●自尊感情(子どもに自信をつけさせる)
+++++++++++++++++++++++++++++++++
『日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9. 4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思 いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な 回答をしていた』(以上、毎日新聞の記事より・08・11・26)。
数字をもう一度、整理してみる。
「私は自分に大体満足している」と答えたのは、
アメリカ……53.5%
中国 ……24.3%
日本 …… 9.4%
「自分には、よいところがあると思いますか」という質問に対して、否定的な回答を
したのは、
都内の小学6年生……29.4%、
中学3年生 ……39.6%
++++++++++++++++++++++++++++++++
東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てない子どもの自尊感情を高める指導方
法について研究を始める方針を固めたという(毎日新聞※)。
しかしどうして今ごろ?、というのが、私の率直な感想。
つまりどうして今ごろ、「研究を始めるのか?」と。
こんなことは発達心理学を少しでも勉強してことがある人なら、みな、知っている。
つまり常識。
「自己の同一性」(アイデンティティ)という言葉を知らない人は、ない。
自尊感情にしても、やる気にしても、すべてこの自己の同一性で、決まる。
その自己の同一性について、
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●自己概念
「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。
この自己概念は、正確であればあるほどよい。
しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。
一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。
こんなことがあった。
ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。
「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。
つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。
事実、その通りだから、反論のしようがない。
で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。
ここで自己概念という言葉が、出てくる。
私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。
しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして その意識の違いがわかったから、私も笑った。
みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。
……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて いく必要があるということ。
その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。
その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。
(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。
しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。
たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し 訓練すれば、だれにでもできるようになる。
もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。
あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な ことである。
ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●自分を知る
自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。
同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。
この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。
(他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交 際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。
問題は、ここでいう(盲点)である。
しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)
このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。
幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。
しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。
が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。
その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ の子どももいる。
そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。
子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているいるということを、親自身が気がつい
ていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないと きは、指導のし方そのものが、ない。
親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき るようにしてほしい」と言う。
こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。
言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。
自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ ろうか。
(注※)
(自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。
そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、 ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。
が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。
一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になる人さえいる。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【私らしく生きるために……】
●不適応障害
「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実
際には、少ないのでは……。
+++++++++++++++++
「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」とい
う。
しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像
とは、ほど遠い。そういうことはよくある。
その現実の自分を、「現実自己」という。
この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信する
ことができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなけれ ば、そうでない。
不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。
心の状態も、きわめて不安定になる。
++++++++++++++++++
Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、そ
の地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。
が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。
ここでAさんの夢は、大きく崩れた。
Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つ
まり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になっ た。
良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。
毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。
……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。
(こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくか
みあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。
しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適
応症状が現れる。
不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささ
いなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。
私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進
学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していた のだが、それが、文学部へ。大転身である!
その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならなな
かった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。
……ということで、典型的な例で、考えてみよう。
Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。
夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。
が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だっ
た。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の 三者面談が、始まった。
最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。
「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばって いるつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。
それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、
Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。
(夜遊び)→(外泊)→(家出)と。
中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こう
なると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱 られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。
このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自
分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。 ともかくも、食い違ってしまった。
ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。
「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいと
は思ってくれない。
「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定す
るCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。
こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて
言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。
一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。
当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親です
ら、Cさんには何も言えない状態だという。
日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いか
えると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自 分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。
得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心を
バラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていく ということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。
具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくてい
い」という育て方をいう。
子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。
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「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければなら
ない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければな らない。
簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見
つけ、その目標に向って、進んでいくということ。
子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望に
そって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)
(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
この日本には、子どもたちに用意された道が、一本しかないということ。
すべての問題の根源はここにある。
一人の人間が、子どもからおとなになる過程において、子ども自身が選べる
道が、もっとたくさんあってもよいのではないか。
たとえばドイツやイタリアでは、中学生たちはたいてい午前中だけで授業を
終え、それぞれがみな、クラブに通っている。
その費用は、(チャイルド・マネー)として、国から支給されている(ドイツ)。
東京都教育委員会は、「脳科学の専門家と連携して」、その方法を探るという。
すごいことだと思うが、これは脳科学の問題ではない。
制度の問題である。
今の制度では、(ものを考えない、従順な子ども)のみが、受験競争を勝ち抜く
ことができる。
その異常さに、まずみなが先に気がついたらよい。
(注※)(以下、毎日新聞の記事より)東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てな
い子どもの自尊感情を高める指導方法について研究を始める方針を固めた。日本の子どもは 最近の学力テストや国際調査で自己肯定感が低いことが分かっている。いじめや不登校など 教育問題の根底にも子どもの自尊心が少ない点があるともみられ、向上策の開発に着手す る。
都教委の計画では、都教職員研修センター(文京区)と大学が共同研究を進める。脳科学な
どの専門家と連携し、子どもにどのような働きかけをすれば自尊感情が高まるかを探る。さら に小学校1校を研究協力校に指定し、児童の意識調査を行い、指導方法を実証する。事業費 として400万円を要求している。
日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9. 4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思 いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な 回答をしていた。
都教委の担当者は「子どもに自信が育つ核心の部分をできるだけ解明し、いろいろな手立て
で働きかけられるようにしていきたい」と話している(以上、毎日新聞の記事より)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自尊感情 やる気 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子どもに自信をつけさせる)
●「父子論」byはやし浩司自由と孤独(父親の存在とは?)
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昨日も介護に疲れた息子(50代)が、
父親(80代)を殺すという事件が起きた。
痛ましい事件である。
こういう事件を見聞きすると、介護の経験の
ない人は、「どうして?」と首をかしげる。
私もそうだったし、今のあなたもそうかも
しれない。
しかし「介護」のもつ重圧感には、相当な
ものがある。
それはいつ晴れるともなく綿々とつづく、
曇り空のようなもの。
被介護者との間に良好な人間関係があれば、
まだ救われる。
が、それがないと、「介護」はとたん、巨大な
重石となって、あなたを押しつぶす。
それはそれとして、つまり介護の問題は別として、
息子が父親を殺した。
ここに焦点を当てて、今朝は、父親と
子ども(息子や娘)、つまり「父子論」について
考えてみたい。
++++++++++++++++++
●自己評価力
ほとんどの人は、「私はふつう以上の、ふつうの人間」と思っている。
少なくとも、平均以上の人間と思っている。
自分のことを客観的、かつ正確に知る人は少ない。
さらに、ほとんどの親は、「私はふつう以上の、ふつうの親」と思っている。
ここでは親といっても、「父親」に的をしぼって考えてみる。
つまりこと、父親に関して言うなら、少なくとも、平均以上の父親と思っている。
自分のことを客観的、かつ正確に知る人は少ない。
が、まわりの人たちは、あなたを「ふつうの人」とは思っていない。
あなたの子どもたちは、あなたを「ふつうの父親」とは思っていない。
このことはいろいろな調査結果を見ても、わかる。
以前「断絶」という題で、それについて書いたことがある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●断絶とは
「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないな
どがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、
わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になる
と、家族がその機能を果たさなくなる。
親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即
発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親
で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こうい
う状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子ども
はそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。
しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認め
あわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は5
5%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青
少年白書』平成10年)。
もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論した
り、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ
親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の
何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまれば
そのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、
今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。
日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。た
とえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家
族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入っ
てくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。
価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきでは
ないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の
大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあ
い、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべ
てマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えては
いけない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●79%!
この原稿の中で、とくに注意してほしいところは、つぎ。
……「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成
10年)……。
あなたはこの「55%」「79%」という数字をどう読むだろうか。
さらに一言、付け加えるなら、この中には、「父親を軽蔑している」という調査項目がなか
ったのは、なぜか?
言うまでもなく、総理府(現在の内閣府)の調査では、そこまではできなかった。
つまり「父親を尊敬していない」の中には、当然、「父親を軽蔑している」という子どもも、
多数含まれる。
さらに言えば、100−79=21%の子どもが、「父親を尊敬している」という
ことにはならない。
「何とも思っていない」という子どもが、大半と推定される。
つまり父親の存在感は、きわめて薄い。
父親の立場は、きわめて弱い。
しかしほとんどの親(父親)は、「私はだいじょうぶ」と高をくくっている。
つまり自己評価力は、その分だけ、きあめて低い。
そこで私は、この数字を、逆にこう読む。
「父親というのは、そういうもの」と。
あのフロイトも、「血統空想」という言葉を使って、それを説明している。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●父親・ヨセフ
●今朝・あれこれ(2007年11月19日)
++++++++++++++
昨夜、どこか風邪っぽかった。
が、外食。大きな店だったが、
暖房があまりきいていなかった。
肉料理を久しぶりに食べたが、
家に帰ると、悪寒。薬をのんで、
そのまま就寝。
ところで、この土日に、2本の
DVDを見た。
『敬愛なるベートーベン』と、
『ドレスデン』。ともに、すばらしい
映画だった。
学生のころは、毎年、第九交響曲を
歌っていた。映画を見ながら、
いっしょに合唱。涙、ポロポロ。
『敬愛なるベートーベン』は、
星は4つの、★★★★。
もう1本の『ドレスデン』も、
星は4つの、★★★★。2時間半もの
大作なので、じっくりと構えて見るの
がよい。
ドイツも、このところ、すばらしい
映画を制作するようになった。
CGも、ハリウッド映画に追いついた
という感じ。
よかった! 感動した!
ほんとうは、どれも星は5つかも
しれない。乱発すると価値が
さがるので、あえて、星は、
4つにした。
++++++++++++++
●ヨセフ
今度、キリストの父親のヨセフをテーマにした映画が、劇場で公開されるという。公開されしだ
い、ワイフと見に行くつもり。ワイフは、たいへん楽しみにしている。
チラシには、こうある。
「あの日、ヨセフがマリアを信じなければ、あの時、ふたりが大王による虐殺から逃れえなけ
れば、キリストは誕生しなかっった」と。
キリスト教会の中には、「聖ヨセフ教会」というのもあるが、全体としてみると、父、ヨセフの影
は薄い。マリア像をかかげる教会は多いが、ヨセフ像をかかげる教会は、ほとんど、ない。
私は、若いころから、教会へ行くたびに、それを疑問に感じていた。そういう疑問をベースに、
以前、いくつかの原稿を書いたことがある。
+++++++++++++++
●育児に参加しない父親
Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかか
ってきます。
A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうではな
い。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だったかもしれ ない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。
ある女の子(小5)は母親に、こう言った。「どうしてあんなパパと、結婚したの。もっといい男の
人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考えれば、母親が別の男性と結婚していたら、そ の子どもは存在していなかったことになるのだが…。
そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方をす
る。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親のヨセフ は、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?
これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、そ
の一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約30%の夫は、家事をほとんどしてい ない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。
そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親にしても
らう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」と。決して男尊 女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親なら、私はその反対 のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬しあうことをいう。まちがっ ても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とくに子どもの前では、してはいけない。
こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、母親
の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女性(32歳) は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑していた。原因は、 その女性の母親にあった。
母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父親は、
まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親を、「甲斐性 (生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?
これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過渡期
にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約30%の若い夫は、育児はもちろん、炊事、 洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。
…というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を張って
いる。あせらず、じっくりと構えること。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●母親の役目
子どもにとって、自分と母親の関係は、絶対的なものだが、しかし自分と父親の関係は、絶
対的なものではない。「母親から生まれた」という実感はあるが、「父親から生まれた」という実 感は、もちにくい。だからたいていの子どもは、自意識(だいたい10歳前後から)が発達してく ると、父親との間に、一定の距離を置くようになる。「ひょっとしたら、自分は父親の子どもでは ないかもしれない」と思う子どもも少なくない。
ある男の子(小5)は、こう言った。「ママが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、も
っと幸福になれた」と。
こういうケースでは、「パパが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福にな
れた」とは、言わない。中には母親に向かって、「どうしてあんなパパと結婚したの!」と、迫る 子どもさえいる。理屈で考えれば、もし母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは、絶対 に生まれていなかったことになるのだが……。
このことは、子どもと母親の結びつきを理解するには、たいへん重要なポイントとなる。わか
りやすく言えば、子どもと母親のつながりは、父親のそれよりも太いということ。もちろん中に は、そうでないケースもあるが、少なくとも、子どもの側からみると、太い。だから父親と母親 が、けんかをすると、特別の事情がないかぎり、子どもは、母親の味方をする。歌にしても、母 親をたたえる歌は多いが、父親をたたえる歌は少ない。
たとえば窪田聡氏が作詞した、『かあさんの歌』にしても、森進一氏が歌う、『おふくろさん』に
しても、母親をたたえる歌である。「♪母さんは、夜なべをして……」とは、歌うが、同じように苦 労をしている父親に対して、「♪父さんは、夜なべをして……」とは、歌わない。
最近、演歌歌手のK氏が、父親をたたえる歌を歌いだしたが、そういう歌は例外と考えてよい。
つまり母親というのは、どこかたたえやすいが、父親というのは、どこかたたえにくい?
このことと関連しているのかもしれないが、たとえばキリスト教でも、聖母マリアをたたえる信
者は多いが、父親ヨセフをたたえる信者は少ない。実のところ、これがこのエッセーを書き始 めたヒントになっている。昨夜ワイフが、ふと、「どうしてヨセフは影が薄いのかしら?」と言った のが、きっかけになった。
話が脱線したが、つまり子どもの側からみたとき、父親と母親は、決して対等ではない。子ど
もにとって母親は、父親以上に、特別な存在である。幼児でも、「お母さんがいないと、どんなこ とで困りますか?」と質問すると、つぎつぎと答がかえってくる。しかし「お父さんがいないと、ど んなことで困りますか?」と質問すると、とたんに、答が少なくなる。
そこで母親は、このアンバランスを、子育ての場で、調整しなければならない。そして結果とし
て、子どもの側から見たとき、父親と母親が、等距離にいるようにしなければならない。この仕 事は、父親ではできない。それをするのは、母親自身ということになる。
方法としては、母親の立場をよいことに、母親だけが親であるというような押しつけはしないこ
と。もっと言えば、家庭教育の場で、父親の存在を、いつも子どもに感じさせるようにする。「こ れは大切な問題だから、お父さんに判断してもらいましょうね」「お父さんががんばってくれるか ら、みんなが安心して生活ができるのよ」とか。
決して男尊女卑的なことを言っているのではない。賢い母親なら、そうする。たがいに高い次
元に置き、尊敬しあうことを、「平等」という。もちろんこの文章を読んでいるのが父親なら、そ の反対のことをすればよい。
しかし、なぜ私がこのエッセーを書いているかについては、もう一つの理由がある。それは
今、父親の存在感が、ますます薄くなってきているということ。これに対して、「父親の威厳を回 復せよ」という意見もあるが、今は、もうそういう時代ではない。「威厳論」をもちだしても、子ど も自身が従わない。そこでここでいうように、「たがいに高めあう」という意味での、平等論という ことになる。
またまた話が脱線したが、家庭教育においては、いかにして子どもと父親のパイプを太くする
かが、重要なテーマと考えてよい。またその努力を怠ると、家族そのものが、バラバラになって しまう。話せば長くなるが、問題行動を起こす子どもの家庭ほど、父親の存在感が薄いことが 知られている。
もっとはっきり言えば、母親だけでは、子育てはできないということ。できなくはないが、失敗す
る確率は、ぐんと高くなる。そのためにも、子どもと父親のパイプは、今から太くしておく。そして それをするのは、母親の役目ということになる。
(03−1−5)
【追記】
よく父親の教育参加が話題になるが、それはここにも書いたように、そんな単純な問題では
ない。父親が、「では、私も子育てに参加してみるか」と思うころは、すでに手遅れ。問題の 「根」は、もっと深い。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●父親、ヨセフ
●存在感の薄い、ヨセフ
イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。一説に
よると、そのときヨセフは、マリアと婚約関係にはあったが、マリアとは性的関係はなかったとさ れる。また一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせたが、ヨセフには、知 らせなかったという。さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の子としての活動を始める前に、死 んでいる。ここでキリスト教、最大の謎にぶつかる。父親ヨセフは、では、いったい、何であった のか、と。
この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。私のよう
な門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を先に進めてみた い。
●母親は絶対
母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的な方
法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの関係は、母 親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」の関係にすぎない。 このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。
たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そればか
りか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」という疑いを もつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさわしい人物にちが いない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。
実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気にさえな
れば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一方、女に は、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。
もし男も女も、同等の快感であったとするなら、女はセックスなどしないだろう。そのあと予想さ
れる「重荷」を考えたら、とても割にあわない。たとえば男というのは、そのセックスの途中であ っても、冷静に、女の反応を楽しむことができる。しかし女はそうではない。無我夢中というか、 我を忘れてセックスの快感に酔いしびれる。
またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深い。恐らく長い間
の進化の過程でそうなったのだろう。つまり女にとっての快感は、そのあと予想される「重荷」 を忘れさせるほど、すばらしいものであるらしい。またそれがあるから、女も、あと先のことを考 えることなく、セックスに没頭することができる?
となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理することはでき
る。
●親は、母親だけ?
人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代において
は、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形ができたの は、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、母親でしかなかっ たのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、如実に示されていると 考えられなくもない。
で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存在するこ
とがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれを克服した崇高 さを、ことさら美化している。
しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が確立した、「現代」から見た
視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛盾する。おかしい。おかし いから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?
しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことながら、
家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考える家族観、… …つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、異質のものであっ たと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」中心の家族観に改めら れたのは、戦後のことである。
●母親と父親は平等ではない?
こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、同一のも
のでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子どもに対する意 識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の子どもではない」と 疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見ながら、「ひょっとしたら、この 子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。そしてそれがちょうどカガミに映さ れるかのように、子どもの心となる。
つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念は、ずっ
とあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、一夫一妻制度が 確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、まさに「精液一しず く」。
そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考える。父
親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、子どもの意 識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を吸う子どもはいな い。
●母親は父親を立てる
で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父親と子
どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、(1)子どもが父親と の関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと自体、すでに、父親と 子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。
つぎに(2)母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在を高め
る。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というのは、互いに相手 を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。「大切な判断は、お父さ んにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。そういう姿勢を通して、子ども は、父親像を学ぶ。身につける。
●父親ヨセフの苦悩
こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストをもうけるために
マリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなかったのではということ になる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうをみるなら、だれでもよかった? ……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を冷静に積み重ねていくと、そうなる。ある いは、あなたがヨセフならどうだったかという視点で考えてみるとよい。
妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつめる
と、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。そういう状 況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。
ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗り越えたところに、父親ヨセフの偉大さがある」
というような論陣を張るが、それはあくまでも結果論。結果的に、イエス・キリストが、偉大な人 物になったから言えることであって、そうでなかったら、そうでなかったであろう。
いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、おそらく母親
のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と聞かされていた。イ エス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を感じなかったのか。あるいは それこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかったのか?
「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教会では、マ
リア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑問をもったのがきか っけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこかの教会へ行ったときにで も、じっくりと考えてみる。
(03−1−15)
++++++++++++++
「マリア」のチラシの裏面には、こうある。
「本作は、神学、歴史、政治、社会、文化などのあらゆる専門家の協力を得て、マリアとヨセ
フ、そしてキリスト誕生までの物語を、忠実に再現。突然、神からの啓示を受けた若いふたり がどのように困難を乗り越え、お互いの親愛を築いていったのか? そしてクリスマスの本当 の意味とは……」とある。
映画が楽しみだ。
そうそう、ほかに、ニコラス・ケイジ主演の、「ナショナル・トレジャー」と、アンジェリーナ・ジョリ
ー主演の、「マイティ・ハート」も封切りになる。ワイフは「みんな見に行く」とがんばっているの で、つきあうつもりでいる
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 フロイト 血統空想 マリア ヨセフ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●父親と子ども(息子と娘)
自分という人間が、他人にどう評価されているか、それを知る能力が、「自己評価力」
ということになる。
その力がある人ほど、自分を客観的に見つめる能力をもっている。
(あるいは、その逆でもよいが……。)
が、こと「父親」に関していうなら、子どもにどのように評価されているか、それを
客観的に評価できる父親は、いない。
そのヒマもない。
余裕もない。
家族や生活を支えるだけで、精一杯。
だから父親は、「自分」をそのまま、ストレートに子どもたちにぶつけてしまう。
私もそうだったし、今のあなたも、そうかもしれない。
だからといって、今ここで、「子どもたちの視点で、もう一度、自分を見つめなおして
みよう」などと、提案するつもりはない。
はっきり言えば、そんなことは、どうでもよい。
先にも書いたように、父親というのは、そういう存在。
「嫌われて当然」という存在。
それがわからなければ、一度、あなたの周囲を見回してみればよい。
あなたの周囲で、父親と子ども(息子や娘)が、仲よく、「友」の関係にある人は
いるだろうか。
私にも、60数名近い、いとこたちがいるが、父親と子ども(息子や娘)が、うまく
いっている親子は、ほとんどいない。
「ゼロ」と断言してもよい。
★父親が心筋梗塞で倒れても、見舞いにいかない。
★同居して40年になるが、たがいに口をきかない。
★生まれてこの方、父親と会話らしい会話をしたことがない。
★離婚したあと、父親には一度も会っていない。
★仏壇を開いて、手を合わせたこともない、など。
だからといって、そういう、いとこたちを責めているのではない。
私自身も似たようなもの。
私の息子たちも似たようなもの。
言い替えると、「子ども(息子や娘)に好かれよう」「尊敬されよう」と考えても無駄。
子どもたちはさらにその向こうで、「父親のようになりたくない」と考える。
いかにあなたが、平均以上のすばらしい父親であっても、だ。
だからわかりやすく言えば、こういうこと。
「あなたの知ったことではない。
父親の役目を果たしたら、さっさと子どもたちから去ればよい」と。
●パラドックス
どこの家庭も、表面的には、うまくいっているように見える。
しかしそれは「表面」だけ。
どこの家庭にも、それぞれ問題がある。
問題のない家庭は、ない。
ただ残念なことに、今の若い夫婦(父親と母親)は、不幸な家庭、あるいは生活の
苦労というものを知らない。
つまりそうした不幸や苦労を受け入れる度量が、きわめて狭い。
小さい。
だから父親の(父親にかぎらないが)ささいな欠点をとらえては、おおげさに騒ぐ。
(してもらったこと)を忘れ、(ないものねだり)に始終する。
「私の父親は、ここが悪い」「あそこが悪い」と。
が、これだけは忘れない方がよい。
私も若いころ、私の父親を、そういう形で批判した。
つまり今度は、やがてあなた自身も、そういう形で批判される。
いかにあなたが「私は完ぺきな父親」と思っていても、だ。
つまりそこに自己評価力の、落とし穴がある。
たとえばひとつの例として、「寝る前の読み聞かせ」を取りあげてみる。
●読み聞かせ
私は戦後生まれのあの時代の人間である。
父親に本を寝る前に読んでもらったという経験がない。
母親にもなかったと思う。
記憶には、ない。
で、そういう私が父親になった。
子どもを3人、もうけた。
が、世代連鎖というのは、恐ろしい。
無意識のうちにも、親は、自分が受けた子育てを再現する。
よい再現なら、問題はない。
しかしそうでない再現もある。
私は3人の息子たちに、寝る前に読み聞かせをしてやったことは、一度もない。
そういう習慣そのものがなかった。
で、たとえば、(実際に、息子たちがそう不満を漏らしているわけではないが)、
息子の1人が「パパは、ぼくたちが子どものころ、寝る前に読み聞かせをしてくれ
たことがない」と言ったとする。
息子たちは外国の映画を見、外国にはそういう習慣があることを知ったらしい。
が、この日本には、なかった。
そういうふうに言われたら、この私は何と答えればよいのか。
まさか「ごめん」とは、言えない。
で、息子たちは結婚し、子ども(孫)をもうけたとする。
そして自分がしてほしかったことを、子ども(孫)にする。
寝る前に、ベッドで横になり、本の読み聞かせをしてやる。
いつか見た、あの「映画」のように、だ。
で、ここで一件落着。
めでたし、めでたし……ということになる。
息子たちは、私ができなかったことをし、親子(息子と孫)の絆を深める。
よい親子関係を築く……と書きたいが、ここで待ったア!
本当に、それでよい親子関係を築くことができるだろうか?
答は、「NO!」。
たぶん息子たちの子ども(孫)は、いつかこう言うにちがいない。
「パパは、毎晩、頼んでもいないのに本を読み聞かせ、ぼくたちを眠らせてくれ
なかった」と。
わかるかな?
このパラドックス?
私は私で、私の思いがあって、子育てをした。
その第一、息子たちには、ひもじい思いだけはさせたくなかった。
貧乏の恐ろしさは、いやというほど、身にしみている。
大学の学費についても、これまた惜しみなく注いだ。
自分がしたような苦労だけは、させたくなかった。
私は毎月、実家から、下宿代しか送ってもらえなかった。
が、そういう思いというのは、息子たちには、伝わらない。
伝わらないばかりか、(実際に、そう言っているわけではないが)、息子たちは、
たぶん、こう思っているにちがいない。
「パパは、毎日仕事ばかりしていて、家族を顧みなかった。そのため家族はバラバラ
だった」と。
●決別
子離れとは、結局は、依存性との決別を意味する。
相互依存と言い替えてもよい。
この依存性があるかぎり、「父親というのは、さみしい存在」ということになる。
が、ひとたび依存性を断ち切ってしまえば、あとは楽。
目の前の道が、パッと開ける。
つまり宝くじと同じ。
当たればもうけもの。
父親と子どもの関係も、またしかり。
たまによいことがあれば、もうけもの。
そう考えて、当たることを期待してはいけない。
また当たろうと努力しても、無駄。
こと、父親と子どもの関係について言えば、当たらなくて、当たり前。
期待しない。
幻想を抱かない。
そういう前提で、自分の将来を考える。
それが父親と、子ども(息子や娘)との、あるべき姿ということになる。
これであなたも、少しは気が楽になっただろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 父子論 父親と子ども論 父親と子供論 親子論 親子とは何か 総理府調査 青少年白書 将来親のめんどうを見る 父親のようになりたくない 総理府 青少年白書 は やし浩司 父親の役割 断絶 親子の断絶)
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
【教育の原点】
●実例
こんな話(例1)
その男には、子どもがいた。
若いころ、たまたま遊んだ女性との間にできた子どもである。
しかしその男は、そのことを告げないで、相手の女性と結婚した。
で、それから20年。
ある日、突然、その子どもがその男の前に名乗り出た。
「私はあなたの子どもです。母から、聞きました」と。
そのことが、妻の耳にも入り、家の中は大騒動。
妻は、「娘(当時10歳)が、中学を卒業したら離婚する」とまで言い出した。
こんな話(例2)
その女性は結婚してからも、妊娠できず、病院通いをしていた。
表向きは「不妊症」と言っていたが、実際は「アッシャーマン症候群」。
若いころの中絶のときの処置が不適切で、子宮の内膜に傷がついてしまった。
「子宮腔癒着症」とも呼ばれ、子宮の内膜がうまく成長することができなくなる病気を
いう。
排卵などは正常に行われるのだが、着床がしにくくなる。
中絶や流産が必ずしも不妊症につながるというわけではないが、ここにあげたような
ケースは少なくない。
女性の両親は、それを知っていた。
知らないのは、夫だけ。
現在の今も、妻と不妊教室に通いながら、子ども作りに励んでいるという。
●本来なら……
本来なら、こうした過去は、結婚時、あるいはその前に相手に話すのがよい。
(私は、話すべきと思うが……。)
「ぼくには別に子どもがいる」「私は若いころ中絶したことがある」と。
その上で、たがいに納得した上で、結婚する。
それをしないというのは、それ自体、不作為による背信行為ということになる。
(「不作為」というのは、法律用語で、「本来ならすべきことをしないで」という意。)
が、問題は、父親にせよ、母親にせよ、それを知っていたばあい。
いろいろなケースがある。
こんな話(例3)
息子の嫁が自宅に泊まったときのこと。
母親は、嫁の体に妊娠線(妊娠した経験のある女性に現れる、特有の線模様)が
あることを見てしまった。
しかし息子は、それに気づいていない。
妊娠線がどういうものであるかすらも知らない。
こういうケースのばあい、たいていの親は、そのまま黙ってしまう。
大切なことは、息子にせよ、娘にせよ、幸福な家庭を築くこと。
だれにもひとつやふたつ、過ちや失敗(?)はある。
母親はその事実を、墓場までもっていくことにした。
嫁は嫁で、生涯、それについて夫に話すことはないだろう。
こんな話(例4)
相手の娘には、重度の人格障害があった。
子どものころは、不登校を繰り返し、それが終わると今度は、家庭内暴力。
家の外ではおとなしかったが、家の中では暴れた。
青年期に入ると引きこもりを繰り返し、定職にも就かなかった。
病院で、うつ病の薬を処方してもらっていた。
が、結婚。
自分の息子が、「どうしても」というので、結婚した。
かなり資産家だった。
両親は興信所を使って、相手の女性、つまりその娘について調べた。
その娘の過去を知った。
が、いくら説得しても、息子は、「結婚する」と。
相手の両親にも、それとなく反対の意思を伝えた。
が、相手の両親は両親で、「良縁です」「良縁です」と喜ぶだけ。
話し合いにならなかった。
現在、息子夫婦は同じ市内に住んでいるが、行き来は途絶えた。
子ども(孫)も2人生まれたが、この5年、会っていないという。
●誠実
誠実に生きるというのは、むずかしい。
が、こんな皮肉な話を耳にしたことがある。
「不倫相手の方が、何でも話せる」と。
つまり相手が不倫相手だと、夫や妻にさえ話せないような話でも、話せる、と。
これはどういう心理によるものなのか。
ワイフに相談すると、ワイフがこう教えてくれた。
「不倫という罪深いことをたがいにしているから、罪の意識が薄れるんじゃ、
な〜い?」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
「だったら、はじめっから、不倫相手と結婚すればいいのに」と私。
「そのほうが、たがいに誠実でいられる」と。
ともかくも、こうして男と女のドラマが始まる。
またそうであるから、10組の夫婦がいれば、10通りのドラマが生まれる。
が、それが人生。
人間の人生。
みな、同じようだったら、つまらない。
おもしろくない。
ほかにもいろいろ書きたいことがあるが、今朝はここまで。
みなさん、おはようございます。
2010年12月25日朝記
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
【子どもの自己主張】
●自己主張する幼児たち(年中児、3〜5歳児)@BW幼児教室(子どもクラブ)
はやし浩司 2010−12ー24 Hamamatsu Japan
(YOUTUBEより)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●教え育てる?(教育の原点とは)
++++++++++++++++++++
日本の教育は、「教え育てる」が基本になっている。
だから「教育」という。
しかしこの教育法は、日本では通用しても、
外国では通用しない。
英語国では「education」という。
「educe(引き出す)」が語源になっている(TK先生指摘)。
つまり引き出す。
「ちがいは何?」と考える人も多いかもしれない。
が、ちがいは、大きい。
わかりやすく言えば、本山教育が日本の原点。
「頭から小僧に叩き込む」。
それが教育。
一方欧米では、「引き出す」。
そのため「debate(討論)」が、教育の重要な柱になっている。
欧米の教育は、討論に始まり、討論に終わる。
ペーパーワークなど、たまにしか、しない。
韓国の朝鮮N報(新聞)の一部を紹介する。
日本の現状を客観的に見ている。
++++++++++以下、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++
米ハーバード大のマイケル・サンデル教授による「正義論」の授業は、大教室で熱い討論
が繰り広げられることで有名だ。
教室を埋め尽くす学生たちの国籍は多種多様で、これも授業の特徴の一つとなっている。
アジア系の学生も多い。だが、討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない。
昨年の時点で、ハーバード大に在学中の外国人学生(学部生)666人のうち、韓国人が42
人、中国人が36人、シンガポール人が22人、インド人が20人だったのに対し、日本人は
わずか5人だった。
++++++++++以上、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++
●幼児教室でも
私が主宰する幼児教室でも、討論を大切にする。
子どもたちに活発に発言させる。
ペーパーワークは、子どもたちを抑えるときに利用する。
(詳しくは、BW公開教室を観てほしい。
http://bwhayashi.cool.ne.jp/index.html
より)
しかしこの方法は、親たちには、受けがよくない。
「勉強というのは、机に向かってペーパーワークをするもの」という、明治以来の、
(あるいはそれ以前からの)、詰め込み教育が「教育」の柱になっている。
親たちもまた、それが教育と思い込んでいる。
反対にペーパーワークが多ければ多いほど、「プリントという証拠が残るため?」、
親は喜ぶ。
しかし現実には、ペーパーワークをさせることほど、楽な指導法はない。
教師は座って、○×をつけるだけ。
●討論しない日本人
日本の学生が討論しないというのは、世界の常識。
どこへ行っても、静かでおとなしい。
学生だけではない。
国際会議のような席でも、みな、ニンマリと笑いながら、座っているだけ。
それを朝鮮N報は、「討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない」と評した。
事実、その通りだから、これについては、反論のしようがない。
が、これを日本の教育の欠陥と言わずして、何という。
むしろ日本人は、(日本の教育者は)、自己主張する子どもを嫌う傾向にある。
そのことも、私の「公開教室」を観てもらえばわかる。
幼稚園や、学校教育とのちがいが、わかってもらえる。
私の教室では、静かに黙って教育を受けるような子ども(幼児)はいない。
が、それだけではない。
つまり討論するかしないかは、「個」の問題と深く結びついている。
そう言えば、これについてはいろいろな原稿を書いてきた。
いくつかを探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●大河ドラマ(2007年5月に書いた原稿より)
「絶対、見ないぞ」と思っていたが、チャンネルをかえるついでに、NHKの大河ドラマを見た。
……しばらく見てしまった。何かの評定会議をしているシーンだった。
それを見て、びっくり。10年前の大河ドラマとそっくり。20年前の大河ドラマとそっくり。
武将たちが、それぞれ自分のセリフを言っていたが、その言い方が、ワンパターン。実にワ
ンパターン。あんな演技なら、私にだって、できる。あなたにだって、できる。武将というのは、こ ういうものの言い方をするものだというような、決められた言い方。こういうときには、こういう表 情をするものだという、実にわざとらしい演技。
自然さが、どこにもない。人間味が、どこにもない。
私も、20年ほど前のことだが、その会社の命運を決するような会議に出させてもらったこと
がある。昨日の大河ドラマのように、そこには、15人前後の役員が集まっていた。そして同じ ように、自分の意見を述べあっていた。
しかし雰囲気は、まるでちがう。それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の意見を述べて
いた。どこかへつらいがちに、ものを言う役員。頭を下に向け、ポツリ、ポツリとしゃべる取締役 社長。だまりこくったまま、ため息ばかりつく、別の役員などなど。大河ドラマの監督も、一度、 そういうシーンをどこかで見てくるとよい。
領地を取っただの、取られただの、まるで餓鬼の会議。そこには、一片の正義もない。何の
ために、戦っているのか、戦うのか、その大義名分すら、ない。まったく、ない。民衆のために 闘うとか、民主主義のために戦うとか、はたまた自由を求めて戦うというのなら、まだわかる。 しかしそういう正義は、まったく、ない。
要するに、みな、我欲の追求だけが目的。そのための会議。のどに力を入れて、力んでいる
だけ。見ているうちに、あのK国の軍人たちを連想してしまった。
大河ドラマというのは、こういうものでございます……という、まさに型にはまった演技。どうし
てNHKは、10年一律のごとく、同じような番組ばかりつくるのだろう。
++++++++++++
以前(1999)、書いた原稿を
添付します。
++++++++++++
●日本の常識、世界の標準?
『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。
向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。
困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの か」と。
欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。
まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の 庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君 を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。
要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力 主義。
日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。
日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、 などなど。
同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明 したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が 組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ い学校という」と。
日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●大学生の親"貧乏盛り"
少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万
7000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすま ない。
アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は
子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ!
そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。
一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度 があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。
しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの十年間、
毎年4〜5%前後で推移している。
大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大
きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金 を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつ の奨学金を渡せる!
が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世 界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。
いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも 個人的利益の追求の場と位置づけている。
世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが 積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。
日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。
「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。
「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう
言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レ ノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。
私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。
(1999年ごろ記)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●引く文化・押す文化
日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、向こ
う側に払って、机の上に残す。
考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうするよ
うになる。考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、相手のほ うに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。日本では引きながら切る。欧米では押しながら切 る。
これを称して、日本の文化は「引く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。たとえ
ば「庭」。日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。つまり家の中に美しさを、引きこむよ うにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。
わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないようなことだが、こうした文
化は、教育にも大きな影響を与えている。
日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大切
にする。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。
日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたな
い。いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風をたてる よりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。
つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界がそう
だ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。文部省が 「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。いつも すべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。
そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それから生
まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の封建時代が残 したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。
……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させる
か、だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明 治、大正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。歴史は歴史だからそれなりに 正当に評価しなければならない。しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。
たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、
徳川博』なるものが催された。たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形で、
あの封建時代を美化するのはたいへん危険なことである。
あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、
苦しんだか、それを忘れてはならない。一方、徳川家康についても、その後、300年という年 月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返し抹消された。
私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうしたことを繰り
返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●子育ての原点
スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉
に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本 能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。
スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子
育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習 って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。
モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。
スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるも のなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。
実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必 要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経 験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自分たちが教えられたよう にして、次の世代に知識や経験を伝える。
が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育
てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。
その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、
ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水 道、
ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ま
すか」と質問すると、「蛇口!」と答える。
同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さ
に慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような 知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。
私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二年で微分 や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。
もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつとい
うのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々て いる」(学外研・I氏)と。
教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たち
が得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、 かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。将来、 子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするの が、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 教育の原点 和をもって尊し educe education 個の教育)
●討論を大切に
「もの言わぬ従順な民」の時代は、もう終わった。
またそういう子どもを求めてはいけない。
少なくとも、そういう人間は、世界では通用しない。
日本の中では、それでよいとしても、一歩、外に出れば、そこは修羅場。
百戦錬磨の怪獣たちが住む、修羅場。
もの言わぬ従順な民が、どうしてそういう怪獣たちを相手に、勝負できるか。
現在の教育のあり方を、基本的な部分から、もう一度ながめ直してみる必要がある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)
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バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。
Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。
It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows
more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very exceptional man.
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っているという
点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。
Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life.
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわかる。
It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that
position...
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、その人
をリーダーと受け入れてしまうようになる。
It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can
appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほとんど
いない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、よいと 言われる。
I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。
The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and women.
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験してい
る。
Among children it is very common, and grows naturally out of the period of make-believe
and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。
It is rare in later life because everything is done to kill it during education...
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうことが稀にな
る。
The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the
minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教育する
教師の心を、より強く支配する。
Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed
towards the world that our efforts are to create.
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そうでは
なくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすることを目的としな ければならない。
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●死んだ教育vs生きた教育
教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。
しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生まで、
教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。
つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」とい
うことになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。
だから子どもたちは、よくこう言う。
「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまっている!
●では、どうするか?
教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。
フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。
もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。
親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、感じ取っ
ている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「クラブ」
になってしまう。
それでは元の木阿弥。
が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているのが、官
僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。
その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。
日本の教育を真正面から批判してみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 生きた教育 バートランド・ラッセル もの言わぬ従順な民 格差 差別 自由な 教育論)
【子どもを知る心理学】 by はやし浩司
●心の別室
子どもというのは、(おとなもそうだが)、何かいやなことがあると、それを心の中に別室を作
り、そこに押し込むことによって、その場をやり過ごそうとする。こうした現象を心理学の世界で は、「抑圧」という言葉を使って説明する。が、この抑圧された不満や不平、うっぷんは、時と場 合に応じて、爆発する。「オレがこうなったのは、お前のせいだ!」と。心の別室には、時間とい う概念が働かない。また楽しい思い出によって、上書きされるということもない。だから20年、 30年を経ても、そのときの自分がよみがえる。それこそ70歳を過ぎた老人夫婦が、若い日の ことを理由に、喧嘩することも珍しくない。要するに、子どもには心の別室を作らせないこと。そ のつど適当なガス抜きをする。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「偉い」を廃語に
何をもって、「偉い」というのか。「偉い人」とは、どういう人を言うのか。地位か、名誉か、財力
か。英語では「respected man」という。「尊敬される人」という意味である。が、そのときは、地 位や名誉、財力は関係ない。マザーテレサをひきあいに出すまでもない。が、この日本ではい まだに、「偉い」という言葉が、のさばっている。とくに政治の世界では、のさばっている。今では 少なくなったが、大臣という肩書きをもった瞬間から、胸を張り、ふんぞり返って歩く政治家は 少なくない。傍から見るとバカげている。悪しき封建主義時代の亡霊そのもの。が、当の本人 はそうは思っていない。「偉い」という言葉を廃語にしよう。そして子どもたちには、こう言おう。 「人に尊敬される人になりなさい」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●摂取理論
初対面での印象が、いかに大切なものであるか。それについて、今さら、書くまでもな
い。
幼児のばあいは、とくにそうで、そのときその幼児がもった第一印象で、そのあとのそ
の子どもの、伸び方が、まったくちがうということは、よくある。
よい例として、集団恐怖症、対人恐怖症、さらには、かん黙症などがある。
こうした症状は、はじめて保育園なり、幼稚園へつれていったその日をきっかけとして、
発症することが多い。そして一度、発症すると、無理をすればするほど、逆効果。かえっ
て症状をこじらせてしまう。
幼児の心は、そういう意味では、きわめてデリケートにできている。親や教師は、「集団
生活になれていないだけ」とか、「しばらく集団生活をすれば、なおるはず」と、安易に考
えるが、そんな簡単な問題ではない。
集団のもつ威圧力というか、恐怖感というのは、相当なもの。私もよく経験している。
今でも、ときどき仕事などで東京へ行く機会があるが、あの東京駅の雑踏には、いまだに
なれることができない。自分の歩くスピードで歩くことすら、許されない。おまけにあの
ラッシュアワー!
私は昔、M物産という会社に勤めていたが、その会社をやめる直接のきっかけになった
のが、あのラッシュアワーである。
私は、毎朝、H電鉄の満員電車で、伊丹から、塚本へ出て、大阪の中ノ島にある会社に
通勤した。たまたまオーストラリアから帰ってきたばかりで、どうにもこうにも、あのラ
ッシュアワーには、がまんならなかった。それはもう、男どうしが、顔をすりあわせるよ
うな混雑ぶりだった。
もちろん、子どもにもよるが、つまり集団の中にすぐ溶けこめる子どももいるし、そう
でない子どももいるが、あくまでもその子どもの視点で、ものを考えること。
たとえば入園する前には、あらかじめ、その場所を見学させたり、子どもに見せておい
たりするとよい。そのとき、あらかじめ、集団に対する、心構えを話しておく。いわば病
気の予防接種のように、子どもの心の中に、免疫力をつけておく。こうしておくと、子ど
もは、いきなり集団を見せつけられたときよりは、そのショックをやわらげることができ
る。
こうした一連の心理作用は、「接種理論」という理論で、説明される。
また子どもが悪い印象をもったときも、大人の一方的な意見を押しつけてはいけない。
「そうだよね」「あなたの気持ちよくわかる」「お母さんも、そう思う」と、子どもの立場
で、子どもの心になりきって、考える。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●パブリック・コミットメント
まず外の世界に向かって、宣言する。宣言することによって、自分を縛る。これを「パブリッ
ク・コミットメント」という。たとえば禁酒、禁煙。「酒をやめました」「タバコをためました」と、みな に言う。できるだけ大声で、多くの人に言う。そうすることによって、自分の行動を厳格化する。 多くの人に伝わっているから、簡単に約束を破るわけにはいかない。子どもの世界について言 うなら、子どもにそれを言わせる。言わせることによって、子どもが自らを縛るように仕向ける。 ただし無理強いはいけない。当然のことである。あるいは子どもの名前が載った新聞や本など を、大切に切り抜いて張る。そしてこう宣言する。「あなたはすばらしい子」と。これもパブリッ ク・コミットメントのひとつということになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●プラトー
子どもに英語を教えてみると、ある程度までは、ぐんぐんと伸びる。が、やがてそれが停滞す
る時期にやってくる。この「停滞期」を「プラトー」と呼ぶ。子どもの発達段階においては、よく見 られる現象である。たとえば単語にしても、教えても教えても、先に教えたことを忘れてしまう。 進歩が止まってしまう、など。こういうとき親も教師もあせりがちになるが、けっしてあせっては いけない。こういう時期がしばらくつづいたあと、(英語のばあい、1〜3年)、時間数をふやした りすると、殻を破ったようにまた伸び始める。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●気負い
不幸にして不幸な家庭に育った親ほど、「いい親になろう」「いい家庭を作ろう」という気負い
が強くなる。この気負いが子育てをゆがめる。どこかぎこちなくなる。極端にきびしい親、極端 に甘い親などは、たいていこのタイプの親と考えてよい。一方、心豊かで愛情にあふれた家庭 で育った親は、自然な形で子育てができる。自然な形での「親像」が身についているからであ る。だから子育てをするときは、子育てをしながら、その子どもの中で、「親像」がどのように育 っているかを観察しながらするとよい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ピーターパン・シンドローム
おとなになりきれないおとな。そうした人がもつ症状を総称して、ピーターパン・シンドローム
(症候群)と呼ぶ。退行的なものの考え方(幼児性の持続)、人格の未完成など。強圧的な環 境、たとえば親の過関心、過干渉が日常的につづくと、子どもは自ら考えて行動することがで きず、ここでいうピーターパン・シンドロームに陥りやすい。行動や言動が、その年齢に比して、 子どもぽくなる一方、善悪の判断がうとくなり、とんでもないこと、たとえばコンセントに粘土をつ めたりするなどの常識外れなことをする。近所のおとなの人に、通りすがり、「大きな鼻の 穴!」と叫んだ子ども(小2男児)もいた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どもの「顔」
子どもは何らかの形で、自分の「顔」をもちたがる。思春期においては、なおさら。たてば勉
強のできない子どもは、スポーツで。スポーツのできない子どもは、たとえばツッパリで、と。だ から暴力的な子どもに、「あなたがそんなことをすれば、みんなに嫌われるのよ」と諭しても、意 味はない。それがその子どもの「顔」ということになる。ありはひょうきんなことを言ったりしたり して、ほかの子どもたちを笑わせる子どももいる。わざと失敗したり、ヘマをしたりする子どもも いる。それぞれの子どもには、それぞれの顔がある。その「顔」をつぶしてはいけない。子ども は糸の切れた凧のようになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●共依存
酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。典型的な共依存関係で
ある。妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。依存されることで、自分の立場を確保 する妻。妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。殴られたり蹴られたりす ることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。たがいに依存しあいながら、自分を 支える。傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起き ることもある。家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。ニートとなり家の中に引きこもる子ども と親の関係。子どもを突き放すことができない。親自身も、無意識のうちに子どもに依存してい るからである。
(補記)
●共依存
依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。
もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。
しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的な例とし
ては、つぎのようなものがある。
夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に怒鳴り
散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前 でやめる。(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)
それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。サービス
精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけ ている」と、謝ったりする。
一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。だ
からこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。
こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。
ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰ってくるとき は、必ず、夕食の材料を買って帰るという。
それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ があった。
つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依存性をも
たせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だ った。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。
が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をも たせ、自分の立場を守っていた。
ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダ ルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。
「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。こ
のような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないか という不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。
子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。
ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症と
も考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。 ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような 症状は現れる。
で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。
理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、
貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。
一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存するように なる。
こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」であるが、
しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。
親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。
生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。親
子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざと、弱々しい 母親を演じてみせるなど。
娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。
その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。
息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いてい る自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、友人た ちとスタスタと歩いていた!
その女性は、つぎのようなメールをくれた。
「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。
いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではな
い。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。決して珍し くない。
で、その先は……。
今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。
そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、 男性のそれより、強烈であることが知られている。
女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっしょに風呂
に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題には ならない。
こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。
このつづきは、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性
のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティック バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●心の反射運動
1970年のころの話。オーストラリアでは、レストランでもどこでも、あとにつづく人がいると、
その人はその人のためにドアを開けて待つ。それが当時の常識だったし、どこでもみなが、し た。こういうのを「心の反射運動」という。つまりさりげない行為が、相手の心をとらえたり、心を 和ませたりする。またそれができる人(親)ほど、よい人(親)ということになる。自己中心的な人 ほど、心の反射運動が鈍いということになる。反対にいつも相手の立場でものを考えたり、行 動する人ほど、心の反射運動がすぐれた人ということになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●権威主義
親の権威主義は、百害あって一利なし。が、遠く、江戸時代の昔には、「家制度」もあり、その
ため家父長の権威が何よりも、重んじられた。親は問答無用式に子どもに向かって、親に従う よう求められた。が、時代が変わった。それに応じて、親子の平等意識、さらには対等意識が 芽生えた。「親だから……」とか、「子だから……」という『ダカラ論』が通用しなくなった。また最 近の若い人たちに向かって、ダカラ論を振りかざしても、意味はない。反発を受けるか、さもな ければ、親子の間に大きな亀裂を入れることになる。権威主義の親ほど、子育てで失敗しやす い。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●親の優位性
親の優位性を押しつけすぎると、子どもは未来像を描けなくなり、自分の将来に大きな不安
を抱くようになる。思春期において、自我の確立に失敗することもある。赤ちゃん返りならぬ、 幼児返りを起こすこともある。これは子どもにとって、たいへん不幸なことと考えてよい。おとな は、(もちろん教師も)、ときには子どもにわざと負けてみる。それによって、つまり子どもはおと なの優位性を破ったことによって、自信をもつ。私もときどき幼児を相手にプロレスをする。わ ざと負けてみせる。とたん、その子どもの表情や様子が大きく変わる。そういう方法で、子ども に自信をつけさせる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ライナスの毛布
私は幼児のころ(小学1、2年生ごろまで)、貝殻を指先でいじっているのが好きだった。とく
に眠りにつくときにそうだった。こうした子ども特有の現象を、「ライナスの毛布」と呼ぶ。毛布の 端を口でなめたり、指先でいじる子どもは多い。子どもは自分の心を落ち着かせるため、指先 の刺激を求める。それによって脳の中である種の反応を引き起こす。モルヒネ系(エンドロフィ ン、エンケファリン)の分泌を促すという説もある。さらにこの方法は、老人のボケ防止にも役 立つという説もある。ともかくも、子どもがある特定のモノ(毛布や貝殻、やや大きくなって、ぬ いぐるみなど)にこだわっても、それを「おかしな行為」と決めつけ、禁止してはいけない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●代償的愛(代償的過保護)
過保護には、その背景に「愛」がある。その愛の欠落した過保護を、「代償的過保護」という。
子どものことを愛しているのではない。子どもを自分の支配下において、自分の思い通りにし たいだけ。その代償的過保護の原点になっているのが、代償的愛。いわば「愛もどきの愛」。 自分勝手で、わがままな愛。この愛の特徴は、(1)親はそれでもって、親の深い愛と誤解して いるということ。(2)何かのことでつまずくと、一転して、「憎悪」の念に変わりやすいということ。 真の愛というのは、無私の愛をいう。「息子(娘)に裏切られた」と騒いでいる親は、一度、この 代償的愛を疑ってみるとよい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●上下関係
日本語には、上下関係を作る言葉が多い。「兄・弟」「姉・妹」というのが、それ。「長男・二男・
三男」というのもある。親はこうして無意識のうちにも、子どもたちの世界に序列をもちこむ。そ してその上下関係に従って、「あなたはお兄ちゃんだから……」とか、「あなたはお姉ちゃんだ から……」とか言って、『ダカラ論』で子どもを縛る。が、ダカラ論には根拠がないばかりか、そ の子どもにとって重荷になり、その子どもを苦しめることにもなりかねない。なお、兄弟姉妹の 間で、名前(序列ではなく、名前)で呼び合っている兄弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲が よい。「お兄ちゃん」ではなく、「ミキ君」、「お姉さん」ではなく、「光ちゃん」と呼ぶなど。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ツァイガルニック効果
ほっとした瞬間、自分のすべきことを忘れてしまう。これを『ツアィガルニック効果』と呼ぶ。記
憶を持続(保持)するためには、ある程度の緊張感が必要である。(メモによって残すという方 法もあるが……。)その緊張感がゆるみ、「何だったけ?」となる。このことはよく将棋を指して いるときに、経験する。「もう勝った」と思った瞬間、へんなところから「角」が飛び出してきて、 飛車を取られたりする。「勝った」と思った瞬間、心の中にスキができる。そのため、そういうヘ マが多くなる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子育て愛憎劇
自分の娘に、「死んでも、お前をのろってやる」と言った母親がいた。「墓場で、お前が不幸に
なるのを楽しみにしている」とも。これはワイフの友人の話である。で、昔から愛と憎しみは、紙 一重という。愛が深ければ深いほど(?)、それが転ずると、今度は憎しみに変わる。が、それ にはたいへんなエネルギーを消耗する。ある賢人は、こう言った。『人を憎むのは、ネズミを追 い出すのに、家に火をつけるようなもの』と。そのため愛にせよ、憎しみにせよ、それほど長く つづくと、心身が疲れきってしまう。まさに底なしの消耗戦。時に人間性まで狂う。だから「家に 火をつけるようなもの」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●幸福論
賢い人は、そのものの価値を失う前に気づき、そうでない人は、失ってから気づく。健康しか
り、青春時代しかり、そして子どものよさ、またしかり。子どもの問題であれこれ悩む前に、そ の子どものもつ「良さ」に気づき、ほどほどのところで満足する。「もっと…」とか、「さらに…」と 思っていると、子どもも疲れるが、あなたも疲れる。同じように、幸福にしても、そんなに遠くに あるわけではない。あなたのすぐそばにある。すぐそばにあって、あなたに見つけてもらうの を、じっと待っている。「私は不幸だ」と思っている人は、一度、静かに自分の身の回りを見直し てみるとよい。「今、ここに生きている」ということが、どんなにすばらしいことか、あなたにも、そ れがわかるはず。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●コンフリクト(葛藤)
人は常に葛藤しながら、生きている。葛藤のない人生はない。たとえばいろいろなケースが
ある。(1)一等賞が当たった。自転車かパン製造機がもらえる。そういうときは、どちらをもら おうかで、悩む(++)。(2)あるいは高原へ旅行に行きたいが、花粉症が心配と、悩むことも ある(+−)。(3)さらに罰ゲームで、みなの前で歌を歌うか、それとも顔に墨を塗られるかを迫 られることもある(――)。(4)またこういうのもある。険しいイバラ道を渡らなければ、食物にあ るつけないようなケース(−+)。人は常にこのコンフリクトを繰り返しながら、生きている。詳し くは、「はやし浩司 コンフリクト」で検索をかけてみてほしい。
(補記)
●コンフリクト(葛藤)
+++++++++++++++
人はいつも、心の中で葛藤(コンフリクト)を
繰りかえしながら、生きている。
+++++++++++++++
二つのことがらから、一つの選択を迫られたようなとき、心の中では、葛藤(コンフリ
クト)が起きる。これがストレスの原因(ストレッサー)になる。
コンフリクトには、(1)接近型、(2)回避型、(3)接近・回避型の3つがあるとされ
る。
たとえば、旅行クーポン券が、手に入った。一枚は、3泊4日のグアム旅行。もう一枚
は、2泊3日のカナダ旅行。どちらも行きたい。しかし日が重なってしまった。どうした
らいいか。
このばあい、グアム旅行も、カナダ旅行も、その人にとっては、正の方向から、ひきつ
けていることになる。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(1)の接近型とい
う。
反対に、借金がたまってしまった。取立て屋に追われている。取立て屋に追われるのも
いやだが、さりとて、自己破産の宣告もしたくない。どうしたらいいか。
このばあいは、取り立て屋の恐怖も、自己破産も、その人にとっては、負の方向から、
ひきつける。そのため、葛藤(コンフリクト)する。これを(2)の逃避型という。
また、グアム旅行のクーポン券が手に入ったが、このところ、体の調子がよくない。行
けば、さらに体の調子が悪くなるかもしれない。どうしたらいいのか……と悩むのが、(3)
の接近・回避型ということになる。「ステーキは食べたい」「しかし食べると、コレステロ
ール値があがってしまう」と悩むのも、接近・回避型ということになる。
正の方からと、負の方からの、両方から、その人を、ひきつける。そのため、葛藤(コ
ンフリクト)する。
……というような話は、心理学の本にも書いてある。
では、実際には、どうか?
たとえば私は、最近、こんな経験をした。
ある人から、本の代筆を頼まれた。その人は、「私の人生論をまとめたい」と言った。知
らない人ではなかったので、最初は、安易な気持ちで、それを引き受けた。
が、実際、書き始めると、たいへんな苦痛に、襲われた。代筆といっても、どうしても、
そこに私の思想が、混入してしまう。文体も、私のものである。私はその人の原稿をまと
めながら、何かしら、娼婦になったような気分になった。
お金のために体を売る、あの娼婦である。
そのとき、私は、(3)の接近・逃避型のコンフリクトを経験したことになる。お金はほ
しい。しかし魂は、売りたくない、と。が、実際には、コンフリクトと言うような、たや
すいものではなかった。心がバラバラになるような恐怖感に近かった。心というより、頭
の中が、バラバラになるような感じがした。
あたかも自分の中に、別々の2人の人間がいて、けんかしあうような状態である。
それはたいへんなストレスで、結局、その仕事は、途中でやめてしまった。つまりここ
でいうコンフリクト(葛藤)というのは、そういうものをいう。
ほかにも、いろいろある。
たとえば講演などをしていると、私の話など聞かないで、ペチャペチャと、おしゃべり
している人がいる。
本人たちは、私がそれに気づかないと思っているかもしれないが、講師からは、それが
実によくわかる。本当に、よくわかる。
そういうとき、「そのまま話しつづければいい」という思いと、「気になってしかたない」
という思いが、頭の中で、衝突する。とたん、ものすごく神経をつかうようになる。実際、
そういう講演会が終わると、そうでないときよりも、何倍も強く、どっと疲れが、襲って
くる。
自分でもそれがよくわかっているから、ますます、気になる。
そこで、私のばあい、そういうふうにペチャペチャとおしゃべりする人がいたら、その
場で、やさしく、ニンマリと、注意することにしている。「すみませんが、おしゃべりをひ
かえてくださいね」と。
そうすることで、講演会のあとの疲労感を軽減するようにしている。これはあくまでも、
余談だが……。
【補記】
ストレスの原因(ストレッサー)を感じたら、あまりがまんしないで、ありのままを、
すなおに言ったらよい。そのほうが、自分のためにもなるし、相手のためにもなる。
ここに書いたように、最近は、公演中にペチャペチャと話している人を見たら、私は、
できるだけ早く、注意するようにしている。本当は、「さっさと、出て行け!」と叫びたい
が、そこまでは言わない。
で、おもしろいと思うのは、もともと私の話など、聞いていないから、数度、注意して
も、知らぬ顔をして、ペチャペチャと話しつづけている。そこで私も、その人たちが気が
つくまで、数度、あるいは何度も、注意する。が、それでも気がつかない。
すると、まわりの人たちが、そのおしゃべりをしている人のほうを、にらむ。おしゃべ
りしている人は、どうして自分たちがにらまれているかわからないといった表情を見せる。
このとき私は、改めて、言う。「すみませんが、少し、静かにしていてくださいね」と。
しかし、本音を一言。だれかの講演に行って、私語をつづけるようなら、外に出たらよ
い。迷惑といえば、迷惑。失礼といえば、失礼。これは講演を聞きに来た人の、最低限、
守るべき、マナーのように思う。
もっとも、私の講演のように、つまらない講演なら、しかたないが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 コンフリクト 葛藤 葛藤の中身 親子の葛藤 夫婦の葛藤)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●窮地の演出
子どもの自尊心を高める方法が、これ。つまり「私はお母さんのピンチを救った」と思わせな
がら、子どもを得意にさせる。「家族のピンチ」でもよい。これを『窮地の演出』(はやし浩司)と いう。「あなたのおかげで、お父さんは無事だったのよ。命の恩人ね」と。といっても、そういう場 面は、そうは多くない。が、そのときどきにおいて、それを演出する。「今日、あなたのおかげ で、助かったわ。あなたがいなかったら、どうなっていたことか」と。要するに負けを認めるとこ ろでは認める。意地を張って、親の優位性を子どもに押しつけてはいけない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●クロス・コンプレインニング
コンプレイン(Complain)は、アメリカの精神医学会の診断基準によれば、精神障害の主症状
のひとつになっている。愚痴をよく言う人は、何らかの精神障害を疑ってみる。その愚痴を言い 合うのが、クロス・コンプレインニング。「お前はあのとき、みなの前でぼくに恥をかかせた」「あ なただって、私の兄に、悪口を言ったじゃない」「それはお前が、ぼくの言ったことを、バカげて いると笑ったからだ」と。ある賢人はこう書き残した。『怒っているときは愚痴を言うな。愚痴を 聞いても、怒るな』と。とくに子どもには愚痴を言わない。子どもの愚痴を聞いても、怒らない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自我の拡大
「私は私」と強く認識することを、「自我」という。その自我がさらに強くなると、周りの人たちを
自分の支配下に置こうとする。「私」を実際以上に、大きく見せようとする。それが「自我の拡 大」。親意識も、総じて言えば、この自我の拡大として理解できる。それほど力もない親が、大 物ぶって見せるなど。あるいは物知りであるように振舞うなど。なけなしのサイフを振りながら、 金持ちぶるのも、それ。つまり「私は力がある」ということを誇示しながら、相手を自分の下に置 こうとする。力のない親が、陥りやすいワナのひとつ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自己効力感
人は常に他者との関わりの中で生きている。かかわりももたず、ひとりで生きている人(?)
は、何か心に大きな障害をもった人と考えてよい。その(関わり)の第一が、自己効力感という ことになる。自己肯定感ともいう。「私は他人に認められている」「自分は社会で役に立ってい る」「私を必要とする人がいる」「私はやればできる」と。子どもの世界でいうなら、「私は親に守 られている」「私の親は、私を信じてくれている」というのも、それ。こうして人は、他人との関わ りの中で、自分を位置づけていく。またそれがあると、その人(子ども)は、それをバネとして、 前向きに伸びていくことができる。まずいのは、ネガティブな育児姿勢。「あなたはやっぱりダメ ね」式の言葉は、子育てではタブー。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●マザコン(マザーコンプレックス)
マザコン男ほど、相手に「マドンナ(=理想的な女性)」を求めやすい。が、この世の中に、マ
ドンナ(聖女)など、いない。だから一般論として、マザコン男ほど、離婚しやすいと言われてい る(確たる統計があるわけではないが……。)あるいはマザコン男ほど、浮気をしやすいとも言 われている。だから子ども(男児)をマザコンにすると、子どもは将来、幸福な結婚生活を送れ なくなる可能性が高くなる。で、それを是正するのが、父親。『子どもを産み育てるのは母親。 狩の仕方を教えるのが父親』と。母子関係の是正と、社会性の認識。それが父親の役目という ことになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●空想的虚言
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのは構わない。しかし空中の楼閣に住
まわせてはならない』というのがある。空想するのは、子どもの自由。自由というより、特権。し かし空想は空想。現実との間に一線を引く。この一線が引けなくなると、子どもは、空想的虚言 を口にするようになる。ウソの世界に生きているから、空想と現実の区別さえつかない。「私は イタリアの女王」と言い張った女の子(小2)がいた(オーストラリア)。が、その一方で、空想が まったくできない子どもがいる。冗談を言っても笑わないどころか、反対に怒り出してしまう。頭 がカチカチで、融通がきかない。アスペルガー児によく症状のひとつである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●夢の加工
私たちが見る夢は、そのつど加工されている。現実をそのまま夢に見ることは、めったにな
い。たとえば私は電車に乗り遅れる夢を、よく見る。これは私の心の中に内在する強迫観念が 圧縮され、象徴化されたものと考えることができる。「電車」は、「人生」を置き換えたもの。乗り 遅れることによってハラハラするのは、強迫観念が象徴化したもの。つまり夢は心の中を映す 鏡ということになる。反対にどんな夢を見るかを知ることによって、たとえば子どもの心の中を のぞくことができる。意外なのは、幼児でもこわい夢を見る子どもが多いということ。先日幼児 クラスで聞いてみたら、約60%の子どもが、こわい夢をよく見ていることがわかった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自己達成感
子どもに何かをやらせるときは、自己達成感を大切にする。「できた!」という喜びが、つぎの
意欲へとつながっていく。たとえばワークブックでも、半分程度できればよしとする。あるいは子 どもにとって、やや簡単すぎるかな(?)と思えるようなものにする。こんなことがあった。生徒に 30問くらい計算問題をさせたときのこと。1〜2問、答がちがっていたが、私は花丸をつけて、 その子どもをほめた。それについて祖母が、こう言った。「いいかげんな丸はつけないでほし い」と。私はこう反論した。「一生懸命したことに、花丸をつけたのです」と。その子どもは計算 が苦手だった
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●セルフ・サマライジング(自己完結)
相手の立場や心を勝手に結論づけてしまう。それを「セルフ・サマライジング」という。「自己
完結」と訳す。たとえばこういう会話。「あなたの成績は最悪ね。これじゃあ、あなたの人生は終 わりね」とか、など。相手をさして、「人間のクズ」とか、「負け犬」とか、反論できないような言葉 を使うのも、それ。「君は本当は、ぼくを嫌っている。だからそういうことを言うのだ」というのも、 それ。相手の立場や心を確かめることなく、「そうだ」という前提で、自分の立場や心を決めて しまう。自己中心性の強い人が陥りやすいワナである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ウィンザー効果
子どもをほめるときは、第三者の口を借りるとよい。それとなく子どもの耳に入るようにしむけ
る。あるいは第三者を介してほめる。子どもが聞こえるようなところで、(あるいは聞こえなくて もよいが)、父親に向かってこう言う。「うちの子ねえ、今日、先生にほめられたのよ。うれしい わ」と。これを私は「間接話法」(はやし浩司)と呼んでいる。心理学の世界では「ウィンザー効 果」という。ウィンザー公爵夫人(小説『伯爵夫人はスパイ』)が言った言葉とされる。「あなたは すばらしい」とほめるのが、直接話法。直接話法よりも、間接話法の方が効果的。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●セルフ・ハンディキャッピング
テスト前なのに、子どもがやるべきことをやらないで、ゲームばかりしている。そういう姿を見
ると、親は、イライラする。が、子どもとて、テスト前ということを知らないわけではない。あせれ ばあせるほど、勉強が手につかなくなる。どうしようもない状態に、自分を追い込んでしまう。こ れを心理学の世界では『セルフ・ハンディキャッピング』という。自ら、ハンディを設定し、その中 に自分を押し込んでしまう。こういうときは子どもを追いつめるのではなく、逆に気分転換をさせ るとよい。「レストランでおいしいものでも食べてきましょう」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●完璧主義の子ども
何をやらせても、完璧。また完璧でないと、気がすまない。先生やほかの親たちには、「すば
らしい子ども」と評価される。またそう評価されることで、自分の立場を作る。が、このタイプの 子どもは、その一方で、他人に仕事が任せられない。他人の失敗を許さない。何でもイチから 自分でしたがる。またそれができないと、突然、仕事を投げ出したりする。そのため、仲間の間 では嫌われる。心を許さないから、いつも孤独。本人が思っているほど、仲間の間ではよく思 われていない。が、このタイプの子どもは、一度何かでつまずくと、ガタガタになる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●好意の返報性
子どもを伸ばす最大の秘訣は、その子どもを「いい子」「すばらしい子」と、信ずること。たとえ
そうでなくても、何度も心の中で繰り返し、自分の心をだます。英語のことわざにも、『相手は、 あなたが思うように、あなたを思う』というのがある。あなたがその子どもを「いい子」と思ってい ると、その子どもも、あなたを「いい人」「いい先生」「いい親」と思うようになる。以心伝心ともい う。魚心あれば水心ともいう。好意には、返報性がある。
(補記)
●灯をともして引き出す
欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。
その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。そのせ
いか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参観している私の
ほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。
発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。
●脳内ホルモンが脳を活発化させる
このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときには、脳
内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化 し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。
このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつぶ
る。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳内ホルモ ンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始め る。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象 である。が、それだけではない。
ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことがあった。
●子どもをほめるときは本気で
ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当
たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。
その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休みになる少
し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。
こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。ウソや仮
面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思 う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あな たのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉があ る。
子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。相手の
好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ばす。
●「先生、肩もんでやるよ。」
で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助手席
に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。
「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれませんが、
今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。
K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解した。頭も
よい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。
いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。
「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。
私はだまって、K君の好意を受けた。
(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ストレス学説
ストレスの原因を、「ストレッサー」という。人間はある程度のストレスには耐えられる。が、限
界を超えると、さまざまな身体的変調となって、それが外に現れる。が、それがさらに慢性化す ると、脳内でサイトカインが分泌され、脳内ストレスを引き起こす。食欲不振、低体温、性欲減 退など。さらにそれが進むと、免疫機能が低下し、ばあいによっては心疾患、脳疾患、がんな どの病気の引き金を引くこともある。けっして軽く見てはいけない。なおストレスの程度と、それ に対する反応には、個人差がある。Aさんには何でもないストレスが、Bさんには大きなストレッ サーとなることもある。ところでこんな話を耳にした。「庭で放し飼いにしている犬ほど、長生き する」と。それだけストレスが少ないということか。私の家のハナ(犬)も庭で放し飼いにしている が、今年で16歳になる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自己開示度
相手がどの程度まで秘密を暴露しているかで、相手が、どの程度、あなたと親密になりたが
っているかがわかる。それを知るのが、「自己開示度」。いつもどうでもよいような世間話だけ で終わる人は、あなたと親しくなるのを拒んでいるとみてよい。反対に、自分の病気や家族の 問題などを話す人は、あなたと親しくなりたがっているとみてよい。反対にあなたがその人と親 密になりたかったら、秘密を暴露してみるとよい。あなたの秘密を知ったことで、相手は信頼さ れていると思い、あなたに親近感を覚えるようになるかもしれない。これを「自己開示の返報 性」という。
(補記)
自己開示(2)
自分をさらけ出すことを、自己開示という。そしてそれが極限にまで達したのを、「カタルシス
(除反応)」※という。心を最大限、開放させることにより、心理的、精神的負担を軽減させるこ とをいう。
他人との信頼関係をうまく結べない人は、まず自己開示をしてみるとよい、あなたが妻であれ
ば、夫や子どもに対して。あなたが夫であれば、妻や子どもに対して。家族には、そういう機能 がある……というより、これは家族の重要な機能の一つと考えてよい。
方法としては、自分の過去を、あらいざらい、すべて告白するというのがある。悲しかった思
い出、つらかった思い出、恥ずかしかった思い出など。心の中に秘めている思い出を、すべて 吐き出してみる。
これはたいへん勇気のいることだが、しかし自己開示することによって、あなたは自分の心を
開放することができる。が、それだけではない。自己開示することによって、(1)相手もあなた に自己開示する。(2)あなたもそれまで気づかなかった自分に気づくことができるようになる。
私はときどき、中学生に、こんな作文を書かせる。
【つぎの文につなげて、作文を書いてください。】
● 私にとって、今まで、一番楽しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番悲しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番うれしかったことは、
● 私にとって、今まで、一番つらかったことは、
● 私には、人に話せないような思い出が、
ほかにもいろいろあるが、子どもが書く内容は、それほど重要ではない。(また、内容について
は、一切、不問にすること。)その子どもがどこまで、具体的に自己開示するかで、たがいの信 頼関係の深さを知ることできる。
つぎに、子ども自身が、仮面をかぶっているかどうか、どこまで自分と向き合っているかどう
か、心の問題をもっているかどうかなどを、知ることができる。「のぞく」という言葉は、あまり好 きではないが、しかし、この方法で、子どもの心の中を、のぞくことができる。家庭では、たとえ ば、子どもに向かって、「あなたにとって、今まで、一番うれしかったことは、どんなこと?」という ように聞いてみるとよい。
……と、書いたが、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。
あなたが妻なら、夫に話せない話もあるはず。結婚前の男性関係とか、身体的なコンプレッ
クスとか、など。子どものころの家庭環境も、それに含まれるかもしれない。もしそういうのがあ れば、思い切って、夫に話してみる。
あなたはそれで、人間関係が壊れると思っているかもしれないが、多少の混乱を経て、あな
たと夫の心の絆(きずな)は、それで太くなるはず。とくに、他人との人間関係がうまく結べない 人、他人と接すると、すぐ神経疲労を起こす人などは、まず、身近な人に対して自己開示して みるとよい。つまりこうして、自分の心を作り変えていく。
もっとも注意しなければならないのは、他人への自己開示である。信頼基盤そのものがない
人に、自己開示するのは、危険なことでもある。そういうときは、相手をより深く理解するという 方法に切りかえる。たとえば……。
日ごろ、相手が、言いたいと思っていること、知りたいと思っていることを、相手の立場になっ
て聞く。「この前、あなたはこう言ったけど、その意味がよくわからないから、もう一度、話してく れない」「あなたの言うことはよくわかるけど、もし私だったら、どうするか、いろいろ考えてみた わ」とか。相手をより深く理解しようとしよう姿勢を見せることで、同時に、自分もまた相手に対 して、自己開示することができる。
前にも書いたが、自己開示をすることは、違いの信頼関係を築く、基盤となる。たがいにわけ
のわからない状態で、信頼関係を結ぶことはできない。さあ、あなたも勇気を出して、自己開示 してみよう。心を解き放ってみよう!
(030707)
※ ……自己開示することで、心理的、精神的負担を軽減することができる。ばあいによって
は、症状が焼失することもあるという。これをカタルシス効果という。自己開示には、そういう作 用もある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●感受性訓練法
●感受性訓練法
5〜6人のクラスで、そのままにしておくと、子どもたちは勝手な会話を
し始める。
ふだんは制止するが、ときには、そのままにしておく。
それによって子どもたちの本音を知ることができる。
が、それだけではない。
言いたいことを、そのまま言わせることは、大切なこと。
それによって、よりよい人間関係を築くことができる。
たとえば心理学の世界には、「感受性訓練法」というのがある。
「ラボラトリー・トレーニング」とも呼ばれている。
これは体験者を一室に隔離して、ありのままの感情を、さらけ出させるという方法。
それを体験者の状態に合わせて、数時間とか数日間、つづける。
やがてカタルシス効果が現れて、体験者は、大声で泣きわめいたり、怒ったりする。
不平不満をぶつけたり、ときに暴れたりする。
が、それが一巡すると、体験者は、やがて心を抑圧していた殻(から)から解放され、
感情をストレートに表現できるようになる。
この訓練を受けると、感受性が豊かになり、他人に対して、深い思いやりが
生まれたり、相手の悲しみや苦しみが、よりよく理解できるようになるという。
が、似たような経験を、実は私は教育の場ではよくする。
私はときどき、子どもたち(幼稚園児)に、こう言う。
「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」と。
すると子どもたちは、最初は、はにかみながら、「嫌いだよ〜オ」などと答えたりする。
そこで私は、語気を強めて、こう言う。
「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」「自分にウソをつくのは
悪いことだ!」と。
まじめな顔をして、叱る。
するとやがて子どもたちは、「好きだけどオ〜」とか言うようになる。
が、何もおっぱいの話にかぎらない。
ときに子どもたちをじらしながら、「見たかったら、見たいと言え!」と促したりする。
(この方法は、私がレッスン中によく使う。「BW公開教室」(私のHPより)
でも紹介しているので、興味のある人は見てほしい。)
つまりこうして内にたまった(思い)を、一度、外に吐き出させる。
大声で言えるようにする。
感情を、そのまま表現させる。
言うなれば、これもカタルシス効果のひとつということか。
この方法により、一義的には、(性)に対して暗いイメージをもたせることを
防ぐことができる。
が、それ以上に、子どもの心をまっすぐにすることができる。
その結果として、子どもをして、かつ感受性豊かな子どもにすることができる。
「感受性が豊か」ということは、それだけ「他人の心に敏感に反応できること」を
いう。
反対に心がゆがんでくると、心(=情意)と表情が、一致しなくなってくる。
ばあいによっては、遊離し、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)になる。
むずかしい話はさておき、親子の間でも、夫婦の間でも、また友人との間でも、
たがいに言いたいことを言うというのは、人間関係の基本。
それなくして、良好な人間関係は育たない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 感受性訓練 感受性訓練法 ラボラトリー・トレーニング 心の訓練 はやし浩司 カタルシス効果)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●シンクロ効果(同調理論)
その人と親しくなりたかったら、「同一景色」を見る。同一景色を見ながら、話をする。
たとえば美術館へ行ったようなとき。つねにその相手と同じ位置に立ち、同じ角度から同じ絵
や像を見る。たったそれだけのことだが、相手のあなたへの親近感がぐんと増す。これを「同 一景色理論」(はやし浩司)という。「同じものを見ている」という無意識下の意識が、「シンクロ 効果」を生み出す。けっしてあなたは、その相手を置いてきぼりにしたり、勝手な行動をしては いけない。子どもの心をつかみたかったら、子どもと同じレベルに置いて、ゲームを楽しむのも 一手。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●夫婦の相補性
夫婦というのは、不思議なもの。30年とか40年もいっしょに暮らしていると、たがいにたがい
を補完しあいながら生きるようになる。行動だけではない。性格、性質についても同じ。神経質 な夫に、ヘマばかりしている妻。無口な夫に、おしゃべりな妻。独立心が旺盛な夫に、甘えん坊 の妻。活動的な夫に、従順な妻など。これを「性的相補性」と言う。夫婦が100組いれば、10 0通りの夫婦が生まれる。だから夫婦はおもしろい。男と女の世界は、おもしろい。
(補記)
●夫婦の相補性
++++++++++++++
夫婦が円満に暮らすためには、
相補性が必要である。
たがいにたがいを補いあう。それ
を「相補性」という。
++++++++++++++
仲のよい夫婦を観察してみると、そこにはひとつの共通点があるのがわかる。「相補性」
という共通点である。たがいにたがいを補いあう。それを「相補性」という。
たとえば1人の人間には、得意な点もあれば、不得意な点もある。良点もあれば、欠点
もある。そうしたもろもろの(点)を、たがいに補いあう。それが歯車のように、しっか
りとかみあう。それが「相補性」ということになる。
もし夫婦のどちらも、勝ち気で社交的ということになれば、衝突から離婚……というこ
とになる。タレントどうしの結婚を例にあげるまでもない。が、そういう夫婦でも仲良く
やっているというケースもなくはないが、しかしよくよく観察してみると、ここでいう相
補性があることがわかる。
反対に言うと、夫婦が円満であるためのコツは、いかにしてその相補性をつくるかとい
うことにもなる。
これは私たち夫婦のばあいだが、私は車の運転免許証をもっていない。いろいろ理由は
あるが、私は車には、興味がない。だからワイフが近くにいないと、身動きが取れない。
たとえ夫婦げんかの最中でも、頭をさげなければならないときは、さげる。しかたないか
ら、さげる。これも相補性のひとつということになる。
車を運転できない私を、ワイフが補ってくれる。
つまり夫婦というのは、たがいに無数の相補性をもっている。結婚生活が長ければ長い
ほど、歯車の数もふえ、そしてそれぞれの歯車が、しっとりとかみ合うようになる。私が
担当すべきところは、私が担当する。半面、ワイフに任すべきところは、ワイフに任す。
一方、身を引くところは、引く。
車の運転を例にあげるなら、車の運転は、ワイフに任せておけばよい。こうしてたがい
の相補性を、さらに濃密にしていく。
が、それだけではない。
相補性には、それぞれの分野で、主従関係をもつ。車を運転するワイフが、(主)であ
るとするなら、乗せてもらう私は、(従)ということになる。一方、仕事、収入という面
では、私が(主)であるとするなら、家計を管理するワイフは、(従)ということになる。
この主従関係をうまくつくるのも、相補性を考える点で大切である。「夫が主で、妻が
従」というのではない。それぞれの分野で、主従関係をつくる。つくるというより、自然
にできる。もっとも、だからといって、私たち夫婦が、仲がよいというわけではない。
要するに、私はワイフなしでは生きていかれないし、一方、ワイフは、私なしでは生き
ていかれない。そういうたがいの関係が、ときに(あきらめ)につながり、ついで(妥協)
につながる。総じていえば、結婚生活などというものは、そういうもの。またそれができ
る夫婦のことを、「仲のよい夫婦」という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
夫婦の相補性 仲のよい夫婦 仲の良い夫婦)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●同性愛
子どもはつぎの過程を経て、成長していく。(自己愛)→(同性愛)→(異性愛)と。フロイトがそ
う言っている。つまり子どもの成長過程で、同性愛的傾向があるからといって、あわててはいけ ない。ほとんどの子どもは、思春期前夜から思春期以前は、同性愛的傾向をもつ。その時期 を経て、それが異性愛へと変化していく。が、その時期を過ぎても同性愛的傾向がつづくようで あれば、性同一性障害が疑われる。(だからといって、それが異常と考えてはいけない。どうで あれ、あるがまま認め、納得する。)「性」の世界には、常識は通用しない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 子どもを知る心理学 幼児を知る心理学 学童期の子ども 心理)
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児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼
児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
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