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(1)
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●叱り方


★子どもに恐怖心を与えないこと。
そのためには、

子どもの視線の位置に体を落とす。(おとなの姿勢を低くする。)
大声でどならない。そのかわり、言うべきことを繰り返し、しつこく言う。
体をしっかりと抱きながら叱る。
視線をはずさない。にらむのはよい。
息をふきかけながら叱る。
体罰は与えるとしても、「お尻」と決める。
叱っても、子どもの脳に届くのは、数日後と思うこと。
他人の前では、決して、叱らない。(自尊心を守るため。)
興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。(叱ってもムダ。)

 

子どもを叱るときは、
@目線を子どもの高さにおく。
A子どもの体を、両手で固定する。
B子どもから視線をはずさない。
C繰り返し、言うべきことを言う。

@子どもが興奮したら、中止する。
A子どもを威圧して、恐怖心を与えてはいけない。
B体罰は、最小限に。できればやめる。
C子どもが逃げ場へ逃げたら、追いかけてはいけない。
D人の前、兄弟、家族がいるところでは、叱らない。
Eあとは、時間を待つ。
Fしばらくして、子どもが叱った内容を守ったら、
「ほら、できるわね」と、必ずほめてしあげる。

ほめ方

★人前でおおげさにほめること。

古代ローマの劇作家のシルスも、
「忠告は秘かに、賞賛は公(おおやけ)に」
と書いている。
頭をなでるなど、スキンシップを併用する。
繰り返しほめる。
ただしほめるのは、
努力とやさしさにとどめる。
顔、スタイルは、ほめないほうがよい。
「頭」については慎重に!

はやし浩司
===========




●叱り方・ほめ方

●叱り方・ほめ方は、家庭教育の要(かなめ)

 子どもを叱るときの、最大のコツは、恐怖心を与えないこと。「威圧で閉じる子どもの耳」と考
える。中に親に叱られながら、しおらしい様子をしている子どもがいるが、反省しているから、
そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果は、ない。叱ると
きは、次のことを守る。

@がいうところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)、A大声で怒鳴らない。そのかわ
り言うべきことは、繰り返し、しつこく言う。「子どもの脳は耳から遠い」と考える。聞いた説教
が、脳に届くには、時間がかかる。B相手が幼児のばあいは、幼児の視線にまで、おとなの体
を低くすること(威圧感を与えないため)。視線をはずさない(真剣であることを、子どもに伝え
るため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で、制止して、きちんとした言い方で話すこと。

にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お
尻」と決めておく。実際、約五〇%の親が、何らかの形で、子どもに体罰を与えている。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、「忠告は秘かに、賞賛は公(おおや
け)に」と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめること。そ
のとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特
に子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。顔やスタイルについては、ほめない
ほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にす
るようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。また「頭」に
ついては、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。頭をほめすぎて、子ども
がうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、「励まし」。すでに悩んだり、苦しんだり、さらにはがん
ばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。ムダであるばかりか、かえって子どもか
らやる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の、脅しもタブー。

結果が悪くて、子どもが落ち込んでいるときはなおさら、そっと「あなたはよくがんばった」式の
前向きの理解を示してあげる。

 叱り方、ほめ方は、家庭教育の要であることはまちがいない。
*****************************************************************************

こんな怒り方は、がまんのし方は、
子どもを、ダメにする!
はやし浩司

「別冊PHP」(1997年・7月号より転載)

 子育ては、言わば、条件反射の集まりのようなものです。そのとき、その場で、いちい
ち考えて子どもを叱ったり、怒ったりする人はいません。たいていの人は、「頭の中では
わかっているのですが、その場になると、ついカーッとして……」と言います。

 ただ最近の傾向としては、小子化の流れの中で、子どもの機嫌をそこねまいと、叱る
べきときに叱らない親、怒るべきときに怒らない親がふえています。あるいは強く叱った
あとに、「さっきは、ごめんね。お母さんが悪かった」と、子どもに謝る親も珍しくありませ
ん。こういう親の心のスキ間をねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘化します。

 また子育てに不安を抱いていたり、子どもに何らかの不信感をもっている親は、どうし
ても子どもを必要以上に強く叱ったり、怒ったりします。「いったい、いつになったら、あな
たは私の言うことが聞けるの!」と、です。あとはこの悪循環の中で、子どもはますます
自分で考えたり判断したりすることができなくなり、親の叱り方はますますはげしくなると
いうわけです。

 が、何が悪いかといって、親の情緒不安ほど悪いものはありません。先週は子どもが
お茶をこぼしたときは何も言わなかった親が、今週は、子どもがお茶をこぼしたりする
と、子どもの顔が青ざめるほど子どもを怒鳴り散らすなど。こういう環境だと、子どもの性
格は内閉し、さらに悪い場合には、精神そのものが萎縮してしまいます。

 園や学校などでも、皆が大声で笑うようなときでも、皆と一緒に笑えず、口もとをゆが
めてクックッと笑うなど。なお悪いことに、このタイプの親は、静かで従順な子どもほど、
「いい子」と誤解して、ますます子どもを悪い方向に追いやってしまう傾向があります。

 叱り方、がまんのし方は、子育ての中でも要(かなめ)と言えるほど、重要であり、また
それだけに難しいことです。叱るときや、がまんするときは、「ここが教育」と心してあ
たるようにします。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どものほめ方、叱り方 しかり方)


(2)
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●忍耐力と子どもの伸びる力(がまんをさせる)

++++++++++++++++++++

孫の誠司(当時6歳、母親はアメリカ人)のこと。
その誠司をおもちゃ屋へ連れていったときのこと。
孫の誠司はおもちゃを手に取って遊ぶだけで、
けっして「ほしい」とは言わなかった。

ショッピングセンターへ連れていったときも
そうだった。
日本の子どものように、「あれ、買って」「これ、
買って」とは、言わなかった。
で、息子(二男)にその理由を聞くと、こう言った。
「無駄なものは、いっさい買わない」と。

アメリカといっても広い。
二男の嫁が生まれ育ったのは、アメリカ南部。
両親は厳格なバプティスト教徒。
日本人の子育て法とは、基本的な部分がちがう。
その(ちがい)が、冒頭に書いたちがいとなって、
現れた。

が、それだけではない。
誕生日プレゼントでも、クリスマスプレゼントでも、
その日になるまで、親は包みを開かせない。
孫たちは、その日になってはじめて、包みを開く。
習慣のちがいといえばそれまでだが、しかし
こうした習慣が、子どもに(我慢)ということを
教える。

私がそれまでもっていた常識とはあまりにもちがったので、
孫たちを見ながら、私は強烈な印象を叩きつけられた。

+++++++++++++++++++++

●D・ゴールマンの実験

 植島啓司著「天才とバカの境目」(宝島社)に、こんな興味深い実験が紹介されている。
D・ゴールマンがした『マシュマロ・テスト』というのが、それ(P13)。
内容をかいつまんで紹介する。

+++++以下、「天才とバカの境目」より、要約+++++

 4歳の子どもに、実験者がこう言う。

「ちょっとお使いに行ってくるからね。おじさんが戻ってくるまで待って
いられたら、ほうびに、このマシュマロを2つあげる。
でも、それまで待てなかったら、ここにあるマシュマロを、1つだけあげる。
そのかわり、いますぐ食べてもいいけどね」と。

 4歳の子どもには、大きな試練だ。
さてあなたなら(あなたの子どもなら)、どうするだろうか。

 ゴールマンはこう言う。
『子どもがどちらを選ぶかは、多くのことを語ってくれる。
性格が端的に読み取れるだけではなく、その子どもがたどる人生の軌跡
まで想像できる』と。

 で、4歳児のうち、何人かは実験者が戻ってくるまで、15分ないし20分
間を待つことができた。
待っている間、子どもたちはマシュマロを見なくてすむように、両手で目を
覆ったり、顔を伏せたりしていた。
自分を相手におしゃべりをしていた子どももいたし、歌を歌っていた子どもも
いた。
最後までがんばりぬいた子どもは、ほうびにマシュマロを2個もらった。

 同じ4歳児でも衝動性の強い子どもは、目の前のマシュマロに手をのばした。
しかもほとんどのばあい、実験者が、『お使いに行く』と部屋を出た直後に
そうした」と。

●決定的な差

 この実験は、1960年代にスタンフォード大学の心理学者ウォルター・
ミシェルが大学構内の付属幼稚園で始めたもので、その後も詳細な追跡
調査がなされたという。

 その結果、すぐマシュマロに手を出したグループと、がまんして2個
受け取ったグループとでは、決定的な差が生じた。

 情動を自己規制できたグループは、たとえば、学業の面でも、SAT
(大学進学適正試験)で、もう一方のグループに200点以上もの大差を
つけたという。

+++++以上、「天才とバカの境目」より、要約+++++

●注目すべき結果

 もう一度、最後の部分をよく読んでほしい。
こうある。

「情動を自己規制できたグループは、たとえば、学業の面でも、SAT
(大学進学適正試験)で、もう一方のグループに200点以上もの大差を
つけたという」(P14)。

 つまりがまん強い子どもは、そうでない子どもよりも、学業面においても
大きな(差)をつけたという。

しかしこれは何もこんなおおげさな実験などしなくても、常識と考えてよい。

●がまん

 子どもにとって忍耐力というのは、(いやなことをする力)をいう。
これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

(なおこの意見は、私のオリジナルの持論。
最近書店に並んでいる育児本に、同じことを書いてあるのを知った。
私の持論のパクリである。)

 たとえばあなたの子どもに、台所の生ごみを始末させてみてほしい。
シンクに手が届かないようであれば、風呂場の排水口にたまった毛玉でも
よい。
あるいは年齢が大きければ、風呂洗い、もしくはトイレ掃除でもよい。
そういう仕事を頼んだとき、何のためらいもなくそれができる子どもは、
忍耐強い子どもということになる。

 このタイプの子どもは、学業面でも伸びる。
理由は簡単。
もともと学習(勉強)には、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。
しかも「この先、どんな人生を歩むようになるかまで、わかる」と。
ゴールマンは、それを研究として、つまりデータ上で、証明した。

●幼児期前期(2〜4歳期)

 エリクソンは、幼児期前期を「自律期」と位置づけている。
この時期に、「自らを律する」ということをしつけると、子どもはのちのちも、
自己管理能力のすぐれた子どもになる。

 人間の子どもだけではない。
犬もそうで、時期をうまくとらえ、しつけると、人間の言いつけをしっかりと
守ることができるようになる。
たとえば私の犬のハナは、中型の猟犬だが、いまだかって塀を乗り越えて
外に出たことはない。
塀は自分の肩ほどの高さしかないから、その気になれば、いつでも飛び出せる。

 子どももそうで、この自律期に、しっかりとしつければ孫の誠司のように
なる。
おもちゃ屋でおもちゃを見るときも、ただ見るだけ。
それで満足する。
「買って」とか、「ほしい」という言葉すら、口に出さない。
で、私のほうが見るに見かねて、「買ってあげようか?」と声をかけると、
かえってキョトンとしている。
子どもをしつけるということは、そういうことをいう。
「がまんさせる」ということは、そういうことをいう。

●物欲(食欲)

 これは私の仮説。

以前にも書いたことがあるが、脳の視床下部からは絶え間なく、ある種の
シグナルが放出されている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」と
いうのは、それをいう。

そのシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され、人間の脳は欲望に満たされる。
この欲望をコントロールするのが、前頭連合野ということになる。
つまり「理性」。

 しかし前頭連合野の力は、それほど強くない。
とくに線条体に受容体が一度形成されると、そこで条件反射運動が起こる。
こうなると理性の力は、さらに遠ざかる。
アルコール中毒、ニコチン中毒、さらには買い物依存症の人たちを見れば
それがわかる。
買い物依存症の人たちは、それがほしいからそれを買うのではない。
必要だから買うのでもない。
(買いたい)という衝動を満たすために、それを買う。

(この点、ニコチン中毒者も同じように考えてよい。
タバコを吸いたいから、タバコを吸うのではない。
タバコに、タバコを吸わせられている!)

 物欲もまさに、その1つ。
「情動の自己規制力」(ゴールマン)が強い子どもは、それだけ前頭連合野
の力が強いということになる。
反対に、そうでない子どもは、そうでない。
情動の自己規制力が弱いから、衝動的な行動をコントロールすることができない。
あるいは情動に溺れてしまう。
が、これでは落ち着いて勉強することもできない。
そのちがいが、「200点以上という差(SAT)」となって現れる。

●臨界期

 子どもをがまん強くするかどうか。
忍耐力のある子どもにするかどうか。
その時期は、幼児期前期(2〜4歳期)にかかっているとみてよい。
その時期を逃すと、以後、子どもをがまん強くしたり、忍耐力のある子ども、
つまり情動に対して自己規制力のある子どもにするのは、たいへんむずかしい。
子どもの忍耐力にも、臨界期があると考えてよい。

 たとえば年長児(幼児期後期)にもなると、その(ちがい)が、個性となって
その子どもの中に定着してしまう。
衝動性の強い子どもは、それ以後、ずっと衝動性の強い子どもになる。
いくら指導しても、また叱ったり、注意したりしても、それが直るということは、
まず、ない。

 またこのことも犬を見ればわかる。
私は以前、もう一匹、犬を飼っていた。
保健所で処分される寸前の犬だった。
が、この犬は、「自律心」ということになると、まったく自律心のない
犬だった。
ほんの少しでも裏の勝手口が開いていようものなら、私たちの目を盗んで、
そのままどこかへ行ってしまった。
何度教えても、また叱っても、死ぬまでこの悪癖は直らなかった。

●子どもを伸ばす

 子どもを伸ばすかどうか。
そのひとつの鍵をにぎるのが、(がまん)ということになる。
(あくまでもひとつの鍵。誤解のないように!)
がまん強い子どもは、伸びる。
そうでない子どもは、そうでない。

 だから幼児期、とくに幼児期前期においては、がまんをテーマに、
子育てをするとよい。
(がまん)にも臨界期があり、この時期を逃すと、そのあとのしつけが
たいへんむずかしくなる。

 で、この問題は、あなたという(親)に、そのまま直結する。
あなたは、そのがまん強い親だろうか。
それとも衝動的な行動を繰り返しているだろうか。
つまり前頭連合野の力は強いだろうか。
それとも弱いだろうか。
一度、自分の幼児期はどうであったか、自分を振り返ってみるとよい。
別の(あなた)を、あなたは発見するかもしれない。
2010/08/17

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 マシュマロ マシュマロ・テスト 忍耐 子どもの忍耐力 我慢 我慢
強い子ども がまん強い子ども 伸びる子ども 伸びない子ども ゴールマン はやし浩
司 自己規制力 幼児期前期 臨界期 自律期)



(3)
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【常識論】



【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、た
いていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。
しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のとき
にもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑っ
てみる。たとえば……。



●日本の常識は世界の非常識



(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度があ
る。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希
望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけ
でも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の
割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教
育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修
会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約
千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、
クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ド
イツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決める
ことができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習ク
ラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2
001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日
本円で約14000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが
就職するまで、最長二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣
向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学
校外教育に対する世間の評価はまだ低い。



ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号
すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」
と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう
教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待ってい
ると、先生のほうから電話がかかってきます」と。



(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私
立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見
て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、
はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨
てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう
話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマー・スクールという学校がある。そこはチャー
ルズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校
がカリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるよう
に。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校とい
う」と。



なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出す
と同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなこ
とでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、
あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何
か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、
「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を
信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画
『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だ
と気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さ
んと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそう
した。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私
が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人
ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことがで
きる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午
後三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決
めることができる。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●「自由に学ぶ」



 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On 
Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると
考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいもので
しかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政

治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由
と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)
学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義
国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているでは
ないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れて
はならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という
意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の
犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考える
のは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察シ
ステムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと
別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえ
ている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中
学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、400
0人多い。

(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 
意識論 はやし浩司 教育評論 教育論 オーストラリア はやし浩司 ジーロン・グラ
マー・スクール ジーロング グラマー スクール Geelong Grammar 
School)


(4)
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●ホメオパシー

【代替医療】ホメオパシーについて考える前に

●まず先入観を捨てる

 あなたは「ホメオパシー」なる治療法をどう思うか。
まず先入観を捨ててみる。
その上で、この問題を考えて見る。

●ホメオパシー

+++++++++++++++++

少し遠巻き……とういうか、外堀を
先に埋めるような書き方をするが、
許してほしい。

今、「ホメオパシー」と呼ばれる、
いわゆる代替医療行為(?)が、
問題になっている。
どこかの助産婦が、新生児の頭蓋内出血
予防に必要とされる、ビタミンKを
投与させず、1人の女児を死亡させる
という事件も起きている。

実は私は、(私の不勉強によるものだが)、
今日の今日まで、その言葉を知らなかった。
「ホメオパシーって何?」と、ワイフに
問いただしたほど。

だから先に、思いついたことを書いてみる。
ホメオパシーについて書く前に、信仰とは
何か。
そのあたりからかんがえてみたい。

+++++++++++++++++

●ルルドの奇跡

フランスにルルドという聖地がある。
奇跡を起こす聖地として、知られている。
毎年熱心なキリスト教の信者たちが、たくさん訪れている。
実際、何かの病気が治ってしまった人がいるという。
そのうちの66人は、「奇跡」と認定されているという。

ある人のHPでは、旅行記としてつぎのように紹介している。

『ルルドは1858年、洞窟に聖母マリアが出現、マリアが告げたところから水が湧き、
その水に浸かったり飲んだりすると難病が治り、瀕死の子供が助 かったことからカトリッ
クの聖地となった。年間500万人が訪れる世界最大の聖地は300ヘクタールの広大な
聖域に聖堂や教会、病院、宿泊施設を備えている。今回の旅はルルドに3連泊、パリに2
泊のゆったりとした旅程。疲労が少ないように配慮された。

「ルルドは大変優れたシステムの癒しの場です。重病人は駅に迎えを頼むこともできます。
車椅子の方や難病の方はもちろん、ベットから起きられない方もボランティアが何人もか
かって持ち上げ泉の水にザボンと浸けてくれるんです。我々も全員沐浴させていただきま
した。シスターは、ある参加者ががんだとわかると抱きしめて祝福してくれました。それ
も感動的でした。

お世話してくれるシスターやボランティアの方、街全体が病人の気持ちをわかってくれて
いる感じがします。ここでは病人が主役なんです。日本ではがん患者は近隣や仕事関係、
家族にまで『元気にみせなきゃ』と気を使う。でもここでは病人で大丈夫だし、カトリッ
クでなくてもひとりで天に祈れます。そんな癒しの場が日本にもあればと思います。ルル
ドの癒しのサポートシステムはぜひ、医療関係者に知ってもらいたい』(逸見晴恵氏HPよ
り、一部抜粋)と。

●信仰とは

 若いころ、ある寺にいたら、朝早く1人の信者がやってきた。
いわく、「今朝は、お礼参りにやってきました」と。
話を聞くと、孫娘の肺炎が治ったという。
一時は危篤状態に陥ったという。
その信者は、仏壇に現金の入った封筒を置き、何度も祈りなおしていた。
私はその姿を見て、こう思った。
「肺炎を治したのは、寺ではなく病院だ」と。

 が、こんな理屈は信者には通らない。
こんな話もある。

 ある女性の夫が交通事故で死んでしまった。
そのあとその女性に、3000万円の保険金が支払われた。
それについてその女性は、「3000万円も手に入ったのは、この信仰をしていた
おかげ」と。
そこでその女性は、うち1000万円を寺に寄付してしまった。
その寺では、1000万円以上の寄付をする信者を、「4桁会員」と呼んで、
特別な立場に置いていた。

 まだ、わからない?

 では、もうひとつの話をしよう。
ある宗教団体では、念力で病気を治すと教えている。
で、その団体の信者の息子が、ある重い病気にかかった。
病院へ連れて行けば治った病気だったという。
しかし親は病院へは連れて行かなかった。
念力で病気を治すとがんばって、一晩中、息子の枕元で祈った。
が、その甲斐もなく、息子は死んでしまった。

 ふつうなら、つまりふつうの常識のある親なら、その信仰から遠ざかる。
が、その親はますますその信仰に、のめりこんでいった。
「私たちの信仰が足りなかったから」と。

 もっとも自分たちの過ちを認めたら、自分たちが息子を殺してしまった
ことになる。
親としては、それを認めることはできない。

●心の救済

 医学では、人の心を救うことはできない。
病気を治すことはできるが、人の心を救うことはできない。
そのことは、あなた自身がいちばんよく知っているはず。

 だから年間500万人の人が訪れ、たった66人の人にしか奇跡が起きなかった
としても、人々は、ルルドに心の救済を求める。
あるいは夫が交通事故で死んでも、3000万円の保険金が入ったとしても、
その女性は、「信仰のおかげ」と、それを喜ぶ。

 さらに言えば、自分たちの信仰のせいで、息子が死んでしまったとしても、
その親は後悔しない。
「後悔」という部屋のドアをしっかりと、閉じてしまう。
「心」というのは、いつも常識の向こうの世界で動く。
だから常識で理解できないからといって、こうした事例を頭から否定してはいけない。
「科学」にしても、そうだ。

●丸山ワクチン

 「丸山ワクチン」というワクチンがある。
当初、あのワクチンは、「ただの水」と酷評された。
「だからいくら注射しても、がんには効かない」と。
多くの科学者や医師が、その使用に反対した。

 が、そのあとも丸山ワクチンでがんが治ったという人が続出した。
脳腫瘍が消えてしまった人もいる。
そこでいろいろ調べてみると、丸山ワクチンが、人間が本来的にもつ
免疫機構を刺激することがわかってきた。
そのスイッチとなる部分は、脳下垂体にあるという(伝聞)。
その結果、免疫機構が働き出す(伝聞)。
わかりやすく言えば、丸山ワクチンが免疫機構を目覚めさせるということになる。
だから、ほんの少量でよいということらしい(伝聞)。
一説によれば、数千万分の1ミリグラムとか、あるいはもう1桁多い、一億分の
1ミリグラムでもよいとか(伝聞)。
(このあたりの話は、あくまでも参考として読んでほしい。
内容は不正確。)

 つまり丸山ワクチンががん細胞を攻撃するのではなく、免疫機構を目覚めさせ、
その結果としてがんが治るということらしい(伝聞)。
人体の機構はそれほどまでに複雑で、かつ未解明な部分が多い。
だから「科学的に・・・」という理由だけで、それを否定したり、あるいは肯定した
りしてはいけない。
とくに「科学性がないから、エセ」という考えることには、私は疑問をもつように
なった。

「科学性」というときは、現在の時点までの科学的レベルを基準にする。
が、既知の分野より、未知の分野のほうがはるかに多い。
「科学性がない」というのは、あくまでも「既知の分野」で証明された科学性に
すぎない。
よい例が、鍼灸治療でいうところの「針治療」がある。
漢方薬治療でもよい。

 私が子どものころには、和漢、つまり日本の東洋医学は「完全に」と言っても
過言でないほど、社会の隅に追いやられていた。
「迷信」というよりは、迷信としても相手にされていなかった。

●ホメオパシー

 そこで今、話題になっている「ホメオパシー」。
信仰なのか、信仰でないのか。
科学性はあるのか、ないのか。
考え方の基本は、こうである。

 「植物や動物、鉱物などを希釈した水を染みこませた砂糖玉を飲む療法」(中日新聞)
と。
科学性ということになると、根拠はない。
日本医学会の高久会長は、「科学的にはまったく無意味だ。根拠のないことの広がりには
危機感をもたざるをえない」(同)と述べている。
「エセ科学」と断言する学者も多い。
が、私はそうとも言い切れないのではないかと考える。

私はひとつの判断基準として、「経過時間」をあげる。
つまりもしエセなら、その歴史的経緯の中で、とっくの昔に消えてなくなって
いるはず、と。
それが100年単位でつづいているというのなら、それを見る私たちは、もう
少し謙虚になってもよいのではないか。
ホメオパシーについても、約200年の歴史があるという。
(だからといって、ホメオパシーを肯定しているのではない。誤解のないように!)

 よい例が、先にあげた鍼灸である。
「針治療」である。
繰り返すが、あの針治療にしても、ほんの40年前には、エセ科学と位置づけられていた。
公然とそれを口にする人はいなかったが、そう考えられていた。
またそれを施す人たちのほとんどは、身体に障害をもつ人たちであった。
が、それがとんでもないまちがいだったということは、現在の状況を見ればわかる。

●毒蛇研究所

 丸山ワクチンについて書いているとき、こんなことを思い出した。
それに私には、もうひとつ、こんな経験がある。

 ブラジルのサンパウロ市公害に、「毒蛇研究所」という、恐ろしい研究所がある。
その研究所を訪れたときのこと。
案内をしてくれた所長がこんな話をしてくれた。
1975年ごろのことで、そういうものの考え方をする研究者は、日本には
いなかった。
つまり「毒を薄めると、薬になる」と。
(反対に、薬を濃くすると、毒になる。)

 そこでその研究所では、毒蛇から毒を採取し、それを何千倍とか、何万倍とかに
薄めて、薬として使用している、と。

 今度の「ホメオパシー」の発想は、どこかあの毒蛇研究所の所長が言った発想と
似ている。
あるいはどこかでつながっている?

●研究会?

 さて、本論。
長い前置きになってしまったが、「外堀」の話は、ここまで。

 で、問題なのは、「ホメオパシー」が、信仰化しているという点。
先にも書いたように、どこかの助産婦が、新生児を死亡させてしまったという
事件も起きている。
それで日本医学会でも問題になり始めた。

とくに、この日本では、医者をないがしろにするような行為や言葉にきびしい。
「治る」などという言葉は、医師でしか使えない。
「〜〜病に効果がある」と、病名を出すのも禁止。
「〜〜病が治った」というのも、禁止。

 だからこそ、こうした「治療法」を許せないのかもしれない。
自分たちの医療体系というよりは、寡占体系が崩れてしまう。
そこで「研究会」ということになった。

 今朝の中日新聞はつぎのように伝える。

+++++++++++以下、中日新聞++++++++++++

長妻昭厚生労働相は、8月25日、日本学術会議の金沢一郎会長が「ホメオパシー」と
呼ばれる代替医療の効果を否定する談話を発表したことを受け、「本当に効果があるのか
ないのか、厚労省で研究していく」と述べた。

(中略)

都内で開いた記者会見で、日本医学会の高久会長は、「日本学術会議からホメオパシーの
危険性を検討してほしいという依頼があり、科学的根拠がないと一致した」と述べた。
日本医師会の原中会長も、「科学的にはまったく無意味だ。根拠のないことの広がりには、
危機感をもたざるをえない」と強調した。

(中略)

金沢会長は24日に、「(これに頼ることで)、確実で有効な治療を受ける機会を逸する
可能性がある」との談話を発表。推進団体は反発している。

+++++++++++以上、中日新聞++++++++++++

●ハンゲコウボク湯信者

 ところで私にも、信仰(?)がある。
「ハンゲコウボク湯信者」という信仰である。
そういう私だから、当初、ホメオパシーという言葉を聞いたとき、一瞬だが、
こと「ホメオパシー」については、エセ科学とは言い切れないのではないか。
そう考えた。

そのものが効くというよりは、それが脳のある部分のスイッチをONの状態に
する。
とたんそれまで眠っていた、その病気に対する免疫機構が働き出す。
そういうことはありえる(?)。

 私が現在、毎晩眠る前に服用している「ハンゲコウボク湯」にしても、
そういう効果があるらしい。
ほんの微量(耳かきに一杯程度の量)で、がんの予防になるという。
東大の元薬学部長であった水野先生が、その効果を何かの研究の途中で偶然発見した
という。
また丸山ワクチンの開発をした、丸山氏とも親交があり、丸山氏の研究をを励ました
という記録も残っている(「丸山ワクチン」HP)。

以後、水野先生の周囲には、ハンゲコウボク湯信者が急速にふえていった。
恩師の田丸謙二先生(東大、元総長特別補佐、日本化学界元会長)もその1人で、
「林君ものんだら」と勧められて、以来12年近くのんでいる。

 が、ここから先が、信仰のおもしろいところ。
私とワイフは、その信者だが、そうして毎晩のむことによって、安心感を覚える。
「私たちはがんにならない」という安心感である。
信仰性があれば、さらに絶対的な安心感に変わる。 
あるいはそうした安心感が、免疫力を高めているのかもしれない。

 だからがん検診にしても、毎年たいへんおおまかなものしか受けていない。
しかしこれも「確実で有効な治療を受ける機会を逸する可能性がある」(金沢会長)
ということになるのだろうか。

●医療と心

 話が混乱してきた。
もう一度、整理してみる。

(1)フランスのルルドには、病気を治してもらいたいと、年間500万人もの人々が
訪れている。

(2)信仰には常識をはずれた盲目性がある。

(3)「科学性がないから……」という理由だけで、その治療法を否定するのは
危険なことである。

(4)ホメオパシーとは、いったい何なのか。

 その前に考えるべき第一の問題は、「医学で、心の救済はできるか」ということ。
このことは、自分の問題として考えてみると、わかりやすい。
話が戻るが、許してほしい。

 たとえばルルドには、毎年500万人の人たちが訪れているという。
みながみな、キリスト教を信じているわけではない。
が、そのうち奇跡によって病気が治ったと言われる人は、66人と言われている。
『このルルドで病気が治ったと自己申告をした人は、1862年以来6700人にのぼる
が、そのうち、ルルド聖地当局によって正式に奇跡と認定されたのは、たったの66人だ
けだ』(「ルルドの泉」HPより)と。

 確率から言えば、1万人に1人?
病気を治すということであれば、私の家の近くにある医療センターのほうが、はるかに
多くの人を治している。
が、毎年500万人の人たちが、救いを求めてルルドに向かう。
この日本でも、特別なツアーを組んでいる旅行社がいくつかある。
「特別」というのは、「病人の人のための」という意味である。

 「科学性」ということを言うなら、なぜ日本の医師会は、(厚労省でもよいが)、
ルルド巡りにメスを入れないのかということになる。
さらに科学性ということを言うなら、かつての「針治療」「丸山ワクチン」のときは、
どうだったのかということになる。
ただその一方で、科学を装った「ニセ科学」というのも、ある。
バランスをとるため、それについても書いておきたい。

●水からの伝言(ニセ科学)

 もちろんとんでもないエセ科学というのはある。
「水からの伝言」を例にあげるまでもない。
あれほどまでにバカげたエセ科学はない。

++++++++++++++++++++

09年7月に書いた原稿を再掲載します。

++++++++++++++++++++

●ニセ科学(pseudo science)
In Japan very strangely most of the young people believe that each man’s personal 
character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely 
spread throughout Japan.

++++++++++++++++

家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、そ
の店員は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。
私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。
血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!

++++++++++++++++

「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左
巻健男氏の書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。

 左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオ
ン。

(1) マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科
学の「負イオン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イ
オンだが、これが健康によいという根拠はない。

プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄
化し、吸うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症
にも効き、健康にもいい」というのである。

これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジ
テレビ系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能
がうたわれた。

そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、
冷蔵庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場
に出されるに至った(以上、P162)、と。

 ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行く
と、たしかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだ
わっていたわけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。

 しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発
掘、あるある大辞典」だったとは! 

 左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、
数10万個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないこと
に注意を要する」(同書)と。

 だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見
を全面的に信ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である
左巻氏の意見を尊重したい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。
 左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。

 もうひとつ、こんな例をあげている。

(2) 容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書
いた紙を張り、その水を凍らせる。

すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水
は、崩れた汚い形の結晶になるか、ならない。

ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本勝著)という本が話題に
なった。

水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。
 こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。し
かし、だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が
広まったという。

 理由は、「人間の体の6〜7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した
教育団体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道
徳)の授業が行われている」(同書)と。

 しかし、『水からの伝言』とは何か? 江本勝という人物は、どんな人物なのか? 少し
前、麻薬を所持していて逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持
たせろ」「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。

 その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、
自説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを
思い浮かべていた。

 で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、それは、そこにあった。
いわく、「私たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化さ
せるということを、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もき
れいになり、健康を取り戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が
変われば世界が変わります。いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの
伝言」HPより)と。

 どうやら、本気らしい。

 しかし……? 「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。
その数は、約3x10の22乗!(ヤフー・知恵袋参照)

 数字で表してみると、こうなる。

300,0000,0000,0000,0000,0000個!

 しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あの占星術
にしても、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!
 これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。け
っして、軽く考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ニセ科学 非科学 納豆ダ
イエット マイナスイオン マイナス・イオン 水からの伝言 エセ科学 はやし浩司 
水からの伝言 水伝 水の結晶)

●ホメオパシーJ

 ホメオパシーJのHPでは、つぎのように説明している。

『……今から200年前にドイツの医師ハーネマンがその生涯をかけて確立させた療法で、
その起源は古代ギリシャのヒポクラテスまでさかのぼることができます。

ホメオパシーは同種療法あるいは類似療法と訳されている通り、「症状を起こすものは、そ
の症状を取り去るものになる」という「同種の法則」が根本原則になっています。

ハーネマンはこの「同種の法則」に、症状を起こすものを非常に薄めて使うことにより、体
に悪影響を与えることなく、症状だけを取っていくものとなるという「超微量の法則」を打
ち建て、安全で体にやさしく常習性を持たないホメオパシー療法を完成させました。

ホメオパシーでは症状を抑圧するのではなく、症状を出し切れるように後押しします。そ
うして初めて心身ともに健康になると考えます。 私達の心や細胞が抱える不自然なパター
ンを解放し、体の芯から健康を取り戻す自然療法、それがホメオパシーです』と。

 よくわからない……というより、「植物や動物、鉱物などを希釈した水を染みこませた砂
糖玉を飲む療法」(中日新聞)というのとは、少しちがうのではないか?
もう少し詳しく調べてみると、同団体のY氏が、朝日新聞社の記者のインタビューに
答えてつぎのように述べているのがわかった。

『……ここまで薄めると毒の物質は、事実上もう入っていないが、「薄める時によく振るこ
とで、毒のパターンが水に記憶される」と協会会長のYさんは解説する。

「自然治癒力が病気と闘っている時に現れるのが病気の症状。西洋医学は症状を緩和する
が治癒はさせない」。ホメオパシーで治せる病気は精神病から皮膚病まで多種多様で、がん
治療も可能かと聞くと、Yさんは「そうです」と力強く答えた』(朝日新聞)と。

 ……と思いつつ、「ホメオパシーJ」のHPを読んでいくと、「?」がいくつか頭の
中を横切った。

 どこかカルト化している?
そんな印象ももった。
「がん治療も可能と力強く答えた」というのは、ま・ず・い!

●レメディー

 「植物や鉱物などを高度に希釈した液体を小さな砂糖の玉」を、「レメディー」と
呼ぶらしい(同HP)。
その玉を「舌下に入れ、溶けるのを待ちます」と。
もう少し詳しく説明すると、つぎのようらしい。

『……レメディーは、舌下に入れて溶けるのを待ちます。基本的にレメディーを摂る20分
前後は、口の中に何も入れないよう指示されますが、レメディーを摂る20分前後に飲食を
すると効果がなくなるということはありません。時間的に余裕のない時は、飲食前後の20
分以内でも構いませんので、レメディーをお摂りください。

但し、コーヒーや香りの強いもの(ミントが含まれている歯磨き粉等)は、レメディーに影響
を与えることがありますので、レメディーを摂る前後20分ほどは、避けるようにしてくだ
さい。また、レメディーを摂り続ける期間中は、できるだけコーヒーを飲まないようにし
た方が賢明です。レメディーの作用を消してしまう場合もあると言われています。
メンソール、ユーカリ、樟脳などの香りが強い場所は、レメディーの保管に向いていませ
ん。

レメディーを摂る本人以外はレメディーに触れないようにしてください。レメディーに触
れると、多少触れた指からもエネルギーが入ってしまいます。しかし、緊急時や赤ちゃん・
動物等に与える場合には、かまわず自分の手に取ってすばやく口に入れてあげてください。
時間にゆとりがある場合には、スプーンなどを使ってレメディーを相手の口の中に入れて
あげるか、レメディーを水に入れて溶かし、その水を飲ませるなどの方法を取ってくださ
い』(同、HP)と。

 この中でとくに気になる部分は、『レメディーを摂る本人以外はレメディーに触れないよ
うにしてください。レメディーに触れると、多少触れた指からもエネルギーが入ってしま
います』というところ。

 レメディーに触れると、多少触れた指からも、「エネルギー」が入ってしまう、と。

 エネルギー?

 さらに「薄める時によく振ることで、毒のパターンが水に記憶される」という意見も
たいへん気になる。
毒のパターンが水に記憶される?
これなどは、まさにあの「水からの伝言」そのもの。

 またレメディーというのは、キャンディーのこと?
だったらそういうキャンディーなら、いくらでも市販されている。
いろいろなフルーツの味で作った、「森永キャンディー」というのもある。
私は子どものころ、大好物だった。
(だから虫歯だらけになってしまったが……。)
しかし「エネルギー」までは、考えなかった!

●私の印象

 私は実は、この原稿を書き始める前は、ホメオパシーに好意的というか、擁護的な
印象を抱いていた。
「200年前からあった」という、年数にも敬意を払った。
ひょっとしたら、人間が本来的にもつ免疫機構に、何らかの作用を及ぼすのではないかと
も考えた。
それに「科学性」という言葉には、両刃がある。
「科学性があるから……」といっても、すべてを信じてはいけない。
「科学性がないから……」といっても、すべてを否定してはいけない。

 しかし結論を先に言えば、やはりどうも胡散(うさん)臭い。
ホメオパシーJのHPを読めば読むほど、疑惑が強くなった。

……という程度にしか、今は書けないが、ともかくも胡散臭い。
科学性のあるなしを論ずる以前の問題のようでもある。
さらに言えば、信仰のレベルを超えて、カルト化している?
ホメオパシーについては、そんな印象ももった。

 今回は、外堀だけを埋め、この先は、もう少し様子をみてから書いてみたい。
何とも歯切れの悪い原稿で、ごめん!

 ホメオパシーは、本当に効果があるのかないのか。
その正体は何なのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ホメオパシー 自然治癒力 水からの伝言 ルルド 水伝 ニセ科
学 エセ科学 代替医療)


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2010++++++はやし浩司※



(5)
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●満63歳のときに(2010年10月)

●2010年、10月1日(金曜日)
満63歳まで、あと20数日弱

+++++++++++++++++++

今日から10月。
初日は、まあまあ。
平凡な滑り出し。
ただここ数日、朝起きがけに、
悪夢に悩まされる。
悪夢といっても、オカルト的な夢ではない。
飛行機に乗り遅れそうになる夢とか、
おかしな連中にからまれて、喧嘩ごしに
なるとか、
そういう夢。
たいていハラハラした状態で、目が覚める。

たぶん私も睡眠時無呼吸症候群とかいう病気に
かかっているのかもしれない。
ワイフがときどき、そう言う。
目が覚めたとたん、ハーハーと深呼吸を繰り返す。
つまりその瞬間、ハラハラドキドキしながら、呼吸を止めている。
そのとき悪夢を見る。
(これは私の素人判断。)
精神状態は、あまりよくないようだ。

+++++++++++++++++++

●山荘にて

 今夜は夜遅く、こうして山荘へやってきた。
ひとりでやってきた。
バスを乗り継いで、やってきた。

で、先ほど村祭りの祝い金を、班長に届けてきた。
10月の第一土曜日か第二土曜日か、いずれかの日に、祭りがある。
明日は第一土曜日。
あわてて祝い金を届けてきた。
が、班長が、「祭りは来週です」と言ってくれた。
ほっとした。

●ひとりぼっち

 美空ひばりの名曲に、「♪悲しい酒」がある。
その歌詞に、「ひとりぼっちが、好きだよと・・・」という箇所がある。
私もひとりぼっちが好きというわけではない。
しかしときに、こうしてひとりぼっちになる。
ひとりぼっちになって、自分の時間をつくる。

 時刻は10時20分になったところ。
軽い頭痛がする。
こういうときは、まず水で頭を冷やす。
ついで湿布薬を貼る。
そのあとまだ頭痛がするようであれば、何かを食べる。
そのあと、頭痛薬をのむ。
幸い、偏頭痛ではなさそうだ。
偏頭痛の痛さは、経験したものでないとわからない。

●孤独

 孤独にも、2種類ある。
肉体的、つまり物理的にひとりぼっちという意味。
これは耐えられる。
もうひとつは、信じられる者がいないという意味。
これは苦しい。
だれにも相手にされないというのも、それに含まれる。
だれにも愛されないというのも、それに含まれる。
つまり、「心の孤独」。

 ときどき私は生徒たちにこう聞く。
「先生(=私)が死んだら、悲しいか?」と。
すると生徒たちはみな、「うれしい」と答える。

それが本音だろう。
私はもともと嫌われ役。
嫌われ役を代行しながら、親たちからお金を受け取る。
だから(教えること)で、孤独がいやされるなどとは思っていない。
実際には、その反対。
生徒たちと面していると、ときどき、言いようのない孤独感に襲われる
ことがある。
生徒は生徒。
とくに私の生徒は年少者が多い。
人間関係を結んだり、育てたりするということができない。

●Sさん

 そう言えば、先週、Sさん(高3)が大学入試に合格した。
小さな声で、「合格が確定しました」と。
もの静かで、理知的な子である。
私の教室に、年中児のときから、14年間、通ってくれた。
Sさんにとってもそうだろうが、私にとってもSさんは、私の人生の一部。

 来週、食事会を開くつもり。
Sさん、おめでとう!
うれしかったよ!

●仕事

 2011年度の仕事を考え始めている。
来年(2011年)は、さらに仕事に没頭してみたい。
「してみたい」ではなく、「する」。

 同時に身のまわりの整理をする。
私は若いころ、骨董品だとか、置き物に凝った。
そういったものが、あちこちにゴロゴロしている。
売るといっても、売り方がむずかしい。
そのうちヒマ(閑)になったら、ネットオークションに、順に並べて
みる。
そういう手もある。

 が、いちばんよいのは、生徒にそのつどあげること。
もっていても、仕方ない。
どうせ死ぬときは、裸。
それも2年前に死んだ、母が教えてくれた。
あれほどモノにこだわった母だが、死ぬときはささいな身のまわりの
日常品だけ。
モノのもつむなしさを、いやというほど、母を通して知った。
・・・学んだ。
 
 で、仕事。
2011年は、自分を完全燃焼させてみたい。
今、いちばん力を入れているのが、幼児教室のビデオ撮影。
「こんな教え方もある」ということを、世界の人たちに見てもらいたい。
この世界には、誤解と偏見が満ち溢れている。
幼児教育というと、先取り教育か受験教育。
さもなければ、子どもをしごく、悪徳教育と考える人は多い。
その偏見と誤解を解いてほしい。

 幼児はたしかに未熟で未経験だが、それを除けば、立派な人間である。
それをわかってほしい。

 また私がこわいのは、(流れ)が止まること。
仕事がその柱というか、「川」になっている。
これが止まったら、私はそのまま腐ってしまう。
だからつづける。

●車の運転

 今、明日はどうしようかと考えた。
どうしようか?
たぶん朝早く山をおり、県道を走るバスに乗って、街まで行く。
私は車を運転しない。
だからいつもそうしてバスや電車を利用する。
あとはワイフに頼んで、あちこちへ連れていってもらう。

 が、実のところこのところワイフの運転が、こわくてならない。
2週間前には、バックをしているときコンビニのポールに激突。
今日、車がやっと修理されてきたと思ったら、さっそく駐車場で、壁に衝突。
勘が悪いというか、鈍ったというか・・・。
とくに右折がめちゃめちゃ。
すぐ前に対向車が迫っていても、その前を横切る形で、平気で右折する。
相手の運転手にクラクションを鳴らされたり、怒鳴られることも、しばしば。 

「お前には運転は無理だね」と言うと、すかさず、「相手が悪い」と
切り返す。
「向こうが止まればいいのよ」と。
ワイフは、他罰型。
他責型ともいう。
子どもにも多い。
机の上のお茶をこぼしたりすると、すかさず、こう言い返す。
「先生が、こんなところにお茶を置いておくから悪い!」と。
「ごめんなさい」という言葉が、口から出てこない。
脳が、そういう構造になっていない。
がんこで、融通がきかない。
だから車の運転が、下手!
(私はもっと下手。ハハハ。)

 だからあまりそのことを責めると、いつもこう言い返される。
「私はあなたの運転手じゃないのよ。自分で運転したら!」と。

●思慮深さ

 ワイフだけが一例というわけではない。
しかし総じてみると、脳の老化は、思慮深さの欠落から始まる。
そう考えてよい。

 たとえば先日も、車のドアが内部から開かなくなってしまった。
そこで私が「おい、車のドア、開かないぞ」と声をかけると、すかさず、・・・
つまり私の話もロクに聞こうとしないうちから、「あなたのやり方が
おかしいんじゃない?」と切り返す。

 もう何年も乗った車である。
ドアの開け方など、まちがえるはずがない。

 が、若いころのワイフはそうでなかった。
もう少し思慮深かった。
私の言ったことを聞いてから、おもむろに自分の意見をはさんだ。

 こうした現象は、50歳を超えると、たいていの人に見られるようになる。
中には自分がボケたのを隠すために、わざと利口ぶって見せる人がいる。
さらにアルツハイマー病か何かになると、とりつくろいや、つじつま合わせ、
言い訳、弁解が多くなる。
病気を隠そうとするためである。

 しかし思慮深さの欠落は、それとは趣(おもむき)を、やや異(こと)にする。
脳みそが薄っぺらくなったような感じになる。
もちろんワイフは、それに気づいていない。
脳のCPU(中央演算装置)に関する問題だけに、自分でそれを知るのはむずかしい。

 で、こうして文章にして書いておく。
ワイフのことだから、たぶん、これを読んでも、即座に否定するだろう。
自分では思慮深い人間と思い込んでいる。

 一般論として言えることは、要するに思慮深い人は、口が重い。
逆に言えば、思慮深くない人は、口が軽い。
思いついたことを、ペラペラと口にする。
つまりそうなったら、脳の老化が始まっているとみてよい。
よい例が、観光バスの中などで、間断なく、しゃべりつづけるオバちゃんたち。
一度、ああいう人たちの会話に耳を傾けてみるとよい。

●不眠症

 幸い頭痛が軽くなってきた。
眠いはずなのに、あまり眠くない。
昨日は、4〜5時間しか眠っていない。
悪夢のせい。
だから今朝は、4時ごろ目を覚まし、そのまま起きてしまった。

 「不眠症」という言葉がある。
私もその不眠症だが、ここ10年は、居直って生きている。
「無理に眠ることはない」と。
人間という動物は、2、3日なら、眠らなくても、どうということはない。
「不眠、不眠」と悩むと、かえってストレスがたまってしまう。 
万事、成り行き任せ。
眠くなかったら、起きていればよい。
眠くなったら、眠ればよい。

●独居老人

 ところで私の家の近くに、今年85歳くらいになる独居老人がいる。
男性である。
少し前まで、奥さんがいたが、奥さんは現在、特別養護老人ホームに。
ほとんど寝たきりと聞いている。

 その老人のことが、よく話題になる。
先日も、前自治会長と話をした。
道端での立ち話だった。
昔からの知り合いらしい。
その前自治会長も、「あの人ねえ・・・」と言って、苦笑いをした。
若いときから、みなに嫌われていたらしい。

その独居老人の心境を、今、私は模擬体験していることになる。
孤独と言えば、孤独。
さみしいと言えば、さみしい。
しかしそれを認めたら、おしまい。
だからこうして懸命に、何かにしがみつこうとする。
パソコンのキーボードを叩くのも、それ。
もし手の動きを止めたら、本当に孤独になってしまう。
だから眠くなり、どうしようもなくなるまで、文章を叩く。
(読んでくれている人には、申し訳ないが・・・。)

 独居老人と呼ばれる老人たちも、たぶん、毎日そうして生きているのだろう。
ある知人は、こう言った。
「林さん(=私)、人間というのは、何かをしていないと、生きていかれない
動物なんですよ」と。
その何かをしながら、心を紛らわす。
孤独と闘う。

●基本的不信関係

 孤独の話を書いたので、もう少し、それについて書いてみたい。
つまり私のような人間は、自ら孤独にならざるをえない運命にある。
性格がゆがんでいる。
心を開くことができない。
友だちも少ない。
人を信用しない。
私を知る人は、たぶん私のことを明るく、楽天的な人間と思っているに
ちがいない。
そういう面は、たしかにあるにはある。
笑わせ上手。
ジョークもうまい。
しかしそのくせ、全幅に相手に心を開くことができない。
基本的不信関係というか、基底不安というか、それが私の心の
ベースになっている。

原因は不幸な乳幼児期にあるが、今さらそれを恨んでも始まらない。
私はもうすぐ63歳。

●63歳

 63歳・・・平均余命(寿命)から計算すると、あと15年ほどの命。
健康寿命は、それから10年を引いた年齢だそうだ。
それで計算すると、こうして元気でいられるのも、あと5年。
そのあとは病気と闘いながら、徐々に、死んでいく。

 今、いちばん心配な病気は、脳腫瘍。
若いときから、頭痛もち。
何かあると、すぐ頭痛が始まる。
頭痛がない日のほうが、珍しいほど。
そんなときも、長くつづいた。

おかげで、私は頭痛の神様になった。
「神様」というのは、頭痛のことなら何でも知っているという意。
近くに「頭が痛い」という人がいると、とても他人ごととは思えない。
ついあれこれとアドバイスしてしまう。

 その脳腫瘍。
もともとはおとなしいがんだそうだ。
2倍の大きさになるのに、10年単位も時間がかかる。
だったら切らないほうがよい。
仮に今、私の頭の中に脳腫瘍が見つかっても、私は切らない。
あと10年くらいなら、何とか生きられそう。
もし耐えられないほど痛くなったら、そのときは安楽死。
オーストラリアで医師をしている友人に、そのときの薬を頼んである。
「パラダイスxxx」という名前の薬である。
「違法だが・・・」ということらしい。

 ただ長生きはしたい。
しかし問題は、どう生きるか。
母の介護をしているとき、私の脳みその中にトラウマができてしまった。
特別養護老人ホームに通ううちに、自分の未来に自信を失ってしまった。
「私も、ああなるのか」と。

 もしそうなら、長生きも考えもの。
みなに迷惑をかけるくらいなら、早めに死んだほうがよい。
・・・というより、みなに、迷惑をかけたくない。
たとえばこうしてものを書くことができなくなったら・・・。
書いていることが支離滅裂になり始めたら・・・。
そのときは、おしまい。
やがて確実に、そうなるが・・・。

●ホームベーカリー

 今、菓子パンをかじったところ。
とくに空腹というわけではないが、こういうときは何かを口に入れない
と落ち着かない。
だからすぐ太る(?)。
その菓子パンを見ながら、「じょうずにできているな」と。
「どうしたらこういう皮の薄いパンができるのだろう」と、
不思議でならない。

 この数週間、ホームベーカリーというのを買って、パンづくりに
挑戦している。
けっこう、うまくなった。
冷水の代わりに、牛乳を入れてみたり、バターのかわりの蜂蜜を入れたり。
そういう小技(こわざ)も、自由にこなせるようになった。
が、ここにある菓子パンのようなわけには、いかない。
値段も安い。

 まじまじと菓子パンをながめる。
キメもこまかい。
やわらかい。
それにおいしい。
口の中で溶かしながら、「バターを使っているな」「卵を使っているな」
とか、そんなことを考える。

●趣味

 こうして私の趣味は、周期的に変化する。
今は、ホームベーカリー。
一通り、それをマスターすると、つぎに急速に興味を失っていく。
しばらくあれこれと、さまよい歩いたあと、また別の趣味に乗り移っていく。
こんなことを、子どものときからずっと繰り返している。

 だからいろいろなことをしてきた。
していないことはないと言えるほど、いろいろなことをしてきた。
パソコンのソフトにしても、同じようなことがある。

 ひとつのソフトを使う。
それを一通りマスターすると、また別のソフトに手を出す。
だから私のパソコンは、しょっちゅう故障する。
OSをいじったり、レジストリーをいじったりする。
そのたびに故障する。

 だから教訓。
「それなりにサクサクとパソコンが作動するときは、冒険をするな」と。
いつも自分にそう言って聞かせている。

●結膜炎

 今、目の付け根を指でかいたところ。
夏場になると、私は結膜炎になりやすい。
理由はわからない。
で、そういうときは、エタノールを目の付け根にチョンとつけて、
しばらく静かに目を閉じている。
(ぜったいに、みなさんは、まねをしないように!)
たいていそれでかゆみは収まる。

今、それを洗面所でしてきたところ。

 目のかゆみは取れた。
先ほどまで眠かったが、眠気も消えた。
もう少し文章を書いてみよう。

●60%

 先ほど独居老人のことを書いた。
模擬体験をしているとも書いた。
で、統計的な予想によれば、私たち団塊の世代は、約60%が、
その独居老人になるそうだ。

よく「家族主義」という言葉を使う人がいる。
私もその1人だが、若い人たちが言う「家族主義」と、私たちがいう
「家族主義」とはちがう。
両者の間には、ひとつの大きなちがいがある。

 若い人たちがいう「家族主義」には、両親、つまり老人が含まれて
いない。
自分たちという夫婦と、自分たちの子どもだけの世界をいう。
昔は「核家族」と言った。
つまり「核家族主義」。

一方、私が説いてきた「家族主義」には、自分たちの親が含まれる。
親も含めて、家族主義という。
つまり「大家族主義」。

 そのことは今の若い人たちの生き方を見れば、わかる。
「将来、親のめんどうをみなければならない」と考えている若い人たちは、
ほとんどいない。
統計的にも、30%前後。
つまりその結果として、この先、独居老人は、ますますふえる。
あなたも私も、独居老人になる。 
「60%」という数字は、それを表す。

 だから中に、「ぼくは(私は)、家族を第一に考えています」という
若い夫婦がいても、私は「そうですか」と言って、口を閉じてしまう。
「結構なことですね」と言いたいが、それは言わない。

 若い人たちよ、横(夫や妻)や下(子ども)ばかり見ていないで、たまには
上(親)を見ろ。
君たちだって、やがてその上(親)になる。

●暗い話

 暗い話になってしまった。
明るい話をしたい。

 ・・・と書いたところで、指が止まってしまった。
「筆が止まった」と書くべきか。
ざっと見回しても、明るい話がない(?)。
これはどうしたことか?
「世の中、右を見ても、左を見ても、真っ暗闇」。
元気がない。
今年になって、サラリーマンの平均給与もさがったという。
つまり大不況の真っ最中。
おとといは、あの武富士も倒産した。
10年ほど前、あの山一證券が倒産したときも驚いたが、武富士にも
驚いた。
「そういうこともあるのかなあ?」と。

 で、この先どうなるのか?
今日も、TOSHIBAが、有機液晶テレビから撤退するというニュース
が伝わってきた。
「これからは小型の液晶テレビの生産に専念する」と。
「この先は、韓国のS社の独壇場になる」とも。
さらにあのモービル石油が、日本から撤退するというニュースも。
日本が今、どんどんと見捨てられつつある。
国際的に見れば、そういうこと。

 で、本来なら政府が予算をうまく配分して、工業を活性化しなければ
ならない。
(公共投資=道路工事だけが、投資ではないぞ!)
が、その余裕が、まったくない。
国の借金が、あまりにも大きすぎる。
1000兆円を超えている。
日本人1人あたり、1000万円!
そんな借金、返せるわけがない。

 言うなれば、息子や娘たちの事業に出資してやりたい。
しかし肝心の親が、借金だらけ。
だからみな、身動きが取れない。
穴にこもって、じっとしている。
今の日本をおおざっぱに表現すれば、そういうことになる。

●高コスト

 で、本来なら、行政改革(=官僚制度の是正)を、10年前、20年前に
すませておくべきだった。
しかし行政組織がここまで肥大化してしまうと、もう手遅れ。
どうしようもない。

「天下り先」という言葉がある。
しかし天下り先は、何も中央官僚だけの特権ではない。
全国津々浦々・・・小さな役所の役人にもある。

 先日も自衛隊員にも天下り先があると聞いて、驚いた。
公的機関のガードマンや、守衛などとなって、天下っていく。

また最近になってJALは、日本の公務員社会の縮図であると説く人がふえて
きた。
高コスト体質が理由で、JALは破綻をした。
二次破綻も時間の問題。

実は日本の公務員社会そのものが、全体として、高コスト体質になっている。
たとえば役所の役人たちは、どんなに役所にごみがたまっても、窓ガラスが
雲っても、自分たちでは掃除をしない。
若いころそれについて質問したことがある。
「どうして自分で掃除をしないのか」と。
すると役人をしていた友人が、こう話してくれた。
「そんなことをすれば、掃除婦のオバチャンたちの仕事を奪うことになる」と。

 そういった組織が、網の目のように入り組んで、今の公務員社会を作り
あげている。
だから役人の世界では、非効率が当たり前になっている。
つまりその分だけ、高コストになる。
JALが生き残るためには、この高コスト体質から抜け出るしかない。
しかしそれはかなりむずかしい。
世論のみならず、支援銀行までもが、背を向け始めた。

●1人8役

 一方、低コストといえば、私の職場。
私1人が、すべてをこなしている。
教材作りから、指導まで。
掃除はもちろん、宣伝、広告、それにHPづくり。
生徒の送り迎えまでしている。
1人8役くらい?
つまりそれくらいのことをしないと、やっていかれない。

 が、もし私が今、ここで、電話番を雇ったり、デザイナーを雇ったり
したらどうなるか。
見た目にはサービスの向上になるが、とたん、破綻。
1人の人間を雇うということは、たいへんなこと。
私1人が生きていくだけでも、たいへん。
そういう現実が、現場の役人たちは、まったくわかっていない(?)。

●官僚国家

 要するに、日本政府は、高度成長期に先取りする形で、公務員社会を
肥大化させてしまった。
経済がそのまま成長すれば問題はなかった。
しかしここ10年以上、成長は止まったまま。
それが今、裏目となって出てきた。

 山荘周辺の農家の人たちも、補助金が目的で農業をしているようなもの。
農協という組織が、そういった指導をしているのだから、話にならない。
「こういうふうにすれば、補助金が出ますよ」と。

 漁業も林業も、同じ。
実はコンピューター産業も、同じ。
浜松市市内の小さなソフト会社ですら、いかに多く公的機関の仕事を
受注するか。
それで経営の安定性が決まる。

 つまり社会そのものが、ガチガチに硬直してしまっている。
そんな日本に、未来などあるわけがない。
発展するわけがない。

 日本を活性化するためには、野趣味を取り戻すしかない。
わかりやすく言えば、荒っぽさ。
世界中が腰に銃をぶらさげて歩いているのに、日本だけが、オホホで、
通るわけがない。
が、現実には、すべてが逆行している。
規制、規制、また規制。
何をするにも、許可、資格、認可・・・。
その分だけ、さらに公務員社会は肥大化する。
人々は、自由を見失う。

 そう、大学生にしても、職業とは、資格を取って、もらうものと思っている。
ちがう!
職業というのは、自分で作るもの。
「自由」とは、もともとは、「自ラニ由ル」という意味。

●デフレ恐怖

 物価はさがる。
仕事が減る。
その分、収入も減り、経済が動かなくなる。
せっかく手にした現金にしても、多くはタンス預金となり、そのまま
死に金。
内需につながらない。
今は、この悪循環が、かぎりなく繰り返されている。
が、タンス預金をする人を責めることはできない。
将来に不安をいだくから、貯金をする。

 だからこの悪循環を断ち切るためには、人々が感じている不安を
一掃するしかない。
政治家ならそう考えるだろう。
が、具体的な方法となると、みな、頭をかかえてしまう。

あああ・・・。

●捨てる人vs捨てられる人

 世の中には、「捨てる人」と「捨てられる人」がいる。
「捨てる」ではなく、「棄てる」でもよい。
たいていは力のある人、上の立場にいる人が、「捨てる人」になる。
が、実際には、捨てる人は、人を切り捨てながら、自分が捨てられている。
それに気づいていない。

 たとえば、(あくまでも例えだが)、だれかがこう言ったとする。
「あの林(=私)は、偉そうなことを言うが、親の法事すら満足にして
いない。人間のクズだ」と。
ついでに「あんなヤツの書いた文章には、読む価値はない」と。

 そう言いながら、その人は、私を捨てていることになる。
ある種の優越感に浸っていることになる。
そして自分の意見に同調する人たちを周囲に集め、ガードを固くする。

 一方、捨てられた私は、その分だけ、たしかにさみしい思いをする。
しかし本当に捨てているのは、私のほう。
口に出して言わないだけ。
言ってもしかたない。
つまり相手にしない。
「かわいそうな人だ」と思って、それで終わる。

 これは私の持論。
「利口な人からは、馬鹿な人がよくわかる。
しかし馬鹿な人からは、利口な人がわからない」。
だから馬鹿な人は、利口な人が近くにいても、自分と同等と思う。
自分のレベルで相手を判断する。
が、このことは、もうひとつ重要な教訓を含んでいる。

 どんなことがあっても、相手を捨ててはいけないということ。
相手を捨てたとたん、自分が捨てられる。
JALの話を書いたので、ついでに一言。

 今度JALでは、強制解雇に踏み切るかもしれないという。
強制的に、社員のクビを切る。
ニュースとしては、ただのニュースかもしれないが、その内部では今、
想像を絶する地獄絵図が進行中。
私は以前、同じような状況を、ある出版社で直接見聞きしている。
ある社員はこう言った。
「いつ部長から呼び出しがあるかと、不安で不安で、仕事にならない」と。

 そこで社員は、実現性のないアドバルーンばかりをあげるようになる。
何とか目立った企画を立て、クビ切りを避けようとする。
「捨てる人」と「捨てられる人」の間で、壮絶な闘いが繰り広げられる。
が、それは地獄そのもの。

 が、それ以上に恐ろしいのは、一度、そういう人間関係になると、
それまでの関係も、すべて破壊されること。
いっしょにしてきた仕事まで、価値を失う。
他人以上の他人。
つまり憎しみ相手になる。
せっかく創りあげた人生に、大きな穴をあけることになる。
それが長い時間をかけて、ジワジワとその人の心を蝕(むしば)んでいく。

 余計なことだが、こうして山荘でひとりでいると、世の中を捨てて、
ここに来ているはずなのに、実際には反対に、捨てられている。
それが自分でもよくわかる。

●捨てられる前に・・・

 中国では『だまされる前に、相手をだませ』というそうだ。
「だまされたほうが悪い」と。
悪しき拝金主義の弊害ということになる。

 同じように、『捨てられる前に、捨てろ』という考え方もある。
自分が傷つく前に、先に相手を傷つけて、自分が傷つくのを防ぐ。
要するに、『殺される前に、殺せ』ということか。

 これに対する格言が、『負けるが勝ち』。
子育ての世界では、とくに有効な格言である。
子どもの問題、子どもの友人との問題、学校での問題、先生との問題
などなど。
そのつど、『負けるが勝ち』。
「すみません、うちの子のできが悪いものですから・・・」と。
先に負けてしまえば、それ以上、問題が大きくなることはない。
へたにがんばるから、問題が大きくなる。
大切なことは、子どもが気持ちよく学校へ通えること。

 それができる親を、賢い親という。
そうでない親を、愚かな親という。

 相手にまず自分を捨てさせる。
相手がよいように、させる。
そのあと、こちらはその人から去ればよい。
つまり人生というのは、その連続。
満身創痍(そうい)になってはじめて、人生の意味がわかる。
教育も、また同じ。

・・・ところで先ほどから、断続的に睡魔が襲うようになってきた。
ときどきふと目を閉じる。
その瞬間、強い眠気を感ずる。
もうそろそろ床に入る時間のようだ。

 このつづきは、明日の朝にでも考えてみたい。
では、みなさんおやすみ。
時刻はちょうど午前0時10分前。

●10月2日(土曜日)(翌朝)

 今朝は8時に起きた。
軽い吐き気がする。
ときどきゲップも出る。
逆流性食道炎になっているらしい。
寝る前に何かを食べると、ときどきそうなる。

 あとで何かを食べ、そのあと薬をのんでみる。
で、今朝も悪夢を見た。
たいした悪夢ではないが、やはり観光バスに乗り遅れそうになる夢。
もっとも今朝は、うまく観光バスに乗ることができたが・・・。
こういうのを「強迫観念」という。
いつも何かに追い立てられているような気分。
それが抜けきらない。
昔は、「貧乏性」と言った。
のんびりと休日を過ごすということができない。

 「乗り遅れる」というのは、記憶の中にはないが、幼いころ、そういう
経験をしたのかもしれない。
あるいは母子分離不安?
それがトラウマとなって残っている(?)。

●受容体

 先ほどから、朝日が窓越しに、力強く部屋の中を照らしている。
窓枠の影がはっきりと畳の上に映っている。
多分、今日はよい天気。
まだ外は見ていないが、それがよくわかる。

 で、このところまたまた私のビョーキが始まった。
今度は、「時計」。
このところ時計のカタログばかり、見ている。
とくに必要というわけではないが、機能がごちゃごちゃとついているのが、
ほしい。
気圧計、温度計、コンパス、月の満ち欠け、潮の干満表示などなど。
取り扱い説明書が、ズシンと重く、分厚いものほどよい。
カシオでそういう時計を出している。
が、値段が高い。
ネットでも、3〜4万円。

 脳の線条体に、「デジモノ」に対する受容体ができてしまっている。
つまり条件反射。
そのモノが欲しいというよりは、その受容体を満たすために、そのモノが欲しい。
アルコール中毒者やニコチン中毒者が見せる反応と同じ。

 だから手に入れてしまえば、満足する。
そのあと、それを使うということは、あまりない。

●北朝鮮

 さて一段落。
パンをかじって、薬をのむかどうか、迷っている。
逆流性食道炎かどうか、本当のところ、はっきりしていない。
痛みはほとんど、ない。
ゲップだけ。
もうしばらく様子をみてみよう。

 で、話をつづける。

 北朝鮮では、どうやら三代目独裁者が決まりつつある。
それについて、韓国や中国につづいて、アメリカまでもが、「おかしい」と
言い出している。
「世襲で指導者を決めるのは、おかしい」と。
(中国は「認める」というような発言を繰り返しているが・・・。)
が、この日本は、ただひたすら沈黙。
何しろこの日本には、天皇制という制度がある。
へたに「おかしい」と言おうものなら、世界中から、「じゃあ、お前の
ところは何だ!」とやり返される。
だから沈黙。
沈黙あるのみ。

 ただこういうことを書いても、この日本では公開処刑になることはない。
一応の言論の自由は、保障されている。
が、北朝鮮でこんなことを書けば、即、公開処刑。
しかしたった65年前には、そうでなかった。
天皇制を批判しただけで、即、投獄。
獄死する人も、少なくなかった。
ひょっとしたら、つぎの65年後には、またそうなるかもしれない。
それを忘れてはいけない。

●天皇制について

 もう少し、自分のことを書く。

 田舎の小さな自転車屋だったが、3代つづいた「本家」。
そのせいもあって、昔から、私の家は、「林家」と、「家(け)」がつけられていた。
大正時代の昔のことは知らない。
しかし私が中学生のころには、斜陽の一途。
家計はあってないようなもの。

 最近になって私の実家が、伝統的建造物に指定されたとか。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物として残したわけではない。
改築したくても、その資金がなかった。

 が、その社会的負担感には、相当なものがある。
「お前は、林家の跡取りだから、しっかりと責任を果たせ」と。
だから結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り続けてきた。
当時はまだ、そういう時代だった。

 で、この話と天皇制とどう関係があるか?

 つまり天皇もたいへんだろうな、ということ。
まわりの人たちは、「天皇だから幸福なはず」という『ハズ論』だけで
片づけてしまう。
しかし当の天皇自身はどうなのか。
皇族の人たちは、どうなのか。
その社会的負担感には、相当なものがあるはず。
街の中を、ひとりで自由に歩くこともできない。

 「生まれながらにして天皇」というのは、かわいそうというより、酷。
自分の人生を自分の意思で生きることができない。
つまり私が書きたいのは、こういうこと。

一度は、天皇や皇族の人たちにこう問うてみる。
「たいへんな重責とは思いますが、引き受けていただけますか?」と。
そのとき天皇が、「いいですよ」と言えば、それでよし。
しかしそうでなければ、別の生き方をみなで、用意する。
私は何も、天皇制に反対しているわけではない。
天皇個人の人格と人権に、もっと配慮してもよいのではと考えている。

●新聞

 ここではインターネットは使えない。
だから今朝のニュースは、まったく入ってこない。
新聞もない。

 ところで最近は、テレビでニュースを見ることが、少なくなった。
ネットが浸透してくる前は、定時のニュースの時間になると、5分前には
テレビの前に座った。
が、今は、ニュースの時間さえ、気にしない。

 同じように新聞。
新聞に目を通しても、すでに読んだ記事ばかり。
若い人たちから、新聞離れが進んでいる。
すでに10年ほど前、「ぼくは新聞を取っていません」という若者がいた。
どこかのパソコンショップの店員だった。
それを聞いたとき、私は少なからず、驚いた。
「新聞を取っていないとは、どういうことだ!」と。
が、今ではそれが常識になりつつある。

 もっとも私個人は、新聞派。
いくらネットでニュースを読んでも、そのあと新聞で内容を確認しないと、
どうも落ち着かない。
電子の文字と印刷された文字。
安心感がちがう。
そのちがいは、大きい。

 何でもそうだが、私は「言葉」というのを信用しない。
「書かれた文字」を信用する。
これは元法科の学生だったという、その名残かもしれない。
だから生徒たちへの連絡事項も、すべて、一度文書にして渡すように
している。

●禁断症状

 ネット中毒という言葉がある。
私のその中毒者の1人だが、こういうとき軽い禁断症状に襲われる。
ニュースのみならず、ネットから遮断された世界。
そこにポツンとひとりでいると、不安でならない。

 携帯電話を片時も放さないで持ち歩く人の心理状態が、よくわかる。
ある人は、弁当を忘れても、携帯電話だけは忘れないと言っていた。
私もどこへ行くにも、パソコンだけは、忘れない。
それさえあれば、どこにいても、こうして時間をつぶすことができる。
が、ネットは、どうか?

 半日も放置しておくと、メールだけでも100通前後、入ってくる。
大半はSPAMメールだが、そのあとの処理も、めんどう。
丸1日も放っておいたら・・・、ゾーッ!

 それにニュースに触れられないのは、つらい。
今、世界で何が起きているのか。
それを知りたい。
このイライラ感。
この焦燥感。
それこそが、まさに禁断症状。

●パソコン

 で、今日のお供は、TOSHIBAのUX(11インチ)。
ミニ・ノートである。
が、キー幅は、19ミリの通常サイズ。
このところ、これが打ちやすい。
ほかに、同じくTOSHIBAのMX(12インチ)とTX(16インチ)。
もう一台、台湾製のパソコン。
そのつど状況に応じて、使い分けている。

 で、今、ほしいのは、同じくTOSHIBAのMX。
表面がザラザラしているのが、気に入った。
指先が受ける感触がよい。
しかし今は、がまんのとき。
私の予想では、1、2年後には、ノートパソコンはみなこうなる。

(1)キーボードは、セパレート式になる。(キーとキーの間に、
5ミリ前後の隙間がある。)
(2)表面がツルツルパソコンから、ザラザラパソコンになる。
(ツルツルパソコンは、どうも使い勝手が悪い。指先がすべって
しまう。初期のHPのミニノートがそうだった。)
(3)タッチパネル式のキーボードは、普及しない。
   iPadのキーボードがそうだ。
ペタペタと画面を押すような感触では、文章は打ちにくい。
   これも「慣れ」の問題かもしれないが、私のばあい、キーピッチは
   深いほど、打ちやすい。
   2ミリだと、打ちにくい。
   3ミリだと、打ちやすい。
   たった1ミリの差だが、その「差」は大きい。
   タッチパネル式では、0ミリになる。

 もちろんハードディスクは、消える。
すべてSD方式になる。
3Dは、それほど普及しないのでは?
その必要もないし、かえってわずらわしい。
映画にしても、そうだ。

●夫婦

 たった今、庭先で鳥が鳴いた。
ヒヨドリの声?
何か危険が迫ったときに出す声。
何があったのだろう?
少し心配。
光の影が、先ほどよりも弱くなっている。
どうやら雲ってきたらしい。
それに寒い。

 この山荘の電話線は、先日は解約した。
携帯電話もない。
もってくるのを忘れた。
今ごろワイフはワイフで、のんびりと土曜日の朝を過ごしているはず。
基本的には、ワイフは私がいないほうが、のんびりできる。
深層のその奥深い脳の部分では、私を嫌っている。・・・と思う。
昨夜も、「これから山(=山荘)へ行ってくるよ」と声をかけたら、
「どうぞ!」と。
ワイフはめったに、「私も行きたい」とか、「連れてって」とか言わない。
若いときから独立心が旺盛。
男まさり。
ふつうの女性のように(?)、男に甘えるということを知らない。・・・しない。
マリリンモンローのような女性を見るたびに、「バカみたい!」と言って、
吐き捨てる。
つまりかわいげがない。
だからこちらから連絡しなければ、迎えにくるということもない。
私も期待していない。

 考えてみれば、さみしい夫婦だが、夫婦に定型はない。
みな、それぞれ。
よい面もあれば、悪い面もある。
夫婦円満のコツは、要するに求めすぎないこと。

●山荘を売る
 
 先週、この山荘を手放すことにした。
今すぐというわけではないが、加齢とともに通うことが少なくなった。
息子は3人いるが、アメリカにいる息子をのぞいて、都会派。
田舎生活には、見向きもしない。
むしろ嫌っている。
同じように育てたつもりだが、志向性がまったくちがう。

 一方、私は子どものころから田舎派。
都会生活が肌に合わない。
人ごみの中を半日も歩くと、それだけで頭が痛くなる。

 ということで、売ることにした。
もちろん愛着はある。
さみしい。
土地づくりには、6年もかけた。
毎週、終末にはユンボを借りてきて、それで土地を平らにした。
そういう思い出が、ここにはぎっしりと詰まっている。
私の「命」の一部といってもよい。
若いからできた。
そう、あのころの私は若かった。

 いくらで売れるかはわからない。
この先、「ほしい」という人が現れたら、相談して決める。

●UFO

 昨夜は眠る前に、10〜15ページほど、UFOについての本を読んだ。
コンビニで買ってきた本である。
寝る前はいつもその種の本と、決めている。
地球を宇宙からながめているような気分になれる。
それがよい。

 学生時代には、たしか早川書房(今でもあるかな?)というところが
出していたSF小説を読みあさった。
当時は、ほかの惑星へ出かけていき、そこで宇宙人と戦うという、たわいも
ない内容のものが多かった。
それを一新させたのが、「2001年・宇宙の旅」。
これは映画だったが、私に与えた衝撃は大きかった。
それにテレビでは、「スタートレック」とか、「サンダーバード」など。

 言い忘れたが、地球を宇宙的な規模からながめなおすということは、
悪いことではない。
それを信ずるかどうかは別にして、視野が広くなる。
またUFOを信ずるかどうかは、私たち個々の問題。
信じたからといって、害はない。
カルト教団のように、組織があるわけではない。
あくまでもロマン。
空想ロマン。

 で、そのUFOだが、そうした本によれば、最近ではさまざまなタイプのもの
があるようだ。
私のいちばん興味をひいたのは、「異型UFOドローンズ」。
まるで針金細工か何かで作ったようなUFO。
YOUTUBEでも紹介されているが、そんなUFOが、スーッと
空を自由に飛びまわっているという。
「どんな原理で飛んでいるのだろう」と、そんなことを考えているうちに
いつも眠ってしまう。

●ダラダラ話

 意味のないダラダラ話がつづいた。
ここまで読んでくれた人に、申し訳ない。
少しまともな話をしてみたい。

先日、ローカル電車の中で、こんな広告を見た。
どこかの大学が出している広告である。
こうした広告がおかしいと言うには、それなりの覚悟が必要。
その大学を敵に回すことになる。
しかしおかしいものは、おかしい。
考えれば考えるほど、おかしい。
その広告は、「多元心理学を(私たちの大学で)
いっしょに学びましょう」という言葉で
結んでいた。
「多元心理学ねえ・・・?」。

●やる気

記憶によるものなので、内容は不正確。
あらかじめ、それを断わっておく。
しかし主旨は、できるだけ正確にここに書く。
わかりやすくするため、箇条書きにする。

(1)「勉強をさあ、やろう」と思っていた。
(2)ところが母親が、そのとき、「勉強しなさい」と言った。
(3)とたん、勉強をしようという意欲がそがれた。
(4)みなさんにも、そんな経験があるだろう。
(5)これは「Rxxxx」と呼ばれる心理現象である。
(6)勉強をすることで、「自由になりたい」と思っている。
(7)その意欲が、母親の言葉で、押しつぶされた。
(8)そこで猛烈な反発が働く。
(9)人間は自由を制限されると、自由を取り戻そうとする。
(10)が、それが思うようにできない。
(11)そのため、やる気を失う。
(12)だからそういうときは、「勉強しなさい」ではなく、「無理をしないでね」
    と言ったほうがよい。
(13)そういう勉強を、あなたもいっしょにしてみないか。
(14)KJ大学。

●やる気論

 「やる気論」については、たびたび書いてきた。
が、一般的には、やる気は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を
使って説明する。

自分が好きなことを、自分の意思でしていると、脳内は、カテコールアミン※
というホルモンで満たされる。
そのホルモンが、脳内を陶酔感で満たす。
それが「やる気」につながっていく。

 が、今度は、その反対の場合を考えてみよう。
たとえばいやなことを無理強いされると、それがストレッサーとなる。
ストレッサーとなって、今度はサイトカインという脳内ホルモンを分泌する。
このサイトカインが、心身にもろもろの変調をもたらす。
頭痛、肩こり、吐き気などなど。
当然、やる気をなくす。

・・・おおざっぱに言えば、そういうことになる。

●疑問

 せっかくやる気になっていた。
ところがそのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
とたん、やる気をなくした。
私にもそういう経験がある。
あなたにもあるだろう。

 そういうことは、よくある。
が、ここで重大な事実の誤謬(ごびゅう=取り違い)がある。
前提として、「やる気が起きていた」ということになっている。
しかし勉強を例にあげるなら、勉強が好きな子どもは、まずいない。
勉強には常に、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力を、「忍耐力」という。
平たく言えば、「いやなことをする力」。

 この段階で、その子どもがもし勉強をすることが好きなら、母親に
そう言われたくらいでは、影響を受けない。
「はい、わかりました」で終わるはず。
が、母親に「勉強しなさい」と言われたとたん、やる気をなくした(?)。
つまりここがおかしい。
もともと「やる気」など、ないと考えるのが自然。
「いやな勉強だが、しかたないからやってやるか」と思っていた。
そのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
その言葉でやる気をなくしたというのなら、私も納得する。
しかしそれは、自由を求める意思とは、本質的に異質なものである。

●自由への葛藤

 人間というのは、身勝手な動物である。
自由であるときは、それが自由であると気がつかない。
またその自由を、使うわけでもない。
が、その自由が抑圧されたと感じたとたん、猛烈な反発心がわいてくる。
それはたしかに、ある。
たとえばこんなケースで考えてみよう。

 もしある日突然、政府がこんな命令を出したとする。
「旅行で隣の県へ行くのを禁止する」と。
とたん、だれしもそれに反発するだろう。
旅行をするつもりがなかった人でも反発する。
「どうしてだめなのか」と。

 それなりの合理的な理由、たとえば戦争が起きたとか、伝染性の病気
が発生したとか、そういう理由があればまだ納得できる。
しかしそういう理由もないまま禁止されると、簡単にはそれに従うこと
はできない。

●相手の問題

 が、そのことと「やる気」は、どこでどうつながるのか。
逆のケースだって、考えられる。
「ようし、がんばろう」と思っていたところ、恋人が、「勉強、がんばってね」と
言ったとする。
そういうときひょっとしたら、その子どもはますますやる気を出すかもしれない。
たまたま相手が母親だったのがまずかった。
となると、それは言葉の問題ではなく、相手の問題ということになる。
さらに言えば、相手との人間関係の問題ということになる。
「自由がどうのこうの」という問題とは、次元がちがう。

●抑圧

 さらに言えば、親子関係には、長い過去というものがある。
その過去の中で、よい関係を築いている親子もいれば、そうでない親子も
いる。
いつも「勉強しなさい」と追い立てられてばかりいた子どももいる。
そういう子どものばあい、親がそう言っただけで、それに猛烈に反発
するだろう。
しかしそれは心理学的には、「抑圧」という言葉を使って説明される。
それまで心の隅に抑圧していたうっ憤(不満や不平)が、そこで爆発する。
ドカーン、と。

●タイプ
 
 が、このとき子どもは、(おとなもそうだが)、2つのタイプに分かれる。
ひとつはそのまま抑えつけられてしまうタイプ。
もうひとつは、暴力的にそれに反発するタイプ。
もちろんその中間型もあるだろう。
ほかにも依存型、同情型、服従型もある。
しかしそのままやる気をなくしてしまうタイプは、あくまでもその中の
ひとつに過ぎない。

 「自由を抑圧されたから」「やる気をなくした」と結びつけるのは、短絡的。
無理がある。
先にも書いたように、某大学の大学案内に書かれた文章である。
当然その道のプロたちが、知恵をしぼり、かつ専門的な知識を総動員
して書いたにちがいない。
が、おかしいものは、おかしい。
またどうしてそれが「多元心理学」なのか?
「多元」というほど、大げさなものではない。

●「無理をしないでね」

 英語では、「がんばれ」に相当する言葉がない。
「Do your best(最善を尽くせ)」が近いが、実際には、
こういうケースのばあい、「Take it easy(気楽に構えよ)」
と言う。

 今、何かのことでがんばっている子どもがいたとする。
歯を食いしばってがんばっている。
しかし思うように成果が出ない。
苦しい。
そんなときだれかに、「がんばれ!」と言われることほど、つらいことはない。
「これ以上、何を、どうがんばればいいのだ!」と。

 そういうときは、たしかに反発する。
が、それとて「自由を求めて・・・」というのとは、異質のものである。

●オペラント

 「やる気論」については、すでにオペラント(自発的行動)論によって
常識的に定説化している。
たとえばここに漢字の得意な子ども(小4)がいる。
自分でも「漢字が得意」と自負している。
そんな子どもに、小6の漢字を10個、書かせてみる。
とたん、「知らない」「書けない」「わからない」といって、瞬間的に
パニック症状を示したあと、急速にやる気をなくす。
もちろんプライドにも、大きなヒビが入る。
中にはふてくされてしまい、不遜な態度を示す子どももいる。

 つまり「やる気論」は、むしろそちら側から攻めるべきであって、
自由論とは、本来、関係ないものと考えるのが正しい。

・・・ということで、この話は、おしまい。
ついでに今日の日誌も、これでおしまい。
これからもう一眠りするつもり。
頭は重くないが、耳鳴りがする。
風邪の前兆かもしれない。
これからうがいをし、葛根湯をのむ。

 2010年10月2日、朝。
午後から行動開始!
ではみなさん、今日もがんばろう!

●変更

 ここまで書いて、パソコンを閉じようとしたら、すでに31ページも
書いていることがわかった。
隙間だらけの31ページだから、本の1ページに換算するわけにはいかない。
しかし31ページ。
編集の仕方にもよるが、50〜60ページも書けば、薄い本になる。
がぜん、やる気が出てきた。
どうせここまで書いたのだから、あと少し、つづけて書いてみる。

●ものを書く

 ものを書くとき重要なことは、自分を偽らないこと。
飾らないこと。
ありのままを書く。

 もちろんだれかを傷つけるようなことは、書いてはいけない。
教育の世界では、とくにそうである。
その人個人と特定できるようなことは、書かない。
そこでいろいろな手法を用いる。

 他人の話を自分の話にしてみたり、その逆をしてみたり。
数人の話を1人にまとめてみたり、その逆をしてみたり。
けっしてウソを書いているのではない。

 が、やはりできるだけありのままを書く。

 自分を偽ったり、飾ったりした文章は、あとで読んでも後味が悪い。
しかしどんなへたくそな文章でも、そのときの自分がそのまま出ていれば、
読んでいても、懐かしさを覚える。
「あのときは、ああだったな」と。

 時間を無駄にしないためにも、ありのままの自分を書く。
これはものを書くときの、大鉄則と考えてよい。

●もうひとつ変更

 昼から家に帰るつもりだったが、やめた。
もう一晩、この山荘に泊まることにした。
電話なし、ネット接続なし。
まさに陸の孤島(大げさかな?)。
しかし問題は食事。

 昨夜コンビニで、一食分しか食物を用意しなかった。
それは先ほど、朝食として消えた。
お米が少し残っているはずだから、それを炊こう。
おかずは・・・。
何とか、なるだろう。

 で、こうして山の中にひとりでいると、そこにまた別の世界が
見えてくる。
第一に、私という人間が、いかにワイフに依存していたかがわかる。
2人で一人前?
一体性が強い分だけ、こうして離れてみると、禁断症状に似たものが
現れてくる。

 仏教の四苦八苦のひとつに、愛離別苦というのがある。
「愛する人と別れる苦しみには、相当なものがある」という意。
八苦のひとつ。

よく「妻に先立たれた夫は哀れ」という。
妻には生活力があるが、夫にはない。
あの長谷川一夫(往年の名優)にしても、妻が亡くなったあと、1か月あまりで
この世を去っている。
毎日毎晩、妻の仏壇の前に座っていたという。
何かの本で読んだ話なので、不正確。
しかし似たような話は、よく聞く。

 その愛離別苦。
私は今、それも模擬体験している。
が、問題がひとつある。
「私は本当に、ワイフを愛しているか」と。

 つまり「愛」という概念ほど、曖昧模糊(あいまい・もこ)とした概念はない。
喜怒哀楽のように「形」すらない。
キリスト教徒の人たちは、「愛はある」という前提で話を進める。
しかし愛とは何か。
どこに「ある」のか。

 それを埋める概念が、『許して忘れる』。
人は相手を、どこまで許し、忘れることができるか。
その度量の深さによって、「愛」の深さを知る。

 これは私の持論だが、愛というのはそういうもの。
その度量が、私にはない?
ワイフにもない?
考えてみれば、おかしな夫婦。
そんな夫婦生活を、40年以上もつづけてきた。
これからもつづけていくだろう。
しかしこうして離れてみると、けっこう、さみしい。
「今に迎えにくるかな?」という淡い期待感はあるが、こと私のワイフに
かぎっては、それはない。
言えば、きちんとそれをしてくれるが、それ以上のことは、ぜったいに
しない。
子どものころ、今で言うアスペルガー児ではなかったか?
その疑いはある。
どんなささいなことでも、一度批判したら最後、そのまま殻(ナッツ)に
こもってしまう。
その様子が、小娘みたいで、おもしろい。

 ふだんはやさしく、親切なワイフなのだが・・・。

●今を受け入れる

 こういう心理状態のときは、先のことは考えない。
「ヌカ喜び」と「取り越し苦労」。
これは躁鬱病の人によく見られる現象である。
「多幸感」(私は幸福という満足感)と「絶望感」。
この2つが交互にやってくる。

 だからここは「平穏を旨とすべし」(『黄帝内経』)。
つまり今は、今だけのことを考える。
こうして山の中にひとりでいると、不安感がヒシヒシと襲ってくる。
しかしこの近くの農家の人たちは、そういう生活を当たり前のものとして
生きている。
私にだって、できないはずはない。
それに妻を亡くし、ひとりさみしく生きている男性となると、ゴマンといる。
そういう人たちと比べたら、私が今感じている孤独感など、何でもない。

・・・くだらないことだが、この近くには、何10匹ものサルが住んでいる。
そういったサルにも、孤独感というのはあるのだろうか。
あったら、とてもこんな世界には住めない・・・だろう。

●住めば都

 その一方で、その農家の人たちだが、以前、その反対のことを言った。
隣人のUさん(当時50歳くらい)だが、こう話してくれた。

「私ら、町へ行っても、うるさくて眠れません」と。

 Uさんは結婚式か何かがあって、その夜は浜松市内のホテルに泊まった
そうだ。
その夜のこと。
「通りを歩いてみましたが、飲食店のにおいが臭くて、吐き気がしました」と。

 住めば都というが、山の中に住んでいる人たちは、逆に町の中では生活できない。
一方、ときどき山へやってくる私は、森のにおいに驚く。
湿気を帯びた冷たい風。
その中に樹木のにおいが、プンと香る。
夏場でも、夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から冷たい風が、スーッと
かけあがってくる。
今年も35度を超える猛暑がつづいたが、山荘では扇風機だけでじゅうぶん。
この村にいる人たちも、こう言う。

「エアコンは、客用です。私らは、使わないよ」と。
山荘生活のすばらしさが、まだ私にはわかっていない。

●人生観

 当然のことながら、環境は人生観に大きな影響を与える。
ただとても残念なことに、田舎の人たちの人生観が、都会の人たちの人生観に
影響を与えるということは、まずない。
このマスコミ社会。
情報は常に、都会から田舎へと、一方的に垂れ流されるだけ。
テレビのバラエティ番組を例にあげるまでもない。
ああいう人たちは、田舎にはいない。
言うなれば、都会で作られた、人工のサル。

 実際には、日本は農村文化。
その文化が、今、つぎつぎと破壊されている。
私も、その「結果」。
こういうすばらしい環境にいながら、その(すばらしさ)を満喫できない
でいる。
「どうすればネットがつながるか」と。
そればかりを考えている。

●カンパン
 
 今、戸棚を調べたら、いくつかの食品が出てきた。
その1つが、カンパン。
お米はなかった。
災害時の非常食として買っておいたもの。
缶の上に、白い斑点状のサビが出ている。
品質保存期間を調べたら、「2001年8月」となっていた。
「2010年のまちがいではないか」と、もう一度確かめたが、「2001年」
だった。
封を開けて食べてみたが、どうやら問題はなさそうだ。

 あと干し海苔とマカロニ。
マカロニはゆでてみたが、どこかカビ臭くて、食べられなかった。
今日は何とか、これで生き延びる。

(この間、2時間ほど、昼寝。)

●山荘の夕方

 このところ急速に日が短くなっていくのを感ずる。
加えて山の一日は、短い。
昼寝から起きて、何かをしたわけでもないのに、外を見たら、もう夕暮れ時。

 早い。

 で、こういうところに住んでみると、改めて近隣の人たちとのつきあいの
大切さを知る。
たとえば私の母の実家のある村では、どの家でも、いつも人の出入りがある。
いつも何かの会合がある。
村全体が、ひとつの家族のように機能している。

 一方、都会では、隣にだれが住んでいても、気にしない。
行き来もしない。
しても回覧板を届ける程度。
それでは孤独死をしても、だれも気がつかない。
今の私の家庭がそうだ。
近隣の人たちとの行き来は、ほとんどない。
隣の人が死んでも、気がつかないだろう。

「それではいけない」と、今、つくづくそう思う。

●地域の人たちとのつきあい

 が、現実問題として、そういう(しくみ)そのものが育っていない。
またそういった(しくみ)は、何十年というより、何世代もかけてでき
あがるもの。

 この山荘のある村にしても、それぞれの家が、みな親戚のようなもの。
それぞれの家庭が、「血」でつながっている。
土地にしても、A氏の土地の中にB氏の土地があり、そのB氏の土地の
中にまたA氏の土地があったりする。

もちろんマイナス面もないわけではない。
それぞれの家庭の内情が、筒抜け。
隠しごとができない。
そのためこういうばあい、村の人たちとつきあうときは、最初からすべて
オープンにする。
どう抵抗したところで、勝ち目はない。
あるいは「よそ者」を自称し、距離を置く。

 私のばあい、後者を選んだが、本当は(?)、村の世界に入りたかった。
私は子どものころから、「村」の人たちがもつ暖かさを知っている。
が、いくらこちらがそれを望んでも、村の人たちには村の人たちの考え方
がある。
伝統もある。
ある人はこう言った。
「この400年で、あなたが外から来た最初の人だ。
村の人間と認められるまでには、3代はかかるだろうね」と。
それであきらめた。

●自由

 今、ここまで書いた文章を読みなおしてみた。
雑文もいいところ。
くだらない文章の羅列(られつ。)
たわいもない独り言。
一応、BLOGに載せるつもりで書いた。
しかし今、それを迷っている。
こんな文章を読んで、どうなるのだろう。
読んでくれる人に、申し訳ない。

 が、逆に言うと、こういうことにもなる。
私ほど、マスコミやそういった世界の外にいる人間も珍しい。
だからだれにも遠慮せず、書きたいことが書ける。
たとえば以前、ある宗教団体の機関誌の編集を手伝っていたことがある。
息苦しい世界だった。
言葉の一言一句に、神経を使った。
ちょっとしたミスで、その号すべてが、廃棄処分になったこともある。

 宗教団体だけではない。 
組織がからんでくると、書きたいことも書けなくなる。
たとえばこの日本では、NHKや大手雑誌社の批判は、タブー。
そのとたん、仕事が止まってしまう。
だからそれなりに、みな、シッポを振る。
が、今の私は、自由。
(もともとだれにも相手にされていないこともあるが・・・。ハハハ。)
その自由ぽさを、私の文章の中に感じてもらえば、うれしい。
さて、話を戻す。

●カンパン

 静かな一日だ。
雨戸は閉め切ったまま。
来客もない。
電話もない。
横には、カンパンとお茶の入ったボトルが一本。

 ところでそのカンパン。
こんなにおいしいものとは、知らなかった。
メーカーは、「三立製菓」とある。
本社は、この浜松。
賞味期限は2001年。
それを2010年の今、食べられる。
考えてみれば、これはすごいことだ。
これなら、火星往復旅行にだって、もって行かれる。

フ〜〜ンと感心しながら、またひとつ、口の中に入れる。
が、ほめてばかりいてはいけない。

カンパンは、缶詰になっている。
その缶の表面に絵が描いてある。
その絵が、バグパイプを吹いているスコットランド兵。
どうしてカンパンの缶に、(「乾燥したパン」という意味で、「カンパン」とした
のだろうが)、スコットランド兵なのだろう。
「1985年9月、世界食品ゴールドメダル受賞」という文字が光る。
私なら、そのメダルの写真と文字を、缶全面に表示する。

●歩く

 明日、帰るとき、ひとつやってみたいことがある。
山荘から東名西インターまで、12・5キロ。
そこから家まで、さらに20キロ。
家までは無理としても、12・5キロくらいなら、歩ける。
その距離を、歩いてみたい。
このところ運動不足ぎみ。
自分の体がモタモタしているのが、よくわかる。
体重も、62キロ。
あと1キロは、減らしたい。
やや寒いかなという気候だが、ウォーキングには最適。

 少し前まではサイクリングが、私の健康法のひとつだった。
20代のはじめから、通勤には自転車を使っていた。
そのおかげだと思うが、この年齢になっても、成人病とは無縁。
太もも(大腿筋)の太さも、ふつうの人の2倍はある。
腰もしっかりとしている。

 私の年齢になると腹筋も弱り、寝ている状態から上体を前に起こすことが
できなくなるそうだ。
私には当たり前のようにそれができる。
みなも、できるものとばかり思っていた。
だからある人の前で、それをして見せたら、その人はかなり驚いていた。
「どうして、林さん(=私)はできるのですか?」と聞くから、「たぶん
サイクリングのおかげと思います」と答えた。

 自転車をこぐとき、ハンドルを手前に引きながら、ぐいぐいと腹に力を入れる。
足の力だけでは、自転車は走らない。
そのとき知らず知らずのうちに、腹筋を鍛えていた。

 が、最近は歩くことが多くなった。
とくに私のばあい、何かいやなことがあると、すぐ歩き出す。
ボケ老人の徘徊のようなものではないか。
歩いていると、いやなことを忘れられる。
明日は、それをしてみたい。
つまり西インターまでの12・5キロを歩いてみたい。
時速5キロで歩くとして、2時間半の距離。
何とかなるだろう。

●テレビ

 先ほどテレビのスイッチを入れた。
アンテナが折られていることもあって、映りは悪い。
サルたちが、折った。

 時間帯は午後7時台。
あちこちでバラエティ番組をやっていた。
まさにバカ番組一色。
あるチャンネルでは、ドジな失敗ばかりを集めて放映していた。

雪でスリップした車のところへ、また別の車がスリップして激突。
羊が角を電線にひっかけて、宙に浮いていた。
強盗が偽FBIに化けて住宅に侵入しようとしたが、逆に発砲されて退散などなど。

内容からして、アメリカのテレビ局あたりから仕入れてきたものだろう。
それを12〜5人のタレントたちが、ギャーギャーと騒ぎながら見ている。

 それはそれとして結構おもしろかった。
しかし意味のない情報。
情報の洪水。
ハハハと笑って、それでおしまい。
数日もすれば、思い出すこともなく、そのまま忘れてしまう。
あとはその繰り返し。

 人間もサルと同じと言うべきか、それともサルも人間と同じと言うべきか。
人間は、言葉をもっている。
その言葉を使って、知識を豊富にもっている。
が、それをのぞけば、人間もサルも、それほどちがわない。
バラエティ番組を見ていると、それがよくわかる。

 ・・・話が愚痴ぽくなってきたので、やはり書くのは、ここまで。
これから風呂に入り、明日に備える。
その前に、もう一度、仮眠する。
少し眠い。
2010年10月2日記











(6)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F

特集(子どものやる気論)

【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



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子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



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●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を
意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」と
いう単語に由来する。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よく
みられる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返
報性」という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こ
んなことがあった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K
君は、少し恥ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)


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もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。

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【子どもの中の子ども】

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子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

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●乳幼児の記憶

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子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

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「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。

++++++++++++++++

わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。

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では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

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● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

++++++++++++++++

では、いよいよ核心?

「私」とは何か。
また教育の世界では、「私」をどう考えたら
よいのか。

私は、ひとつの仮説を考えた。

++++++++++++++++

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. 
Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal 
part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)

++++++++++++++++

教育の世界では、表面的な子どもだけを
見て、教育してはいけない。

教師のひとつひとつの行動、言動が、
どのように子どもの中に形成されていくか。
それを観察しながら、教育する。

あるいは反対に、その子どもが、その
子ども自身の中の、どのような「私」に
コントロールされているか、それを
的確に判断しながら、教育する。

それが教育の原点ということになる。

++++++++++++++++

【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have 
found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 
慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 教育の原点)


Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司

●言語能力

 ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ
ることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる
と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適
切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで
きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ
ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの
ではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評
論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer 
Japanese essayist メルツオフ メルツォフ 乳幼児の記憶 視床下部 辺縁系 扁桃核 扁桃
体 カテコールアミン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司


(7)
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●小児てんかん

【オーストラリア在住のMAさん(母親)より】

【MAさんより、はやし浩司へ】

今年4月末、主人の転勤に伴いオーストラリア赴任しました。息子の事でご相談に乗っていた
だきたくよろしくお願いいたします。

>> 主人と私は2度目の駐在(12年前にカナダ)ですが子供達にとってははじめての海外生活
でまずは現地校に慣れるというのが第一目標として生活しておりました。

長男はてんかんをもっており小学1年生よりテグレトールを服用しておりました。にも係らず何
度か発作を起こしたため(発作自体は軽い)テグレトールを彼にとって最大まで増やしその後
マイスタンを追加し現在1日計7錠(テグレトール5錠、マイスタン2錠)を服薬しております。

お陰様で2008年12月に薬を増やしてから発作は止まり現在約2年間、発作なく過ごしておりま
す。

>> 問題は彼の学習面なのですが日本で小児精神の方で診断を受けたところ学習障害がある
ことが分かりました。親からみても3年生になる頃から新しいことを理解するのに時間が掛か
る。今まで学校で習ったことはだいたい理解できたものが家に帰って復習すると分かっていな
い。漢字等の暗記に時間が掛かる。等、気になったため病院で診断を仰ぎました。

>> そこで息子は学習に関して個人的なフォローが必要だとも言われました。それから塾にも
通っていましたが集団でレベルの違う子の中で続けるのも苦痛に感じていたところ赴任も決ま
り、という事で家で私がフォローしてきました。

>> このような経緯でオーストラリアまで参りましたが、今度はやはり日本語補習校で「理解して
いるようで理解していない。」「授業中は至って真面目、がんばっているのにテストができな
い。」とまさにその通りということを言われました。

また現地校でもELLのクラスで、「文法を教えてもとても混乱しているよう、理解できていない。」
といわれました。双方に主人と共に面談し今後の息子の対処法、目標達成のレベルを落とし
てもらうことをお願いしました。

>> 最近では本人も「やっているのにできない。」という事を認識し始めフラストレーションの中で
勉強しなくてはならないことに一緒に見ている私たちもとてもかわいそうだと感じ、同時に疲れ
てしまいました。

>> 息子はとても活発、オーストラリアに来ても友達が沢山でき言葉もままならないのにきちん
と遊ぶ約束もしてくる、また友達の家にも遊びに行ける、現地校の先生からはとても礼儀正しく
真面目に物事に取り組める、と言われます。

現地でフォットボールチームにも入り本当に楽しそうに練習しています。日本人一人でも全く問
題なく溶け込んでいることにとても頼もしく見えます。遊びに関しては好奇心も旺盛です。

>> ただ新しいこと(学習について)を理解するまで時間が掛かるためどうしてこんなことが分か
らないのだろう、と思ってしまうのです。これは学習障害だから仕方がない、という事も最近は
私も受け入れられるようになりましたがついつい私も主人もヒートアップしついには家族で喧嘩
になります。そのたび反省、先生のHPを拝見しこれではいけない、そして次はこうしよう、と心
に決め息子と共にまたやり直したい、と思う日々です。

主人はとても温厚で子煩悩、どうにか息子を助けたい一心でよく学習の面倒も見てくれます。
補習校の宿題も多くはじめは何とかこなしましたが今は量より問題を理解させようと色々な手
を使って説明したりしています。ただ息子自身やる気をなくしているため殆ど効果がありませ
ん。そのとき理解したように見えても次の日にはできません。みんな空回りしている感じです。


>> 今は現地校をメインに生活をしていくよう考えております。赴任は約4年間の予定です。今
後どのように息子を育て、教育していったらよいか何かアドバイスいただけたら幸いです。次男
とはとても仲がよく、同じレベルで遊んでいます。次男は普通に学習し、理解できるタイプです。

我々夫婦も長男は小学生に上がるまでこのようなタイプだと思って育ててきました。言葉も遅
いことはなくむしろよく筋道たて話していました。それがてんかんだと分かり、薬を服用するよう
になってから崖から転がるように分からなくなってきたことに親の方が焦っているところがあり
ます。今後薬をやめたら少しは聡明に物事を考えることができるようになるかと、そのときのた
めに少しでも今できることをやってあげたいと思っているのが私たちの気持ちですがこれが彼
にとって重い負担にもなってることも分かっております。

>> 長文、失礼いたしました。どうにか息子を助ける手立てはないか、私たち親として何をして
やったら将来のためになるのか、お力を貸していただきたく存じます。
>> どうぞよろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、MAさんへ】

 知人のRAさんが、同じような悩みをかかえ、それを克服しています。
RAさんに相談したら、以下のような手紙が届きました。
参考にしてください。

(字が小さくて、よみづらいときは、画面上でダブルクリック(左クリック)してみてください。
画面が大きくなったら、上部の「NEWER」をクリックしてくだされば、つづけてお読みいただけま
す。)
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 以上ですが、何かの参考になれば、うれしいです。
ていねいな返事をくれた、RAさん、ありがとうございました。

はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 小児てんかん はやし浩司 2010−10−24)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司


【MAさんより、はやし浩司へ】


はやし先生、RA様
 
はやし先生からのメール、RA様からのお手紙を拝見させていただきました。
このたび初めて相談させていただいたのにもかかわらずご丁寧なお手紙を頂きまして感謝の
気持ちでいっぱいです。
有難うございました。
 
RA様からのお手紙を何度も何度も読ませていただきました。
私は長男の病気を治すことが第一ということを忘れておりました。
なんとも情けないことです。
 
オーストラリアに来てまずはこの生活になじむこと、子供達が楽しく過ごすことを目標に来まし
たが
現地校、補習校に通い始めれば私は あれもこれもやらなくてはいけないことを全部息子にや
らせてきました。
そのうち自分もアップアップになってしまい、息子もパニック、当たり前のことでした。
やっているのにできない、学校からは「分かっていない。」と言われる。すべて悪循環・・・
なにからどう手をつけていかわからなくなってしまいました。
 
そこではやし先生のHPにたどり着き、それこそ何日もかけて読ませていただき、you tube も
拝見させていただきました。(今でも毎日見て勉強です。)
自分がこの何ヶ月間 子供にとってよいと思ってやってきたことは彼にとってとても負担なこと
でした。
それに気づかせていただいたはやし先生に心から感謝申し上げます。
また同じようなお子様をお持ちになるRA様が「怒らないこと」 を心がけていらっしゃること、基
本中の基本を
忘れておりました。
どうにか自分を変えていきたいです。
 
この海外の生活において日本語も英語も上手くキープすることは大変なことです。
主人とも何度も話し合いますが 今はどうにか英語で生活できるようサポートしていきたいと思
います。
息子達は普段遊ぶのは全てオーストラリア人、補習校にいって日本人の友だちと会うのが週
一の楽しみ、と言って来ている日本人が殆どのようですが うちは全く逆になってしまっていま
す。
土曜日に補習校に行っても「早く帰って友だちと遊びたい!」と言っております。
そして土・日とも補習校の宿題で終ってしまい(恐ろしいほどの宿題が出ます。)何のための週
末か・・・
と思うほど面白くない週末を2ヶ月ほど送っていました。しかしもうこんな週末の過ごし方もやめ
ました。
 
せっかくオーストラリアに住んでいるんだから、と色々なことを体験させ、色々な人に出会わせ
そういう機会を作ってあげるのが親の役目かな、と思っております。
 
自分の子ができないはずはない、勉強ができなければダメ・・・
とお恥ずかしながらこう思っていました。
学習障害だってやればできる。。。と。諦めきれず息子に全負担をかけていました。
息子に対して申し訳ない気持ちです。
 
幸い息子は本当に友だちと遊ぶことに関しては好奇心旺盛、「勉強しなさい」といわれるまでは
ずっと笑っていられる、食事中でも兄弟で笑いすぎてご飯が進まないほど笑ってます。
なにがそんなにおかしいのか、と思うほどです。
先生の仰るようにどうか笑いながら伸びていく部分を伸ばしてやりたい、と
遅ればせながら思います。
またRAさんが仰るように息子の自主性を大事にしていこうと思います。
 
これからはどうにか息子の薬がなくなるまで温かい目で見守っていきたいと思います。
今私たちにできることはこれだけだと思いました。
 
海外にいてインターネットでこのように私自身も育児について勉強できることに感謝します。
はやし先生、RA様 このたびは本当にどうもありがとうございました。
 
xxxより   シドニー オーストラリア







(8)
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●親の前で固まる子ども

今週は2つの経験をした。
その子どもに問題があるというのではない。
子どものプライバシーを暴露するというのでもない。
こういうことはよくある。
あるから、あえて公表する。
つまり親がそばにいると、固まってしまう子どもである。
そういう子どもが、実際にはいる。
10人に1人(幼児園児〜小学低学年児)はいる。
程度の差もあるが、症状が軽い子どもも含めると、もっと多い。
言い換えると、親をまったく気にしない子どものほうが少ないかもしれない。

【A子さん(年中児)のケース】

 母親が参観しているだけで、元気がない。
覇気もない。
暗く沈んだまま、憂うつそうな表情をしている。
みながはしゃぐときも、チラチラと視線を母親のほうに送る。
そのまま黙ってしまう。

 そういうA子さんを見て、母親はそれ以上に暗い表情をして見せる。
私も当初は、A子さんというのは、そういう子どもと思っていた。
が、ある日のこと。
何かの用事があって、母親がレッスンを参観できないと言った。
母親はどこか心配そうだった。
「ひとりでだいじょうぶでしょうか?」と。
私も自信がなかった。
「たぶん、だいじょうぶですよ」とだけ答えた。

 A子さんは下の子ども(妹)が生まれてから、軽い赤ちゃん返りに
よる症状も見られた。
親の姿が見えなくなるだけで、ギャーッと泣き叫んで、あとを
追いかける子どももいる。
その心配があった。

 が、その日のA子さんは、見違えるほど、明るかった。
表情も生き生きとしていた。
みなが笑うときも、いっしょになって、大声で笑った。
ゲラゲラと笑った。
私はほっとした。

【B君(小2)のケース】

 その日は休日レッスンだった。
いつもは母親が参観に来ていた。
が、その日は、父親が参観に来た。
母親は妹を連れて、外で待っていた。
そのときのこと。

 B君は、最初からコチンコチンに固まっていた。
緊張感に包まれているといったふうだった。
なめらかな動作も、いつもの笑顔もなかった。
レッスンを進めていった。
が、途中で何かのことで、B君がつまずいた。
私はいつものように、隣の子どもに順を回した。
とたん、B君が大粒の涙をこぼした。
声は出さなかった。
それを見て、助手役をしているワイフに視線を送ると、
ワイフがすぐB君の横に座った。
いろいろ慰めた。
が、それからもB君はかたまったままだった。

 あとで母親と話す機会があった。
母親はこう言った。
「きっと父親にいいところを見せようと、緊張したのね」と。

●視線

 視線には、人を刺す力がある。
今でこそ慣れたが、若いときは私もその視線に苦しんだ。
レッスンの間中、母親たちの視線が容赦なく、私の体を貫いた。
子どもたちを教えていて疲れるということはなかった。
親の視線に、疲れた。

 中には、ものすごい視線の母親もいた。
いくら笑顔を作っていても、視線は別。
それが映画『スターウォーズ』の中に出てくるような光線銃のように、
ズキ〜ン、ズキ〜ンと私の心を貫いた。

 教えにくかった。
それだけではない。
そういう母親が1人でもいると、クラスの雰囲気そのものが変わってしまう。
ほかの父母たちまで、(当時はほとんど、母親たちだったが)、緊張して
しまう。
さらに2〜3か月ならともかくも、それが半年もつづいたりすると、
その緊張感に耐え切れず、教室をやめていく母親もいた。

 私もそのクラスになるたびに、重い気持ちに包まれた。

●親子のリズム

 原因は親と子の不協和音ということになる。
親子のリズムが合っていない。
さらにその原因はというと、親の過干渉、過関心がある。
子どもへの不信感、子育てへの不安感が、形を変えて、過干渉や過関心へと
つながっていく。

 親を責めているのではない。
長男、長女というのは、そういうもの。
はじめての子どもということで、親も神経質になりやすい。
最初は小さな亀裂。
それが年を追うごとに、大きくなる。
親は子どもの一挙手一動が気になる。
子どもはそうした視線を、そのつど気にする。

●母因性萎縮児
 
 どこかの評論家が、先に「母原性」という言葉を使った。
だから私は「母因性」という。
意味は同じ。
つまり母親が原因で、(もちろん父親というケースもあるが)、子どもが
萎縮してしまうというケースは多い。
中には、まったく別人のように変化する子どももいる。

 以前にも書いたが、ある医院でこんな少年(中学生)に出会ったことがある。
その少年は毎週、何かの薬を取りにやってくる。
母親がいないときは、看護士さんと冗談を言い合うほど、快活な
少年である。
が、母親がそばにいるときは、まったくの別人。
毎回、薬の数を窓口で確認するのだが、母親がいると薬の数すら数えない。
もじもじいているだけ。
それを見て母親が、せかす。
「早くしなさい!」
「ちゃんと数えなさい!」と。

●あくまでも一面

 だから・・・というわけでもないが、子どもの姿を見たとしても、
それが子どものすべてと思ってはいけない。
ある一面にすぎない。
ここに書いたAさん、B君、それに病院で見かけた少年にしても、それぞれ
別の世界では別の顔をもっている。

 もちろんその反対のケースもある。
親の前ではおとなしく、従順。
プラス優等生。
しかし外の世界では、陰湿ないじめを繰り返したりする、など。
ある中学生(男子)は、祭のとき酒を飲んで、補導された。
親は「うちの子は、友だちにそそのかされただけ」と言い張っていたが、
あとで調べみたら、その子どもが主犯格だった・・・というようなケースも
多い。

●では、どうするか

 この世界には「好意の返報性」という言葉がある。
英語では、『相手はあなたが相手を思うように、あなたのことを思う』という。

子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を信じてくれる
人の前では、自分のよい面を見せようとする。
そういう性質を利用して、子どもを伸ばす。

 私もどんなにその子どもに問題があったとしても、初対面のときに、
それを打ち消すようにしている。
「この子はいい子」「すばらしい子」と、思いなおすようにしている。
そうすることで、まず自分の心をだます。
作り変える。

 こうすることによって、子どもの表情も明るくなるが、同時に教えるの
も楽しくなる。
子どもを教えるときの第一の鉄則。
それは教える側も、楽しむ。
その楽しさの中に、子どもを巻き込んでいく。

●終わりに・・・

 A子さんは、このあとしばらくして、私の教室を去っていった。
B君は、幸いにも母親がそれを理解してくれて、明るく笑い飛ばしてくれた。
病院で出会ったその少年については、こんなエピソードがある。

 たまたまワイフがその医院にいたときのこと。
少年の母親もそのとき、そこにいた。
その母親に向かって、医院の医師がこう言って怒鳴っていたという。

「お母さん、あなたが横でごちゃごちゃ言ったら、息子さんは何も
言えないでしょ。少し黙っていなさい!」と。

 その話を聞いて、私も「その通り」と思った。
またそういう言葉も、医師だからこそ言える。
立場が強い。
私の世界では、親がそれに自分で気づくまで、じっと待っているしかない。
いつか親のほうから質問があったとき、それとなくその話をする。

 もちろんこの原稿を読んでくれた、あなたは別。
一度、この原稿をヒントに、あなたの子どもはどうか反省してみてほしい。

●付記

 この世界では、「うちの子のことは、私がいちばんよく知っている」と豪語
する親ほど、自分の子どものことを知らない。
とくに過干渉ママと言われる親ほどそうで、子どもの心まで勝手に作って
しまう。

私、子どもに向かって、「夏休みにどこかへ行ってきた?」
母親、会話に割り込んできて、「・・・行ったでしょ。おじいちゃんの家に
行ったでしょ!」
私、再び子どもに向かって、「そう、それはよかったね。楽しかった?」
母親、再び会話に割り込んできて、「・・・楽しかったでしょ。だったら
どうして楽しかったと言わないの! ちゃんと言いなさい!」
私、「・・・」と。

 こういうケースは、多い。
日本人のばあい、とくに多い。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 親の前で固まる子ども 母因性萎縮児 母原性萎縮児 親の視線 過
干渉児 過関心児 親の過干渉)




(9)
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【心の豊かさについて】

 満60歳という年齢は、本当に不愉快な年齢である。いくら「私はそうでない!」とが
んばっても、周囲の人たちは、年齢で私を見る。知的能力や運動能力では、ない。年齢で
見る。健康度もそうだ。「60歳の人は、こうだから……」という見方でしか、見てくれな
い。

 しかし私は、ひとりそれに抵抗している。近くに、60歳以上は、〜〜円引という理髪
店がある。しかし私は、60歳になっても、ぜったいに、そういうサービスを利用しない。
今から心に決めている。

 「だれが、自分から、ジジイになってやるか!」と。

 その60歳になると、貧困感がどっと押し寄せてくる。先日、80歳をすぎた女性につ
いて書いた。その女性は、郵便局だけでも、1000万円の貯金と、1000万円の
国債をもっていた。さらに手にした年金の100万円をどうしようかと、困っていた。

 実のところ、そういう女性の気持ちを理解できないわけではない。その女性は、ひょっ
としたら、「信じられるのはお金だけ」と、考えているのかもしれない。必死になって、お
金にしがみついているのかもしれない。私とて、油断をすれば、いつそうなるかわからな
い。すでにその傾向が、見え始めている(?)。

 「心の豊かさとは何か」「知恵の豊かさとは何か」、今日はこれをテーマに、一日、考え
てみたい。

++++++++++++++++++

心の豊かさで、自分の原稿を検索
してみたら、いくつかをヒットしま
した。

それらを紹介します。

++++++++++++++++++

●心の豊かさvs心の貧しさ

 K府に住んでいる、Rさん(女性)から、こんなメールが、届いた。題して、「悲しき笑
い話」。

 「私の母は、今年、82歳になります。頭もしっかりしています。が、昔から、異常な
までに虚栄心が強く、見栄を張ります。

 収入は、わずかな年金だけ。あとは私の兄が、毎月、いくらかの小遣いを送ってくれる
ので、それで生活をしています。

 たとえばサイフの中には、いつも、10万円近いお金を入れて歩いています。スーパー
でお金を払うときも、わざとそのお金が、店員さんに見えるようにして払うのです。で、
私が「そんな人にまで、見栄を張ることはないでしょう」と言うのですが、私の言うこと
など、まったく聞いてくれません。

 が、ときどき、お金が少なくなるときもあるようです。そういうときは、一番上と、一
番下に、1万円札を置き、中に1000円札を、10枚くらいはさんで、あたかも、お金
があるように見せかけます。

 そういう母を見ていると、ときどき、『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきた
んだろう』と、娘として、さみしくなります」(以上、要約)と。

 見栄を張る人は多い。しかもそれが人生観の基本になっているから、始末が悪い。また
人生の途中でそれに気がついて、改めるということもしない。だから80歳をすぎても、
そのまま。

 が、この年代の人には、こういったタイプの人が多い。見かけはともかくも、心は貧し
い。貧乏な人の家にやってきて、ことさら金持ちであることを、吹聴してみせる。そして
相手に対して、優越感を覚え、それを楽しむ。

 そう言えば、バブル経済のこと、東南アジアの貧しい国々へでかけていって、札や、コ
インをバラまいていた日本人がいた。やはり、心の貧しい人たちである。体中に、キンキ
ラキンの宝飾をぶらさげ、ブランド品で身を包んで、得意になっている人たちもそうだ。

 話はそれたが、それたついでに、もうひとつ。

 よく東南アジアやアフリカへでかけていって、その国や、その国の人々を紹介するテレ
ビ番組がある。そういう番組の中で、レポーターが、相手の国の貧しさや不便さに、こと
さら驚いてみせたりすることがある。場違いな服装に、派手な装飾品。いかにも、リッチ
な、日本からやってきましたというふうな様子をしてみせる。

 そのレポーターの心が貧しいというよりは、日本人全体の心が、まだそのレベルにある
と考えてよい。

 相手の人が貧しい生活をしていたら、その貧しさに、自分を合わせる。合わせた生活を
する。相手がどういう感情をもつかを、相手の立場で思いやる。相手が、あなたに対して、
羨望(せんぼう)を覚えたとしたら、それはあなたの責任。決して、自分たちの優越性を
見せつけてはいけない。それがその国の人たちに対する、礼儀と言うもの。

 さて、冒頭の女性の話にもどる。Rさんの母親は、たいへん心の貧しい人と考えてよい。
あるいは心の豊さというものがどういうものか、わかっていない。Rさん自身が言ってい
るように、『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』ということになる。

 で、そうならないための、いくつかの教訓を考えてみた。

(5)あるがままの自分をさらけ出して、生きる。
(6)「私は私」をつらぬき、他人の目を気にしない。
(7)心の豊かさを追求し、世間体、見栄、体裁を気にしない。
(8)いつも、ともに(生きている)という原点において、自分を見つめる。

 が、油断すると、ふと見栄を張ることがある。自分が自分でなくなるときがある。自分
の中に潜むそういう邪悪性を知るための、一番、手っ取り早い方法としては、あなたの周
辺にいる人の中から、そういう人をさがすというのがある。その人の愚かさを、しっかり
と認識する。あなたのまわりにも、必ず、1人や2人はいるはず。

 そういう人を反面教師として、自分を高めるために、利用する。その人には悪いが、そ
の人の愚かさがわかったら、それを自分の生きザマの中に、生かしていく。

【補足】

 相手に羨望感をもたせて(=うらやましがらせて)、優越感にひたるというのは、愚劣な
人間だけがなしうる、軽率な行為である。

 金持ちであることを、見せびらかしたり、得意になったりする。昔、私の近所にも、そ
ういう男がいた。和服の呉服店を経営していて、ことあるごとに、「今日は、x10万円、
もうけたよ」「これで今月は、x100万円だ」と言っていた。

 「オレは、それだけ力のある男だ」と言いたかったのだろうが、私には、ただのノーブ
レイン(=おバカ)にしか見えなかった。

 玄関中に、高価な、鎧やトラの皮を飾っている人もいた。借金だらけなのに、外車を乗
り回している人もいた。根底に、何か、大きな劣等感がある人ほど、そういう行為に走り
やすい。つまりは、「私」がないから、そうする。

 20代や30代の若い人ならともかくも、50代、60代になっても、「私」がつかめき
れていない人というのは、それだけで、人生の敗北者(失礼!)と考えてよいのでは……? 
こう言いきるのは危険なことかもしれないが、今の私は、そう思う。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ケチな人

++++++++++++++++++

ケチと質素とは、ちがう。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を
使わない。

質素な人は、無用、無駄な、お金は使わない。
それをよくわきまえている。

++++++++++++++++++

 世の中には、「ケチ」と呼ばれる人は、ゴマンといる。長男、長女に多いのは、それだけ
生活が防衛的であることによる。わかりやすくいえば、下の子が生まれたことにより、乳
幼児期の愛情飢餓が、嫉妬(しっと)へと変化し、その嫉妬が、防衛的な生活態度に結び
ついたと考えるとわかりやすい。

 長男、長女ほど、「ぼくのもの」「私のもの」という意識が、強い。つまりそれだけ、心
の許容範囲が狭いということになる。

 私の兄なども、(今は、ボケてしまって、どうしようもないが)、若いころでも、私が買
ってやったステレオセットにすら、私にさわらせなかった。私は、私が買ってやったのだ
から、「私のもの」と考えた。しかし兄には、そうではなかった。

 そのときは、そういう長男、長女のもつ心理を、理解することができなかった。(今は、
できるが……。)

 こういうのを、「ケチ」という。

 で、以前、コンドームを、洗って、再使用している夫婦のことを書いた。ふつう(?)、
コンドームというのは、再使用しない。「質素」というふうにも、考えられなくはないが、
しかしその夫婦のばあいは、ほかの面でも、異常なほど、ケチだった。

 たとえば夫婦の兄弟たちと飲み食いしたときでも、「私は兄だ」という、家父長意識ばか
りがやたらと強く、自分で、お金を出したことがないという。出しても、10円単位まで
の割り勘。弟のほうが見るにみかねて、「まあ、いいから……」と言って、全額払うことが
多かったという。

 ほかに、衣服でも、破れて使い物にならなくても、きちんとタンスに入れてしまってい
たとか、など。

 ケチと質素は、どこがどうちがうか。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を使わない。質素な人は、無用、無駄なお金は使
わない。それをよくわきまえている。が、もう少し踏みこんで考えてみると、こうなる。

 物欲に毒され、お金やモノに執着する人を、「ケチ」という。物欲とは関係なく、心の豊
かさを優先して考える人を、「質素」という。

 このことは、金持ちでありながら、ケチな人と、金持ちでありながら、質素な人を見比
べてみると、よくわかる。

 まず、金持ちでありながら、ケチな人……妻や子どもの必要経費にすら、お金を出し渋
る。兄弟や姉妹、親類に対しはなおさらで、実際には、1円も払わない。毎日札束か預金
通帳をながめて暮らしている。

 金持ちでありながら、質素な人……人生を、余裕をもって楽しんでいる。以前、この
浜松市でも、1、2番の長者番付に入るような人の子ども(姉妹)を、2人、教えたこと
がある。で、私は、その子どもたちの持ち物を見て、驚いた。

 何と、子どもたちのもっている手提げバッグは、母親の手作りだった。しかも、バッグ
には、家からBW(私の教室)までの地図が縫いこんであった。そういうのを、「質素」と
いう。

 しかし長い人生を通してみると、ケチは、一生、ケチ。その結果、失うものも、多い。(本
人は、死ぬまで、それに気づかないだろうが……。)殺伐とした人間性は、それだけで人を
遠ざける。物欲に固執する姿は、だれが見ても、見苦しい。心に余裕がないから、つまり、
自分の利益になることしか考えていないから、話していても、つまらない。

 が、それ以上に、人生の(真理)そのものから、遠ざかる。言い換えると、人は損をす
ることで、大きくなれる。損をすることに寛大になることで、心を豊かにすることができ
る。よい例が、ボランティア活動である。

 あのボランティア活動を、進んでする人たちを見ればよい。みな、生き生きと、明るい。
あの明るさこそが、ここでいう心の豊かさということになる。

 ケチは、心の大敵と考えてよい。



+++++++++++++++++

もう1作、5年間に書いた原稿です。

+++++++++++++++++

●無用の長物

 今から二〇年ほど前のこと。一台の大型トラックが、わが家の前に止まった。何かと思
ってみると、「座卓はいらないか?」と。「四国から来た」という。

案内されるまま荷台を見ると、原木を切り出したままの座卓。その中でも、とくに目立っ
たのが、トチの木をそのまま削ったもの。トラの模様のようになっていて、それが両端を
飾っていた。厚さは一五センチもあった。「樹齢、五〇〇年です」と言った。

 値段を聞くと、「四〇万円でいい」と。「貯金しておくより、財産になる」とも。そこで
どういうわけか、その座卓を買ってしまった。が、それから二〇年。そのテーブルは、わ
が家の居間にデーンと居座ることになった。が、大きいだけで、使いものにならない。そ
れに重い。二〇〇キロ以上はあるのでは。三〇〇キロはあるかも?

 この間、「何とかしよう」「何とかしなければ」と、ずっと思ってきた。今も思っている。
しかし無用の長物とは、そういう座卓をいう。テーブルといいながら、実際には、物置台。
今はパソコンと、プリンターがその上にのっている。売るにしても、売り先がない。こう
いう時代だから、買ってくれる人もいないだろう。

 そこで考えた。その座卓は、たしかに無用の長物だが、わが家には、同じような無用の
長物が、ゴロゴロしている。一、二度使っただけで、あとは倉庫や物置にしまわれている
のだけでも、かなりある。たとえばテントやバーベーキューセットなど。

そう言えば、当時の私は、毎週のようにいろいろなモノを買いこんでいた。近くに大型の
雑貨点があったこともある。少し不便を感ずると、モノを買い足すという生活がつづいた。
そのテーブルもそんなときに買った。

 その反動というわけでもないが、私は山荘のほうでは、ほとんどモノを買っていない。
どの部屋もガランとしている。不便を感ずることも多いが、その不便さが、これまた楽し
い。いや、それ以上に、広々とした空間は、それだけで気持ちがよい。どういうわけだか、
解放感がある。どこかの旅館へ行ったような気分になる。

 そこで私はさらに考えた。モノというのは、人間の豊かさとは関係ないのでは、と。少
なくとも、心の豊かさとは関係がない? さらにモノがあれば、本当に生活は便利になる
のか、とも。もちろん生活に必要なモノは、多い。それはそれだが、それを離れたモノは、
どうなのか? 

たとえばざっと見回してみても、この部屋の中には、大きな食堂テーブルがある。イスは、
六脚もある。家族は五人なので、最大でも五脚でよいはず。しかもめったに六脚も使うこ
とはない。
それに冒頭で書いた、無用の長物。テレビのまわりには、大型スピーカーだけでも、四個
も並んでいる。……などなど。こうしたものがなければ、この部屋は、もっと広々と使え
るはず。全体で、一六畳の広さがある。

 もっともそれに気づいてからは、ほとんどモノを買っていない。とくにあの座卓を買っ
てからは、買っていない。そうして考えてみると、無用の長物と嫌っている座卓だが、ひ
とつだけ役にたっていることがわかった。それは、その座卓を買ったことを後悔したこと。
そしてその後悔が、その後、ムダなモノを買う、大きなブレーキになったこと。何かを買
おうとするたびに、私の頭に、その座卓が思い浮かんだ。そして、「ムダになるから買うの
をやめよう」と。

 ……とまあ、今は、そういうふうに自分をなぐさめながら、その座卓をとらえている。
(以上2002−12−28記)

●テーブルを買ってくれる人はいませんか? 大きな料亭でも使えるような立派なテーブ
ルです。ホント!
●欲望を限定することのほうが、それを満たすことよりも、はるかに誇りに足ることである。
(メレ「格言」)(メレ……1610−84、フランスのモラリスト)



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