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【場面かん黙・場面かん黙児】

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林美子(はやし・みこ)さんという方から、
『なっちゃんの声』という本を、送って
もらいました。

今回は、その本の紹介します。

で、場面かん黙児への理解は、まだほとんど
進んでいない……というのが、私の
実感です。

家の中では、ふつうに、あるいはふつう以上に
よくしゃべるため、親やその周辺の人は、
それに気づきません。
が、場面が変わると、まったく話さなく
なってしまいます。

たいていは、保育園や幼稚園など、集団教育の
場に、いきなり入れられたようなとき、
発症します。

対人恐怖症がこじれ、無言を守ることによって、
心を防衛しようとする機能が働くためと
考えるとわかりやすいでしょう。

はやし・みこさんから送っていただいた
資料にもあるように、早期の段階で気づき、
適切な指導(私のばあい、大声で笑わせるという
方法を重視しています)があれば、そのまま
症状が消えてしまいます。

が、問題は、その子ども自身にあるというより、
無知と無理解が蔓延し、誤解や偏見が生まれやすい
ということです。
私も一度、その子どもの父親に、「お前が
うちの子を萎縮させてしまった。責任を
取ってもらう!」と、怒鳴り込まれたことが
あります。
親自身が、それに気づかないというケースも
多々あります。

子育ての世界では、「無知」は、それ自体が
罪ということになります。
どこかにそのとき書いたエッセーがあるはずです。
あとで、ここに添付しておきます。

はやし・みこさん、本をお送りくださり、
ありがとうございました。
できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思い、
ここに紹介させていただきます。

本の申し込みは、「学苑社(03−3263−3817)まで。

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+++++以下、送っていただいた本、資料をそのまま紹介++++++

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jpeg" width="966" height="1507" alt="img135.jpg">


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jpeg" width="1015" height="1443" alt="img137.jpg">


<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/77/imga9e00f0dzikfzj.
jpeg" width="1138" height="1258" alt="img138.jpg">


+++++以上、送っていただいた本、資料をそのまま紹介++++++

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子育ての偏見と誤解について、もう10年近く
前に書いた原稿です。

先に書いたように、子育ての世界では、「無知」は、
それ自体が罪ということになります。
「知らなかった」では、すまないということです。
少しきびしいエッセーですが、そういう視点から
どうか、読んでください。

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【子育てブルース】

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子育ての世界にも、人には言えない、
悲しい物語が、山のようにある。
それを口にしたら、おしまい……という
ような話もある。
今朝は、そんな物語について、書いてみたい。
ただしここに書く子どもの例は、架空の
話と考えてほしい。
何人かの子どもを、1人の子どもに仕立てて
書いてみた。

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●問題児?

 その子ども(小2女児)には、まったく、問題はない。
むしろ聡明で、思考力も深い。
性格もおだやか。
とくに数に鋭い反応を示す。

 が、母親(Mさん)は、会うたびに、その子どもについて、不平、不満を並べる。
そのたびに、私は、それを否定する。
が、母親は信じない。
信じようともしない。
何か言えば、すかさず、それについて反論する。
「あそこが、悪い。ここが悪い」と

 この世界には、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉もある。
自分の子どもをわざと病人にしたて、その子どもを、かいがいしく世話をしてみせる。
よくできた母親を演じてみせる。
「私は子どもを愛しています」と、口ではよく言う。
しかしその実、何も愛していない。
自分の心の隙間を埋めるために、子どもを利用しているだけ。

(「代理ミュンヒハウゼン症候群」については、「はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン」
で、検索をかけてみてほしい。)

 が、それに似た事件となると、……というより、それを薄めたような事件となると、
程度の差もあるが、ゴマンとある。
それについて、ある精神科医のドクターは、こう教えてくれた。
「そのタイプの親は、(母親であることが多いが……)、見るからに様子がちがいますから、
わかります」と。

 「見るからに」という言葉を使えるのは、それなりに多くの例を見てきたから言える。
ふつうの人には、わからない。
が、たしかに様子が、ちがう。
へん?
おかしい?

 どこか挙動が不自然で、母親らしい(なめらかさ)がない。
いつもピリピリしていて、心に余裕が感じられない。

●Mさん(37歳)のケース

 ここに書いたMさんは、毎日のように娘(小2)の心配ばかりしている。
「学校の参観日で見たが、手をあげなかった」
「声が小さかった」
「せっかく先生にさされたのに、隣の子に、先に答を言われてしまった」
「忘れ物をした」
「宿題をやらない」と。

 少しでも顔色が悪いと、すぐ病院へ連れていく。
花粉症だったのだが、「レーザーで焼いてもらう」とか、「扁桃腺を切ってもらう」とか、
そんな話ばかり。

 その女の子で特徴的だったのは、母親が近くにいるときと、いないときとでは、様子が
まるで別人のようにちがったこと。
母親がいるときは、静かでおとなしかった。
表情も暗かった。
が、母親がいないところでは、明るく快活で、いつもニコニコ笑っていた。

 母親は、「子育てでたいへんです」と言いながら、Mさんが学校から帰ってくると、
一瞬たりとも、M子さんのそばから離れなかった。

●バカなフリ

 一方、大きな問題をかかえているにもかかわらず、それにまったく気づいていない親も
多い。
気づかないまま、子どもを叱ったり、説教したりする。
あるいは幼稚園の先生に、「どうしてでしょう?」を繰り返す。
が、幼稚園の先生に、診断権はない。
またそれが判断できるようになるまでには、10年単位の経験が必要。

 病名を出すのは、はばかれるが、しかしわかるものはわかる。
わかるのであって、どうしようもない。
「〜〜障害」と言われる子どもたちである。
AD・HD児にしても、自閉症児にしても、私のばあい、会った瞬間にわかる。
が、もちろん病名を口にするのは、タブー。
タブー中のタブー。
わかっていても、わらないフリをして、……つまり無知なフリ、もっと言えば、
バカなフリをして、相談に乗る。
しかし、ここで問題が起きる。

●たとえばLD児

 LD児、つまり学習障害と言われる子どもたちがいる。
症状は、みな、ちがう。
ちがうが、ある一定のワクの中で、定型化される。
読み書きのできない子ども、算数がとくに苦手な子ども、集中力に欠ける子どもなど。
が、平たく言えば、学習面において、著しい「遅れ」を示す。

 最近の定説に従えば、脳の機能的な問題がからんでいるため、教育の世界で
改善を求めるのは、容易なことではない。
たとえば識字障害児と呼ばれる子どもがいる(注※)。
難読症、失読症が含まれる。
出現率は、10%前後と言われている。
10人に1人。

 このタイプの子どもは、文字そのものを読み取ることができない。
そのためその影響は、あらゆる面に現れる。
が、親にはそれがわからない。
「算数の文章題を、読みまちがえてばかりいます」
「本を読みません」など。

 そういう子どもをもつ親から、「どうしたら国語ができるようになりますか」という
相談をもらう。
指導の方法がないわけではない。
が、簡単には、できるようにならない。
そこであれこれ方法を教える。
が、1、2週間もすると、(たったの1、2週間!)またやってきて、こう言う。
「先生、効果、ありませんでした」と。

●X君
 
 もう1人、記憶によく残っている子ども(中学・男児)に、X君がいた。
学校でも、評判の(?)子どもだった。
で、その子どもを含めて、自宅で、4〜5人だけのクラスをもったことがある。
しかし半年もしないうちに、X君だけをのぞいて、みな、やめてしまった。

 「あんなX君といっしょでは、いやだ」と。

 小さな地域である。
小学生活6年間をともに過ごしている。
みな、それぞれ、それぞれの子どもの能力をよく知っている。

 で、そのあとX君は、3年間、私の家に通ってくれた。
いつもひとりだった。
で、何とか、それなりの高校に進学していったが、それでX君が私に感謝したかというと、
それはない。
もともと勉強が嫌いだった。
やっと少し追いついたかと思っても、学校の勉強は、さらに先へと進んでいた。
つまり「親が行け」というから、私の教室に通ってきただけ。
毎週、毎週、重い足を引きずりながら、私のところへ来ていた。
それが私にも、よくわかった。
そういうケースもある。

●私の経験

 私もいろいろな「波」を経験した。
ある時期は、市内でもゆいいつと言われる進学校の子どもたちばかりになったこともある。
また別のある時期は、いわゆる問題をかかえた子どもたちばかりになったこともある。
英才教育を試みたこともある。
2〜3歳児の教育を試みたこともある。

 30〜40代のころは、幼稚園の年中児(4〜5歳)から、高校3年生まで教えていた。
そういう「波」を無数に経験して、現在は、「なるようになれ」が、教育の基本になって
いる。
深く考えない。
子どものことだけを考えて、教える。
教えるというより、接する。
親の要求には、際限がない。
それに振り回されていたのでは、教育そのものが成り立たない。

 が、このところ体力的な限界を感ずることが多くなった。
よく誤解されるが、教育は重労働である。
どう重労働であるかは、実は、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。
たった1人や2人の子どもですら、たいへん。
それを30人とか40人とか、教える。
まともに接したら、目が回る。
その中に問題のある子どもが含まれていたら、なおさら。
さらに問題のある親が介入してきたら、……!

●親の欲望

 ここで「親の欲望には際限がない」と書いた。
が、これは事実。

 進学校にしても、自分の子どもがB中学へ入れるとわかってくると、親は、今度は
「何とかA中学へ」と言い出す。
A中学へ入れそうになると、今度は、「S中学へ」と言い出す。

 また不登校児にしても、やっとのことで、午前中登校ができるようになると、
「せめて給食まで」となる。
給食を食べるようになると、「午後の授業も」と言い出す。

 それに振り回される学校の教師こそ、えらい迷惑。
(「迷惑」という言葉には、語弊があるが……。)
 私の教室で言えば、実のところ、問題をもった子どもほど、苦労する。
マンツーマンどころか、ワイフにも手伝ってもらって、2対1で教える。
が、そういう子どもがいると、ほかの子どもたちが、やめていく。
それでいて、その子どもが感謝するかといえば、そういうことは、絶対にない。
むしろいやなことをさせられたという、被害者意識をもってしまう。
こういう子どもは、「経営」ということを考えるなら、とても割に合わない。
(これ以上、これについて書くと、グチになるので、この話はここまで。)

●「お前を訴えてやる!」

 親の無知と無理解。
独断と偏見。
傲慢とわがまま。

 今では幼稚園でも、「入れていただけますか?」と聞いてやってくる親は、ほとんど
いない。
おけいこ塾なら、なおさらそうで、へたに「うちではお引き受けできません」などと
言おうものなら、親は、店で販売拒否にでもあったかのように怒り出す。

「どうしてうちの子は、入れてもらえないのですかア!」と。
 私の教室のばあい、過去40年近く、入会を断わったことはほとんどない。
子どもに問題があるときは、その子どもに合わせて、2〜3人のクラスを編成して、
指導する。

が、それでもこのところ疲れを覚えるようになった。
子どもの「質」が変わったというより、親たちの「質」が変わった。
子どもというより、親を見て判断する。
「この親の子どもは、教えられない」と判断したときは、入会を断わるようにしている。
子どもの問題点を、それなりに理解しているならまだしも、それがないと指導ができない。
10年ほど前だが、場面かん黙症の子ども(幼稚園女児)がいた。
このタイプの子どもは、集団の中では、貝殻を閉ざしたかのようにかん黙してしまう。

 で、ある日、父親が参観にやってきた。
自分の娘の様子を見た。
ショックを受けた。
そのあとのこと。
その父親は電話口で、こう言った怒鳴った。
「貴様は、うちの娘を萎縮させてしまった。
訴えてやる。責任を取ってもらう!」と。

●教育ブルース

 ……こうして今日も、全国のあちこちから、子育てブルースが聞こえてくる。
どこか毒々しくて、それでいて、どこかもの悲しい。
みんな一生懸命しているはずなのに、どこかで歯車が狂う。
狂って、人の心をさみしくする。

 できるならニヒリズムは、もちたくない。
しかしニヒリズムをもたずして、教育はできない。
親にしても、自分で失敗してみるまでは、それがわからない。
あるいは今の状態より、より悪くなって、それまでの状態がまだよかったことを知る。

 最初は、ほんの小さな狂い。
それが加速度的に大きくなり、悪循環に悪循環が重なる。
気がついたときには、にっちもさっちもいかなくなっている……。

 ではどうするか?

 この問題だけは、親自身が、自ら気がつくしかない。
そのために自分で賢くなるしかない。
が、それを恐れてはいけない。
子育てには、その人の人生観、哲学、生き様すべてが集約される。
子育てを追求することは、その人の人生観を追求することにもなる。
奥は深い。
生涯のテーマとして、なんら遜色はない。
……とまあ、大上段に書いて、この稿はおしまい。
どうかみなさん、失敗にめげず、がんばってください!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子育てブルース)
(注※)難読症、失読症の症状

【幼児期】

Delays in speech 
言葉の発達の遅れ。
Learns new words slowly 
新しい言葉を学ぶのが遅い。
Has difficulty rhyming words, as in nursery rhymes 
話す言葉がどこかぎこちない。ぎこちなさを感ずる。
Low letter knowledge 
文字について能力が遅れる。
Letter reversal, ex: e b f p (normal)
鏡文字を書く。

【学童期】

Early primary school-age children(小学低学年児)
Difficulty learning the alphabet or in order 
アルファベットを学ぶのが困難。
Difficulty with associating sounds with the letters that represent them 
(sound-symbol correspondence) 
その音を示す、文字と音を組み合わせるのが困難。
Difficulty identifying or generating rhyming words, or counting syllables in 
words (phonological awareness) 
文字を認識し、なめらかに文字を読むのが困難、あるいは単語の中の音節を数える
のが困難。
Difficulty segmenting words into individual sounds, or blending sounds to make 
words (phonemic awareness) 
単語をそれぞれの音に分離するのが困難。あるいは単語を作るため、音を混ぜるが
困難。
Difficulty with word retrieval or naming problems 
言葉の訂正が困難、あるいはものと名前の結びつけるのが困難。
Difficulty learning to decode written words 
表記文字を理解するのが困難。
Difficulty distinguishing between similar sounds in words; mixing up sounds in 
multisyllable words (auditory discrimination) (for example, "aminal" for animal, 
"bisghetti" for spaghetti)
単語の中の同じような音を区別するのが困難;たとえば「動物(どうぶつ)」を、「ど
うふづ」、「スパゲッティ」を「ビスゲッティ」と読むように、音節の多い単語の音
を混ぜてしまう。

【後期学童期】(小学、高学年児)

Older primary school children
Slow or inaccurate reading, although these individuals can read to an extent. 
ある程度は読むことができるが、読むのが遅く、不正確。
Very poor spelling 
綴りが苦手。
Difficulty reading out loud, reads word in the wrong order, skips words and 
sometimes says a word similar to another word (auditory processing disorder) 
大きな声で読むのが困難。前後の単語を入れ替えて読む、単語を飛ばす、あるいは
ほかの似たような単語に置き換えて文章を読む。
Difficulty associating individual words with their correct meanings 
それぞれの単語を、正しい意味と結びつけるのが困難。
Difficulty with time keeping and concept of time, when doing a certain task 
何かの作業をしているとき、時間を守るのが困難。時間の概念がない。
Difficulty with organization skills (working memory) 
系統立てて作業するのが困難。
Children with dyslexia may fail to see (and occasionally to hear) similarities and 
differences in letters and words, may not recognize the spacing that organizes 
letters into separate words, and may be unable to sound out the pronunciation of 
an unfamiliar word. (auditory processing disorder)
難読症の子どもは、文や単語の中の類似性や相違性を判断することができない。文
章の中の単語がスペース(空白)で区切られていることを認識することができない。
新しく出会った単語のようなばあい、それを発音することができない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 失読症 難読症 識字障害 文字表出能力障害 Dyslexia  Alexia 
ディスレクシア アレクシア)

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指導する側の立場で書いたエッセーです。

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●無知、無理解、無学

子育てで、何がこわいかと言って、無知(=親にその知識がない)、無理解(=子どもの症状に
ついて、理解しようとしない)、無学(=親に学ぶ姿勢がない)の3つほど、こわいものはない。

 私はドクターではないから、診断名をくだすことはできない。しかしその子どもに、どんな障害
があるかは、会ったその瞬間に、ある程度わかる。が、それを口に出すことはできない。わか
っていても、知らぬフリをする。そんなときは、そのため、それとなく、親に、さぐりを入れる。

 が、そういう親にかぎって、無知、無理解、無学。(失礼!)「できるだけ、避けて通りたい」と
いう親の気持ちも、理解できないわけではない。「たとえその疑いはあっても、信じたくない」と
いう親の気持ちも、理解できないわけではない。親としても、つらい。悲しい。それはよくわか
る。

たとえば7、8年前になるが、1人の女の子(小2)がいた。Hさんという名前の女の子だった。場
面かん黙児だった。最初、父親に連れられて私の教室にやってきた。が、父親は、自分の娘
のことを、何も気づいていなかった。

 その日は、何とか、やり過ごした。が、つぎのときには、今度は母親に連れられてやってき
た。私は、それとなくさぐりを入れた。(さぐり)というのは、親がどの程度まで、自分の子どもの
問題点を理解しているか、それを知ることをいう。が、何を聞いても、即座に返ってくるのは、
反論ばかり。

私「静かなお子さんですね」
母「家では、ふつうにしゃべります」
私「学校では、どうですか?」
母「友だちとなら、会話できます。しかし、おとなが苦手です」
私「学校の教室では、どんな様子ですか?」
母「しゃべりません。とくに先生との相性が悪いようです」

私「幼児期に、どこかへ相談なさったことがありますか」
母「問題は、ありません。生まれつき、外では、静かな子どもです」
私「外で静かだということにお気づきになったのは、いつですか?」
母「言葉の発達が遅れたからです」
私「遅れたというのは……?」
母「今は、問題、ありません」と。

 その女の子には、かん黙児特有の、(遊離)が見られた。顔の表情と、心の状態(情意)が不
一致した状態をいう。いつもニンマリというか、ニコニコというか、意味のわからない笑みを浮
かべていた。いやがっているはずのときも、怒っているはずのときも、意味のわからない笑み
を浮かべていた。同じかん黙児でも、こうした遊離が見られたら、(程度にもよるが……)、症状
は重いとみる。あるいは、すでに症状がこじれてしまっているとみる。

 もっと早い段階、たとえば3、4歳ごろにそれに気づき、適切な対処をしていれば、ある程度、
遊離を防げたかもしれない。軽くすますことができたかもしれない。しかしそれは(過去)の話。
教育の世界では、(今、そこにある現実)を原点に、ものを考える。親の過去を責めても、意味
はない。

 私はさらにさぐりを入れた。入れながら、親の口から、「かん黙」という言葉が出てくるのを待
った。しかし最後まで、その言葉は出てこなかった。ほんとうに無知なのか? それとも隠して
いるのか? 私には判断できなかった。

 で、このタイプの子どもの指導のむずかしい点は、(1)集団に溶け込まないこと。(2)心を開
かないから、心の交流ができないこと。(3)ストレスを、内へ内へとためやすいため、予期せぬ
問題が、発生しやすいこと。そのときすでに、その女の子には、家庭内暴力的な様子が、始ま
っていた。母親は、こう言った。

 「学校から帰ってくると、私に向かってはげしい暴力を振るうことがあります」と。

 つまり教える側からすると、腫れ物に触れるかのような、細心で、デリケートな指導が必要と
なる。何を考えているか、わからない。それがつかめない。そのため教えるといっても、まさに
手さぐりの神経戦。ピンと張り詰めたような神経戦。それが一瞬、一秒という単位でつづく。突
然、キレて、暴れ出すこともある。若いときなら、神経戦もできるが、当時すでに私は50歳を超
えていた。神経戦は、つらい。

 が、何よりも大きな問題は、そういう問題がありながらも、親自身が、それに気がついていな
いこと。気がついていれば、話もできる。指導もできる。が、そこにある問題から、親が目をそ
らしてしまっているばあい、指導そのものができない。

またこのタイプの親は、やめるのも、早い。少しやってみて効果がないとわかると、(そんなに
簡単に効果が現れるということはないのだが……)、「この教室はだめだ」というような判断をく
だして、子どもの手を引っ張って、そのままやめてしまう。

 その女の子のばあいも、私は、こう言った。「簡単には、いきませんよ。1年とか、2年とか、
あるいはもっとかかるかもしれません」と。しかし母親は、こう反論した。「うちの子は、慣れれ
ば、だれとでも話をします。話をしないのは、慣れていないだけです」と。「とにかく、教室へ置い
てくれれば、それでいい」とも、言った。

 事実、その女の子は、そのあと数か月程度で、私の教室を去っていった。

 かん黙児……。その中でもとくに指導がむずかしいのは、場面かん黙児。親は、「家ではふ
つうです」と、がんばる。子ども自身に問題があるとは、思っていない。だから、その問題点に
気づくこともない。

 だから私は、当時、こう書いた。「親の、無知、無理解、無学ほど、こわいものはない」と。

(付記)

 かん黙児にかぎらず、情緒そのものに障害がある子どもは、けっして、無理をしてはいけな
い。「直そう」とか、「治そう」と考えてはいけない。そういう子どもであることを認めた上で、その
子どもに合った指導をするのがよい。(親にそれを認めさせるまでが、たいへんだが……。)あ
とは、時期を待つ。子ども自身がもつ自律能力を待つ。

かん黙児にしても、その年齢がくれば、何ごともなかったかのように、終わる。小3〜4年生を
境に、症状は急速に改善する。(症状をこじらせれば、その時期は、ぐんと遅くなる。あるい
は、別の問題を引き起こす。)

 無知、無理解、無学が原因で、たいていの親は、無理をする。この無理が、こわい。「そんな
はずはない」「うちの子に限って」と、子どもをはげしく叱ったりする。そのため症状を、かえって
こじらせてしまう。子ども自身が自分で立ちなおるのを、遅らせてしまう。

 そこで学校教育の場では、それとなく親に、学校医もしくは専門医の紹介をしたりする。「一
度、専門医に相談してみてはどうですか?」と。

 こうした働きかけがあったら、親は、すなおにそれに応ずるのも、大切なことではないだろう
か。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 場面かん黙 場面かん黙児 緘黙児 はやし みこ なっちゃんの声)

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2003年に書いた原稿です。
古い原稿なので、随所に、知識不足な点も
あります。

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●かん黙児について



【かん黙についての相談より】



はじめまして。やっと先生のHPにたどりつきました。

私には年中の七月に五歳になったばかりの長男と、三歳の二男がおりますが、長男のことで
ご相談いたします.



長男は、家では明るくひょうきんでお調子者の元気な子ですが、一歩外へ出ると、なぜかほか
の子どもとは話しをすることができません。(大人とは会話をすることもあるのですが)。話し始
めたのは割と早かったのですが、五歳になる現在まで息子が友だちと楽しくおしゃべりする姿
をみたことがありません。



赤ちゃんの頃から人見知りが激しく、私からなかなか離れられない子だったので、性格かな?
 と思っていたのですが、いまだに治らないので、これは何かほかに問題があるのかなと思い
始めました。



幼稚園でも友だちの間には入っていけないらしく、担任の先生が友だちとの中に入って仲立ち
をしてくれています。



友だちから誘われると遊びはするものの、なぜか話しをすることができないということです。(し
てもあいづちを打ったり、うんとかううんとか言う程度だそうです)。先生には話しはできます。



四月より二年保育で幼稚園に通い始めましたが、喜んで通ってはいません。時々園バスを待
つとき泣いたり、行きたくないようなことを言います。でも帰ってくると幼稚園は楽しいとは言い
ます。



公園で遊んでいても、同じ年くらいの子がそばに寄ってくると顔がくもったり、逃げたり、不安そ
うな顔をしたりします。



息子は家では電車や車で町をつくったり、絵を描くのがすきです。それと数字や字を書くことに
とても興味があり、教えることもないのにどんどん覚えていきます。それとピアノがすごく好き
で、耳から聞く曲を、ピアノでそのまま弾いてみせたりしてびっくりすることがあります。



子どもと話しのできないかんもく症というのはあるのでしょうか? 親としてどうこの子に接して
やればいいのでしょう?



少しでも友だちと遊ぶことの楽しさを子どもに味あわせてやりたいのです。先生のアドバイス心
よりお待ちしております。

(長野県S市・SY母親より)



【はやし浩司より、SYさんへ】



 かん黙傾向というのは、広く、いろいろな情緒障害の随伴症状として見られるものです。です
から、かん黙傾向があるからといって、かん黙児ということにはなりません。たとえば対人恐怖
症の子どもは、やはり人前では、ほとんどしゃべりません。



 で、そのかん黙傾向が、ふつうの人間関係を結べないほどまでに強くなった状態を、かん黙
と言います。かん黙児の特徴については、ここに原稿を添付しておきます。参考にしてくださ
い。いただいたメールだけではよくわかりませんが、私は、心配されるようなかん黙児ではな
く、ここに書いた対人恐怖症ではないかと思います。「時々園バスを待つとき泣いたり、行きた
くないようなことを言います。でも帰ってくると幼稚園は楽しいとは言います」という、一日の中に
おいて、症状が変化するところに、それを感じました。これを「症状の日内変動」と言いますが、
広く、恐怖症全体に共通して見られる症状だからです。



 原因については、今さら問題にしても意味はありませんが、考えられるのは、最初の段階で、
人に対して、恐怖心を覚えたということです。つまり親と子だけのマンツーマンの子育てが中心
だったのが、外へ出され、そこで人に対して、恐怖心を覚えたということです。「人見知りが強
かった」ということですが、そのとき、親が無理をしたか、あるいは突き放すようなことをしたの
かもしれません。



 そういう意味では、情緒が不安定な子どもということになります。ただ誤解してはいけないの
は、情緒が不安定というのは、あくまでも結果でしかないということです。わかりやすく言えば、
あなたの子どもは、心の緊張感がとれない、ほぐれない状態にあるということです。その緊張し
ている状態のところに、心配や不安が入りこむと、それを解消しようと、一挙に、情緒が不安定
になる。それが今の状態だということです。



 この緊張感は、なかなかとれません。五、六歳児ならなおさらで、それこそ一年単位のケアが
必要です。あるいは安静になったと思っても、簡単なきっかけで再発します。心というのは、そ
ういうものです。もっと言えば、SYさん自身も、子どもに対して、全幅に心を開いていない、つま
り日常的に、ある種の緊張感を覚えている可能性もあります。子どもの心というのは、そういう
意味で親の心を写す、カガミのようなものです。あなた自身のことも反省してみてください。なお
恐怖症の原稿も、ここに添付しておきます。



 さてSYさんの相談で、一番気になるのは、三歳の二男のことです。逆算すると、人見知りを
始める、ちょうど、満一歳前後から、満一・五歳前後にかけて、下の子どもが生まれたことにな
ります。もっとも親に甘えたいときに、下の子が生まれたということになります。この段階で、子
どもの情緒が一挙に不安定になったと考えられます。いただきましたメールを読むかぎり、赤
ちゃんがえりの一つの変形タイプではないかと推察されます。どこかで「あなたはお兄ちゃんだ
から」式の、突き放しをしていませんか。決して、赤ちゃんがえりを安易に考えてはいけませ
ん。それはちょうど、あなたの夫が、ある日突然、愛人をあなたの家に連れこむようなもので
す。あなたははたして平静でいられるでしょうか。



 あくまでもいただいたメールの範囲ですが、いわゆるかん黙児ではないと思います。考えられ
るのは、赤ちゃんがえりがこじれた、対人恐怖症ではないかと思います。あくまでも一つの意見
として参考にしてください。かん黙児は、おとなとは、絶対に話をしません。



 ただ一つ気になるのは、自閉傾向があるということ。(自閉症ではありません。誤解のないよ
うに!)カラに閉じこもるような傾向を見せたら、何らかの方法で、外へ引き出してあげるとよい
でしょう。(ただし無理をしてはいけません。)「それと数字や字を書くことにとても興味があり、
教えることもないのにどんどん覚えていきます。それとピアノがすごく好きで、耳から聞く曲を、
ピアノでそのまま弾いてみせたりしてびっくりすることがあります」というところに、私は、それを
感じます。



 心のケアとして大切なことは、濃厚なスキンシップを与えるということです。とくに子どもがとき
どき、思いついたように求めてくるスキンシップについては、絶対に(絶対に!)拒んではいけま
せん。求めてきたら、グイと力強く抱く。しばらく抱いていると、やがて満足して体を離すようにな
ります。それまで、子どもを抱きます。



 またこの際、弟さんには悪いですが、全幅の愛情を、もう一度、子どもに戻してみます。添い
寝、手つなぎ、抱っこなど。そして半年単位で、少しずつ、離れていきます。スキンシップには魔
法の力があります。どうかそれを信じて、一度、ためしてみてください。



 なお。こうした心の問題は、「なおそう」と考えてはいけません。「今の状態をより悪くしないこ
と」だけを考えて対処します。「あなたはよくがんばっているよ」「すてきだわ」式の前向きなスト
ロークをかけてあげます。今、あなたの子どもは、体を使って、愛情不足を訴えています。



 最後に「ほかの子どもと楽しく遊ばせてあげたい」という、親のエゴを子どもに押しつけてはい
けません。五歳前後から、子どもは、幼児期から少年期への移行期(中間反抗期)に入りま
す。この時期、子どもは、カラを脱ぐようにして、少年になっていきます。決して、あせってはい
けません。あなたがそれを「悪いこと」と決めてかかればかかるほど、自我の同一性が乱れま
す。あるがままを認めながら、「あなたはそれでいいのよ」と自信をもたせてあげてください。



 今、たいへん微妙な段階にあると思います。幼稚園にせよ、無理をしないで、ときどき行けば
よい式に考えてください。心が発熱していると思えば、よいのです。それともあなたは熱がある
子どもを、幼稚園へ行かせますか? だいたい幼稚園へ、喜んでいく子どもなど、少ないので
す。とくにあなたの子どもはそうではないでしょうか。



 あとはCA、MGの多い食生活に心がけ、「暖かい無視」のある生活をしてみてください。で
は、また何か、変化があれば、ご連絡ください。お待ちしています。



 なおこの原稿は、七月二一日号のマガジンに掲載しますが、よろしくご了解ください。不都合
な点があれば、至急、ご連絡ください。改めます。



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(参考)



●かん黙児

 かん黙児……家の中などではふつうに話したり騒いだりすることはできても、場面が変わると
貝殻を閉ざしたかのように、かん黙してしまう子どもを、かん黙児という。通常の学習環境での
指導が困難なかん黙児は、小学生で一〇〇〇人中、四人(〇・三八%)、中学生で一〇〇〇
人中、三人(〇・二九%)と言われているが、実際にはその傾向のある子どもまで含めると、二
〇人に一人以上は経験する。



●ある特定の場面になるとかん黙するタイプ(場面かん黙)と、場面に関係なくかん黙する、全
かん黙に分けて考えるが、ほかにある特定の条件が重なるとかん黙してしまうタイプの子ども
や、気分的な要素に左右されてかん黙してしまう子どももいる。順に子どもを当てて意見を述
べさせるようなとき、ふとしたきっかけでかん黙してしまうなど。



 一般的には無言を守り対人関係を避けることにより、自分の保身をはかるために、子どもは
かん黙すると考えられている。これを防衛機制という。幼稚園や保育園へ入園したときをきっ
かけとして発症することが多く、過度の身体的緊張がその背景にあると言われている。



 かん黙状態になると、体をこわばらせる、視線をそらす(あるいはじっと相手をみつめる)、口
をキッと結ぶ。あるいは反対に柔和な笑みを浮かべたまま、かん黙する子どももいる。心と感
情表現が遊離したために起こる現象と考えるとわかりやすい。

かん黙児の指導で難しいのは、親にその理解がないこと。幼稚園などでその症状が出たりす
ると、たいていの親は、「先生の指導が悪い」「集団に慣れていないため」「友だちづきあいが
ヘタ」とか言う。「内弁慶なだけ」と言う人もいる。そして子どもに向かっては、「話しなさい」「どう
してハキハキしないの!」と叱る。しかし子どものかん黙は、脳の機能障害によるもので、子ど
もの力ではどうにもならない。またそういう前提で対処しなければならない。



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(参考2)



心の病気



 心も、ときに病気になる。その代表的なものに、(1)抑うつ神経症、(2)不安神経症、(3)強
迫神経症、(4)心気神経症、(5)恐怖症などがある。この中でとくに(1)抑うつ神経症を、「心
の風邪」と言う人がいる。となると、(2)不安神経症は、下痢、(3)強迫神経症は、頭痛、(4)
心気神経症は、胃炎、(5)恐怖症は、二日酔いということか。あまりよいたとえではないかもし
れないが、要するに、だれでも、下痢をしたり、頭痛になったりするように、簡単に不安神経症
になったり、強迫神経症になったりするということ。



 私のばあい、いつもこのどれかを経験している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(6)抑うつ神経症

ときどきワイフが先に死んだら、どうしようかと考える。ひとりで生きていく自信は、私には、まっ
たくない。しかし一度、そう考えだすと、生きる目的すら、なくしてしまう。今までの人生があっと
いう間に終わったように、これからの人生も、あっという間に終わってしまうだろうとか、私の老
後は、孤独であわれなものになるだろうとか、そんなことまで考える。ただ私のばあい、病識
(自分で病気とわかること)があるので、それなりに対処できる。「今の私は、本当の自分では
ない」と考えて、カルシウム剤をたくさんとって、睡眠時間を長くしたりする。軽いばあいには、
たいてい翌朝にはなおっている。心がふさいで重苦しく、晴れないことを、抑うつ神経症という。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(7)不安神経症

一度、パソコンにウィルスが侵入したのではないかと、大あわてしたことがある。心臓はドキド
キし、体中から冷や汗が出た。最終的には、パソコンをリカバリーをすることで問題を解決した
が、夜中に始めて、一段落したころには朝になっていた。ほかに私はちょっとしたことで、被害
妄想がとりとめなく大きくなることがある。つぎつぎとものごとを悪いほうへ、悪いほうへ考えて
しまう。俗にいう、とりこし苦労タイプの人間である。あとになって、「どうしてあんなことで悩んだ
のだろう」と思うことが多い。突発的にはげしい不安感に襲われ、呼吸が苦しくなったり、動悸
がはげしくなることを、不安神経症という。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(8)強迫神経症

山荘には、防犯装置と、自動火災連絡装置が設置してある。自動火災連絡装置というのは、
山荘内で、ガス漏れや火災があったとき、私の自宅のほうに電話がかかってくるしくみの装置
をいう。で、一度だけだが、それがかかってきたことがある。私はあわてて山荘へ向ったが、そ
のときは、本当に生きた心地がしなかった。途中、携帯電話で隣人に電話をしたが、あいにくと
隣人は不在。が、その直後からおかしな現象が起きた。山荘でたき火をしたあとなど、水で火
を消すのだが、いくら消しても、どこかもの足りなさを覚えた。たき火コーナーが、プールのよう
に水びたしになっても、不安感が消えなかったこともある。自分の意思に反して、勝手に悩んだ
り、心配したりすることを、強迫神経症という。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(9)心気神経症

今まで経験しなかったような病状が現れたりすると、「もしや」と思うことがある。数か月前だ
が、生徒たちからたくさんのチョコレートをもらった。そのチョコレートを食べ過ぎたせいか、脳
が一時的に覚醒(興奮)状態になってしまった。(私は本当はチョコレートは食べられない体
質。)脳が勝手に乱舞してしまった。私はそのときはチョコレートのせいだとはわからなかった
ので、脳腫瘍ではないかと疑ってしまった。とたん、極度の不安状態になってしまった。ワイフ
が「何でもないわよ」となだめてくれたが、私はフトンの中で、体を丸めてガタガタ震えていた。
悪い病気にかかってしまったのではないかと、極度の不安状態になることを、心気神経症とい
う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(10)恐怖症

私には高所恐怖症や閉所恐怖症にあわせて、飛行機恐怖症などがある。恐怖症というのは、
一度なると、いろいろな形で現れてくる。数年前は、あやうく交通事故を起こしかけたが、その
あと、私は自転車に乗られなくなってしまった。夜、自転車で道路を走っていたが、走っている
車が、どれも私のほうに向って走ってくるように感じた。私は数百メートル走っては自転車から
おり、また走ってはおりた。あとでみたら、手が、汗でべっとりと濡れていた。何かとくべつのこ
とで、ものごとに激しい恐怖感を覚えることを、恐怖症という。ほかに動物恐怖症、お面恐怖
症、先端恐怖症などもある。



 私のばあい、肉体的には健康だが、精神的にはあまり健康ではない。よく落ちこむし、ときに
激怒して、自分がわからなくなることがある。ここにあげた恐怖症にせよ、強迫神経症にせよ、
いろいろな形で、よく経験する。



 こういう心の病気になったとき、こわいのは、脳のCPU(中央演算装置)が狂うためか、狂っ
ている私のほうが正しいのか、そうでないときの私のほうが正しいのか、それがわからなくなる
こと。たとえば抑うつ状態になったとき、かえってそうでない人のほうが、おかしく見えるときが
ある。私のことで言うなら、落ちこんでいる自分のほうが、本当の自分のように思うことがある。
そして「今まで落ちこまなかったのは、私がバカだったから」というような考え方をしてしまう。



 また恐怖症にせよ、心気神経症にせよ、私の経験からしても、自分ではコントロールできない
ということ。自分に「だいじょうぶだ」と何度言い聞かせても、もう一人別の自分が、それを打ち
消してしまう。あるいは頭の中ではだいじょうぶと思っていても、体は勝手に動いてしまう。もう
二〇年近くも前のことだが、私はテレビのアンテナをつけるために、屋根にあがったことがあ
る。しかしおりるとき、勝手に足がすくんでしまい、それ以上、動けなくなってしまった。結局、近
くの電気屋さんに来てもらい、助けてもらったが、そのときも、いくら「だいじょうぶだ」と自分に
ってきかせても、自分では、どうしようもなかった。



 だから……。今、いろいろな心の病気をかかえた子どもに接すると、そういう子どもの心の状
態がよくわかる。親は、「気のせいだ」「気はもちようだ」などと言うが、私はそうは言わない。先
日も「トンネルがこわい」と訴えてきた小学生(小一男児)がいた。その子どもに接したときも、
私は、こう言った。「こわいよね。ぼくもトンネルがこわくて、ときどき入れないときがある。天井
がコンクリートか何かで、しっかりしていればいいけど、岩がむき出しであったりすると、ぞっと
するね」と。



 熱を出して苦しんでいる子どもに無理をさせないように、心の病気にかかっている子どもに無
理をしてはいけない。心の病気は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向があるが、
決して安易に考えてはいけない。こじらせればこじらせるほど、立ちなおりがむずかしくなる。

(030713)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司



(2)
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【日本の教育と日本の未来】(2011/03/08)

●教員の資格とは何か?

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小学校入学を迎え、その年齢の子どもをもつ親たちが騒がしくなってきた。
「うちの先生は、正規教員で、よかった」
「うちの先生は、見習い教員(=非正規教員)なの……」と。

あるいは誤解も多い。
「うちの学校は、非正規教員ばかり」とか、
「教員資格をもっていない先生もいる」とか、など。
(そういうことは、ない。)

今朝の毎日新聞によれば、『文部科学省の調査で、今年度は公立小中学校の教員の
6〜7人に1人に上ることがわかった』(2011/03/08、毎日新聞)とある。
「最近は多くなった……」と感じていたが、これほどまでに多いとは、私も
知らなかった。

実は、私の親しい友人の娘も、現在、その非正規教員として小学校で教えている。
「毎日、残業が多い」
「親からの携帯電話へのメールが多く、返事を書くだけで、2〜3時間かかる」と。
忙しい割には、給料は少ない。
毎日新聞は、つづいてこう書いている。

『山口県内の県立高校で非常勤講師を務める30代の女性は、昨春から2校掛け持ちで週
3日、計8時間教壇に立つ。年収は百数十万円。教員の給与だけでは生活できないため、
授業の合間を縫って週4日は塾講師と家庭教師のアルバイトをしている』と。

年収が、100数十万円というのは、きびしい。
月額にすると、10万円前後。
『青森県内の公立小学校に勤務する30代の男性は過去6年間、常勤講師と非常勤講師の
不安定な立場を繰り返してきた。非常勤の年は時給2790円』(毎日新聞)だそうだ。

で、友人の娘も、自宅から学校に通っている。
「あと1〜2年働けば、正規教員になれるかもしれない」とがんばっている。
が、その採用試験もきびしい。

『(青森県の場合)、10年度は579人が受験して23人しか採用されなかった』とある。

こうした現状の中、学校の教師の中には、ワーキングプアがふえているという。

『北海学園大の川村雅則准教授(労働経済学)は09年、連合北海道と共同で道内の非正
規教員を対象にアンケート調査を行った。608人の回答者のうち、「ワーキングプア」の
基準とされる年収200万円未満の教員が14%に上り、300万円未満に広げると4
3%に膨らんだ』(毎日新聞)と。

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●私は塾教師

  数字を整理してみる。

(1)非正規教員は、現在6〜7人に1人
(2)時給は、2790円
(3)年収200万円以下の教員が、14%
(4)年収300万円未満の教員が、43%

 私の職業は、基本的には塾教師。
「基本的には」と断りを入れるのは、「塾教師だけが収入源ではない」という意味。
若いころは、それだけでは生活ができないということで、いろいろな仕事をした。
最近になって、体力的な限界を感ずるようになった。
子どもたちと接することのありがたさが、理解できるようになった。
今は、子どもたちに教えるのが、生きがいになっている。
だから今は、「私は塾教師です」と、すなおに言うようになった。

 だからこういう数字を見ると、私はすぐこう思ってしまう。
「何も、学校の教師だけが、教師の道ではないはず」と。

●道はひとつ?

 この日本では、学校を離れて道はなく、子どもたちの進むべき道は、ひとつに
かぎられていた。
だから子どもが不登校を起こしたりすると、親は、真っ青になって、あわてた。
が、この10年、事情が大きく変わった。
静岡県の教育委員会も、4、5年前、「一芸論」という言葉を使い始めた。
(「一芸論」は、はやし浩司のオリジナル。
30年ほど前に書いた本の中で、私は、その言葉を使った。)

 世界は、そのころから「教育の多様性」を模索し始めた。
が、この日本では、遅れること、20年。
いまだに「学校絶対主義」「学歴信仰」「学校神話」が、のさばっている。

 何も学校だけが道ではない。
またそうであってはいけない。
子どもがおとなになる道は、無数にある。
その「無数」を、なぜ認めないのか。
親も、そして教師も!

●きびしい塾産業

 今の私なら、そんな学校などすぐやめて、さっさと塾教師になる……と書きたいが、
残念ながら、塾経営も、きわめてきびしい。
ウソだと思うなら、自分で生徒を集めてみたらよい。
40年前ならいざ知らず、今どき、広告につられて入塾してくる子どもなど、いない。
それに塾や進学塾については、寡占化が進んでいる。
またそうでないと、塾経営は成り立たない。

 具体的には、30〜40年前には、私の教室の周辺には、10〜15教室の塾があった。
が、現在、生き残っているのは、私の教室だけ。
また関東周辺に、以前、「学外研」というすぐれた塾連盟があった。
たいへんアカデミックな連盟で、定期的に会合を開き、活発に活動を繰り返していた。
いちばん多いときは、100くらいの塾長が、メンバーに名前を連ねていた。

 私もそのメンバーに加えてもらったが、今でも塾を経営している人は、ほとんどいない。
昨年、その中の1人の会うことがあった。
消息をたずねると、「みんなチリジリになってしまったなあ」と。
さみしそうだった。
それが現実である。

 となると、つまり「就職」ということを考えるなら、チェーン化した大規模塾しかない。
が、そちらのほうが仕事はむしろきびしい。
もちろん就職もきびしい。
生徒の定着率が悪いと、たいていそのままクビになってしまう。
採用期間も、1年の更新制がふつう。
年齢制限はないが、40代以上の教師は、現実には、ほとんどいない。

 加えて、「教育」と「指導」とはちがう。
受験教育とはいうが、中身は「指導」。
教育とは、本質的に異質のものである。

●口コミとキャリア

 が、私のばあい、60歳を過ぎても、何とか仕事ができる。
今も、している。
40年のキャリアがあるから……と書きたいが、キャリアだけでは、この仕事はできない。
「元○○大学教授」という肩書きを並べたところで、生徒は集まらない。

 が、やはり「キャリア」ということになる。
現在、私の教室に通っている生徒のうち、約30%以上は、OBの子どもたちである。
「子どものころ、先生に世話になりました」と言って、私にその子どもの教育を
任せてくれる。
それがここでいう「キャリア」ということになる。
またそういう親たちが、口コミで、生徒を呼んできてくれる。

 つまりそれだけの「根性」があるなら、「学校などすぐやめて、さっさと塾を開きなさい」
ということになる。
そうでないなら、まだ学校にぶらさがっていたほうが、安全!
無難!

●受験教育化する教育

 学校教育と受験産業。
それについて一言。

先にも書いたように、ちがいは「教育」と「指導」ということになる。
受験産業、とくに進学塾でしているのは、教育ではない。
指導である。
自動車教習所でしている、運転指導と同じ。
親も子どもも、それをよく知っている。
割り切って、通っている。
教える教師側も、それをよく知っている。

 が、だからといって、「教育」が善であり、「指導」が悪ということではない。
2000年以後、それまで無風地帯だったこの浜松市にも嵐が襲ってきた。
中高一貫校の出現である。
それまでは公立高校が「主」、私立高校が「従」、もしくはその受け皿として機能していた。
それが一変した。
今では、小学4、5年生ごろから、受験勉強が始まる。
同時に、それまで高等部しかなかった私立高校が、中等部を併設した。
受験戦争がさらに激化した。
私立高校によっては、進学塾の講師を招いて、進学指導をしているところもある。

 もし今ここで、「指導」を否定したら、日本の学校教育そのものが崩壊する。

●予備校化する高校

 となると「教育とは何か」ということになる。
改めて、教育とは何か。

私たちの古い世代は、「教育があって、受験勉強がある」と考えやすい。
が、今は、その反対。
「受験勉強をカモフラージュするため、教育らしきことをする」。
それが学校教育の基本的な姿勢となっている。
もう15年も前の話だが、こんなことがあった。

 神奈川県で中規模の進学塾を経営している知人から、神奈川県下の
進学高校の学校案内書が届いた。
全部で30〜40校分あった。
が、それを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、進学大学と合格者数が、「実績」として明記してあった。
中には別紙の形で、案内書にはさんであるのもあった。
しかしそういう学校は、数えるほど。
(あるいは数年おきに、案内書を印刷しているためかもしれない。)

 私はそれを見て、「高校が予備校化している」と感じた。
が、学校ばかりを責めてはいけない。
親たちが、それを基準にして、自分の子どもの進学先を決めている。
「あの学校はいい学校」「悪い学校」と。
平気でそれを口にする。

●現実と理想

 もちろん「これではいけない」と考える教師も多い。
あるいは教育に情熱を燃やして、教職に就く人も多い。
しかし現実と理想の間には、大きなギャップがある。
「人間を育てる」という大義名分はあっても、形骸化している。
この日本では、「だからそれがどうしたの?」という部分がない。
「人間を育てて、それがどうなの?」と。

たとえば中学3年生をみても、高校受験が、教師と生徒の関係を、粉々に
破壊する。
どう破壊するかは、みなさん、すでにご存知の通り。
大半の中学生は、蹴飛ばすようにして、学校を去っていく。

 わかりやすい例では、進学塾がある。
あの進学塾では、師弟の心温まるヒューマンなドラマは生まれない。
だからある講師はこう嘆いた。

「私は30年以上、進学塾の講師をしていますが、結婚式に呼ばれたことは
一度もありません」と。
「むしろ生徒たちは、仮に一流大学へ進学したとしても、進学塾に通っていたことは、
隠します」とも。

 そうした現実が、学校教育にも及んでいる。
だから尾崎豊が、「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った」(卒業)と歌ったときも、
その歌に驚く人がいる一方、その歌を支持する若者も、それ以上にいた。
シングル版も含めると、200万枚以上も売れたという(CBSソニー)。

●親の欲望

 一方、親の欲望には、際限がない。
昔は「教育ママ」と言った。
今は「モンスターママ」と言う。
正直に、「親さえ介入してこなければ、教育という仕事は、すばらしい仕事です」と
言った教師もいた。

 まじめな教師ほど、現実と理想のギャップの中で、苦しむ。
もがく。
そして傷つく。
そこで生まれた言葉が、「10%のニヒリズム」。
どこかの塾教師が、何かの会合のときに、そう教えてくれた。
「教育は、いかに全力投球しても、最後の10%は自分のためにとっておく」と。

 そこでいつも引き合いに出されるのが、あの金八先生。
熱血教師。
しかし実際には、ああいう教師はありえない。

●金八先生

 ある中学校の校長が、こう漏らした。
「ああいう番組が困るんです」と。
つまり親たちは、ああいう番組を見て、理想の教師像を作ってしまう。
現実から遊離する。
そしてその返す刀で、「教師はそうあるべきと決めてかかってくる」と。

 「あの番組のおかげで、教師たちがえらい迷惑をしています」とも。
ある女性教師は、こう漏らした。
「いろいろ言われますが、私たちが休めるのは、授業中だけです。
私は教科主任をしていますが、生活主任の先生に、教科指導はできません。
申し訳なくて、できません」と。
生活主任の教師は、夜中中、あちこちを飛び歩いている。
家庭が崩壊状態の生徒もいる。

 たとえば自分の娘が家出したとする。
そのとき親は、警察へ電話をするのではなく、まっさきに担任の教師に電話する。
「学校の先生は、そういうことをしてくれるべき」と。
そういう家庭のめんどうまで、みなければならない。
つまりクタクタ。
「そんな先生に向かって、どうして教科指導ができますか」(ある女性教師の会の席で)と。

 つまり今、学校の教師は、生徒の生活全般にまで責任を負うようになった。
その負担感には、相当なものがある。
まともな神経をもっていたのでは、勤まらない。
だから「10%のニヒリズム」。

●逆行する日本の教育

 が、世界の教育は、日本の流れとは、逆の方向に進んでいる。
「教師は、学校内での指導には責任をもつ。
しかし学校を一歩離れたら、一切、責任をもたない」と。
システムとしては、大病院の診察室を思い浮かべればよい。
診察室が教室になったと思えばよい。

 生徒が自分の教室にいる間は、教師は指導に責任をもつ。
が、一歩外に出れば、いっさいの責任はなし(アメリカ)。
あるいは教師の連絡先さえ秘密にしている国もある(カナダ)。
「教育は教育」と、割り切っている。
またそうであるからこそ、質の高い教育を教師は提供できる。
医師にしても、そうだ。
患者が診察室から出たら、そこで関係は切れる。
そうであるからこそ、質の高い医療を医師は提供できる。

 つまり金八先生が、あるべき教師の教師像と思ってはいけない。
またそういう教師を求めてはいけない。
あの番組は、そういう誤解を招く。

・・・という意味で、現場の教師たちは、えらい迷惑をしている。

●自分で考える子ども

 となると、「教育とは何か」、それがますますわからなくなってくる。
人間選別機関としての学校。
もの言わぬ従順な民作りとしての教育。
知識詰め込み主義としての教育。
「教え育てる」という観点からは、それでよい。
しかしそれが今、大きな曲がり角に来ている。

 恩師の田丸謙二先生は、口癖のように、こう言っている。
「Independent Thinkerを育てなさい」と。
「自分の頭で考える人」という意味である。
が、これは世界の常識でもある。
欧米では、どこの学校へ言っても、この言葉が、教室の入り口に張り紙にして書いてある。
(「Independent」につづく言葉は、いろいろあるが・・・。)

 が、問題がないわけではない。
「自分で考える子ども」・・・といっても、これはまさに両刃の剣。
オーストラリアの友人(大学の教授)は、こう言った。
「オーストラリアでは、伝統的に子どもの自立(Independent)を
重要視している。
それはそれでよいことだが、オーストラリアでは大企業が育たない理由のひとつにも
なっている、と。

 一方、この日本では、その逆。
教育のシステムそのものが、集団帰属型になっている。
むしろ「自分で考え、個性的に生きる子ども」を排斥する傾向が強い。
少し前まで、(今でもそうだが)、幼稚園などを親の都合で欠席したりすると、
すかさず幼稚園から電話がかかってきた。
「そんなことをすると、後れます」と。

 しかし何から「後れる」のか?
どうして「後れる」のか?
またどうしてそれが悪いことなのか。

●極東の小国

 今朝もアジアの地図を見て、こう思った。
「こんな小さな国が、よくがんばっているな」と。

 中国を体とするなら、朝鮮半島は、大腸。
そう思ってみると、日本は、便秘か何かで、やっと出てきた便のような形を
している。
ブツブツ、ブリブリ、と。

 かなり不謹慎なたとえかもしれないが、そのとき私はそう思った。
そんな国が、第三位にはなったといえ、まだ第三位。
世界第三位の経済大国。
が、その日本。
資源にも乏しい。
国土も狭い。
約80%は、山岳。

 この日本がこの先、生き残っていくためには、マンパワーしかない。
つまり「人間」。
「教育」。
その教育でつまずいていたら、この日本には未来はない。

●教員の資格とは何か

 が、そこにはひとつ、大きな壁が立ちはだかる。
この日本は、世界に名だたる官僚主義国家。
この日本が民主主義国家と思っているのは、私たち日本人だけ。
民主主義、つまり選挙などというものは、いわば「飾り」。
世界の民主主義と比較してみると、それがよくわかる。

 その結果、管理、管理、また管理。

 この日本では何を始めるにも、資格だの、許可だの、認可が必要。
田舎町の小さな駅で、ガイドをするにも、資格(?)がいる。
私が会ったガイドの女性が、そう話してくれた。
あるいは私の実家は自転車屋だったが、今では、床に油が一滴落ちていても、
仕事ができない。
消防法うんぬんという法律が、目を光らせている。
つまり日本人は、みな、管理という見えない糸で、体中をがんじがらめに縛られている。

 が、不思議なことに、本当に不思議なことに、そういう社会に住みながら、
だれも息苦しいと思っていない。
思っていても、それを口に出して言う人はいない。
そこで登場する言葉が、「自由」という言葉である。

 悲しいかな、私たち日本人は、いまだかって本物の自由に触れたことがない。
反対に、いまだに、江戸時代のあの封建主義時代を美化してやまない。
封建時代という、あの暗黒の過去すら清算していない。
江戸時代の身分制度が、学歴制度に替わった。

現在、私たちが「自由」と思っているものにしても、戦後アメリカから移植された
もの。
私たち自身が、勝ち取ったものではない。

 つまりその延長線上に、現在の教育制度がある。
で、改めて問う。
「教育とは何か?」と。
また「子どもの教育はどうあるべきか?」と。

●では、どうするか?

 第一に考えるのは、教師の負担の軽減。
日本の医療システムを参考にすればよい。
これは先にも書いた。
またこの方法により、教師は教育により専念できるようになる。
教師は「教育」の専門家である。
雑務に追われ、どうしてその専門性を追求できるというのか。

 第二に考えるのは、教育の自由化。
いまだに「英語教育不要論」がはびこっているのには、驚く。
「英語教育をやめて、国語教育を」とか、中には、「英語教育をやめて
論語を教えろ」と主張する学者もいる。

 だったら、こう考えればよい。
英語を勉強したい子どもがいる。
したくない子どももいる。
英語を学ばせたい親がいる。
学ばせたくない親もいる。
英語を教えたい教師がいる。
教えたくない教師もいる。

 ならば、どうして自由選択制にしないのか。
EUで広く採用されている、クラブ制にすればよい。
基本的な重要教科は、学校で教える。
それ以外の実用的な教科は、クラブに任せる。
もちろん英語クラブへ通いたい子どもは、そこへ通えばよい。

またクラブに払う月謝は、クーポン制(バウチャー券)にすればよい。
ドイツでは、そうしている。
こうして、教育をより柔軟かつ、多様化させる。

 第三に、これがもっとも重要だが、格差社会をなくす。
この格差社会があるかぎり、受験産業は栄える。
また現在の状況で、クラブ制を確立すれば、子どもたちはみな、
受験塾ばかりに通うようになるだろう。

 もちろん能力のある人は、それなりの道へ進めばよい。
しかしそうでない人が、既得権にぶらさがっているから、困る。
「天下りをどう思いますか」というレポーターの質問に答えて、ある官僚は、こう言った。
「私ら、若いころ受験で苦労したから、当然でしょ」(NHKの報道)と。

 これが既得権である。
またその権利を保留した人のことを、「既得権益者」と呼ぶ(「文藝春秋・日本の
論点2011」)。

 こうした人たちは、死ぬまで、国の手厚い保護を受ける。
そうでない人は、そうでない。
その格差を縮める。
教育改革は、そこから始まる。
またそれがないと、始まらない。
現に今、大卒の就職先として、人気ナンバーワンが、「公務員」(文科系)と
いうのは、まことにもって悲しむべき現象と考えてよい。

●カリキュラム

 2010年も、さまざまな実験を重ねてみた。
幼児(年中児・年長児)に、分数や小数を教えてみた。
正の数・負の数も教えてみた。
掛け算や割り算も教えてみた。
が、改めて幼児のもつ学習能力と旺盛な知識欲には驚いた。
底なしとは、まさに幼児の世界をいう。
それがだめだというのは、幼児には、クラッシク音楽を聴かせてはいけないと
言うのと同じくらい、バカげている。

 (私がどういう指導をしているかは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」へと進んでみてほしい。)

 そういう幼児の姿を見ると、「では、カリキュラムとは何か」と、
そこまで考えてしまう。
あるいは「カリキュラムほど、いいかげんなものはない」と断言してもよい。
言い方を変えると、「どうしてあんなものに縛られなければならないのか」と。

 教育は、もっと自由であってよい。
自由であるべき。
その「自由」の中から、教師のやる気が生まれる。
生徒のやる気も、つづいて生まれる。
教育のダイナミズムというのは、それをいう。

●非正規教師vs正規教師

 正規教師と非正規教師。
どういう教師を「正規」といい、どういう教師を「非正規」というのか。
が、文科省の教育システムの中に、しっかりと組み込まれた教師を、「正規」というのなら、
これはまちがっている。
またそれほど、恐ろしいものはない。
戦前、戦時中の軍国主義教育を引き合いに出すまでもない。
あるいはどこの独裁国家も、まず最初に手をつけるのが、教育。
それを忘れてはならない。
また私たちは、常に教育を疑ってみる。

 ねらいとしては、まず非正規教師として教師を雇い、教師の資質を確かめる。
不適格教師は、それによって選び落とすことができる。
「安い給料で・・・」というのは、あくまでも副次的なもの。
それが目的で、非正規教師をふやしたわけではない。

 もし財政難を口にするなら、アメリカのように、教師もインターン制にすればよい。
……という方法もあるはず。
アメリカの多くの小学校では、教師+インターン(学生)+当番の親(交替制)
の3人で教えている。

 むしろこの制度、つまり「非教師制度」は、教師そのものを、「もの言わぬ従順な
教師」づくりに利用される危険性がある。
言われたことだけを、きちんとこなし、それでよしとする教師である。
が、そうした教育から、ダイナミックな子どもは生まれない。
「これでいいのかなあ」と思ったところで、思考停止。

 日本の未来は、現在の教育制度をみるかぎり、あまりにも暗い。
「非正規教師」という言葉を見ながら、今朝は、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の教育改革 正規教師 非正規教師 教育と日本の未来)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●追記(田丸謙二先生からの返信)「クリエイティブな教育」について


+++++++++++++++++


田丸謙二先生の名前を原稿の中で使った
ときは、その原稿をかならず田丸謙二
先生に送ることにしている。
これは私のような物書きが守らなければ
ならない最低限のマナーである。
で、前回の原稿を田丸謙二先生に送ったら、
3通の返事が届いていた。


きびしい意見だが、私にはありがたい。


+++++++++++++++++


【1】


林様:independent に考える内容が問題です。creative education 日本に乏しい教育です。
殊に教師が。世界はコンピュータの時代に適応して激しく近代化する変化をリードする教
育をしていますが、日本は立ち遅ればかり。「ゆとり教育」がダメで今度は「探究」をと学
習指導要領に掲げながら碌に出来ない。日本だけ置いてきぼりです。残念ながら。
田丸謙二


論文添付※


【2】

林様:教育の本質的重要性は何か、教育する時間がどうの、待遇がどうの、教員の資格が
どうの、というよりも、もっともっと重要なことがあるのではないでしょうか。現実の問
題にとらわれ過ぎるよりも、です。
田丸謙二。


【3】


林様:膨大なアクセスがあればある程その内容は重要ではないでしょうか。現実問題を知
り過ぎている感じです。「本当の教育」がなんであるかを外にして。孔子が「論語」で言い
ました三楽の一つは本当の弟子を育てることであると、と。頑張って下さい。田丸謙二


【4】


林様:貴君の長い文章を印刷してゆっくり読みなおしました。前便では眠いままに斜め読
みでしたが、ゆっくり読むとさすがによく書かれている感じです。こちらの前便で書きま
したように「教育」の本質的あり方には触れてないのですが、街の話題的な観点からする
となるほどと思える点が少なくありません。日本が国際的に一人前になるのは矢張り「国
の将来は教育が決める」のですから、是非一人前になるよう、そして日本に乏しい「本当
の education 」を根付かせるよう頑張って下さい。
ご健闘を祈ります。お休みなさい。田丸謙二


+++++++++以下、田丸謙二先生の論文(※)より+++++++++++


●クリエイティブな教育を



森嶋教授の言葉:初めにロンドン大学の名誉教授だ
った森嶋通夫先生の文章を引用する。「現在の(日
本の)教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の
自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人
物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエ
イジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果
たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の
教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育であ
る。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育であ
る。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如し
ている 自分で考え、横並びでない自己判断の出来
る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄
目になる。(こうとうけん、16、(1998) p.17)


立花隆氏の言葉:次に最近出た立花隆の「天皇と東
大」(文芸春秋)の中の一節を引用する。『東大型の
秀才(いわゆる学校秀才)の頭の特徴は、人から教
えられることを丸暗記的に覚えこみ、それをその通
りに繰り返すことは得意とするが、自分の頭で独自
にものを考える、クリエイティブな思考は苦手と言う
ことである。日本の学校教育のシステムは、このタ
イプの秀才がよい成績をあげるように出来ている。
上級学校の入試(東大入試もふくめて)も、このタイ
プの秀才が受かるようにできているから、東大には
このタイプの秀才がごろごろいる。東大を卒業した
あとに、そのような秀才が各界にエリートとしてふり
まかれていくから、日本では、エリート層全体のクリ
エイティビティが低い』、つまり「試験に強い」のとクリ
エイティブとは別であるというのである」。


安藤教授の言葉:今年の「化学と工業」誌6月号に建
築家の安藤忠雄東大名誉教授の巻頭言が載ってお
り、その結論的な部分を書き出してみる。「新しい時
代を切り拓き、未来を創っていくために、私たちはも
っと力ある個人を育てていかねばならない。そのた
めに必要なのが知識の詰め込みでなく、能力を引き
出すための基礎学習だ。大切なのは子供たちの自
由な発想を促し、常に疑問を持ち、興味のあるもの
を探究していく姿勢を植えつけることだ。自ら成長し
ようとする力を伸ばしていくのが教育の根本である
はずだ。教育制度の改革は急務である」。 


私の孫の例:身近なその例を挙げてみる。アメリカ
で小学校二年まで教育を受けて日本に帰ってきた
私の孫は、日本育ちと著しく違っていた。例えば、コ
ップに水を入れその中に自分の腕時計を入れてい
る。「何をしているのよ!」というと。「これ防水と書
いてある」。実験なのである。(「ゆとり教育を始めた
有朗朗人先生はこの話を知って言われていた。日本
にもコップの水の中に腕時計を入れるような子が出
るといいのだが、と。科学の元は「好奇心」から生ま
れるからである。その意味で「すべての子供は自然
科学者」なのである)。その孫はさらに言う、救急車
がこちらに来る時は高い音なのに、向うに行くときは
低くなるのは何故?」、「台風のメはどうなっているの
?」、「雷の電圧は高い針金を使って測れないかし
ら」などなど、すべて自分で考えて質問をしていた。
自然が面白くてしょうがないのである。孫の担任の先
生も「自分は長年教師をしているがこんな利口な子供
は見たことがない」と言っていた。しかし、しかしであ
る。日本で「思考とは無関係な、お粗末な教科書」を
詰め込まれて、暗記させられ、試験に備える教育を
受ける間に見る見るうちに自分で考えなくなってしま
った。「利口な子供を利口でない子にする日本の教育
の素晴らしさ?」は本当に驚くほどはっきりしていた。
正に余りにもはっきりと示されたからである。安藤先
生の言われるお言葉の実にいい例がそのまま見られ
たのである。私の孫に限らず、日本では一般の子供
たちも生来「利口な素質」を持っていても、生来のそ
の優れた才能を引き出し(educeし)、育てる本当の
educationがない。エデュケイションとはそれぞれの子
供のいい点を自由に「引き出す(educeする)」ことであ
るのに、むしろそれを殺して育てているのが日本であ
る。本当の教育は「知識を詰め込む」ことだけではな
い。日本の教育関係者で本当にそのことを認識して
いる人は何人いるであろうか。「物を知らなければ、
自分で考えることが出来ない」「詰め込み教育」が本
当にあるべき教育と信じて子供たちの才能を殺して
いる罪深い教育者が満ち満ちているのでいるが、
そのような「罪深いこと」をしながら、彼ら自身はその
罪深さを微塵も意識していない。「考える力」を育てる
には全ての子供たちが生れながらに保有する自然科
学者としてのcuriosity を引き出し育てることである。
それを育てこそすれ、殺すことをしては絶対にいけな
いのである。子供の才能をつぶす罪深いことをしなが
ら、教育功労者として叙勲に預かっているのが日本の
教育者たちである。


川上先生の言葉:長岡技術科学大学の学長をしてお
られた川上正光先生の厳しい言葉を引用する。 「も
のを覚える能力と自ら考え出す独創力とは本質的に
別物である。「独創力ある人材」を作り出す点ではわ
が国の教育学も教育者も全く無力である。幼稚園か
ら大学院まで主として考える力を増強すべきであり、
各段階の入学試験もものしりの度合いを測ることを
やめて、考える力を測るべく大改革をなすべきであ
る」 福井謙一先生は言っておられた。「今の大学入
試は若い人の芽を摘んでいるんですよ」と。 例えば
化学者でも、もう一生見ることのないような化合物の
色を質問してみたりして、化学を悪くしているのは案
外化学者自身であることが少なくない。  


アメリカの教育改革:既に15年以上前のことである。
アメリカではアカデミーを中心に、それまでは理科で
鯨の種類などを覚えさせていたのを止めて、science 
inquiry、つまり何故そうなのか探究的に考える理科
に変え、しかも理科だけでなく社会や歴史も含めて、
全体的に記憶する知識は基本的なことに絞り、探究
的に「考える教育」に改革したのである。そのために
は、全国で150回も公開討論会を開き、教育関係者
とも密接に連携し、最後には4万冊の原本を作って新
しい教育を根付かせるという大変な努力をした。
  丁度同じ頃は日本では上意下達で、高校の化学か
ら「平衡」という言葉を除いて「考えない化学」にした
時代であった。「平衡」は最も基本的な考える概念の
一つである。その頃は「考える化学」など全く考えられ
ない「教育専門家」たちが日本の教育を牛耳っていた
のである。(現在では手直しされているからよいよう
なものではあるが、日本と米国との教育関係者たち
の見識のレベルが如何に異なるか、残念ながらこれ
ほど大きかったのである)。(二、三十年先の時代が求
める教育の近代化改革は教育のベテランに頼っては
出来ません。日本の教育が時代遅れになるのは文部
科学省が教育のベテランを集めて決めるから世界から
遅れてしまうのです。「ゆとり教育」が失敗だったことで
も解りますが、世界中がもっと「考えるeducationを」と
言って改革しているのに、日本では記憶させる項目を
減らしただけでした。本当に智恵のある連中に頼って
教育の近代化が初めて出来ることです。)


  アメリカの考える新しい理科教育はその後欧州
にも拡がり、日本にも「ゆとり教育」として入ってき
た。然し、日本では衆知のようにうまく行かない。
「知識三割削減、探究的に考える」と言っても、「考
える教育」など教師も含めて昔から乏しかったから
である。結果的には「学力低下」など言われ、現場は
混乱したままである。今度の学習指導要領ではそれ
を取り戻すべく「探究」を重視するというが、「ゆとり
教育」の二の前になる恐れ充分である。(2010年9月)


   「詰め込み教育」で「考えない教育」をしている
ということは教師は自分では分からない。誰でも自分
は十分に考えていると思っているものである。然し考
える力を養うにはそれなりの風土と大変に厳しい訓
練が要求される。私が前に本誌、化学と工業」(52巻)
に娘の大山秀子と書いた「アメリカの孫と日本の孫」
にあるが、アメリカの小学校の校長さんは教育の目
標に「independent thinker」を養うこととして授業中も
常に君はどう考えるか、このような場合はどうすれば
いいと思うか、各自の考える能力を引き出す(educe)
訓練をしているという。日本の小学校の先生で
「independent thinker」を養うなど考える先生がいる
だろうか。教育改革に忙しい世界の中でわが国だけ
が取り残される。


これからの教育:コンピュータの時代になり、科学技
術はいうまでもなく、国際化、情報化は加速度的に
進み、変化の激しい時代になってきた。今の若い人
たちが社会を支える二、三十年先の時代はさらに激
しく変化をするダイナミックな時代になるであろう。携
帯用のパソコンも出てくるだろう。その時代に備える
彼らヘの「現在の教育」はその将来の時代に適応し、
時代をリードできる「智慧」を育てることでなくてはな
らない。欧米式にindependent thinkerに育て、時代
を先取りして、思考力をしっかりと身につけ、クリエイ
ティブに考える教育をすることである。「ものしり」創り
ではない。


   わが国には「学ぶ」が「マネブ」(真似をする)か
ら由来したように,文化輸入国であったし、新しいこと
を探究する教育の伝統もなかった。「ゆとり教育」が
うまく行かないのも「自立して考える風土」がないか
らである。今まで考える教育など受けたこともない
教師に「考える教育を」と言っても容易でない。生徒
は授業中に自立して新しいことを考えることもなく、
debateすることもない。その上、世界的にも極めて
見劣りする今の日本の「教科書」を使って「考える力」
を育てるのはとても容易ではない。文部科学省の責
任である。欧米に見習って教科書の検定は辞めるべ
きである。


入試改革:教育を変えるには試験制度も変えること
になる。欧米式にクリエイティビティを基にするので
ある。私はある新設大学で、高校の教科書持参で
試験をし、記述式に答えさせた。(筆記試験と並行し
て面接で基礎項目を尋ねる試験を設けた。)知識を
尋ねるのではなく、こういう場合はどうすればいいか、
これは何故なのか、専ら考える問題を出して記述式
に答えを書かせると、受験生の考える力は手に取る
ように分かる。○×式などの比ではない。(教科書持
参でなくても「考える問題」を出せばよい) ケンブリッ
ジ大学では入試に知識の量は問わない、専ら面接を
主にして自立して考え、本当にやる気のある将来の
リーダーを選ぶという。今の日本のように、○×式
で一点でも違えばそこで線を引くのを最も公平とす
る「手抜きの試験」だけでクリエイティブな教育が育
つはずがない。若い人たちの芽を摘んでいながら、
大学の教師たちはその罪を微塵も意識していない。
クリエイティブな試験をするにはクリエイティブな出
題者が不可欠である。


   私はこれまで繰り返しクリエイティブな教育の重
要性を説いてきた。それに対する教育関係者は殆ど
全て賛意を評してくれている。しかし本当のところそ
れが何を意味するのか殆ど解かってくれない、反対
する理由がないだけである。日本の教育の根本的
改革が如何に難しいかがよく解かる。今は世界的に
教育改革の大きな波が広がっている。日本では現在
教育問題が話題になっているが、この機会にわが国
でも全ての教師たちがダイナミックに激動する時代を
リードするよう、「考える智慧」を育てる「クリエイテイ
ブに考える教育」を目指さないと本当に日本は駄目
になる。「ゆとり教育」がもたらした現在の混乱した状
態から一日も早く正しい方向へと立ち直るためには、
化学会の化学教育協議会の努力も不可欠であるし、
「化学と教育」誌でも、どうしたら生徒が自立してクリ
エイティブに考えるような授業が出来るか、これまで
なかったタイプの教育なだけに、是非前向きに示して
欲しいものである。


終わりに:要するに森嶋通夫教授の「自分で考え、横
並びでない自己判断のできる人間を育てなければ日
本は本当に駄目になる」という言葉も、安藤教授の強
い個人を作れと言われるのも、そのまま私の孫の例
でも解かることであるし、また立花隆氏の指摘する
「日本のエリートはクリエイティビティが乏しい」という
のも、更には「ゆとり教育」が教育界に混乱をもたらし
ただけなのも、理由は全て共通の基盤から来る話で
ある。日本の教育には「詰め込み教育」はあっても「考
える力の育成」が乏しいのである。


  日本の教育と欧米のエデュケイションとの違い」


        日本的教育   欧米のエデュケイション


志向型     知識の蓄積      創造力開発
教師の立場操作 Teaching 教育  Education 啓能
目的        教える       才能をひき出す
学生の立場    Learning 学習  Study 考究
目的         覚える      掘り下げて考える
特徴
(1)    既成の枠内にいる   枠出て自由に考える
(2)   物知りで模倣が上手  独創力が養える
(3)    問題の解き屋に終わる 発明・発見をする


                     2,007年6月22日


「化学と教育」誌’57巻3号(2009年)に日本化学会会
長の中西宏幸さんがお書きになっています。「イノベー
ションを推進するためにはこれを担う人材の育成が急
務であるが、残念ながら、わが国の人材育成は多くの
問題を抱え危機的な状況にあるといわざるをえない。
コミユニケーション能力の不足、専門以外の基礎学力
の不足、自分で考える力あるいは意欲の低下といった
問題が感じられるのは私だけではないと思う」 2009年
9月26日

   
  「ゆとり教育」が「学力不足」をもたらしたということで教育
改革をしようという。「記憶させる項目」を増やしただけでは
本当の教育改革にはならない。しかし一部の教育関係者
の中にはゆとり教育の反省もあって矢張りもっと考えさせ
る教育を定着させなければの声も出てきた。欧米の教科
書を見ても皆日本の何倍もの厚さで、ものの考え方から
興味ある話題など、読んでいて学問の面白さが身に着く
ようになっている。日本の薄い最低の教科書とは雲泥の
違いである。(教科書は学校の備品として備えて、それを
5年間使えば毎年の必要経費は五分の一になる。厚い教
科書の全部を教えなくても、好きな子はどんどん先を学ん
で伸びて行く。)最も大事なことは矢張り教師の再教育で
ある。

                        (2010年5月6日)      
 
             
 アメリカの先端的企業のIBM の社訓は「think (考えろ)」と
いうことで、各自の机の上に「think」と書いた文鎮が置かれ
ているという。或る卒業生がIBM に関係していてその話を
したら、彼はポケットからボールペンをとり出してそれに小
さい字で「think IBM」と刻んであった。誰でも自分は充分に
考えていると思っている。然し外から「もっと考えろ」と言わ
れてもう一考えをするだけcreativeになるものである。正に
田丸研の「家訓」が「もっと考えろ、考えに考えて新しいアイ
ディアを得る体験」を求めていますがその人なりに「深く考
えに考えるる習慣」を身につけることはは一生の宝になる
からである。
                        (2010年10月11日)

+++++++++以上、田丸謙二先生の論文(※)より+++++++++++

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【弟子論】

●孔子の論語「三楽について」

++++++++++++++++++++++

『論語』(ろんご、&#25340;音: L&uacute;ny&#468; )とは、孔子と
彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した
書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教
における「四書」の1つに数えられる(以上、
ウィキペディア百科事典より)

++++++++++++++++++++++

●孔子の「三楽について」

孔子曰、益者三樂、損者三樂、樂節禮樂、樂道人之善、樂多賢友、益矣、樂驕樂、樂佚遊、
樂宴樂、損矣。

孔子の曰わく、益者(えきしゃ)三楽(さんらく)、損者(そんしゃ)三楽。礼楽(れいが
く)を節(せっ)せんことを楽しみ、人の善を道(い)うことを楽しみ、賢友(けんゆう)
多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴
楽(えんらく)を楽しむは、損なり。

●三楽

 「楽」といっても、内容はさまざま。

○礼楽(れいがく)を節(せっ)せんことを楽しむ。
○人の善を道(い)うことを楽しむ。
○賢友(けんゆう)多きを楽しむ。

×驕楽(きょうらく)を楽しむ。
×佚遊(いつゆう)を楽しむ。
×宴楽(えんらく)を楽しむ。

 孔子は、上記(○)を益者三楽、(×)を損者三楽と位置づけた。
田丸謙二先生が説く「弟子」とは、孔子の説いた「賢友」のことか。
釈迦も、キリストもその弟子に恵まれた。
弟子が、釈迦やキリストの教えを広めた。
もし弟子がいなかったら、釈迦もキリストも、その名すら世界に知られることはなかった。
田丸謙二先生は、この三楽を引用しながら、「孔子が論語で言いました三楽の一つは、
本当の弟子を育てることである」と説いている。

 その通りだと思う。
私たちがなぜ今、ここに生きているかといえば、子孫をつぎの時代に残すため。
肉体は生殖によって残すことができる。
が、精神は、「弟子」によって、残すことができる。
少なくともほかに伝達手段のなかった、孔子の時代にはそうだった。

 が、ここでひとつのパラドックスにぶつかる。
「弟子はどうすればいいのか」というパラドックスである。
弟子は弟子。
師にはなれない。
師になったとたん、弟子は弟子でなくなってしまう。

●師の連鎖

 孔子はそれでよい。
釈迦もキリストもそれでよい。
弟子を作り、自分の考えを教え広めることができた。
では、弟子はどうするのか。
単刀直入に言えば、弟子はただ「師」の教えを忠実に後世に伝える伝道者であれば、
それでよいのか。
たとえばキリストの弟子のマタイは、キリストの重要な教えを後世に残した。
しかしマタイ自身は、キリストを超えることはできなかった。
弟子のままだった。

 が、もちろんそうではない。
またそうであってはいけない。
弟子はつぎの段階では「師」であり、その弟子も、そのつぎの段階では「師」になる。
それを「師の連鎖」と考えるなら、師の連鎖こそが、人間の精神を高揚する。
田丸謙二先生の弟子は、今度は師となり、また自分の弟子を育てる。
たぶん田丸謙二先生も、そういう意味で、「弟子を育てなさい」と言っている。

●多元化する現代社会

 が、師はつねに、自分に忠実な、つまりは自分だけを師とするような弟子を求めやすい。
釈迦もキリストも、そうだった。
(「汝の敵を愛せよ」と教えたキリスト自身は、自分の敵を許さなかった。
これもパラドックスである。)

科学の世界と宗教の世界は、ちがうかもしれない。
しかし現代社会は、釈迦やキリスト、さらには孔子が生きていた時代とはちがう。
私自身にしても、中学、高校、大学と、それぞれの段階で、多くの師に囲まれた。
さらに今というこの時点においても、それぞれの分野に、「師」がいる。
一元的な師弟関係というのは、現実には、存在しない。
(繰り返しになるが、宗教の世界では、師はつねに1人ということになる。)

 加えてこれほどまでの情報社会になると、私たちは常に無数の情報を吸収し、
その一方で、これまた無数の情報を吐き出す。
と、考えていくと、(つまり田丸先生流に、自分の頭で、independentに考えていくと)、
師とは何か。
弟子とは何か。
さらに言えば、三楽とは何か、それがわからなくなる。
(もともと私はこういう教条的なものの考え方が好きではないのだが……。)

 つまり私はもとから、「弟子」などというもは、考えていない。
私自身が「師」になろうという野心もない。
その力もない。
言い換えると、私は(人)から(人)への一里塚。
どうせ人は死ねばおしまい。
何らかの形で、「私」の影響は残るかもしれない。
が、そこまで。
名前を残したところで、意味はない。
大切なことは、つぎの世代の人たちが、よりよい人生を歩むこと。
それでよい。

●現代という時代の中で

 コンピューターとそれにつづくインターネット。
これをさして、「第二の産業革命」と説く人は多い。
(もっともそう評価されるためには、もう少し時代の流れを見なければならないが……。)
しかしコンピューターとインターネットが、私たちの生活を根底からひっくり返し始めて
いるのは、事実。

 たとえば私はこうしてものを書く。
書いたものは、瞬時に、世界中の人たちの目に届く。
HPとBLOGの両方だけで、毎月のアクセス数が、2009年の5月、30万件を
超えた。
現在は、もっと多い。
中には、毎日、熱心に私の原稿を読んでくれる人がいる。
ときどきそういう人に出会う。
先日も、あるレストランへ入ったら、そこの店主がこう言った。
「先生(=私)の原稿を、毎日読んでますよ」と。

 が、私はそういう人たちに対して、「私は師」と思ったことはない。
また読者イコール、「弟子」と考えたこともない。
読者自身も、そうは思っていないだろう。
それに読んでくれるからといって、私の意見への賛同者とはかぎらない。
多くは、「くだらないことを書いている」と、笑っているかもしれない。

 が、それにしても、すばらしいことではないか。
地方の、浜松市にいながら、東京を通り越して、世界に向けて情報を発信することが
できる。
反対に、地方の、浜松市にいながら、世界の最新の情報を、そのまま受け取ることが
できる。
本を書くときのようなめんどうな手続き(出版社とのやり取り全般)も、必要なし。
しかも読者の反応も、これまた瞬時に届く。

 これを「第二の産業革命」と言わずして、何と言う?

 ずいぶんと回りくどい言い方をしたが、田丸謙二先生の説く「弟子」の時代は、
すでに終ったのではないか。
それを支える「上下意識」も、すでに崩壊している。
少なくとも、一元的な師弟関係の時代は終ったのではないか。
孔子の時代とは異なり、情報の伝達方法そのものが変わった。
今の私は、そう考える。

 不特定多数の「師」が、これまた不特定多数の「弟子」をもち、その不特定多数の
「弟子」が、これまた別の世界で、不特定多数の「師」となる。
そういう関係が渾然一体となって、現代社会の人間関係を、網の目のように創りあげて
いる。
それがあえて言えば、現代版の師弟関係ということになる。

●孔子の時代

 神格化している孔子を批判すのは、たいへんなこと。
恐れ多い。
しかし孔子の時代と、現代を同一視することは危険なことでもある。
先にも書いたように、「三楽」とか、「益楽」「損楽」と、教条的に考えるのは、私は
好きではない。
あまりにも教条的である。
人間の生活は、もっと多様性に富んでいる。
それぞれがスペクトラムのように、たがいに入り混じっている。
教条のこわいところは、教条によってその人を束縛する点のみならず、それ以外の
思考性を否定するところにある。
あるいは人から考える力、そのものを奪う。
さらに言えば、「楽」とは何か、その定義もあいまい。

 孔子が生きていたころのように、情報が恐ろしく貧弱な時代(失礼!)には、それなり
に説得力はあったかもしれない。
が、今はちがう。
PETの発達とともに、人間の脳の働きを、リアルタイムに見ることもできるように
なった。
「欲望」についても、大脳生理学の分野で、科学的な説明がなされ始めている。
視床下部から発せられる信号に応じて、ドーパミンという脳間伝達物質が分泌される。
それが人間の生きる原動力となる。
(生きる)こと自体が、(欲望)の現れと考える。

 方向性こそちがうが、真理探究に向かうエネルギーも、享楽に向かうエネルギーも、
中身は同じ。
少なくとも脳内の反応としては、区別がつかない。
ときには、驕楽(きょうらく=傲慢)を楽しみ、佚遊(いつゆう=怠惰)を楽しみ、
またときには、宴楽(えんらく=酒盛り)を楽しむ。
同時に真理探究のも心がける。
それが人間ではないのか。
「悪」と決めつけてはいけない。

 ……とまあ、居直ってばかりいてはいけない。

 が、つまるところ、「教育」というのは、そういうもの。
何も期待せず、何も求めず、我が正しいと思うところを、子どもに伝えていく。
そのあとの判断は、子どもに任せればよい。
くだらないと思って去っていく子どももいれば、すばらしいと言って近づいてくる
子どももいる。
去っていく子どもも、近づいてくる子どもも、弟子は弟子。
賛同してくれないから弟子でないとか、賛同してくれるから弟子と考えてはいけない。
それこそ、「驕楽(傲慢)」と言うべき。

●はやし浩司流「弟子論」

 以上が、私が考えた「弟子論」ということになる。
ただ田丸謙二先生は、私の住む世界とは、まったく異質の世界に住んでいる。
田丸謙二先生の住んでいる世界は、学問の世界。
真理探究の世界。
そういう世界では、真理の積み重ねが必要不可欠。
つまり人間関係は師弟関係で結ばれる。
またそれがないと、「体系(=組織)」が確立しない。

 一方私が住んでいる世界は、俗世間。
そもそも「師」として残すようなものは、考えていない。
また残せるようなものは、何もない。
またそこに私の信奉者がいたとしても、私はその名前はおろか、存在すら知らない。
ゆいいつの指標は、読者がふえているということ。
が、それとて、数字の話。
YOUTUBEの動画だけでも、このところ毎日800件(インサイト)もアクセス
がある。
が、「800件」という数字があるだけで、実感はない。
つまりそれが現代流の、師弟関係(?)と考えられなくもない。

 ……ということで、このエッセーの結論。
田丸謙二先生は、「弟子を育てろ」と私に教える。
しかし今の私には、それについてどう答えたらよいのか、わからない。
ただひとつはっきりしている点がある。
それは私は、田丸謙二先生の、弟子の一部。
「1人」ではなく、あくまでも「一部」。
田丸謙二先生の書いた原稿を、できるだけ末永く残す。
教えを守り、この先、ひとつずつ考証しては、自分の考えを書き足していく。
1人のIndependent Thinkerとして……。

●弟子の一部として

 恩師、田丸謙二先生のような先生の意見に異議を唱えるのは、本当に恐れ多いこと。
このままこの原稿をボツにしようかとも考えた。
が、私は私。
Independent Thinker。
このまま保存する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 弟子論 師弟関係 はやし浩司 孔子 三楽 はやし浩司 三楽 賢
友)




(3)
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●UFO問題

●宇宙人はいる!

++++++++++++++++++++

「はやし浩司」という1人の、小さな人間が住む、
そのまた小さな世界。
その中で、はやし浩司ははやし浩司なりに、
宇宙人の存在を確信した。

それは私の人生の中でも、特筆すべきできごと
といってもよい。
「他人を介していない」という意味において、
また私自身が確信できるという意味において、
特筆すべきことできごとといってもよい。

小さな、そのまた小さな証明だが、しかし
それ以上の証明が、この私にできるだろうか。
組織力も、調査力もない。
どこまでも小さな私である。
あなたと同じ、小さな人間である。

何はさておき、ここに新聞のコピー(1)と、
火星で撮影された写真(2)を、並べて掲載する。

(1)の記事は、私が2000年11月25日(土)に、
中日新聞に寄稿したエッセーである。
「2000年」という年号に注意しておいてほしい。

(2)の写真は、2003年6月10日に打ち上げられた、
アメリカの火星探査機「スピリット」が、地球に
送ってきた写真である。
スピリットは、2004年1月3日に火星に到達している。
つまりこの写真は、どんなに早くて、2004年1月
3日以後に撮影されたものということになる。

この「2004年」という年号に注意しておいてほしい。
その上で、私自身が描いた新聞上のイラストと、
スピリットが送ってきた写真を見比べてみてほしい。

もし逆、つまり私が描いたイラストがスピリットが
送ってきた写真よりあとということなら、私が
スピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたと疑われてもしかたない。
しかし私のほうが、先に書いている。
2000年の11月である。
スピリットがこの写真を送ってきたのは、少なくとも
2004年1月以後である。
私がスピリットの送ってきた写真を模してイラストを
描いたということは、ありえない!

つまりこれが、私という小さな人間の、ささやかな、
実にささやかな「証拠」ということになる。
「宇宙人は存在する」という、ささやかな証拠
ということになる。

+++++++++++++++


(1)

 


2000年月1125日発表の原稿





★2000年、私が発表したコラム


★原稿より(上、写真版の読みづらい人は、どうか下をお読みください。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●見たぞ、UFO!(中日新聞記事より)(2000年11月)


見たものは見た。巨大なUFO、だ。
ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。
見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という
迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいな
く、あれはUFOだった」。


 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。


そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。
あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が
凍りつくのを覚えた。
その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。
私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。
「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていっ
た。


 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。
その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告
はありません」と。
もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。
私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに
巨大なものがあるとは思ってもみなかった。


が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届
けてくれた。
当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。
矢追氏はその番組のディレクターをしていた。
あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。
私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUF
Oがあったからだ。


 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。
人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなこと
だ。
そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしく
はない。
もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。
闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソ
ということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。


 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。
この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。
君の資質が疑われる」と言う人もいる。
しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論
だけではない。
小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊
書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。


そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。
たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私は
それについて書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司




イラスト拡大図(2000年11月の記事より) ★コラムの中のイラストの拡大図 d88cbd81.jpg ★火星探査機「スピリット」が送ってきた、火星上空を浮遊するUFO(2004年) ●火星上のUFO.jpg ★(UFOの拡大写真) 2004年に火星探査機「スピリット」によって撮影された火星上空のUFO ★別の本に紹介された、火星上空のUFO(「世界のUFO現象」(学研))


●宇宙人は、確かにいる!


 私はあの夜のことを忘れない。
あの夜、私とワイフは、UFOを見た。
が、当初、私は、それをUFOとは思わなかった。
私が聞いていたUFOは、円盤形のものをいう。
「く」の字型(ブーメラン型)のUFOなど、知るよしもなかった。
しかも、巨大だった。
天空をぐいと横切るほど、巨大だった。
新聞記事の中では、1、2キロと書いたが、実際のところ、よくわからない。
それよりも大きかったかもしれない。
あるいは小さかったかもしれない。
が、飛行機とは比較にならないほど、巨大だった。


 あの夜見たものを、もう一度、整理しておきたい。


(1)窓


 私もワイフも窓らしきものを目撃している。
大きな丸い窓(?)で、よく見ないとわからないほど、淡い橙色のものだった。
私はそれはジグザグに並んでいたように思うが、ワイフは、一直線だったと言っている。


(2)黒いシルエット


 私は黒いシルエット(輪郭)を見ているが、ワイフはよく覚えていないという。
最初はそのシルエットは見えなかった。
少しずつ黒くなって、真上にきたとき、黒いシルエットとなった。
黒いシルエットが、その背景の夜空よりも黒く、夜空に浮かびあがった。
月は出ていなかったように記憶している。


 私が記憶しているシルエットは、中日新聞紙上で発表したとおりである。
私はその形を忘れないように、当時、何かにメモした記憶がある。


(3)消え方


 私が見たそのUFOは、西の方角からゆっくりやってきて、真上に来たとき、突然
スピードをあげ、東の方角へ飛んでいった。
スーッという感じだった。
そのときのこと。
そのUFOは、遠ざかって消えるというよりは、空に溶け込むようにして
消えていった。
大きさは遠ざかるにつれて小さくなったように感じたが、そのまま透明になり、
消えていった。


 その先に白い小さな筋雲がいくつかあったように記憶している。
そのUFOは、雲の中に消えたのではない。


(4)自衛隊に電話


 その直後、私は電話帳で自衛隊基地の番号を知り、電話をかけた。
何度もかけたように記憶している。
その夜は、ほとんど一睡もせず、朝を待った。


 電話がやっとつながったのは、午前8時30分だったように記憶している。
つながった先は、たしか「管制室」だったと思う。
電話口の向こうの男性は、「そういう報告はあがっていません」とだけ、何度も
繰り返した。
私は「そんなはずはない!」と、何度も押し問答を繰り返した。
「あんな大きなものが上空を通過したのに、レーダーに映っていないはずがないだろ!」
と言った記憶がある。


(参考)(豊田ひろし氏のHPより抜粋)


『……火星の表面を移動し、水が存在した証拠を探る米航空宇宙局(NASA)の無人探査車
「スピリット」が米太平洋時間3日[2004年1月]午後8時35分(日本時間4日午後1時35分)、火
星に着陸、周囲の写真撮影に成功しました。


 スピリットは、火星の大気圏に時速1万9000キロ以上の高速で突入。パラシュートとロケット
噴射で減速するとともに、24個のエアバッグを膨らませて本体を包み、着陸後バウンドを繰り
返した末に無事停止しました。専門家が「地獄のようなもの」と呼ぶ、1400度を超す高温と接地
時の激しい衝撃に耐え、探査車は生き残りました。 


 スピリットは2003年6月10日MER-A 1号機によって打ち上げられ,約7ヶ月弱で火星に到着し
ました。


スピリットは今後約1週間かけて観測機器の機能を確認。その後約3カ月間、周囲を走り回
り、カメラや試料採取装置などを使って岩石や土壌の組成を分析、水の痕跡を探ることで、生
命の有無を確かめます。いままでは,すべてモノクロ写真の地上撮影でしたが,今回は地上のカ
ラー写真もはじめて撮影しました』(豊田ひろし氏のHPより)。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【電子マガジン・2008年8月号より、転載】

 
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【月は、巨大な宇宙船か?】以下、【電子マガジン・2008年8月号より、転載】


●『月の先住者』(Secrets of our Spaceship Moon)
written by Don Wilson 昭和58年発刊、たま出版)  

++++++++++++++++++H.Hayashi

ドン・ウィルソン著、『月の先住者』という本を
読み直す。
昭和58年7月発刊、ということだから、今から約
24年前の本ということになる。
私が36歳のときである。

月にまつわる謎は多い。
その謎について書かれた本だと思えばよい。

++++++++++++++++++H.Hayashi

 ドン・ウィルソン著、『月の先住者』という本を読み直す。原題は、『Secrets of the 
Spaceship Moon』である。「宇宙船、月の秘密」と訳せる。

 この本の中では、各章ごと冒頭で、月にまつわる謎を、箇条書きにしてある。

 全体では19章。339ページ。文字が小さいから、かなりボリュームのある本と思って
もらえばよい。

 その中のいくつかを紹介する。

+++++++++++

●第7章 月軌道を決定した動力

次の疑問点について考えてみたい。

○NASAは、月がなぜ地球の衛星となったかを、最大の疑問としている。
○あるノーベル科学賞受賞者の告白のように、月の起源や地球の衛星となった理由につい
○て、「どう説明してもありえない」と述べているのは、なざだろう。
○NASAの科学者が、「月は存在しないといったほうが説明しやすい」と発言した真意は?
○なぜ今日の科学者は、起源を説明できないからといって、月は存在しない、などと提議
○するのか。
○科学者の中には月を、「自然のなせる宇宙のいたずら」とし、月が地球の衛星にしては大
○きすぎると主張しているのは、なぜだろう。
○現在定説となっている、"自然捕獲説"でさえ、一般の科学者は充分に説明できないのだ
○ろうか。
○天文力学の権威者でさえ、地球の引力が月を引き寄せたことを「不可能」「とてもありえ
○ない」としているのは、なぜか。
○月の軌道が正確であるはずなのに、自然に地球の衛星となったと説明できない理由は?
○天文学者の中には、「ある力が月を地球の軌道に乗せた」という者もいる。「ある力」と
○はいったい、何なのか。
○なぜ月の公転面は、太陽とまったく同じ公転面に配置され、月食が起きる位置にあるの
○か。
○月が信じられないほど正確な位置にあるということはわかっているが、"月宇宙船説"以
○外の方法ではその理由が説明できないのは、なぜだろう。
○天文力学の知識や月計画による実際の研究成果によって、月が地球の軌道に「乗せられ」
○「操縦されている」と説明されることになるのだろうか。

++++++++以上、「月の先住者」より、転載++++++++++

 わかりやすく説明しよう。

 まず、夜の空に輝く、月を見てほしい。あの月は、地球の周囲を、(1)ほぼ真円に近い
軌道上を、回っている。
 つぎにあの月は、(2)地球から見ると、太陽とほぼ同じ大きさに見える。もちろん太陽
のほうがはるかに大きいが、(みかけの大きさ)は、ほぼ同じ。だから、皆既月食、皆既日
食を、数年おきに、世界のどこかで観測することができる。
 さらにあの月の(3)公転面は、太陽の公転面とまったく、同じである。

 ほかにも(4)月の自転周期と公転周期が、1秒の狂いもなく、一致しているというこ
ともある。だから月は、地球に対して、(月の表側)だけを見せ、いわゆる(月の裏側)を、
見せることはない。(私たちは、常に、月の表側のみを見ていることになる。)

 こうした月の存在について、現在の今も、(1)捕獲説と、(2)地球からの分離説、さ
らには(3)隕石の衝突説などが、意見を戦わせている。(最近の学説によれば、太古の昔、
地球に隕石が衝突し、その衝撃で飛び出した地球の一部が、月になったというのが、定説
になりつつある。)

 しかしこの説に従っても、なぜ月の軌道が、真円に近いのか。月の(みかけの大きさ)
が、太陽と同じなのか。さらに月の公転面が太陽の公転面と一致しているのかということ
は、説明できない。

 偶然というには、あまりにも偶然すぎるのである。

 もちろん「捕獲説」にしても、大きな矛盾がある。「太古の昔、月が遠い別の天体からや
ってきて、地球の重力によって捕獲された」という説である。しかしならばその軌道面は、
楕円形になるはず。ぜったいに、真円にはならない。

 そこで「乗せられた」という説が出てくる。
 
 太古の昔、月は、だれかによって、その位置に、「乗せられた」と。つまり月自体が、巨
大な宇宙船というわけである。

 そこでこの説を補完するのが、『月内部、空洞説』である。つづく第8章の冒頭には、つ
ぎのようにある。

++++++++++++++

 ……さらにじれったい疑問を投げかけてみよう。

○月の不思議な密度は、月が空洞であるどのような証拠になるか。
○なぜ英国天文学協会。月面課の主任を努めた、"月の権威"が、「何もかもが、月の20
○〜30マイル下が空洞であると示しているようだ」と結論したのか。
○なぜ有能な第一線の科学者たちが、自然の衛星は空洞であるはずがない、という意見で
○一致しているのか。では、月が空洞だというのは、人工的だからだ、とはいえないのか。
○NASA の第一線の科学者によるアポロ計画以前の研究は、なぜ月の動きが空洞の球体み
○たいだと結論したのか。
○重力場の研究は、月が空洞であるという裏づけにはなりえないのか。なぜこの結果が驚
○くべきものなのか。
○宇宙飛行士が持ち帰った、"月の石"は、月が空洞であると、どう説明しているのか。
○人工的に作られた月面地震(月着陸船やロケットなどによる)の時、月はなぜゴングの
○ように4時間も鳴りつづけたのか。このことが、どうして空洞の球体であることを説明
○しているか。
○米国の宇宙局が、月内部が巨大な空洞であるかもしれないと、秘密裡に調査を行ったの
○は、どういう証拠があってのことだろうか。
○月の密度が一番高いのは、月面近くである(月が空洞であるという証拠)という月の研
○究(質量の中心運動)は認められなかったのか。このような科学的証拠が、宇宙船説を
○引き起こさなかったのか。
○数々の証拠がどのように"空洞の月"を証明しているのか?

それでは、ここでショッキングな証拠を提示することにしよう……。

++++++++以上、「月の先住者」より、転載++++++++++

 簡単に言えば、月の内部は空洞であり、おかしなことに、つまり常識に反して、月の外
郭部ほど、密度が高く、重金属でおおわれているということ。

 ……こう書くと、「月は巨大な岩石のかたまりではないか。宇宙船という(船)と考える
には、無理がある」と考える人がいるかもしれない。
仮に巨大な宇宙船であるとしても、それは映画、『スター・ウォーズ』に出てくる、デス・
スターのようなものではないか、と。

 しかし残念ながら、宇宙を航行するとき、もっとも安全な乗り物といえば、それなりの
大きさの隕石や衛星をくりぬいた船ということになる。
外壁を、厚い岩石で覆われているため、小さな隕石程度の衝突では、びくともしない。
が、何よりもすばらしいことに、危険な放射線類から、乗り組員を守ってくれる。
仮に映画『スター・トレック』に出てくる、エンタープライズ号のような宇宙船だったら、
隕石の衝突や放射線類から、乗り組み員を守ることはできない。

 では、動力源は何か。

 これも隕石や衛星をくりぬいた宇宙船であれば、方法は簡単。
緻密に計算をしながら、その上のどこかで、何かを爆発させればよい。
それでその宇宙船は、その反動によって、目的の方向に向かって、まっしぐらに進んでい
く。
もちろん宇宙船を止めるときには、その反対のことをすればよい。

 こうして考えて見ると、月が宇宙船であっても、なんらおかしくはない。
ないばかりか、実に精巧、かつ科学的に作られた乗り物ということになる。

 ちなみに月空洞説を裏付ける、ひとつの事実を紹介しよう。

 「月に人類が到達する以前解明されていたのは、『月の密度は地球の半分くらいだ』とい
うことぐらいだった。実際、月の密度は、地球の約6割だった。月の土、1立方センチメ
ートルと、地球の土1立方センチメートルでは、地球の方が、約2倍も重いということだ」
(同書、111P)と。

 言い換えると、月の内部の40%は、空洞ということになる。

+++++++++++++++

 改めて『月の先住者』を読んで、私は、ふと、こう思った。
「私はこの24年間、何をしていたのか」と。

 この地球には、いろいろな問題がある。
教育問題からはじまって、時事、環境、宗教、哲学、医学問題などなど。
しかし私たちが住む、この地球のそばに宇宙人がいて、それが月に住んでいるかもしれな
いという話については、ほとんど考えてこなかった。

 さらにとても残念なことに、この日本では、UFO問題にしても、幽霊や心霊と同格の、
「超常現象」として位置づけられている。
そのためこの日本では、「UFOを見た」というだけで、奇人、変人扱いされる。

 しかしUFOは、「科学」である。少なくとも科学的に解明されうる世界の乗り物である。
また科学の対象と考えて、なんらおかしくない。
それを一部の良識派(?)と呼ばれる科学者たちは、UFOを否定することによって、自分
たちの良識性を誇張する。
 
 が、もしいつか、(やがてその日は来るだろうが)、UFOなるものが、その姿を私たちの
前に姿を現したとき、そういった人たちは、どう自分たちの(非良識性)を弁解するのだ
ろうか。

 私とて、「見たものは見た」というだけで、どれだけ、白い目で見られたことか!
これからも、自分が納得するまで、この問題を追求してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
UFO 超常現象 はやし浩司 月空洞説 月宇宙船説)

(付記)

私とワイフが見たUFO と同じものを見た人が、この浜松に、2人いる。
BT氏(男性、現在54歳)と、その弟氏である。
見た時期と、飛んでくる方向はちがったが、ほとんど同型のUFOである。
私が私の見たUFOについて中日新聞に書いたのを、BT氏が読んだ。
それで知り合いになった。

そのBT氏と、今夜(7月27日)、電話で、1時間ほど、話す。
私はこう言った。

「私は、あのUFOを見て以来、ずっと、自分の中のもう一人の自分と闘わねば
なりませんでした。
『私が見たのは、幻覚だ、夢だ、見まちがいだ』と言う私自身。
しかし一方で、『見たものは見た』とがんばる私自身。
ときに、『見たものは見た』という私自身が負けそうになりましたが、そういうとき、ワイ
フが、『私も見た』と言のです。
それでまた話が、振り出しにもどってしまう……。
毎回、その繰り返し。
記憶も、時間とともに、どこか薄れてきます。
もし見たのが私ひとりだけだったら、私はもう一人の自分に負けてしまっていたかもしれ
ません。
今ごろは、『やっぱり、あれは幻覚だったのだ』と、自分を納得させてしまっていたでしょ
う。
私は死ぬまでに、何としても、あの夜に見たものが何であるか、それに決着をつけておき
たいのです」と。

BT氏についても、事情は同じ。
BT氏もこう言った。
「私も弟と2人で見ました。私も、もし私ひとりだけで見ていたら、今ごろは、『やっぱり
あれは夢だったのだ』と自分を納得させてしまっていたでしょう」と。

しかしE・ミシェル博士の言葉で、私は、救われた。
肩の荷がはずされたというか、スーッと心が軽くなるのを感じた。
と、同時に、大きな使命感のようなものを覚えた。

私ももう60歳。
世間に遠慮しなければならない年齢ではない。
書きたいことを、書く。
伝えたいことを、伝える。
私のことを、奇人だとか、変人だとか、そういうふうに思いたければ思うがよい。

……しかし、この爆発的なエネルギーはどこから生まれてくるのか。
つい先日まで、私はものを書くということそのものに、嫌気すら覚えていた。
その私が、何かに取りつかれたように、今、こうして文章をたたいている。

……で、この話とは別に、私には、こんな奇妙な体験がある。
それについて書く前に、この話に出てくる、DK君について書いておく。

DK君は、現在、オーストラリアのM大学で、教授職級の地位にいる。
そのDK君が、この2月に日本へ、娘さんといっしょに、来た。
そしてあの日のことについて、話し合った。
DK君も、あの日のことをよく覚えていた。
そしてその話になると、「ヒロシは、その話をよくするが、たしかに、あの日のことは、
理解できない」と言った。

当時の私たちは、UFOについて、ほとんど興味はなかった。
知識もなかった。
(アダムスキー型のUFOについては、俗説程度には、知っていたが……。)
いわんや、それがUFO現象と関係あるなどとは、思ってもみなかった。
「アダプション(誘拐)」という言葉にしても、それを耳にしたのは、それから
10年以上もたってからのことである。

以前書いた原稿を、そのまま紹介する。

+++++++++++++++++++

●奇妙な体験

+++++++++++++++++++

●秋の夜のロマン、UFO

●資質を疑われるから、書かないほうが……

 私は超自然現象というものを信じない。まったく信じない。信じないが、UFOだけは
別。信ずるも信じないもない。私は生涯において、三度、UFOを目撃している。一度は、
ワイフと一緒に目撃している。(あとの二度については、目撃したのは私だけだから、だれ
にも話したことがない。文として書いたこともない。ここにも書かない。)

 が、私には、こんな不思議な体験がある。結婚したとき、ワイフにだけは打ち明けたが、
こうしてものに書くのははじめて。だから前もって断っておくが、これはウソではない。
ここにはウソは書かない。こういう話は、書けば書いたで、私の評論家としての資質が疑
われる。損になることはあっても、得になることは何もない。事実、「林君も自分の仕事を
考えたら、そういうことは人には言わないほうがよいよ」とアドバイスしてくれた人もい
る。それはわかっているが、しかしあえて書く。

●不可解な体験

 オーストラリアに留学していたときのこと。あと一か月ほどで、日本へ帰るというとき
のことだった。オーストラリアの暑い夏も、終わりに近づいていた。私は友人のD君にビ
ーチハウス(海の別荘)で、最後の休暇を過ごしていた。ビーチハウスは、ローンという
港町の手前、一〇キロくらいのところにあった。避暑地として有名なところで、そのあた
りには、「グレートオーシャンロード」という名前の街道沿いに、無数の別荘が点在してい
た。

 ある日のこと。D君の母親が、サンドイッチを作ってくれた。私とD君は、そのサンド
イッチをもって、ピクニックにでかけた。「ビクトリア州の最南端にある、オッツウェイ岬
(Cape Otway)に行こう」ということになった。時刻は忘れたが、朝、ほどよい時刻に出か
けたと思う。あともう少しで、オッツウェイ岬というところで、ちょうど昼食時になった
のを覚えている。小高い山の中に入って、私たちは車の上に座って、そのサンドウィッチ
を食べた。

 そこからオッツウェイ岬までは、車で半時間もかからなかったと思う。彼らがいうブッ
シュ(やぶ=雑木林)を抜けてしばらく走ったら、オッツウェイ岬だった。

 私たちは岬へつくと、百メートルくらい先に灯台が見える位置に車を止めた。そして車
の外へ出ると、岬の先のほうへと向かって歩き出した。そのときのこと。どちらが言った
わけではないが、「記念に大地に接吻をしよう」ということになった。背丈の短い雑草が、
点々と生えているような殺風景な岬だった。ほかに見えるものといえば、灯台だけだった。
たしか、「オッツウェイ岬」「オーストラリア、最南端」というような表示だけは、どこか
にあったように思う。私たちは地面に正座してひざまづくと、そのまま体を前に倒した。
そして地面に顔をあてたのだが、そこで記憶がとだえた。

 気がつくと、ちょうど私が顔を地面から離すところだった。横を見ると、D君も地面か
ら顔を離すところだった。私とD君は、そのまま車に戻り、帰り道を急いだ。ほとんど会
話はなかったと思う。

 そのオッツウェイ岬からは、舗装された道がつづいていた。そしてほどなく、アポロベ
イという港町に着いた。港町といっても、波止場が並ぶ、小さな避暑地だった。私たちは
そのひとつのレストランに入って、ピザを食べた。日はとっくに暮れていた。まっ暗とい
ったほうが正確かもしれない。

 この話はここで終わるが、それからほぼ一週間後のこと。そのとき私とD君は、D君の
両親の住むジーロンの町の家にきていた。そこで、ベッドに入って寝る前に、私はD君に、
こう切り出した。胸の中でモヤモヤしているものを、吐き出したかった。

 「D、どうしてもわからないことがある……」
 「何だ、ヒロシ?」
 「いいか、D、あの日ぼくたちは昼食を食べたあと、オッツウェイ岬に向かったね」
 「そうだ」
 「サンドイッチを食べたあと、すぐオッツウェイ岬に向かった。時間にすれば、三〇分
もかからなかったと思う」
 「そんなものだな、ヒロシ」
 「でね、D、そのオッツウェイ岬で、同時に二人とも眠ってしまった。そんな感じだっ
た。あるいは眠ったのではないかもしれない。同時に地面に顔をつけ、同時に地面から顔
を離した。覚えているだろ?」
 「覚えている……」
 「それでだ。ぼくたちは、オッツウェイ岬から帰ってきた。そしてあのアポロベイの町
で、夕食を食べた。ぼくはそれがおかしいと思う」
 「……?」
 「だってそうだろ。オッツウェイ岬から、アポロベイまで、どんなにゆっくりと走って
も、一時間はかからない。が、アポロベイへ着いたときには、あたりはまっ暗だった。時
刻にすれば、夜の七時にはなっていた。ぼくたちは、同時にあの岬で眠ってしまったのだ
ろうか」と。

 昼過ぎにオッツウェイ岬に着いたとしても、午後一時か二時だったと思う。それ以上、
遅い時刻ではなかった。が、そこからアポロベイまで、一時間はかからない。距離にして
も、三〇キロくらいしかない。が、アポロベイに着いたときには、もうとっぷりと日が暮
れていた! どう考えても、その間の数時間、時間がとんでいる!

 私はその話をD君にしながら、背筋がどこかぞっとするのを感じた。D君も同じように
感じたらしい。さかんに、ベッドの上で、首をかしげていた。

 そのオッツウェイ岬が、UFOの有名な出没地であることは、それから数年たって、聞
いた。D君が、そのあたりで行方不明になったセスナ機の事件や、UFOが撮影された写
真などを、そのつど届けてくれた。一枚は、あるカメラマンが海に向けてとったもので、
そこには、ハバが数百メートルもあるような巨大なUFOが写っていた。ただしそのカメ
ラマンのコメントによると、写真をとったときには、それに気づかなかったという。

 さらにそれから五、六年近くたって、私たちと同じような経験をした人の話が、マスコ
ミで伝えられるようになった。いわゆる、「誘拐」(アブダクション)というのである。私
はあの日のあの経験がそれだとは思いたくないが、どうしてもあの日のできごとを、合理
的に説明することができない。

簡単に言えば、私とD君は、地面に顔をつけた瞬間、不覚にも眠ってしまったというこ
とになる。そして同時に、何らかのきっかけで起きたということになる。しかも数時間
も! しかし現実にそんなことがあるだろうか。私はその前にも、そのあとにも、一度
だって、何の記憶もないまま、瞬間に眠ってしまったことなど、ない。電車やバスの中
でもない。寝つきは悪いほうではないが、しかし瞬間に眠ってしまったようなことは、
一度もない。

 私とD君は、UFOに誘拐されたのか?

 今になってもときどきD君と、こんな話をする。「ぼくたちは、宇宙人に体を検査された
のかもね」と。考えるだけで、ぞっとするような話だが……。

●再びUFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、前にも書いた。繰り返すが、私たちがあの夜見たも
のは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛
び去るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのように
して消えていった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。そ
の原稿につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点に
ついては、ワイフも同意見である。つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並ん
で飛んでいるのに気づいた。そのときは、黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、
しばらくすると、その窓を取り囲むように、ブーメラン型の黒いシルエットが浮かびあが
ってきた。そのときは、夜空に目が慣れてきたために、そう見えたのだと思ったが、今か
ら思うと、空から浮かびあがってきたのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●造反したのは、E・ミシェル博士だけではなかった!

+++++++++++++++++++

月表面のみならず、この地球上でも、
またその間の宇宙空間においてでさえも、
今までに厖大な数の、UFO目撃例が
ある。

しかしどういうわけか、NASAは、それら
すべてを否定している。

UFOに関する情報は、NASAの中でも、
極秘中の極秘、最高度のトップ・シークレット
扱いということは、容易に推察できる。
が、今回、E・ミシェル博士は、あえて、その
暴露戦術に、うって出た。

が、ほかにも、いた。

「月面に9番目に人類として足跡を残した、宇宙飛行士のジョン・アームストロングは、
月でのUFOの存在について、こう語った。『もし君が(UFOが)存在しないと思うなら、
勝ち目のない勝負をしているようなものだ』と。

また同じく宇宙飛行士のユージン・サーナンは、『UFOは、どこか他の文明から来たと信
じている』といっている」(以上、「月の先住者」)と。

E・ミシェル博士自身の言葉も、収録してある。

「月での6番目の人類となった宇宙飛行士、エドワード・ミッチェル(本書では、「ミチェ
ル」となっている)は、UFOについて、こう述べている。『UFOに関して、あとわから
ないのは、どこからやってきたのか、ということだけだ』」と。

 私は、月での不可思議現象を、ひとつずつ、検証してみたい。
が、その中でも、とくに私の注意をひいてやまないのが、『オニール橋』である。
私は子どものころ、(小学3年生前後ではあなかったかと思うが、記憶は定かではない)、
何かの博覧会で、そのオニール橋について知った。

 そこには大きなパネルで、月のクレーターからクレーターにまたがってかかる、巨大な
岩石のアーチが描かれていた。
見た感じは、大きな洞窟のような感じだった。
子どもが泥で作る、橋のようなものを想像すればよい。
が、そのオニール橋はその後、その場所から、こつ然と姿を消す。
一説によれば、巨大なUFOが、2つのクレーターの山の上にまたがって、着陸していた
ということだが、真偽のほどはわからない。

「月の先住者」のなかにも、そのオニール橋に触れた箇所がある。
それをそのまま紹介する。

「……そのころのもっとも驚くべき記事は、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の
科学部門編集者であった、ジョン・オニール氏が、1954年に危難の海に、巨大な橋の
ような建築物が見えると発表したときだった。

 おもしろいことには、他の著名な天文学者にも各自の望遠鏡で、その橋らしきものが確
認されたことだった。ある者は、その橋は全長12マイル(約20キロ)にも達するとい
った。

 はたしてその(橋)が建築物であったのか、それとも単に自然のなせる技だったのだろ
うか。英国の有名な天文学者である、H・P・ウィルキンス博士(英国天文学協会、月面
課主任)は、BBCのラジオ番組の中で、『(橋)らしきものは、建造物のようだ』(『UF
Oの陰謀』、ドナルド・キーホー、1975)と発言した。

 さらにその番組で、『建造物とは具体的にどういうことなのですか』と質問され、『つま
り、それは技術的に作られたものだということです』と答えている。

 そしてその(橋)は地面に影を落としていて、外観もふつうの(橋)のようだと付け加
えた。
またこの月の権威者は、『橋の下に太陽光が差し込んでいるのさえ、よく見える』と述べ、
人々をびっくりさせた。

 このラジオ番組の中で、ウィルキンス博士は、この(橋)が、『自然にできたものである』
とは一度も言わないばかりか、『人工のものらしい』と、何度も述べたのだった。

 危機の海自体、かつて何度もよく観察され、研究されつくした場所だけに、以前この(橋)
が存在しなかったことは事実である。
そればかりか、この(橋)は近年になって、他の惑星の人類(?)によって建設された可
能性が大となった。

 他にも、たくさん、知的生物によって、四角形、あるいは三角形の壁状のものや、ドー
ムのようなものでさえ造られつづけ、どこからともなく現れては消えた……」(同書、P1
7〜18)と。

 現在の今、そのオニール橋なるものは、存在しない。
また1954年に発見されたというのだから、私が、満7歳のときのことである。
私がどこかの博覧会で、その橋の想像図を見たのは、その直後のことということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
UFO 月面 危機の海 オニール橋)

Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●月は、巨大なUFO?

 このところ毎晩、眠る前に、「月の先住者」(ドン・ウィルソン著・たま出版)を読んで
いる。かなり前に買った本だが、それが結構、おもしろい。なかなかよく書けている。要
するに、月には、謎が多いということ。そしてその謎を集約していくと、月は、巨大なU
FOということになる、という。

 私が子どものころには、月の危難の海というところに、オニール橋というのがあった。
オニール(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニー
ル)という科学者が発見したから、「オニール橋」というようになった(一九五三年七月)。
どこかの科学博覧会に行ったら、その想像図まで展示してあった。一つの峰からつぎの峰
にまたがるような、端から橋まで、二〇キロもあるような橋だったという。

 が、そんな橋が、月の上にあること自体、おかしなことだった。しかもそんな橋が、そ
れまで発見されなかったことも、おかしなことだった。それまでに、無数の天文学者が、
望遠鏡で月をのぞいていたはずである。

 しかし、最大の謎は、その後まもなく、そのオニール橋が、その場所から消えたという
こと。なぜか。その本によれば、あくまでも、その本によればの話だが、それは巨大なU
FOだったという。(ありえる!)

 そこでインターネットを使って、オニール橋を調べてみた。ヤフーの検索エンジンを使
って、「月 オニール」で検索してみると、いくつか出てきた。結局、オニール橋は、一部
の研究者の「見まちがい」ということで、公式には処理されているようだ。(残念!)

 私自身は、信じているとかいないとかいうレベルを超えて、UFOの存在は、確信して
いる。ワイフと私は、巨大なUFOを目撃している。私たちが見たのは、幅が数キロもあ
るような巨大なものだった。だからオニール橋が、巨大なUFOだったとしても、驚かな
い。

 しかしこういうのを、私たちの世界では、「ロマン」という。つまり、「夢物語」。だから
といって、どうということもないし、また何ができるということでもない。またそれを基
盤に、何かをすることもない。ただの夢物語。しかし心地よい夢を誘うには、この種の話
が、一番。おもしろい。楽しい。それはちょうど、子どもたちが、かぐや姫の話を聞いて、
夜の空に、ファンタジックな夢をはせるのと同じようなものではないか。

 興味のある人は、その本を読んでみるとよい。しかしあまりハマらないように! UF
Oの情報は、インターネットで簡単に手に入るが、そのほとんどのサイトは、どこかの狂
信的なグループ(カルト)が、運営している。じゅうぶん注意されたし。
(030702)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●UFO

Have you ever seen an UFO? My wife and I did. It was a midnight after 12:00 o'clock. 
We were walking in a narrow street near our flat. It was a huge one, which might be 2 or 
3 kilometers in width. Of course it was not a plane. It was so huge. Then if someone asks 
me if I believe in UFO's, I would say, "Yes". These days at the Parliament House of 
Japan, some congressmen discuss about UFO's in the public. Does this have something 
to do with "Kaguya", a Japanese moon-search rocket? Kaguya is now on the orbit of the 
moon, taking photos from the space. I hope the government show us everything about 
the Moon. Some scientists as well as people say that the Moon is a giant space-craft for 
the aliens. Do you think so too? 

+++++++++++++++++

このところ、国会議員たちが、「UFO」
という言葉を、よく口にする。

国会という、公式の場でも、この問題
が取りあげられた(07年12月)。

一応、政府見解は、「存在しない」だが、
一部の議員たちは、「信じている」、「いる
と思う」などと発言している。

こうした一連の発言は、日本が打ちあげた
月探査衛星「かぐや」と、どこかでつながって
いるのではないだろうか?

「かぐや」は、とんでもない映像を地球へ
送り届けてきた(?)。

「とんでもない」というのは、「ありえない」
という意味であり、私はそれがUFOであって
も、少しも、おかしいとは思わない。

アポロ宇宙船で、月の裏側に回ったある宇宙
飛行士は、こう言ったという。

「まるでラッシュ・アワーのように、UFO
が飛び交っている!」と。

+++++++++++++++++++

 月の内部には、巨大な空間がある。その中心部では、プラズマの人工太陽が、さんさん
と輝いている。月の内側に住む住人たちは、地球人の私たちと同じような生活をしている。

 一見、荒唐無稽(むけい)のような話だが、こうした説を信じている人は多い。科学者
の中にも、いる。たとえば私が子どものころには、月には、オニール橋※というのがあっ
た。「オニール」というのは、その橋を発見した人物の名前である。

 オニールは、ある日、望遠鏡で月を見ていたとき、斜め方向からの太陽光線を浴びて、
そこに橋のような影ができているのを発見した。それでそれを「オニール橋」と名づけた。

 私はその橋のことを、どこかの博覧会に行ったときに知った。巨大なアーチ型の橋で、
全長はたしか、20キロ近くあると聞いたのを記憶している。

 しかし、だ。今、同じところをさがしても、その橋はない。「ない」というより、「消え
た」。今にして思えば、その橋というのは、山から山へと、ちょうどそれらにまたがるよう
に着陸していたUFOではなかったかと思う。

 私自身も、巨大なUFOを目撃している。ブーメラン型のUFOである。全長が2〜3
キロはあったかと思う。あるいはもっと長かったかもしれない。よく「葉巻型UFO」が
話題になるが、葉巻型UFOともなると、全長が20〜30キロもあるという。

 こういう話を聞くと、月へのロマンが、かぎりなく、ふくらむ。

 月の住人たちは、どこから来たのか?
 月の住人たちは、何をしているのか?
 月の住人たちは、地球人の私たちを、どうしようとしているのか?

 あの月をくりぬいて住むほどの宇宙人だから、かなり頭のよい人たちとみてよい。私た
ち人間より、ひょっとしたら、何千年も、何万年も進化しているかもしれない。あのUF
Oにしても、光速に近いスピードで、宇宙空間を自由自在に動き回れるという。

 私が見たUFOにしても、空にそのまま溶け込むかのようにして、消えていった・・・。

 「かぐや」は、どんな映像を送ってきているのか? その一部は、インターネット上で
も公開されているが、どれも高・高度からのものでしかない。私(=私たち)が見たいの
は、もっと低高度で撮った、倍率の高い写真である。
 
 そこには、月に住む住人たちの、その直接的な証拠が写っているかもしれない。どうか
ウソ隠しなく、(=修正しないで)、すべての写真を公開してほしい。

(注※)(月探査情報ステーションの公式HPより、転載)

オニール橋事件を振り返ってみます。1953年7月、ニューヨーク・ヘラルド・トリビ
ューン紙の科学部長であったJ・J・オニール氏は、月面の「危難の海」の西側に人工的
に作られた橋のようなものを発見したと発表しました。この橋は二つの峰をまたぐような
形で、20kmにもおよび、日没時には観測できましたが、日の出の時には見えなかった、
ということです。

同年8月、英国天文学協会の月研究部長だったH・P・ウィルキンス氏らも同じ構造を確
認したと発表しました。しかし、その後この構造は観測できなくなり、見まちがいだった
のではないかという批判が起こりました。ウィルキンス氏はその批判に抗議し、月研究部
長を辞任したそうです。

当時、オニール橋はかなりの話題を呼び、一部UFO研究家などからは巨大なUFOが一
時的に着陸していたのではという推測もされたそうです(以上、「月探査情報ステーション
の公式HP」より)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist UFO オニール オニー
ル橋)

++++++++++++++++
オニール橋と並んで、私が知った
月の2つのクレーターについて。

++++++++++++++++

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の二つのク
レーターがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描い
たような真円である。

 そこで二つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その
点は不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2セン
チ! 実際の直径は、数一〇キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリ
と一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、
よく話題になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満
ちた影がたくさん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこ
ちのサイトを開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。
火星はもちろん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるとこ
ろにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけ
でも、NASAは、数一〇万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのう
ちの数パーセントにすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりし
ているという。しかし、クレーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、二つのク
レーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コ
ーナー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれ
ば、その写真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上にいて、それこそ地上のカビのような存在でしかない私。その私がはいつくばっ
て東洋医学の勉強をした。その私が、天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手
なことをしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはで
きる。そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間
の改造など、何でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回
すくらい簡単なことだ。

 この二つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の二つが、
合体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、
まさに「人間に、約五五〇〇年前に起きた変化」ということになる。

 その五五〇〇年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその
変化は、メチャメチャ。その一つが、少し前に書いた、『黄帝内経』である。黄帝というの
は、司馬遷の「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄
帝の時代に書かれたものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般
的になされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソ
ポタミアで起きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体
となって旧約聖書が生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、
どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、
遺伝子工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいは
エイリアンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は
黄河流域に住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人で
ある。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能
力をもつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教
え、文字を教えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく
似ている。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。
「天から来た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」
(この形に似た楔形文字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神とい
う意味である。メソポタミアでは、神(エホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳し
くは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったというこ
と。が、これだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて
呼ぶならわしがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、
「dingir 〜〜」というように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を
先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだ
ったのかどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうな
の?」という部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさに
そこらのサルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居す
ることになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってし
まった。人間がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。し
かしそんなことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどん
と自分が小さくなっていく一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなって
いく。「人間は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自
分が、かぎりなく自分の中で、ウズを巻く。

 あさって(二七日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る
夜空は、どこまでも明るい。
(030925)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(今日・あれこれ)(7月28日)

++++++++++++++++

ここ数日、UFOについて考えている。
と、同時に、「自分はとんでもないことを
書いている」という気分から、抜け出る
ことができない。

向こう岸の見えない、湖に飛び込んだ
ような気分とでも書くべきか?

つかみどろこがない。
直接、そうした問題と取り組んでいる
わけでもない。
ゆいいつの接点は、かつて、巨大なUFO
を見たことがあるというだけ。

まるで雲をつかむような話というのは、
こういうことを言うのか。

しかしこれは重大な問題と言ってもよい。

もし月が空洞で、人工的に建造された
宇宙船であるとするなら、人間の
歴史そのものがひっくり返ってしまう。
過去のありとあらゆる出来ごとが、すべて
UFO現象と関連づけて考えられるように
なるかもしれない。

そうなったときの混乱と騒動には、
想像を絶するものがある。
その前に、人間は、そうした混乱と
騒動に耐えることができるだろうか。

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Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司



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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【宇宙人は、存在する!】(改)(Aliens are definitely out there!)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

驚くべきニュースが、伝えられた。
時事通信、7月25日、ニューヨーク発は、
つぎのように伝える。
その記事を、そのまま紹介する。
まさに驚愕すべきニュースである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

++++++++++以下、時事通信より+++++++++++++

【ニューヨーク 25日時事】米航空宇宙局(NASA)の元宇宙飛行士が英国の音楽専門ラ
ジオ局のインタビューで、政府は宇宙人の存在を隠ぺいしていると発言。米英メディアが
相次いで報じる騒ぎに発展した。

 この元宇宙飛行士は、1971年に打ち上げられたアポロ14号の元乗組員、エドガー・
ミッチェル氏(77)。

 同氏は23日の放送で、政府は過去60年にわたり宇宙人の存在を隠してきたが、「われ
われのうちの何人かは一部情報について説明を受ける幸運に浴した」と説明。宇宙人は「奇
妙で小さな人々」と呼ばれているなどと語った。(ヤフー・ニュースより転載) 

++++++++++以上、時事通信より+++++++++++++

この記事の信憑性を確かめることにした。
が、それは今日(7月25日)、オーストラリアの友人が送ってくれた情報の中に、含まれ
ていた。

それをそのまま紹介する。
訳は急いで私がつけたが、あえて、原文に忠実に訳してみた。
(荒っぽい訳なので、後日、改めて訳し直してみたい。)

++++++++++++++以下、NEW.COM.AUより+++++++++

FORMER NASA astronaut and moon-walker Dr Edgar Mitchell - a veteran of the Apollo 
14 mission - has stunningly claimed aliens exist.
月面歩行者であり、元NASAのベテラン宇宙飛行士である、エドガー・ミシェル博士(ア
ポロ14号のベテラン飛行士)が、「宇宙人は存在する」と強く主張した。

And he says extra-terrestrials have visited Earth on several occasions - but the alien 
contact has been repeatedly covered up by governments for six decades. 
彼が言うには、外惑星人は、地球を、何度かに渡って訪問しているとのこと。しかし宇宙
人とのコンタクト(接触)は、この60年間、政府によって繰り返し、隠蔽されてきた、
という。

Dr Mitchell, 77, said during a radio interview that sources at the space agency who had 
had contact with aliens described the beings as 'little people who look strange to us.' 
77歳のミシェル博士は、ラジオ・インタビューの中で、宇宙人と接触したことのある宇
宙局(の係官)は、その生き物を、『ワレワレには奇妙に見える小さな人々』と表現したと
語った。

He said supposedly real-life ET's were similar to the traditional image of a small frame, 
large eyes and head. 
ミシェル博士は、本物のETは、小さな体の、大きな目と頭をもった、あのよく知られて
いる(=伝統的な)イメージに似ていると思っていると語った。

Chillingly, he claimed our technology is "not nearly as sophisticated" as theirs and "had 
they been hostile", he warned "we would be been gone by now". 
ミシェル博士は、ワレワレ人間の技術力は、彼らのものととても同程度のものではなく、「も
し彼らが敵対的であるなら、人類は、今ごろは絶滅していただろう」と、警告した。

Dr Mitchell, along with with Apollo 14 commander Alan Shepard, holds the record for 
the longest ever moon walk, at nine hours and 17 minutes following their 1971 mission. 
ミシェル博士は、アポロ14号のアラン・シェパード船長とともに、1971年のミッシ
ョンでは、9時間17分の最長月面歩行をしたという記録を保持している。

"I happen to have been privileged enough to be in on the fact that we've been visited on 
this planet and the UFO phenomena is real," Dr Mitchell said. 
ミシェル博士は、「ワレワレは宇宙人によってこの惑星を訪問され、またUFO現象は事実
であるという事実に関して、それをじゅうぶん知りうる立場にあるという特権を、私はた
またまもった」

"It's been well covered up by all our governments for the last 60 years or so, but slowly 
it's leaked out and some of us have been privileged to have been briefed on some of it. 
「過去60年間、私たち政府すべてによって、それは隠蔽されつづけてきた。しかし少し
ずつ、外に漏れてきた。そしてワレワレの中の何人かは、それらのいくらかの部分につい
て、述べるという特権を与えられた」

"I've been in military and intelligence circles, who know that beneath the surface of 
what has been public knowledge, yes - we have been visited. Reading the papers 
recently, it's been happening quite a bit." 
「私は軍と情報部に属してきた。軍と情報局は、一般的に知られているその表面下で、(そ
うだとも)、ワレワレは訪問を受けていたということを知っている。最近の新聞を読めば、
それがたいへんしばしば起きてきたということがわかる」と。

Dr Mitchell, who has a Bachelor of Science degree in aeronautical engineering and a 
Doctor of Science degree in Aeronautics and Astronautics claimed Roswell was real and 
similar alien visits continue to be investigated. 
ミシェル博士、つまり航空工学分野の科学学士号、ならびに、航空力学ならびに宇宙船学
の博士号をもっているが、ロズウェルは現実にあったと主張し、同様の宇宙人の訪問は、
調査されていると語った。

He told the astonished Kerrang! radio host Nick Margerrison: "This is really starting to 
open up. I think we're headed for real disclosure and some serious organisations are 
moving in that direction." 
ミシェル博士は、驚いているケラング・ラジオ局のホストである、ニック・マーゲリソン
にこう語った。「これは情報開示の第一歩であり、私たちがその開示の先頭にいる。いくつ
かの重要な組織が、その方向で動きつつある」と。

Mr Margerrison said: "I thought I'd stumbled on some sort of astronaut humour but he 
was absolutely serious that aliens are definitely out there and there's no debating it." 
マーゲリソンは、語った。「私は宇宙船乗組員のユーモアと思ったが、(ミシェル博士は)、
まったく真剣だった。彼は宇宙人は、確実にそこにいて、議論の余地はないと語った」と。

Officials from NASA, however, were quick to play the comments down. 
しかしNASAの高官はすかさず、つぎのようなコメントを発表した。

In a statement, a spokesman said: "NASA does not track UFOs. NASA is not involved in 
any sort of cover up about alien life on this planet or anywhere in the universe. 
その中で、スポークスマンは、「NASAは、UFOの存在を確認していない。NASAは、
この惑星上の宇宙生命体について、この惑星においても、また宇宙においても、どこでも、
いかなる隠蔽にも関与していない」。

'Dr Mitchell is a great American, but we do not share his opinions on this issue.'
「ミシェル博士は、偉大なアメリカ人だが、ワレワレ(=NASA)は、この問題につい
て、彼の意見と共にすることはない」と。

++++++++++++++++++以上、NEW.COM.AUより++++++++

+++++++++以下、オーストラリアUFO研究団体のHPより++
A RECENT spate of UFO sightings around the world has believers in a frenzy, but even 
the inside scoop from a former astronaut is not enough to sway the sceptics.
Yesterday, aliens popped up in the news again as NASA sought to distance itself from 
former Apollo 14 astronaut Edgar Mitchell who claimed extra-terrestrials have been 
coming to visit for decades. 

Dr Mitchell, 77, said governments had been covering it up for 60 years.

"I've been in military and intelligence circles, who know that beneath the surface of 
what has been public knowledge, yes - we have been visited. Reading the papers 
recently, it's been happening quite a bit," he said. 

Dr Mitchell's former bosses were quick to distance themselves from the renewed buzz.
"NASA does not track UFOs. NASA is not involved in any sort of cover up about alien 
life on this planet or anywhere in the universe," the agency said. 
But the Australian Skeptics were not impressed by what Dr Mitchell - or anyone else - 
thought they saw.  Skeptic spokesman Barry Williams said today the truth was closer 
to home: it's all in your head, and you're wrong. 
"We love mysteries and we love solving them, just look at how popular crime fiction and 
crime TV shows are," Mr Williams said. "The brain needs to find answers, it can't 
stand not knowing, so it comes to an explanation and quite often it's wrong." 

+++++++++以下、オーストラリアUFO研究団体のHPより++

+++++++++++++++はやし浩司

しかし私はこの記事を読んだとき、肩から、スーッと力が抜けていくのを感じた。
「やはり、そうだったのだ」と。

私とワイフは、35年近くの前の夜のこと、散歩中に、巨大なUFOを目撃している。
以来、「あの夜、私たちが見たものは何だったのか」と、それをずっと考えてきた。
が、「考える」といっても、相手は、煙のような存在。
手でつかまえようとしても、いつもそのままどこかへ消えてしまう。
この35年間、その歯がゆさとの闘いだった。

しかしとうとう、告白者が現れた。
アポロ14号の元乗組員、エドガー・ミッシェル氏である。
これ以上の証言者が、ほかにいるだろうか。

しかも、60年前といえば、「1947年のロズウェル事件」と、重なる。
60年前、アメリカのロズウェルというところに、UFOが墜落している。
エドガー・ミッシェル氏がいう「60年前」と、「1947年のロズウェル事件」とを結び
つけるのは、まだ早計かもしれない。
しかしほかに結びつく話が、ない。

で、「奇妙で小さな人々」とは、どんな人々をいうのか。
ロズウェルでのUFO墜落事件では、「グレイ」とそののち呼ばれるようになった、小さな
体の宇宙人が、アメリカ軍によって収容されている。
エドガー・ミシェル氏が言うところの、「小さな人々」というのは、その「グレイ」のこと
をさすのか。

今のところ詳細は不明だが、エドガー・ミッシェル氏の勇気に、敬意を表したい。
おそらくこれからしばらくの間、エドガー・ミシェル氏は、アメリカ政府内の、そのスジに
人たちによる、猛攻撃にさらされるにちがいない。
ばあいによっては、逮捕、投獄されるかもしれない。
しかしそんなことをすれば、かえってエドガー・ミシェル氏の正当性が、証明されるよう
なもの。

……私は何度も、この記事を読みなおした。
「UFOを見た」というだけで、この日本では、奇人扱いされる。
しかし見たものは、見た。
記憶の中で、もう何千回も、反復してみたが、見たものは見た。
たったそれだけのことだが、そのつど、同時に私は、(私のワイフもそうだろうが……)、
自分の脳みそを疑わねばならなかった。

が、この記事で、私はその重圧感から、解放された。
「やはり、そうだったのか」と。

私たちがあの夜見たものは、やはりUFOだった。
宇宙人が操縦する、UFOだった。
今まで、私やワイフを奇人扱いしてきた者どもよ、悔しかったら、この記事を自分で読ん
でみることだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 宇宙人 宇宙人は存在した
 アポロ14号 エドガー・ミシェル Dr Edgar Mitchell ET ALIEN エイリア
ン ロズウェル グレイ 宇宙人 はやし浩司)

++++++++++++++++

私たちが見たUFOについて書いた
記事がつぎのものです。
地元の中日新聞に掲載してもらいました。

++++++++++++++++

●見たぞ、巨大なUFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二
人で、それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで
「ひょっとしたら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、
いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の十
二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見上げると、淡いだいだい色の丸いも
のが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛ん
でいるのだと思った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。

あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私
は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の
字型の物体がそこに現れたからだ。私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきもの
だった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び
去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれ
がUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のも
ので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。が、
このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を
届けてくれた。

当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢
追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でも
ある。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同
じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物
と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその
宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはな
い。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私
はその人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を
汚したくないし、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 …とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君
は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑わ
れる」と言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。
文を書くといっても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィ
クションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊
書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。

 そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえば
この世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそ
れについて書いてみた。

(補記1)

私とワイフの見たUFOは、いわゆる「ブーメラン型」のもので、後に、アリゾナ州のフ
ェニックスで目撃されたUFOと同型のものと思われる。

しかし喜んでばかりは、いられない。
UFOが公然と語られるようになり、それを操縦する宇宙人の存在が明らかになるという
ことは、それだけ人類滅亡の危機が迫っていることを示す。

いつだったかこれについて詳しく書いたことがあるが、人類に希望があるかぎり、宇宙人
は、人類の前に姿を現すことはない。

しかしその希望がなくなったとき、宇宙人は、自らの姿を、私たち地球人の前に現すであ
ろう。
そのことは、宇宙人という外惑星人に視点を置いてみるとわかる。
近い将来、絶滅するとわかっている地球人に対して、どうして自分たちの存在を隠さなけ
ればならないのか。

言うまでもなく、地球温暖化(Global Warming)の問題は、それほどまでに深刻になりつつ
あるということ。
2100年までに、地球の平均気温は、4〜6度も上昇するというが、しかし気温上昇が、
2100年で止まるわけではない。
仮にここで今、化石燃料の使用を停止したところで、その後も、不測の事態がさらなる不
測の事態を招き、地球の平均気温は、さらに上昇する。
2200年までに、さらに4〜6度(この数字とて、控えめなものだが……)上昇すると
考えるのは、甘い。
一説によると、その後、地球の平均気温は、二次曲線的に上昇し、最終的には、400度
Cにまで上昇するという。

私が「地球火星化」という言葉を使うのは、そのためである。
そう、まさに地球は、火星化する。

エドガー・ミシェル博士の告白を、「希望」ととるか、それとも「絶望」ととるか。
とても残念なことだが、私は、「絶望」ととる。

(補記2)

宇宙人の存在が、ここまで確定的に断言されると、つぎに私たちは、こう考える。
「では、現在、エイリアンたちは、どこに住んでいるか」「またどんな生き物なのか」と。

これについては、すでに多くの研究家たちが、つぎのような推論をくだしている。

(1)彼らは、月などの衛星内部をくりぬいて、その中に居住している。

ほかにも、火星や木星の衛星が考えられている。
地球へ自由にやってくることからもわかるように、彼らは、すでに地球上の細菌やウィル
スに対して、免疫性をもっているか、あるいは人間の兄弟的存在であると考えてよい。

地球上で二足歩行できるということであれば、彼らが住む居住空間の重力は、この地球と
ほとんど変わらないということになる。
少なくとも、無重力状態ではないらしい。

(2)地球よりは弱い重力の世界で、そこは薄暗い空間である。

巨大な目と瞳をもっているということから、(あくまでも人間と比較しての話だが……)、
かなり暗い空間に住んでいるものと想像される。
恐らく地球の夜程度の光があれば、あたかも私たちが日中に、景色を見るように、夜の景
色を見ることができるはず。
反対に、日中は、光がまぶしくて、何も見えないかもしれない。
そのため眼球に直接張りつける、黒いサン・スクリーンのようなものを、装着している。

また頭が巨大であることから、人間のように、母体の産道を通り抜けて生まれるタイプの
生物ではないらしい。
恐らく体外受精による、人工胎盤によって育成されるタイプの生物と考えてよい。

(3)性格はきわめて温厚で、平和的である。

エドガー・ミシェル博士も述べているように、「もし彼らが人類に対して敵対的であるなら、
人類は、とっくの昔に絶滅していただろう」ということになる。
またそうであるからこそ、彼らもまた、ここまで進化するにまで、存在することができた。
仮に人間のように、好戦的で、挑発的であったとしたら、宇宙人といえども、その進化の
過程で、戦争を繰りかえし、絶滅していたはずである。

が、これから先のことはわからない。
「このまま地球人を生かしておいたら、人類どころか、地球そのものが、火星化してしま
う」とわかれば、宇宙人のほうも、遠慮していないだろう。
私の印象では、この太陽系の中で、彼らの食糧を生産できるのは、この地球だけというこ
とになる。
地球が火星化すれば、彼らとて、絶滅の危機に直面することになる。

彼らが公然とその姿を、地球人の前にさらけ出したとき、すなわちそのときこそが、地球
人の最期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist エイリアン ET 宇宙
人)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●多治見で39度!

++++++++++++++++++H.Hayashi

今日(7月25日)、岐阜県多治見市で、最高気温39・0度を記録した。
猛烈な暑さである。
この浜松市でも、37・5度!
ちょうどその時刻に、私とワイフは、街中を歩いていた。
乾いた、肌を貫くような白い太陽光が、容赦なく天から降っていた。
「暑い」というよりは、「熱い」。
そんな感じだった。
私とワイフは、駐車しておいた車に飛び乗ると、クーラーをガンガンと
回した。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●宇宙人(ET)の話、PART2

●人間と宇宙人

昨日、久しぶりにUFOの話を、書いた。
あえて言うなら、「夏の夜のロマン」というところか。
UFOについて書けば、かえって変人扱いされるだけ。
「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういうことを書くのは、
やめたほうがいい」と忠告してくれた人もいた。

が、あのE・ミシェル元宇宙飛行士が、「UFO現象は、現実(real)である」
「宇宙人(ET)は存在する(real)」と断言した。

久々に、胸の内がスカッとする、ビッグ・ニュースである。

しかし問題がないわけではない。
私はかねてから、こう書いてきた。
「宇宙人がおおっぴらに、人間の前に姿を現すのは、人類最期のときである」と。
宇宙人にしても、自ら身を隠す必要がある間は、身を隠す。
少なくとも、存在を明らかにする必要がないときは、身を隠す。
あえて地球人である人間を、混乱させる必要はない。

それは自然動物園を守る、管理者の心理に共通する。
動物園内の動物は、できるだけそっとしておいてやるのがよい。
自然動物保護の世界には、『暖かい無視』という言葉さえある。
あれこれ人間が手出しするのは、最低限がよいという意味である。

しかしもし動物園の中が混乱し始めたとしたらどうだろうか。
動物たちがともに殺しあったり、施設を勝手に破壊し始めたとしたら……。
当然のことながら、自然動物園の管理者たちは、園の中に割って入り、動物たちを
隔離したり、保護したりするだろう。

それだけではない。

宇宙人にしても、この地球が、太陽系の中でも、食糧が確保できるゆいいつの惑星と
考えてよい。
一説によれば、宇宙人たちは、海草を中心とする、ヨード系の食物を口にしている
と言われている。
地球の温暖化が進んで、そうした食物の確保がむずかしくなるということになれば、
彼らにとっても、重大問題ということになる。
だまって見過ごすわけにはいかない。

●どこに住んでいるか?

すでに40年ほど前から、『月空洞説』(「月の先住者たち」)というのがあった。
旧ソ連の2人の科学者が言い出した説だが、根拠はいろいろある。
その第一は、月が体積に比して、比重が軽すぎるということ。
また月全体がまるで釣鐘のようになっていて、人工的に起こした地震波が、
いつまでも月の表面を伝わるなどの現象ガー・ミられる、など。

この月空洞説に、UFO基地説に重ね合わせてみると、今まで合点のいかなかった
ことが、頭の中ですっきりする。
ジグソーパズルをしていて、コマがぴったり重なったときのような気分である。

一方、宇宙人にしても、月の内部ほど、快適な居住空間はない。

重力は、地球の6分の1、あるいは場所によっては、それ以下。
(だから穴を掘るのも、楽?)
太陽からの有害な放射線は、月の厚い岩石が防いでくれる。
一見荒唐無稽な話に聞こえるかもしれないが、考えれば考えるほど、つじつまが
合ってくる。

事実、アポロ飛行士の中には、月のクレーターの間から出入りするUFOを
目撃した人もいるという。
さらに太古の昔、チベットには、天に使者に連れられて、月の内部の世界を見たという
伝説まで残っている。
私たちが今に見る、絵曼荼羅は、その月の内部の世界を表現したものだと説く研究家も
いる。

今の段階では、すべて風説ということになっているがUFOの存在が
確認され、宇宙人の存在が確認されれば、そのひとつひとつが、人類の
歴史をひっくり返すような(事実)となって、表に出てくる。

アメリカのNASAが心配するまでもなく、人間に与える衝撃には、はかり
しれないものがある。

●人類は、宇宙人の子孫なのか?

若いころ中国に伝わる『黄帝内経(こうていだいけい)』という本を調べているとき、
そのとほうもない科学性に驚いたことがある。
「地球は球である」「地球は虚空の宇宙を回転しながら浮かんでいる」という記述にも
出会った。
(詳しくは、私のHP上で紹介。)

宇宙人がそこにいたとするなら、当然のことながら、私たちは常に、宇宙人の監視と
指導を受けてきたと考えるのが、自然である。
(そうでないと考えるのは、その数百倍も、不自然である。)

「指導」といっても、直接的な会話によるものもあっただろうが、もう少し高度な
立場では、たとえば遺伝子操作による人間の改造も、考えられる。
直接人間の脳みその中に、情報チップを埋め込むという方法も、あるだろう。
「将来的にはそういう方法も可能になる」と、あのホーキング博士も書いている。

少なくとも、今から5500年前を境として、人類は、それまでの新石器時代から、
青銅器、鉄器時代へと、飛躍的に進化している。
このころ、黄河文明が生まれ、チグリス・ユーフラテス文明生まれた。
文字の発明も、このころと考えてよい。
で、先にあげた「黄帝内経」の「黄帝」というのは、司馬遷の「史記」の第1ページ目を
飾る黄帝である。

●超高度な文明?

宇宙人がもっている技術力は、人間のそれをはるかに超えたものと考えるのが自然である。
すでに数十世紀にわたって、このあたりの宇宙を自由に航行していたであろうということ。
それだけでも、彼らのものすごさがわかる。
私とワイフが目撃した巨大なUFOしても、頭上にきたあとは、猛スピードで、
東の空に消えていった。
まるで空に溶け込むかのように、だ。

人間が乗っている飛行機とは、比べものにならない。

一方、今、私たちが最先端の技術として手にしている、コンピュータ技術、遺伝子工学、
宇宙工学などにしても、この半世紀の歴史しかない。
おそらく宇宙人の目に映る人間は、チンパンジーか何かのようではないか。

E・ミッシェル博士が指摘するまでもなく、「もし彼らが敵対的であるなら、人類は
とっくの昔に、滅びていただろう」ということになる。
考えるだけでも恐ろしいことだが、宇宙人がその気にさえなったら、人類など、
部屋の中のハエを殺虫剤で殺すほど簡単に、殺してしまうかもしれない。

●なぜ、今なのか?

しかしなぜ、今なのか?
5500年前から人類にかかわってきたとしても、彼らはけっして、その姿を
おおっぴらに、私たちの前に現すことはなかった。
が、なぜ、今なのか?

E・ミッシェル博士は「さらに重大な開示が予定されている」と述べている。
言葉通りに解釈すれば、もっとはっきりとした証拠なり事実が示されるということに
なる。

だとすると、さらに「なぜ、今なのか?」という疑問が膨らんでくる。

が、今さら、言うまでもない。
この問題は、地球温暖化と、深くかかわりあっている。
現在考えられている対策がすべて実行されたとしても、2100年までには、日本の
気温についてだけをみても、4〜5度も上昇するという。

中には、「たった4〜5度?」と思う人もいるかもしれないが、4〜5度もあがれば、
真冬でも、現在の夏のような気候になる。
地球温暖化の影響は、赤道付近よりも、南北の極地方、また季節で言えば、寒い冬の
ほうに、より大きく現れる。

が、そこで地球温暖化が止まるわけではない。
2100年以後も、また2200年以後も、つづく。
2300年以後もつづく。

そのとき、地球は、どうなっているか?

地球温暖化の問題よりも、私は人類の精神の荒廃のほうを危惧する。
自暴自棄になった人々が、それこそどんなことをしでかすようになるか、
私はそれを心配する。
それこそ地獄絵図そのままの世界が、そのまま具現化される。

●宇宙人の視点で……

そんなとき、もしあなたが宇宙人なら、どうするだろうか?
それをだまって見ているだろうか。
それとも、人間の世界に、積極的に介入していくだろうか。

人間の私が、自分たちの心理状態を基本に、彼らの心を推し量るのは正しくない。
彼らは、私たち人間とはまったくちがった、思考回路をもっている。
感情の中身もちがうだろう。
精神構造もちがうだろう。
ひょっとしたら、人間がもっているような、喜怒哀楽の感情はないかもしれない。
あるいは反対に、たいへん愛情深く、慈愛に満ちた生物かもしれない。

ひょっとしたら、旧約聖書の中に出てくる、「ソドムとゴモラ」のように、
一気に、人間を焼き払ってしまうかもしれない。

が、反対に、ひょっとしたら人間の愚かさを指摘し、人間を指導し、
さらには地球温暖化防止のための知識を分け与えてくれるかもしれない。
が、そこまで期待できるかどうかというと、それはむずかしい。
反対の立場で、「私たち人間は、生き延びる価値があるかどうか」ということを
考えみれば、それがわかる。

あるいは、あなたならどうだろうか。
だれかに、「あなたは生き延びる価値があるかどうか」と聞かれたら、
あなたは何と答えるだろうか。

●宇宙人の限界

が、宇宙人が、全知全能かというと、私は、そうは思わない。
絶対的な(数)、つまり人口そのものが少ないということも考えられる。
あるいは、宇宙人と呼ばれる(人)は、実は(人)ではない可能性もある。

もっとメカニックな、つまり人間が手にした人工知能のかたまりのようであるかも
しれない。

……と書くと、「あのグレイは何か?」と思う人もいるかもしれない。
あのグレイ(本物かどうかは別として)、どこか人間的な体をしている。
しかしあのグレイをもって、宇宙人とするには、少し、無理がある。
私は、親分格の宇宙人は、もっと別の場所にいるのではないかと思っている。
別の場所にいて、グレイのような手下を、ロボットのようにして使っている?

つまりこのあたりに、宇宙人のもつ力の限界がある。
「なぜ人間の前に姿を現さないのか?」という問題にしても、単純に考えれば、
「それができないから」ということになる。
その(できない)部分が、そのまま彼らの(限界)ということになる。

●事実の一端

E・ミシェル博士のような人の発言を聞いて、私は、ほっとしている。
「いつか、そういう人が現れて、真実を語ってくれるだろう」とは思っていた。
しかしその一方で、「私が生きている間に、それをしてくれるだろうか」という
不安もあった。

「間に合った」という言い方は、どこかおかしいかもしれないが、間に合った。
あの夜以来、ずっと私とワイフは考えてきた。
ときどき「夢だった」と、自分にそう思い込ませようとしたこともある。
しかし私たちの結論は、いつも同じだった。
「見たものは、見た」。

そこで私はいつしか、「自分が死ぬまでに、あの夜見たUFOの正体を知りたい」
と思うようになった。
E・ミシェル博士の発言は、その一端を、私につかませてくれたことになる。
「私は、やはり、見たのだ」と。

●心の準備

この先、E・ミシェル博士が語っているように、「さらに重大な(serious)な発表」
がつづくかどうか、今の私にはわからない。
しかしそれよりも重要なことは、そういう発表があるという前提で、私たち自身が、
それに備えて、心の準備をしておくということ。

これは映画の中の話ではない。
現実の話である。

もし宇宙人の存在が確実になったとしたら、宗教はもちろん、歴史すらも、その
根底からひっくり返ることになる。
そうした混乱に、人間は、どう対処したらよいのか。
また対処できるだけの度量はあるのか。
これはあくまでも仮定の話だが、仮に、(あくまでも仮に)、あのイエス・キリスト
ですら、宇宙人とかかわりをもっていたとしたら、それだけで、キリスト教その
ものが、ひっくり返ってしまう。

「今までの歴史は何だったのか」ということにもなるだろう。
あるいは今の今、神に救いを求めている人もいるはず。
そういう人たちは、信仰の基盤を、根元から破壊されてしまうことにもなりかねない。
この問題だけは、「宇宙人がいます」「はい、そうですか」というレベルで片づけられ
るような、単純なものではない。

夏の夜、あなたも、あの月を見ながら、そんなことを考えてみるとよい。
そこには、とてつもないほど壮大なロマンが隠されている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 壮大なロマン

【月は、巨大な宇宙船か?】以上、【電子マガジン・2008年8月号より、転載】





***************

(参考)

【BT氏から送られてきた写真】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

5月に、BT氏から、1枚の写真が送られてきた。
「UFOかもしれない」ということだった。

その写真の一部を改めて、検証してみる。
2012/07/10

なおこの写真は、BT氏が、車の中から携帯電話で撮影したもの。
従って、円形の物体は、窓ガラスに付着したゴミの可能性もある。
そういう視点から、もう一度、検証してみたい。

写真では、いちばん右端の矢印(↓)に注目してほしい。
円形の物体が、森の向こうにあれば、窓ガラスへの付着物とは考えられない。
森の手前にあれば、窓ガラスへの付着物とも考えられる。
(手前にあるからといって、付着物ということにはならないが……。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(1)元の写真 UFO1 (2)いちばん右の物体を切り抜き、拡大したもの。 UFO2 (3)(2)の写真の明度をあげてみた。 UFO3 (4)さらに拡大、明度をあげてみた。 UFO4 (5)物体の向かって左下部に注目。 手前の植木により、一部が欠けているのがわかる。 UFO5 (6)(5)の写真をわかりやすくするため、明度をあげてみた。 UFO6 (7)さらに拡大。 手前の植木の一部(?)が、かすかに物体の上におおいかぶさっているのがわかる。 UFO7

(考察)
 確信はもてないが、円形の物体は、手前の植木の緑の向こう側にあると思われる。
従って窓ガラスに付着した物質(ゴミ、鼻水など)とは、考えられない(?)。

 このつづきは、またの機会に検証してみたい。
いったい、ここに写っている、円形の物体は何なのか?

2012年7月10日


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司


(4)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F

【2011年6月期・講演会・レジュメ】

+++++++++++++++++

昨夜(6月1日)、6月用の講演会の
レジュメを書いた。
未完成だが、これをたたき台にし、
今週からの講演で話したい。

++++++++++++++++++

【価値観の転換と、意識・常識の改革】

●「どうすればうちの子は……」

もう20年以上も前のこと。
1人の父親が私の家にやってきた。
そしてこう言った。

「私はあなたの本を何冊も読む暇はない。
どうすればうちの子どもをいい子にすることができるのだ。
一言で言ってくれ」と。

 そのとき私はとっさの思いつきだったが、こう答えた。
「子どもは使うことです。
使えば使うほど、いい子になりますよ」と。

 それから20年以上。
この言葉は何度も私の頭の中で反芻された。
そしてその結論は、今でも同じ。
「子どもは使えば使うほど、いい子になる」と。

(今回は4つのテーマの中から、時間の関係上、X番目のテーマについてのみ、
話す。
この問題を、常識論、意識論をからめて話す。)

2011年6月2日記

●常識

アインシュタインは、こう言った。
「その人がもっている常識などというものは、18歳のときまでにもった偏見のかたまりである」
と。

 こう言うと、「いや、ちがう。私のもっている常識は正しい」と反論する人も多い。
しかしそう断言するのは、少し待ってほしい。
私は40年前、こんな経験をした。

●オリエンタル・スタディズ

メルボルン大学の南の端に、オリエンタル・スタディズという学部があった。
「東洋学部」と訳すのが正しい。
その学部には、日本語学科というのもあった。
私はときどきその学部で、日本語を教えていた。
そんなある日、1人の学生が、私にこう聞いた。
「どうして浅野内匠頭の家来は、吉良上野介を殺害したのか」と。

 いろいろ説明してみたが、だれも納得しなかった。
「悪いのは、浅野内匠頭ではないか」
「死罪(切腹)というのは、重すぎるが、しかし当時の法律でそうなっていたのなら、しかたのな
いこと」
「もし重罪に意見があるというのなら、どうして裁判で闘わなかったのか」と。
さらに「大石内蔵助らが職を失ったのは、浅野内匠頭の責任。どうして浅野内匠頭に責任を追
及しないのか」と。

 西洋では古来、主従関係といっても、契約が基盤になっている。
家来たちは職を失えば、つぎの主君を求めて、いわゆる職探しに歩く。

 さらに困ったのは、水戸黄門。
ある学生がこう聞いた。
「もし水戸黄門が悪いことをしたらどうなるか」と。
そこで私が「水戸黄門は悪いことをしない」と答えると、教室中が騒然となってしまった。
「それはおかしい!」と。

●「釣りバカ日誌」

常識というのは、それぞれの時代を経て、熟成される。
が、こんなこともある。

 釣りバカ日誌という映画がある。
ハマちゃんとスーさんが、あちこちへ釣りに行くという映画である。
あの映画にしても、おかしな点はいくつかある。

その第一。
ハマちゃんにせよ、スーさんにせよ、妻や子どもたちを連れていくことは、まず、ない。
そこで釣りバカ日誌の大ファンという中学生がいたので、聞いてみた。
「ハマちゃんやスーさんは、奥さんを釣りに連れていったことがあるか」と。
するとその中学生は、ウ〜ンと一呼吸考えたあと、こう言った。
「ないなア〜」と。
「へんな女の人がついてくることはあるけどね」とも。

 日本では何でもない映画だが、欧米では、そういうことはありえない。
もし休日を夫たちだけで過ごしたら、それだけで離婚事由になる。
あるいは男どうしで旅館に泊まれば、同性愛者とまちがえられる。

 欧米では、夫の会社のパーティであるにせよ、夫婦同伴が原則である(注※1)。

●出世主義から家族主義

日本が劇的に変化し始めたのは、1999年のことである。
その年のはじめ、「仕事より家族のほうが大切」と答えた人が、40%を超えた(文部省調査)。
その年の終わりには、45%になった(中日新聞調査)。
それが2007年には、75%(読売新聞・11月)。
これは中日新聞社が調査した。
こうした変化を、当時、「サイレント革命」という言葉を使って説明する人がいた。
そう、まさに「革命」。
今では、どんな調査結果をみても、80〜90%の人が、そう考えている。

 が、私たちの時代には、そうでなかった。
仕事か家族かと聞かれれば、みな、迷わず、「仕事」と答えた。
だからこんなことがあった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考2)

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、
「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化
である。

(参考2)2007年11月11日、読売新聞

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざというとき、
家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大きく上回っ
た。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親と子供
だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私が三井物産という会社にいたときのこと。
当時はまだ、「単身赴任」という言葉はなかった。
2年以内の海外出張を「短期出張」と呼んだ。
短期主張は、単身赴任が原則だった。
だから同僚を大阪の伊丹空港へ見送りにいくと、こんな光景がよく見られた。
「あなたア、がんばってきてねエ!」
「お前もがんばれよ!」と。

 今とちがい、日本は、まだ貧しかった。
休暇ごとに日本へ帰ってくるなどということは、できなかった。
が、2年で帰ってこられるという保証はなかった。
当時は、「短期出張のハシゴ」というのもあった。
赴任先の外地から、また別の外地へ短期出張で飛ばされる。
だからどこの商社でもそうだったが、一度外国へ出ると、4年は戻れなかった。

 その一例として、つまり日本のもつ後進性を表す一例として、1999年に入って、単身赴任に
よる被害について、損害賠償事件に対して、こんな判決があった。
ある男性が、「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校にな
るなど、さまざまな苦痛を受けた」として、会社を訴えた。
それに対して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。
いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。
もう何をか言わんや、である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

 一方、日本にはこんな話がある。
以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。
東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。
いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、
さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。
子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。
仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。
今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。
私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」
と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。
「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービ
ン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。
たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすす
めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。

が、日本ではそうではない。
軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。
言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ある中国人夫婦

 話を先に進める前に、ここで意識について、簡単な実験をしてみたい。
常識の実験と言い換えてもよい。
まず、こんな話。
それを聞いて、みなさんは、どう考えるか、それを静かに心の中をさぐってみてほしい。
みなさんは、みなさんの常識で、まず判断してみてほしい。

 こんな話。
 
 ある商店街に、1組の中国人夫婦が移り住んできた。
中華料理店を始めた。
当初はそれなりに繁盛していたが、そのうち商店街全体が不況の嵐の中に飲み込まれた。
一軒二軒と、シャッターをおろし始めた。
そのときのこと。

 となりの美容院が、ときどき店を閉めるようになった。
それに対して、中国人夫婦が激怒した。
となりの美容院へすごい剣幕で、怒鳴り込んでいった。
「店、開けるあるね!」と。
それだけではない。
道をはさんで、菓子屋があった。
昔からの菓子屋で、その菓子屋だけは客足が落ちなかった。
そこで中国人夫婦は、今度は菓子屋へ行き、こう言ったという。
「客を回してほしい」と。

 美容院を経営している女性は、この中国人夫婦に憤慨した。
菓子屋を経営している夫婦も、憤慨した。
「何という、常識知らず!」と。

●常識

 この話を聞いた私も、最初は、そう思った。
「どう考えても、この中国人夫婦のとった行動は、常識にはずれている」と。
が、もしこんな話を知ったら、たぶん、あなたは別の考え方をするようになるだろう。
こんな話だ。

●周囲との調和

 この4月にオーストラリアへ行ったときのこと。
ボーダータウンという、南オーストラリア州とビクトリア州の、ちょうど州境にある町へ立ち寄っ
た。
友人がそこに住んでいる。

 で、少し郊外へ行くと、みな、日本では想像もつかない広い土地に、広い家を建てて住んでい
る。
土地だけでも、5、6エーカー。
日本風に言えば、数千坪から1万坪。
家も広い。
T氏の家は、居間だけでも40畳以上。
それにどれも20畳以上もある部屋が、5〜8つとつづいている。
そこで私が心配になって、こう聞いた。

「税金はどうなっているのか?」と。

 さぞかし税金が高いだろうと思ってそう聞いた。
が、答えは意外なものだった。
「家の広さで、税金は決まらない」と。

 オーストラリアでは、ランド・バリュアー(Land Valuer)という人が税金を査定する。
「この家なら、いくらで売れるか」ということを基準にして、決める。
しかも家を買う側は、売買価格の1.4%の税金を払うだけ(ビクトリア州)。
売るほうには、税金はかからない。

 あとは毎年、決められた税金を払うが、その中心は、ゴミ収集のための税金。
またその程度。

 そこでその地域の住人たちは、家を含めた環境の価値を高めようとする。
価値が高くなれば、売るときに有利。
たとえばとなりの家の芝生が、だらしない状態になっていると、隣人たちがすぐ文句を言いに行
く。
実は私の二男も現在、アメリカに住んでいる。
その二男もこう言っていた。
「芝生を伸ばし放題にしておくと、すぐ文句を言われる」と。
だから二男は、毎週のように芝を刈っている。

 が、この日本では、そうではない。
となりがどんな家を建てようが、それはとなりの人の勝手。
イタリヤ風であろうが、和風であろうが、あるいはビルであろうが、その人の勝手。
土地の価値にしても、駅に近ければ近いほど、原則として高い。

 中国では、土地は、原則として、国のもの。
家にしても、建ててから70年は住めるという条件がつく。
が、思考回路は、欧米人のそれに近い。
町の商店街にしても、商店街全体がたがいにもり立てあいながら発展していくもの。
そういう考え方をする。

 そこで先の中国人夫婦のような考え方をするようになる。
「シャッターをおろせば、その影響は自分の家にも及ぶ。だから許せない」と。
また客にしても、たがいに回しあう。
それが中国では常識になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

Dear Hiroshi,
ヒロシへ

In Australia there are "Commonwealth" (national) taxes and State taxes (eg. State of 
Victoria). 
オーストラリアには、連邦税と州税の2つがある。
When I buy a house in Victoria I must pay a tax ("stamp duty") of 1.4% of the value. 
私がビクトリア州で家を買うとき、その家の価値の1・4%分に相当する、「スタンプ税」を払う。
No need to pay when selling.
家を売るときは、払わなくてもよい。
That is a State tax.
これは「州税」。
Once I own a house I must pay annual "rates" to the local council. 
家を所有するときは、地方局に、毎年「率税」を支払わなければならない。
This is partly calculated on the land value but also includes fees for garbage collection.
これは土地の価値に応じて別に計算されるが、それには、ゴミ収集の費用も含まれる。
I pay no other tax on my own home but if I own a second property then I must pay "land tax
" on the second property according to the value of the property. 
私はこれ以外には、税金を払っていないが、もし2番目の不動産を所有するときは、「土地税」
を、その土地の価値に応じて、払わなければならない。
That is a State tax.
これは「州税」。
If my business is buying and selling properties then I will be taxed on the profit just like any 
other business. 
もし私が不動産屋を経営しているなら、他のビジネスと同じように、所得税が課せられる。
That is a Commonwealth tax.
これは「連邦税」。
When calculating land value, the local council or the State government will use a 
professional land valuer. 
土地の価値を計算するとき、地方局と州政府は、専門の「土地査定人」を使う。
The vlauer will decide how much the house is worth if it was sold. 
土地査定人は、もしその家が売られるなら、いくらの価値があるかを査定する。
That becomes the "taxable value". 
これが「課税評価価値」となる。
The valuation is fair and is usually lower than a real sale value.
課税評価価値は、公正でで、ふつう実際の売買価格よりも低い。
In my case I pay the annual "rates" to my local council. 
私のばあい、毎年地方局に、「率」を払っている。
In return they arrange for garbage collection, provide various services such as a library and 
assistance for old people etc.
その代わり、彼らはゴミ収集をし、図書館や、老人介護などの種々のサービスを提供してくれ
る。
It is a bit complicated, I suppose.
少し複雑かな。
D
Dより

The government knows that owning a house is important for people and people will vote for 
a party which makes it easier to own a house.
政府は、家の所有は、人々にとって重要と心得ているし、人々は家を所有しやすくしてくれる正
当に票を入れる。
So taxes are not too high. 
だから税金は、そんなに高くない。
Owning a home is like a sacred thing for Aussies.
オーストラリア人にとっては、家をもつということは、神聖なことだ。
The difficult thing for home-owners is bank interest rates for loans.
家の所有者にとって、難しいことは、銀行からの借入金の利率ということになる。
Maybe that is more a problem than taxes. 
たぶんそれのほうが、税金より大きな問題だ。
Anyway people talk about interest rates more than taxes.
オーストラリア人は、税金より、借り入れ金利のほうに関心がある。

Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中国の土地税制について

++++++++++++++++++++

D君は、オーストラリアでも中国研究の第一人者でもある。
中国の土地税制についても教えてくれた。

++++++++++++++++++++

Dear mate,
友へ、

In China, people do not pay tax for their house but the system is different. 
中国では、自分の所有する家には税金を払わない。システムが異なる。
Firstly, they can only buy a house not the land underneath. 
第一に、彼らは家を買うのであり、その下の土地は買わない。
The land belongs to the government. 
土地は政府に属する。
Secondly, they can only buy a house for 70 years. 
第二に、彼らは70年間、家を買う。(最長限度は70年。)
So in China, a big company or corrupt official can easily push people of the land which they 
are living on.
それで、中国では、大きな会社や役人は、そこに住んでいる人々を容易に追い出すことができ
る。
When a company wants to build a factory in a village, there is a negotiation over price but 
the local government is in charge of everything and they can favour the powerful side. 
会社が村に工場を建てるとき、価格の交渉をするが、地方政府はすべてに責任をもち、力の
あるほうに味方することができる。
So many farmers sell as soon as they receive a good offer and move into a town. 
それで多くの納付は、よい条件がつけば、すぐ家を売り、町へ移動する。
Eventually there will be a shortage of good farming land.
結果的に、農地が不足することになるだろう。
One day the system in China will crash down like a shaky old house.
いつか中国のこのシステムは、がたがたの古い家のように崩壊するだろう。
D
Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識の変化

 どちらが正しいとか、正しくないとか、そういうことではない。
しかしここまで話を聞くと、多くの方は、こう思うにちがいない。
「最初は、中国人夫婦の言い分は、常識はずれと思った。
が、そうでもないのではないか」と。

 私も知れば知るほど、むしろ中国人夫婦の言い分のほうが、正しいように思えてきた。
日本人は、「自分がどんな家を建てようが、自分の勝手」と考える。
となり近所の家との調和を考えて、家を立てる人はまずいない。
店を閉めるときもそうだ。

 また「地域」という考え方も、希薄。
商店街の店々が、客を回しあうという話は、最近ではめったに聞かなくなった。
……というか、全国的に、町の通りに並ぶ商店街は、つぎつぎと姿を消しつつある。

●意識

 長い前置きになったが、意識というのは、絶対的なものではないということ。
当然、常識にも絶対的なものは、ない。
私の経験をもとに、話を進めてみたい。

●親のめんどうをみる

 4年おきに、内閣府(旧総理府)は、青年の意識調査をしている。
それによれば「将来、親のめんどうをみる」と考えている若者は、どんどんと減っている。
その多くは、「経済的な余裕があれば、みる」と答えている。

 将来、どんなことがあっても、親のめんどうをみる……28%(日本人・内閣府、平成21年調
査)。

 この数字がいかに衝撃的なものであるかは、他の国々の若者たちのそれと比較してみると
わかる。
私たちが内心では、「さぞかし低いだろうな」と思っているアメリカ人にしても、64%。
アジア各国の若者についてみると、軒並み、80%前後。

 が、この数字はどう考えてもおかしい。
日本は1970年代から高度成長の大波に乗り、世界の歴史の中でもまれにみるほどの大発
展を遂げた。
当然、その時代に生まれた子どもたち、つまりこの会場にいるお父さん、お母さんたちは、たい
へん恵まれた環境の中で、生まれ育った。

 つまり親にもっとも感謝してよい世代の人たちということになる。
そういう人たちが、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
が、現実問題として、経済的に余裕のある人は少ない。
とくに若い世代の人たちは、そうだ。
みな、目一杯の生活をしている。
車にせよ、家財にせよ、あって当たり前の時代に生きている。
私たちの時代と比較するのもヤボなことはよく知っている。
しかし私たちの新婚時代は、たとえばボットン便所から始まっている。
が、やがて小さなアパートに移った。
6畳と4畳だけの、小さなアパートだった。
そこで私ははじめて、水洗トイレの家に住んだ。
うれしかった。
何度も水を流し、においのしないトイレに感動した。

 そういう積み重ねがあった。
が、何よりも大きな違いは、親に対する考え方である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%


★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?


自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。


★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか


『そう思う』(2)
イギリス  70.1%、
アメリカ  67.5%、
フランス  62.3%、
日本  47.2%、
韓国  41.2%
(以上、内閣府、平成21年調査より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●収入の半分は、実家へ

 私たちの時代に、だれかがこう聞いたとする。
「君は将来、親のめんどうをみるか」と。
もしそんなことを聞かれたら、私は迷わず、こう答えたであろう。
「バカなことを聞くな!」と。

 「当然のこと」という意味で、そう答えたであろう。

 事実、私は浜松市に住むようになってから、収入の約半分を、実家に送った。
結婚前からそうしていた。
現在のワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だからワイフも、何も文句を言わないで、収入の半分を実家へ送った。
それだけではない。
私の母は、ときどき私のアパートへ来ては、現金をもって帰っていった。
私の土地を勝手に売ってしまったこともある。
それについて私が泣いて抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。
「親が先祖を守るために、息子の金を使って、何が悪い!」と。

 母を責めているのではない。
母は母で、その当時の常識に従って生きていた。
今の私が自分の常識に従って生きているように。
今のあなたがたが、自分の常識に従って生きているように。

●出世主義から家族主義へ

戦時中から戦後へ。
日本は敗戦により、大きく変わった。
が、そう見えるのは、表面的な部分だけ。
つまり包装紙が変わっただけ。

「お国のため」が、「会社のため」になった。
「兵士」は、「企業戦士」になった。
それまでの「神国日本」は、「金権日本」になった。

 こうして戦後生まれの世代、つまり団塊の世代と言われる私たちの世代は、会社人間とし
て、社会へと巣立っていった。
だから当時の学校では、卒業式などには、決まってこう言われた。
「社会で役立つ人間になってください」と。
耳にタコができるほど、私たちはそれを聞かされた。

 が、これではいけない。
個人が組織の犠牲になってはいけない。
個人が家族の犠牲になってはいけない。

 たとえば私などは、「親孝行」という言葉も、それこそ耳にタコができるほど、聞かされて育っ
た。
それを如実に表す言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という、あの言葉である。
あの言葉ほど、恩着せがましく、同時に、真綿で首をしめるような言葉はない。
だからこそ、それが私の常識となり、給料を手にするようになってからも、収入の半分を実家
へ送るということにつながっていった。

●反動

だから私は3人の息子たちを育てながらも、そういう言葉は、絶対に口にしないと誓った。
事実、言ったことはない。
反対に、こう言った。
「お前たちの人生は、お前たちのもの。お前たちはお前たちの人生を、自分の好きなように生
きろ」と。

が、変革は、若者たちのほうから始まった。
その象徴的な人物が、尾崎豊である。

●尾崎豊の『卒業』

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」という、あの歌である。
私ははじめてあの歌を聴いたとき、ふつうでない衝撃を受けた。
「ああいう歌を歌うから、学校の窓ガラスが割られるのだ」と。

 が、それはまさに若者たちの、世代闘争の始まりだった。
少し時代が逆行するが、私たちの時代は、60年安保、70年安保を経験した。
それは権力との闘いだった。
何かわからない。
わからないが、自分たちの体をがんじがらめにしているものと闘った。
よくイデオロギー(政治的信条)が問題になったが、イデオロギーをもっているのは、学生の中
でもほんの一部。
大部分の学生たちは、言うなれば、祭り騒ぎのひとつとして、闘争に参加した。
「祭り騒ぎ」というのは、少し言い過ぎかもしれない。
しかし今、振り返ってみると、そういう印象をもつ。

 で、私たちの時代を、反権力闘争の時代とするなら、尾崎豊らが提起した闘争は、反世代闘
争ということになる。
旧態の価値観を打ち破り、自分たちの時代を確立しようとした。
わかりやすく言えば、自分たちの世代を、それまでの世代と、切り離そうとした。

 が、これはその世代の人たちにとっては、不幸なことでもあった。

●世代闘争

 知恵や知識は、世代から世代へと、受け継がれていく、
が、それを自ら断ち切ってしまう。
切るだけならまだしも、古い世代の知恵や知識を、意味のないもの、価値のないものとして、排
斥してしまう。
事実、排斥した。
古い世代の言葉に耳を傾けなくなった。
つまり断ち切った世代は、すべてを、ゼロから始めなければならない。

●行き過ぎた価値観

 こうして尾崎豊の世代は、より過激になっていった。
というより、尾崎豊は、その時代の若者たちの心を代弁した。
共感を得たというのは、そういう意味。
CBSソニーに問い合わせたところ、あの『卒業』は、シングル盤も含めて、200万枚以上も売
れたという。

 誤解がないように申し添えておくが、私自身は、尾崎豊が大好きである。
『卒業』も大好きである。

 で、若者たちは、世代闘争を繰り返し、自分たちの時代を確立した。
その結果が、今のみなさんの世代ということになる。
新しい価値観を構築した。

●2つの問題

 が、今、ここで大きな問題が起きてきた。
私はその問題を、つぎの2つに集約する。

ひとつは、(1)行き過ぎた家族主義。
もうひとつは、(2)欲望至上主義。

 行き過ぎた家族主義については、先に少し触れた。
日本が行動性長期にさしかかるころ、「核家族」という言葉が生まれた。
それがしばらくすると、「カプセル家族」という言葉に置き換わった。

 核家族というのは、夫婦と子どもたちだけで構成される家族をいう。
カプセル家族というのは、硬いカラの中に閉じこもってしまい、独自の価値観を極端化してしま
う家族をいう。
高学歴の父母に、多く見られた。
「私たちの育て方が正しい」と言いながら、その返す刀で、相手の価値観を否定する。
教師すらも、「下」に置くことによって、自分流の育児観をごり押しする。
具体的には、その派生として、「教育ママ」という言葉が生まれた。
「モンスターママ」という言葉も生まれた。

 が、問題はこれだけでは収まらなかった。
行き過ぎた家族主義の結果として、その「家族」から、「祖父母」の姿が消えた。
今、若い世代の人たちが使う「家族」という言葉の中には、「祖父母」、つまり自分たちの両親
の姿はない。
祖父母は、つまり自分の親たちは、家族ではない。

 このことを短絡的に、独居老人、孤独死、無縁死と結びつけるのは危険なことである。
ある社会学者の推計によれば、今後約60%の老人が、孤独死するという。
しかも発見までの平均日数は、6日。

 こういう話をすると、ここにいるみなさんは、「私はだいじょうぶ」と思うかもしれない。
「私と子どもの関係は絶対。親子の絆も太い」と。
しかしそれはどうか。
ここにあげた60%という数字は、私たちの世代の数字ではなく、現在の40代、50代の人たち
の数字である。

ともあれ家族、とくに祖父母とその息子、娘の間の絆が、もろく壊れやすくなっているのは、事
実。
それが先にも書いた、「経済的に余裕があれば……」という言葉につながっていく。
この言葉を裏から読むと、「経済的に余裕がなければ、親のめんどうはみない」。
さらには「親の恩も遺産しだい」という考え方につながっていく。

 ついでながら、世代闘争をした結果、老人は社会の隅に追いやられてしまった。
本来なら政治がそうした社会的欠陥を補完しなければならない。
が、その政治が追いついていない。
その結果が、現在の老人福祉政策ということになる。

 昔は、息子や娘が親の老後のめんどうをみた。
今は、みない。
そのかわり……という部分が未完成のまま、労時福祉政策だけがアタフタとしている。
たとえば私の近所にある特別養護老人ホームにしても、症状にもよるが、2年待ち、3年待ちと
いうのは、ザラ。
順番にしても、100番待ちという状況がつづいている(浜松市中区長寿保険課調べ)。

●欲望
 
 もうひとつは、欲望至上主義。
その代表的なものが、恋愛至上主義。

 韓流ブームに代表されるように、今の日本は、恋愛市場主義一色。
たがいに愛しあっていれば、何でも許される、と。
昔で言う駆け落ちなど、いまどき珍しくも何ともない。
結婚するについても、ほとんどが事後承諾。
親の許可を求めたり、親の意見を聞く子どもは、皆無。
まずいない。
皆無ということは、実は、この会場に来ているあなたがた自身が、いちばんよく知っているは
ず。

 ある男性は、実家へ規制するたびに、別の女性を連れてきた。
そしてそのたびに親にこう言ったという。
「パパ、(彼女の)名前をまちがえないでよ」と。

 そして別のある日のこと。
また突然、別の女性を連れてきて、「結婚することにしたから、よろしく」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、理解できないだろう。
「どこが悪いのだ」と。
それが冒頭で話した、「常識」ということになる。
「意識」そのものが、ちがう。

 私たちの時代には、それがよかったとは思っていないが、しかし親の承諾なしには結婚はで
きなかった。
仮に恋人ができたとしても、そこには「実家」という大きな関門があった。
私自身にしても、実家の父や母のことを考えるあまり、一度、ある女性との結婚を断念してい
る。
親が反対したわけではないが、自ら、そうした。
それが私たちの時代には、常識だった。

●フェニルエチルアミン

最近の脳科学では、感情は、脳ホルモンによるものというのが、定説になりつつある。
恋愛とて例外ではない。
恋愛も、脳ホルモンによるもの。
それがフェニルエチルアミンである。

 その時期になると、男や女は、熱烈な恋愛をする。
身を焦がすような、甘い陶酔感。
当の本人たちは、自分の意思で恋愛しているように思っているかもしれない。
しかし実は、脳ホルモンの奴隷になっているだけ。
それが悪いというのではない。
人間には、動物として、種族を後世に残すという重大な任務がある。
またそれがあるから、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに価値がある。

 たとえば10年ほど前、『タイタニック』という映画が、大ヒットした。
あの映画の中に、もしジャックとローズがいなかったら、あの映画はただの船の沈没映画にな
っていただろう。

 しかし何ごとも行き過ぎはよくない。
恋愛はすばらしい。
人生の花。
しかしそれに溺れてしまってはいけない。
恋愛至上主義に走るということは、欲望の奴隷になることを意味する。
酒に溺れたり、タバコに溺れるのと同じ。
最近の脳科学によれば、視床下部から発せられたシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され
る。
それが生きる原動力にもなっている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」にもつながる。
しかしそれが行き過ぎると、先にも書いたように中毒性をもつ。
麻薬性をもつ。

 わかりやすく言えば、自分を見失う。
自分が自分であって、自分でなくなる。
恋は盲目とはいうが、盲目程度ではすまなくなる。
だから、こわい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。

 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。

 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。
食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まって、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。
わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容体が形成されるかによって決まる。

たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それぞれ別の受容体が形成されること
がわかっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これから……

まず念頭に置くべきことは、私たちがもっている常識というのは、絶対的なものではないという
こと。
その常識を疑う。
私やあなたがもっている常識を疑う。
いろいろな弊害が生まれてくれば、なおさら、である。

 その常識の基本となっている意識。
その意識を変えることは可能である。
その一例として、冒頭で、中国人夫婦の話をした。
つまりこの話の中に、問題を解くヒントが隠されている。

 方法は、(1)常識のおかしさに気づくこと。
つぎにそれに気づいたら、(2)意識を変える。
そのために自分の心を風通しのよいものにする。
視野を広くして、他人に考えに進んで耳を傾ける。
そういうことをわかってもらいため、冒頭で、忠臣蔵の話をした。
水戸黄門や釣りバカ日誌の話をした。

 同じように、私たちが今もっている家族観、育児観をながめなおしてみてほしい。
意識が変われば、ものの見方が180度変わるということもよくある。
同時に常識も、変わる。

 今日の講演では、つぎの2つの焦点をしぼって、みなさんに伝えたい。

(1)家族主義から新家族主義へ

 これから子どもたちに「家族」の話をするときは、そこに「祖父母」、つまりあなたがたの両親
の姿を加える。
これはあなた自身のためでもある。
それがわからなければ、今の自分の年齢に、子どもが社会人になるまでの年数を足してみれ
ばよい。
「子育てがやっと終わった」と思った瞬間、そこに待っているのは、あなた自身の「老後」であ
る。
今度は、あなた自身が、その「祖父母」ということになる。

が、今、みなさんは、自分の姿と「下」、つまり子どもの姿しか見ていない。
しかしそれではいけない。
「家族」というときは、そこには当然、「祖父母」も含まれなければならない。
これが第一。

(2)欲望至上主義の是正

 欲望の追求には、ブレーキをかけなけばならない。
そのひとつとして、「恋愛」を例にあげた。
恋愛はけっして、すべてに優先されるべきものではない。
たとえそれが身を焦がすほどつらいものであっても、だ。
あなたであってあなたでない部分が、あなたを操っているだけ。

 ニコチン中毒や、アルコール中毒と、メカニズム的には同じ。
脳の中の線条体というところに受容体ができ、そこで条件反射運動を起こしているだけ。
欲望の奴隷になってよいことは、何もない。

 で、恋愛をひとつの例としてあげた。
もちろん恋愛を、欲望と考えてよいかどうかという点については、異論、反論もあるだろう。
しかしフロイト学説に従うなら、「性的エネルギー」は、すべての欲望の原点になっている。
そういう意味で、ここで恋愛をひとつの例として、考えてみた。
つまり「恋愛」という仮面にだまされてはいけない。
それが正当化されるのを許してはいけない。

●では、どうすればよいのか

子育てには、多くの誤解がある。
たとえば「すなおな子ども」という言葉がある。
「すなおな子ども」というと、ほとんどの人は、親や先生に従順で、親や先生の言うことを、ハイ
ハイと聞く子どもと考えている。
が、これは誤解。

 心理学の世界で「すなおな子ども」というときは、情意、つまり「心」の状態と、顔の表情が一
致している子どもをいう。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。
悲しいときには、悲しそうな顔をする。
そういう表現が、自然な形でできる子どもを、すなおな子どもとい。

 つぎにやさしさ。

●やさしさ

「やさしい子ども」というと、たとえば柔和でおだやかな子どもを想像する人は多い。
が、そういう子どもを、「やさしい子ども」とは言わない。
たとえばブランコに乗ってたとする。
そのとき別の誰かがやってきて、ブランコを横取りしたとする。
そういうとき、「いいよ……」と言って、ブランコを明け渡してしまう。
そういう子どもを、やさしい子どもとは言わない。
またそういう子どもほど、また別のところでさまざまな問題を引き起こすことがわかっている。

 では、どういう子どもをやさしい子どもというか。

 子どもにとって「やさしさ」というのは、より相手の立場になって考えられる子どもをいう。
たとえばショッピングセンターで、ものを買うときも、いつもだれかのことを考えて買う。
「これはお父さんの好物だね」とか、「これを買ってあげると、お兄ちゃんが喜ぶね」と。
もう少し専門的に言えば、より自己中心的でない子どもを、「やさしい子ども」という。
またそれができる子どもを、(子どもに限らないが)、人格の完成度の高い子どもという。
人格指数、つまり人格の完成度を知る、ひとつのバロメーターにもなっている。

 が、今日の話に関係しているのが、忍耐力ということになる。
その忍耐力も、よく誤解される。

●忍耐力

よく「うちの子はサッカーだと一日中しています。
忍耐力はあるはずです。
そういう力を、勉強に向けさせたいが、どうしたらいいか」と相談してくる親がいる。
しかしそういう力は、忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。

 子どもにとって、またおとなにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。
ためしに今日、家に帰ったら、子どもにこう言ってみるとよい。
「台所の生ゴミ、きれいにして」と。
「風呂場にたまった毛玉を掃除して」でもよい。

 そのときあなたの子どもが、何もためらわずそれができたとしたら、あなたの子どもは忍耐力
のある子どもということになる。

●では、どうするか

 それが冒頭にあげた話、ということになる。

 子どもは使う。
使って使って、使いまくる。
長い前置きと、回り道をしたが、これが結局は、この講演の結論ということになる。

『子どもは使う』。

 ついでに言うなら、古来、この日本では、子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせ
ることというふうに考える。
「楽」イコール、「楽しませること」と考える人も多い。
それに拍車がかかったのが、高度成長期に入ってから。
それこそ子どもが生まれると、蝶よ花よと手をかけた。
時間をかけた。
お金もかけた。

 その結果、私たちの時代で、「ドラ息子」「ドラ娘」と呼ばれる子どもたちがふえた。
ふえたというより、そういう子どもが主流になった。
すでに20年前には、そうでない子どもは、さがさなければならないほど、少なくなった。
今では、高校生にしても、親に感謝しながら通っている子どもはいない。
大学生でもいない。
お金をもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかしそこまで。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どももいる。
それもそのはず。

 現在の子どもたちは、そしてここにいるお父さん、お母さんは、子どものときから「勉強しろ」
「勉強しろ」と言われて育っている。
ある女子高校生は、親が「大学進学をあきらめてくれ」と言われたとき、それに猛烈に反発し
た。
「子どもを大学へやるのは、親の役目。借金でも何でもして、私を大学へやって!」と。

 今は、そういう時代である。
子どもが社会人になりとき、その支度金まで、親が出す。
結婚式の費用も、親が出す。
さらに子どもが生まれると、その生活費まで、援助する。

 私たち団塊の世代は、こういう現状を見ながら、こうこぼす。

「私たちは両取られの世代」と。
親に取られ、子どもたちに取られ……と。
なぜ、こうなってしまったか。
それが言うまでもなく、常識であり、意識であるということになる。
それがどのようなものであれ、一度はその常識を疑ってみる。
そして「おかしい」と感じたら、今度は意識を変えてみる。
そのヒントとして、今日は常識論、意識論にからめて、子どもをどう育てたらよいかを話してみ
た。

 これからの子育てのひとつの指針になればうれしい。
なぜならこの問題だけは、あなたがたみなさんの近未来の老後に直結する問題である。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(注※1)

●男は仕事、女は家庭?(2008年、調査)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(2008年8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほど、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                                ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに
対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

(2011年6月2日、作成)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 常識論 意識論 常識改革 意識改革)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司




(5)
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【土下座・論】(あまりにも悲しい、日本の奇習)


土下座を迫る人も、土下座をする人も、そしてそれを見る人も、みな、悲しい。
土下座は日本人の美徳(?)と説く評論家もいる。
しかし土下座は美徳でも何でもない。
東洋の島国に残る、ただの奇習。


++++++++++++++++++++++

日本に残る最悪の風習といえば、「土下座」。
悪習中の悪習。
世界に類をみない、悪習。
奇習。

土下座は、人間が基本的にもつ尊厳すらをも踏みにじる。
謝罪する側にしても、その尊厳まで、捨ててはいけない。
謝罪を迫る側にしても、その尊厳まで、踏みにじってはいけない。

私も人間、あなたも人間。
みな、人間。
同じ、人間。

相手が土下座したからといって、問題は何も解決しない。
謝罪したことにはならない。
またそれでもって、相手が謝罪したと錯覚してはいけない。

一方、相手に土下座させたからといって、問題は何も
解決しない。
謝罪させたことにはならない。
またそれでもって、あなたの正当性が相手に認められたと、
錯覚してはいけない。

中には土下座し、その場をごまかす人もいる。
ずるい政治家は、この手法をよく利用する。

土下座……。
あまりにも非人間的な謝罪法。
それを強いる人にしても、相手に向かって、人間であることを
あえて否定させる。
人間であることの尊厳を否定させる。
みなの前で、恥をかかせる。
恥をかかせて、「罰」とする。
それが土下座の原点。

東京電力の社長をかばうつもりは、まったく、ない。
天災というよりは、人災。
おかしな官僚体質が、今回の事故を引き起こした。
「国の基準を守り、やるべきことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。

一方、被災者の方たちの気持ちも、よくわかる。
つらくてきびしい生活も、よくわかる。
やりようのない怒りも、よくわかる。
が、しかし東京電力の社長たちは、少なくとも犯罪者ではない。
今後、過失などがあれば、それはそれとして、法的に罰せればよい。

が、それはそれ。
しかし少なくとも、今は、犯罪者ではない。
私やあなたと同じ、1人の人間。
家族もいれば、仲間もいる。
それを見ている親がいる。
子どもがいる。
孫もいるだろう。
そんな人に土下座など、させてはいけない。

大切なことは、東京電力の社長以下、みなに、
「今」を原点として、原発事故を収束させること。
がんばらせること。
責任の追及と謝罪は、そのあとでよい。

土下座する、社長以下、東京電力の役員たち。
それを取り囲み、立って見下す、被災地のみなさん。
それを見ている私たちだって、かえって悲しくなるだけ。
さみしくなるだけ。

もし今、原子炉が一機でも爆発してしまえば、それこそ万事休す。
福島どころか、東京にだって、人は住めなくなる。
今が最悪ではない。
最悪の下には、さらに別の最悪がある。
二番底、三番底がある。
土下座させたからといって、その最悪の最悪が回避できるわけではない。

++++++++++++++++++++++

●土下座した東京電力の社長

 私は、TBSのつぎの記事を読んで、いたたまれない気持ちになった。
責める側も、責められる側も、まさに地獄。
生き地獄。
どうして同じ日本人が、こうまで過酷な地獄を味あわなければならないのか。
傷つけあわなければならないのか。

 その悲しさ。
そのつらさ。

+++++++++以下、TBSNEWSより+++++++++++


●「土下座しろ!清水!」 東電社長に怒号

 5月4日(水)19時12分配信


 東京電力の清水社長は4日、2回目となる福島入りをしました。原発の事故で自治体の
機能ごと移転させたH町、N町、K村の対策本部を訪れ、それぞれの首長に謝罪を行いま
した。N町の対策本部では・・・


 「賠償補償については速やかにやっていただかないと。生業がなっていないんです。全
員失業者です」(N町 B町長)
 「生活の故郷であるところに戻っていただくよう、全力をあげて取り組んでいきたい」(東
京電力 清水正孝社長)


 町長らへの謝罪を終え、避難している住民のもとへ向かおうとする清水社長。しかし・・・


 「清水社長、町民に謝らないで帰るのですか?」


 詰め寄ったのは実家がN町だという女性。ただ頭を下げる清水社長。ですが、女性の怒
りは収まりません。


 「ここにもいっぱい浪江の人がいるんですよ。謝らないんですか?」(女性)


 さらに・・・


 「土下座しろよ!清水!」(男性)


 清水社長は激しい住民の怒りに対し、膝をついて謝罪しました。

 この後、清水社長は原発事故の影響で避難生活を送る人たちを訪問しました。ここでは
避難住民たちの悲痛な叫びが・・・


 「収入途絶えた・・・。『仮払金払います』、そんなもの3〜4か月でなくなる。その先
のこと考えてくれていますか」


 「頑張って家も建てました。ローンも残ってます。どうしてくれるんですか、これ。こ
れで(一時金が)100万って、あなたたちが一晩で飲んでなくなるような金額もらって、
みんなが納得すると思ってるんですか」(避難している住民)


 住民の具体的な要望に対しても清水社長の答えは・・・


 「誠意をもって対応したい。お話はよく分かりました」(東京電力 清水正孝社長)


 清水社長が繰り返す「わかりました」「誠意を持って」の言葉に、住民からさらなる怒り
が・・・


 「カスタマーセンターのオペレーターの返事と同じ。指針がない」(避難している住民)


 住民の納得を得られないまま、清水社長は避難所を後にしました。


 「期待していなかったが、がっかり」
 「みんなうちに帰りたい」(避難している住民)

 避難住民らへの一刻も早い補償の具体的指針が求められます。(04日17:28)


+++++++++以上、TBSNEWSより+++++++++++

●責任論

 あえて言うなら、大地震も、大津波も、天災だった。
人知の及ばない天災だった。
その天災が引き金となり、福島第一原発の事故は起きた。
けっして事故を容認せよと言っているのではない。
過失もあった。
油断もあった。
先にも書いたように、天災というよりは人災。
その結果として、事故は起きた。

 が、その一方で、使い放題電力を使ってきたのは、私たち。
ぜいたくな生活をしてきたのは、私たち。
少しでも停電になれば、そのつど電力会社に文句を言ってきたのも、私たち。
その私たちに責任がないと、どうして言えるのか。
今は清水社長も、こう言っている。
「生活の故郷であるところに戻っていただくよう、全力をあげて取り組んでいきたい」
と。
その言葉には偽りはないだろう。
だったら、今は、それを信ずるしかない。
応援するしかない。

 が、今のこの日本で、こう発言することは、たいへん勇気がいる。
同じようなことを書いて、袋だたきにあった人は、いくらでもいる。
しかし今大切なことは、みなが力を合わせて、そこにある危機を克服すること。
たがいに責めあって、何が解決するというのか。
へたをすれば、先にも書いたように、第一原発は明日にでも爆発するかもしれない。
もしそうなれば……。

 責任を追及し、法的な補償を求めるのは、そのあと。
そのときは東京電力の責任を、徹底的に追及すればよい。

●命がけの作業

 今、福島第一原発では、まさに命がけの作業がつづいている。
放射線という見えない敵を相手に、作業員の人たちが、懸命に努力している。
作業員といっても、大手ゼネコンの下請け企業の労働者のみなさん。
昨夜も、テレビでそういう人たちを紹介していた。
中に、涙を流しながら、仲間たちと安全を誓いあったという人もいた。
そういう人たちがいるの知るにつけ、ただただ頭がさがる。
本当に、頭がさがる。

 今すぐには影響がなくても、10年先、20年先に、どんな病気になるかわからない。
そういう不安とも、これから先、闘っていかねばならない。
そういう人たちが、今、がんばっている。
今は、そういう人たちを静かに、見守るしかない。

●土下座

 ともかくも、もうやめよう、こんな風習。
悪習。
奇習。

 「土下座しろ!」と叫んだ、被災地のみなさん。
気持ちはよくわかる。
やりようのない怒り。
不安。
孤独。
それに絶望感……。

 が、今、日本中の人たちが、被災地のみなさんと同じ気持ちになって、懸命に
闘っている。
悲しみや苦しみを共有したいと、みな、がんばっている。
相手が土下座したからといって、何も問題は解決しない。
相手に土下座させたからといって、何も問題は解決しない。

土下座する、社長以下、東京電力の役員たち。
それを取り囲み、立って見下す、被災地のみなさん。
それを見ている私たちだって、かえって悲しくなるだけ。
さみしくなるだけ。

 だからもうやめよう、こんな風習。
悪習。
奇習。

……というのが、このエッセーのしめくくり。

繰り返しになるが、だからといって、被災地の人たちを責めているのではない。
やむにやまれず、そういう状況を作ってしまった。
そういう状況を、作らざるをえなかった。
土下座させる被災地の人たちにしても、さぞかしつらかったことだろう。
悲しかったことだろう。

 何とも歯切れの悪い結論になってしまった。
「土下座」について書くつもりだった。
が、話が、原発事故につながったしまったのは、問題が今の今も進行中だから。
どう解決したらよいのか、その糸口さえ、まだ見つかっていない。
不安といえば、不安。
心配といえば、心配。
だから今は、こう書くしかない。

福島第一原発の事故が、一日も早く、収束に向かうことを、心から願っています。
同時に、被災地のみなさんに、一日も早く、平安な日々がやってくることを、
心から願っています、と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●土下座について

ウィキペディア百科事典(英語版)は、「土下座」について、つぎのように説明する。

In gishiwajinden (魏志倭人伝, the oldest Chinese record of encounters with the 
Japanese), as a custom of yamataikoku (邪馬台国, a country in old Japan), it was 
mentioned that commoners would, upon meeting noblemen along the road, fall 
prostrate on the spot, clapping their hands as in prayer (柏手 read: kashiwade), and 
this is believed to be an old Japanese custom. 
日本人に関するもっとも古い中国の文献によれば、邪馬台国の習慣として、道路で高貴な
人物に出会ったようなとき、庶民は、その場で、平伏し、拝むように手を合わせた。これ
は日本の古い習慣と理解されている。
The haniwa (埴輪) of the Kofun Period (古墳時代) can be seen prostrating themselves in 
dogeza.
古墳時代の埴輪にも、土下座したものが見られる。
 In addition, common people performing dogeza in modern times when being 
interviewed by higher-ups was normal. In the early modern period, popularly as the 
daimyo's procession passed by, it is believed that it was mandatory for the commoners 
present to perform dogeza, but that is incorrect.
さらに近代においては、位の高い人と面会するとき、一般庶民は土下座するようになった。
たとえば大名行列が通り過ぎるようなとき、一般庶民は、土下座するように信じられてい
るが、これは正しくない。
In the Japanese social consciousness, the act of sitting on the ground and creating a 
scene (dogeza), is an uncommon deference only used when one is deviating greatly from 
daily behavior. 
日本人の社会的意識においては、土下座をするということは、日常の生活から著しく逸脱
したようなときのみなされる、「ふつうでない服従的な行為」ということになる。
Seen as an etiquette filled with the meaning of "sorry to trouble you", in the Edo period, 
by performing dogeza and apologizing to someone, usually the person would have a 
tendency to forgive.
江戸時代には、土下座し、だれかに謝罪するときは、「ご迷惑をおかけしました」という意
味での行為として見られた。またふつうその人は、相手をそれで許した。
Even nowadays, as a method of self-protection and apology in which damage to one's 
image is neglected, the idea of feeling shame while performing dogeza remains firmly 
rooted.
今日においてでさえ、土下座は用いられているが、土下座は個人のイメージを傷つけ、土
下座をすることは、たいへん恥なこととされている。
 However, generally people willingly performing dogeza in order to show that they come 
from a lower social standing essentially has almost no meaning.
しかしながら自分が下であることを示すために、喜んで土下座をするということもあり、
土下座の社会的意味は、ほとんどなくなりつつある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●(補記)管総理大臣へ

 先日も国会中継を見ていたら、こんなシーンがあった。
同じ与党(民主党)の議員が、管総理大臣を口汚くののしっていた。
「見通しが甘かったことを、認めたらどうだ!」と。
そんなようなことを言っていた。

 それを評して自民党(野党)の議員は、「民主党は不思議な党だ」と酷評していた。
つまり民主党内部が、すでに分裂している。
分裂しながら、それをみじんも恥じない。

 今、重要なことは、挙国一致態勢で、この「危機」を乗り切ること。
足下どころか、身内でさえバラバラで、どうしてこの危機を乗り切ることができるのか。
へたをすれば、日本がバラバラになってしまう。
今、日本が置かれた状況は、それほどまでにきびしい。
だから今は、一言。

 管総理大臣、どうか、ここはがんばってほしい。
今のこの危機を乗り切る力があるのは、あなたしかいない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の悪習 日本の奇習 土下座論 土下座という悪習 土下座とい
う奇習)

(6)
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●放射線物質と放射能

【奥三河・湯谷温泉・「湯の風・HAZU」】

++++++++++++++++++

昨日(13日)はいろいろあった。
いろいろあって、疲れた。
夜(9時ごろ)になって、突然、
温泉に入りたくなった。
ネットで温泉をさがす。

私は山の中の山育ち。
海の見えるホテルもよいが、川のせせらぎが
聞こえる、山の宿も好き。
・・・ということで、ここ、湯谷温泉へは
たびたび来る。

で、今日は、「湯の風・HAZU」に一泊。
土曜日の夜だから・・・とあきらめていたが、
「いい部屋が空いています」とのこと。

この湯谷温泉には、10軒近く、温泉が
並んでいる。
「湯の風・HAZU」は、その温泉通りとは、
川をはさんで反対側にある。
一軒宿である。
ワイフも驚いた。
私も驚いた。

和風の、造りは古いが、温泉宿としては、最高!
眼下に清流。
深い木々に囲まれ、5月の、どこか夏を
思わせる、さわやかな陽気。
部屋に一度入ったあと、ワイフと散歩。
歩いて数分のところに赤いつり橋があった。
そこを渡ると、そのままJR湯谷駅。

「いいところだね」と、ワイフは、
何度も言う。
もちろん私も異存なし!
そのつど、「いいところだね」と。

・・・ということで、湯谷温泉イチの旅館を発見。
ついでに露天風呂よし。
料理よし。
「湯の風、HAZU」。
名前もよい。

+++++++++++++++++

●体重オーバー

 このところ考えることと言えば、原発事故のことばかり。
私のような「うつ族」は、ひとつのことにこだわると、そのことばかり。
それが頭にこびりついて、離れない。
週刊誌、雑誌・・・。
いろいろ買い込んでは、読む。
が、これは精神の健康にはよくない。

 そこで先週から、運動量をふやした。
体重がふえたこともある。
4、5日前、恐る恐る体重計に乗ると、3キロオーバーの、54・5キロ!
「太ったな」とは感じていたが、3キロは、きつい。

 サイクリング1単位(40分)+ウォーキング1単位(1時間)。
ほかにあれこれ。
おかげで今日は、体もすっきり。
腹のポタポタ感もなくなった。
 
●「これから起こる原発事故」(宝島社)

 週刊誌は「週刊現代」。
3・11台震災以来、もっとも「事実」に近いことを書いている。
その一方で腹立たしいのは、NHK。
御用学者を並び立て、大本営発表を繰り返す。
今にして思うと、ウソばかり。
そのためこの先、どれだけ多くの犠牲者が出ることか!
たとえば最初に原発が爆発したときも、そうだった。
「落ち着いて」「冷静に」と。
そのとき大量の放射性物質が、風に乗ってあたりを汚染していた。

で、今日は、この旅館へ来る前、「これから起こる原発事故」(宝島社)
を買った。
「2007年10月、第一刷発行」とある。
つまり4年前の本。

 が、一読して、驚いた。
「どうしてこんなことが4年前にわかっていながら、政府は何も手を
打たなかったのか!」と。
ズバリ、現在の状況を言い当てている。
そのまま!
だから、買った。

●100キロ単位で汚染

 原発事故の恐ろしさは、規模が大きいこと。
100キロ単位で、被害が広がる。

 そう言えば、昨日、小田原市(神奈川県)が、新茶の出荷を停止した。
それについて農家の人たちは、「(福島から)何百キロも離れているのに!」
(新聞報道)と驚いていた。
しかしこれはまったくの認識不足。
その程度ですむならなら、まだよいほう。

チェルノブリイ事故のときは、半径300キロ(15キューリー/平方キロ)から、
半径600キロ(5〜15キューリー/平方キロ)まで、汚染されている。
600キロといえば、名古屋を中心とする中部圏内まですっぽりと入ってしまう。

 「キューリー」と聞いてもピンとこないかもしれない。
しかしつぎの事実を知ったら、あなたもまちがいなく震えるだろう。

『・・・急性障害死50%を引き起こす放射線量は、4シーベルト。
これは国際放射線防護委員会(ICRP)の認めた、「半数致死」に
相当する。
ちなみに、2・2シーベルトで、5%が急性障害死、9・3シーベルトで、
99%が急性障害死する』(ゴフマン博士、同書、P24)という。
わかりやすく言えば、10シーベルトが限界。
10シーベルトの放射線を浴びたら、人間は、その場で即死。
かろうじて生きても、「そのままひからびて」(本書)死ぬ。

 では、福島第一原発では、どの程度の放射線が観測されているか。
それは、つぎのニュースを読めばわかる。
そのまま転載する。

+++++++++以下、yahoo・news+++++++++++

 経済産業省原子力安全・保安院は14日、東京電力福島第1原発1号機の原子炉建屋内を13
日午後にロボットで調べたところ、最大で毎時2000ミリシーベルトの線量が観測されたと発表し

(5月14日)。

+++++++++以上、yahoo・news+++++++++++

 ゴフマン博士によれば、2・2シーベルトで、約5%の人が、急性障害死するという。
が、1号機では、13日、2000ミリシーベルトが観測されたという。
2000ミリシーベルト=2シーベルト!

 さらに、ゴフマン博士は、晩発性のガン死について、「1万人・シーベルト」という
推計値を提起している。
これは「1万人の人が、1シーベルトの放射線を浴びたばあい、何人がガン死するか」を
推定したもの。
その計算によれば、つまりゴフマン説によれば、やがて1万人中、4000人がガン死
するという。
2シーベルトといえば、その2倍。

 福島第一原発のばあい、最初の爆発とともに、桁はずれの放射性物質が飛び散ったと
推定される。
その量は、その爆発だけでチェルノブイリの爆発時の、約半分程度と言われている。

●MOX燃料

 5月14日現在、1号機が、「最悪の状態」(官房長官)にあるという。
が、それよりもこわいのが、実は、3号機。
3号機では、MOX燃料、つまりウランとプルトニウムの混合酸化物
燃料を使っている。

 プルトニウム・・・放射線そのものは、それほどないが、プルトニウムは、
1ミクロン単位の微粉末となって、空中に散る。
空中に散った放射性プルトニウムは、呼吸によって体内に取り込まれる。
内部被爆を引き起こす。
それがこわい。

 横尾試算(京都大学原子炉実験所)によれば、たった7キログラムの
MOX燃料が火災にあっただけで、風下600メートルで、プルトニウム
による短期の被ばく線量は、4・3シーベルト。
それだけで約半数の人が、そのまま急性死するという。
(風力、火災時間などのこまかい条件は、省略する。)

 「1シーベルト」という放射線量が、いかに恐ろしいものであるか、
これでわかってもらえたと思う。

●広島型原子爆弾x4万7000発

 原子炉の中には、いったいどれだけの放射性物質があるのか。
それについても、同書は、くわしく解説している。
ほとんどの人は、たとえば広島型原爆と比較して、原子力発電所のそれは、
それほどたいしたことはないと考えている。

 しかしこれは誤解!
同書には、こうある。

「100万キロワットの原発が、1年間稼動した場合に燃えるウランの
量は、広島型原発のそれの1000発分ある。
2年稼動した場合には、2000発分、3年では原爆3000発分。
事故が起きれば、それだけの放射能が環境中に漏れ出ることになる」(P32)と。

 福島第一原発の発電能力は、計4696KW(川北英隆)だそうだ。
つまり4696x1000=約470万キロワット。
1年間稼動しただけで、広島型原発の4700発分。
10年で、4万7000発分。
福島第一原発は、稼動し始めてから、すでに40年が経過している。
 
 が、政府はさかんに、「風評被害」という言葉を使う。
つまり「政府の言うこと以外は、信用するな」と。

 しかし実際はその逆。
風評のほうが、はるかに現実に近い。
近いばかりか、現実のほうが、はるかに深刻。
私たちが「予断」しているより、はるかに深刻。

声を張り上げ、「募金活動」なるものをしている子どもたちには悪いが、
今、日本が直面している問題は、そんな程度の問題ではない。
募金活動で、どうこうなるような問題ではない。
「明日は、わが身」。
明日は私たちが、この浜松から逃げなければならない。
このあと事故処理に何年かかるか知らないが、長引けば長引くほど、
被害は拡大する。

●1時間当たり、0・04ミリシーベルト

 毎日のように、日本各地の放射線量が新聞に載っている。
この静岡県では、平均して、約0・04〜0・05ミリシーベルト。
1時間あたりの放射線量である。
そしてそれと同時に、「過去最大平常値」というわけのわからない
数値が併記してある。
私たちはそれを見て、「ああ、平常値以下なのか」と、へんに安心する。
が、「過去最大平常値」とは何か。
それはさておき、0・045ミリシーベルトにしても、それを24倍し、
さらに365倍すると、1年間の被爆量ということになる。

 0・045x24x365=400ミリシーベルト。

 ところで最初に書いたように、チェルノブイリでは、1平方キロメートル
あたり、40キューリーもの放射線が観測されたという。
その値をベクレルに換算すると、1キューリー=370億ベクレル。
たいへんな放射線量のように思うかもしれないが、この値を、
1000x1000=100万で割ると、1平方メートルあたりの放射線量
が計算できる。

 それによれば、370億÷100万=3万7000ベクレル。
すごい量に思うかもしれないが、食品衛生法で決められている暫定規制値は、
1キログラムあたり、500ベクレル。
すでに福島県のアユなどからは、1キログラムあたり、720ベクレル(いわき市)の
放射線が観測されている。
アユ100キログラムで、7万2000ベクレル!

 つまりこの程度の放射線なら、福島第一原発の周辺では、日常的に観測されている。

・・・と、とんでもない数字ばかり並ぶが、結論は、ただひとつ。
日本は、現在、きわめて深刻な状況にあるということ。
今のような状況がつづけば、数か月以内には、東京都ですら、高汚染地域に
なってしまう。
放射性物質の恐ろしいところは、日々にそれが積算されること。
チェルノブイリでも、事故後3年後には、高汚染地域は、300キロに拡大
している(同書)。

 いうまでもなく、福島第一原発は、世界でも最大級の原子炉。
チェルノブリイで爆発した4号機も、出力100万キロワット。
福島第一原発には同規模の原子炉が4機もある。
それだけでもチェルノブイリの約4〜5倍ということになる。

●では、どうするか

 どこかのニュースサイト(産経新聞)に、こんな言葉があった。
「(1号機は)、もう打つ手なし」(注※3)と。
先にも書いたように、1〜10シーベルトの放射線が観測されたと
するなら、人間は、その場で「急死」。
「穴を塞げばそれでいい」という問題ではない。
穴そのものを塞ぐ方法がない。
そこでコンクリート詰めということになるが、3000度もある核燃料は
コンクリートすらも、溶かしてしまう。

 (さらに今夜になって、2号機、3号機も同じようにメルトダウンしていると
いうことがわかった。5月14日。)

●気休めはもうやめよう

 政府にも、原子力保安院にも、東京電力にも、がんばってもらうしかない。
・・・というか、現場で作業している作業員のみなさんには、本当に頭がさがる。
そうした人たちの努力のおかげで、今の今も、私たちは何とかこうして無事でいられる。
希望を捨てたわけではない。
しかし同時に、私たちは、さらに最悪のばあいに備えて、準備をしておかなければ
ならない。
心の準備と行動的な準備。
具体的には、日本経済の崩壊と国外脱出。
そうなったとき、私たちは自分をどう支えたらよいのか。
気休めは、もうよい。
ウソとゴマカシは、もうたくさん。

 「今」を原点として、前向きに生きていくしかない。
たまたま昨日、事故現場で、1人の作業員の方が急死した。
放射性物質が原因だったとは、まだ断定されたわけではない。
緊張感とストレス。
それが急死の原因とも考えられる。

 その作業員の方の死を受けて、菅総理は、つぎのように述べている。

「本当に気の毒に思っている。原因が放射能被害かどうか、しっかりと確かめてもらいたい」
と。

 首相官邸で記者団の質問に対して、そう答えた(ヤフー・ニュース)と(注※)。

(注※)15日になって、この作業員は、心筋梗塞で死亡と発表された。

●川

 旅館の下を、川が流れている。
先ほど窓の外を見たワイフが、こう言った。
「わっ、きれい。川がライトアップされている!」と。

 その声につられて私も外を見た。

 美しかった。
幻想的だった。
いろいろなライトアップを見てきたが、ここは格別。
川のライトアップは、はじめて。
しばし見とれる。

 これから露天風呂に入ってくる。

 ・・・それにしても、私はその本(「これから起こる原発事故」(宝島社))を読んで、
驚いた。
心底驚いた。
4年前に、すでにこういう本が出版され、今回の事故をそのままズバリ、言い当てて
いる。
東京電力の「再循環冷却型原子炉」の危険性についても、言及している。
しかも今回と同じような事故が、1989年1月に、福島第二原発で、起きていることが
わかった。
「この事故では、再循環ポンプが破損し、炉心に大量の金属片が流入し、炉心を傷つける
という事態に立ち至ったのである」(同書、P60)と。

にもかかわらず、起こりうる地震や津波を、「想定外」とし、何ら対策をとらなかった。
さらに職員たちの士気の低さについても言及している。
「言われたことはする。しかしそれ以上はしない」と。
役人根性丸出しというか、平たく言えば、そういうこと。

 権限と情報にしがみつき、管轄外のことは何もしない。
何か問題が起きると、すかさず責任逃れ。
給料(収入)や権限が侵害されると、ワーワーと騒ぐ……。

 ・・・原子力発電所。
そこにあるのは、冷徹なマネーの論理だけ。
金儲け優先の原子力政策(「週刊現代」)。
その結果として、今回の事故につながった。

 そこに私は人間が原罪的にもつ愚かさを感じた。

(はやし浩司 2011−05−14記)

(補記)

 私の近辺にも、国外脱出を試み家族がふえてきた。
祖父母が外国人のばあい、その祖父母のいる外国へ避難していった人も多い。
政府は、「年間20ミリシーベルト」という基準をもちだし、「子どもについて
は、10ミリシーベルト」とまで言い出した。
が、すかさずアメリカの学者が、それに対して異議を唱えた(注※2)。
「放射線障害に、しきい値は存在しない」(5月14日)と。

 少量であればあるほど、(かえって少量のほうがこわいという説もある)、より
晩発性になるだけ。
10年後、20年後に、症状が現れてくる。
20年後でなければ、30年後に症状が現れてくる。
チェルノブイリのときは、遠く離れたスェーデンでがん死亡者が、その後、急増した。

 だからあえてこう言う。
「機会とツテがあるなら、福島の子どもたちよ、今すぐ、福島から脱出せよ」と。

 ……ア〜ア、またまた福島第一原発の、事故のことを書いてしまった。
ゴメン!

(注※2)「日本経済新聞WEB版」より(5月15日)

 福島第1原発事故で政府が、福島県内の小中学校などの屋外活動制限の可否に関する放
射線
量の基準を、年間20ミリシーベルトを目安として設定したことに対し、米国の民間組織「社会的

任のための医師の会(PSR、本部ワシントン)」が2日までに、「子供の発がんリスクを高めるも

で、このレベルの被曝(ひばく)を安全とみなすことはできない」との声明を発表した。

 PSRは1985年にノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師の会」の米国内組織。

 声明は、米科学アカデミーの研究報告書を基に「放射線に安全なレベルはなく、子供や胎児

さらに影響を受けやすい」と指摘。「年間20ミリシーベルトは、子供の発がんリスクを200人に1

増加させ、このレベルでの被曝が2年間続く場合、子供へのリスクは100人に1人となる」として
「子供への放射線許容量を年間20ミリシーベルトに引き上げたのは不当なことだ」と批判した。

(注※3)

 産経新聞はつぎのように書いている。
「12日、東京電力福島第1原発1号機で、原子炉圧力容器内の核燃料棒が完全に露出したこ
とが判明し、圧力容器損傷の可能性も浮上した。原子炉を安定冷却するための作業が進めら
れているが、見直しは避けられない。専門家からは「圧力容器に穴が開いているなら、もう打
つ手がない」と危惧する声も上がり、事故の収束に向けた工程表の達成に「黄信号」がともっ
た。(原子力取材班)」
2011/05/15記


Hiroshi Hayashi++++++May 2011++++++はやし浩司(林浩司)

●文部科学省の「都道府県別環境放射能水準調査結果」に疑念あり

++++++++++++++++++++

「週刊現代」(5月28日号)は、こう伝える。
「(実際の放射線測定値は)、2倍から5倍」(P46)と。

文部科学省(文科省)は、毎日、「都道府県別環境放射能水準調査結果」なるものを
発表している。
しかしその「結果」がどうもあやしい(?)。

たとえば東京都のばあい、新宿区百人町にある、東京都健康安全研究センターの
屋上に設置されたモニタリングポストによって、計測されているという。
その高さ、地表からの距離はおよそ18メートル、とか。

「放射線量(放射能)の濃度は、地表近くで測定してはじめて意味がある」と。

その結果、文科省の発表する数値と、実際、地表近くで測定した数値には、大きな
開きがある。
それが冒頭に書いた、「3〜5倍」という数字である。

●週刊現代より

 週刊現代は、(文科省の発表する数値)と、(実際の測定値)を比較して掲載して
いる。
そのまま紹介させてもらう。
(かっこ内)は、文科省が発表している数値(週刊現代・P48)。

群馬県……0・071(0・034)
栃木県……0・243(0・062)
茨城県……0・166(0・102)
埼玉県……0・074(0・058)
東京都……0・359(0・068)
千葉県……0・394(0・054)
神奈川県…0・090(0・056)
(単位は、マイクロシーベルト)

●文科省の言い分

 週刊現代によれば、文科省は、放射線の測定をかなり高い位置で測定しているという。
「岩盤の影響を受けないように」ということらしい。
岩盤があれば、それが発する放射線の影響を受ける(?)。
しかしこの論理は、おかしい。
どう考えても、おかしい。

 仮に岩盤があるとしても、それは地下深くの話。
仮に18メートル程度高くしたとしても、影響がなくなるわけではない。
(新宿区百人町は、岩盤の上にあるのか?)
また新宿区が、「岩盤の上にある」などという話は聞いたことがない。
さらに言えば、岩盤があるとするなら、岩盤をはずした位置で、測定することもできる
はず。

 が、何よりも重要なことは、地表近く、つまり人間がもっとも影響を受ける位置でこそ
測定してはじめて意味をもつ。
週刊現代は「人間ではなく、鳥の被爆量」(P47)と皮肉っている。

●静岡県は、0・04〜0・05前後(?)

 文科省の発表によれば、静岡県での測定値は、連日、0・04〜0・05程度。
「過去最大平常値」より、低い数値となっている。
しかし本当に、そのまま信じてよいのか?

 同じく神奈川県でも、連日低い数値が報告されている。
しかしその神奈川県では、先日、地域によって茶の出荷が停止された。
基準値を超えた放射線量が測定されたためである。
つまり「話が矛盾している」!

 そこで私がとるべき方法は、ただひとつ。
自分で調べる!

●放射能測定器

 現在、ネットで放射線測定器が10種類以上、販売されている。
値段は4万〜8万円程度。
しかしよくみると、どれも中国製。
あの国の製品は、どうも信用がおけない。

 そこでオーストラリアのM大学の研究室にいる友人にメールを送った。
「大学の研究室で使っているものを教えてほしい」と。
すかさず、返事が届いた。

G'day mate,

I am trying to find out about this. Actually at the moment there is a world wide 
shortage of radiation detectors because so many people in Japan and USA are buying 
them.

『これについて、今、さがしている。
実際、現在のところ、放射測定器は、世界的に不足している。
日本およびUSAのそんなにも多くの人たちが、買いに走っているから』と。

 私は自分で調べる。
文科省の発表している数値が、正確なものであるかどうかを、自分で調べる。
もしインチキだったら、私は許さない。
あの文科省は、戦時中は、先頭に立って軍事教育(洗脳)を推し進めていた。
その文科省は、今もそのまま。
敗戦と同時に、クビになった官僚はひとりもいない。

 ……ともあれ、「週刊現代」に書いてあることは事実なのか。
命にかかわる問題だから、自分で調べるしかない。
放射能測定器は、自分で手に入れる。

 それに加えて一言。

 新聞社にせよ、ほかのマスコミ機関にせよ、どうして独自に調べようとしないのか。
この浜松市には、中日新聞と静岡新聞社がある。
そういうところが、たとえば1キロ四方単位で、放射線を測定し、それを発表しても、
私はおかしくないと思う。

 どうしてか?
2011/05/17記

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

++++++++++++++++

去る5月15日に書いた原稿を
再掲載します。

++++++++++++++++

●たったの5・24マイクロシーベルト(?)

++++++++++++++++++++

25年前にメルトダウンを経験した
ロシアのチェルノブイリ。
その周囲30キロは、今でも「立ち入り禁止
区域」になっている。

誤解があるといけないので、正確に
記事を転載させてもらう。

+++++++++++以下、JIJICOM++++++++++++++

……炉心溶融事故が起きた原発4号機。コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近づくと
放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴り続けた。通
常の50倍を超える放射線量だ。

●放射線量と人体への影響

 「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れないよう新
たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。原発の周囲30キロの立ち入り規
制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。
 事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、
欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、昨年から基礎工事が始ま
った。

+++++++++++以上、JIJICOM++++++++++++++

●たったの5・24マイクロシーベルト

 本当のところ、「シーベルト」という単位を聞いても、私には何もわからない。
センチとかグラムとか、そういう単位がもつ実感が、わいてこない。

 が、あのチェルノブイリでは、今でも5・24マイクロシーベルトの放射線量が
観測されるという。

「5・24マイクロシーベルト」?
「たったの5・24マイクロシーベルト」?
福島県では、校庭利用の基準は、毎時3・8マイクロシーベルトだそうだ(注※)。
つまり3・8マイクロシーベルト以下になれば、校庭の使用が許可される。
5・24と3・8。
その差は、たったの1・4!

 日本で聞いている数値と、あまりにもかけ離れているような気がする。
今では「マイクロシーベルト」と聞いて、驚く人はいない。
その1000倍の「ミリシーベルト」という単位が、ふつうになりつつある。

 が、ロシアのチェルノブイリでは、たった5・24マイクロシーベルトで、
「周囲30キロが、今でも立ち入り禁止区域」になっているという。
もしそんな基準をこの日本に当てはめたら、やがてこの日本は、全土が、
立ち入り禁止区域になってしまう。

 放射性物質というのは、拡散される時期が長ければ長いほど、そこで積算される。
毎日、0・1マイクロシーベルトでも、体内で蓄積されれば、10日で、
1マイクロシーベルトになる。
もちろん地中にしみこんだり、水とまざって流れていく分もあるだろう。
しかし基本的には、「溜まっていく」。

 さらにおかしなことに、毎日の放射線量はそれほどでもないはずなのに、
昨日(5月12日)、神奈川県の茶から、基準値を超える放射線が観測された。
いったい、こういう現象を、どう理解したらよいのか。

(毎日、文科省は、各地で観測された最大放射線量をネット上で、公開している。
それによれば、東海地方では、おおむね0・04〜0・05マイクロシーベルトで、
「平常値」となっている。

神奈川県も「平常値」のはず?)

平たく言えば、日本は、今、たいへんなときにある。
その存亡の危機の崖っぷちに立たされていると言っても過言ではない。
不測の事態が不測の事態を呼ぶ。
さらに「想定外」のことが、連続して起こる。
今は、そういう状態。

●鈍化する感覚

 それにしても、日々に感覚が鈍化していくのには、驚かされる。
私自身ですら、「メルトダウン」の恐ろしさは、よく知っていたはず。
チェルノブイリ事故のときは、体が震えた。
しかし今、それがこの日本で起きている。
明日には、その影響が、この静岡県にまで及んでくるかもしれない。
しかし今は、それがない。
つまり緊張感がない。
緊迫感もない。
ニュースを見ながら、「コンクリートで塞げばいい」などと、のんきなことを言っている。

 つまりこうして、(現実)と(感覚)が遊離していく。
「ミリシーベルト」くらいでは、驚かない。
現に今、「5・24マイクロシーベルト」と聞いて、「たったの?」と思っている。

 しかし現実は、重い。
5マイクローシーベルトと言えば、静岡県で観測されている放射線量の約100倍。
25年たった今でも、チェルノブイリでは観測されているという。
周囲30キロが立ち入り禁止区域になっているという。

 そこで重要なことは、この緊張感を失わないこと。
失ったとたん、油断が生まれる。
事故が拡大する。

 あのとき、みな、こう思ったはず。
「原発なんて、もうこりごり」と。
しかしもうすでに、産経新聞などは、原発必要悪論を堂々と論じ始めている。
この変わり身の速さこそが、危険。
心配。
油断こそ、禁物ということになる。

(2011年5月14日夜記)

(注※)(日本経済新聞より)

文部科学省は13日、福島第1原子力発電所事故を受けて屋外活動を制限していた福島市立
渡利中学校で実施した放射線量調査で、校庭利用の基準である毎時3.8マイクロシーベルトを
12日に続いて下回ったと発表した。屋外活動の制限対象になった13校・園すべてで基準を下
回ったことになる。制限解除の対象になるが、同省は放射線量が比較的高い学校などの調査
を続ける。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【奥三河・湯谷温泉・「湯の風・HAZU」】

++++++++++++++++++

昨日(13日)はいろいろあった。
いろいろあって、疲れた。
夜(9時ごろ)になって、突然、
温泉に入りたくなった。
ネットで温泉をさがす。

私は山の中の山育ち。
海の見えるホテルもよいが、川のせせらぎが
聞こえる、山の宿も好き。
・・・ということで、ここ、湯谷温泉へは
たびたび来る。

で、今日は、「湯の風・HAZU」に一泊。
土曜日の夜だから・・・とあきらめていたが、
「いい部屋が空いています」とのこと。

この湯谷温泉には、10軒近く、温泉が
並んでいる。
「湯の風・HAZU」は、その温泉通りとは、
川をはさんで反対側にある。
一軒宿である。
ワイフも驚いた。
私も驚いた。

和風の、造りは古いが、温泉宿としては、最高!
眼下に清流。
深い木々に囲まれ、5月の、どこか夏を
思わせる、さわやかな陽気。
部屋に一度入ったあと、ワイフと散歩。
歩いて数分のところに赤いつり橋があった。
そこを渡ると、そのままJR湯谷駅。

「いいところだね」と、ワイフは、
何度も言う。
もちろん私も異存なし!
そのつど、「いいところだね」と。

・・・ということで、湯谷温泉イチの旅館を発見。
ついでに露天風呂よし。
料理よし。
「湯の風、HAZU」。
名前もよい。

+++++++++++++++++

●体重オーバー

 このところ考えることと言えば、原発事故のことばかり。
私のような「うつ族」は、ひとつのことにこだわると、そのことばかり。
それが頭にこびりついて、離れない。
週刊誌、雑誌・・・。
いろいろ買い込んでは、読む。
が、これは精神の健康にはよくない。

 そこで先週から、運動量をふやした。
体重がふえたこともある。
4、5日前、恐る恐る体重計に乗ると、3キロオーバーの、54・5キロ!
「太ったな」とは感じていたが、3キロは、きつい。

 サイクリング1単位(40分)+ウォーキング1単位(1時間)。
ほかにあれこれ。
おかげで今日は、体もすっきり。
腹のポタポタ感もなくなった。
 
●「これから起こる原発事故」(宝島社)

 週刊誌は「週刊現代」。
3・11台震災以来、もっとも「事実」に近いことを書いている。
その一方で腹立たしいのは、NHK。
御用学者を並び立て、大本営発表を繰り返す。
今にして思うと、ウソばかり。
そのためこの先、どれだけ多くの犠牲者が出ることか!
たとえば最初に原発が爆発したときも、そうだった。
「落ち着いて」「冷静に」と。
そのとき大量の放射性物質が、風に乗ってあたりを汚染していた。

で、今日は、この旅館へ来る前、「これから起こる原発事故」(宝島社)
を買った。
「2007年10月、第一刷発行」とある。
つまり4年前の本。

 が、一読して、驚いた。
「どうしてこんなことが4年前にわかっていながら、政府は何も手を
打たなかったのか!」と。
ズバリ、現在の状況を言い当てている。
そのまま!
だから、買った。

●100キロ単位で汚染

 原発事故の恐ろしさは、規模が大きいこと。
100キロ単位で、被害が広がる。

 そう言えば、昨日、小田原市(神奈川県)が、新茶の出荷を停止した。
それについて農家の人たちは、「(福島から)何百キロも離れているのに!」
(新聞報道)と驚いていた。
しかしこれはまったくの認識不足。
その程度ですむならなら、まだよいほう。

チェルノブリイ事故のときは、半径300キロ(15キューリー/平方キロ)から、
半径600キロ(5〜15キューリー/平方キロ)まで、汚染されている。
600キロといえば、名古屋を中心とする中部圏内まですっぽりと入ってしまう。

 「キューリー」と聞いてもピンとこないかもしれない。
しかしつぎの事実を知ったら、あなたもまちがいなく震えるだろう。

『・・・急性障害死50%を引き起こす放射線量は、4シーベルト。
これは国際放射線防護委員会(ICRP)の認めた、「半数致死」に
相当する。
ちなみに、2・2シーベルトで、5%が急性障害死、9・3シーベルトで、
99%が急性障害死する』(ゴフマン博士、同書、P24)という。
わかりやすく言えば、10シーベルトが限界。
10シーベルトの放射線を浴びたら、人間は、その場で即死。
かろうじて生きても、「そのままひからびて」(本書)死ぬ。

 では、福島第一原発では、どの程度の放射線が観測されているか。
それは、つぎのニュースを読めばわかる。
そのまま転載する。

+++++++++以下、yahoo・news+++++++++++

 経済産業省原子力安全・保安院は14日、東京電力福島第1原発1号機の原子炉建屋内を13
日午後にロボットで調べたところ、最大で毎時2000ミリシーベルトの線量が観測されたと発表し

(5月14日)。

+++++++++以上、yahoo・news+++++++++++

 ゴフマン博士によれば、2・2シーベルトで、約5%の人が、急性障害死するという。
が、1号機では、13日、2000ミリシーベルトが観測されたという。
2000ミリシーベルト=2シーベルト!

 さらに、ゴフマン博士は、晩発性のガン死について、「1万人・シーベルト」という
推計値を提起している。
これは「1万人の人が、1シーベルトの放射線を浴びたばあい、何人がガン死するか」を
推定したもの。
その計算によれば、つまりゴフマン説によれば、やがて1万人中、4000人がガン死
するという。
2シーベルトといえば、その2倍。

 福島第一原発のばあい、最初の爆発とともに、桁はずれの放射性物質が飛び散ったと
推定される。
その量は、その爆発だけでチェルノブイリの爆発時の、約半分程度と言われている。

●MOX燃料

 5月14日現在、1号機が、「最悪の状態」(官房長官)にあるという。
が、それよりもこわいのが、実は、3号機。
3号機では、MOX燃料、つまりウランとプルトニウムの混合酸化物
燃料を使っている。

 プルトニウム・・・放射線そのものは、それほどないが、プルトニウムは、
1ミクロン単位の微粉末となって、空中に散る。
空中に散った放射性プルトニウムは、呼吸によって体内に取り込まれる。
内部被爆を引き起こす。
それがこわい。

 横尾試算(京都大学原子炉実験所)によれば、たった7キログラムの
MOX燃料が火災にあっただけで、風下600メートルで、プルトニウム
による短期の被ばく線量は、4・3シーベルト。
それだけで約半数の人が、そのまま急性死するという。
(風力、火災時間などのこまかい条件は、省略する。)

 「1シーベルト」という放射線量が、いかに恐ろしいものであるか、
これでわかってもらえたと思う。

●広島型原子爆弾x4万7000発

 原子炉の中には、いったいどれだけの放射性物質があるのか。
それについても、同書は、くわしく解説している。
ほとんどの人は、たとえば広島型原爆と比較して、原子力発電所のそれは、
それほどたいしたことはないと考えている。

 しかしこれは誤解!
同書には、こうある。

「100万キロワットの原発が、1年間稼動した場合に燃えるウランの
量は、広島型原発のそれの1000発分ある。
2年稼動した場合には、2000発分、3年では原爆3000発分。
事故が起きれば、それだけの放射能が環境中に漏れ出ることになる」(P32)と。

 福島第一原発の発電能力は、計4696KW(川北英隆)だそうだ。
つまり4696x1000=約470万キロワット。
1年間稼動しただけで、広島型原発の4700発分。
10年で、4万7000発分。
福島第一原発は、稼動し始めてから、すでに40年が経過している。
 
 が、政府はさかんに、「風評被害」という言葉を使う。
つまり「政府の言うこと以外は、信用するな」と。

 しかし実際はその逆。
風評のほうが、はるかに現実に近い。
近いばかりか、現実のほうが、はるかに深刻。
私たちが「予断」しているより、はるかに深刻。

声を張り上げ、「募金活動」なるものをしている子どもたちには悪いが、
今、日本が直面している問題は、そんな生やさしい問題ではない。
リビアの戦場で募金活動をするようなもの。
募金活動で、どうこうなるような問題ではない。
「明日は、わが身」。
明日は私たちが、この浜松から逃げなければならない。
このあと事故処理に何年かかるか知らないが、長引けば長引くほど、
被害は拡大する。

●1時間当たり、0・04ミリシーベルト

 毎日のように、日本各地の放射線量が新聞に載っている。
この静岡県では、平均して、約0・04〜0・05ミリシーベルト。
1時間あたりの放射線量である。
そしてそれと同時に、「過去最大平常値」というわけのわからない
数値が併記してある。
私たちはそれを見て、「ああ、平常値以下なのか」と、へんに安心する。
が、「過去最大平常値」とは何か。
それはさておき、0・045ミリシーベルトにしても、それを24倍し、
さらに365倍すると、1年間の被爆量ということになる。

 0・045x24x365=400ミリシーベルト。

 ところで最初に書いたように、チェルノブイリでは、1平方キロメートル
あたり、40キューリーもの放射線が観測されたという。
その値をベクレルに換算すると、1キューリー=370億ベクレル。
たいへんな放射線量のように思うかもしれないが、この値を、
1000x1000=100万で割ると、1平方メートルあたりの放射線量
が計算できる。

 それによれば、370億÷100万=3万7000ベクレル。
すごい量に思うかもしれないが、食品衛生法で決められている暫定規制値は、
1キログラムあたり、500ベクレル。
すでに福島県のアユなどからは、1キログラムあたり、720ベクレル(いわき市)の
放射線が観測されている。
アユ100キログラムで、7万2000ベクレル!

 つまりこの程度の放射線なら、福島第一原発の周辺では、日常的に観測されている。

・・・と、とんでもない数字ばかり並ぶが、結論は、ただひとつ。
日本は、現在、きわめて深刻な状況にあるということ。
今のような状況がつづけば、数か月以内には、東京都ですら、高汚染地域に
なってしまう。
放射性物質の恐ろしいところは、日々にそれが積算されること。
チェルノブイリでも、事故後3年後には、高汚染地域は、300キロに拡大
している(同書)。

 いうまでもなく、福島第一原発は、世界でも最大級の原子炉。
チェルノブリイで爆発した4号機も、出力100万キロワット。
福島第一原発には同規模の原子炉が4機もある。
それだけでもチェルノブイリの約4〜5倍ということになる。

●では、どうするか

 どこかのニュースサイト(産経新聞)に、こんな言葉があった。
「(1号機は)、もう打つ手なし」(注※3)と。
先にも書いたように、1〜10シーベルトの放射線が観測されたと
するなら、人間は、その場で「急死」。
「穴を塞げばそれでいい」という問題ではない。
穴そのものを塞ぐ方法がない。
そこでコンクリート詰めということになるが、3000度もある核燃料は
コンクリートすらも、溶かしてしまう。

 (さらに今夜になって、2号機、3号機も同じようにメルトダウンしていると
いうことがわかった。5月14日。)

●気休めはもうやめよう

 政府にも、原子力保安院にも、東京電力にも、がんばってもらうしかない。
・・・というか、現場で作業している作業員のみなさんには、本当に頭がさがる。
そうした人たちの努力のおかげで、今の今も、私たちは何とかこうして無事でいられる。
希望を捨てたわけではない。
しかし同時に、私たちは、さらに最悪のばあいに備えて、準備をしておかなければ
ならない。
心の準備と行動的な準備。
具体的には、日本経済の崩壊と国外脱出。
そうなったとき、私たちは自分をどう支えたらよいのか。
気休めは、もうよい。
ウソとゴマカシは、もうたくさん。

 「今」を原点として、前向きに生きていくしかない。
たまたま昨日、事故現場で、1人の作業員の方が急死した。
放射性物質が原因だったとは、まだ断定されたわけではない。
緊張感とストレス。
それが急死の原因とも考えられる。

 その作業員の方の死を受けて、菅総理は、つぎのように述べている。

「本当に気の毒に思っている。原因が放射能被害かどうか、しっかりと確かめてもらいたい」
と。

 首相官邸で記者団の質問に対して、そう答えた(ヤフー・ニュース)と(注※)。

(注※)15日になって、この作業員は、心筋梗塞で死亡と発表された。

●川

 旅館の下を、川が流れている。
先ほど窓の外を見たワイフが、こう言った。
「わっ、きれい。川がライトアップされている!」と。

 その声につられて私も外を見た。

 美しかった。
幻想的だった。
いろいろなライトアップを見てきたが、ここは格別。
川のライトアップは、はじめて。
しばし見とれる。

 これから露天風呂に入ってくる。

 ・・・それにしても、私はその本(「これから起こる原発事故」(宝島社))を読んで、
驚いた。
心底驚いた。
4年前に、すでにこういう本が出版され、今回の事故をそのままズバリ、言い当てて
いる。
東京電力の「再循環冷却型原子炉」の危険性についても、言及している。
しかも今回と同じような事故が、1989年1月に、福島第二原発で、起きていることが
わかった。
「この事故では、再循環ポンプが破損し、炉心に大量の金属片が流入し、炉心を傷つける
という事態に立ち至ったのである」(同書、P60)と。

にもかかわらず、起こりうる地震や津波を、「想定外」とし、何ら対策をとらなかった。
さらに職員たちの士気の低さについても言及している。
「言われたことはする。しかしそれ以上はしない」と。
役人根性丸出しというか、平たく言えば、そういうこと。

 権限と組織にしがみつき、管轄外のことは何もしない。
何か問題が起きると、すかさず責任逃れ。
給料(収入)や権限が侵害されると、ワーワーと騒ぐ……。

 ・・・原子力発電所。
そこにあるのは、冷徹なマネーの論理だけ。
金儲け優先の原子力政策(「週刊現代」)。
その結果として、今回の事故につながった。

 そこに私は人間が原罪的にもつ愚かさを感じた。

(はやし浩司 2011−05−14記)

(補記)

 私の近辺にも、国外脱出を試み家族がふえてきた。
祖父母が外国人のばあい、その祖父母のいる外国へ避難していった人も多い。
政府は、「年間20ミリシーベルト」という基準をもちだし、「子どもについて
は、10ミリシーベルト」とまで言い出した。
が、すかさずアメリカの学者が、それに対して異議を唱えた(注※2)。
「放射線障害に、しきい値は存在しない」(5月14日)と。

 少量であればあるほど、(かえって少量のほうがこわいという説もある)、より
晩発性になるだけ。
10年後、20年後に、症状が現れてくる。
20年後でなければ、30年後に症状が現れてくる。
チェルノブイリのときは、遠く離れたスェーデンでがん死亡者が、その後、急増した。

 だからあえてこう言う。
「機会とツテがあるなら、福島の子どもたちよ、今すぐ、福島から脱出せよ」と。

 ……ア〜ア、またまた福島第一原発の、事故のことを書いてしまった。
ゴメン!

(注※2)「日本経済新聞WEB版」より(5月15日)

 福島第1原発事故で政府が、福島県内の小中学校などの屋外活動制限の可否に関する放
射線
量の基準を、年間20ミリシーベルトを目安として設定したことに対し、米国の民間組織「社会的

任のための医師の会(PSR、本部ワシントン)」が2日までに、「子供の発がんリスクを高めるも

で、このレベルの被曝(ひばく)を安全とみなすことはできない」との声明を発表した。

 PSRは1985年にノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師の会」の米国内組織。

 声明は、米科学アカデミーの研究報告書を基に「放射線に安全なレベルはなく、子供や胎児

さらに影響を受けやすい」と指摘。「年間20ミリシーベルトは、子供の発がんリスクを200人に1

増加させ、このレベルでの被曝が2年間続く場合、子供へのリスクは100人に1人となる」として
「子供への放射線許容量を年間20ミリシーベルトに引き上げたのは不当なことだ」と批判した。

(注※3)

 産経新聞はつぎのように書いている。
「12日、東京電力福島第1原発1号機で、原子炉圧力容器内の核燃料棒が完全に露出したこ
とが判明し、圧力容器損傷の可能性も浮上した。原子炉を安定冷却するための作業が進めら
れているが、見直しは避けられない。専門家からは「圧力容器に穴が開いているなら、もう打
つ手がない」と危惧する声も上がり、事故の収束に向けた工程表の達成に「黄信号」がともっ
た。(原子力取材班)」
2011/05/15記


【日本人と思考力】

●冷却装置の穴

+++++++++++++++++++

浜岡原子炉(静岡県御前崎市)の原子炉が
停止された。
とたん、トラブル発生!

原子炉の冷却水に、塩水が400トンも
逆流したという。
中日新聞はつぎのように伝える。

『……中電によると、トラブルが確認されたのは14日午後4時半ごろ。
復水器内には、 海水が流れている配管が通り、蒸気を冷やす仕組みだが、
この配管が破損し、海水400トンが復水器内に流れた可能性が高い。
流入経路が逆で、復水器から海水の管に水が流れ込めば、放射線物質に
汚染された水が、外部に流れ出すことになる。 

(中略)

山口彰・大阪大教授(原子炉工学)は「復水器内は、構造的に腐食や亀裂は
起こり得る」と 指摘する。
師岡慎一・早稲田大特任教授(原子炉熱流動)は「海水の流入で圧力容器の 
腐食が心配される。
これまで400トンもの流入は事例が無く、あってはいけないトラブル」と 
問題視する。 

NPO法人原子力資料情報室の伴英幸共同代表は「電力会社の公表は常に遅いが、 
今回は特別な状況下。すぐに出すべきだった」と批判。
「緊急停止ならともかく、通常の 停止作業で400トンもの海水がいきなり
流れ出る穴が開くか。もっと前から漏れ出て いたのではないか」と推測する』と。

++++++++++++++++++

●冷却装置

 原子炉で蒸気を発生する。
その蒸気で、タービンを回して発電する。
その蒸気を再び、「復水器」で冷やして、水に戻す。
その水を原子炉に戻す。
その原子炉で、蒸気を発生する。

 チャート化すると、つぎのようになる。

(原子炉で蒸気を発生)→(タービンを回す)→(復水器で蒸気を冷やして
蒸気を水に戻す)→(水を原子炉に戻す)→……。

  基本的には、原子力発電所というのは、そういう構造になっている。
その「冷やすとき」に、海水を使って冷却装置を使う。
今回の事故は、その復水器の中の冷却装置の中で起きた。

構造は簡単なものらしい。
何かの液体の冷却が必要な工場なら、たいていどこでも使っている。
近くのメッキ工場でも使っている。

 電話をかけて構造を聞くと、こう話してくれた。

 「薄い金属製の板で間を仕切り、交互に、冷却水と熱水を通過させる」と。

 私が「塩水が冷却水に入ったということは、どういうふうに考えたらいいのですか」と
聞くと、「仕切り板に穴があいていたのですよ」と。

 これに対して、中部電力側は、『復水器内は真空状態で、配管内の圧力
が高いため、復水器内との圧力差で配管側に流入する可能性はない』(中日新聞)
と答えている。

●疑問?

 疑問がいくつかある。

(1)穴はいつあいたのか?
(2)復水器は真空状態という。真空状態というのは、いつのことか?
(3)穴から、放射性物質を含んだ汚染水が、漏れた形跡はないのか?

 原発が稼働中に、復水器が「真空状態になる」ことは、ありえない。
高圧力をもった蒸気でタービンを回す。
その蒸気が復水器に送られる。

 が、原発は停止状態になった。
復水器にたまった蒸気は水になり、圧力はさがる。
真空ではないが、「真空状態」になる。
それは私のような素人にもわかる。

が、もしそうなら、原子炉圧力容器内の冷却水も同時に逆流するはず。
が、「真空状態だった」(中電)という。
真空状態になったとするなら、どこかで原子炉から送られてくる水蒸気を、
遮断しなければならない。
が、遮断したら、今度は原子炉圧力容器そのものが、超高圧となってしまう。
ばあいによっては、爆発してしまう。
ご存知のように、停止したからといって、原子炉の温度が急激にさがるという
わけではない。
それこそ20〜30年という長い時間が必要。

 中電側は、『復水器内は真空状態で、配管内の圧力が高いため、復水器内との
圧力差で配管側に流入する可能性はない』(中日新聞)と答えている。

 ……となると、「穴」は、停止と同時にあいたことになる。
(実際には、「遮断」と同時にあいたことになる。)
可能性としては、ないわけではない。

が、これに対して、NPO法人原子力資料情報室の伴英幸共同代表は、
「緊急停止ならともかく、通常の 停止作業で400トンもの海水がいきなり
流れ出る穴が開くか。もっと前から漏れ出て いたのではないか」と推測している。

 つまり通常の停止状態で、いきなり400トンも海水が逆流するような
穴は、あかない(?)、と。

●思考力

 原発事故は、まさに思考力との闘い。
私たちの思考力そのものが、今、試されている。
新聞の記事を、何度も読みなおす。
そのつど、考える。

 が、「事実」はどうなのか、今の段階では、よくわからない。
穴は、いつあいたのか。
停止前からあいていたのか。
それとも停止後にあいたのか。
「放射性物質は観測されていない」(中電)ということであれば、かなり
希望的な推測だが、「穴は停止後にあいたことになる」。

 が、本当にそう考えてよいのか。
現状をみるかぎり、電力会社の言うことは、どうもアテにならない。
ウソは言わないが、本当のことも言わない。
ひょっとしたら穴は、ずいぶん前からあいていたのではないか。
それが停止と同時に、爆発的に拡大した。
もしそうだとするなら、放射性物質は、海水とともに、海に漏れ出ていた
ことになる。
が、中電側は、それを否定する。

 謎は深まる。

●黒潮

 御前崎市・浜岡原子炉のある遠州灘では、南からの黒潮が南から北に流れている。
もし汚水がたれ流されていたとすると、その汚水は黒潮にのり、駿河湾全体に
流れ込み、そのあと伊豆半島を回り、東京湾へ。
静岡市は、その駿河湾に面している。

 が、ここまで書いて、もうひとつの疑問が解けた(?)。

 毎日中日新聞には、その前日の放射能測定値(文科省調査)が載っている。
それによれば、日によって、静岡県(静岡市)の測定値が、東京都のそれよりも
高いときがある。
毎日……というわけではないが、「どうして?」と思うことが多い。
その理由のひとつが、ひょっとしたら、浜岡原子炉にあるのではないか。
これはあくまでも私の憶測だが、浜岡原子炉からの汚水が、静岡県の測定値を
高くしている(?)。
その可能性は、ないとは言えない。

静岡県も、文科省や中電の発表だけを信用するのではなく、独自に調査を
したらよい。
ついでに、おかしなことに、本当におかしなことに、テレビ局も新聞社も、
この問題については、あまり触れたがらないようにも見える。
本来なら事実の追及を先頭に立ってすべきマスコミが、どうしてこうまで
消極的なのか?

 御前崎市にしても、そうだ。
交付金の減額のことばかり、心配している。
私にはそう見える。

 放射線測定器にしても、10万円前後で手に入る。
その気になれば、簡単に調べられる。
どうして独自に調べて、公表しないのか?

 ちなみに焼津市焼津での放射線測定値は、0・051(5月13日、地上100センチ
で測定by放射線・原子力教育関係者有志による全国環境放射線モニタリング)。
文科省の公表した数値は、0・04(静岡市、5月13日、環境放射能水準調査)。

 ……ということで、今ほど、私たち日本人の思考力が試されている時期はない。
大本営発表だけを鵜呑みにし、それを信じてよいのか。
もしそうなら、私たち日本人は、戦時中の日本人と何も違わないことになる。

 中部電力側は、「詳しく調べて、事故の調査結果を詳しく報告する」と述べている。
それをみて、このつづきを書いてみたい。

2011/05/19


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●福島第一原発3号機

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 東京電力福島第1原子力発電所では3号機が最も不安定な状況が続いている。
18日に、3月14日の爆発後初めて作業員が原子炉建屋内に入ったが、
放射線量が高く、再爆発を防ぐための窒素注入がすぐに実施できないことがわかった。
注水量を増やし圧力容器の温度は下降傾向にあるが、1、2号機に比べるとまだ高い。
政府と東電の統合対策室が19日に開いた記者会見で、細野豪志首相補佐官は
「3号機が一番心配な炉である」と改めて強調した(以上、日本経済新聞・5・19)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●なぜ「3号機が一番心配な炉である」のか?

 細野豪志首相補佐官は、「3号機が一番心配な炉である」と改めて強調した。
なぜか?
理由は、言わずと知れた、「3号機はMOX燃料を使っているから」である。

(私もこの1週間、猛烈に勉強したぞ!)

●MOX燃料

 福島第一原発3号機では、MOX(プルサーマル)燃料を使っていた。
MOXというのは、「混合酸化物燃料」をいう。
混合というのは、ウランとプルトニウムの混合をいう。
そのプリトニウムが、恐ろしい!
毒性となると、ウランの比ではない。

 どう毒性があるかということについては、どうか自分で確かめてほしい。
ネットで「MOX」で検索をかければ、今日現在(5月19日)、1000万件も
ヒットする。
簡単に言えば、たった1〜2個のホットパーティクルが体内へ入っただけで、
たとえば肺に届けば、確実に肺ガンを引き起こす。
大きさは1ミクロン。
微粉末。
「大腸菌とほぼ同じ大きさ」(「これから起こる原発事故」(宝島社P24))だそうだ。

 その危険性、つまり放射性物質の量は、1号機、2号機、4号機の比では
ない。
だから、アメリカのTIMEは、福島第一原発事故が起きた直後、3号機を
問題にした。
ほかの原子炉ではない。
3号機!
2011年、3月17日のことである。

題して、「MOX、今日の言葉"フクシマ"、なぜそれが悪いニュースなのか」と。 
 
+++++++++++以下「TIME」++++++++++++++

MOX: The Fukushima Word of the Day and Why it's Bad News

Posted by Jeffrey Kluger Thursday, March 17, 2011 at 3:01 pm 

With four busted reactors at the Fukushima Daiichi site, engineers and rescue workers have 
plenty to do just to keep all their plates spinning. But over the past few days, there always 
seems to be one reactor causing them more headaches than others. Yesterday it was 
reactor 4, with its coolant pool empty of water and the spent fuel rods stored there 
emitting massive waves of gamma radiation.
(昨日までは、4号機が問題だった。)

Today it's rector 3. The day began-at least in the West-with images of helicopters flying 
over the reactor building, dumping seven-ton loads of water in an attempt both to cool the 
containment vessel and prevent that storage pool from drying up as well. But what makes 
reactor 3 so special? In one acronymic word: MOX.
(今日は、3号機。ヘリコプターが水を投下したが、どうして3号機が特別なのか?)

All of the fuel rods in all of the other reactors are made essentially of uranium with a 
zirconium cladding to seal in radioactive emissions. Reactor 4 uses something different. Its 
fuel rod are only 94% uranium, with 6% plutonium stirred in and then the same zirconium 
shell. This mixed oxide (hence the MOX moniker) formulation has one advantage-and a 
number of disadvantages.
(3号機では、94%のウラニウムと、6%のプルトニウムの混合燃料を使っている。)

The advantage-no surprise-is money. Plutonium is a natural byproduct of radioactive decay 
and spent fuel rods are thus full of the stuff. You can always put them into long term 
storage for a few dozen millennia-which is where most spent rods have to go-but you can 
also reprocess some of the waste and combine it with pricier uranium for a cheaper and still 
energy-intensive rod. With nuclear power still more expensive than fossil fuels like coal, 
manufacturers need to save where they can to remain competitive, and MOX is a good 
budget cutter.
(理由は、ズバリ、マネー。そのほうが安いからである。)

But MOX is also temperamental. Physicist Arjun Makhijani, president of the Institute for 
Energy and Environmental Research in Takma Park, MD., spoke to TIME earlier in the week 
and heaped scorn on the Mark 1 reactors used at the Daiichi site. His criticism in that 
conversation was the comparatively flimsy (by nuclear reactor standards at least) 
containment vessels used in the Mark 1s. But he's no fan of the use of MOX either.

"This sort of fuel is more difficult to control than uranium fuel," he told the Augusta 
Chronicle. "The risk of accidental criticality are different. You have the same kinds of 
problems, they are just more intense with plutonium."
(MOXは、制御するのが難しい。)

What Makhijani means by "accidental criticality," of course, is that the stuff just combusts 
more easily. That's particularly dangerous in a Mark 1, according to some studies. A report 
by the Sandia National Laboratories in Albuquerque, for example, found that in the event of 
a core meltdown, a Mark 1's containment vessel has a 42% chance of failing-a whole lot 
closer to a coin flip than you want with something like a nuclear reactor.
And when plutonium is dispersed into the wind you want to be pretty much anywhere else. 
As I reported last week, there are four kidns of carcinogenic isotopes released when a nuke 
plant blows: iodine-131, cesium-137, strontium-90 and plutonium-239. Plutonium is not only 
the most lethal of the four ("extrordinarily toxic" is how Dr. Ira Helfand, a board member for 
Physicians for Social Responsibility, describes it), it also hangs around the longest. It's half 
life is a whopping 24,000 years, and since radioactive contamination is dangerous for 10 to 
20 times the length of the isotope's half.life, that means plutonium emitted in Fukushima 
today will still be around in close to half a million years.
(プルトニウムは、毒性がきわめて強いのみならず、半減期は2万4000年。
50万年は、フクシマに残ることになるだろう。)

That, more than anything, explains why the day began with flyovers by water helicopters. 
And that explains why we're likely to see a lot more of the same-at least until another 
Daiichi reactor starts to look even deadlier.

+++++++++++以上「TIME」++++++++++++++

●毒性

 プルトニウムの毒性について、つぎのように書いている文献が見つかった。
(「楽天、みんなで解決! Q&A」より、転載。)

+++++++++++++以下、転載++++++++++++++

(NaturalNews) Largely absent from most mainstream media reports on the Fukushima 
Daiichi nuclear disaster is the fact that a highly-dangerous "mixed-oxide" (MOX) fuel in 
present in six percent of the fuel rods at the plant's Unit 3 reactor. Why is MOX a big deal? 
According to the Nuclear Information Resource Center (NIRS), this plutonium-uranium fuel 
mixture is far more dangerous than typical enriched uranium -- a single milligram (mg) of 
MOX is as deadly as 2,000,000 mg of normal enriched uranium.
On March 14, Unit 3 of the Fukushima reactor exploded, sending a huge smoke plume into 
the air. http://www.youtube.com/watch?v=T_N-... [ソースチェック]

既に外国のメディアでは3号炉が「プルトニュウム」を含んだMOX燃料が使われ、爆発し大気と
海洋に放出したと報じている。その破壊力は他の炉の精製ウラニウムの2000000倍であると恐
れている。しかし日本では3W経っても東電・官房長官は福島第1でのプルトニュームとMOX燃
料の存在を公表せず、その流出検査値も発表されていない。

+++++++++++++以上、転載++++++++++++++

●逃げるしかない!

 もし3号機がどんな形であれ、爆発するようなことがあれば、(格納容器からの
漏えいでも同じだが……)、もう逃げるしかない。
よくチェルノブイリと比較されるが、放射性物質の量は、チェルノブイリの比ではない。
つまりその分だけ、被災地域が拡大する。

 私はもうこれ以上、ここに書くつもりはない。
こういうことは自分で調べて、自分で判断する。
あとは自分で行動する。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司




Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(7)
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【老後をどう前向きに生きるか】

●老後について

++++++++++++++++

これからの人生を、どう生きるか。
いろいろ考える。
そのひとつ。

年を取ると、より無難な道を歩もうとする。
日々平凡を旨とし、冒険を避ける。
それはそれとして賢い生き方なのかもしれない。
しかしその一方で、そうした生き様は、自らが
もつ多様な可能性を、つぶしてしまう。
生き方そのものが、硬直化する。
型にはまってしまう。
それがその人の生き方そのものを、ジジ臭く、
ババ臭くする。

大切なことは、最後の最後まで、生き抜くこと。
「生きる」という緊張感を失わないこと。

年齢という「数字」に、惑わされてはいけない。
私は私。
あなたはあなた。
どこまでいっても、私は私。
あなたはあなた。

が、そうは言っても、「肉体」の問題がある。
体力、気力の衰えは、いかんともしがたい。
同時に、脳みそも、肉体の一部。
思考力も減退する。

++++++++++++++++

●可能性

 若いころは、それなりに可能性がある。
ときには、怒涛のように押し寄せてくる。
その分だけ、選択肢も多い。
だから迷う。
迷うから、そのつど選択に迫られる。

 が、年を取ると、可能性がしぼんでくる。
総じてみると、その人の生き様は、30歳前後に決まる。
そのころになると、輪郭がはっきりしてくる。
その分だけ、選択肢が少なくなる。
40歳になると、さらに少なくなる。
50歳になると、ほとんどといってよいほど、少なくなる。
それだけに失敗するのも、こわい。
そのため無難な道を選ぼうとする。

 さらに言えば、「平均余命」という言葉もある。
今度はそういう言葉が、前から迫ってくる。
「ゴール」というよりは、「先の見えない閉塞感」。
それが前から、迫ってくる。

今年、男性の平均余命は、80歳になった(2011)。
それで逆算すると、私の残りの人生は、17年。
が、80歳でポックリと死ねるわけではない。
晩年の10年は、病魔との闘いと言われている。
つまり「健康寿命」は、よくてあと7年。

それがわかるから、ますます慎重になる。
無難な道を選ぼうとする。
冒険を避ける。

●選択

 考えてみれば、若いころは、いつも選択ばかりしていた。
そのときは気がつかなかった。
が、選択ばかりしていた。
たとえば仕事にしても、そのつど選択。
「あれをしよう」「これをしよう」「どちらにしよう」と。
生き様も、無数にあって、そのつど選択。

 あるとき、だから、こう思ったことがある。
「信仰をしている人は、楽だろうな」と。
何かの信仰をしている人は、迷うということがない。
その「道」一筋に、生きていけばよい。
何も考えなくてもよい。
生き様にしても、脳に注入してもらえばよい。

ある信仰者は、こう言った。
私が「教祖の言うことを疑うことはないのですか」と
聞いたときのこと。
「教祖様は、何万冊もの本を読んでいる」と。

 が、だからといって、信仰的な生き方が正しいというわけではない。
それを必要としている人は別として、そうでなければそうでない。
信仰的な生き方が正しい生き方ではない。
信仰的な生き方をつづけていると、自ら「私」を放棄してしまう。
そういうことにもなりかねない。

 あくまでも蛇足だが、不完全でもよいから、自分の足で立つ。
未熟であることを恥じることはない。
失敗したからといって、敗北者というわけではない。
失敗を通して、未熟であることに気づく。
つぎの人生は、そこから始まる。

●面影

 生活にしてもそうだ。
「ああしたい」「こうしたい」「こうでありたい」と。
欲望が、そこにある現実と、はげしくぶつかる。
家庭のあり方、家族のあり方、それに夫婦のあり方、など。
思うようにならない生活。
思うようにならない人間関係。
衝突もある。
葛藤もある。

 が、年を取ると、その可能性がしぼんでくる。
選択肢がかぎられてくる。
たとえばラブ・ストーリー。

若いときは、それなりに女性(男性)に相手にされる。
浮いた話が、花のように彩(いろどり)をそえる。
が、年を取ると、それも少なくなる。
相手にされなくなる。

 が、ロマンスを求める心が消えるわけではない。
ときどき思い出したように、ポッと火がつく。
が、そこにいるのは、ワイフ(夫)だけ。
しかたないので、ワイフ(夫)のシワをのばす。
のばしながら、若いころの面影をさがす。
その面影に満足し、「性」を吐き出す。

 かなり不謹慎で、ごめん。
ただ生きざま全体が、総じてみれば、そうなる。
その一例として、色恋の話を書いてみた。

●浮気願望

 私にも経験がある。
若いころ、こんなことがあった。
40歳くらいのことではなかったか。
電車に乗っていたら、目の前の席に、すてきな女性が座った。
私はその女性を見ながら、あらぬ恋愛を夢想した。
が、やがてその想像は、(恋愛)→(結婚)→(育児)と、
進んでいった。
とたん、それまでの夢想が、パチンとはじけた。
消えた。

 「またイチからやりなおす」と言っても、私にはできない。
それがとても、めんどうなことのように思えた。
「どうせやりなおすくらいなら、結婚は一度でじゅうぶん」と。

 同じように今、私はこう考える。
「人生は一度でじゅうぶん」と。
もし神様かだれかが、私にこう言ったとする。
「もう一度、君を、青春時代に戻してやろう」と。
が、やはり人生は、一度でじゅうぶん。
たくさん。
だからこう答えるだろう。
「結構です」と。

●住めば夫婦

 そういう点では、私は不器用な人間と思う。
「浮気」にしても、私にはできない。
すぐ本気になってしまう。
つまり2人の女性を、同時に愛することなど、できない。
で、もしそうなったら、苦しむのは、私自身。
それに、「女」といっても、性格や性質は別としても、
それほど違違わない(たぶん?)。
違っていても、数回もつきあえば、みな、同じ。

 昔から『住めば都』という。
同じように、『住めば夫婦』。
どんな妻(夫)でも、いっしょに住んでいれば、それなりに「都」。
だったら、「今」を大切にしたほうがよい。
今、そこにいる「人」を大切にしたほうがよい。
(この意見については、異論のある人も多いだろうが……。)

●落穂拾い

 選択肢がせばまった分だけ、生活が単一的になる。
単一的になった部分だけ、生き様が「落穂拾い」的になる。
ミレーの落穂拾い(絵画)を、想像してもらえばよい。
わかりやすく言えば、残りカスを大切に、細々と生きていく。

 当然、刺激も弱くなる。
何とも老人臭い生き方だが、もちろんそれがよいというわけではない。
が、こと夫婦生活について言えば、そうなる。

 ワイフにしても、不平不満はあるだろう。
物足りなさはあるだろう。
しかし今さら、どうにもならない。
だから最近は、夫婦喧嘩をするたびに、ワイフは、こう言う。
「いいかげんに、あなたも私を受け入れてよ!」と。
つまり「あきらめてよ!」と。

 が、それが簡単にできない。
できない分だけ、私はまだ若い(?)。

●呂律(ろれつ)

「あと7年か……」と思ってみたりする。
しかしたったの7年。
が、よく誤解されるが、人間は、ある日突然、死の待合室に
入るわけではない。
徐々に、少しずつ、マイナスの一次関数的に入っていく。

 たとえば今朝も、床から起きてからしばらく、呂律(ろれつ)が
回らなかった。
いつもならもう少し早口で話せるのだが、今朝は、どこか口が重い。
ワイフに、「ぼくの話し方、おかしいか?」と聞く。
「……そうねエ〜」と。

 そこで早口の練習をする。
「となりの客は、よく柿食う、客だ」と。

 水分を多めにとり、ウォーキングマシンの上で汗をかくころには、
ふつうに話せるようになった。

 つまりこうした不調が、この先、多くなる。
呂律が回らないというのは、たとえば脳梗塞の前兆と考えてよい。
あるいは微細脳梗塞がすでに起きているのかもしれない。
やがて脳も、硬直化する。

●夫婦問題

 ところでよく夫婦問題の相談が届く。
育児問題なら、それだけの「ケース(経験)」を踏んでいる。
しかしこと夫婦の問題となると、私は門外漢。
自分たちのことしか、知らない。

 が、そういう相談があるたびに、こう思う。
「まだ、若いなア……」と。
つまり若いから、夫婦のことが問題になる。

 やがて否応なしに、その若さも消える。
消えると同時に、現実を受け入れるようになる。
あきらめる。
納得する。
「まあ、いろいろやってはみたけれど、私の人生はこんなもの」と。
それが家族になれば、「私の家族はこんなもの」と。
夫婦についても、同じ。
「私たち夫婦は、こんなもの」と。

 とくによかったわけでもない。
しかし悪かったわけでもない。
「こんなもの」と。
同時に、「問題」そのものが、霧散する。
 
●終末

 そう言えば、60歳を過ぎると、みな、こう言うようになる。
「私は今の夫(妻)で、満足しています」とか、
「今の夫(妻)と結婚して、よかったと思います」とか。

 だからこそ、60歳まで、つづいた。
そうでなければ、どこかで破綻していた。
あるいは「よかった」と、思うことで、(本当は自分を慰める
ことで)、人生をしめくくることができる。

 ついでに、死後の世界。
ホーキング博士は、最近、こう言っている(注※)。

『天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎない』と。
そして重要なことは、『自らの行動の価値を最大化するため
努力すべき』と。

●気力
 
 ……と書いてきたが、人生が終わったわけではない。
先ほど17年と書いたが、うまくいけば、20年は生きられるかもしれない。
もしそうなら、こうなる。
何も、自ら選択肢をせばめていく必要はない。
20年といえば、誕生から成人まで。
あのビル・ゲーツにしても、マイクロソフト社を今にみる会社にするまでに、
20年もかからなかった。

そこで生きる力。
生きる力が強ければ強いほど、選択肢がふえる。
選択肢をふやすことが、人生を豊かに生きるコツである、と。
「まだ、こうしたい」「まだ、ああしたい」と。
それを素直に受け入れ、それに従って生きていく。
……というか、あえて自分と闘いながら、それを求めていく。
というのも、体力と同時に、気力も弱くなる。
それがこわい。
最近、こんなことをワイフと話した。

●山荘
 
 私が山荘をもとうと考えたのは、30歳も過ぎてからのこと。
それまでもずっと、「夢」として、それを考えていた。
が、決意したのは、30歳も過ぎてからのこと。

 結果的に、土地の造成に6年をかけた。
建築に半年。
山荘が手に入ったのは、40歳のとき。
いろいろあった。
最大の問題は「水」。
都会であれば、水道を引くことで、水を手に入れることができる。
しかし山の中では、そうはいかない。

 最終的に、村の人たちと折り合いをつけ、自分で水道管を
埋設した。
下水の処理にも、苦労した。……などなど。

 そういう過去を思い出しながら、今、ワイフにこう言う。
「よく、やったなア」と。

 現在の私なら、とても、できない。
それを支える気力そのものが、ない。
当時の私は毎週、土日になると、ユンボを借り、土地を造成した。
テントを張って、一夜を過ごしたこともある。

 だから今は、こう思う。
「そんな元気があったら、温泉でも行ってきたほうがいい」と。

●決意

 あえて自分の心と体にムチを打つ。
ムチを打って、奮い立たせる。
いつか限界が来るかもしれない。
そのときは、そのとき。
しかし今は、ムチを打つ。

 だから私は、今、こんなことに心がけている。

(1)朝、目を覚ますと同時に、その日にすることを決める。
(2)朝、床から出ると同時に、ウォーキングマシンの上で歩く。
時間は、30分。
汗をかくまでする。
(3)パソコンを開き、文章を書く。
マガジンを発行する。
BLOGを書く。
(4)週に1、2度は映画館に足を運ぶ。
(5)週に1度は、どこかの温泉に泊まる。
(6)本や雑誌は、惜しみなく買う。読む。
(7)これが重要だが、その朝に「やる」と決めたことは、かならず、
実行する。
(8)仕事は、つづける。
つづけるというより、やめない。
死ぬまで、やめない。
こと、仕事については、来年のことは考えない。

●最後の最後まで……

 私たちはいつも、そのつど選択しながら、生きている。
しかしそれこそが、まさに「今」を生きるものの、特権ということになる。
その選択がなくなったら、それこそ人生はおしまい。

 夫(妻)への不満、おおいに結構。
家族(親、子ども、兄弟)への不満、おおいに結構。
ばあいによっては、衝突もし、絶縁もする。
それもおおいに結構。
それも人生の関門のようなもの。
それを通り過ぎないと、つぎのステップに進むことができない。

 あちらでぶつかり、こちらでぶつかる。
あちらで叩かれ、こちらで叩かれる。
それもおおいに結構。

 私についても、辛らつな批判を繰り返している人は多い。
しかし私は私。
人は人。
私が書きたいように、ものを書くように、言いたい人には、
好きなように言わせておけばよい。
私の世界では、批判、中傷、悪口は、「勲章」のようなもの。
それ自体が、生きる原動力になっている。
(これは言い訳?)

 とは言っても、年を取ると、その気力も弱くなる。
めんどうになる。
選択肢もせばまってくる。
それこそ、毎日、仏壇の金具を磨いて過ごすようになる。
が、それこそ、まさに死の待合室。
あとは静かに死を待つだけ。
急がなくても、やがて人は、みな、そうなる。

しかしあえて、それを求めることはない。
そのときは、そのとき。
そのときまで、私たちはいつも、選択を繰り返しながら生きていく。
最後の最後まで……。

 それができるかどうか?
自信はないが、今は、そう考える。

(注※)(参考)2011年5月18日(産経ニュースより)

『「天国も死後の世界もない」車いすの物理学者ホーキング氏が断言

「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士が、英紙ガ
ーディアンのインタビューで、「天国も死後の世界もない」と語った。

 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(69)は、
天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、死後の世界があるとの考えを否定した。16
日付の英紙ガーディアンに掲載されたインタビューで述べた。

 ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと
見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐
れる人のおとぎ話だ」と述べた。

 博士は21歳の時に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という進行性の神経疾患と診断され、余命
数年とされた。「自分は過去49年間にわたって若くして死ぬという可能性と共生してきた。死を
恐れてはいないが、死に急いでもいない。まだまだやりたいことがある」と語った。

 また、人々はどのように生きるべきかとの問いに対し「自らの行動の価値を最大化するため
努力すべき」と答えた。

 1988年の著書「ホーキング、宇宙を語る」で世界中に広く知らるようになった博士は、201
0年の著書「The Grand Design(原題)」では宇宙の創造に神の力は必要ないとの主張を
展開し、宗教界から批判を浴びている』(ロイター)と。

●補記

 ホーキング博士のこの言葉を聞いて、私はハッとした。
ホーキング博士は、私が長々と書いてきたことを、たった一行で表現している。

『自らの行動の価値を最大化するため努力すべき』と。

 原文がないので、正確な意味はわからない。
この翻訳を信用するなら、ホーキング博士は、『行動の価値』という言葉を使ったことになる。
『私の価値』とか、『個人の価値』とかではない。
『行動の価値』である。

 同じようなことは、あのトルストイも書いている。
それについては一度、中日新聞に書いた原稿があるので、ここに掲載する。
トルストイも、『ただひたすら生きることこそ重要』と書いている。

 行動の価値の追求に、老いも若きもない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【高校野球】(トルストイの言葉)

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずる
からではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕
事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果と
いうわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見い
だした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福
になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、
ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャ
ーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みん
な必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、
そしてそれが宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そ
のあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。
言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘
志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人
生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われた
とき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざ
までしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、
適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つ
まらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれ
る。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●来る人、去る人

 おととい、義兄の母親が他界した。
が、私は、おとといの夜は、家にいなかった。
知ったのは昨日。
で、昨夜は、通夜。
今日は、本葬。

 が、私とワイフは、今は、電車の中。
その電車の中で、考える。
義兄の母親といっても、一度も会ったことはない。
この15年以上、老人ホームで寝たきりの生活をしていたという。
義兄自身もいろいろあって、会うのは年に1、2度とか、言っていた。
が、このさみしさは、いったい、どこから来るのか?

●『去るものは追わず』

 『去るものは追わず』という、冷徹なまでにクールな格言がある。
まさにニヒリズムを凝縮したかのような格言である。
(英語で「クール」というと、「かっこいい」という意味である。
ここでは「冷たい」という意味で、「クール」という言葉を使う。)

 この格言は、いろいろなふうに、拡大解釈できる。
ただ誤解していけないのは、「去る」といっても、「心の問題」をいう。
距離の問題ではない。

●A氏の息子

 親類でも旧友でも、兄弟でも、さらには親子でも、去る人は去っていく。
こんな話を聞いた。

 A氏(63歳、学友)が、2年前の正月、狭心症で倒れた。
A氏の妻はは、そのことをすぐ横浜に住む、息子(30歳)に連絡した。
息子は仕事中だったので、息子の妻に伝えた。
が、息子のほうからは、なしのつぶて。 
以後、10か月以上、連絡がなかった。

 息子の妻は、A氏の病気のことを、息子に伝えなかったらしい(?)。
理由はわからない。
それで10か月たったところで、A氏が息子の妻をなじると、息子はこう言ったという。
「K子(妻)の悪口を言うのは許さん!」と。

 それでA氏と息子との関係は切れた。
それまでにも、いろいろあったというが、その事件が、「結論づけた」(A氏談)。

●親子の縁

 心のつながりが切れる。
親子でも、切れるときには、切れる。
近くに住んでいれば、修復ということも可能。
しかし同時に『去るもの、日々に疎(うと)し』という格言もある。

 このばあいは、昔の格言だから、「距離」を言った。
昔は、今のように、電話やメールで連絡を取り合うということはできなかった。
手紙さえなかった。
つまりたがいの「距離」が離れれば、その人との関係も、「疎くなる」と。

 が、いくら連絡方法があっても、A氏のばあいでもそうだったが、絶縁するときには、
絶縁する。
A氏は以後、2年をかけて、息子の思い出を消したという。
一時は、転居も考えたという。
「今の家には、いろいろな思い出がしみついていましてね」と。
A氏の妻も、同じくらい、悲しんだ。

●去るときには去る

 年を取れば取るほど、こうした別れが多くなる。
親類縁者の死別、肉親の死別など。
息子や娘と死別することもある。
孫と死別することもある。
そのつど、人は、身を切られるほど、つらい思いをする。

 そこで『去るものは追わず』。
言うなれば、この年齢になって生きるということは、
無数の荷物を引きずって歩くようなもの。
荷物には一本、一本、ひもがついている。
そのひもが、体中にからんでいる。
一歩、前に進むたびに、ズルズルという音が、うしろから聞こえてくる。

 が、それではいけない。
去る人は、去っていく。
失っていく人を悲しんでいたら、前には進めなくなる。
どこかで割り切らなければならない。
冷酷なようだが、(たしかに冷酷だが……)、それは私自身のことでもある。
私も、(そしてあなたも)、去るときには、去る。
が、逆に言えば、そのとき、この世界は、それこそ宇宙もろとも去る。
つまり『去るもの』の「者(もの)とは、私自身、あなた自身を意味する。

 そういう自分を知ればこそ、去るものを悲しんでいては、前には進めない。

●葬儀

 最近、私は、……というか、この10年、儀礼的な葬儀には、ほとんど参列していない。
肉親の葬儀にしても、実兄の葬儀だけは、派手になった。
実姉に段取りを頼んでおいたら、そうなった。
が、それが最後。

 儀礼的な葬儀に、どれほどの意味があるというのか。
実際には、なにもない。
まったくない。
そのことは、自分自身に当てはめてみると、よくわかる。

 派手な葬儀など、望むべくもないが、それでも私が死んだら、参列に来てほしい人は、
1人か2人。
本当に私をしのんでくれるひとだけでよい。
(が、それとて、かなわぬ希望かもしれないが……。)

 もっとも最近の葬儀には、近親者が集まる機会という意味もある。
そのことは、オーストラリアの友人たちの生き方を見ていると、よくわかる。
オーストラリアの友人の家族(親類縁者たち)は、ことあるごとにパーティという形式で集まる。
先日は、孫の1歳の誕生日に、親類縁者たちが、20人ほど、集まった。
そういうのを見ていると、「ああ、日本では、冠婚葬祭が、それに当たる」ということがよくわか
る。
日本人は冠婚葬祭、とくに葬儀を口実に、みなが集まる。

 そういう習慣もあるだろう。
しかしそれでも私は参列しない。
それには私自身の死生観がからんでいる。
「生」は厳粛なもの。
それ以上に、「死」は厳粛なもの。
儀礼的な葬儀で、「死」を茶化してはいけない。

 ……こう書くと、どこかカルト的な雰囲気になるが、私は「死」を認めていない。
だれの死であれ、「死」を認めていない。
となると、「生」はどうなのかということになる。
が、ここで巨大なパラドックス(論理的矛盾)にぶつかる。
「死を認めないということは、生を認めないことにもなる」と。

 そう、最近の私は、「生」そのものを、疑って考えるようになっている。
今年63歳だが、振り返ってみると、その63年が、ない。
どこにもない。
そこにあるのは、光と分子が織り成す、「無」の世界。
そこまで自分を徹底して考えることは、まだできないが、ときどき、ふと
そう考える。
今も、そうだ。

 だからこう考える。
「私は生きていない」、「だから私は死なない」と。

●死を認めない

 おかしな論理に聞こえるかもしれない。
が、最近(01年の11月)、私の友人が他界した。
私の原稿をいつもていねいに読んでくれた。
その奥さんに、よく会うが、いつも私はこう言う。
「ぼくは、先生(=その友人)の死を認めていませんよ」よ。

 そのつど、奥さんは、怪訝(けげん)な顔で私を見る。
が、私はそのつど、こう思う。
「10年(20年でも、30年でもよいが)、早く死んだとか、あるいはあとで死んだとか、
そんなことにどれほどの意味があるのか」と。
宇宙的な時間でみれば、私たちは瞬時に生まれ、そのまた瞬時に、死ぬ。
仮に100年間生きたとしても、瞬時。
そのことは、20年前、30年前に死んだ人を思い浮かべてみれば、わかる。
みな、あっという間に生まれ、そして死んだ。
それから20年、30年が、これまたあっという間に過ぎた。

 わかりやすく言えば、「先に死んだ」とか、「まだ生きている」という言葉そのものが
無意味。
私が「死を認めない」というのは、そういう意味。
あっという間の、つぎの瞬間、私も死ぬ。
死んで消える。

 ……だからというわけでもないが、あのアインシュタインは、こう言った。

「生きていること、すべてが、奇跡」と。

●息子は息子

 『去るものは追わず』。
過去を断ち切りながら、前に進む。
過去にこだわっていても、しかたない。
それに先に書いたA氏も、こう言った。

「息子は息子。
私は私。
修復にかかる時間を考えると、もうその余裕はありません」と。

 どうせ死ねば永遠の別れになる。
A氏のばあい、それが20年、早くやってきたということか。
私はそう解釈した。

●失うことを恐れない

 平たく言えば、失うことを恐れてはいけないということ。
どうせ私たちは「死」によって、すべてを失う。

 たった今も、この電車の中で、女子高生たちが、何やら話し合っている。
ペチャクチャ……と。
この世の主人公のような顔をしている。
しかしほんの20年前には、姿、形もなかった子どもたちである。
それが今は「主」。

 が、私だってそうだ。
「無」から生まれ、「無の世界」を生き、やがて「無」へともどっていく。
だから去るものは、追わず。
追っても意味はない。

 これは老後を楽しく生きるための鉄則のように思う。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(8)
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【National Public Radio(USA)の記事より】

●子どもの睡眠時間と肥満

iStockphoto.com 
Kids who don't get enough sleep face a greater risk of being overweight or obese. But being 
overweight could also be causing the sleep problems, making it hard for children to stay 
awake and alert during the day.
じゅうぶんな睡眠時間をとっていない子どもは、肥満あるいは体重超過の危険と直面すること
になる。また体重超過は、睡眠障害を引き起こす。たとえば日中、眠気に襲われたりする。

Researchers at Pennsylvania State University were looking for risk factors for daytime 
sleepiness in kids. To their surprise, they found that sleep-disordered breathing, a common 
problem that can range from snoring all the way up to sleep apnea, wasn't the biggest risk 
factor.
日中、眠気を催す子どもについて、ペンシルバニア州立大学の研究によれば、驚いたことに、
いびきなどの睡眠呼吸障害などは、それほど深刻な問題ではないことがわかった。

Instead, it was obesity, followed by mood disorders like anxiety and depression, and asthma.
そのかわり、不安やうつ(気分の落ち込み)のような、気分障害による肥満や、ぜんそくが原因
であることがわかった。
  
That's a bit of a wake-up call to parents, because sleep-disordered breathing is often cited 
as a cause of ADHD-like behavior problems in children, based on the notion that a sleepy 
kid can't pay attention in school. 
日中眠気に襲われる子どもは、集中力に欠けるということもあり、睡眠時呼吸障害が、たとえ
ばADHD児の原因として考えられることもある。

The most common treatment: tonsillectomy. A sleep-disordered breathing diagnosis is now 
the most common reason for tonsillectomy in children.
もっともありふれた治療法としての扁桃腺摘出手術:
睡眠時呼吸障害が診断されると、子どものばあい、扁桃腺摘出手術が、もっともありふれた治
療法となっている。

But tonsillectomy isn't without its risks, says sleep specialist Edward Bixler, a professor of 
psychiatry at the Penn State Milton S. Hershey Medical Center. He's one of the authors of 
this new study, published in the current issue of Sleep.
しかし扁桃腺摘出手術では、ない。

There's considerable research linking lack of sleep in young children and adults to increased 
weight.
子どもに限らずおとなも、睡眠不足と体重増加には、有意の関連性がみられる。

 For example, infants and toddlers who slept less than 10 hours a night were more likely to 
become overweight or obese within 5 years, according to a report last fall from researchers 
at the University of Washington.
たとえばワシントン大学の研究によれば、睡眠時間が10時間以下の幼児は、5年以内に体重
増加になりがちであることがわかっている。

Naps don't make up the sleep deficit. Another 2010 study found that teenage boys who 
stayed up late playing video games or texting were more likely to be overweight or obese. 
But sleep had little effect on weight for girls.
昼寝をしたからといって、睡眠に悪影響を与えるわけではない。
2010年の研究によれば、夜遅くまで起き、テレビゲームをしたり試験勉強をしている子ども
は、体重増加や肥満になる傾向がみられる。
が、女子のばあい、睡眠は、ほんとど体重には影響を与えない。

But quite a few of those studies rely on self-reports of sleep, or reports by parents. They 
can be subjective. Bixler's group observed the children overnight in a sleep lab. 
多くは親からの報告などであったりして、主観的なものである。
そこでBixlerたちは、睡眠研究所で、子どもの観察をした。

They also arranged for extensive medical workups. Of the 508 children ages 5 to 12 years 
old, 15 percent of them had "excessive daytime sleepiness." 
日中眠気を訴える5歳から12歳までの、508人の子どもについて、集中的に観察した。

That was most strongly associated with being overweight or obese. Kids taking asthma 
meds, those reported to be anxious or depressed by a parent, and those said to have 
trouble sleeping at night by their parents were also risk factors.
これらの子どもは、かなり体重超過と肥満傾向をともなっていた。
ぜんそくの薬を服用している子どもは、睡眠障害を起こしやすい。
その原因として、両親による不安や抑鬱感、また両親による睡眠障害なども報告されている。

So which comes first, the weight problem or the sleep problem? That's impossible to know 
from this study, because it didn't look at cause and effect.
それ故に、どちらが先か。
体重問題か、睡眠障害か。
この研究では、どちらが先かということは言えない。
なぜならそれは双方ともに、原因であり、結果であるからである。

But it does suggest that parents might want to first consider weight loss, adjusting asthma 
meds, and treating a child's mood problems before getting a tonsillectomy.
しかしつぎのことは言える。
子どもの肥満を解決しようとしたら、ぜんそく治療を考え、扁桃腺摘出手術を考える前に、子ど
もの(心の問題=MOOD)を治療すべきということになる。

"Sleepiness in children I'm sure is a very complicated factor, we're only touching on some of 
the issues here," Bixler told Shots. "A whole lot of things can influence your sleep. It's an 
extremely sensitive marker, but it's not very specific." In other words: "It doesn't tell you 
what the problem is. But it's clearly a red flag."
子どもの眠気は、複雑な要素が重なって引き起こされる。
日常のすべてのことが、睡眠に影響を与える。
眠気は、あくまでも結果。
言い換えると、それが問題というのではなく、それは何らかの病気の赤信号ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●The Other Big Deficit: Many Teens Fall Short On Sleep
もうひとつの大きな睡眠問題:10代の多くの子どもは、睡眠不足である。
  

The typical high school senior gets less than seven hours of sleep on school nights. But 
teenagers need a great deal more.

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The typical high school senior gets less than seven hours of sleep on school nights. But 
teenagers need a great deal more.
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May 16, 2011 
Most high school students are chronically tired. They juggle school, sports, homework, 
chores, friends and family.
To meet all of these demands, surveys show, high schoolers usually stay up close to 
midnight on school nights. And then they have to get up early the next morning, typically 
around 6 or 6:30 a.m., to get to school on time, as most high schools start classes around 7:
30 a.m.
By Friday, most teens are very tired, says Dr. Helene Emsellem, a sleep researcher with 
George Washington University in Washington, D.C. And then comes the weekend.
Submit Your Sleep Questions
Got questions about teens and sleep? Submit them in the comments section at the bottom 
of this page by Tuesday at noon EDT. We'll pose some of them to Dr. Helene Emsellem and 
other sleep experts. Come back to NPR.org on Thursday to read their responses.
"Every parent of a teenager knows that if you try to get them up in the morning on the 
weekends, they're tired, grouchy, irritable and not the charming individuals that they're 
capable of being, because they're so exhausted," says Emsellem, a neurologist who also runs 
the Center for Sleep and Wake Disorders in Chevy Chase, Md. 
She says the typical high school senior gets less than seven hours of sleep on school nights. 
But they need a great deal more.
Growth Spurts Call For Sleep
"Most studies show a fairly consistent 9 1/4 hours sleep requirement," says Emsellem. "So 
there's a huge gap between what they're getting on an average school night and what they 
require."
An adolescent's biology bears some of the blame for this sleep problem. As teens progress 
through puberty, unprecedented growth occurs in body and brain that requires a lot of sleep.
In addition, something else is changing: The very brain chemical that makes one feel sleepy - 
a hormone called melatonin - is released later and later in the evening as teens get older.
Because of this shift in the onset of melatonin, teenagers don't feel sleepy until later at 
night, says Stephanie Crowley, a sleep researcher at Rush University Medical Center in 
Chicago.
"A 16- or 17-year-old might be able to stay awake later compared to a 10-year-old who 
will likely fall asleep on the couch watching TV," Crowley explains.
Accruing A 'Sleep Debt'
Most studies show a fairly consistent 9 1/4 hours sleep requirement. So there's a huge gap 
between what they're getting on an average school night and what they require.
- Helene Emsellem, neurologist at George Washington University and medical director of the 
Center for Sleep and Wake Disorders
When a teen's propensity to fall asleep later is coupled with the early-to-rise school start 
times, most high school students end up accruing a "sleep debt" of five to 10 hours by the 
end of a school week.
And teenagers' typical habits on the weekend create even more chaos in their sleep-wake 
cycle.
"What the majority of adolescents do is they will try to recover their sleep on the weekends,
" Crowley observes. "And what usually will happen is they'll stay up late to socialize with 
friends and then sleep in in the morning."
But this sleep-wake pattern makes things worse for the teen, not better, Emsellem says.
"Even if you catch up by sleeping in late on your weekend mornings," she says, "by doing 
so, it makes it harder for you to fall asleep by 10 or 10:30 on Sunday night. And you start all 
over again, sleep restricted."
But Emsellem offers some suggestions for the weekends, based on her sleep research in the 
lab - and her personal experience of raising three daughters.
"As a parent myself, I feel like a criminal if I ask them to get up at 7:30 or 8 in the morning. 
But I do try to get them up by 9. And I encourage them to get some activity and some light 
exposure in the morning," she says.
Let There Be Not Much Light At Night
Light, Emsellem says, is a "drug that promotes wakefulness" in the morning, in the same 
way that darkness can promote sleep at night. In the evening, she recommends dimming and 
even turning off some lights in the house to minimize light exposure.
The teen should also try to make the transition to sleep time by taking a warm shower or 
doing some gentle stretching. Emsellem suggests that there be a lights-out time in the teen'
s bedroom during the school week and that they try to stick with it.
But if the teenager gets into bed and turns out the lights but cannot sleep, Emsellem says, 
just lying there in bed doing nothing is just as frustrating for the teen as it is for an adult. In 
that case, electronics can be helpful if used carefully - for example, soothing music or an 
audio book. But she suggests limiting such sleep aids to 30 minutes.

Making The Case For Sleep
Emsellem wants teenagers to understand what sleep does for them every night.
"I think it's important for teens to recognize that during the day, they're gathering 
information," she says. "But they're really not learning it till they sleep on it."
Another tip for teens: no caffeine - including chocolate - after midafternoon. Emsellem says 
caffeine stays in a teen's system for at least six hours.
Experts also recommend naps. Over the weekend, an hour or so can help a teen catch up 
on sleep. During the school week, naps should be short - 20 to 30 minutes - and are best 
taken during study hall or a break before midafternoon. Otherwise, they could interfere with 
nighttime sleep.
Naps can be particularly helpful when teens have a test in the afternoon. "Studies have 
shown they'll do better on their test with a nap midday," Emsellem says.
There's another advantage to an early afternoon nap: Teens will then have more energy and 
concentration to power through homework later in the evening.

【以上、National Public Radio(USA)の記事より】

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どもの睡眠障害 居眠り 眠気 体重超過 肥満 睡眠と肥満 肥満と睡眠 
睡眠障害と喘息 ぜんそく はやし浩司 子供の睡眠 肥満)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司


(9)
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【損得論】


●山荘にて


5月末。
山荘に、ベストシーズンがやってくきた。
野生のジャスミンが咲き誇り、野いちごが赤い実をつける。
空には、もちろんホトトギス。
終日、トーキョートッキョ、キョカキョク……と鳴きながら、
空を舞う。


●野生のジャスミン


今日は、夜中に、山荘に着いた。
甘い香りが、厚い層となって、ゆっくりと全身をやさしく包む。
歩くのをやめ、そのまま深く息を吸い込む。
気温は21度。
車をおりるとき、外気温度を見たら、21度だった。
クーラーの設定温度より低かった。


 湿った冷気が心地よい。
空を見上げると、低い雲が町の明かりを受けて、ぼんやりと光っていた。
先週来たときには、満天の空に星々がまばたきもせず、輝いていた。
台風一過の、その翌日のことだった。


 見ると、ワイフが車から荷物をおろし終えるところだった。
私は土手にライトを向けた。
野いちごが、そこにあるはず。
先週来たとき、ワイフがこう言った。
「来週あたりが、食べごろね」と。


●野いちご


 野いちごが袋に一杯になった。
それをもって居間へ行くと、ワイフが驚いた。
「そんなにたくさん!」と。


 得意げな気持ちを抑えながら、私はだまってコタツに入る。
パソコンを並べる。
テーブルの上に散っていたミニコプター(おもちゃのヘリ)を、並べなおす。
ワイフが注いだ、ミネラルウォーターを飲む。


「生きていてよかった」と。
少し大げさな感じがしないでもないが、そう思った。
そこで損得論。
人は何をもって、損といい、得というか?


+++++++++++++++++++++++++


 ふつう「損・得」というと、金銭的な損得をいう。
しかし何も金銭的な損得だけが、損・得ではない。


時間的な損得論もある。
健康的な損得論もある。
心のつながりの損得論もある。
「人間的な損得論」というのが、それ。
しかし何が損か、得かということになれば、精神的な損得論。


 精神的に「損」をすれば、人生、すなわち命そのものを、
無駄にすることになる。


++++++++++++++++++++++++


●時間的な損得論


 「時間は財産である」。
が、若い人にこんなことを言っても、理解されないだろう。
時間は無限にあるように思っている。
10年後も、20年後も、今のまま・・・と考えている。


 自己中心性の強い中学生だと、こう言う。
「ぼくは、歳を取らない」と。
中学生や高校生でも、そう考えている子どもは、少なくない。
I君(高校男子)も、こう言った。
「ジジイのような役立たずは、早く死ねばいい」と。
そこで私が、「君だって、やがて歳を取って、ジジイになる」と言うと、こう言った。
「ぼくはそれまでにうんとお金を稼いでおくからいい」「だれにも迷惑をかけない」と。


 が、時間はけっして無限ではない。
わかりきったことだが……。
しかも皮肉なことに、加齢とともに、時間が過ぎるのが、加速度的に早くなる。
脳のCPUの働きそのものが、遅くなる。
鈍くなる。


 私は・・・時間というのは、金の砂時計のようものと思うことがある。
金銭的な価値に例えているのではない。
それくらい貴重、……という意味で、「金の砂」に例える。
それが絶え間なく、サラサラと下へ、下へと流れていく。
もちろん流れ切ってしまえば、寿命は尽きる。


 そこで「浪費」。
少し前、こう書いた。
「パチンコなどで、一日をつぶしている人は、時間を無駄にしている」と。
中には、娯楽としてパチンコを楽しんでいる人もいる。
娯楽は娯楽。
仕事の合間の息抜き。
だからみながみな、無駄にしているとは思わない。


 もしパチンコを否定してしまったら、魚を釣るのも、映画を観るのも、無駄と
いうことになってしまう。
私だって、旅行先では、何もせずぼんやりとしていることが多い。
が、ことパチンコとなると、話は別。
私には、できない。
1〜2時間、無駄にしたと思っただけで、「しまった!」と思う。


 残された時間は、みな、同じ。
要は過ごし方の問題ということか。


●健康的な損得論


 健康的な損得論といえば、第一に思いつくのが、運動と食事。
たとえば寒い朝、ジョギングに出かけるのはつらい。
しかしその(つらさ)に負けていたのでは、健康にはなれない。
「なれない」というよりは、維持できない。


 寒い朝、寝床の中で時間をつぶすのは、「損」ということになる。
一方、一見「損」に見える運動だが、運動した方が、「得」ということになる。
だからときどきビルのエスカレーターに乗りながら、こう思う。
「歩いたほうが、得なのに……」と。


 が、問題は「食事」。


 最近はホテルや旅館などでは、どこでもバイキング料理というのが、ふえた。
あのバイキング料理。
食べなければ、損なのか?
それとも食べたら、損なのか?


 私のばあい、いまでも、それに迷う。
迷うが、結局はいつもより食べ過ぎてしまう。
が、結果からみると、食べ過ぎることのほうが、「損」。
歳を取れば取るほど、体の機能が微妙になる。
少し油断をすれば、すぐ肥満。
糖尿病にもなる。
ほかにもいろいろ。
病気の種類だけでも、分厚い家庭医学書ほどもある。


 だから私のばあい、いつもこう問いかけながら食べる。


「食べたら損ねるのか?」「食べなければ損ねるのか?」と。


●人間的な損得論


 人間は社会的な動物である。
社会、つまり人との関わりをもって、はじめて人は人でありえる。
人と隔絶された世界で、たったひとりで生きたとしても、生きたことにはならない。
これはあくまでも極端なケースだが、たとえば猿だけが住む猿が島に、ひとりで
住むようなケースを空想してみればよい。
あなたはそのとき「人」でいられるだろうか。
猿たちを相手に、幸福で満ち足りた生活を送ることができるだろうか。


 たとえば私もこうして今、ひとりでものを書いている。
たったひとり?
しかしやがてすぐこの文章は、ネットにのって、全世界に配信される。
そこで人とのつながりが、できる。


 当然のことながら、(こう決めてかかるのも危険なことだが)、人間関係は、幅広く、
豊かであればあるほどよい。
もちろん密度の問題もある。
つまらない友人が100人いたところで、心の隙間を埋めることはできない。
ある賢人はこう書き残している。


「歳を取ったら、少数の人と、親密に交際した方がいい」と。


 いろいろな考え方があるようだが、人間関係そのものは、貴重な財産である。
もちろん金銭的な意味で、そう言っているのではない。
友や親類、近親の人をなくすのは、「損」ということになる。
わかりやすく言えば、「理解しあえる相手」こそが、財産ということになる。
その数が多ければ多いほど、「得」ということになる。


●精神的な損得論


 若いころ、こんな話を聞いた。
生徒の家の近くに、80歳前後になる女性が住んでいた。
(年齢は記憶による。)


 その女性は、近所で花の植木鉢を盗んできては、自分の家にそれを並べていたという。
私はその話を聞いたとき、頭の中で思考がバチバチとショートするのを覚えた。
理解できなかった。
「花を楽しむという美しい心と、ものを盗むという醜い心は、衝突しないのか」と。
ほかのものならともかくも、「花」である。
美しい花である。


 この話は私の心に中にずっと残った。
そして今は、こう思う。
「花を盗むことで、人は回り道をすることになる」と。


 話を少し飛躍させてしまった。
私がここで書きたいことは、こういうこと。


 人はいつも何かの目標に向かって生きている。
真・善・美がその代表的なものだが、ほかにもある。
その目標に向かって生きている。
そのとき、自分の心を偽ることは、それ自体が回り道になる。
しかも一度、回り道をすると、そこで「得?」をした分の、何倍も「損?」をする
ことになる。


 たとえば先の女性のばあい、花の植木鉢を盗んだことにより、一時の得(?)を
するかもしれない。
しかしその分だけ、人生の目標からはずれることになる。
たとえば一度醜い心に染まってしまうと、それを消すのに、何倍もの時間がかかって
しまう。
つまり損(?)をする。


 これが精神的な損得論である。


●寛大


 それぞれの損得論は、それぞれ別のものに思う人もいるかもしれない。
私もそう思っていた。
が、人間の脳みそは、それほど器用にできていない。
一部が全部、全部が一部と、それぞれ関連しあっている。


 たとえば私は若いころ、金銭的な損得に、かなりシビアだった。
そのつど敏感に反応した。
が、以来30〜40年?
自分の人生を振り返ってみても、金銭的な意味で「得」をしたということは、
ほとんどない。
損ばかりしていた。


 最初は10万円単位だった。
それが100万円単位になり、そのあとさらにふえた。
が、それに慣れると、そのうち、金銭的な損がどうでもよくなってしまった。
・・・というか、免疫性ができ、寛大になった。


 が、ほかの面に寛大になったというわけではない。
金銭的な損得論から解放されることによって、それまで見えなかった損得論が
見えるようになった。


 ここに書いた、時間的な損得論、健康的な損得論、人間的な損得論、精神的な
損得論が見えるようになった。
わかりやすく言えば、金銭的な損を重ねるうち、「損」というものが、どういうものか、
それがよりよくわかるようになった。
「何をもって、私たちは損というか?」と。
そしてその反射的効果として、何が「得」なのかも、よくわかるようになった。


●時間的な損


 時間的な損と言えば、くだらないテレビが、あげられる。
もっとも私の年齢になると、あのバラエティ番組を見る人は少ない。
少ないが、その一方で、どうしてあんな番組が、人気があるのか、私にはよく理解
できない。
それなりに意味のあること(?)をまぶしてはいるが、まさに情報の羅列。
洪水。
それを見る人にしても、見ては覚え、そして覚えては忘れる。
それを繰り返している。


 が、これを繰り返していると、思考力そのものが衰退してしまう。
自分の力で考えることができなくなってしまう。
言うなれば情報中毒。
その情報中毒が、こわい。


バカになりながら、自分がバカになっていることにさえ、気がつかない。
よい例が、バスや電車の中で、大声で話し立てるオバチャンたち。
もし今度そういうオバチャンたちを見かけたら、どんな話をしているか、
少し耳を傾けてみたらよい。


(1)脳に飛来した情報を、そのまま話しているだけ。
(2)話の内容が、どんどんと変化していく。
(3)世俗的な世間論のみで、議論による深まりがない。
(4)発展性もなければ、創造性もない、など。


 つまり時間を無駄にしているだけ。
せつな的な時間つぶしをしているだけ。
話しては忘れ、話しては忘れ、それを繰り返しているだけ。
もっと辛らつな言い方をすれば、口の運動をしているだけ。


●健康的な損


 健康的な損といえば、第一にあげられるのが、喫煙。
高額な税金を払い、病気を買っているようなもの。
タバコにしても、「吸っている」のではなく、タバコに「吸わせられている」。
自分の意思で吸っているのではない。
吸わせられている。


 結果、喫煙は健康のあらゆる面に、影響を与える。
病気を引き起こす。
がんを例にあげるまでもない。


 要するに、肉体というのは、だらしなく、怠けもので、誘惑に弱いということ。
そういう前提で、自分の肉体を考える。
もう少しわかりやすく例えると、あなたの脳みそは、経営者。
肉体は言うなれば、労働者。
文句ばかり並べて、働こうとしない労働者。
だからあなたは自分の肉体に向かって、こう叫ぶ。
「働け!」と。


 それが健康につながる。
つまり「得」。


●最大の損


 最大の損といえば、当然、「死」ということになる。
人は死ぬことで、すべてを失う。
名誉も地位も財産も、そして命すらも。


 あのホーキング博士は、最近、こう言っている。


『天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎない』と。


 天国はあるのか、ないのか。
本当のところは、私にもわからない。
わからないが、「天国はない」という前提で私は生きている。
「死んでみて、あればもうけもの」と。


 が、ホーキング博士は、「そんなものは、ない」と。
わかりやすく言えば、死は、「コンピューターが壊れたような状態」(ホーキング
博士)という。
「私」どころか、死ねば、この宇宙もろとも、消えてなくなる。


 そんな損……それを「大損」というのなら、大損でもよい。
そんな大損を前にすれば、目の前の損など、どれもささいなもの。
が、ここで誤解してはいけない。


 だから人生は虚しいとか、つまらないとか言っているのではない。
その逆。
私たちはかぎられた時間の中で、懸命に生きる。
生きながら無数のドラマを残す。
ときに運命にさからい、土俵の間際で足をふんばる。
そこに人が生きる意味があり、価値がある。


 あのトルストイもこう書いている。
『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛するこ
と。
信ずること』(『戦争と平和』・第五編四節)と。


 ホーキング博士も同じようなことを書いているのは、たいへん興味深い。
『(重要なことは)、自らの行動の価値を最大化するため努力すべき』と。
わかりやすく言えば、とにかく懸命に生きろ、と。


●『自らの行動の価値』


 ホーキング博士は、「自らの価値」とは言っていない。
「自らの行動の価値」と言っている。
そこがすごい。
「行動の価値」である。


 人はただ生きているだけではない。
何かの行動を繰り返している。
その行動の価値を「最大化するため努力すべき」と。


 反対の例で考えてみると、ホーキング博士の言わんとしている意味がよくわかる。


 たとえば近所にこんな老人(80歳くらい)がいる。
彼は毎日時刻表に沿って、生活をしている。
恐ろしく時刻に正確な人で、近所の人たちは、みなこう言っている。
「あの人の姿を見ると、時刻がわかります」と。


最近は少し元気がなくなってきたようだが、一日中、裏の畑の世話をしている。
家の横には、花木も10本近く、ある。
が、訪れる人もいない。
その季節になると、花木は美しい花を満開させる。
もちろん、それを見る人はいない。


 で、考える。
「彼の行動に価値はあるかないか」と。
答は、「NO!」。


 その老人の生き方の中で、何が欠けているかといえば、「価値を高める」という
努力である。
平たく言えば、自分の欲望のおもむくまま、好き勝手なことをしているだけ。


価値の高め方には、いろいろあるだろう。
新種を開発するのもよし、他人を楽しませるのもよし。
絵を描いたり、写真を撮って、それを発表するのもよし。
花の育て方の本を書くのもよし。
それが即、生きる目的ということになる。
私たちがなぜ、ここに生まれ、ここにいるかという答ということになる。


●老後のテーマ


 私たちはこの年齢まで、生きてきた。
「息(いき)てきた」のではなく、「生きてきた」。
が、その中身といえば、「行動してきた」。
その結果、多くのものを失い、同時に多くのものを得てきた。


 が、もう無駄にできるものはない。
失ったものは、しかたない。
過去を振り返り、愚痴を並べても、しかたない。
大切なことは、今、ここにあるものの価値を、最大限高めること。


 時間的価値、健康的価値、人間的価値、そして精神的価値。
そのつど、何が大切で、何がそうでないか。
もっとわかりやすく言えば、何が得で、何が損か。
それをそのつど考えながら、行動する。
それが結果として、行動の価値を高める。


 そこで最後の命題。


 が、「ただ高めるだけでは足りない」。
ホーキング博士は、「最大限」という言葉を使っている。
同時に「努力」という言葉も使っている。
ぐうたらな生活を繰り返していたのでは、行動の価値を高めることはできない。
仏教の言葉を借りるなら、ただひたすら精進(しょうじん)あるのみ。
つまりその(きびしさ)こそが、人生を光り輝くものにする。
またそれにまさる「得」はない。


 ……ということで、久々に、改めて損得論について書いてみた。


 ワイフは、横で寝支度にかかり始めた。
私はボサボサになった髪の毛のうしろを指でかきながら、こう言う。
「どうしようか?」と。
それに答えてワイフは、こう言う。
「明日の朝にしましょう」と。


 時計を見ると、12時を過ぎていた。
風呂に入るのは、「明日の朝」にする。


 窓を開けると、網戸を通って、相変わらずジャスミンの甘い香りが、
部屋の中にサーッと入ってきた。


 少し眠くなった。
疲れた。
では、みなさん、おやすみ!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 損得論 損とは何か 得とは何か)
2011/05/22


【補記】


 懸命に生きて、その先に何があるか?
それは私にもわからないし、だれにもわからない。
1人の人間の寿命が、1000年に延びてもわからないだろう。
大切なことは、1歩でも2歩でも、あるいは半歩でもよい。
その(何か)に近づくこと。

 
 が、このとき2つの考え方があるのがわかる。
「どうせ何があるかわからないなら、はじめからあきらめ、人生は楽しんだほうが
よい」と考える考え方。
昔、私の知人も、そう言った。


 「林君(=私のこと)、どんなに偉くなっても、人は死ねばおしまいだよ。
首相の名前だって、10年は残らない。だったら、今は、楽しく生きるのが
いい。苦労して首相になっても、意味はないよ」と。


 それから20年近く、彼のその言葉がときどき私の頭の中を横切る。
が、それほど悪魔的な言葉も、そうはない。
生きる力そのものを、後ろへ引く。
後退させる。
「損」を「損」とその人にわからせないまま、つまりだましながら、その人を
後退させる。
だから悪魔的。


 首相にしても、「首相になるかどうか」は、あくまでも結果。
(もちろん首相という地位を求めて首相になる人もいるだろうが……。)
大切なことは、そういうことには構わず、自分の道を進むこと。
だからもし今、その言葉を聞いたら、私はこう言い返すだろう。


 「君は、そういうふうに考えることによって、大きな損をしているのだよ」と。



Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司


(10)
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【悪しき恋愛至上主義の弊害&社会的害毒】


●映画『アジャストメント』

++++++++++++++++++

おととい、急に思い立って、映画
『アジャストメント』を観てきた。
急に思い立ったのは、ワイフ。
「4時に間に合うから、行こう」と。

で、家を出たのが、3時10分ごろ。
映画館には、10分ほど前についた。

主演は、マット・デイモン、エミリー・ブラント。
映画そのものは、かなり期待はずれ。
星は、3つの★★★。

が、その映画を観ていて、こんなことを考えた。

++++++++++++++++++

●恋愛至上主義

 神がかった『アジャストメント・ビューロウ(調整局)』は、マット・デイモンが演ずるデイビット
を、ゆくゆくは大統領にし、世界を変えようともくろむ。
調整局は、人の運命を自由に操ることができる。
しかしデイビットは、エミリー・ブラントが演ずるエリースに恋をする。

 調整局は、何とかして2人の間を裂こうとする。
さまざまな妨害工作を繰り返す。
理由は、エリースと結婚すると、デイビットは大統領になれなくなる。
そういう「運命」を、2人はかかえている。
が、2人はそうした(運命)を乗り越え、愛を誓いあう。
それを見て、つまりその愛の深さに感動して、調整局の議長(チェアマン)は、2人の運命を、2
人に任す……。

 要するに『愛が全て』という映画である。
つまり恋愛至上主義映画。

●若い男女の愛は、「愛」か?

 が、若い男女の「恋愛」は、本当に「愛」と言えるのか。
またそれでもって、「すべて」と考えてよいのか。

 端的に言えば、若い男女の「恋愛」というのは、ただの熱病。
もう少しわかりやすく言えば、本能に応じて分泌される恋愛ホルモン(フェニルエチルアミン)に
よるもの。
そこらのスズメやハト、犬や猿の恋愛とどこもちがわない。
そういうものを見て、神(天使)は感動する。
感動して、2人を許す。
最後はハッピーエンド。
つまりその部分が、おかしい。

 「恋のホルモン」について書いた原稿をさがしてみる。
少し回り道になるが、許してほしい。

●フェニルエチルアミン(2009年5月24日記)

++++++++++++++++

脳の活動は、「ニューロン」と呼ばれる
神経細胞が司っている。
それは常識だが、しかしでは、その
神経細胞が、「心」を司っているかというと、
そうではない。

最近では、心の原点は、脳内の化学物質、
つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。

私たちの心は、常に、この脳内ホルモンに
よって、影響を受け、コントロールされて
いる。
その例としてわかりやすいのが、
フェニルエチルアミンというホルモン
ということになる。
そのフェニルエチルアミンについて書いた
原稿がつぎのものである。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というわけである。
その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態、つまり平常の状態
が保たれる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、
その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。(これらの年数は、私自身の経験によるもの。)

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる(?)。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。
 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?

(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恋のホルモン)

●恋愛至上主義

 恋愛至上主義は、まさにアメリカからもたらされた、「社会毒」と考えてよい。
今の若い人たちを見ると、それがよくわかる。
「恋こそすべて」と考えている。
また「愛があれば、すべて許される」と考えている。
それがある一定の範囲内にあれば、まだよい。
それが過激なほどまでに、行きすぎてしまっている。

が、そんなものは「愛」ではない。
脳内ホルモンの奴隷になっているだけ。
さらに言えば、本能の奴隷になっているだけ。

 ただし、それが悪いというのではない。
それが原点となって、もろもろのドラマが展開される。
人間の行動の原点にもなっている。
だからあのフロイトはこういう言葉を使った。

「性的エネルギー」。

「人間のすべての行動の原点には、性的エネルギーがある」と。

 それを補完すべく、最近の大脳生理学は、つぎのように説明する。
「子どもの気力」について書いた原稿だが、「性的エネルギー」を説明するのには、わかりやす
い原稿と思う。

 またまた少し回り道をするが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの気力

+++++++++++++++++++++++

最近の研究によれば、生命の根源、つまり(生きる
力)の根源は、どうやら脳の中枢部にある、視床下部
というところにあることがわかってきた(アメリカ・
サイエンス誌・2009)。

そこから脳みそ全体に、強力なシグナルが発せられ、
それが脳みそ全体の活動の根源、しいては人間の
生命活動の根源になっている(?)。

+++++++++++++++++++++++

●強力なシグナル

「強力なシグナル」と書いたが、当然、個人差がある。
シグナルの強い人もいれば、弱い人もいる。
そう考えてよいことは、特別養護老人ホームにいる
老人たちを見ればわかる。

先日も久しぶりに、母がいたホームを訪れてみたが、
その中に1人、こんな女性がいる。
年齢は今年95歳になるという。
母が1年半前に入居したときもそうだったが、そのときも、
大きな声で、看護士や介護士さんたちに向かって、こう言って
叫んでいた。
「飯(めし)は、まだかア!」
「わっち(私)は、何も食べておらんぞ!」と。

大半の女性たちは、(そこは女性専用のフロアなので)、
ぼんやりとした表情のまま、時間をつぶしている。
何割かの女性は、大きな車椅子に横になったまま、鼻からチューブを
通して、一日中、眠っている。
そういう中なので、よけいにその女性が目立つ。

恐らく視床下部からの指令を受けて、ドーパミンが大量に分泌され、
それが線条体という組織を刺激しているのだろう。
性欲、食欲など、人間の欲望は、こうして生まれる。

おなじ高齢者なのに、たとえば私の母もそうだったが、
自分の意思をはっきりと持っている人もいれば、そうでない人もいる。
このちがいこそが、シグナルの強弱ということになる。

私という素人が考えた仮説なので、あまりあてにはならないが、
しかしそう考えると、子どもの世界がよく理解できる。

●萎縮した子ども

 たとえば親の過干渉、あるいは過関心などで精神活動そのものが、
萎縮してしまった子どもがいる。
「萎縮児」とも呼ばれる。
覇気(はき)がなく、おとなしく、静か。
自我の核形成も遅れ、つかみどころがない。
何を考え、何をしたいのかも、よくわからない。
一見、従順で、人なつっこい。
好奇心も弱く、遊びといっても、ごく限られた範囲で、
同じことしかしない。
一部が萎縮しているというよりは、人格全体が萎縮している。

あるいは何らかの原因で燃え尽きてしまった子どもや、
荷をおろしたように無気力になってしまった子どもでもよい。

そういった子どもを見ていると、脳の中枢部、つまり視床下部
あたりから出るシグナルが、弱いのではないかと考えてしまう。
このばあいは、親の過干渉、過関心などで、脳の機能そのものが、
変調したと考えられる。
(本当にそうであるかどうかは、わからないが……。)

つまり私たちが俗に言う、「気力」というのは、そういうものでは
ないか。
「やる気」と言い換えてもよい。

●視床下部

 先の女性でいえば、95歳という高齢にもかかわらず、食欲だけは、
異常に旺盛。
それが好ましいことかどうかという判断は別にするとして、視床下部
あたりから出るシグナルが、人一倍強いことだけは、確か。
それがその女性の(生きる力)の根源になっている。
だからまわりの看護士や介護士さんたちは、みな、こう言う。
「こういう人は、100歳まで生きますよ」と。

実は私の母も、今年(08年)の2月ごろまでは、その女性に、
勝るとも劣らないほどの生命力をもっていた。
一個の茶菓子を取り合って、テーブルの向かい側に座っている
別の女性と、ものを投げ合って喧嘩までしていた。
が、2月ごろ、脳梗塞を起こした。
そのあと、別人のように、静かで穏やかになってしまった。
私が見たところ、生命力そのものが、その日を境に、しぼんで
しまったかのように感ずる。

●エネルギーの根源

 こうしたことから、私たちがいうところの(気力)というのは、
脳の奥深くにある根源的な部分から生まれると考えてよい。
視床下部から発せられるシグナルならシグナルでもよい。
そのシグナルが、やがて(気力)につながっていく(?)。
(そうでないかもしれないが、ここでは、そうであるという
仮定の上で、話を進める。)
そのシグナルが強い人は、あらゆる面で旺盛な気力を示し、そうでない
人は、そうでない。

では、どうすればよいのか。

こと子どもに関していえば、子どもというのは、あるべき環境の
中で、あるべきように育てれば、自然とそういう力を発揮する。
DNAレベルで、そのようにプログラムされている。

が、ここでいう気力にしても、それをつぶすのは、簡単。
ガミガミ、ガンガンと、子どもを叱りつづければよい。
ついでに親の気分で、罵声を浴びせたり、暴力を振るったりすればよい。
無視、冷淡、育児拒否などがあれば、さらに効果的。
子どもは、確実に萎縮する。
動作そのものが、緩慢になることもある。
(あるいは同じような家庭環境であるにもかかわらず、反対に粗放化する子どももいる。
親の過干渉、過関心に抑えられてしまった子どもが萎縮児、
それに反発し、やり返した子どもが粗放児と考えるとわかりやすい。
同じような環境であるにもかかわらず、兄が萎縮し、弟が粗放化する
というケースは、多い。)

●環境

 わかりやすく言えば、(気力)を奪うのは、環境ということになる。
とくに親の接し方ということになる。
だから英語では、「教育」を、「education<educe(引き出す)」という。
つまり能力は、すべての子どもが平等にもっている。
あとはそれを(引き出すか、つぶすか)、そのちがいによって、
子どもは伸びたり、反対に萎縮したりする。
それが教育ということになる。

 なおここで「脳の機能が変調した」という言葉を使った。
これは私が使い始めた言葉だが、ひとつの例として、夜尿症(おねしょ)
がある。
本来なら睡眠中は、脳の命令によって腎臓での尿の生産が抑制される。
が、脳の機能が変調すると、その抑制に乱れが生ずる。
最近では、それが夜尿症の原因と考えられている。
だから夜尿症にしても、ここに書いた子どもの気力にしても、
(しつけ)によって、どうこうなるような問題ではない。
いわんや叱ったり、説教したりして、なおるような問題ではない。
(心の問題)というより、(大脳生理学の問題)。
そういう前提で、こうした問題を考える。

 ずいぶんと荒っぽい書き方をしてしまったが、大筋ではそれほど
まちがっていないと思う。
大切なことは、無理や強制などで、子どものやる気を奪ってしまわないこと。
一度幼児期に萎縮させてしまうと、その後遺症は一生つづくと言っても
過言ではない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
子どもの気力 子供の気力 子どものやる気 子供のやる気 視床下部 ドーパミン
ドーパミン効果 夜尿症 おねしょ 萎縮する子供 萎縮児 緩慢動作 緩慢行動)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●変化する日本人

 話をもどす。

 私たちの時代には、「家族」というときには、そこに「祖父母」がいた。
「父と母」がいた。

 が、今の若い人たちが「家族」というときには、「祖父母」はもちろん、「父と母」もいない。
いるのは、自分たち「夫婦」と「子ども」だけ。
しかしこれは日本人が昔からもっていた家族観ではない。

 たとえばよく知られた本に、『きけわだつみのこえ(声)』がある。
「第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集」(ウィキペディア百科
事典)である。
その中でも、学徒兵たちは、みな、「お父さん」「お母さん」という言葉を使っている。
「お父さん、さようなら」「お母さん、ありがとう」と。
が、それが今は、「妻」や「恋人」に置き換わった。
学徒兵の残した遺書だから、それが当然かもしれないが、私の時代にあっても、それほどちが
っていたわけではない。
結婚したあとも、妻や息子たち以上に、実家の父や母のことを心配した。

●デキスギ!

 ずいぶんと遠回りをしたが、映画『アジャストメント』にしても、しかり。
天使(運命を操作しているのは天使という想定になっている)にしても、最後は2人の男女の深
い愛(?)に、心を打たれ、自らその場から引き下がる。
つまりデキスギ!

 最近の若い人たちは、そういう映画を観ても、違和感を覚えないだろう。
当たり前のこととして、受け入れてしまうだろう。
しかし私たちの世代はちがう。
祖父母や親たちの意向を無視して、結婚に走る……ということは、事実上、ありえなかった。
たまに駆け落ち事件というのはあるにはあったが、例外。
「事件」になるほど、例外。
さらにその一世代前はというと、見合い結婚がふつうだった。
私の父と母ににしても、2度目の見合いで結婚を決めた。

 が、それが今は、逆。
「恋愛があれば、すべてが許される」と。
親の意見など、無視。
聞く耳すら、もたない。
昔から「恋は盲目」とは言うが、盲目以上の盲目になって、恋愛から、多くは結婚へと突っ走っ
ていく。

 が、責められるべきは、こうした風潮。
何も親の意見を聞けと言っているのではない。
「自由」にブレーキをかけろと言っているのではない。
恋愛イコール、欲望と考え、「欲望の奴隷になってはいけない」と、私は説く。
事実、脳下垂体から発せられる信号に応じて、ドーパミンが分泌される。
そのドーパミンの働きは、恋愛による反応も、また喫煙者やアルコール中毒者が見せる反応と
どこもちがわない。
平たく言えば、「新しい車がほしい」と思うのも、「女性を抱きたい」と思うのも、脳内のメカニズ
ムは、同じということ。

 つまりその原点には肉欲があり、その肉欲には中毒性があるということ。
恋愛至上主義の害は、すべてこの一点に集中される。

●愛論

 映画『アジャストメント』を観て、こうも考えた。
「神様も幼稚だな」と。

 あくまでもこの映画の中で表現されている「神」をいうが、「愛」の解釈そのものがちがう。
好いた、惚れたというのは、「愛」ではない。
(当の本人たちは、「愛」と思っているかもしれないが……。)
そんなことは、キリスト教の世界では、常識ではないのか?
が、この映画の中では、それが「主題」になっている。
だから「幼稚」。

 で、私はこう考えた。

 最近の若い人たちは、こういう映画ばかり見せつけられているから、それを「愛」と誤解し、恋
愛至上主義に突っ走ってしまう、と。
言うなれば(まがいものの愛)を「愛」と思い込んでしまう。
が、繰り返すが、そんな程度の恋愛なら、そこらの犬や猫でもしている。
犬や猫でもしているような恋愛をもって、「愛」と誤解する。

 ……と書くからといって、先にも書いたように、私は何も恋愛を否定しているのではない。
それはそれですばらしい。
人生の花と言ってもよい。
私たち人間だって、もとを正せば動物。
犬や猫と、それほどちがわない。
が、恋愛至上主義に走るあまり、自分を見失ってはいけない。
欲望の奴隷になってはいけない。

 たとえば恋愛するにも、ルールがある。
「自分たちさえとければそれでいい」と考えるのは、まさにルール違反。
そんな身勝手な恋愛は、それ自体が「自己愛」。
自己中心性が凝縮した状態を、「自己愛」という。

●アメリカ映画の弊害

 アメリカ人がどんな文化をもとうが、それはアメリカ人の勝手。
しかし日本には日本の風土、文化というものがある。
優劣はない。
ないが、人間はそれでよいとしても、日本の風土、文化が、それをフォローできないとき、そこ
に弊害が生まれる。
たとえば冒頭に書いた、「家族」。

 古来よりこの日本では、年老いた両親は、息子や娘たちがめんどうをみることになっていた。
少なくとも私たちの世代まではそうだった。
が、今はちがう。
「恋愛しました。結婚します。お父さん、お母さん、ハイ、さようなら!」と。

 老後の社会環境がシステムとして確立している欧米なら、まだそれも許される。
しかしこの日本では、そうでない。
老人たちだけが、ハシゴをはずされた状態になってしまう。
その結果が今。
独居老人、孤独死、無縁死……。
老人ホームに入るのにも、2年待ち、3年待ち……。

 「宗教心はありません。墓など不要です」と言うのは若い人たちの勝手だが、ものの価値観と
いうのは相互に認めあってこそ、意味をもつ。
「自分たちは正しい」と思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向かって「あなた
はまちがっている」と切り捨ててはいけない。
もちろん相手が親であっても、だ。

 が、今の若い人たちは、古い世代を平気で切り捨てる。
恋愛至上主義にしても、そうだ。
そこには親がいる。
兄弟もいる。
家族がいる。
そういうことを忘れて、それだけが「すべて」と思ってはいけない。

 映画を見終わったあと、私はこう思った。
「こういう映画ばかり観ていると、ますます恋愛至上主義者がふえるだろうな」と。
これをアメリカのたれ流す「社会毒」と言わずして、何という?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 恋愛至上主義 社会毒 はやし浩司 恋の寿命 恋愛の寿命 フェニルエチルア
ミン はやし浩司 フェニールエチルアミン フェニルエチルアミン 恋のホルモン 恋愛論)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司


(11)
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【2011年6月期・講演会・レジュメ】

●家族崩壊

+++++++++++++++++

昨夜(6月1日)、6月用の講演会の
レジュメを書いた。
未完成だが、これをたたき台にし、
今週からの講演で話したい。

++++++++++++++++++

【価値観の転換と、意識・常識の改革】

●「どうすればうちの子は……」

もう20年以上も前のこと。
1人の父親が私の家にやってきた。
そしてこう言った。

「私はあなたの本を何冊も読む暇はない。
どうすればうちの子どもをいい子にすることができるのだ。
一言で言ってくれ」と。

 そのとき私はとっさの思いつきだったが、こう答えた。
「子どもは使うことです。
使えば使うほど、いい子になりますよ」と。

 それから20年以上。
この言葉は何度も私の頭の中で反芻された。
そしてその結論は、今でも同じ。
「子どもは使えば使うほど、いい子になる」と。

(今回は4つのテーマの中から、時間の関係上、X番目のテーマについてのみ、
話す。
この問題を、常識論、意識論をからめて話す。)

2011年6月2日記

●常識

アインシュタインは、こう言った。
「その人がもっている常識などというものは、18歳のときまでにもった偏見のかたまりである」
と。

 こう言うと、「いや、ちがう。私のもっている常識は正しい」と反論する人も多い。
しかしそう断言するのは、少し待ってほしい。
私は40年前、こんな経験をした。

●オリエンタル・スタディズ

メルボルン大学の南の端に、オリエンタル・スタディズという学部があった。
「東洋学部」と訳すのが正しい。
その学部には、日本語学科というのもあった。
私はときどきその学部で、日本語を教えていた。
そんなある日、1人の学生が、私にこう聞いた。
「どうして浅野内匠頭の家来は、吉良上野介を殺害したのか」と。

 いろいろ説明してみたが、だれも納得しなかった。
「悪いのは、浅野内匠頭ではないか」
「死罪(切腹)というのは、重すぎるが、しかし当時の法律でそうなっていたのなら、しかたのな
いこと」
「もし重罪に意見があるというのなら、どうして裁判で闘わなかったのか」と。
さらに「大石内蔵助らが職を失ったのは、浅野内匠頭の責任。どうして浅野内匠頭に責任を追
及しないのか」と。

 西洋では古来、主従関係といっても、契約が基盤になっている。
家来たちは職を失えば、つぎの主君を求めて、いわゆる職探しに歩く。

 さらに困ったのは、水戸黄門。
ある学生がこう聞いた。
「もし水戸黄門が悪いことをしたらどうなるか」と。
そこで私が「水戸黄門は悪いことをしない」と答えると、教室中が騒然となってしまった。
「それはおかしい!」と。

●「釣りバカ日誌」

常識というのは、それぞれの時代を経て、熟成される。
が、こんなこともある。

 釣りバカ日誌という映画がある。
ハマちゃんとスーさんが、あちこちへ釣りに行くという映画である。
あの映画にしても、おかしな点はいくつかある。

その第一。
ハマちゃんにせよ、スーさんにせよ、妻や子どもたちを連れていくことは、まず、ない。
そこで釣りバカ日誌の大ファンという中学生がいたので、聞いてみた。
「ハマちゃんやスーさんは、奥さんを釣りに連れていったことがあるか」と。
するとその中学生は、ウ〜ンと一呼吸考えたあと、こう言った。
「ないなア〜」と。
「へんな女の人がついてくることはあるけどね」とも。

 日本では何でもない映画だが、欧米では、そういうことはありえない。
もし休日を夫たちだけで過ごしたら、それだけで離婚事由になる。
あるいは男どうしで旅館に泊まれば、同性愛者とまちがえられる。

 欧米では、夫の会社のパーティであるにせよ、夫婦同伴が原則である(注※1)。

●出世主義から家族主義

日本が劇的に変化し始めたのは、1999年のことである。
その年のはじめ、「仕事より家族のほうが大切」と答えた人が、40%を超えた(文部省調査)。
その年の終わりには、45%になった(中日新聞調査)。
それが2007年には、75%(読売新聞・11月)。
これは中日新聞社が調査した。
こうした変化を、当時、「サイレント革命」という言葉を使って説明する人がいた。
そう、まさに「革命」。
今では、どんな調査結果をみても、80〜90%の人が、そう考えている。

 が、私たちの時代には、そうでなかった。
仕事か家族かと聞かれれば、みな、迷わず、「仕事」と答えた。
だからこんなことがあった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考2)

99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、40%の日本人が、
「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化
である。

(参考2)2007年11月11日、読売新聞

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざというとき、
家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大きく上回っ
た。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親と子供
だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私が三井物産という会社にいたときのこと。
当時はまだ、「単身赴任」という言葉はなかった。
2年以内の海外出張を「短期出張」と呼んだ。
短期主張は、単身赴任が原則だった。
だから同僚を大阪の伊丹空港へ見送りにいくと、こんな光景がよく見られた。
「あなたア、がんばってきてねエ!」
「お前もがんばれよ!」と。

 今とちがい、日本は、まだ貧しかった。
休暇ごとに日本へ帰ってくるなどということは、できなかった。
が、2年で帰ってこられるという保証はなかった。
当時は、「短期出張のハシゴ」というのもあった。
赴任先の外地から、また別の外地へ短期出張で飛ばされる。
だからどこの商社でもそうだったが、一度外国へ出ると、4年は戻れなかった。

 その一例として、つまり日本のもつ後進性を表す一例として、1999年に入って、単身赴任に
よる被害について、損害賠償事件に対して、こんな判決があった。
ある男性が、「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校にな
るなど、さまざまな苦痛を受けた」として、会社を訴えた。
それに対して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決を言いわたした。
いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。
もう何をか言わんや、である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

 一方、日本にはこんな話がある。
以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われた」と訴えた男性がいた。
東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。
いわく「東京から名古屋への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、
さまざまな苦痛を受けた」と。単身赴任は、6年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。
子どもでも、「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。
仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめられた部分も多い。
今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。
私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」
と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。
「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてルービ
ン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。
たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカでは学校の先生が、親に子どもの落第をすす
めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親はそのほうが子どものためになると判断する。

が、日本ではそうではない。
軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。
こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。
言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ある中国人夫婦

 話を先に進める前に、ここで意識について、簡単な実験をしてみたい。
常識の実験と言い換えてもよい。
まず、こんな話。
それを聞いて、みなさんは、どう考えるか、それを静かに心の中をさぐってみてほしい。
みなさんは、みなさんの常識で、まず判断してみてほしい。

 こんな話。
 
 ある商店街に、1組の中国人夫婦が移り住んできた。
中華料理店を始めた。
当初はそれなりに繁盛していたが、そのうち商店街全体が不況の嵐の中に飲み込まれた。
一軒二軒と、シャッターをおろし始めた。
そのときのこと。

 となりの美容院が、ときどき店を閉めるようになった。
それに対して、中国人夫婦が激怒した。
となりの美容院へすごい剣幕で、怒鳴り込んでいった。
「店、開けるあるね!」と。
それだけではない。
道をはさんで、菓子屋があった。
昔からの菓子屋で、その菓子屋だけは客足が落ちなかった。
そこで中国人夫婦は、今度は菓子屋へ行き、こう言ったという。
「客を回してほしい」と。

 美容院を経営している女性は、この中国人夫婦に憤慨した。
菓子屋を経営している夫婦も、憤慨した。
「何という、常識知らず!」と。

●常識

 この話を聞いた私も、最初は、そう思った。
「どう考えても、この中国人夫婦のとった行動は、常識にはずれている」と。
が、もしこんな話を知ったら、たぶん、あなたは別の考え方をするようになるだろう。
こんな話だ。

●周囲との調和

 この4月にオーストラリアへ行ったときのこと。
ボーダータウンという、南オーストラリア州とビクトリア州の、ちょうど州境にある町へ立ち寄っ
た。
友人がそこに住んでいる。

 で、少し郊外へ行くと、みな、日本では想像もつかない広い土地に、広い家を建てて住んでい
る。
土地だけでも、5、6エーカー。
日本風に言えば、数千坪から1万坪。
家も広い。
T氏の家は、居間だけでも40畳以上。
それにどれも20畳以上もある部屋が、5〜8つとつづいている。
そこで私が心配になって、こう聞いた。

「税金はどうなっているのか?」と。

 さぞかし税金が高いだろうと思ってそう聞いた。
が、答えは意外なものだった。
「家の広さで、税金は決まらない」と。

 オーストラリアでは、ランド・バリュアー(Land Valuer)という人が税金を査定する。
「この家なら、いくらで売れるか」ということを基準にして、決める。
しかも家を買う側は、売買価格の1.4%の税金を払うだけ(ビクトリア州)。
売るほうには、税金はかからない。

 あとは毎年、決められた税金を払うが、その中心は、ゴミ収集のための税金。
またその程度。

 そこでその地域の住人たちは、家を含めた環境の価値を高めようとする。
価値が高くなれば、売るときに有利。
たとえばとなりの家の芝生が、だらしない状態になっていると、隣人たちがすぐ文句を言いに行
く。
実は私の二男も現在、アメリカに住んでいる。
その二男もこう言っていた。
「芝生を伸ばし放題にしておくと、すぐ文句を言われる」と。
だから二男は、毎週のように芝を刈っている。

 が、この日本では、そうではない。
となりがどんな家を建てようが、それはとなりの人の勝手。
イタリヤ風であろうが、和風であろうが、あるいはビルであろうが、その人の勝手。
土地の価値にしても、駅に近ければ近いほど、原則として高い。

 中国では、土地は、原則として、国のもの。
家にしても、建ててから70年は住めるという条件がつく。
が、思考回路は、欧米人のそれに近い。
町の商店街にしても、商店街全体がたがいにもり立てあいながら発展していくもの。
そういう考え方をする。

 そこで先の中国人夫婦のような考え方をするようになる。
「シャッターをおろせば、その影響は自分の家にも及ぶ。だから許せない」と。
また客にしても、たがいに回しあう。
それが中国では常識になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

Dear Hiroshi,
ヒロシへ

In Australia there are "Commonwealth" (national) taxes and State taxes (eg. State of 
Victoria). 
オーストラリアには、連邦税と州税の2つがある。
When I buy a house in Victoria I must pay a tax ("stamp duty") of 1.4% of the value. 
私がビクトリア州で家を買うとき、その家の価値の1・4%分に相当する、「スタンプ税」を払う。
No need to pay when selling.
家を売るときは、払わなくてもよい。
That is a State tax.
これは「州税」。
Once I own a house I must pay annual "rates" to the local council. 
家を所有するときは、地方局に、毎年「率税」を支払わなければならない。
This is partly calculated on the land value but also includes fees for garbage collection.
これは土地の価値に応じて別に計算されるが、それには、ゴミ収集の費用も含まれる。
I pay no other tax on my own home but if I own a second property then I must pay "land tax
" on the second property according to the value of the property. 
私はこれ以外には、税金を払っていないが、もし2番目の不動産を所有するときは、「土地税」
を、その土地の価値に応じて、払わなければならない。
That is a State tax.
これは「州税」。
If my business is buying and selling properties then I will be taxed on the profit just like any 
other business. 
もし私が不動産屋を経営しているなら、他のビジネスと同じように、所得税が課せられる。
That is a Commonwealth tax.
これは「連邦税」。
When calculating land value, the local council or the State government will use a 
professional land valuer. 
土地の価値を計算するとき、地方局と州政府は、専門の「土地査定人」を使う。
The vlauer will decide how much the house is worth if it was sold. 
土地査定人は、もしその家が売られるなら、いくらの価値があるかを査定する。
That becomes the "taxable value". 
これが「課税評価価値」となる。
The valuation is fair and is usually lower than a real sale value.
課税評価価値は、公正でで、ふつう実際の売買価格よりも低い。
In my case I pay the annual "rates" to my local council. 
私のばあい、毎年地方局に、「率」を払っている。
In return they arrange for garbage collection, provide various services such as a library and 
assistance for old people etc.
その代わり、彼らはゴミ収集をし、図書館や、老人介護などの種々のサービスを提供してくれ
る。
It is a bit complicated, I suppose.
少し複雑かな。
D
Dより

The government knows that owning a house is important for people and people will vote for 
a party which makes it easier to own a house.
政府は、家の所有は、人々にとって重要と心得ているし、人々は家を所有しやすくしてくれる正
当に票を入れる。
So taxes are not too high. 
だから税金は、そんなに高くない。
Owning a home is like a sacred thing for Aussies.
オーストラリア人にとっては、家をもつということは、神聖なことだ。
The difficult thing for home-owners is bank interest rates for loans.
家の所有者にとって、難しいことは、銀行からの借入金の利率ということになる。
Maybe that is more a problem than taxes. 
たぶんそれのほうが、税金より大きな問題だ。
Anyway people talk about interest rates more than taxes.
オーストラリア人は、税金より、借り入れ金利のほうに関心がある。

Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中国の土地税制について

++++++++++++++++++++

D君は、オーストラリアでも中国研究の第一人者でもある。
中国の土地税制についても教えてくれた。

++++++++++++++++++++

Dear mate,
友へ、

In China, people do not pay tax for their house but the system is different. 
中国では、自分の所有する家には税金を払わない。システムが異なる。
Firstly, they can only buy a house not the land underneath. 
第一に、彼らは家を買うのであり、その下の土地は買わない。
The land belongs to the government. 
土地は政府に属する。
Secondly, they can only buy a house for 70 years. 
第二に、彼らは70年間、家を買う。(最長限度は70年。)
So in China, a big company or corrupt official can easily push people of the land which they 
are living on.
それで、中国では、大きな会社や役人は、そこに住んでいる人々を容易に追い出すことができ
る。
When a company wants to build a factory in a village, there is a negotiation over price but 
the local government is in charge of everything and they can favour the powerful side. 
会社が村に工場を建てるとき、価格の交渉をするが、地方政府はすべてに責任をもち、力の
あるほうに味方することができる。
So many farmers sell as soon as they receive a good offer and move into a town. 
それで多くの納付は、よい条件がつけば、すぐ家を売り、町へ移動する。
Eventually there will be a shortage of good farming land.
結果的に、農地が不足することになるだろう。
One day the system in China will crash down like a shaky old house.
いつか中国のこのシステムは、がたがたの古い家のように崩壊するだろう。
D
Dより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識の変化

 どちらが正しいとか、正しくないとか、そういうことではない。
しかしここまで話を聞くと、多くの方は、こう思うにちがいない。
「最初は、中国人夫婦の言い分は、常識はずれと思った。
が、そうでもないのではないか」と。

 私も知れば知るほど、むしろ中国人夫婦の言い分のほうが、正しいように思えてきた。
日本人は、「自分がどんな家を建てようが、自分の勝手」と考える。
となり近所の家との調和を考えて、家を立てる人はまずいない。
店を閉めるときもそうだ。

 また「地域」という考え方も、希薄。
商店街の店々が、客を回しあうという話は、最近ではめったに聞かなくなった。
……というか、全国的に、町の通りに並ぶ商店街は、つぎつぎと姿を消しつつある。

●意識

 長い前置きになったが、意識というのは、絶対的なものではないということ。
当然、常識にも絶対的なものは、ない。
私の経験をもとに、話を進めてみたい。

●親のめんどうをみる

 4年おきに、内閣府(旧総理府)は、青年の意識調査をしている。
それによれば「将来、親のめんどうをみる」と考えている若者は、どんどんと減っている。
その多くは、「経済的な余裕があれば、みる」と答えている。

 将来、どんなことがあっても、親のめんどうをみる……28%(日本人・内閣府、平成21年調
査)。

 この数字がいかに衝撃的なものであるかは、他の国々の若者たちのそれと比較してみると
わかる。
私たちが内心では、「さぞかし低いだろうな」と思っているアメリカ人にしても、64%。
アジア各国の若者についてみると、軒並み、80%前後。

 が、この数字はどう考えてもおかしい。
日本は1970年代から高度成長の大波に乗り、世界の歴史の中でもまれにみるほどの大発
展を遂げた。
当然、その時代に生まれた子どもたち、つまりこの会場にいるお父さん、お母さんたちは、たい
へん恵まれた環境の中で、生まれ育った。

 つまり親にもっとも感謝してよい世代の人たちということになる。
そういう人たちが、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
が、現実問題として、経済的に余裕のある人は少ない。
とくに若い世代の人たちは、そうだ。
みな、目一杯の生活をしている。
車にせよ、家財にせよ、あって当たり前の時代に生きている。
私たちの時代と比較するのもヤボなことはよく知っている。
しかし私たちの新婚時代は、たとえばボットン便所から始まっている。
が、やがて小さなアパートに移った。
6畳と4畳だけの、小さなアパートだった。
そこで私ははじめて、水洗トイレの家に住んだ。
うれしかった。
何度も水を流し、においのしないトイレに感動した。

 そういう積み重ねがあった。
が、何よりも大きな違いは、親に対する考え方である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●第8回世界青年意識調査より


(将来、親のめんどうをみるか?)


年老いた親を養うことの意識は、欧米に比べ、日・韓で弱い。


★年老いた親を養うことについてどう思うか


『どんなことをしてでも親を養う』(1)
イギリス  66.0%、
アメリカ  63.5%、
フランス  50.8%、
韓国  35.2%、
日本  28.3%


★将来、子どもにめんどうをみてもらいたいか?


自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい日本の青年は5割弱で、韓国に次いで低い。


★「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか


『そう思う』(2)
イギリス  70.1%、
アメリカ  67.5%、
フランス  62.3%、
日本  47.2%、
韓国  41.2%
(以上、内閣府、平成21年調査より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●収入の半分は、実家へ

 私たちの時代に、だれかがこう聞いたとする。
「君は将来、親のめんどうをみるか」と。
もしそんなことを聞かれたら、私は迷わず、こう答えたであろう。
「バカなことを聞くな!」と。

 「当然のこと」という意味で、そう答えたであろう。

 事実、私は浜松市に住むようになってから、収入の約半分を、実家に送った。
結婚前からそうしていた。
現在のワイフと結婚するときも、それが条件だった。
だからワイフも、何も文句を言わないで、収入の半分を実家へ送った。
それだけではない。
私の母は、ときどき私のアパートへ来ては、現金をもって帰っていった。
私の土地を勝手に売ってしまったこともある。
それについて私が泣いて抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。
「親が先祖を守るために、息子の金を使って、何が悪い!」と。

 母を責めているのではない。
母は母で、その当時の常識に従って生きていた。
今の私が自分の常識に従って生きているように。
今のあなたがたが、自分の常識に従って生きているように。

●出世主義から家族主義へ

戦時中から戦後へ。
日本は敗戦により、大きく変わった。
が、そう見えるのは、表面的な部分だけ。
つまり包装紙が変わっただけ。

「お国のため」が、「会社のため」になった。
「兵士」は、「企業戦士」になった。
それまでの「神国日本」は、「金権日本」になった。

 こうして戦後生まれの世代、つまり団塊の世代と言われる私たちの世代は、会社人間とし
て、社会へと巣立っていった。
だから当時の学校では、卒業式などには、決まってこう言われた。
「社会で役立つ人間になってください」と。
耳にタコができるほど、私たちはそれを聞かされた。

 が、これではいけない。
個人が組織の犠牲になってはいけない。
個人が家族の犠牲になってはいけない。

 たとえば私などは、「親孝行」という言葉も、それこそ耳にタコができるほど、聞かされて育っ
た。
それを如実に表す言葉が、「産んでやった」「育ててやった」という、あの言葉である。
あの言葉ほど、恩着せがましく、同時に、真綿で首をしめるような言葉はない。
だからこそ、それが私の常識となり、給料を手にするようになってからも、収入の半分を実家
へ送るということにつながっていった。

●反動

だから私は3人の息子たちを育てながらも、そういう言葉は、絶対に口にしないと誓った。
事実、言ったことはない。
反対に、こう言った。
「お前たちの人生は、お前たちのもの。お前たちはお前たちの人生を、自分の好きなように生
きろ」と。

が、変革は、若者たちのほうから始まった。
その象徴的な人物が、尾崎豊である。

●尾崎豊の『卒業』

「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った……」という、あの歌である。
私ははじめてあの歌を聴いたとき、ふつうでない衝撃を受けた。
「ああいう歌を歌うから、学校の窓ガラスが割られるのだ」と。

 が、それはまさに若者たちの、世代闘争の始まりだった。
少し時代が逆行するが、私たちの時代は、60年安保、70年安保を経験した。
それは権力との闘いだった。
何かわからない。
わからないが、自分たちの体をがんじがらめにしているものと闘った。
よくイデオロギー(政治的信条)が問題になったが、イデオロギーをもっているのは、学生の中
でもほんの一部。
大部分の学生たちは、言うなれば、祭り騒ぎのひとつとして、闘争に参加した。
「祭り騒ぎ」というのは、少し言い過ぎかもしれない。
しかし今、振り返ってみると、そういう印象をもつ。

 で、私たちの時代を、反権力闘争の時代とするなら、尾崎豊らが提起した闘争は、反世代闘
争ということになる。
旧態の価値観を打ち破り、自分たちの時代を確立しようとした。
わかりやすく言えば、自分たちの世代を、それまでの世代と、切り離そうとした。

 が、これはその世代の人たちにとっては、不幸なことでもあった。

●世代闘争

 知恵や知識は、世代から世代へと、受け継がれていく、
が、それを自ら断ち切ってしまう。
切るだけならまだしも、古い世代の知恵や知識を、意味のないもの、価値のないものとして、排
斥してしまう。
事実、排斥した。
古い世代の言葉に耳を傾けなくなった。
つまり断ち切った世代は、すべてを、ゼロから始めなければならない。

●行き過ぎた価値観

 こうして尾崎豊の世代は、より過激になっていった。
というより、尾崎豊は、その時代の若者たちの心を代弁した。
共感を得たというのは、そういう意味。
CBSソニーに問い合わせたところ、あの『卒業』は、シングル盤も含めて、200万枚以上も売
れたという。

 誤解がないように申し添えておくが、私自身は、尾崎豊が大好きである。
『卒業』も大好きである。

 で、若者たちは、世代闘争を繰り返し、自分たちの時代を確立した。
その結果が、今のみなさんの世代ということになる。
新しい価値観を構築した。

●2つの問題

 が、今、ここで大きな問題が起きてきた。
私はその問題を、つぎの2つに集約する。

ひとつは、(1)行き過ぎた家族主義。
もうひとつは、(2)欲望至上主義。

 行き過ぎた家族主義については、先に少し触れた。
日本が行動性長期にさしかかるころ、「核家族」という言葉が生まれた。
それがしばらくすると、「カプセル家族」という言葉に置き換わった。

 核家族というのは、夫婦と子どもたちだけで構成される家族をいう。
カプセル家族というのは、硬いカラの中に閉じこもってしまい、独自の価値観を極端化してしま
う家族をいう。
高学歴の父母に、多く見られた。
「私たちの育て方が正しい」と言いながら、その返す刀で、相手の価値観を否定する。
教師すらも、「下」に置くことによって、自分流の育児観をごり押しする。
具体的には、その派生として、「教育ママ」という言葉が生まれた。
「モンスターママ」という言葉も生まれた。

 が、問題はこれだけでは収まらなかった。
行き過ぎた家族主義の結果として、その「家族」から、「祖父母」の姿が消えた。
今、若い世代の人たちが使う「家族」という言葉の中には、「祖父母」、つまり自分たちの両親
の姿はない。
祖父母は、つまり自分の親たちは、家族ではない。

 このことを短絡的に、独居老人、孤独死、無縁死と結びつけるのは危険なことである。
ある社会学者の推計によれば、今後約60%の老人が、孤独死するという。
しかも発見までの平均日数は、6日。

 こういう話をすると、ここにいるみなさんは、「私はだいじょうぶ」と思うかもしれない。
「私と子どもの関係は絶対。親子の絆も太い」と。
しかしそれはどうか。
ここにあげた60%という数字は、私たちの世代の数字ではなく、現在の40代、50代の人たち
の数字である。

ともあれ家族、とくに祖父母とその息子、娘の間の絆が、もろく壊れやすくなっているのは、事
実。
それが先にも書いた、「経済的に余裕があれば……」という言葉につながっていく。
この言葉を裏から読むと、「経済的に余裕がなければ、親のめんどうはみない」。
さらには「親の恩も遺産しだい」という考え方につながっていく。

 ついでながら、世代闘争をした結果、老人は社会の隅に追いやられてしまった。
本来なら政治がそうした社会的欠陥を補完しなければならない。
が、その政治が追いついていない。
その結果が、現在の老人福祉政策ということになる。

 昔は、息子や娘が親の老後のめんどうをみた。
今は、みない。
そのかわり……という部分が未完成のまま、労時福祉政策だけがアタフタとしている。
たとえば私の近所にある特別養護老人ホームにしても、症状にもよるが、2年待ち、3年待ちと
いうのは、ザラ。
順番にしても、100番待ちという状況がつづいている(浜松市中区長寿保険課調べ)。

●欲望
 
 もうひとつは、欲望至上主義。
その代表的なものが、恋愛至上主義。

 韓流ブームに代表されるように、今の日本は、恋愛市場主義一色。
たがいに愛しあっていれば、何でも許される、と。
昔で言う駆け落ちなど、いまどき珍しくも何ともない。
結婚するについても、ほとんどが事後承諾。
親の許可を求めたり、親の意見を聞く子どもは、皆無。
まずいない。
皆無ということは、実は、この会場に来ているあなたがた自身が、いちばんよく知っているは
ず。

 ある男性は、実家へ規制するたびに、別の女性を連れてきた。
そしてそのたびに親にこう言ったという。
「パパ、(彼女の)名前をまちがえないでよ」と。

 そして別のある日のこと。
また突然、別の女性を連れてきて、「結婚することにしたから、よろしく」と。

 ……と書いても、今の若い人たちには、理解できないだろう。
「どこが悪いのだ」と。
それが冒頭で話した、「常識」ということになる。
「意識」そのものが、ちがう。

 私たちの時代には、それがよかったとは思っていないが、しかし親の承諾なしには結婚はで
きなかった。
仮に恋人ができたとしても、そこには「実家」という大きな関門があった。
私自身にしても、実家の父や母のことを考えるあまり、一度、ある女性との結婚を断念してい
る。
親が反対したわけではないが、自ら、そうした。
それが私たちの時代には、常識だった。

●フェニルエチルアミン

最近の脳科学では、感情は、脳ホルモンによるものというのが、定説になりつつある。
恋愛とて例外ではない。
恋愛も、脳ホルモンによるもの。
それがフェニルエチルアミンである。

 その時期になると、男や女は、熱烈な恋愛をする。
身を焦がすような、甘い陶酔感。
当の本人たちは、自分の意思で恋愛しているように思っているかもしれない。
しかし実は、脳ホルモンの奴隷になっているだけ。
それが悪いというのではない。
人間には、動物として、種族を後世に残すという重大な任務がある。
またそれがあるから、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに価値がある。

 たとえば10年ほど前、『タイタニック』という映画が、大ヒットした。
あの映画の中に、もしジャックとローズがいなかったら、あの映画はただの船の沈没映画にな
っていただろう。

 しかし何ごとも行き過ぎはよくない。
恋愛はすばらしい。
人生の花。
しかしそれに溺れてしまってはいけない。
恋愛至上主義に走るということは、欲望の奴隷になることを意味する。
酒に溺れたり、タバコに溺れるのと同じ。
最近の脳科学によれば、視床下部から発せられたシグナルに応じて、ドーパミンが分泌され
る。
それが生きる原動力にもなっている。
フロイトが説いた「性的エネルギー」にもつながる。
しかしそれが行き過ぎると、先にも書いたように中毒性をもつ。
麻薬性をもつ。

 わかりやすく言えば、自分を見失う。
自分が自分であって、自分でなくなる。
恋は盲目とはいうが、盲目程度ではすまなくなる。
だから、こわい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。

 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。

 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。
食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まって、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。
わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容体が形成されるかによって決まる。

たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それぞれ別の受容体が形成されること
がわかっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●これから……

まず念頭に置くべきことは、私たちがもっている常識というのは、絶対的なものではないという
こと。
その常識を疑う。
私やあなたがもっている常識を疑う。
いろいろな弊害が生まれてくれば、なおさら、である。

 その常識の基本となっている意識。
その意識を変えることは可能である。
その一例として、冒頭で、中国人夫婦の話をした。
つまりこの話の中に、問題を解くヒントが隠されている。

 方法は、(1)常識のおかしさに気づくこと。
つぎにそれに気づいたら、(2)意識を変える。
そのために自分の心を風通しのよいものにする。
視野を広くして、他人に考えに進んで耳を傾ける。
そういうことをわかってもらいため、冒頭で、忠臣蔵の話をした。
水戸黄門や釣りバカ日誌の話をした。

 同じように、私たちが今もっている家族観、育児観をながめなおしてみてほしい。
意識が変われば、ものの見方が180度変わるということもよくある。
同時に常識も、変わる。

 今日の講演では、つぎの2つの焦点をしぼって、みなさんに伝えたい。

(1)家族主義から新家族主義へ

 これから子どもたちに「家族」の話をするときは、そこに「祖父母」、つまりあなたがたの両親
の姿を加える。
これはあなた自身のためでもある。
それがわからなければ、今の自分の年齢に、子どもが社会人になるまでの年数を足してみれ
ばよい。
「子育てがやっと終わった」と思った瞬間、そこに待っているのは、あなた自身の「老後」であ
る。
今度は、あなた自身が、その「祖父母」ということになる。

が、今、みなさんは、自分の姿と「下」、つまり子どもの姿しか見ていない。
しかしそれではいけない。
「家族」というときは、そこには当然、「祖父母」も含まれなければならない。
これが第一。

(2)欲望至上主義の是正

 欲望の追求には、ブレーキをかけなけばならない。
そのひとつとして、「恋愛」を例にあげた。
恋愛はけっして、すべてに優先されるべきものではない。
たとえそれが身を焦がすほどつらいものであっても、だ。
あなたであってあなたでない部分が、あなたを操っているだけ。

 ニコチン中毒や、アルコール中毒と、メカニズム的には同じ。
脳の中の線条体というところに受容体ができ、そこで条件反射運動を起こしているだけ。
欲望の奴隷になってよいことは、何もない。

 で、恋愛をひとつの例としてあげた。
もちろん恋愛を、欲望と考えてよいかどうかという点については、異論、反論もあるだろう。
しかしフロイト学説に従うなら、「性的エネルギー」は、すべての欲望の原点になっている。
そういう意味で、ここで恋愛をひとつの例として、考えてみた。
つまり「恋愛」という仮面にだまされてはいけない。
それが正当化されるのを許してはいけない。

●では、どうすればよいのか

子育てには、多くの誤解がある。
たとえば「すなおな子ども」という言葉がある。
「すなおな子ども」というと、ほとんどの人は、親や先生に従順で、親や先生の言うことを、ハイ
ハイと聞く子どもと考えている。
が、これは誤解。

 心理学の世界で「すなおな子ども」というときは、情意、つまり「心」の状態と、顔の表情が一
致している子どもをいう。
うれしいときには、うれしそうな顔をする。
悲しいときには、悲しそうな顔をする。
そういう表現が、自然な形でできる子どもを、すなおな子どもとい。

 つぎにやさしさ。

●やさしさ

「やさしい子ども」というと、たとえば柔和でおだやかな子どもを想像する人は多い。
が、そういう子どもを、「やさしい子ども」とは言わない。
たとえばブランコに乗ってたとする。
そのとき別の誰かがやってきて、ブランコを横取りしたとする。
そういうとき、「いいよ……」と言って、ブランコを明け渡してしまう。
そういう子どもを、やさしい子どもとは言わない。
またそういう子どもほど、また別のところでさまざまな問題を引き起こすことがわかっている。

 では、どういう子どもをやさしい子どもというか。

 子どもにとって「やさしさ」というのは、より相手の立場になって考えられる子どもをいう。
たとえばショッピングセンターで、ものを買うときも、いつもだれかのことを考えて買う。
「これはお父さんの好物だね」とか、「これを買ってあげると、お兄ちゃんが喜ぶね」と。
もう少し専門的に言えば、より自己中心的でない子どもを、「やさしい子ども」という。
またそれができる子どもを、(子どもに限らないが)、人格の完成度の高い子どもという。
人格指数、つまり人格の完成度を知る、ひとつのバロメーターにもなっている。

 が、今日の話に関係しているのが、忍耐力ということになる。
その忍耐力も、よく誤解される。

●忍耐力

よく「うちの子はサッカーだと一日中しています。
忍耐力はあるはずです。
そういう力を、勉強に向けさせたいが、どうしたらいいか」と相談してくる親がいる。
しかしそういう力は、忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。

 子どもにとって、またおとなにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。
ためしに今日、家に帰ったら、子どもにこう言ってみるとよい。
「台所の生ゴミ、きれいにして」と。
「風呂場にたまった毛玉を掃除して」でもよい。

 そのときあなたの子どもが、何もためらわずそれができたとしたら、あなたの子どもは忍耐力
のある子どもということになる。

●では、どうするか

 それが冒頭にあげた話、ということになる。

 子どもは使う。
使って使って、使いまくる。
長い前置きと、回り道をしたが、これが結局は、この講演の結論ということになる。

『子どもは使う』。

 ついでに言うなら、古来、この日本では、子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせ
ることというふうに考える。
「楽」イコール、「楽しませること」と考える人も多い。
それに拍車がかかったのが、高度成長期に入ってから。
それこそ子どもが生まれると、蝶よ花よと手をかけた。
時間をかけた。
お金もかけた。

 その結果、私たちの時代で、「ドラ息子」「ドラ娘」と呼ばれる子どもたちがふえた。
ふえたというより、そういう子どもが主流になった。
すでに20年前には、そうでない子どもは、さがさなければならないほど、少なくなった。
今では、高校生にしても、親に感謝しながら通っている子どもはいない。
大学生でもいない。
お金をもらうときだけは、「ありがとう」と言う。
しかしそこまで。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どももいる。
それもそのはず。

 現在の子どもたちは、そしてここにいるお父さん、お母さんは、子どものときから「勉強しろ」
「勉強しろ」と言われて育っている。
ある女子高校生は、親が「大学進学をあきらめてくれ」と言われたとき、それに猛烈に反発し
た。
「子どもを大学へやるのは、親の役目。借金でも何でもして、私を大学へやって!」と。

 今は、そういう時代である。
子どもが社会人になりとき、その支度金まで、親が出す。
結婚式の費用も、親が出す。
さらに子どもが生まれると、その生活費まで、援助する。

 私たち団塊の世代は、こういう現状を見ながら、こうこぼす。

「私たちは両取られの世代」と。
親に取られ、子どもたちに取られ……と。
なぜ、こうなってしまったか。
それが言うまでもなく、常識であり、意識であるということになる。
それがどのようなものであれ、一度はその常識を疑ってみる。
そして「おかしい」と感じたら、今度は意識を変えてみる。
そのヒントとして、今日は常識論、意識論にからめて、子どもをどう育てたらよいかを話してみ
た。

 これからの子育てのひとつの指針になればうれしい。
なぜならこの問題だけは、あなたがたみなさんの近未来の老後に直結する問題である。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(注※1)

●男は仕事、女は家庭?(2008年、調査)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(2008年8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほど、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%

そうは思わない……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに
対して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)
●ああ、父親たるものは……!
++++++++++++++++++
平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

(3)人格の完成

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。 

(1) 自己管理能力 
(2) 良好な対人関係 
(3) 他者との良好な共感性

とくに需要なのが(3)の共感性(より愛他的、非自己中心性)

(1)他人への同調性、調和性、同情性、共感性があるか。
(2)自己統制力があり、自分をしっかりとコントロールできるか。
(3)楽観的な人生観をもち、他人と良好な人間関係を築くことができるか。
(4)現実検証能力があり、自分の立場を客観的に認知できるか。
(5)柔軟な思考力があり、与えられた環境にすなおに順応することができるか。
(6)苦労に耐える力があり、目標に向かって、努力することができるか。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)

●ああ、父親たるものは……!

++++++++++++++++++

平成10年度の『青少年白書』によれば、
中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

この調査で注意しなければならないことは、
「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、
「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」
ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。



(2011年6月2日、作成)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 常識論 意識論 常識改革 意識改革 はやし浩司 父親のようになりたくない 
はやし浩司 父親を尊敬していない 総理府調査 青少年白書)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

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韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。

申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。見慣れない
ものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感することが、より重
要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。

浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。

が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。

今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

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●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。

いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。
 
●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される

(2)子どもたちを尊敬する

(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない
 
 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬してい
ない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。


★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に
対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。
 
 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

 「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

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司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)






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児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
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