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【孤独は第2の人生のための産道】

●BW公開教室byはやし浩司

 現在、もっとも力を入れているのが、YOUTUBE。
昨年度までは、幼児クラスを中心に録画し、それをYOUTUBEに載せていた。
が、今年からは、小学1年生クラスも録画するようにした。
その分、忙しくなった。
が、しかしそれ以上に楽しい。

 ひとつには、アクセス数がふえたこと。
3月(2011年)末までは、400〜600件/日を推移していた。
それが4月に入ってから、つまり小学1年生クラスを録画するようになってから、800〜1000
件/日へと増えた。
この先も、どんどんと増えそうな気配である。
YOUTUBEでは、「インサイト情報」として、それをグラフ化して示してくれる。

 で、外国からのアクセスも、多い。
コメント欄には、いろいろな書き込みがある。
が、今までは日本語を勉強している人のものばかりだった。
そのたびに「そういう使い方もあるのだなあ」と思った。
もともとは孫の芽衣のために開いたホームページである。
しかし肝心の芽衣からの反応は、ゼロ。
昨夜も二男とスカイプ(テレビ電話)で話したが、見ている気配はなかった。
(残念!)

 少しやる気をなくしていたところへ、上海に住む工藤さんという方から、コメントが届いた。
5歳になる息子さんが、私のYOUTUBEを利用しているという。
その学習している様子を、同じくYOUTUBEに載せて、送ってくれた。

 うれしかった・・・というより、驚いた。
教室の子どもたちと同じように、いっしょになって声をあげているではないか!
表情も、すばらしい。
それを見たとき、ひとつまた、インターネットの世界が広がったように感じた。
双方向性というか、ほかの通信媒体ではまねできない芸当である。
私はさっそく、工藤さんからのYOUTUBEを、公開教室に並べて掲載した。
息子さんが画面に向かって勉強している顔を、そのまま紹介させてもらった。
興味のある方は、どうか「公開教室・2011」を見てほしい。

●休み時間

 さて、2時間。
今、私は2時間の休み時間をもっている。
この2時間を、どう使うか。
先ほど、ワイフが書斎へお茶を届けてくれた。
そのときこう言った。
「至極の時だ」と。

 何か、書きたい。
何を書こうか。
小説に挑戦してみようか。
それとも評論を書いてみようか。

 評論といえば、このところ北朝鮮の動きがどうも怪しい。
何かをたくらんでいる。
中国政府の高官が、北朝鮮の高官に、わざわざこう警告した。
「冒険主義に走るな」と。

 この警告を裏から読むと、「今は、静かにしていろ」となる。
時折しも、韓国軍が、金日成や金正日らの写真を標的にした射撃訓練をしているのがわかっ
た。
これに北朝鮮が、大激怒。
連日、「ただではすまさない」と騒いでいる。

 たしかに国家元首の写真を標的にした射撃訓練は、ま・ず・い。
北朝鮮が怒って当たり前・・・と書きたいが、北朝鮮だって、言いたい放題、書きたい放題のこ
とをしている。
韓国のイ大統領を、「逆賊」と呼んでいる。

 が、こういうときが、あぶない。
一触即発というよりは、ささいなことがきっかけとなり、導火線に火をつける。
加えて北朝鮮の経済状況は、目下、どん底。
最悪。
国民の不満をそらすため、北朝鮮が韓国に向かって軍事的冒険をしかけてくる可能性は、き
わめて高い。
今が、そのとき。

 ・・・というようなことを書いても、おもしろくない。
政治の話は嫌われる。
よくわかっている。
だからこの話は、ここまで。

●浜岡原発、反対!

 3・11大震災以来、私は浜岡原発反対派になった。
原発が危険というより、管理・維持技術のおそまつさに、驚いた。
防災訓練の様子を見て、さらに驚いた。
中部電力は、原子炉に水をかけていた。
原子炉に水?
それが防災訓練?

原子炉事故の恐ろしさは、これでよくわかった。
一旦事故が起きたら最後、事故が事故を呼ぶ、連鎖地獄に陥る。
福島第一原発にしても、応急手当はつづいている。
現場で作業をしている方たちには、本当に頭がさがる。
そういう人たちの努力がなかったら、今ごろ東京にだって、人は住めなくなっていたはず。
しかし残念ながら、基本的な問題は、何一つ、解決していない。
そればかりか、状況は日々に悪化している。
3号機の温度も、100度から再び180度に上昇している(6月8日)。

今朝の新聞報道によれば、どの原子炉も、「メルトダウン」より悪い、「メルトスルー」の状態に
なっているという。
まさに「チャイナ・シンドローム」。

 それに昨日、自分でこんなことを調べた。
敦賀市(福井原発の並ぶ「つるが市」)から、岐阜県の岐阜市までの直線距離。
今ではグーグルアースを使えば、瞬時にそれがわかる。
それによれば、たったの70キロ!

 私は子どものころから、また昨日の昨日まで、敦賀市は岐阜市からみて、はるか遠いところ
にあるとばかり思っていた。
間には山地がいくつか並んでいる。
が、たったの70キロ!
車で1時間の距離!

もし敦賀市にある福井原発が事故を起こしたら・・・?
今の時期だと、風は西から東に吹いている。
岐阜市の住民には、即、退避勧告が出されるだろう。
(政府はずるいから、「命令」という言葉は使わない。
退避命令にすると、その責任を負わなければならない。)

 さらに御前崎にある浜岡原発からこの浜松市までは、たったの40キロ。
原発事故にあっては、40キロなどという距離は、誤差のようなもの。
距離と呼べるような距離ではない。

 ・・・というようなことを考えていくと、反対派にならざるをえない。
いくら電力が必要と言っても、町や村を追われ、命まで奪われたら、元も子もない。

●代替エネルギー

 原子力に替わる代替エネルギーとして、恩師の田丸謙二先生の弟子たちは、アンモニア燃
料を考えている。
水を触媒で分解し、酸素と水素に分解する。
それに同じく空気中の窒素と化合させて、アンモニア燃料を作り出す。
これなら安全かつ、無尽蔵のエネルギーを手に入れることができるようになる。

 夢のような話だが、理化学研究所を中心に、今、その研究は着々と実を結びつつある。
「時間の問題です」と、田丸謙二先生は言っている。

 が、ここで、もうひとつの問題にぶつかる。
安価で安全、かつ無尽蔵のエネルギーというのはよい。
こうした科学の発達には、いつももうひとつの「剣」がある。
「両刃の剣」という。
もしそれが軍事目的に利用されたら・・・?
たとえば太平洋の海が、そのまますべて火薬庫になることもありえない話ではない。
もしそれに火がついたら、それこそ地球が丸ごと、吹っ飛んでしまう。

 田丸謙二先生は、そのあたりをどう考えているのだろう。
核燃料と核爆弾。
アンモニア燃料と水素爆弾。
使い方をまちがえると、たいへんなことになる。
この原稿をあとでそのまま先生に送ってみよう。

Hiroshi Hayashi+++June 2011+++はやし浩司(林浩司)

【孤独は、第二の産道】

●言葉

 よい生活をする・・・それがどうした?
よい食事をする・・・それがどうした?
楽しい思いをした・・・それがどうした?

 こうして人はいつも、自分に問いかける。
「だから、それがどうしたの?」と。
するとその答えがない。
どこにもない。

 たとえば今日、私はカニを腹いっぱい食べた。
バイキング方式だったから、食い散らすようにして食べた。
いつもなら細い足まで食べる。
が、今夜は、カニの爪か、太い足だけ。
細い足は、そのまま捨てた。

 が、私の年齢になると、「食べたら、損」。
わかってはいるが、止まらない。
欲望というのは、そういうもの。
コントロールするのが、むずかしい。

・・・というか、理性の力でコントロールするのは、ほぼ不可能。
アルコール中毒やニコチン中毒の人たちを見ればよい。
一度、脳の線条体に受容体ができると、条件反射的に、人間は行動してしまう。

 そう、人は、パンと水(豪華な食べ物)だけで生きるのではない。
キリストの教えを借りるなら、人は、言葉、つまり教えによって生きる。
その教えがないと、「だから、それがどうしたの?」と聞かれると、そこで行き詰まってしまう。
反対に教えがあれば、即座に答えが返ってくる。

●言葉(教え)

 楽しんで、笑って、腹いっぱいおいしいものを食べ、そのときを愉快に過ごす。
それは人生の一部かもしれない。
しかし先にも書いたように、「だから、それがどうしたの?」と聞かれると、そこで言葉が行き詰
まってしまう。

 そこで私たちは、言葉(教え)を求める。
反対に言葉(教え)のない人生ほど、味気なく、意味がなく、かつ、つまらないものはない。
そこでキリストは「愛」、釈迦は「慈悲」、孔子は「仁」を、それぞれ説いた。
これら三者は、基本的には同一のもの。
言葉というのは、それをいう。
この言葉があるから、私たちは今、ここにこうして生きていることができる。
そうでなければ、そうでない。
ただ「息(いき)る」だけの人間になってしまう。

●みんな孤独でさみしい

 老いるということは、孤独との闘い。
よく「老後は孫の世話と庭いじり」と説く人がいる。
が、これはウソ。
そんなもので、老後の心の隙間を埋めることはできない。
ごまかすことはできる。
しかし埋めることはできない。

 酒にしても、そうだ。
飲んだときは、忘れられる。
しかし酔いから覚めたとき、その何十倍もの孤独が襲ってくる。

 が、心配無用。
あのキリストだって、孤独だった(マザー・テレサ)。
キリストは、それを「ハンガー(飢え)」という言葉を使って表現した(マザー・テレサ)。
あなただけではない。
私だけではない。
みんな孤独。

 その心の空白を埋めるのは、言葉(教え)でしかない。
いくらよい生活をしても、よいものを食べても、楽しいときを過ごしても、それは一時の幻想。
霞(かすみ)。
むしろそういうものには、麻薬性がある。
一度毒されると、かえってそこにある真実が見えなくなる。

 だから孤独であることを、嘆く必要はない。
孤独から逃げる必要もない。
前にも書いたが、孤独は、人間がつぎの世界に入るための関門。
言うなれば、第二の産道。
その関門を通らずして、私たちはつぎの世界に入ることはできない。

 苦しい。
つらい。
おまけに痛い。
だから産道。

●関門(第二の産道)

 人は否応なしに、老いる。
老いることによって、そこに死を見る。
そのおかげで、私たちは、孤独を知る。
が、その孤独を恐れてはいけない。

 ほとんどの人は、燃え盛る火を見て逃げるように、孤独をそこに見ると、そこから逃げてしま
う。
ごまかそうと、必死になる。
もがく。
苦しむ。
中には、その苦しさに耐え切れず、命を絶つ人もいる。
が、もがく必要はない。
苦しむ必要はない。
もちろん命を絶ってはいけない。

 あなたがすべきことは、ただ静かに身を横たえ、それを受け入れる。
とたん、その向こうに、道が見えてくる。
恐らくその道は、人によってみな、ちがうだろう。
が、それが第二の世界ということになる。

 このころになると、人は、フロイトが説く「性的エネルギー」がどんなものであったかがよくわか
る。
平たく言えば、それまでの私たちがいかに欲望の奴隷であったかを知る。
その奴隷的呪縛感から解放される。
・・・というか、その解放感は、解放されてみないとわからない。

●朝に知れば・・・

 こうして考えると、老後は、大きなチャンス。
老後があるおかげで、私たちは真理を知る。
真理に到達することができる。
もし老後がなかったら、100年生きても、200年生きても、人は愚かなまま。
愚かなことを繰り返し、それが愚かなことであるかさえ気がつかない。
長寿は美徳だが、中身のない長寿は、ただの数字の遊び。
だからある賢人は、こう言った。

『朝に知れば・・・』と。

 無駄に100年生きるより、有益に1日を生きたほうがよい。
それを決定するのが、言葉(教え)ということになる。

●第二の産道論

 実は、「第二の産道」論は、以前にも書いた。
原稿をさがしてみる。
日付は2011年1月となっている。
たった半年前!
私にはずいぶんと昔に書いた原稿のように思える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●喪失の受容段階論(孤独と真理)「喪失の受容段階論」


●孤独は心のがん細胞(2011年1月28日記)


++++++++++++++++


喪失の内容、程度は、さまざま。
失恋、事業の失敗、健康、離婚、
子どもの巣立ち、肉親の死、配偶者の
死など。


そのつど人は、はげしい喪失感を
覚える。
ときにそれがそのまま絶望感になることもある。
襲い来る孤独感、孤立感、虚無感……。


少し前、「孤独は心のがん細胞」という
記事を書いた。
孤独をけっして軽く見てはいけない。
孤独は、心をむしばみ、やがて自らの死、
つまり自殺へと、心を導く。


が、この孤独。
闘えば闘うほど、キバをむいて
私たちに向かって襲いかかってくる。
もがけばもがくほど、孤独という糸に
からまれ、身動きが取れなくなる。


仏教でも、「無間地獄」と位置づける。
あのイエス・キリストも、孤独に
苦しんだ(マザーテレサ)。


が、受け入れてしまえば、何でもない。
孤独に身を任せ、静かにそれを受け入れる。
それで苦しみが消えるわけではない。
悲しみが消えるわけではない。
孤独であることは、苦しい。
魂が引き裂かれるほど、苦しい。
が、その苦しみを受け入れたとき、
その先に小さな光明が見えてくる。


人は、人生において2度、産道をくぐりぬける。
母胎からの産道。
そして孤独からの産道。
2度目の産道をくぐりぬけたとき、人は、
真理の世界に生まれ出ることができる。


++++++++++++++++++


●喪失


 人は、どう喪失感を受け入れていくか。
その参考となるのが、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」。
言うまでもなく、「自分の命」を失うことを超える喪失感は、ない。
まさに死は究極の喪失感ということになる。


●死の受容段階論


 キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)は、つぎ
のような段階論をいう。


(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを
試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)


●喪失の受容段階論


 喪失感がはげしければはげしいほど、ロスの『死の受容段階論』に似た段階を経て、やがて
人は喪失を受け入れるようになる。
こまかい点ではちがいはあるのだろうが、おおまかに言えば、それに近い。
順に整理してみる。


(第1期) 否認……失ったことを知り、大きなショックを受けたのち、失ってはいないと、はげしく
否認する。ささいなことに希望をつなぎ、「まだ何とかなる」と思う。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の幸福
そうな人、家族で、相手本人に対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……喪失の回復の見込みがないことを自覚すると、神や医者、家族と取り
引きを試みる。祈ることでの延命や、喪失の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……喪失感が持続的につづくと、虚無主義に陥ったり、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至る。運命に身を任せ、運命に従い、喪失による孤
独感を静かに受け入れる。(以上、ロスの『死の受容段階論』を一部、改変。)


●孤独をどう受け入れていくか


 孤独というのは、闘っても意味がない。
闘う必要もないし、また人間にはそれに打ち勝つ力はない。
そこで大切なことは、居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
同時に、「みな、そうなんだ」と思えばよい。


 一見、派手な世界で愉快そうに振る舞っている人にしても、孤独でない人はいない。
みな孤独を背負っている。
あるいは孤独という氷の上を歩いている。
薄い氷。
その下では孤独が、「おいで、おいで」と手招きしている。


孤独を知らない人というのがいたら、本物のバカか、ものを考えないノーブレイン
(=脳なし人間)。
あるいは孤独をごまかして生きているだけ。
孤独から逃げているだけ。


 もちろん財力や名誉、地位、肩書き、経歴など、孤独の前では、一片の価値もない。
意味もない。
乾いた煙ほどの力もない。
孤独を癒す力など、まったくない。
もがけばもがくほど、孤独の糸がからんでくる。
身動きが取れなくなる。


 が、ひとたび孤独を受け入れれば、周りの世界は一変する。
それまで見えなかったものが、見えるようになる。
何が大切で、何がそうでないか。
何が価値があり、何がそうでないか。
言うまでもなく、私たちが探し求めている真理は、その向こうにある。


●真理探究


 財力や名誉、地位、肩書き、経歴に毒されている間は、真理など求めようもない。
そういう世界で踊っている人は、作りあげられた幻想の世界で、酔いしれているだけ。
それは一時のさみしさを紛らわすために飲む、酒のようなもの。
酒から覚めたら、その何倍もの孤独感が襲ってくる。


 言い替えると、財力や名誉、地位、肩書き、経歴にしがみつけばつくほど、その人は
孤独を前に、もがき、苦しむ。
絶望のどん底へ叩き落とされる。
「自らの死」を選択することにもなりかねない。


 が、孤独は「第二の産道」。
その産道をくぐり抜けることなしに、人は、真理の世界に入ることはできない。
もちろん「真理」は、その人によってちがう。
真理はひとつではないし、真理の向こうにまた別の真理がある。
そこは平和で、満ち足りた世界。
豊かで、おおらかな世界。
が、その世界もまた、無限のかなたへとつづく。


 方法は簡単。
孤独を受け入れる。
静かに受け入れる。
それで苦しみや悲しみが消えるわけではない。
しかしやがて、その先に、一筋の光明が見えてくる。
あとはその光明に向かって歩いていけばよい。


 ……この先のことは、私にもわからない。
ただこれだけは言える。


真理などというのは、そんなに遠くにあるものではないということ。
私やあなたのすぐそばにあって、私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて
じっと待っている。


 さあ、あなたも勇気を出して、孤独の世界に身を横たえてみよう。
声に出して叫んでみよう。
「私はさみしい!」と。


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道 第2の産道論 孤独は真理への関門 はやし浩司 関門論 産道論)

(参考)

●ストレス論byはやし浩司

++++++++++++++++

昨夜、知人(65歳、男性)が、こう言った。
「私たちの年齢になると、勇気を出して、外出する。
それが心の健康に、とても重要です、と。

同感!
賛成!

ともすれば、私たちは外出するのがおっくうになる。
「できれば家の中で、のんびりしたい」と思うようになる。
が、それは心の老化のはじまり。

心が老化すると、
(1)刺激を嫌うようになる。
(2)変化を嫌うようになる。
(3)現状維持のまま楽をしたいと願うようになる。

 どれも同じようなもの。
だから「勇気を出して」となる。
その「勇気」が途絶えたとき、私たちの心は、ジジ臭くなる。
ババ臭くなる。

 ……ということで、昨夜は会食。
たがいに勇気を出して、行ってきた。
その席で、「ストレス」が話題になった。
「人間関係がストレスの原因」と、その男性は言った。

同感!
賛成!

それに答えて、私はこう言った。
「孤独は、心のがん細胞」と。

●ストレス学説
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、
どんなにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶもの
は、その(わずらわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人
間が、原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの
頭を、棒か何かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫ら
れる。具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活
動が高まる。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)
が、その人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サ
イトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の亢進ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は
「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 孤独感、絶望感は、ただ単なる感情ではない。
肉体をもむしばむ「がん細胞」ということになる。
こわいのは、脳内ストレス。
年齢的なことはよくわからないが、50歳を過ぎたら、要注意!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ストレス 免疫 免疫機能の低下 免疫機構 サイトカイン 孤独
 強力なストレス はやし浩司 絶望 孤独 心のがん細胞 ガン細胞)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(2)
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●知能教育(知育教育論)

【舘山寺温泉・浜名湖かんざんじ荘にて】(2011年6月)

●今日は6月xx日、ワイフの誕生日

++++++++++++++++++

今日は、ワイフの誕生日。
仕事を早めに切り上げ、舘山寺温泉へ。
大草山頂上にある、「浜名湖かんざんじ荘」
へやってきた。
「常連」とまでは言わないが、よく利用
させてもらう。

ワイフと息子、それに私。
Happy B−Day, Akiko!

浜松市内では、一押しの簡易旅館。
いつ来ても、この旅館だけは、期待を裏切らない。
サービスも料理も安定している。
もし浜松へ来るようなことがあれば、
この旅館を推薦する。
最近、内装をリニューアルしたよう。
清潔!
(もともとは国民宿舎ということもあり、
作りは豪華だが、部屋はやや狭い。念のため。)

が、何といっても、展望風呂がすばらしい。
全面ガラス張りで、舘山寺温泉街が眼下に
一望できる。

料金も手ごろ。
3名一室のばあい、1人、8800円前後で泊まれる。
曜日によって料金が微妙に異なる。
ネットで調べてから予約を入れるとよい。
(当然のことだが・・・。)

電話は、053−487−0330。

+++++++++++++++++++

●Y温泉

 先週泊まった、Y温泉のS旅館は、最悪。
こういうよい旅館に泊まってみると、それがよくわかる。
カビ臭く、料理もまずかった。
デザートが、オレンジ一切というだけでも、料理の内容がわかろうというもの。

 「二度と来ない」と心に誓う。
が、幼稚園を選ぶときも、これは参考になる。
要するに幼稚園のよしあしは、園長のやる気。
それで決まる。

 が、先日、ある母親が私にこう言った。
「うちの幼稚園のY園長は、知育教育に反対だそうです」と。
それを聞いて、私は私の教室が攻撃されたように感じた。
だからこう思った。

「知育教育が何であるかもわかっていないのに」と。
そう思ったが、言わなかった。
その母親の子どもは、まだそのX幼稚園に通っている。

もう少しきびしい言い方をすると、「知育教育をするノウハウも知らない。
その能力もない。だからやみくもに反対する」となる。
ギルフォードという学者が知能因子論を唱えて、もう35年以上になる(注※)。
(私が知ったのが、35年ほど前のことだから、35年以上と書いた。)

 そのころから世界の科学者たちは、幼児の脳の発達を、懸命に研究し始めた。
知能教育の重要性も認識され始めている。
「臨界期」という言葉も、常識化している。
にもかかわらず、「反対」とは!
「賛成しない」という意見はわかる。
しかしあえて「反対」すべきようなことではない。
子どもが親に、「漢字を教えて」とくれば、いくらでも教えてよい。

 「反対」というのは、要するに、やる気なしという意味。

●臨界期

 臨界期という言葉を使ったので、少し説明しておく。

 幼児は、それぞれの発達段階において、やっておくべきことがある。
その時期を逃すと、健全な心身の発達そのものが、障害を受けることがある。
その時期を、「臨界期」という。
よい例が、野生児。
(しかしインドで発見された野生児については、最近の研究では、疑問視されている。
もともと精神に障害をもった子どもが、野生に捨てられたという説である。
詳しくは後述。)

 その一方で、たとえば音楽教育などは、かなり早い時期に臨界期が来ると言われている。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●特別な時期(臨界期)

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
たとえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しなくな
るとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話というこ
とだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、目の
機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもであ
る。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)を取
り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児〜1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでいる(ワ
シントン大学・メルツォフ教授ら)。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわかって
きた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的にし
ているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれる。
こうした相互の働きかけを「相互愛着(アタッチメント・mutual attachment)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究所の津
本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果で、人間の
早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」で27日発表
した』(2010年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、もの
の細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を個別に計測
した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨界期後のマウス
は興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に反応が落ちた。抑
制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウスの
視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがあるので
はないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機にもな
るだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回復
することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す研究と
して、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は性
格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってからも残
すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らかの治療を
目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)

『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られること
を、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成熟した個
体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。米科学誌「ネ
イチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新生が確
かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質については明
確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30〜40歳にあたる生後6カ月
のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現した細胞を
見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、この細胞が約1・
5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7〜10日かけて
移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新しい細胞が
活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」が存在
し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チームは、ヒト
でも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は抑
制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り出す
ことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療法が見
つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷り込み 神
経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●先取り教育

 平たく言えば、(1)知能教育と、(2)早期教育と、(3)先取り教育はちがうということ。
多くの人は、先取り教育をもって、知能教育と誤解している。
早期教育でもよい。
たとえば幼児に掛け算の九九を暗記させるのは、先取り教育ということになる。
意味のない教育である。

 ついでながら、オオカミ少女(野生児)についての疑問について書いた原稿を添付する。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●野生児(タマラとアマラ)

 ひとつの情報に出会い、つぎに同じような情報に出会うのは、
こちら側が求めてそうするばあいをのぞき、めったにない。
たとえば最近、私はタマラとアマラに関する文献を目にすることが
できた。
偶然だった。
もしその偶然がなかったら、私は自分がもつ知識を修正することは
なかっただろう。

俗に言う、『オオカミ少女』と呼ばれる2人の少女である。
そののち、心理学の本でもたびたび取りあげられている。
「野生児」という言葉も、そこから生まれた。

要点をまとめると、こうだ(「オオカミ少女はいなかった」鈴木光太郎
(新曜社))。

(1) オオカミの乳は、人間には飲めない。……だから少女たちがオオカミの
乳で育つはずがない。
(2) オオカミは、人間の子どもを連れ歩くのは不可能……オオカミはどうやって
赤子を運んだのか。
(3) ウィリアム・オグバーンというアメリカの社会学者が、
1951年に現地に入った。
が、オオカミ姉妹が発見されたという「ゴダムリ」という村は存在しなかった。
(4) 現地に新聞が残っていて、「少女たちが見つかったのは、トラの
穴」と記述されていた。
(5) 少女たちを発見したのは、シング牧師ではなく、サンタル族の住民
だった。
(6) 写真を詳しく調べてみたが、推定年齢(カマラは8歳半、アマラは
1歳半)が合わない。

 私はたびたびオオカミ姉妹(少女)について書いてきた。
この本だけで、すべてを否定するものではないが、しかし大きな疑念が
生まれたのは事実。
さらにその本は、シング牧師夫妻が寄付金集めのためにしくんだ作り話の
可能性があると説く。
実際、現在の今でも、欧米ではこの手の詐欺が後を絶たない。
(ついでに書き添えると、欧米では、孤児院経営を看板に、この種の詐欺が
日常化している。
じゅうぶん、注意したらよい。)

 で、結論としては、「自閉症か何かの障害をもった姉妹が、親に捨てられた。
その姉妹が、何年かあとに見つかった。村人たちは世話に困り、シング牧師の
ところへ連れていった」ということらしい。

 ・・・となると、私が今まで引用してきた話は、すべて訂正しなければ
ならない。
野生児の話は、ウソだったのか?

が、ここで注意したいのは、だからといって子育て論の本筋、たとえば
人間性と臨界期の問題、言語発達と臨界期の問題まで否定されるというのでは
ない。
人間はそれぞれの成長期に、それぞれの適切な環境で、適切に育てられなければ
ならない。
人間性にしても、言葉にしても、さらにたとえば音感やもろもろの美的感覚
にしても、その時期を逃すと、その後、修復がたいへんむずかしくなる。
たとえオオカミ少女の話がウソであったとしても、その重要性は変わらない。
またまったくのデタラメだったとしたら、こうまで長く、多くの心理学者や
精神学者、さらには哲学者たちの支持は受けなかっただろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 オオカミ少女の謎 オオカミ姉妹の謎 野生児への疑問 オオカミ少女は存在し
なかった はやし浩司 タマラ アマラ シング牧師 疑惑 野生児疑惑 オオカミ少女疑惑 オ
オカミ姉妹疑惑)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●幼児の脳は、底なし

 こうした事実を知った上で、「知育教育反対」というのであれば、私も納得する。
しかしそうでなければそうでない。
むしろ文科省が定めるカリキュラムなるものが、いかに幼児(子ども)の能力を伸ばす障壁に
なっていることか。
30年も前のことだが、当時の文部省の技官と対談したことがある。
そのときその技官も、こう言っていた。
「幼児教育では、文字、数は教えてはいけません。
へたに教えると、小学校の先生が、やりにくくなります」と。

私は自分の幼児教室で、幼児たちに分数は小数、正負の数、割合、確率などを教えている。
要は、教え方の問題。
幼児の脳は、まさに底なし。
教えていて、そういう印象をもつ。

 わかりやすく言えば、自分がピアノを弾けないからといって、幼児にできるわけがないと考え
てはいけない。
「早すぎる」と考えるのは、まちがっている。
いわんや、「ピアノ教育、反対!」を唱えてはいけない。
反対に、私の実感としては、6歳を過ぎてからピアノ教室へ通ったばあい、それなりにピアノを
弾けるようにはなるかもしれない。
しかし「それなりに」というレベルで、進歩は停止する。

●やる気

 話はそれたが、やる気のあるなしで、旅館のよさは決まる。
たとえばこの部屋。
テーブルの上には、水の入ったポットと、お湯の入ったポットが2つ並べてある。
お茶を入れる急須も茶碗も、ピカピカに磨いてある。
客の私たちは、そういうのを見て、やる気度、つまり本気度を知る。

 で、一事が万事。
浴衣もノリがきいて、パリパリ。
丹前も新品のよう。
アイロンもしっかりとかかっている。
掃除も部屋の隅々まで行きとどいている。
空調の音も、ほとんどしない。

 幼稚園にしても、そうだ。
やる気を感ずる幼稚園には、園長の哲学を感ずる。
その哲学があれば、よし。
そうでなければ、そうでない。
園長は毎日、幼稚園と銀行の間を行ったり来たりしているだけ。
そういう幼稚園へは、子どもをやってはいけない。
これは私の意見というよりは、常識。

 それにしても「知育教育、反対」とは!
論法としては、「日本語すら満足に話せない子どもに、英語教育反対」と言うのに似ている。
あるいは「日本のこともよく知らないのに、外国へ行っても意味がない」と言うのにも似ている。
さらに「お尻も拭けない子どもが、バイオリンを弾くのはおかしい」でもよい。

 もしこんな論法がまかり通るなら、こうも言える。

「先の短い老人が、英語の勉強などしても無駄」
「旅行しても、お金が無駄になるだけ」
「足腰が曲がった老人が、ミュージカルを観劇して、何になる」と。

 幼児のもつ可能性に、もう少し目を向けてほしい。
・・・というのが、このエッセーの主題。
ちょうど食事時間になったので、この話はここまで。

+++++++++++++++++++++++

●手紙

 食事中、こんなことが話題になった。
ワイフのクラブ仲間に、Uさんという女性がいる。
そのUさんの息子(26歳)が結婚することになった。
相手の女性が妊娠したらしい。
それであわてて籍だけ入れることになった。
が、Uさんは、その結婚に反対。
相手の女性が、世間ズレしすぎているという。
Uさんの夫を、いきなり「パパ」と呼んでいるという。

ワ「でもね、おかしいのよ」
私「どこが?」
ワ「相手の女性が、子宮外妊娠を心配しているんだって・・・」
私「初産の人が、子宮外妊娠?」
ワ「そうでしょ。ふつうそんなこと心配しないわね」
私「そうだな。ぼくも聞いたことがない」
ワ「……」

 まあ、人それぞれ。
結婚も、それぞれ。
それでたがいに幸福になれば(?)、それでよい。

 ついでに言えば、「知育教育・賛成・反対」にしても、最終的には親や子どもが決めること。
そういう幼稚園を選ぶ親もいれば、そうでない親もいる。
あとは親の判断に任せればよい。
それでたがいに納得すれば(?)、それでよい。

●後記

 たった今、カラオケルームから帰ってきた。
ワイフと息子、それに私の3人で、歌を20曲近く歌った。
この旅館のカラオケルームは、超一流。
まるで豪華な劇場のよう。
照明も、四方八方から調整できる。
楽しかった。

 で、夕食だが、もちろん5つ星。
★★★★★。

 改めて確認。
浜松で、一押しの簡易旅館は、この「浜名湖かんざんじ荘」。
家族連れに最適。
はやし浩司は、ウソは申しません。
ぜひ、おいでください。
では、おやすみなさい!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 知育教育 幼児教育の重要性 2011−06)

(参考※)2004年11月に書いた原稿より

●ギルフォードの立体知能モデル

 ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。196
7年のことだった。

 私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集
部員が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。

 それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い
衝撃を受けた。

 そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。そ
れらはすぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『な
かよし学習』という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。

 ギルフォードの「立体知能モデル」。

 今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡
散的思考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けてい
るが、具体性が、ほとんどなかった。

 今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、
知能因子を、このように分けた意義は大きい。

 というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サー
ストンの「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜん
としていた。

 それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!

 で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQと
いう言葉も生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つま
り因子と言えない因子も考えられるようになった。

 たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野
だけではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右
脳教育という言葉がもてはやされているが、それもその一つ。

 今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書
くことができない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無
理なのかもしれない。

 人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、1
0万個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。
その数は、10の9乗〜10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思
考の可能性を、ワクの中で考えることのほうが、おかしい。

 ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。

(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス 子どもの知能 知能教育
 早期教育と先取り教育 臨界期 敏感期)


(3)
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【欲望(煩悩)論】

(今朝のキーワードは、「怒り」)はやし浩司 2011−06−17

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束した希
望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。
たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life after 
you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、
道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリクソン
は、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわけには
いかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎり、統
合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統合性
の確立 無私 無我)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後であ
る。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボランティア
活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではな
い。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめることがあ
る。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問して
みるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ず
るときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」が、一
致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。
一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。

(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)

 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)
一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。

 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、『自らに
由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるとい
う意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても暮れて
も、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞかし、つらい
だろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。(日本人
も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1
980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間から、人間
は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、自ら
自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカル
ト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという
例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようにな
る。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、それぞれ、結
構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」をつ
きつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫んだところ
で、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を
宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させるこ
とができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなも
の。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題
を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思
える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくる
だろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の立場でいう
なら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く
(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動の
ために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概念」をも
って、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代
から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックにな
っていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたた
め、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、
もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可
能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わし
になっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその
愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの
人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができ
る。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はあ
る。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。しかしそれはここで
いう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致
させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あ
るがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をと
ることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみ
をいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構
成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが
盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの
原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかとい
えば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、
その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ね
はん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。
原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではな
いか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

+++++++++++++++++++

もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

+++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であ
ることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここ
に、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。
ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹になってい
る、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともない。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨みや
ねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。
……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)


(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)

+++++++++++++++++++++

人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

+++++++++++++++++++++++++

●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真
論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み
怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇
高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも
悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。

「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。

そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8〜10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけていく
かということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(4)
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【親が子どもを虐待するとき】

●虐待

 虐待の内容については、すでに様々な方面から考察がなされている。
肉体的な虐待(暴力的虐待)をふつう虐待というが、暴力(殴る、蹴る、叩く)に限らない。
精神的虐待(威圧、恐怖心を与える)、不作為による虐待(ネグレクト、無視、冷淡、無言)、言
葉による虐待(「死ね」「捨てる」)などもある。

様態はさまざまで、多くは虐待と意識しないまま、虐待する。
そのため親側に罪の意識が薄く、また多くは、「子どものため」と錯覚して虐待することも多い。
一般的には、指導、しつけ、教育の範囲を逸脱し、子どもに肉体的、精神的苦痛を与え、子ど
もの肉体および精神に、後に残る傷痕を残すような行為を虐待という(以上、はやし浩司)。

●虐待の背景

 親が子どもを虐待するとき、その原因も多岐にわたる。
多くは親側の精神的欠陥、情緒的未熟性があるとみる。
さらに虐待は、世代連鎖しやすく、虐待する親自身が、子どものころその親に虐待された経験
をもっていることが多い。

 また育児ノイローゼから、うつ病を発症し、その結果として子どもを虐待するケースもある。
このばあいは、ささいなことで、カッとなり突発的に虐待に走るのが特徴。
行動に自制がきかず、子どもを殺す寸前までのことをする。
が、しばらくすると冷静になり、「○○ちゃん、ごめんね」と謝ったりする。

 ほかに子どもを自分の支配下に置き、思い通りにする(代償的過保護)、あるいは自己の親
としての存在感を訴えるために虐待するケースもある(代理ミュンヒハウゼン症候群)。

 さらに現在、子どもを愛せないと人知れず悩んでいる母親が、8〜10%いる(はやし浩司・浜
松市内で調査)。
母親自身の乳幼児期における母子関係の不在が原因であることが多いが、こんなケースもあ
る。

 Aさんは子ども(男児)が幼稚園児のころ、離婚した。
夫がAさんと子どもを捨てて、家を出た。
で、そのあとしばらくしてからAさんは、子どもを虐待するようになった。
バットで子どもを叩きつけることもあったという。
理由を聞くと、「横顔が自分を捨てた夫そっくりだから」と。

 潜在意識の奥に潜む、憎しみが、虐待という形になって、具象化するケースも少なくない(以
上、はやし浩司)。

 ほかにキレる子どもに準じて考えることもできる。
環境ホルモン説、脳の微細障害説など。

●精神的欠陥、情緒的未熟性

 精神的欠陥については、私は専門外なので、ここでは割愛する。
簡単に言えば、大脳の前頭連合野の自己管理能力に、何か問題があるとみる。
激情的に行動に走りながら、抑制が働かない。
そのため虐待も、狂乱的になり、暴力、暴言も過激なものになりやすい。
精神的欠陥によるものであれば、精神科での治療対象となる。

 また情緒的未熟性については、その親自身の乳幼児期の環境が影響していることが多い。
とくに母子関係の不全を疑ってみる。
基本的信頼関係の構築の失敗すると、いわゆるマターナル・デブルベーション(母子関係不全
症候群)を引き起こしやすくなる(注※1)。
子どもは、心豊かで、落ち着いた静かな環境で、心をはぐくむ。
そのどこかに欠陥があると、将来的に、マターナル・デブリベーションを引き起こしやすい(以
上、はやし浩司)。

●埼玉県T市のSKさんの相談

 埼玉県T市に住んでいるSKさんより、こんなメールが届いている(はやし浩司 2011−06
ー19)。
転載許可とあるので、そのまま紹介させてもらう。

【SKさんより、はやし浩司へ】

長女9歳のことで相談です。

お恥ずかしい話ですが、下の子が生まれた頃から上の子に対してイライラが募るようになりま
した。
手を上げることも多く、精神的に追い込むような言葉を言ってしまいます。
その上ピアノや勉強・・・と子どもの能力以上のことを求めてがんじがらめの状態。

徐々に子どもが激しいつめかみ・まつげや眉毛を抜く。
最近では、ぎゃーぎゃー泣き叫ぶというかわめきちらすし、ものを投げたり、話し合っても矛盾
したことばかり言います。

すべて私のせいで愛情不足・精神的においつめたせいだと思います。
学校では普段と変わらず生活しているようですが、家では異常な行動が多いです。

心が壊れてしまっていてこのままではいけないと、何とか自分が変わらなければ・・・と思いなが
らもやはり娘に対しては怒りの感情が強く、なかなか自分の力ではどうしようもありませんでし
た。

そして色々調べる中私も小さいころから虐待を受け、アダルトチルドレンであると思うようになり
ました。
カウンセラー?病院?どこを受診していいのかわからず、私は6月末からマイツリーの虐待に
ついてのプログラムを受けることにしました。

ただ子どもについてもこのままではいけないような気がして、どこかの機関を受診したいのです
が、なかなか傷ついた子どもを見て頂けるというか対処法がみつかりません。
色々検索して先生のサイトにたどりつきました。

どのような機関を受診すればいいのか? 対処法など教えていただけないでしょうか。
勝手な母親ですが、ご返答よろしくお願いします。

●マイツリー(My Tree)

 マイツリー・ペアレント・プログラムについては、いろいろなホームページで紹介されているの
で、そちらをご覧いただきたい。
(「マイ・ツリー」で検索をかければ、ヒットできる。)
私(はやし浩司)は、直接的には、知らない。

 すでにマイツリーでの指導を受けているなら、しばらくはそちらで指導を受けてみた方がよ
い。
私自身は、ここにも書いたように直接的には、それがどういう内容のものか、知らない。

●SKさんの子ども

 SKさんのケースでは、子どもの症状から、子ども自身がかなりの恐怖心を日常的にもってい
ることがわかる。
激しいつめかみ、まつげや眉毛を抜くといった、神経症による症状は、その代償的行為とし
て、外に現れる。

ふつうこういうケースでは、子どもは、(1)極端に萎縮する、(2)極端に粗放化するのどちらか
の様態を取る。

 親の異常な暴力的威圧に、抑え込まれてしまったのが、(1)のタイプ、
それをはね返し、見かけ上たくましくなったのが、(2)のタイプということになる。
SKさんの子どもは、(2)のタイプ、つまり攻撃型と考えられる。
予後について言えば、(1)のタイプは、立ち直りがたいへんむずかしい。
(2)のタイプは、一見、扱いにくいが、立ち直りが早い。
その分だけ、生命力がたくましいということになる。

 で、こういうケースのばあい、子どもは「家族の代表」にすぎない。
子どもに何か、ふつうでない症状が現れたら、子どもに問題があるとみるのではなく、家族(こ
のばあいは、母親の育児姿勢)に問題があるとみる。
SKさんは、「子どもを治そう」と考えているが、逆。
まずSKさん自身を治す。
その結果として、子どもも治る。

●では、どうするか

 先にも書いたように、「マイツリー」という団体で指導を受けているなら、しばらくそちらのほう
で、いろいろな人たちの意見を聞いたらよい。
が、私自身は、メールの内容からして、SKさん自身の「心」に大きな問題があるとみる。その
ため、一度、心療内科を訪れてみることを勧める。

 それによって、子どもへのこだわり、うつ病的な症状は、かなり改善する。
SKさんが精神の安定を取り戻せば、子どもも、それに並行して、落ち着く。
9歳という年齢は、まだじゅうぶん取り返しのつく年齢である。
(思春期前夜から思春期に入ると、子どもの心の問題を解決するのが、たいへんむずかしくな
る。
人格の「核(コア)」が完成するためである。)

 つぎのようにアドバイスする。

(1)父親(夫)とはどういう関係なのか。
もし父親が近くにいるなら、父親の協力、理解が不可欠。
育児をひとりで背負わないで、よきパートナーとして、協力してもらう。
(このメールを見せるのもよい。)

(2)心療内科で安定剤を処方してもらう。
今ではこだわりを取り除く、すぐれた薬も開発されている。
ささいなことが気になり、それが爆発的に興奮状態につながるようであれば、うつ病も疑われ
る。
適切な治療こそ、最善。

(3)自分の心の中をのぞく
SKさんは、自身の不幸な過去について、少し触れている。
そういう形で、自分をもう一度、客観的に見つめ直してみる。
自分がわかれば、つまりそれが原因とわかれば、あとは時間が解決してくれる。
(5年単位の時間はかかる。その覚悟はしておくこと。)

(4)子どもの神経症
9歳という年齢からして、まだじゅうぶん、間に合う。
ただし子どもへの薬物投与は、慎重に。
これは子どもの問題ではなく、SKさん自身の問題と考えること。
子どもは「代表」であり、「結果」でしかない。
また攻撃型に出ているという点からして、予後もよい。
あまり深刻に考えないこと。

(5)SKさんへ

 あなたはすばらしい母親です。
まず、そう考えてください。
ここまで自分を客観的にみつめ、また自分を改めようとする母親は、たいへん少ないです。
ただあなたには、あなたの、自分の意思ではどうにもならない問題をかかえています。
(SKさんのケースでは、マイツリーが提案しているような、プログラム的な指導で、改善すると
は、私は考えていません。
心だって風邪をひくときには、ひきます。
風邪をひいたら、病院へ行けばよいのです。)
だから自分を責めてはいけません。
どうしようもないのです。

 そのためにも、一度心療内科のドクターに相談してみるとよいでしょう。
私も仕事上、神経をすり減らすことが多く、精神安定剤を常用しています。
あとはイライラを、自分のしたいことで、解消しています。
それぞれの人にはそれぞれに合った解消法があります。
SKさんにもあるはずです。
やがてそれを見つけ、適当に発散する。
つまりこの種の病気(病気と決めつけて、ごめん!)は、治そうと思わず、うまくつきあえばよい
のです。

 へたにがんばると、かえってストレスがたまってしまいます。

 あまりよい返事になっていないかしれませんが、いくつか原稿を添付しておきます。
どうか、参考にしてください。

Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※1)
 
●マターナル・デブリベーション(母子関係不全症候群)

+++++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デブリベーション」
という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デブリエイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である(以上、はやし浩司)。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。 
漠然と怖い。 
超泣く。所構わず突発的に。 
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 

【その他質問、追加事項】 
抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。 
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続け
た。 

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。 
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、 
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようにな
り 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言
葉)自分の存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感
じます。電話に出たり一人で外出できません。 

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち
直れません。フラッシュバックがよく起きます。 

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り
続ける妙な癖のようなものがある。 

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放される
と信じていたりして自分でもマズイと思ってます。 

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。 
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽ
い奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、
心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこ
む習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特
の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってき
た。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになってい
る。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の
発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、そ
れを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デブリエイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってき
た。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされた
が、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

●いじめの問題

 このマターナル・デブリエイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少
し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児〜年長児(4〜6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとし
た表情を示す。
全体の7〜8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももい
る。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持すること
ができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要
がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子ども
がいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満
足げでおっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえ
ば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デブリベーションという問題があるのは、わかった。では、私はどうなのか?」
と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難し
い。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれな
い。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、
そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この
「マターナル・デブリベーション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高
い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なこ
とではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということ
もある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もり
に関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エ
ンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デブリエイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ホスピタリズム(追記)

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて
自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そ
のくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をか
ぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということに
なる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 マターナルデブリエイション マターナル・デブリエイション 母子関
係 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込
み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期)

Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●虐待

 ●虐待される子ども

++++++++++++++++

 カナーという学者は、虐待を次のように
定義している。

(1) 度の敵意と冷淡、
(2) 完ぺき主義、
(3) 代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、
愛情に根ざした本来の過保護ではなく、
子どもを自分の支配下において、思い
通りにしたいという、親のエゴに基づ
いた過保護をいう。

代償的過保護ともいう。

+++++++++++++++

                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚
園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その
子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。

 カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主
義、(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の
支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。代償的過保護
ともいう。

その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫され
ているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状
を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親
が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあげてい
る。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの
ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習
中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、
近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。
父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。

あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻した
りを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ
ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが虐待されている
のを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」という方法もあるが、「どうして
も大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよいでしょう。そのほうが適切に対処してくれ
ます」(S小学校N校長)とのこと。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虐待
 虐待の定義 ホルネイ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●環境虐待

+++++++++++

虐待といっても、直接虐待と
間接虐待がある。

このほか、最近私は、環境
虐待という言葉を考えた。

+++++++++++

 虐待といっても、直接虐待と間接虐待がある。「間接虐待」という言葉は、私が考えた。たとえ
ばはげしい夫婦げんか、家庭騒動、家庭不和、家庭崩壊など。こういったものは、子どもに対
して直接的ではないにしても、子どもの心に大きな傷を残す。

 が、最近、こんな経験をしている。

 あるところにある母親がいる。年齢は、今年40歳を少し過ぎた。上の子どもが小学5年生
(男児)、下の子どもが小学2年生(女児)。

 母親は、結婚まもなくから、うつ病になった。うつ病には(こだわり)や(妄想性)はつきものだ
が、その母親もそうだった。その母親のばあいも、ささいなことを気にして、それを異常なまで
に針小棒大に問題にした。

 あるときは、隣の浄化槽のポンプがうるさいからといって、夜中に、それを破壊してしまったこ
ともある。そのときは隣人が、その母親の病状を理解し、弁償程度で話がすんだ。あるいは、
家の近くの駐車場を借りているのだが、その駐車場で隣の車が、自分の車に傷をつけたと騒
いだこともある。

 見ると、ほんの数ミリにもならないすり傷だったのだが、その母親は、隣に駐車してあった車
のドアが当たったと主張した。このときは、警察官まで呼んで、実地検分までしたという。

 そういう母親だから、家庭の中では、どんな母親か、容易に察しがつく。数週間の間、家の中
に引きこもったかと思うと、今度は突然、手芸の店を開くといって、夫をあわてさせたりしたこと
もある。が、かわいそうなのは、2人の子ども。そのつど、その2人の子どもは、そういう母親に
引き回された。私が聞いた話に、こんなことがあった。

 2年生の子どもが、学校からテスト用紙をもらって帰ってきた。かけ算の九九のテスト用紙だ
った。見ると、下3分の1程度の答が、ちょうど一列ずつ下へ、ずれているのがわかった。母親
は、自分の子どもが、隣の子どもの答案を丸写しにしたと考えた。(実際、そうだったかもしれ
ないが……。子どもの世界では、よくあることである。)

 そこで母親は、その子どもを問いつめた。しかった。が、それでは足りないと思ったのか、そ
の足で学校へ行き、「しっかりと監視していてほしい」と先生に告げた。

 そういう家庭環境だから、上の子ども(小5男児)は萎縮してしまった。ハキがなく、母親の前
では、いつもオドオドしていた。一方、下の子ども(小2女児)は、やや粗放化した上、虚言癖を
もつようになった。こんなことがあった。

 ある日、突然、その母親が学校の職員室に飛び込んできた。そして大声でこう怒鳴った。

 「○○先生が、うちの娘を殴った。何とかしろ!」と。

 それを聞いた教頭が、授業の途中だったが、担任の先生を呼び、事情を聞いた。しかし担任
の先生には、まったく身に覚えがなかった。ほかの子どもの頭を手で、あいさつがわりに軽くた
たいたことはあるが、その子どもには、なかった。

 それを話すと、その母親は、「うちの娘は、嘘をつかない」「あなたはうちの娘を、嘘つきと言う
のか!」と。さらに大声で怒鳴ったという。

 結局、この話、つまりその先生がその子どもを殴ったという話は、その子どもの作り話とわか
ったという。その前日あまりにも忘れ物が多いので、、その先生が、その子どもにこう言った。
「今度、忘れ物をしたら、君のお母さんに電話するよ」と。そこでその子どもが先手を打つ形
で、先生の悪口を言った。それが「殴った」という話になった。

 こうした症状はともかくも、母親がつくる家庭環境が、子どもの心に大きな影響を与えている
ことは、明白だった。虐待という虐待ではないかもしれないが、それに近い影響を与えていた。
そこで私は、こうした虐待を、「環境虐待」と呼ぶことにした。

 子どもの立場からして、心静かにくつろげる環境がない。家庭が家庭として、機能していな
い。情緒が不安定な母親に、そのつど、生活が乱される。程度の差もあるが、こうした家庭環
境も虐待に準じて考え、ひどいばあいには、子どもの隔離ということも考える。

 虐待といっても、内容、程度は、さまざま。子どもの体に直接危害を加える、「直接虐待」にし
ても、虐待を加える親にしても、始終、虐待を加えているわけではない。ふだんは、むしろやさ
しく、思いやりのある親であることが多い。(もちろん日常的に虐待をしている親もいるが…
…。)

 週に1度とか、月に2、3度とか、そのときの親の気分に左右されて、子どもを虐待する。しか
しそれでも子どもの心に大きな傷跡を残す。そういうことも考えると、ここでいう環境虐待のほう
が、ずっと質(たち)が悪い。そういう前提で、考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 間接
虐待 直接虐待 環境虐待)

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間接虐待について、以前
書いた原稿を添付します。

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● 間接虐待

 直接虐待を受けなくても、まわりの騒動が原因で、子どもが、心理的に、虐待を受けたのと同
じ状態になることがある。これを私は、「間接虐待」と呼んでいる。

 たとえばはげしい夫婦げんかを見て、子どもがおびえたとする。「こわいよ」「こわいよ」と泣い
たとする。が、その夫婦には、子どもを虐待したという意識はない。しかし子どもは、その恐怖
感から、虐待を受けたときと同じキズが、心につく。これが間接虐待である。

 というのも、よく誤解されるが、虐待というのは、何も肉体的暴力だけではない。精神的な暴
力も、それに含まれる。言葉の虐待も、その一つである。言いかえると、心理的な苦痛をともな
うようであれば、それが直接的な虐待でなくても、虐待ということになる。

 たとえば、こんな例を考えてみよう。

 ある父親が、アルコール中毒か何かで、数日に1回は、酒を飲んで暴れたとする。食器棚を
押し倒し、妻(子どもの母親)を、殴ったり、蹴ったりしたとする。

 それを見て、子どもが、おびえ、大きな恐怖感を味わったとする。

 このとき、その父親は、直接子どもに暴力を加えなくても、その暴力と同じ心理的な苦痛を与
えたことになる。つまりその子どもに与える影響は、肉体的な虐待と同じということになる。それ
が私がいう、間接虐待である。

 が、問題は、ここにも書いたように、そういう苦痛を子どもに与えながら、その(与えている)と
いう意識が、親にないということ。家庭内騒動にせよ、はげしい夫婦げんかにせよ、親たちは
それを、自分たちだけの問題として、かたづけてしまう。

 しかしそういった騒動が、子どもには、大きな心理的苦痛を与えることがある。そしてその苦
痛が、まさに虐待といえるものであることがある。

 H氏(57歳)の例で考えてみよう。

 H氏の父親は、戦争で貫通銃創(銃弾が体内を通り抜けるようなケガ)を受けた。そのためも
あって、日本へ帰国してからは、毎晩、酒に溺れる日々がつづいた。

 今でいう、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)だったかもしれない。H氏の父親は、やがてア
ルコール中毒になり、家の中で暴れるようになった。

 当然、はげしい家庭内騒動が、つづくようになった。食卓をひっくりかえす、障子戸をぶち破
る、戸だなを倒すなどの乱暴を繰りかえした。今なら、離婚ということになったのだろうが、簡単
には離婚できない事情があった。H氏の家庭は、そのあたりでも本家。何人かの親戚が、近く
に住んでいた。

 H氏は、そういうはげしい家庭内騒動を見ながら、心に大きなキズを負った。

 ……といっても、H氏が、そのキズに気がついていたわけではない。心のキズというのは、そ
ういうもの。脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、本人が、それに気づくということ
は、むずかしい。

 しかしH氏には、自分でもどうすることもできない、心の問題があった。不安神経症や、二重
人格性など。とくに二重人格性は、深刻な問題だった。

 ふとしたきっかけで、もう一人の人格になってしまう。しかしH氏のばあい、救われるのは、そ
うした別の人格性をもったときも、それを客観的に判断することができたこと。もしそれができ
なければ、まさに二重人格者ということになったかもしれない。

 が、なぜ、H氏が、そうなったか? 原因を、H氏の父親の酒乱に結びつけることはできない
が、しかしそれが原因でないとは、だれにも言えない。H氏には、いくつか思い当たる事実があ
った。

 その中でも、H氏がとくに強く覚えているのは、H氏が、6歳のときの夜のことだった。その夜
は、いつもよりも父親が酒を飲んで暴れた。そのときH氏は、5歳年上の姉と、家の物置小屋
に身を隠した。

 その夜のことは、H氏の姉もよく覚えていたという。H氏は、その姉と抱きあいながら、「こわ
い」「こわい」と、泣きあったという。その夜のことについて、H氏は、こう言う。

 「今でも、あの夜のことを思い出すと、体が震えます」と。

 心のキズというのは、そういうもの。キズといっても、肉体的なキズのように形があるわけでは
ない。外から見えるものでもない。しかし何らかの形で、その人の心を裏からあやつる。そして
あやつられるその人は、あやつられていることにすら、気がつかない。そして同じ苦痛を、繰り
かえし味わう。

 間接虐待。ここにも書いたが、この言葉は、私が考えた。

【注意】

 動物愛護団体の世界にも、「間接虐待」という言葉がある。飼っているペットを、庭に放置した
り、病気になっても、適切な措置をとらないことなどをいう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【虐待と非行】

●非行の子ども、3割虐待経験(駐日新聞)

 全国の児童相談所で非行相談を受けた子どもの30%は、親などから、虐待されたことがあ
り、ほぼ半数は、育つ途中で、養育者が代わり、親や家族らとの愛着関係を建たれる経験をし
ていたことが、6月13日(05)、犬塚峰子、東京都児童相談センター治療行政課長らの、厚生
労働省研究班の調査で分かった(以上、中日新聞の記事より)。

++++++++++++++++++

 非行の内容

 男子……63%
 非行内容……盗み、家出、外泊
 
 こうした非行問題を起こした子どものうち、

 虐待を受けた子どもは、全体の30%。複数の種類の虐待を受けた受けた子どもが目立ち、
殴るなどの身体的虐待が、78%、ネグレクト(養育放棄)が、73%で、心理的虐待が50%、
性的虐待が32%。

 親が離婚したり、施設に預けられたりして、養育者が途中で代わった子どもは、47%で、うち
約4分の1は、3歳未満で経験。代わった回数は、1回が、66%、2回が、18%、3回は、1
1%いた。

 ドメスティックバイオレンス(DV)のある家庭で育った子どもが、全体の10%いることも判明。

 攻撃性が高い、情緒不安定などの何らかの心理的・精神的問題をかかえる子どもは、85%
おり、虐待経験のある子どもだと、92%に上昇した(以上、同新聞、6・14、朝刊)。

+++++++++++++++++

●虐待は好ましくないが……

 子どもは、絶対的な安心感と、親子の信頼関係のある家庭でこそ、その心をはぐくむことが
できる。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。

 虐待にかぎらない。育児拒否、放棄、冷淡、家庭騒動、夫婦不和、暴力、貧困など。子ども
の側から見て、「不安」を覚えたとき、子どもの心は、大きく、ゆがむ。キズつく。離婚にしても、
離婚そのものが子どもの心に影響を与えるのではない。離婚にいたる、家庭騒動が、子ども
の心に大きな影響を与える。

 子どもがいる夫婦のばあい、離婚をどのように進め、離婚後も、どのようにして、子どもの心
を守るか。この日本では、そうした問題については、ほとんど、考えられていない。

 ただ、この調査で、「?」と思ったのは、つぎのこと。

現在、子どもに体罰を加えている母親は、全体の50%近くはいる。そしてそのうち、約70%
(全体の35%)は、虐待に近い、体罰を加えているのがわかっている(筆者、調査)。

 つまり虐待イコール、非行ということではないのではないかということ。虐待を受けながらも、
子どもの側で、ふんばりながら、がんばっているケースは、いくらでもある。この記事を読むと、
(あくまでも記事を読んでの印象だが)、非行の原因のすべては、虐待にあるような印象をもっ
てしまう。)

 また虐待といっても、肉体的虐待、精神的虐待のほか、間接虐待もある。はげしい夫婦げん
かを見て育った子どもも、虐待を受けたのと同じような症状を示すことがある。

 結論から先に言えば、子どもは、心豊かで、愛情に満ちた、静かな環境で、両親によって育
てられるのがよい。その年齢は、2歳まで(WHO)だが、実際には、満3歳まで。この時期に、
子どもは、親との(とくに母親との)、基本的信頼関係を結ぶ。

 この基本的信頼関係が、そののちの、子どもの精神的発達の基盤となる。が、この時期に、
その信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、精神的に大きな影響を受け、慢性的な不安感
を覚えたりするようになる。生涯にわたってつづくため、「基底不安」という。

 さらに精神的未熟性が、残ることもある。50歳、60歳をすぎても、親離れできず、そのため
自立そのものができず、親に依存して生きる子どもも少なくない。

 もちろん情緒的な問題も起きる。ここに書いてあるような、「攻撃性」もその一つだが、情緒が
不安定になるから攻撃性が生まれるのではなく、他者との良好な人間関係が結べなくなり、そ
の結果として、攻撃性が現れる。もっと言えば、このタイプの子どもは、他者に対して、心を開く
ことができない。

 その結果として、仮面をかぶって、いい子ぶったり、同情を求めたり、依存的、服従的になっ
たりする。内へ引きこもってしまうこともある。攻撃性は、あくまでも、その一部でしかない。

 全体としてみると、この調査は、その前提として、虐待と非行を、どこかで無理に結びつけよ
うとしているのではないかという印象をもった。図式としては、わかりやすいが、かえって、親た
ちに、誤解を生じかねない。つまりこれだけでは、近年ふえている、そうでない家庭(見た目に
も恵まれ、裕福で、家庭円満な家庭)での非行については、説明できない。

●非行の原因は、別の角度から考える

 むしろそうではなくて、家庭的な不協和音が、子どもの自我の形成に影響を与え、その結果
として、子どもは、たとえば非行問題を起こすと考えたほうが、よいのでは……。

 同じ虐待を受けても、自我の同一性のしっかりしている子どもは、自分の目的に向って進ん
でいく。虐待を受けなくても、同一性の確立に失敗した子どもは、さまざまな形で、その自我を
補修しようとする。その一つが、非行ということになる。

 最後に一言。

 非行イコール、即、「悪」ではないということ。今どき、「盗み」や「家出」など、珍しくも何ともな
い。そこには、当然、社会全体がもつ、社会的価値観が混入する。極端な例としては、体に爆
弾を巻いて、自爆することを美徳する社会も、ないわけではない。

 さらに、最近、こんなことも聞いた。

 南アフリカの日本人学校から帰任した小学校の先生が、こう言った。「(日本で)朝礼が終わ
って、子どもたちが二列に並んで教室へもどる姿を見て、ぞっとした」と。

 あなたはその先生が、どうしてゾッとしたか、その理由がわかるだろうか。

 この話をオーストラリアの友人(ドクター)に話すと、そのドクターも、そう言った。

 どこかの駅で列車をまっているときのこと。駅前が運送会社になっていて、そこに10台近いト
ラックが並んでいたという。そのとき、上司らしき人が、トラックの前に運転手を並べ、朝礼をし
ていたという。

 その友人も、それを見て、ゾッとしたという。

 なぜか?

 こうした感覚は、日本人として、日本に長く住んでいるとわからない。そこで私は、オーストラ
リアの友人に、こう聞いた。

 「オーストラリアでは、どうしているのか?」と。

 すると、そのオーストラリア人は笑いながら、「(朝の集会のあと)、みな、バラバラに教室へ入
る。ぼくは、いつも、窓から、入っていた」と。

 またトラックの運転手たちについては、みな「ロボットみたいだった」と。

●サブカルチャ(下位文化)

 「非行」ということを考えるとき、では、非行を経験しない子どものほうが理想的かというと、そ
うでもない。今の日本の子どもたちを見ていると、(決して、非行を奨励するわけではないが)、
キバを抜かれた動物のようで、かえって不気味ですらある。

 男児でも、たいはんが、ナヨナヨしている。おとなしい。やさしい。自己主張も、弱い。ブランコ
を横取りされても、文句一つ、言えない。よく子どもの攻撃性が問題になるが、その攻撃性そ
のものが、まるでない。そういう子どもを、はたして、(いい子)と言ってよいのか。

 むしろ子どものころ、サブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから、
常識豊かな子どもになることが知られている。反対に、子どものころ、優等生であった子どもほ
ど、あとあと、何かと問題を引き起こしやすいこともわかっている。外部に対して問題を引き起
こすこともあるが、内々で、悶々と苦しんでいる子どもとなる、たいへん、多い。)

 「非行」といっても、程度の問題もある。ハバもある。どこからどこまでが、許される非行であ
り、どこから先が、許されない非行なのかということを、一度、明確にしておく必要もあるのでは
……。

 盗みくらいなら、だれだって、する。家出にいたっては、みな、する。虐待が好ましくないことは
言うまでもないが、虐待イコール、非行という短絡的な発想には、私は、どうしても、ついていけ
ない。
(はやし浩司 子供の非行 虐待と非行 虐待 子供の攻撃性 ネグレクト 養育放棄)

(追記)

 日本の子どもたちは、全体としてみると、おとなしすぎる。先日も、アメリカ人の小学校の教師
と話したが、アメリカでは、シャイ(shy)な子どもは、問題児だそうだ。

 日本では、シャイな子どもは、問題児ではない。むしろ、控えめないい子と考えられていると
話してやったら、その先生は、本当に驚いていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【滋賀県・O市のY先生(小学校教諭)より、はやし浩司へ】
●代償的過保護
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滋賀県のY先生より、こんなメールが届いている。
以下、要約。
「……私のクラスにKさん(女児、小4)という子がいるが、家に帰りたがりません。
いつもみなが帰ったあとも真っ暗になるまで、校舎の裏庭(小さな山になっていて、
ふだんは児童の遊び場になっている)で、時間を過ごしています。
近くに住むEさん(女児、小4)に話を聞くと、母親がたいへんきびしい人らしく、
おおまかに言えば、つぎのようだそうです。
(1)毎日、1時間の漢字の書き取りと、計算練習が義務づけられている。
(2)そのあと母親にテストされ、満点でないと、夕食が食べられない。
(3)友だちにもらった遊び道具などは、すべて捨てられる。
(4)家の前まではいっしょに帰るが、いつも裏の勝手口から家に入る。
(5)ほかに毎日プリント学習を2枚することになっていて、それがしてないと、
ベッドから引きずり出され、それをさせられる。
(6)「成績がさがったら、お弁当を作らない」と、母親に言われている。
 学校でも、ときどき「おなかが急に痛くなった」「足が痛い」と言って、保健室
で横になっています。
小学2年生ごろまで、授業中に、おもらしをすることがあったそうです」と。
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++
●代償的過保護と帰宅拒否
+++++++++++++++
典型的な代償的過保護である。
親の支配下におき、子どもを
親の思い通りにする。
一見、過保護だが、過保護に
ともなう(愛情)が希薄。
「代償的過保護」という。
過保護もどきの過保護。
そう考えるとわかりやすい。
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●代償的過保護

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代償
的過保護 すなおな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考)●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウ
ゼン症候群」という(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンフハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ミュン
ヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待 仮面をかぶる母親)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。
S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。
「幼稚園で帰る時刻になると、うちの子は、どこかへ行ってしまうのです。
それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにきてほしいと。
どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。
そこで皆でさがすのですが、おかげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」
と。
私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、
家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。
まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。
幼児のばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれ
て、当然、家庭の役割も変わってくる。
また変わらねばならない。
子どもは外の世界で疲れた心や、キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。

つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければならない。
が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。
「子どもが外の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』(随筆家・ソロー)というのがある。
つまり人というのは、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が、気が休まるということを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のよう
でなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡
単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。
もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関係に
ある。
しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げてい
くようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。
もう少しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。
毎日のように寄り道や回り道をしてくる。
あるいは外出や外泊が多いということであれば、この帰宅拒否を疑ってみる。
家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなこと
を避けるための行動をする。
帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という思いが、回りまわって、帰宅拒
否につながる。
裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子どもが明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけ
でも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということになる。

(はやし浩司 子供の帰宅拒否 帰宅拒否 家に帰りたがらない子ども 帰宅を拒否する子
供)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Y先生へ】
 メール、ありがとうございました。
いろいろな母親がいますね。
まさに典型的な代償的過保護と言うべき母親ですね。
まず「子どもはこうあるべき」という設計図を頭の中で作り、その設計図どおりの
子どもにしようする。
 疑うべきは、まず母親の情緒問題です。
自分の情緒的欠陥、つまり穴をふさぐために子どもを利用しているだけ。
何かの精神的な問題をもった女性と考えます。
一見、過保護に見えますが、過保護には愛情があります。
その愛情(=「許して忘れる」)がありません。
先にも書いたように、過保護もどきの過保護。
だから代償的過保護と言います。
発達心理学の用語にもなっています。
それが過度になれば、「虐待」ということになります。
「食事を与えない」「眠らせない」というのは、立派な虐待です。
 が、母親には、その自覚がない。
「私は子どものためにそうしている」と確信しています。
だから余計にやっかいですね。
説得しても、その母親には理解できないでしょう。
 ……私も子どものころ、帰宅拒否児だったと思います。
(いろいろな思い出をつなぎあわせると、そういう「私」が浮かびあがってきます。)
いつも学校帰りには、道草を食って遊んでいました。
夏でも、毎日真っ暗になるまで、近くの寺で遊んで時間をつぶしました。
今、思い出しても、暗くて、つらい毎日でした。
 もしKさん(小4)も、同じようであるとするなら、同情します。
恐らく一生、その傷が癒されることはないでしょう。
今の私が、そうです。
63歳になろうというのに、いまだに心の中に暗い影を落としています。
 やはりこの問題は、先生が指摘しておられるように、児童相談所が介入
すべき問題ですね。
先にも書いたように、「食事を与えない」「眠らせない」というのは、虐待です。
また無理な勉強を強制するのも、虐待と考えてよいでしょう。
一応、報告だけは、きちんとしておかれることを、お勧めします。
 なお小4と言えば、思春期前夜。
この先、Kさんには、いろいろな試練が待ちかまえています。
非行に走らなければよいと心配しています。
(あるいは、引きこもり(マイマス型)、家庭内暴力(プラス型)へと進むことも
多いです。)
 父親はどういう人なのか。
またどのように考えているのか。
それがわかったら、どうかまたメールをください。
では、今日は、これで失礼します。

Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【児童虐待】

●児童虐待のうち、7割あまりが、核家族世帯で起きている?(Children Abuses)
(70% of Children Abuse cases are occurred so-called "Nuclear Families", or "Families 
eith only parents and children". But is this true?

++++++++++++++++++

児童虐待のうち、7割あまりが、「核家族」
で起きているという。

また虐待といっても、「ネグレクト」が、
約39%。
身体虐待の31%より多かったという。

このほど、奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」
が、そんな調査結果をまとめた。
(産経新聞・08年6月10日)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

+++++++++++以下、産経新聞より抜粋+++++++++++++++++

児童虐待の防止策などを協議する県の「児童虐待等調査対策委員会」(委員長=加藤曜子・
流通科学大教授)は9日、昨年度に奈良県と市町村が受理した児童虐待事案を対象にした、
初の調査結果を報告した。

全1228件のうち、7割あまりが父母以外の同居者のない「核家族」で起き、親が養育
を怠慢したり拒否する「ネグレクト」も全体の4割弱を占める実態が判明。県は「調査結
果から、児童虐待を早期発見することの困難さが浮き彫りになった」と深刻に受け止めて
いる。

児童虐待に関し、県内では今年度初めて、県と市町村が統一の調査票に基づいて記録する
システムを導入。昨年度は統一調査票がなかったが、同委員会では、深刻化する児童虐待
の実態をより詳しく分析する必要があるとして、昨年度分の事案も統一調査票の設問にの
っとる形で再精査した。

その結果、父母以外の同居者がいるかどうかを問う設問では、899件(73・2%)で
核家族にあたる「なし」と回答。無回答や不明を除く「あり」の回答は221件(18%)
に過ぎなかった。

また、種類別では「ネグレクト」が477件(38・8%)と最も多く、「身体的虐待」の
383件(31・2%)を上回っていた。

+++++++++++++以上、産経新聞より抜粋+++++++++++++++


●この調査結果は、おかしい?

児童虐待を調べたら、73%が、核家族世帯の子どもであったという。

だれしもこの数字だけを見たら、児童虐待のほとんどは、核家族で起きていると思うだろ
う。
中には、「核家族では児童虐待が起きやすい」と思う人もいるかもしれない。
「73%」という数字は、そういう数字である。

しかし、待ったア!

この調査結果を読んで、「?」と思った人はいるだろうか。
が、私は、一読して、「?」と思った。
奈良県の「児童虐待等調査対策委員会」という公的な機関がまとめた調査だから、「まさ
か?」とは思いたいが、おかしいものは、おかしい。

この調査でも、「万引きした子どもを調べたら、50%が、女子だった。(だから女子は万
引きしやすい)」式の、きわめて初歩的なミスを犯している(?)。

よく読んでみてほしい。産経新聞の記事には、こうある。

「(虐待)全1228件のうち、7割(73%)あまりが父母以外の同居者のない「核家族」
で起きた」(だから児童虐待は、核家族世帯で、起きやすい)と。

しかしもし、核家族が、全体の7割だったとしたら、この「7割」という数字には、まっ
たく意味がない。

ちなみに奈良県のばあい、

「核家族世帯の割合は64・01で(全国)3位である。いずれの指標も上位10都道府
県のほとんどを東京・名古屋・大阪及びその周辺の府県が占めており、大都市及び周辺地
域の特性と見られる」(2000年10月・奈良自治体問題研究所)とのこと。

つまり、64%が、核家族である、と。

この64%をもとにすれば、つぎのようなことは、調査しなくても言える。

「私立高校へ通う子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
「ゲームをしている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」
ついでに、もうひとつ。
「黒い靴を履いている子どもを調べたら、64%が、核家族世帯の子どもであった」と。

「64%」と「73%」の(差)こそが、問題ということになるが、その差は、たったの
9%。
誤差の範囲とは言い切れないが、それに近い。

とくに祖父母同居の家庭では、ここでいうネグレクトという虐待は少ないはず。
両親が衣食などの世話をしないばあいには、祖父母がする。
となると、「ネグレクトが39%」という数字を、どう処理したらよいのか?

つまりこの調査によって奈良県は、「核家族世帯では、児童虐待が起きやすく、たとえば祖
父母同居家庭世帯では、児童虐待は置きにくい」ということを裏づけたかったのだろう。
それはわかるが、私は、つぎの一文を読んで、思わず、吹き出してしまった。
(「児童虐待」そのものを笑ったのではない。どうか、誤解のないように!)

「県は『調査結果から、(児童虐待の73%は、核家族世帯で起きているから)、児童虐待
を早期発見することの困難さが浮き彫りになった』と深刻に受け止めている」と。

では、これらの数字を、どう読んだらよいのか?
今一度、数字を整理してみよう。

(1)奈良県の核家族世帯の割合      ……64%
(2)児童虐待の中に占める核家族世帯の割合……73%
(3)児童虐待の中のネグレクトの割合   ……39%
(4)児童虐待の中の身体的虐待の割合   ……31%
(祖父母同居世帯では、ネグレクトの割合は、当然、少ないはず。)

話をわかりやすくするために、具体的に数字を置いて考えてみよう。

今、ここに、虐待を受けている子どもが、100人いたとする。

(1)そのうち、73人は、核家族世帯の子ども。27人は、そうでない、たとえば3世
代〜同居世帯の子ども。
(2)100人のうち、39人は、ネグレクトを受けている子ども。31人は、人体的虐
待を受けている子ども。もちろんその両方の虐待を受けている子どももいる。
(3)しかし奈良県のばあい、核家族世帯は、64%。繰りかえすが、もし虐待を受けて
いる100人の子どものうち、64人が、核家族世帯の子どもであったという結果
だったら、この調査は、まったく意味のない調査だったということになる。

ウ〜〜〜〜〜ン。

これらの数字を並べてみると、「核家族世帯でのほうが、そうでない世帯よりも、児童虐待
が、やや多いかな」という程度のことでしかない。
しかも「3世代〜同居世帯では、ネグレクトが起きにくい」ということを考慮に入れるな
ら、ネグレクトは、比較的、核家族世帯で起きやすく、身体的虐待は、比較的、そうでな
い世帯で起きやすいという程度のことでしかない。
つまり児童虐待、とくに身体的虐待と核家族世帯を、無理に結びつけることはできないの
ではないかとさえ思われる。

身体的虐待についていえば、核家族世帯であろうとなかろうと、そういうことに関係なく、
起きる。

で、結論。
「73%」という数字に、だまされてはいけない!

+++++++++++++++++

ついでに、社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」
のした調査結果を、ここに掲載する。

+++++++++++++++++

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の5人に1人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じてい
る母親は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、3倍になっていることがわかった(有
効回答500人・2000年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりし
ない」などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどき
ある……1点」「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、
「虐待なし」が、61%であった。この結果からみると、約40%弱の母親が、虐待もし
くは虐待に近い行為をしているのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、7%。そしてその大半が
何らかの形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分
の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかが
える」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、1998年ま
での8年間だけでも、約6倍強にふえていることがわかった。(2000年度には、1万7
725件、前年度の1・5倍。この10年間で16倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた6932件のうち、身体的暴行が3674件(53%)
でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、2109件(30・4%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が650件など。

虐待を与える親は、実父が1910件、実母が3821件で、全体の82・7%。また虐
待を受けたのは小学生がもっとも多く、2537件。3歳から就学前までが、1867件、
3歳未満が1235件で、全体の81・3%となっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 児童虐待 核家族 核家族
と児童虐待 ネグレクト)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●礼状

++++++++++++++++

先日、虐待についての相談があった。
その返事を書いた。
それについて、つぎのような礼状が
届いた。
こうして礼状をくれる人は、珍しい。
つまりこの礼状を書いた段階で、
その人の心の問題の大半は解決したと
みてよい。
自分を知るということは、そういうこと。

子育ての世界では、「うちの子のことは、
私がいちばんよく知っている」と思っている
親ほど、実は、自分の子どものことを知らない。

が、謙虚になったとたん、そこに自分の
姿が見えてくる。
「子どもは家族の代表」にすぎない。
それがよくわかるようになる。

++++++++++++++++++

【埼玉県のSTさんより、はやし浩司へ】(一部、プライバシーに関する部分は、改変)

何をどのように調べていいのか検索方法も正直わからないまま、先生のホームページにたどり
着いた時はすがるような思いで今思っていることを書き連ねました。

その後・・・メルマガの廃止・相談は現在休止していることを知りました。
お忙しいのに、突然のメールに丁寧に返信して頂き、読みながら涙が止まりませんでした。
子どものこの状態を作ったのは、明らかに私だ!早く何とかしなくては!!と感じながら、なか
なか一歩を踏み出せないまま、毎日を送りまたバトルをする・・・の繰り返しでした。

自分を振り返っても母との楽しい思い出はほとんど思い出せず、叩かれたりののしられた
り・・・辛い悲しい思い出しか浮かばず、虐待は連鎖すると聞いていたけれど、子どもを授かっ
た時に『絶対に優しいお母さんになる!!私は絶対手を出さない!』と理想の母になると決め
たはずでした。

ところが子育てはマニュアルどおりには全くいかず・・・それもわかっていたはずなのにイライラ
は募るばかりでした。
主人は、大変子育てには協力的で、母乳以外の事はすべてやってくれます。
むしろ私以上に母親です。
子どもの事もこんな私ですら大切にしてくれます。子どもたちももちろんいうまでもなく二人とも
パパっ子です。

主人は私にとっては、初めて嫌われるかどうかなど気にせず心を開ける唯一の人です。 

主人の優しさに私の心はやっと開き、前向きに生きれるようになり、主人と生活するようになり
生まれて初めて毎日が楽しく充実した日々をすごせるようになりました。

私と母との関係も知っています。
子どもに怪我した跡が見つかり、怪我するほど叱ってはだめだ!!とここ数年言われていまし
たが、
今年に入り子ども自身も今まで父親にはべたべた甘えていたのに、反抗的な態度をとる様に
なり、段々このままでは家族が崩壊すると心を痛めていました。
私はその主人の悲しそうな姿を見てこの人の為にも私自身が何とかしないと、本当に親子も夫
婦も・・・家族がバラバラになる。
それぞれが壊れてしまう・・・ニュースで取り上げているようなことがいつか我が家にも起こ
る・・・・主人に申し訳ないと。

以前テレビで見た【Mツリー】に問い合わせました。
しかし自分でもこれだけいいのか???子どももどこかにかからなくていいのか???とても
不安でした。

ネットを見ると【虐待】【アダルトチルドレン】【パーソナリティ障害】・・・・どれも当てはまりすぎる
ぐらい当てはまります。
子どもの荒れや自傷行為も私の関わりからだとはっきりしていますが・・・どこかわかっている
のに子どもに素直に謝る事も出来ず、自分を正す事も出来ません。

先生からの返事で戸惑っている場合でないことがよくわかり、心療内科の門をくぐろうと思いま
す。〔薬には正直抵抗がありますが・・・・〕
そして何より・・・・私たち家族の進むべき道が示されたような気がしてず〜っと先に光が見える
ように思えます。

私は母に色々相談したり、手をつないで出かけたり、ショッピングに行くとこはありませんでした
が娘といつか笑って並んで歩ける日がくるように頑張ります。

それとあつかましいのですが、M市でこのような心の問題に詳しい心療内科をご存知でしたら
教えて頂けないでしょうか??
紹介という形ではなく、特殊な問題ですので、ご存知であればそちらにかかろうかと思いまし
て・・・。
勝手なお願いばかりで申し訳ありません。なにとぞよろしくお願いします。
お忙しいところ本当にありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司






(5)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
●子どもの心とその形成期

●子どもの心とその形成期(改3)
 ==子どもの心は、いつどのように作られるか==

【乳幼児期・信頼関係の構築期】(0歳〜2歳前後)

●基本的信頼関係

 幼児の心は、段階的に形成されていく。混然一体となり、一次曲線的に形成されていくのではない。たとえば0歳から2歳ごろまでの乳幼児期。エリクソン(※1)という学者は、この時期を「信頼関係の構築期」と位置づけている。信頼関係…つまり母子の間における信頼関係をいう。
 この信頼関係の構築に失敗すると、いわゆる心の開けない子どもになる。さらにひどくなると、情意(心)と表情が、一致しなくなる。指導する側から見ると、「何を考えているか、わからない子ども」ということになる。これは子どもにとっても、不幸なことである。良好な人間関係を結べなくなる。そのためいつも孤独感にさいなまれるようになる。
 そこでその子どもは、外の世界で友を求める。しかし心が閉じているから、外の世界になじめない。その分だけ精神疲労を起こしやすい。ときに傷つく。それを繰り返す。
そうした心の状態を、ショーペンハウエルという心理学者は、『2匹のヤマアラシ』という言葉を使って説明した。
 2匹のヤマアラシ…ある寒い夜、2匹のヤマアラシは、たがいにくっついて暖を取ろうとした。が、くっつきすぎると、たがいの針が痛い。離れると寒い。だから2匹のヤマアラシは、一晩中、くっついたり離れたりを繰り返した。

●2匹の犬

 私はこのことを、2匹の犬を飼って知った。1匹は、保健所で処分される寸前の犬。これをA犬とする。人間でいうなら、育児拒否、冷淡、無視、虐待を経験した犬ということになる。

もう一匹は、超の上に超がつく愛犬家の家で生まれ育った犬。私の家に来てからも、しばらくは、私は自分のふとんの中で抱いて寝た。これをB犬とする。
 2匹の犬は、性格がまったくちがった。A犬は、だれにも愛想がよく、シッポを振った。そのため番犬にはならなかった。おまけに少しでも目を離すと、家の外へ。道路で見つけても、叱られるのがこわいのか、私からサーッと逃げていった。
 一方B犬は、忠誠心が強く、他人が与えた餌には口をつけなかった。私の言いつけもよく守った。もちろん番犬になった。見知らぬ人が庭へ入ると、けたたたましく吠えた。
 A犬と私の間には、最後まで信頼関係は構築できなかった。一方、B犬と私は、最後まで深い信頼関係で結ばれていた。

●性格

 が、それだけではすまない。心は性格として定着する。「私」がない分だけ、自分を偽る。仮面をかぶる。おとなにへつらったり、相手の機嫌を取ったりする。おとなの前で、いい子ぶったりする。イプセンの『人形の家』の主人公を例にあげるまでもない。
 …ということで、この時期は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)を大切にする。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。つまり子どもの側からすれば、「どんなことをしても許される」という安心感。母親側からすれば、「どんなことをしても許す」という包容力。この2つがあいまって、はじめて母子の間の信頼関係が構築される。が、不幸にして不幸な家庭に育ち、信頼関係の構築に失敗すれば、基本的不信関係となり、生涯に渡ってその子どもは、重い十字架を背負うことになる。

●親子の絆

 親子の絆にしても、そうだ。最近の研究によれば、人間にも、刷り込み(インプリンティング)(※3)に似たようなものがあることがわかってきた。孵化してすぐ二足歩行を始める鳥類は、最初に見たものや聞いたものを親と思い込む。それを刷り込みというが、そのとき親子の絆は、本能に近い部分にまで刷り込まれる。
 人間のばあい、生後0か月から7か月前後までが、その時期とされる。この時期を「敏感期」と呼ぶ学者もいる。この時期における親子の絆作りがいかに重要かは、このひとつをとっても、わかる。

●子どもを愛せない母親

 その一方で、子どもを愛することができないと、人知れず悩んでいる母親も多い。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、7%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答500人・2000年)。
 私が同時期に浜松市で調査したところ、「10%」という数字が出てきた。程度の差もあるが、「兄は愛せないが、妹は愛せる」という母親も含めると、10%になる。
 また虐待についても、約40%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているという。(妹尾栄一調査)。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しばしばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの9%、「虐待傾向」が、30%、「虐待なし」が、61%であったという。
 母親だから子どもを愛しているはずと決めつけて考えてはいけない。

●世代連鎖

 ついでながら、虐待について一言。『子育ては本能ではなく、学習である』。とくに人間のような高度な知能をもった動物ほどそうで、親に育てられたという経験が身にしみていてこそ、今度はその子どもが親になったとき、自然な形で子育てができるようになる。あるいは親から受けた子育てを、そのまま繰り返す。これを「世代連鎖」という。
 つまり子育てとは、子どもを育てることではない。子どもに子育ての仕方を見せる。見せるだけでは足りない。しみこませておく。「家族というのはこういうものですよ」「夫婦というのは、こういうものですよ」「親子というのはこういうものですよ」と。
 それがよい世代連鎖であれば、問題はない。が、そうでなければそうでない。たとえば昔から『離婚家庭で生まれ育った子どもは離婚しやすい』と言う。
 「離婚が悪い」と書いているのではない。離婚率も今や35%(平成19年)に達している。(25万件(離婚届数)を72万件(結婚届数)で割ってみた。)離婚そのものは、子どもの心にほとんど影響を与えない。離婚に至る家庭騒動が、影響を与える。どうか誤解のないように!
 とくに世代連鎖しやすいのが虐待ということになる。親が子どもを虐待するのはしかたないとしても、今度はその子どもが自分の子ども(孫)を虐待するようになる。それを見て、そのとき親が、「しまった!」と気づいても遅い。つまり虐待はしない。

●心の病気の(種)も乳幼児期に

 さらに心の病気についても、その(種)は、乳幼児期に作られると説く学者もいる。たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、『母親から保護される価値のない、自信のない自己像』(※4)を形成すると説く。
 さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になることもあるという。それが成人してから、うつ病につながっていく(同氏)、とも。

●自己中心性

 この時期の幼児の特徴を一言で表現すれば、「自己中心性」ということになる。ものごとを、(自分)を中心にして考える。「自分の好きなものは、他人も好き」「自分が嫌いなものは、他人も嫌い」と。
 それがさらに進むと、すべての人やものは、自分と同じ考え方をしているはずと、思いこむ。自然の中の、花や鳥まで、自分の分身と思うこともある。これを「アニミズム」(ピアジェ)という。心理学の世界では、物活論、実念論、人工論という言葉を使って、この時期の子どもの心理を説明する。 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。
 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考える。……というより、生物と、無生物の区別ができない。
 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心理をいう。
 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずることで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。
 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられたと考える心理である。
 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さしながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、説明される。
 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。しかしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎えることがある

【幼児期前期・自律期】(2〜4歳児)

●マシュマロテスト

 1960年代に、スタンフォード大学で、たいへん興味深いテストがなされた。「マシュマロテスト」というのが、それである。そのテストを、同大学のHPより、そのまま紹介させてもらう。

『スタンフォード大学の附属幼稚園で、4児を対象に、マシュマロテストと題したつぎのような実験がおこなわれた。実験者が4才児に向って、「ちょっとお使いに行ってくるからね、おじさんが戻ってくるまで待ってくれたら、ごほうびに、このマシュマロを2つあげる。でも、それまで待てなかったら、ここにあるマシュマロ1つだけだよ。そのかわり今すぐ食べてもいいけどね」と。
約20分最後までガマンして、ごほうびにマシュマロ2個をもらった子供と、そうでない子供に分かれた。その4才児を追跡調査した、興味ある結果が出てきた。
マシュマロ2つの子供は1つの子供に比較して、高校において学業の面で、はるかに優秀で、社会人になってからも高い社会性を身につけ対人能力にも優れ、困難にも適切に対処できる人間になっていた』(同サイト)と。

 ダニエル・ゴールマンは、自著「EMOTIONAL INTELLIGENCE」の中で、この実験をつぎのように結んでいる。いわく、「明日の利益のために、今の欲望を我慢する忍耐力は、あらゆる努力の基礎になっている。きたるべき報酬を予期することで、現在の満足を得ながら目標に向って長期にわたって努力しつづける持続力には、忍耐を要する」(同サイト)と。

●決定的な差

 この実験を少し補足する。この実験は、1960年代にスタンフォード大学の心理学者ウォルター・ミシェルが大学構内の付属幼稚園で始めたもので、その後も詳細な追跡調査がなされている。
 その結果、すぐマシュマロに手を出したグループと、がまんして2個受け取ったグループの間で、決定的な差が生じたことは先に書いたとおりだが、情動を自己規制できたグループは、たとえば、学業の面でも、SAT(大学進学適正試験)(※2)で、もう一方のグループに200点以上もの大差をつけたという(植島啓司著「天才とバカの境目」(宝島社))。

●忍耐力

 よく誤解されるが、この時期の子どもにとって、忍耐力というのは、「いやなことをがまんしてする力」のことをいう。一日中、サッカーをしているからといって、忍耐力のある子どもということにはならない。好きなことをしているだけである。ためしに子どもに、台所のシンクにたまった生ゴミを手で始末させてみるとよい。背が届かなければ、風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そういった仕事を、何のためらいもなく、ハイと言ってできれば、その子どもはすばらしい子どもということになる。
 もちろんこのタイプの子どもは、学習面でも伸びる。というのも、もともと(勉強)には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。

●自律期

 エリクソンは、この時期を「自律期」と呼んだ。この時期を通して、幼児は、してよいことと、してはいけないこと、つまり自分の行動規範を決める。前回教えたこととちがったことを言うと、「ママは前にこう言ったじゃない」と抗議したりする。「幼稚園の先生はこう言った」と言って、親をたしなめるのも、この時期の子どもの特徴である。それが正義感へとつながっていく。
 そのためこの時期をとらえ、うまく指導すれば、あと片づけのしつけがたいへんうまくいく。花瓶の位置がずれていただけで、それが気になり、元の場所に戻そうとする。そうでなければそうでない。行動そのものが衝動的になり、生活全般がだらしなくなる。

●では、どうするか

 子どもの忍耐力を養うためには、「使う」。家庭の中に、ある種の緊張感をつくり、その緊張感の中に巻き込む。「自分がそれをしなければ、家族のみなが困る」という意識をもたせるようにする。親がゴロゴロと寝ころんでいて、子どもに向かって、「おい、新聞をもってこい」は、ない。
 ついでながら、この日本では、子どもに楽をさせること、あるいは楽しませることが、子どもへの愛の証であると誤解している人は多い。あるいはより高価なプレゼントをすればするほど、親子の絆は太くなると誤解している人も多い。しかし誤解は誤解。そんなことを繰り返せば、子どもはますますドラ息子、ドラ娘化する。やがて手がつけられなくなる。
 そこでイギリスでは、こう言う。『子どもの心をつかみたかったら、釣り竿を買ってやるより、いっしょに、釣りに行け』(イギリスの教育格言)と。

【幼児期後期・自立期】(4〜5・5歳児)

●暴言

 この時期の子どもの特徴は、生意気になること。親が「新聞を取ってきて!」と頼むと、「自分のことは自分でしなと言い返したりする。生意気になりながら、自立をめざす。
 で、子どもの自立を促す3種の神器、それが(1)ウソ、(2)暴言、(3)盗み。
 ウソについては、2歳前後から始まる。ウソ寝、ウソ泣きがそれである。
 つぎに暴言。自立期に入ると、親の優位性を打破しようと、子どもは親に向かって暴言を吐くようになる。「ババア」「ジジイ」「バカ」など。暴言を許せというのではない。暴言を言えないほどまで、子どもを抑えつけてはいけない。適当にあしらい、あとは無視する。私のばあい、つぎのような方法で、幼児を指導している。

私「……もっと悪い言葉を教えてやろうか」
子「うん、教えて!」
私「でも、この言葉は、使ってはいけないよ。園長先生とか、お父さんに言ってはだめだよ」
子「わかった。約束する」と。

 そこで私はおもむろに、こう言う。「ビダンシ(美男子)」と。それ以後幼児たちは、喜んでその言葉を使う。私に向かって、「ビダンシ、ビダンシ!」と。
 盗みについても、同じように考えるが、子どもの金銭感覚(ふえた、減った、得をした、損をした)は、年長児から小学2年生ごろまでに完成する。この時期に、欲望を金銭で満たす方法を覚えると、あとがたいへん。幼児期には100円で喜んでいた子どもでも、高校生になると1万円、さらに大学生になると10万円になる。
 さらに脳の中(線条体)に受容体ができると、条件反射的にものをほしがるようにになる。買い物依存症がその一例ということになる。必要だからそれを買うのではない。欲しいからそれを買うのでもない。(買いたい)という衝動を満たすために、それを買う。
 話しが脱線したが、盗みについては、それが悪いことということを、時間をかけ、ゆっくりと説明する。激しく叱ったり、怒鳴りつけたりすれば、子どもは、いわゆる「叱られじょうず」になるだけ。いかにも反省していますという様子だけを見せ、その場を逃れようとする。もちろん説教としての意味はない。

●引き出す(educe)

 が、ここでも誤解してはいけないことがある。この時期、「自立心」は、どの子どもにも平等に備わっている。そのため自立心は育てるものではなく、引き出すもの。が、かえってその自立心をつぶしてしまうことがある。親の過保護、過干渉、溺愛である。とくに過干渉が、こわい。
 親の威圧的、暴力的、権威主義的な育児姿勢が日常化すると、子どもはいわゆる「過干渉児」になる。子どもらしいハツラツとした伸びやかさを失い、暗く沈んだ子どもになる。発達心理学の世界には、「萎縮児」という言葉さえある。最悪のばあいは、精神そのものが萎縮してしまう。
 (その一方で、同じ家庭環境にありながら、粗放化する子どももいる。親の過干渉にやりこめられてしまった子どもを萎縮児とするなら、それをたくましくやり返した子どもが粗放児ということになる。兄が萎縮し、弟が粗放化するというケースは、よく見られる。)

●原因は母親

 原因のほとんどは、母親にある。子育ての不安が、母親をして過干渉に駆り立てる。が、簡単に見分けることができる。

私、(子どもに向かって)、「お正月にはどこかへ行ってきたの?」
子「……」
母、(それを横で見ていて)、「おじいちゃんの家に行ったでしょ。行ったら、行ったと言いなさい」
子「……」
私、(再び子どもに向かって)、「楽しかった?」
子「……」
母「楽しかったでしょ。楽しかったら、楽しかったと言いなさい」と。

 子どもの心の内容まで、母親が決めてしまう。典型的な過干渉ママの会話である。

●過保護と溺愛

 過保護といってもいろいろある。食事面の過保護、行動面の過保護など。何か心配の種があり、親は子どもを過保護にする。「アレルギー体質だから、食事面で気をつかう」など。
 しかし何が悪いかといって、精神面での過保護ほど、悪いものはない。「あの子は悪い子だから、あの子とは遊んではだめ」「公園にはいじめっ子がいるから、ひとりで行ってはだめ」など。
 子どもを、厚いカプセルで包んでしまう。で、その結果として、子どもは過保護児になる。いつも満足げで、おっとりしている。が、社会性がなく、ブランコを横取りされても、それに抗議することもできない。そのまま明け渡してしまう、など。だから昔からこう言う。『温室育ち、外ですぐ風邪をひく』と。
 また溺愛は、「愛」ではない。たいていは、親側に精神的欠陥、情緒的未熟性があって、親は子どもを溺愛するようになる。つまり自分の心のすき間を埋めるために、子どもを利用する。
 ある母親は、毎日幼稚園の塀の外で、子どもの様子をながめていた。また別のある母親は、私にこう言った。「先生、私、娘(年長児)が病気で幼稚園を休んでくれると、うれしいです。一日中、看病できると思うと、うれしいです」と。
 親の溺愛が度を越すと、子どもの精神の発育に大きな影響を与える。子どもはちょうど、飼い主の胸に抱かれた子犬のようになる。だから私はこのタイプの子どもを、「ペット児」(失礼!)と呼んでいる。飼い慣らされた子犬のように、野生臭が消える。

●臨界期

 それぞれの発達段階には、臨界期がある。言葉の発達、音感や美的感覚の発達などなど。それぞれの時期をはずすと、指導がたいへんむずかしくなる。あるいは努力の割には、効果があがらない。心についても、そうである。
 たとえば自立期に入った子どもに、「自律」を教えようとしても、たいてい失敗する。先に書いた、あと片づけのしつけも、そのひとつ。
 で、幼児期後期で、一度、精神が萎縮してしまうと、以後その改善は、きわめてむずかしい。『三つ子の魂、百まで』というが、それがそのままその子ども(=人)の人格の「核(コア)」になる。言い換えると、この時期を過ぎたら、子どもの心はいじらない。「この子はこういう子である」と認めた上で、教育を組み立てる。へたにいじると、自信なくしたり、自己評価力の低い子どもになってしまう。

【児童期・勤勉性の構築期】(5・5歳〜)

●日本人の勤勉性

 3・11大震災が起きたときのこと。栃木県にあるH自動車栃木工場の操業が不可能になってしまった。天井が落下した。その直後、この浜松市から250人もの応援部隊が、栃木工場に向かった。
 一方、栃木工場にいた設計士たちは、浜松近郊の関連会社へ来て、仕事をつづけた。また被災地においても、ほかの国であるような、略奪、暴動などは、起きなかった。日本人が培った勤勉性、つまり(組織的なまじめさ)は、災害時においても、いかんなく発揮された。
 こうした勤勉性は、言うまでもなく、学校教育によって育てられる。いろいろ問題点がないわけではない。世界のすう勢は、自由教育。EUでも、大学の単位は共通化された。アメリカでは、ホームスクーラー(日本でいうフリースクールに通う子ども)が、2000年には100万人を超えた。現在、推定で200万人はいるとされる。ドイツでは、午前中は学校で、午後はクラブでという教育形態が、ふつうになっている(中学生)。カナダでは、学校の設立さえ、自由である。
 日本もその方向に向かいつつはあるが、ともかくも、勤勉性の構築という点では、日本の学校教育には、すぐれた面も多い。この(まじめさ)をさして、ある欧米の特派員は、こう書いた。「これこそまさに日本人の美徳」と。この言葉に異論はない。

【青年期・同一性の確立期】(12歳〜)

●同一性の確立

 児童期のあと、子どもは思春期前夜(精神的に不安定になる)、思春期へと進んでいく。この時期の、言うまでもなく最大かつ最重要の課題は、「同一性の確立」である。
 「私はこうありたい」という(自己概念)。「現実に私はそれをしている」という(現実自己)。この両者が一致した状態を、「同一性」という。
 児童期の勤勉性と同一性の確立について、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、実際には、両者の間には、連続性がある。子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、自我の同一性を確立していく。
 自我の同一性の確立している子どもは、強い。どっしりとした落ち着きがある。誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりんの状態」になる。心理的にも、たいへん不安定となる。非行にも走りやすい。その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異行動をとることが知られている。
 たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
 もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従ってしまう。断ることによって仲間はずれにされるより、そのほうがよいと考えてしまう。
 こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたりということは、ほとんどない。

●夢と希望、そして目的

 ただ残念なことにこんな調査結果もある。
子どもを伸ばす、三種の神器といえば、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を終える子どもは、男子で30%、女子で35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。
 が、これではいけない。自我の同一性どころではないということになる。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心得る。

【終わりに……】

●『子どもは人の父』(ワーズワース)

 このように現在、幼児教育が、教育の分野のみならず、医学(大脳生理学)、心理学の3方向から、見直され始めている。「幼児だから幼稚」「子どもだから幼稚」という偏見と誤解が、いまだにのさばっている。むしろ事実は逆。
 幼児時代を「幹」とするなら、それにつづくもろもろの時代は、その「枝葉」にすぎない。かつてイギリスの詩人、ワーズワース(1770〜1850)は、こう歌った。

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
 私が子どものころも、そうだった。
 人となった、今もそうだ。
 願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
 子どもは人の父。
 自然の恵みを受けて、それぞれに日が
 そうであることを、私は願う。

 つまり『子どもは、人の父(A Child is Father of the Man)」と。この言葉のもつ重みを、もう一度、心にしっかりと刻みたい。

注※1 エリクソン…エリク・ホーンブルガー・エリクソン(1902−1994)は、発達心理学者、精神分析家。「アイデンティティ(自我の同一性)」の概念を提唱したことで知られる。
注※2 SAT…Critical Reading、Writing、Math が、それぞれ200点から800点の表示、合計2400点満点で評価される。
注※3 インプリンティング…(すりこみ imprinting)とは、刻印づけのこと。コンラート・ローレンツの研究で世界に知られるようになった。
注※4 九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11月)

はやし浩司(ひろし)
1947年生まれ。金沢大学法学部、メルボルン大学法学院研究生、三井物産社員を経て、幼稚園講師に。幼児教育歴40年(2011年)。30冊以上の著書と百科事典の編集など。ほかに東洋医学の著書5冊、宗教論の著書5冊など。現在静岡県浜松市在住。BW教室主宰。


(6)
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民主主義とは何か


【権威主義と天下のバカ大臣】

+++++++++++++++++++++

ときどき講演に招かれる。
ていねいに迎えられる。
が、居心地があまりよくない。
窮屈。
そのときいつも、私はこう思う。
「私は、そんな人間ではないのだがなあ」と。 

が、もしそんな私でも、毎日、そんなふうに
扱われたら……。
やがて感覚が麻痺し、意識が逆転するかも
しれない。

+++++++++++++++++++++

●官僚主義国家

 今朝も中国の友人からメールが届いていた。
こうあった。
原発事故被災地についてのメールだったが、最後の一文が、グサリと胸に突き刺さった。

「China is a dictatorship country, even Japan is not a real democratic country. 」
「中国は、独裁国家だが、日本も同じように、真の民主主義国家ではない」と。

 これについては、世界中の人たちが、異口同音にそう書いている。

(1)なぜ日本では、大規模なデモ(抗議行動)が起きないのか、と。

 答は簡単。
日本人は、江戸時代より「もの言わぬ従順な民」に作りあげられている。
それがまた教育の第一目標になっている。
「ものを言う民」は、官僚政治にとっては、まことにもって都合が悪い。
が、それが悲劇ではない。
本当の悲劇は、日本人自身がそれに気づいていないということ。
民主主義もどきの民主主義をもって、それが民主主義と思い込んでいる。

 このことは私自身が経験している。
1970年に、オーストラリアのメルボルン大学(法学院)に留学したときのこと。
どのテキストにも、「日本は官僚主義国家」と書いてあった。
「君主(ローヤル)官僚主義国家」と書いてあるのもあった。

 当時の私はそれに猛烈に反発した。
が、日本は世界に名だたる官僚主義国家だった。
それから40年以上。
今に到るまで、何も変わっていない。
日本は、官僚のための、官僚による、官僚の国。

 日本の中に住んでいると、それがわからない。
日本の外に住んでみると、それがわかる。
あるいは外の国の人には、それがわかる。
「日本は新の民主主義国家ではない!」と。

●天下のバカ大臣、M/R

 TBS−iは、つぎのように伝える。

++++++++++++++以下、TBS−iより++++++++++++++++

M/R復興担当大臣が就任後初めて、3日、宮城県庁を訪れましたが、村井知事が出迎えなか
ったことに
腹を立て、知事を叱責しました。

 宮城県庁を訪れたM/R復興担当大臣。村井知事が出迎えなかったことで顔色が変わりま
す。

 「(村井知事が)先にいるのが筋だよな」(M/R復興相)

 笑顔で現れた村井知事、握手を求めますが、拒否。応接室が緊張します。そして要望書を受
け取ると、
M/R大臣が語気を強めて自らの考えを伝えます。

 「(水産特区は)県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。

客さんが来るときは、自分が入ってきてからお客さんを呼べ。長幼の序がわかっている自衛隊
なら、そ
んなことやるぞ。しっかりやれよ。今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうその社は終わ
りだか
ら」(M/R復興相)

++++++++++++++以下、TBS−iより++++++++++++++++

 問題点は4つある。

(1)村井知事が出迎えなかったことに腹を立て、知事を叱責したこと。
(2)笑顔で現れた村井知事、握手を求めるが、拒否したこと。
(3)「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ」と言ったこと。
(4)「今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうその社は終わりだから」と言ったこと。
ほかにも、「オレは九州の人間だから、東北の市が何県にあるか知らない」と言ったとも伝えら
れてい
る。

 いろいろな大臣がいるが、(……いたが)、ここまで権威主義の凝り固まった大臣というもの
少ない。
まるで封建時代の殿様、そのもの。
「上下意識」が強く、「自分は偉い人間」と錯覚している。
はっきり言えば、バカげている。
つまりその錯覚意識があるかぎり、日本の民主主義は、完成しない。

 人は何をもって、「偉い」というか。
その前に「偉い」とは何か。
この日本では、地位が高く、肩書きが立派な人ほど、「偉い」という。
が、英語国には、「偉い」に相当する単語すらない。
あえて言えば、「respected」ということになる。
「尊敬される」という意味である。

 が、「尊敬される」というときには、地位や肩書きは関係ない。
いわんや日本流の上下意識は、ない。

M/Rは、大臣。
一方は、県知事。
M/Rは、無意識のうちにも(?)、上下判断をし、それに応じない相手を「無礼」と決めつけた。
まさに時代錯誤。
が、これは何もM/Rだけの問題ではない。

●権威主義

 権威主義と言えば、水戸黄門がある。
今でもテレビの人気番組になっている。
三つ葉葵の紋章をかかげ、「控えおろう」と一喝すれば、みなが、「ハハー」と言って頭をさげ
る。
日本人には、実に痛快なシーンということになる。
が、欧米人には、それが理解できない。
あるときオーストラリアの友人にこう聞かれた。

「ヒロシ、水戸黄門が悪いことをしたら、どうなるのか?」と。

で、私が「水戸黄門は悪いことはしない」と答えると、まわりにいた学生たちまで、「それはおか
しい」
と言って騒いだ。
オーストラリアでは、ときの権力者といかに戦ってきたかが、歴史になっている。
ウィリアム・ウォレス(イギリス)、ロビン・フッド(イギリス)、マッド・モーガン(オーストラリア)
などなど。
そういう人たちが英雄になっている。

 つまりそれを支える権威主義者たちがいるから、こういうバカ大臣がいつまでものさばる。

 話は少し脱線するが、以前書いた原稿を紹介する。
「意識」を考える、ひとつのヒントになれば、うれしい。
「世にも不思議な留学記」より。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●珍問答

 私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。
中には、「空手を教えてくれ」「ハラキリ(切腹)の作法を教えてくれ」というのもあった。
あるいは「弾丸列車(新幹線)は、時速150マイルで走るというが本当か」「日本では、競馬の
馬は、
コースを、オーストラリアとは逆に回る。なぜだ」と。
さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあった。
話を聞くと、「カルピス」という飲料を誤解したためとわかった。
カウは、「牛」、ピスは、ズバリ、「小便」という意味である。

●忠臣蔵論

 が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、4、5人の学生が私を囲んで、こう

いた。
「忠臣蔵を説明してほしい」と。
いわく、「浅野が吉良に切りつけた。浅野が悪い。そこで浅野は逮捕、投獄、そして切腹。
ここまではわかる。
しかしなぜ、浅野の部下が、吉良に復讐をしたのか」と。
加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。
それに死刑を宣告したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府
に抗議
すればよい。
また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。どうしてボスに責任を追及し
ないの
か、と。

 私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本人は、
水戸
黄門に頭をさげるのか。
水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるのか」と。
私が、「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。

 イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになっている。たと

ばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。
体中を鉄板でおおい、たった一人で、総督府の役人と戦った男である。
イギリスにも、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウォレスという人物がいた。

●日本の単身赴任

 法学部でもこんなことが話題になった。ロー・スクールの一室で、みながお茶を飲んでいると
きのこ
と。
ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。
「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)とい
う制度が
あるが、法的な規制はないのかね?」と。
そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされ
て、何
が仕事か!」と叫んだ。

 日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでいるか
ぎり、絶
対にわからない。
が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が日本へ帰ってきてからのことであ
る。

●泣き崩れた母

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのときす
でにM
物産を退職し、教師になっていたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてし
まった。
「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア〜」と。

だからといって、母を責めているわけではない。
母は母で、当時の常識に従って、そう言っただけだ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支
えてく
れると思っていた。
が、その一言で、私はすっかり自信をなくし、それから30歳を過ぎるまで、私は、外の世界で
は、幼
稚園の教師をしていることを隠した。
一方、中の世界では、留学していたことを隠した。どちらにせよ、話したら話したで、みな、「どう

て?」と首をかしげてしまった。

 が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、ほかな
らぬ、
オーストラリアの友人たちである。
みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらしい仕事だ」と。その励ましがなかったら、今の私はなかっ
たと
思う。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi 
Hayashi education essayist writer Japanese essayist 意識のズレ 浅野内匠頭 吉良上野介
 忠臣蔵 
意識論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●原因は歴史教育

 意識は、当然のことながら、教育によって、作られる。
とくに「歴史」については、そうである。
今でも、「私の目標は、織田信長になること」(M県・県知事)と豪語してやまない人がいる。

 それについて書いた原稿ではないが、参考までに、以前書いた原稿を、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●織田信長

++++++++++++++++++++++++++

織田信長は、なぜ、消防自動車を呼ばなかったのか?
「織田信長は、家来の(宴会中)に殺された」では、なぜまちがっているのか?

++++++++++++++++++++++++++

●珍回答

 「織田信長は、本能寺で、なぜ消防自動車を呼ばなかったのか?」と聞いた、子どもがいたと
いう(某雑誌)。
子どもといっても、中学生(?)である。
年齢はわからないが、漢字をそこそこに使えるところをみると、それくらいの年齢である。

 一方、「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」と、歴史のテストで答えた子どどもいた。
こちらも、中学生(?)である。
年齢はわからないが、ともに小学校の高学年児かもしれない。
あるいはひょっとしたら、高校生かもしれない。
「高校生」とは名ばかり。
歴史の知識にかぎらず、その程度の常識しかない高校生は、いくらでもいる。

●バカげた歴史教育

 そこそこに歴史の知識のある人は、こうした子どもたちの疑問や、回答を笑う。
かれらがもっている常識でもよい。
その常識を笑う。
織田信長の時代には、消防自動車は、なかった。
また織田信長は、家来の(明智光秀)に殺された。

 が、ここで私は、ハタと考えてしまう。
私たち自身だって、一応常識的な人間と思っているが、その一方で、非常識な情報に、そのつ
ど振り回
されている。

 織田信長にしても、日本では歴史上の人物となっている。
しかし(ほめたたえるべき人物)であったかどうかということになると、それはどうか?
見方をほんの少し変えると、織田信長は、ただの殺戮(さつりく)者。
それを本能寺で討ち殺した明智光秀も、これまたただの殺戮者。
言うなれば、本能寺での異変は、ただ単なる、殺戮劇!

 権力の座についたというだけで、この日本では、「歴史上の人物」ということになる。
名を残すことになる。
事件があった年まで、記録され、今になっても、子どもたちは、それを暗記させられる。
どうしてそんなことが
必要なのか。
重要なのか。
さらに一歩、踏み込めば、このバカげた歴史教育に、なぜ、私たち日本人は、気がつかないの
か?

 たとえばあなたの近所で、親の遺産を取り合って殺人があったとする。
そうした殺人と、織田信長や明智光秀がした殺人と、どこがどうちがうというのか。
あなたはその(ちがい)を説明できるだろうか。

 「戦国時代の昔、いろいろな武将がいて、国を取り合った。
その中に、頭のおかしい武将もいて、家来に殺されることもあった」と。
その程度の知識で、じゅうぶんではないのか。
またどうしてそれではいけないのか。
年号を正確に言えたからといって、それがどうしたというのか?
必要であれば、そのつど、調べて、それを書けばよい。
ちなみに私は「本能寺の変」という言葉は知っているが、何年にそれが起きたか、知らない。

 大切なのは、中身。
今に残る、中身。
つまりなぜ私たちが歴史を学ぶかと言えば、過去の人たちのなした経験を、「今」に生かすた
め。
失敗でもよい。
そういうことをしないで、一方的に織田信長を美化するから、いまだに「国盗り物語」よろしく、
政治
家の中には、権力闘争に明け暮れる人がいる。
またそういう人が、いつまでたっても、後を絶たない。

●大切なのは中身

 もし本能寺での異変が重要な歴史的事実であるとするなら、なぜそういう事件が起きたか。
その背景を教える。
そこに至る経緯を教える。
ついでに権力闘争の醜さや、無意味さを教える。
それが歴史教育だと、私は思う。

 だからテストの内容も、こう変えればよい。

【問】

 「織田信長という独裁者が、本能寺という寺で、家来の明智光秀という人に殺された。
なぜ、明智光秀は、織田信長を殺したか。またあなたはこうした権力闘争を、どう思うか」。

 ともかくも日本の歴史教育は、暗記一辺倒。
暗記に始まって、暗記に終わる。
この教育姿勢は、明治の昔からまったく、変わっていない。
ウソだと思うなら、大学の受験生たちがもっている歴史の参考書を見てみればよい。
センター試験の問題を見てみればよい。

 重箱の隅の、そのまた隅をほじくり返したような問題ばかり。
教える側も、それを教えるのが歴史教育と錯覚している。
教わる側も、それを暗記するのが歴史教育と錯覚している。

 ちなみにこうしたバカげた歴史教育をしているのは、この日本だけ。
欧米では、教師が生徒にテーマだけを与えて、そのテーマに沿ってレポートをまとめるのが、
歴史教育
の(柱)になっている。

「あなたはトラガルファーの戦いについて、1年をかけて、調べなさい」
「あなたはフランス革命について、1年をかけて、調べなさい」と。

 そして年度の終わりに、自分の勉強したことを、調べたことを、みなの前で発表する。
そういう教育を、小学生のときからしている。
小学生のときから、受けている。

●知識は無価値

 暗記ということになるなら、ついでに明智光秀のほかの家来たちの名前も暗記したらよい。
ついでにそれぞれが、どのような作業を分担したか、それも暗記したらよい。
本能寺にいた織田信長の家来たちの名前も、暗記したらよい。
本能寺の住所も暗記したらよい。

 が、今では、こうした知識は、インターネットを使えば瞬時に手にすることができる。
詳しい内容を知りたければ、パソコンを使って調べればよい。
大切なのは、その上で、どう考え、どう判断するか、である。
そしてそれをどう「今」に生かしていくかである。

 私たちもそろそろ気がつくべきときにきている。
「暗記は無価値」と。
暗記といっても、このばあい、暗記のための暗記を重ねるような暗記をいう。
地理にしても、無罪とは言えない。

 この話で思い出すのは、5、6年ほど前に、つぎのようなことを暗記していた中学生である。
その中学生は、こう復唱していた。
「長野の高原野菜、富山のチューリップ・・・」と。
そこで私がその中学生に、「高原野菜って何?」と聞くと、その中学生はあっさりと、こう答え
た。
「知らない・・・」と。

 で、私はこう言った。
「浜名湖のうなぎと、教科書には書いてあるけど、今ではうなぎを養殖している業者は、ほとん
どいな
いよ」と。

●新しい教育

 「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」でも、よいではないか。
そのとき本当に宴会をしていたのかもしれない。
ひょっとしたら織田信長の家来たちは宴会でもして、油断していたのかもしれない。
それをまちがっていると証明できる人は、だれもいない。
百歩譲って、どうして「明智光秀」という名前を、書かねばならないのか。
またどうしてそれが重要なことなのか。

 さらに百歩譲って、それが重要なことというのなら、それこそ重箱の底をほじくり返すような知
識を、
生徒たちに暗記させたらよい。
暗記程度に応じて、成績をつけたらよい。
が、それは先にも書いたように、バカげている。
つまりこういうバカげた教育を教育と思い込んでいるから、その一方で、「なぜ消防自動車を呼
ばなか
ったのか?」という子どもが出てくる。
思考力そのものが欠落したような子どもである。

 が、これでは、いつまでたっても、日本人は変わらない。
進歩しない。
愚劣な失敗を、いつまでも繰り返す。

 たとえば私は、もう40年も前のことだが、北欧のどこかの国の首相が、議会まで自転車通勤
をして
いるのを知って、本当に驚いたことがある。
当時の常識(?)に凝り固まっていた私には、信じられないような話だった。
「首相が、自転車で通勤?」と。

 ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛庁の
長官に就
任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった。

 悲しいことに、現在の日本は、まだその延長線上にある。
その責任の大きな部分は、日本のゆがんだ歴史教育にある。
・・・と言うのは書き過ぎかもしれない。
しかしそれくらいの緊張感をもって、この問題を考えないと、今の日本の歴史教育を変えること
はでき
ない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はや
し浩司 日本の歴史教育 暗記教育 暗記のための暗記 ゆがんだ歴史教育 暗記教育)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●首相が自転車通勤

 この原稿の中で、とくに注意してほしいのは、以下の部分。

「ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛庁の長
官に就
任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった」。

 まともな人が見れば、狂っている。
その狂っていることが、当時は常識だった。
国名は忘れたが、当時すでに欧米では、首相といえども、みな自宅から自転車通勤をしていた
(北欧)。


 それが民主主義……というより、民主主義の「結果」。

●天下のバカ大臣

 こういうバカが、大臣になった。
大臣になって、東北の復興を手がけることになった。
いわく、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ」と。

 人間も謙虚さを忘れたら、おしまい。
「大臣」「大臣」とチヤホヤされるうちに、自分を見失ってしまった。
被災者たちの気持ちを忘れてしまった。
だいたい「我々は何もしないぞ」とは、何ごとか!

 報道の内容が事実とするなら、この一言で、大臣失格。
即刻管直人首相は、M/Rをクビにすべき。
それができないというのであれば、管直人首相自身が責任を取るべき。

 ……朝、起きてニュース・サイトをながめた。
久々に、私は怒った。
で、あえて持論を確認。
「偉い」を廃語にしよう!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【「偉い」を廃語にしよう】

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。
よく似たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。
日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり
偉い人とは言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はや
し浩司 天下のバカ大臣 偉い 日本の民主主義 官僚主義 はやし浩司 偉いを廃語にしよ
う 復
興担当大臣)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司

(7)
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【欲望の奴隷たち】(壊れる子どもの心)

●孫が、裁判?

 長野県に住む友人が、こう言った。
大学の同窓生で、司法書士をしている。
「林君なあ、今はなあ、孫がなあ、親をたきつけて、遺産相続の裁判を起こす時代なんだよな
あ」と。

 少しわかりにくい話で、ごめん。
が、こういうこと。

親が死ねば、争うとしても、ふつうは遺産相続権がある実子が、遺産分割を求めて裁判を起こ
す。
「私にも、分け前をもらう権利がある」と。

 が、最近は、そもそも遺産相続権のない孫が、親を前に立て、遺産分割を求めて裁判を起こ
す。
そんなケースがふえてきた、と。
「親父にだって、遺産相続をする権利がある。分け前をよこせ」と。
中には、親はいらないと言っているにもかかわらず、その子(つまり孫)が、「もらうべき」と言っ

騒ぐケースも多いという。
(実際には、そういうケースのほうが多いのだそうだが……。)

 わかりやすく言えば、ジーチャン、バーチャンが死ぬと、孫の立場の人間が、遺産分割を求
めて裁判
を起こす。
もちろん親が生きていれば、孫には、遺産相続権は、まだ発生していない。
つまり遺産相続権はない。
だから親をせかせ、裁判を起こす。

●身辺整理

 私も60歳を過ぎて、心境が大きく変化してきた。
そのひとつ。
モノを買わない。

 若いころは、好んで骨董品を買い集めた。
江戸時代の浮世絵を買い集めるため、北陸地方の都市を回ったこともある。
あるいは30代のころは、洋画に興味をもった。
ピカソの絵こそ手が届かなかったが、それ以外の画家の絵なら、たいてい集めた。
シャガール、ミロ、カトラン、ビュッフェ……。
ローランサンの絵も好きだった。
が、今にして思うと、どうしてあんなものを買い集めたのだろうと思う。
意味のない買い物だった。
だからときどき、ワイフにこう言う。

 「そのお金で、海外旅行をもっと楽しんでおけばよかった」と。

 で、今は、そういったものを、どんどん手放している。

●金(マネー)

 兄弟姉妹が、親の財産を取り合って争う。
私はその見苦しさを、あちこちで見聞きしている。
見苦しいというよりは、あさましい。
親の介護、葬儀、遺産分割とつづくうち、たいてい兄弟、姉妹はバラバラになる。
中には、「玄関先で怒鳴りあう」(知人)兄弟、姉妹もいる。

 だから親たる者、財産は、子どもには残さない。
額の問題ではない。
わずか数百万円のことで裁判を起こす人もいる。
反対に、それぞれが1億円以上もの財産を手にしながら、さらに争う人もいる。
そこで私たち夫婦は、こう決めた。

「ちょうど2人が死ぬころ、財産は、ゼロにしよう」と。

●欲望

 で、立場上、そんなことも考えながら、生徒たちをながめる。
兄弟、姉妹で、私の教室へ来てくれている子どもも多い。
そういう子どもたちをながめながら、「今は、仲がいいのだがなあ……」と。

 親にしても、そうだろう。
いつか自分の財産をめぐって、子どもどうしが争うなどいうことは、夢にも思っていない。
「自分が死んでも、息子や娘たちは仲がいいはず」と思いこんでいる。
あるいはそこまで考えが巡らない。
が、今のあなたがそうであるように、遺産には、恐ろしいほどの魔力が潜んでいる。
ジワジワと胸の中でふくらみ、やがて制御不能になる。
「1円でも多くもらわなければ、損!」と。

 つまり人間の欲望には、際限がない。
その欲望が、お金(マネー)に置き換わる。
あるいはその逆でもよい。
お金(マネー)が、欲望に置き換わる。

 しかし、いつから……?
どのようにして……?
反対に、「どうすれば、今のまま、いい兄弟姉妹関係をつづけることができるだろうか」と考える
こと
もある。

●親に反抗するのは、こどもの自由

 昨日も書いたが、現在、この日本では、親子の立場が逆転している。
親が子どもにペコペコし、子どもが親に向かってふてくされる。
少し古い資料だが、こんな調査結果も残っている。

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。
「親に反抗してはいけない」と考えている高校生は、15%。

この数字を、アメリカや中国と比較してみると、親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国1
5%。
親に反抗してはいけない……アメリカ82%、中国84%(財団法日本青少年研究所・98年調
査)。

 日本だけは、親に反抗してもよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけな
いと考
えている高校生が、ダントツに少ない。

 こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家O
G氏)
と論評する人がいる。
しかし本当にそうか。
この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそうなのか、ということについて、説明がつかなくなっ
てしま
う。
日本だけがダントツに個人主義が進んでいるということはありえない。 
アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのもおかしい。

 もう一度、数字を確認しておきたい。

「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%(アメリカ、1
6%)。
「親に反抗してはいけない」と考えている高校生は、15%(アメリカ、82%)。

 1998年の調査というから、そのときの高校生たちが、今、「親」をしている!

●壊れる心

 もちろん中には、そうでない兄弟姉妹も多い。
良好な関係をつづけている親子も多い。
しかし皮肉なことに、学歴社会とは無縁な世界で生きている人ほど、そういう人たちが多い。
一方、高学歴な人ほど、兄弟姉妹関係が、おかしい。
親子関係がおかしい。
私の言っていることがウソでないことは、ほんの少しだけ、あなたの周囲にいる人たちを観察し
てみれ
ばわかるはず。

 つまりこの問題は、どこかで学歴社会、それを支える受験競争とからんでいる。
私自身の印象としても、それを断言できる。
子ども(生徒)にしても、受験競争を、ほんの数か月(夏休みの1か月でもよい)経験しただけ
で、別
人のようになってしまう子どもがいる。
親は、「やっと心構えができました」と喜んでいるが、その裏で、子どもの心が粉々に破壊され
ている
ことには、気づいていない。
親自身がその高学歴者であることが多い。
つまり自分の心が壊れているから、子どもの心が壊れても、それに気づかない。

●教育

 簡単に言えば、教育が欲望追求の場になっている。
教育とは名ばかり。
心を育てるしくみになっていない。
今では進学率の高い学校を、「よい学校」(?)という。
進学率というのは、より有名学校への進学率をいう。
(今さら、こんなことなど、説明する必要もないが……。)

 その結果が、現在ということになる。
何とも心さみしい社会だが、その弊害が、今、あちこちで矛盾となって噴き出している。
数日前も、こんな調査結果が新聞に載った。

「60%の人が、今後、孤独死をする」(中日新聞)と。
記憶によるものなので、数字、内容は不正確だが、NHK「無縁社会、無縁死3万2千人の衝
撃」(2
010年放映)という番組によれば、無縁死をした人が、3万2000人もいるという。
これに孤独死を加えたら、その数はさらに多くなる。

 が、これはけっして老人だけの問題ではない。
40代、50代の人たち自身も、その予備軍と考えてよい。

●では、どうするか?

 これは意識の問題。
その意識を変えるのは、容易なことではない。
10年単位というより、世代単位の問題でもある。
冒頭にも書いたように、親から子、さらに孫の代まで、意識が毒され始めている。

 戦後日本は、高度成長によって多くのものを得たが、同時に、多くのものを失った。
その結果が、今、ここにある現実ということになる。
どうすればよいかということは、私にもわからない。
が、こういうことは言える。
そこにそういう現実があり、今、みなさんがそういう現実に向かって歩んでいるなら、それを避
けるこ
とも可能ということ。

 まずいのは、それに気づかず、そのワナにはまってしまうこと。
気がついてみたら、周りにはだれもいない。
そうなってからでは、遅い。
手遅れ。
もっとも孤独死をしたからといって、それが人生の結論というわけではない。
人生の敗残者(負け犬)というわけではない。
大切なことは、それまでに(すべきこと)をやり遂げること。
有意義に生きること。

 そのための準備だけは、怠ってはいけない。
……という意味で、このエッセーを書いてみた。
異論もあるだろう。
反論もあるだろう。
ひとつの参考意見として、読んでもらえればうれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はや
し浩司 欲望の奴隷たち 親に反抗する子ども 逆転する親子関係 孫が遺産相続権を行使)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
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