼児の世界は、底なしに深い。奥が、深い。そういうおもしろさに、ハマる。私にとって
の幼児教育というのは、そういうものである。

 ただ、もう一つ、誤解してほしくないのは、同じ教育の中でも、幼児教育は、特殊であ
るということ。いくら人間対人間の仕事といっても、相手は、幼児。いわゆる、ふつうの
世界でいうところの人間関係というのは、育たない。

 話が少し脱線したが、私が、自分の中に、こうした二面性があるのを知ったのは、30
歳くらいのことではなかったか。

 自分の息子たちに対する態度と、他人の子どもたちに対する態度が、かなりちがってい
たからだ。ときには、冒頭にも書いたように、自分の人間性が、バラバラになっているよ
うに感じたこともある。「コノヤロー」「バカヤロー」と言いたくても、顔では、ニッコリ
と笑って、別のことを言う。毎日が、その連続だった。

 しかし脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。二つの自分が、たがいに
頭の中で衝突するようになると、疲れるなどというものではない。情緒不安、精神不安、
おまけに偏頭痛などなど。まさにいいことなしの状態になる。

 だから、結局は、(ありのままの自分)にもどることになる。

 が、これとて、簡単なことではなかった。それこそ数年単位の努力が、必要だった。私
は、まさに反動形成でつくられた(自分)を演じていただけだった。高邁で、高徳で、人
格者の教師を、である。

 しかし本当の私は、まあ、何というか、薄汚い、インチキ男……とまでは、いかないが、
それに近かったのでは……。

 そこで(ありのままの自分)を出すことにしたが、悲しいかな、(ありのままの自分)は、
とても外に出せるようなものではなかった! そこで私は、(ありのままの自分)を出すた
めに、別の意味で、(自分)づくりをしなければならなかった。

 今も、その過程の途中にあるということになる。

 で、その今も、もう1人の私が、私の中に同居している。いやな「私」だ。できれば早
く別れたいと思っている。ときどき、「出て行け」と叫びたくなる。そんな「私」だ。妙に
善人ぶって、自分を飾っている。

 どこかのインチキ牧師みたいで、ああ、いやだ! ホント!

 ……ということで、本当の自分を知ることを、むずかしい。この文章を読んでいる、み
なさんは、はたして、どうだろうか? ありのままの自分で、生きているだろうか?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●8月24日

++++++++++++++++

かわり映えのしない朝。
昨夜睡眠導入剤をのんだこともある。
時計を見ると、午前8時を過ぎていた。
たっぷりと9時間。
よく寝た。
何か寝起きに夢を見たようだが、
忘れた。

で、昨夜、義兄の家に寄った。
いろいろ話した。
その中で親子の話が出た。
「フランスでは、親子でも家の売買をする」と
話した。
つまり金の貸し借りには、親子でもシビア。
夫婦でもシビア。
オーストラリアの友人などは、夫婦で日本へ
来ても、お金を払うのはいつも夫。
夫が自分の財布からお金を払う。
夫が得た収入は夫のもの。
そういう意識がきわめて強い。

が、この日本では、私もそうだが、収入は
一度すべて妻に渡す。
だからレストランでもどこでも、勘定は
妻が払う。

そう言えば、シビアと言えば、中国人。
大陸から来た中国人。
夫の財産、妻の財産と、きびしく区別する。
その様子はまさに「他人」。
だからたとえば親子でも、そのあたりをきびしく
区別する。

親が子どもに学費を出したとする。
それはそのまま親の貸し金になり、
子どもの借金になる。

日本の常識は世界の常識ではない。
日本の常識をもとにして考えてはいけない。
たとえば話はぐんと生臭くなるが、
若いころ、こんなことがあった。
40年近くも前の話である。

友人(男、オーストラリア人)が、ガールフレンド
(女、日本人)を妊娠させてしまった。
(「妊娠させた」という言い方そのものが、
実に日本的だが・・・。)
そのときのこと。
私が「君は男だから、責任を取るべきだ」と言うと、
すかさずその友人は、こう反論した。
「妊娠したのは、女性の責任」と。

オーストラリア人の論理からすると、
「避妊をしなかった女性が悪い」となる。
意識というのはそういうもの。
私たちがもつ常識の上に成り立っている。
常識がちがえば、当然、意識もちがう。

そんな話をすると、義兄はカラカラと
笑いながら、「ここは日本だ!」と言った。
つまり日本人は日本人の考え方をすればよい、と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
というのも、今、急速に日本人がもつ常識が
変わりつつある。
それにつれて意識も変わりつつある。
夫婦でも、自分が得た収入は、それぞれのもの
と考える人が、ふえてきた。
共働きの人ほど、そういう意識が強い。
何も離婚に備えてのことではない。
たがいに収入の管理をすることによって、
出入りを厳格にするということらしい。

では親子のばあいはどうか。
昔の人は、「親のものは親のもの」
「子どものものも親のもの」という意識を
もっていた。
昔といっても、現在80歳以上の人たちの
ことを念頭に置けばよい。
だから「子どもが得た財産は、親のもの」と
考える。
私の父がそうだったし、母もそうだった。
私が母に預けていた預貯金を、母が勝手に
使ってしまったことがある。
それに私が抗議をすると、母はこう言った。
「息子のものを親が使って、何が悪い!」と。

何も母を責めているのではない。
当時は、それがこの日本の常識だった。
(若い人たちには、信じられない話かも
しれないが・・・。)

が、今はそんな考え方をする人はいない。
親の財産は親のもの。
子どもの財産は子どものもの。
つまり今は、その「過渡期」ということになる。
やがて日本人も欧米人のように、親子、夫婦の
間でも、財産を分けて考えるようになる。
世界の流れは、そういう方向に動いている。

+++++++++++++++++


(9)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F

●感情のコントロール

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感情のコントロールは、前頭の連合野が管理して
いる。
理性の府。
感情のコントロールができる人は、それだけ
人格の完成度が高いということになる。
が、この暑さ。
何かにつけ、イライラしやすい。
爆発しやすい。
つまりその分、セロトニン(脳間伝達物質)の
分泌が、旺盛になっている?
その前に暑さと、セロトニンの分泌とは、
関係があるのか。
たとえば暑いから、どうしてもアイスを食べたり、
甘味ジュースを飲んだりする。
それがインシュリンの分泌を促し、セロトニンの
分泌を促す。
結果として、キレやすくなる。

++++++++++++++++++++++

●葬儀で大泣きした女性

 先日、ある葬儀に出たら、いざ出棺となったとき、人目もはばからずギャーギャーと
大泣きをした女性がいた。
年齢は65歳くらいか。
その女性の兄の葬儀だった。
その泣き方が、ふつうでないというか、異常だった。
みながなだめたが、5分以上は泣きつづけていた。
静かな会場だったので、よけいに目立った。

 感情のコントロールができない人というのは、そういう人をいう。
つまりそれだけ大泣きしたのだから、さぞショックだったのだろうと思ったが、その
あとの三日目の食事会のときには、ケロッとしていた。
むしろ快活に、はしゃいでいるようにも見えた。
大声で笑い、冗談まで言い合っていた。

 このタイプの人は、思慮深さがなく、また言ってよいことと悪いことの判断ができない。
その場の感情に溺れて、感情のおもむくまま、思いついたことを口にする。
愚痴、批判、悪口、中傷……まさに、何でもござれ。

●感情のコントロール

 かく言う私とて、偉そうなことは書けない。
私自身も、感情のコントロールに苦労する。
他人に対しては、めったに取り乱すことはないが、ワイフに対しては、そうでない。
そのままの自分を、ぶつけてしまう。
だから夫婦喧嘩ばかり……。

 自分でもそれがよくわかっているから、まず食事面で気をつけるようにしている。

(1)カルシュウム、マグネシウム、カリウム(海産物)の多い食生活に心がける。
とくにカルシュウム。
ときに錠剤で補う。

(2)甘い食品を避ける。
一時的に甘い食品を多量に口にすると、インシュリンが分泌され、それが血糖値を
さげる。
さげたまま、さらにさげるから、結果的に低血糖状態になる。
低血糖状態になると、精神がきわめて不安定になりやすい。
イライラしたり、怒りっぽくなったりする。
集中力もなくなる。
とくに夏の暑いときは注意する。

 言い忘れたが、カルシュウム剤は、戦前までは精神安定剤として使われていた。
「どうもこのところ精神が不安定」と思っている人は、カルシュウム分の多い食生活
に心がけてみたらよい。
子どもについても、そうである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 感情のコントロール キレやすい キレやすい子ども)

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以前書いた原稿を、添付します。

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●キレる子どもの相談

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数年前、キレる子どもについて、
ある母親から、こんな相談が届いて
いる。

そのとき書いた原稿をそのまま
ここに紹介する。

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●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、四本
飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリー
ムを1個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。

一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようと
インスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、
必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、
スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」として、20年ほど前に
話題になったことがある。

日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの
子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。
一周間も続けると、子どものによってはウソのように静かに落ち着く。

  話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。
で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨て
る。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事
の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識
のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。

++++++++++++++++++++++++

以前、同じような相談を受けたことがあります。
もっと年齢の大きなお子さんについてのものでしたが……。
それについて、書いた原稿を添付します。
あくまでも参考資料の一つとして、考えてください。

++++++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。

娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は5歳半になる年中児で、下に3歳半の妹がいます。

小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。

真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。

私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。

そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。

心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。

また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。

泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。

その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。
自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・7賢人の1人)だが、自分を知ることは難しい。
こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中2男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、
ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとそ
の子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼく
を怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものこと
ではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日1人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子
どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない子
はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行って
ほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

+++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学3、4年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も5歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満5歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。

されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃんがえり、欲求不
満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメールによると、かなり
神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配先行型の子育て
なども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎりなく、話が出てき
てしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視すること
によって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」と
いう指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナ
ス型になることもあります。

 私も幼児を35年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。

UYさんのお子さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、症状は
急速に収まってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするように
なるからです。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは
「もっとかっこよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学1年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まっていき
ます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。

それを感じると、今度は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら
……。私のばあいは、教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱った
り、威圧感を与えたり、あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導し
ます。それだけを忘れなければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に
構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学3、4年生になるころには、消えています。ウ
ソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そして、
四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださると
確信しています。もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃ
んの母親(みさえさん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一度、読
まれるといいですよ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※ ……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【YK様へ(2)】

 食生活がどうなっているのか、私にはわかりませんが、まず試してみるべきことは、(1)食生
活の改善、です。

 ここにも書いたように、MG、CA、Kの多い食生活(自然海産物中心の献立)に切りかえてみ
てください。

 精製された白砂糖を多く含む食品は、避けます。(与えると意識しなくても、今では、ありとあ
らゆる食品に含まれています。幼児のばあい、2歳児でしたら、1日、10グラム前後でじゅうぶ
んです。)

 感情の起伏がはげしく、手にあまるようなら、一度、小児科を訪れてみられてはいかがでしょ
うか。以前とちがい、最近では、すぐれた薬も開発されています。(薬を使うときは、慎重にしま
すが、そのあたりのことは、よくドクターと相談して決めてください。)

 食生活の改善……徹底してするのが、コツです。アイス、ソフト、乳酸飲料などは、避けま
す。徹底してすれば、1、2週間ほどで、効果が現われてきます。

 同じようなケースを、もう一つ、思い出しました。その原稿を添付します。少し古い原稿なの
で、先に書いたことと、内容が少し異なるかもしれませんが、異なっている部分については、先
に書いたほうを、優先してください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【栄養学の分野からの考察】

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。

日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷
事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたこと
がある(九八年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、こ
の分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。

話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱してい
て、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意する
と、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動
性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興
奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなっ
た。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば
自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。こ
の過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの
子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知
っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。

そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・1
2)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる
症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそ
ういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。

この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低
血糖になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切る
ような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝
手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコン
トロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それ
がキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。

体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の
発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた
回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく
言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こし
やすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」八一年(7)号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる
問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている
白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。

私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。
が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビス
ケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状の
ようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態
になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまる
で別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で
見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。

川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与
するだけでなおる」(「マザーリング」八一年(7)号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そ
うでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体
重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲
む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガ
ボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過剰
行動児 セロトニン悪玉説 キレる子供の原因 キレる子どもの原因 切れる子供 原因 キ
レる子ども 原因 原因物質)




(10)
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【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



++++++++++++++++



子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



++++++++++++++++



●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を
意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」と
いう単語に由来する。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よく
みられる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返
報性」という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こ
んなことがあった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K
君は、少し恥ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)





Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司



●ほめる(2)※



●明るい4人兄弟



 Gさんの家には、男の子ばかり、4人の子どもがいます。が、どの子も、屈託なく、明
るい。伸びやか。その秘訣は、すぐわかりました。母親が、上の子どものお下がりを、下
の子どもに与えるとき、いつもこう言うのです。



 「あら、あなたも、Aちゃん(すぐ上の兄)のが着られるようになったわね。大きくな
ったわね」と。



 母親がまず、それを心底喜んでみせる。それを受けて、下の子どもたちが、「大きくなっ
た」と喜ぶのです。そういう雰囲気を、母親が、無意識のうちにも、つくりあげていたの
です。



●不思議なパワー



 子どもを伸ばす最大の鉄則、それは、子どもをほめることです。スキナーという学者は、
ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、
子どもを前向きに伸ばしていくと説明しています。



さらに最近の研究によれば、ほめることによって、脳内で、カテコールアミンというホル
モンが分泌され、それが、子どもの集中力(ノルアドレナリン)や思考力(ドーパミン)
を活性化させることもわかってきました(澤口俊之「したたかな脳」)。



 ほめることには、私たちが想像する以上の、ものすごいパワーがあるようです。が、い
くつか条件があります。



●ほめる条件



 ほめるとしても、努力とやさしさ。この2つは遠慮なく、ほめます。顔やスタイルは、
ほめない。頭については、時と場所を慎重に選んで、ほめます。顔やスタイルは、ほめれ
ば、関心がそちらばかりに向いてしまうということになりかねません。頭については、ほ
めすぎたため、かえってうぬぼれてしまうというケースも、少なくありません。



 また当然のことですが、ほめるときには、心底、その気になってほめます。ウソや体裁
では、効果がないばかりか、かえって逆効果。子どもは、親の心の隠された意図(シャド
ウ)を、敏感に読み取ってしまいます(ユング)。



●学習面では……



 たとえば子どもの学習。子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばす、です。苦手な
分野、不得意な分野には、目をつむります。



 こうすることで、先に書いた、カテコールアミンという脳内ホルモンの分泌を促し、脳
を活性化させることができます。



 1科目が伸びたら、ほかの科目もつられて伸び始める……という現象が、子どもの世界
では、よくあります。これを「相乗効果」と呼んでいますが、「うちの子は学習面ではどう
も……」と思ったら、1科目なら1科目だけを、集中的にほめて伸ばします。



●好意の返報性



 が、それでも、よくこんな質問を受けます。「子どものほめ方が、わかりません」と。し
かし答えは簡単。まず、本心で、自分の子どもをいい子と思うことです。不安や心配は禁
物。本心で、です。



英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思う』というのがありま
す。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あなたのこ
とをいい人だと思っているもの。心理学の世界ではそれを、「好意の返報性」という言葉を
使って説明しています。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとします。
相手の好意には、好意でもってこたえようとします。そういう子どもの性質を利用して、
子どもを伸ばします。親が、「…うちの子は、ダメ…」と思っていて、どうして子どもが伸
びることができるでしょうか。



 もうおわかりですね。「うちの子は、すばらしい」と、まず信ずること。心ができれば、
ほめ方は、自然と、あとからついてきます。

(はやし浩司 相乗効果 ノルアロレナリン カテコールアミン 脳の活性化)



【補記】



 子どものやる気、思考力に、脳内ホルモンが、関係している。昔から『好きこそ、もの
のじょうずなれ』と言うが、好きなことをしていると、脳内で、カテコールアミンという
ホルモンが分泌される。



 このカテコールアミンには、ノルアドレナリンとドーパミンの2種類があるが、そのう
ちノルアドレナリンは、注意力や集中力と関係があり、ドーパミンは、思考力に関係があ
るとされる。



 カテコールアミンが分泌されると、脳が覚醒状態になるという。そしてその結果、脳の
機能そのものが活性化される。



 教育の世界には、「相乗効果」と呼ばれる、よく知られた現象がある。たとえば英語なら
英語、1科目が伸び始めると、とくにほかの科目を勉強したわけでもないのに、数学や国
語まで、伸び始めるという現象である。この現象に、ここに書いた脳内ホルモンの働きを
重ねてみると、なぜそうした現象が起きるのか、うまく説明できる。



 そこで重要なことは、子どもを伸ばそうと考えたら、どんな分野でもよいから、ひとつ
のことを楽しんでさせるようにすること。その前向きな取り組みが、子どもの脳を活性化
させる。その結果として、子どもは、ほかのあらゆる分野で、伸び始めるようになる。



まずいのは、不得意な分野や苦手な分野を、子どもに押しつけるような行為である。逆の
相乗効果(?)が働いてしまい、子どもは、今度はあらゆる面で、伸び悩むようになって
しまうかもしれない。

(はやし浩司 子供の集中力 子供の思考力 子どもの集中力 カテコールアミン ノル
アドレナリン ドーパミン)



【注、ノルアドレナリン】



ホルモンとして副腎から血液に放出され、また、シナプス伝達の間にノルアドレナリン作
動性ニューロンから放出される神経伝達物質である。それは、ストレス・ホルモンの1つ
であり、注意と衝動性(impulsivity)が制御されている人間の脳の部分に影響する。アドレ
ナリンと共に、この化合物は闘争あるいは逃避反応を生じさせて、心拍数を直接増加させ
るように交感神経系を動かし、脂肪からエネルギーを放出し、筋肉の素早さを増加させる。
(Wikipedia フリー百科事典
より転載)。


(11)
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【子どもの発達段階テスト】byはやし浩司

●子どもの心(発達段階テスト) [ カテゴリ未分類 ]    
****************

【子どもの心の発達・診断テスト】


****************


【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)

●社会適応性
 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。
(1)共感性

Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。


○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……


○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)

(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。


○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)

(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。


○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)


(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。


○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)


(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……


○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、HPの
ほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実施。)


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●順に考えてみよう。


(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。


 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。


 その反対側に位置するのが、自己中心性である。


 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。


 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。


(2)自己認知力


 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。


 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。


反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。


(3)自己統制力


 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。


 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。


 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。


 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。


 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。


(4)粘り強さ


 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。


 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。


 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。


 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。


(1)楽観性


 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。


 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。


 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。


 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。


 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。


 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。


 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。


(2)柔軟性


 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。


 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。


 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。


 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。


 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。


 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。


 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。


 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


●終わりに……


 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、「私で
あって、私でない部分」によって、動かされている。


 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしていくか。それ
ができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。そうでない人を
そうでないという。


 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはいけな
い。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春
期 自我構造理論 中学生)


●おまけ


 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の本をプ
レゼントする予定。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自己管理能力 学習指導困難児 フィードバック)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司



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児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼
児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
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