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【シャドウ論】

【ユングのシャドウ(シャドウ)論(Shadow)】

******************

11月30日(水曜日)
浜北文化センターにて、浜松市内では
今年度最後の講演会をもちます。

開場時刻は、午後6:30。
講演は、午後7:00〜8:30です。
おいでください。

******************

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次回の講演で、久しぶりに、ユングのシャドウ論に
ついて話してみたい。
(時間があればの話だが……。)

そこで私の書いた原稿を探してみる。
今では「はやし浩司 シャドウ論」で検索すれば、すぐ、
原稿が見つかる。
ネット全体が、私の書類倉庫のようなもの。
「どうしてこんなことができるのだろう?」と、よく思う。
本当に、不思議な世界だ。

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●子育て

 いかに子育てが恐ろしいものであるかは、私が書いた「シャドウ論」を読んでもらえばよくわか
るはず。
昔から『子は親の背を見て育つ』とはいう。
しかしそれは何も、よいことばかりではない。
親が隠している邪悪な部分まで、子どもがそっくりそのまま受け継いでしまうこともある。
それが「シャドウ論」である。

 たとえば欧米では、牧師による少年、少女への性的虐待事件が後を絶たない。
「虐待」と言えば、おおかた、その種の性的虐待をいう。
こうした心理も、ユングの「シャドウ論」をあてはめてみれば、よく理解できる。

●心の別室論

 その原稿、つまり以前書いた、ユングのシャドウ論を紹介する前に、「心の別室論」について
書いた原稿を紹介したい。
「心の別室」という言葉は、私が考えた。
つまり抑圧された心理状態が長くつづくと、子ども(人)は、心の中に別室をつくり、そこへそれ
を押し込んでしまう。
防衛機制のひとつとされている。
わかりやすく言えば、いやなことがあったら、別の心を作り、そこへ押し込んでしまう。

 が、この心の別室の怖いところは、(1)時効が働かないということ。(2)たとえそのあといろい
ろな楽しい思い出があったとしても、記憶が上書きされないということ。
いつまでも心の別室の中に、独立して残り、時と場合に応じて、顔を出す。

 たとえばこんな例がある。
80歳を過ぎた老夫婦だが、若いころから夫婦喧嘩が絶えなかった。
が、決まってそのとき出てくる言葉が、つぎのような言葉という。
「お前は、あのとき……!」
「あんただって、あのとき……!」と。

 40年とか、50年も前の話。
ときには結婚当初の話すら出てくるという。
心の別室というのは、そういうもの。

+++++++++++++++++++++

心の別室については、たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、2009年4月に書いたもの。

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●心の別室と加害意識(Another Room in the Mind and Consciousness of Guilty)


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カレー・ヒ素混入事件で、現在無実を争って
いる女性が、HM。
地下鉄サリン事件で、これまた無実を争って
いる男性が、OS教のMT。


現在刑事裁判が継続中なので、これらの人たちは
無実という前提で、ものを考えなければならない。
どんな被告人でも、有罪が確定するまで、推定無実。


カレーにヒ素を混入させたのは、別人物かも
しれない。
地下鉄サリン事件には、MTは関与していなかった
かもしれない。
そういう可能性が、1000に1つ、万に1つでも
あるなら、これらの人たちは、無実。
そういう前提で、ものを考えなければならない。


が、同じ無実でも、いまだに納得できないのが、
あの『ロス疑惑事件』。


Kさんの殺害現場に、一台の白いバンがやってきた。
そのバンが走り去ったとき、Kさんは、殺されていた。
Kさんのそばには、MKがいた。


白いバンは、近くのビルにいた男性たちによって
目撃されている。
MK自身が撮った写真の中にも、白いバンの
一部が写っている。
しかしMKは、「白いバンは見ていない」と。


そのMKは、ロス市警へ移送されたあと、留置場の中で
自殺している。
MKは無実だったのか?
無実だったのなら、自殺などしないで、最後の最後まで
闘ってほしかった。
どうもこの事件は、すっきりしない。
いまだにすっきりしない。


++++++++++++++++++++


●心の別室論(Another Room in the Mind)


人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、
そこへ押し込めてしまうという習性がある。
心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつ
と考えられている。


その防衛機制は、つぎの7つに大別される。


(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)


 この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを
無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」
という。
つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことを
いつまでも覚えている」と言われる。
(そう言っているのは、私だが……。)
この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは
忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。


が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。


 たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、
心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。


 これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ
従順だったことがわかる。
世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。


 話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、
仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。


このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。


よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、
20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。


 心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、
それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。


私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。


そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、
私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、
わからなくなるときがある。


 ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、
重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。


 ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、
カギをかけてしまっている(?)。


 しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)

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そこで「シャドウ論」。
以下の原稿も、2009年ごろ書いた原稿である。
この中では、北朝鮮と韓国を例にあげ、「シャドウ論」を
展開してみた。

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●なし崩し的既成事実化

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「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。

答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

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●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。
K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。

が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、
既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。
……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。

今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。

 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの
問題を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。すでに韓国の
国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強
調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。
しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。
そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近く
にいる人に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

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ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

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●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。


●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 
幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ シャド
ウ論)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。
一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをして
いる。
韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。
どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。
そんな車を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、
何でも奪っていった。
その結果が今である。
ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20〜40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。

 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、
言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の
発言に、そのつどビクつく。
大騒ぎする。
それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて
闘おうではないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2
つに、頭の中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 
実効的支配 なし崩し的支配)(以上、2009年3月記)

Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●2011年11月25日

 先のシャドウ論を書いた日付は、2009年3月になっている。
それから2年。
今は、2011年11月25日。

 で、改めて自分の書いた原稿を読みなおす。
いろいろ考える。
「これはシャドウ論というよりは、サイコパス(性格障害)の問題ではないか」とか、「妄想とどう
区別するのか」とか。

●日韓問題

 日韓問題にしても、すべてをシャドウ論で説明できるわけではない。
が、シャドウ論をあてはめてみると、韓国人のもつ精神的に二重構造性が、よく理解できる。

 (1)「日本ごときに植民地にされた」という屈辱感。
 (2)「自分たちの力で独立できなかった」という不完全燃焼感。
 (3)さらに「南北に分断されたのも、もとはと言えば、日本の責任」という日本責任論。

 これら3者が混然一体となり、韓国人の心の別室の中に、押し込まれている。
それが時と場合に、表に出てくる。
よく「韓国人は政治と経済を、使い分けている」という。
政治で反日、経済では親日、と。
しかし使い分けているのではない。

 民族意識はどこの民族にもある。
それが誇張されたのが、民族主義。
「我ら民族がもっともすぐれている」と。
韓国人のばあい、「日本ごときに、蹂躙(じゅうりん)された」という思いが、心の別室の原点に
ある。
言い換えると、そう思いながら、実は日本人を徹底的に差別している。
(「差別」というよりは、「軽蔑」に近いが……。)
私はこれを「逆差別」と呼んでいる。

●二重構造性

 それはともかくも、ユングのシャドウ論で考えると、韓国人がもつ精神の二重構造性がよく理
解できる。
と、同時に、私たちが個人がもつ二重構造性も、よく理解できる。

 私たちは円滑な人間関係を保つために、常に、この二重構造的精神状態の中で生きてい
る。
冒頭にも書いたように、それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、またそれができるからこそ、私たちは、この複雑な社会で生きることがで
きる。

 が、問題は、親子関係である。
ほとんどのばあい、子どものほうが、心の別室を作り、そこへ不平や不満をためこむ。
そしてそれが、時と場合に応じて、爆発する。
「こんなオレにしたのは、お前だア!」と。

 そういう言葉が、10年たっても、20年たっても、口から出てくる。
もちろん子ども自身にはそれがわかっていない。
「抑圧」「心の別室」という言葉すら知らない。
加えて先にも書いたように、「心の別室」には、時効が働かない。
20年前、40年前の記憶がそのまま、生々しく残る。
また上書きされることもない。
楽しい思い出は、心の別室には入らない。

●よい子論

 終わりに「よい子論」についても書いておきたい。

 今、日本の子ども観、子育て観は、世界の標準から、かなりかけ離れつつある。
結論から先に言えば、たくましさがない。
またそうであることを、ほとんどの親たちは、「できのいい子」と誤解している。
たとえば従順で柔和で、やさしく、キバを抜かれてしまったような子どもほど、「よい子」と位置づ
ける。
またそういう子どもにしようと、あくせくしている。

 昔風の、腕白で、自己主張が強く、たくましい子どもを、「できの悪い子」として、むしろ遠ざけ
たり、白い目で見たりする。
私の教室でも、そうである。
ときどき「うちの子には、この教室は合いません」と言って去っていく親がいる。
が、そういう親でも自分の子どもが、親の過干渉や過関心で萎縮していることに気づいていな
い。
親自身のものの考え方が権威主義的で、威圧的であることに気づいていない。

その結果として、むしろそういう子どもほど、心をゆがめやすい。
ゆがめやすいことは、ここに書いた「シャドウ論」を読んでもらえばわかるはず。
あるいはイプセンの『人形の家』を読んでみたらよい。
自らを「人形子」と呼んだ主人公が、精神の二重構造の中で、いかに苦しみもがいたか。
それがよくわかるはず。

 本来、子どもは、そうであってはいけない。

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しめくくりに、イプセンの『人形の家』について
書いた原稿をさがしてみる。
日付は2008年6月になっている。

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●人形子(にんぎょうし)(2008年6月記)

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A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。

あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。

そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。

そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。

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ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1〜2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。

できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。

やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。

先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。

学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。

そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)

冒頭で、「10人のうち、1〜2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2〜3人に
なるかもしれない。

が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。

というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。

つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。

こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。

一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。

親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。

「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。

「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。

自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。

「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。

学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。

しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。

では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。

が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。

何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。

非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。

(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)

たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。

このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。

「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。

しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。

(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)

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【引きこもりvs家庭内暴力】

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将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。

それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。

この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。

思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。

そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。

つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。

が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12〜14歳前後か。

ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。

中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。

そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。

が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。

ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。

そこであなたの子どもは、どうか?

あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。

子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。

賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)

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●「人形の子」論

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●あるお母さんからのメール

++++++++++++++++++

親から受けた子育てが原因で、
長い間、大きな心のキズに苦しんでいた
お母さんから、こんなメールが
届いています。

読者のみなさんの力になればと、
公開してくださいとのこと。
喜んで、そうさせていただきます。

お名前を、Vさん(母親)としておきます。

Vさんは、子どものころ、親からきびしい
教育としつけを受け、それが原因で、
心に大きなキズを受けてしまいました。

Vさんは、「私がしたような経験を、ほかの
子どもたちにはしてほしくない」と言っています。

本当に、そうだと思います。

最近の研究によれば、うつ病の(種)のほとんどは、
その人の乳幼児期にあるということまで、
わかってきました。

乳児期から幼児期にかけては、
(1) 心豊かで、穏やかな家庭環境、
(2) 愛情豊かで、静かな親子関係、
この2つが、とくに重要かと思います。

Vさんからのメールをお読みください。

++++++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、こんばんは!

今日はレッスン前に、少しだけしたが、私がかかえる障害のお話を聞いてくださって、
ありがとうございました。

私は 先生のEマガによる「自己開示」でいえば4〜5レベルに入るほど、
まわりの人たちに、いろいろなことを話しています。

隠していなくてはならないことなど、そんなにはないし、
自分を知ってもらうことは 息子であるY男にとっても
良いことのように思ったりするからです。

先生が、私の経験を多くの人たちにお話してくださるのももちろん、歓迎です
良い例として、あるいは悪い例として、
私の経験してきたことが今、どんな風に私の人生で活かされているのか、
また、少女時代の私と同じ思いを、今まさにしている子供たちが今いるとしたら、
保護者の方に気づいていただきたいからです。

両親の教育が厳しく 過干渉で 私にとっては、長くて、辛い少女時代でした。
特に厳しかったのは母でした。しかし母だけを責めているのではありません。
母は 明治生まれの姑の前で、私たち姉妹を懸命に育て、
社会に出ても恥ずかしくない子に育てをしなくては……という使命のもとでの
思いだったわけです。

当時は今のように、相談できる機関や話を打ち明けられる相手もなく、
母も苦しんだと思います 父も相談相手にはならなかったようです。

というのも 父は自分の父親を第二次世界大戦で亡くし、
顔を見た事もないまま育ったそうです。
私は今でも、ラバウル上空を通過するときは 胸が苦しくなります。

そして実の母は 姑に父を残して 再婚して出て行ってしまったそうです。
どれほどの想像を絶する悲しみを乗り越えたでしょう。

父は曾祖母に対して異常なまでの執着心を持ち妻より子供より、曾祖母
という感じでした。

そんな生活の中で 母は私たちを厳しく育てることと、しつけることで、
自分なりのアピールをしていたのかもしれません。

また 別の観点からすると 母は私たちの子育てを、はけ口としていたかも
しれません。そのことも否定できないと思っています。

では、姉にはなぜ私のような障害が起きなかったか。

私の姉は3歳年上のキャリアウーマンですが、
何をするにも要領がよく、賢く、そして心優しく 暖かい人間で、
身内の私が言うのも恐縮ですが 尊敬しています。

母やきびしい習い事の先生がおっしゃる非道徳的な言葉ですら、
「あの人、なにいってるんだろ。私のどこまでしってるっていうの?」と
冷静な受け止め方が子供の頃からできたようです。

私はといえば、まったく正反対。

母の期待にこたえよう。今、Dropoutしてしまえば お母さんが悲しむかとか、
そんなことばかり考えていました。

生真面目で いつも良い子でいなくてはならない。いつも良い点を取らなくてはならない。
お母さんが悲しむから。クラス代表に選ばれなくてはならない。母が望むから、と。

小学校3年生のとき、サンタさんに手紙を出しました。
サンタさんの存在を信じていたころ書いた、最後の手紙だったと思います。

内容は、「お願いです プレゼントはいりません ただ習い事を全部やめさせてください」
というものでした。

サンタさんが願いをかなえてくれなかったのは、これが初めてでした。

心療内科の先生はおっしゃいました。

「あなたのお父様もお母様も 強迫性障害 の可能性がある」と。

思い当たる節はいくつもありました これは遺伝する可能性のある
障害だそうです。

今年前半は、T市にある児童心療内科まで、Y男をつれて、月に一度通っていました。
Y男のためというよりは 私が息子と、どう向きあえばよいのか、
どう育てていけばよいのか、全くわからなくなり、心は八方塞になったからです。

今思えば あの半年間の通院は 心療内科の先生に会って私がカウンセリングを受ける
私のいわば治療であったように思います。

時がたつにつれて、私は私の方法で Y男と向き合っていけばいいと思うように
なりました。

なぜなら、私はY男の母親なのだから……。

こんなシンプルな答えにたどり着くのに 随分と遠回りをしたし、
これからもしてしまうことがあるのかもしれませんが、今は 安定した気持ちで、
Y男に接しています。

父はY男がおなかにいるときに脳内出血で倒れ、現在は、右半身不随の生活をしています。
それがわかった当時は、みんな私のBabyではなく、
父の病気のことにばかり関心をもって、情緒不安定になり、
母や夫に当たったこともありました。

しかし母は立派に父のパートナーとして、父の治療に徹底的につき合っています。

ひところは東京のホテルに3か月ほど暮らして、有名な先生の治療を受けていました。
けれど回復には限度があり 今は良くも悪くもならないように、
リハビリとして、朗読や華道、陶芸など様々なことにチャレンジしています。

また 現在では障害者対応の施設も多く 年に3回ほど旅行に出かけています
障害者仲間の皆様との出会いも 両親を大きく支えてくださっていると思います

で、父もあきらかな強迫性障害者です。

強迫行為といって 鍵を閉めたか、ガスの元栓は締めたか、
冷蔵庫はちゃんとしまっているか、
出かける前もふだんの生活の中でも、あまりにもしつこいこれらの行為に
私たちは障害のことは何も知らずに、へきえきしていました。(以上、2008年6月記)

Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●講演では……

 次回の講演時間は、90分。
シャドウ論にはふれても、ここに書いたことまでは、話せない。
あちこちを端折(はしょ)る。
あるいは時間の関係で、話せないかもしれない。
(ここまでのページ数は、34頁(40字x36行x34頁)。)
もともに話したら、これだけで講演会は終わってしまう。

 どうしようか?

 言い換えると、講演というのは、いかに端折るかの闘い。
時計を見ながら、「ここまで!」とか、「ええい、ままよ!」と投げ捨てるような形で、その話題か
ら遠ざかる。

 で、最後に一言。

 心の別室というのは、実はだれにでもある。
大小、程度の差はあるが、だれにでもある。
だから大切なことは、まず自分の心の別室に気づくこと。
子どもについても、そうである。
あなたの子どもは、どうだろうか。
心の別室をもっていないだろうか。
もっているとしたら、その別室には、どんな思いが入っているだろうか。
この原稿を手がかりに、それを探ってみたらよい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 心の別室論 ユング シャドウ論 シャドー論 抑圧された心、はやし浩司 い
い子論 よい子論 心をゆがめる子ども 子供)

(付記)

●ゆがむ子どもの心

+++++++++++++++

F県に住んでいる、YSさん(母親)から、
こんな相談が届いた。
転載許可がもらえたので、そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

おはようございます。
前回は夫との事についての返信ありがとうございました。
今のところ、ごくごく普通に(?)過ごしています。
(腹の立つこともありますが…。)



今回は、小1から不登校中の次女(小5)のことで、少し気になることがあったので
相談させてください。



つい最近、次女がとても怖いことを言い出しました。



「ナイフとか銃とかで、人を殺してみたい。あと、魔法が使えたら一回死んでみたい。 



 一回死んで、魔法で生き返る。飛び降りるのとか楽しそう。」



とか、さらっと普通の口調で言ったんです。



「魔法が使えなかったら、生き返らないね。」って言ったら、
「魔法が使えなかったらそんなことしない。」とは言っていましたが、とても不安で
怖くなりました。



「この世がつまらない?」って聞いたら、「べつに。」だそうです。



毎日家で普通に元気に過ごしているようにみえますし、会話も普通に
しています。
他に気になるような症状などはないと思っているのですが…。
これが本音ならどうしたらいいのか怖くなってしまいました。


5年生になってからの担任が熱心(?)で、今までよりも少し学校に関する
刺激は増えているかなとは思いますが、そのせいもありますか?
学校のことを聞いてみても、特別嫌そうな顔はしませんし、イヤだと言ったことは
すぐに引いてしつこくはしていません。



最近アニメが大好きで、アニメばかり見ているのですが、(ガンツという殺し合いの
映画も見ました)、戦いモノがあったりもするので、その影響?とも思ってはいますが…。 


半年ほど前にも「火をつけてみたい。」と言ったことがあったので、
次女の心の中はどうなっているのかとても不安です。



どうぞよろしくお願いいたします。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧は悪魔を作る」

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的な抑圧感が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったもの。
その一例として、H・フォスデックも、つぎのように言っている。
『Hating people is like burning down your house to kill a rat(人を恨む(憎む)というのは、ネズ
ミを殺すために、家を燃やすようなものだ)』と。
 ゆがんだ感情(劣勢感情、陰性感情、劣等感情)は、脳内ホルモンの分泌そのものにも大き
な影響を与える。
サイトカインを例にあげるまでもない。
サイトカインは、脳内ストレスを引き起こす。
それだけではない。
低体温を引き起こし、免疫機能を低下させる。
 もちろん精神活動にも大きな影響を与える。
YSさんの子どものばあい、表面的にはともかくも、かなりこころがゆがみ始めているとみる。
が、このタイプの子どもは少なくない。

●I君(小6)のケース

 I君は、父親が中学校の教師だった。
それもあって、教育熱心な家庭環境で生まれ育った。
ふだんは静かで、それなりに勉強もよくできた。
私の指示にも、素直に(?)従った。
 が、ある日、そのI君のノートを見て、びっくりした。
そこには血を出してもがき苦しむ人間の顔が、実にリアルに描かれていた。
ほかに「死」「殺」などの文字も並んでいた。
現実にそこに見る(I君)と、ノートに見る(I君)は、あまりにもかけ離れていた。
私はそれに驚いた。

●M子さん(中1)のケース

 M子さんは早熟で、体格もすでにおとなになっていた。
そのM子さんが、教室にプリクラ・ブックを置き忘れていった。
で、私はそれを「忘れ物コーナー」に置いた。
 が、翌日、そのブックが、騒動の種になった。
別の子どもがそのノートを開いた。
見て、ワーワーと騒ぎ出した。
ほかの子どもたちも騒ぎ出した。
 見ると、メモページには、全裸の女性が椅子に縛られ、性的拷問を受けている絵が、何枚も
描かれていた。
残虐な絵もあった。
そのM子さんの絵も、絵というよりは、写真を思わせるほど、リアルな絵だった。
 ただM子さんは、頭もよく、行動的で活発。
絵から想像するような陰湿さは、みじんもなかった。
 M子さんは、脳内で起きている性的エネルギーを、自ら抑圧し、それが原因で、心をゆがめ
ていた。

●抑圧

 心理学でいう「抑圧」を、安易に考えてはいけない。
私は「心の別室」と呼んでいる。
それについて書いた原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)
(電子マガジン・2009年7月15日より)

++++++++++++++++++++

よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。

こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。

が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。

++++++++++++++++++++

●抑圧

 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。

 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。

●上書きされない

 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。

 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。

 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。

 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。

●子どもの世界でも

 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。

 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。

 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。

●兵士のばあい

 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。

 が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。

●教授の殺害事件

 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。

 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。

●心の別室

 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。

 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか

 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。

 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。

 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。

 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。

 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。

 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。

 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)

(付記)

 心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。

 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。

 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。

(追記)

 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。

●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思春期の子どもの心理

 抑圧は、(1)内的抑圧と、(2)外的抑圧に分けて考える。
 内的抑圧というのは、欲望、願望、希望などが原因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不
完全燃焼感などを抑圧することをいう。
外的抑圧というのは、たとえばきびしい家庭環境、威圧的、権威主義的な親の育児姿勢が原
因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不完全燃焼感をいう。
 思春期前夜から思春期にかけては、この双方が、子どもの内部で起こりやすい。
それが結果として、子どもの心をゆがめる。

●すなおな子ども

 「すなお」というより、「さわやかな」と言い換えたほうがよいかもしれない。
このことは幼児を観ると、よくわかる。
 たとえば「野原と森、それに赤い屋根の白い家」を描かせてみる。
そのとき心がさわやかな子どもは、見ても、ほっとするようなやさしい絵を描く。
そうでない子どもは、どこか不気味。
もう30年前のことだが、こんなことがあった。
 お父さんとお母さんの絵を描かせていたときのこと。
M君(年中児)が、お父さんの顔を描き始めるとすぐ、その顔を真っ黒に塗りつぶしてしまった。
で、別の紙をあげ、もう一度描かせてみたが、結果は同じだった。
 しばらくしてから母親に理由をたずねると、母親はこう言った。
「実はあの前の夜、夫が蒸発しまして」と。
当時は突然の家出を、「蒸発」といった。
 その前後にも、似たような子どもがいた。
年長児の男児だったと思う。
その子どもは、父親の顔を描くのだが、体、とくに腕から手の部分を、鉛筆で真っ黒に塗りつぶ
してしまった。
母親に理由を聞くと、母親はこう言った。
 「主人(=父親)は、子どものころ大きな事故を経験し、右手が使えません。しかし息子がそ
んなことを気にしているとは、夢にも思っていませんでした」と。

●YSさんのケース

 それが内的抑圧によるものなのか、それとも外的抑圧によるものなのかは、わからない。
というのも、年齢的に、思春期に入っている。
脳内で起きている変化によるものであれば、内的抑圧になる。
しかし環境的に考えると、外的抑圧になる。
 どちらであるにせよ、先に書いた、欲求不満、不平、不完全燃焼感が、怒濤のごとく渦を巻い
ていると考えられる。
そのはけ口があればよいが、そのはけ口もない。
YSさんの娘は、きわめて閉塞的な環境の中で、袋小路に入ってしまっている。
 心理カウンセラー的な言い方をすれば、スポーツでも何でも、自分を発散させる場所を与え
ろということになる。
が、実は、これと並行して、「自我の葛藤」の問題もある。
●自我の同一性
 自我の同一性についても、たびたび書いてきた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Q: 最近わが子の親に対する話し方が気になります。
たとえば、私が何か「こうしなさい」と注意すると、「そんな法律がどこにあるの?」などと言ってく
るので、ついつい怒ってしまうこともしばしば……。
 これは反抗期なのでしょうか?
A:思春期最大のテーマは、「同一性の確立」(エリクソン)です。
(私はこうでありたい)という理想の自己像と、(現実の私)、つまり現実自己を、一致させようと
します。
一致した状態を「自我の同一性」と言います。その第一歩が、おとなの優位性の打破です。そ
れが「思春期の反抗」と考えてください。
 (悪態)もそのひとつ。「そんな法律がどこにあるの?」と。
それを許せということではありません。
それができないほどまでに、子どもを抑えてはいけないということです。カリカリするのはしかた
ないとしても、「ああ、うちの子は、今、児童期から青年期へと、脱皮を始めているのだ」と、一
歩退いて子どもを見ます。
 この時期、親意識(とくに「親に向かって何よ!」式の悪玉親意識)が強すぎると、子どもは親
の前では仮面をかぶるようになります。
自我の確立に失敗し、非行に走ったり、親子の間にキレツが入り、親子が断絶するケースも目
立ちます。
最悪のばあいには、自我の崩壊……。
ナヨナヨとした軟弱な人間になることもあります。
 親には3つの役目があります。 ガイドとして子どもの前に立つ。 保護者として子どものうし
ろに立つ。 そして3番目が重要ですが、友として子どもの横に立つ、です。
 悪玉親意識を捨て、子どもの友になるつもりで、子どもの横に立ってみてください。とたん、肩
の荷が軽くなりますよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言葉として発散させる
 YSさんの娘が慢性的な抑圧状態にあることは、まちがいない。
が、こうした抑圧は、多かれ少なかれ、どの子どもにもある。
それがない子どもは、いない。
YSさんは、自分の子どもを「異常」と思う必要はない。
平たく言うと、「この時期の子どもによく見られる現象」ということになる。
 あまりおおげさに考えないこと。
「バカなこと言ってないで、さっさと自分のことをしなさい」程度に、軽く受け流していく。
ただし何らかの行動をともなうようであれば、要注意。
 たとえば「殺したい」と言いつつ、ナイフを買い求める。
「死にたい」と言いつつ、その種の本を買ってくる。
あるいはペットなどに、残虐な行為を繰り返す。
リストカットをする。
 そういうことがあれば、「観察」の段階を超えているとみる。
学校を通して、専門医もしくは心理療法士を紹介してもらう。
「治療」を考えた指導に切り替える。
 で、同時に、「子どもは家族の代表」と考え、原因は家庭にあると考え、YSさん自身が猛省す
る。
「家庭は休む場所」「憩う場所」「心を休める場所」と心得、それに適した環境を娘に用意する。
そのときコツは、娘の中で、心の別室がどのように形成されているか、静かに観察、判断する
こと。
子どもの立場になり、子どもの心の中から、子どもを見る。
頭ごなしに叱ったり、注意しても意味はない。
ないばかりか、かえって症状を悪化させるので、注意する。
 以上ですが、ここの書いたことを参考に、子どもを観察してみてほしい。
何が子どもを抑圧状態にしているかがわかれば、解決策も自ずと見えてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 抑圧 心の別室 はやし浩司 自
我の同一性 はやし浩司 残虐な言葉 思春期の子どもの心 心のゆがみ ねずみを殺すた
めに家に火をつける はやし浩司 内的抑圧 外的抑圧)
Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司




(2)
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●子どもの心は親の心の鏡

●12月21日(TSUTAYAにて)

++++++++++++++++++++++

今夜は久しぶりに、TSUTAYAにやってきた。
車で自宅から、5分ほどの距離。
奥の、左の一角に読書コーナーがある。
400円前後で、コーヒーやココアを飲むこともできる。
そこへ読みたい本を持ち込み、つまり「立ち読み」ならぬ、「座り読み」が、できる。

書籍(雑誌、週刊誌を含む)というのは、そういう商品。
書店は売れなければ、そのまま返本(=返品)できる。
汚れても、折り曲がっても、どうということはない。
出版社へ返本すればよい。
書店にしてみれば、痛くもかゆくもない。
だからこういうサービスができる。

客の私たちにとっては、ありがたいサービス。
新刊書でも何でも、読み放題。
が、その分だけ、心のどこかで何かしらの罪悪感を覚える。
週刊誌2冊で、350+400=750円。
だからこうして、飲みたくもないミルクやコーヒーを買う。

++++++++++++++++++++++

●二日酔い

 とりあえず……ということでもってきたのが、週刊誌4冊。
(あとで知ったが、「持ち込みは2冊まで」だ、そうだ。

「週刊文春」と「週刊ポスト」を、おおかた読み終える。
あちこちで、カチンときたが、今夜は、あまりそれについては書きたくない。
今日は朝から二日酔い。
昨夜寝る前に、チューハイ(発泡酒)を一杯飲んだのが、悪かった。
アルコールを飲めない私が、酒を飲む……。
このところ、そんなバカなことばかりしている。
そのツケが、今朝、どっと出た。

 今は、できるだけ、精神を安定させたい。

●正面の男

 私とワイフは、喫茶コーナーの一番奥に陣取った。
右横は、黄土色の壁。
背中側は、茶色の壁。
左横に、どこかのネームカードをぶらさげた女性が2人、座っている。
学生なのか、たがいに何やら教えあっている。
左前にも、似たような女性が2人、座っている。
ノートを見ると、大腸の絵が、ミミズのように描いてあった。
看護学校の学生か、何かのだろう。

 得体のわらからないのが、正面、つまりワイフの背中側に座っている男。
作業帽子を深くかぶり、深いえりのついたジャンパーを着ている。
えりは鼻の下まで届き、顔はほとんど見えない。
芸能雑誌を熱心に読んでいる……というより、ときどき、周囲の動きに目を配っている。

 腕時計をしている。
ジーパン。
ジャンパーは、農作業の人が着るような、作業服。
服装とは不似合な、明らかに安物とわかる派手な靴を書いている。
白地に薄い水色の線が、3本。

 「何をしている男だろう……?」と。

 テーブルの上に、i−podを、これみよがしに置いている。
年齢は、……今、顔をあげたが、30歳くらい。
40歳くらいに見えたが、30歳くらい。

●正面の男(2)

 いや、もう1人、いた。
左奥に、小さく体を丸めて、1人の女性がノートに何かを懸命に書き込んでいる。
左前の2人の女性の陰に隠れて、今まで気がつかなかった。
その女性は、本当に勉強しているといったふう。
ただひたすら、ノートに何かを書き込んでいる。

 あとの女性は、勉強というより、おしゃべり。
小声だが、それでも雀がさえずるように、ペチャペチャ、クチャクチャ……。
加えてBGMは、すっかりクリスマス・ムード。
ジャス風のクリスマス・ソングが、ずっと流れている。

 前の男が席を立った。
うしろ姿を見た。
首から頭にかけ、すっかり禿げあがっているのがわかった。
帽子を深くかぶっている理由が、それでわかった。
手にした雑誌を見ると、それには『flick』と書いてあった。

『flick』?
私の知らない雑誌である。
男は、私の住んでいる世界とは、別の世界に住んでいる。
そう思った。

●DVD

 2階が、DVDショップになっている。

私「何か、新しいのを借りたの?」
ワ「メリル・ストリープのと、それに新作を1本、ね」
私「フ〜〜ン」と。

 ……その男を見ながら、30年前に亡くなった、今井 修氏(実名)のことを思い出した。
そのとき32、3歳だった。
焼酎とタバコを片手に、いつも原稿を書いていた。

 最後に会ったのは、ショッピングセンターの中だった。
一角に小さな椅子が置いてあり、今井 修氏はそこに座っていた。
話しかけても、何も言わなかった。
うつろなまなざしで、宙をぼんやりとながめていた。

 あとでわかったことだが、そのとき、今井 修氏は、ホスピスにいた。
そこを抜け出し、そのショッピングセンターへ来ていた。
今井 修氏が食道がんで亡くなったと知ったのは、それから1か月もたたないときのことだっ
た。
私は、今井 修氏ががんだったということも、またホスピスにいたということも知らなかった。
だからそのときは、今井 修氏の態度に少なからず、ショックを受けた。
冷ややかな態度だった。
「どうして怒っているのだろう?」と。

●死に行く人

 今までに死に行く人を、何人か見かけてきた。
数年前に亡くなった、大学の同窓生のIK君も、そうだった。
亡くなる、ちょうど2か月前ほどに、街中で偶然、会った。
話しかけたが、やはり私を避けた。
やや強引に、私は近くの時計店に誘ったが、迷惑そうだった。

 そのときワイフも横にいた。
ワイフも同じように感じたらしい。
「IKさん、おかしいわね」と。

 IK君は、そのあとしばらくして、病院で亡くなった。
直接の死因は肺炎ということだったが、あとで聞くとそのとき、前立腺がんが大腸に転移してい
たという。

 前の席に座った男が、どうこうのと書いているのではない。
その男のもつ、どこか暗い雰囲気が、気になった。

●8時半

 ワイフが、こう言った。
「8時半よ……」と。

私「山(=山荘)へ行く?」
ワ「そうね……。頭(=頭痛)治ったの?」
私「うん、まあね……。山でビデオを観るの?」
ワ「時間があればね……」と。

●資料

 週刊ポスト誌(2011年12月23日号・P46)には、こうある。
「職業別官民格差」として、一覧表が載っている。
(かっこ)内は、民間平均。

バス運転手 ……526万円(344万円)
自動車運転手……541万円(234万円)
清掃職員  ……604万円(210万円)
守衛    ……548万円(293万円)
福祉施設職員……574万円(289万円)
幼稚園教諭 ……598万円(330万円)
看護師   ……521万円(427万円)
用務員   ……534万円(274万円)

定年退職金……2452万円(2075万円)

(以上、筆者のほうで、1000の位で四捨五入。)

(注:公務員は「地方公務員給与実態調査結果」(総務省・平成22年)、
民間は、「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省・平成22年)による。
「自動車運転手は、公務員は公用車、民間はタクシー。
民間の「清掃職員」は、ビル清掃員をいう。)
 
 週刊ポスト誌は、こう伝える。
「役人という肩書をもつだけで、2倍近い給料を受け取っている」(P47)と。

 ほかにも驚くべき事実が、官僚の発言として紹介されていた。

「……知的水準の低い一般国民から、保険料をまきあげる……」
「官僚の出世の条件は……国民からカネを巻き上げて、省益を拡大させること」(以上、ポスト
誌、覆面座談会の席で)と。

 公務員の給料が民間の2倍近くもあるのは、「優秀な人材の確保のため」だそうだ。
また国家公務員と地方公務員の給与格差がほとんどないのは、地方公務員の不満を抑制す
るためだそうだ(ポスト誌)。
先にあげた官民格差表でいう「公務員」は、地方公務員の給与をいう。

 ……こんな日本が、どうして北朝鮮の悪政を笑うことができるだろうか。

●相談

 たった今、メールを開くと、こんな相談が届いていた。

【韓国在住のKUさん(母親)より、はやし浩司へ】(一部、文字化け)

【 お子さんの年齢(現在の満年齢) 】:満4歳
【 お子さんの性別(男・女) 】:男
【 家族構成・具体的に…… 】:
父母、姉(10歳。精神遅滞)、祖父、祖母

【 お問い合せ内容】

韓国在住の来月満4歳になる男の子の母子分離不安について相談します。

母子分離不安について検索していると、はやしさんのサイトに行き着き、母子分離不安につい
ての解答を拝見させていただきました。
家の事情もあり、もう少し具体的どうしたらいいか知りたく、メールしています。
上の子は10歳ですが、重度の精神遅滞があり、まだ一人で歩けず、話せません。
1歳前後の状態で、オムツをしています。
激しく泣いたり、物をなめたりかんだり、泣いてもなぜ泣いているのかわからなかったり、一緒
にいてほしかったり、眠いのに眠れなくて、ないていたり、手がかかります。

下の子が生まれてからも、上のこの障害児保育園(家から遠い)や物理治療などに通うのに私
が連れて行って、その間下の子はおじいちゃんかおばあちゃんと一緒にいました。
下の子が2歳になった時、上の子が小学校に就学させたのですが、(韓国では親の判断で入
学を遅らせることができる)、小学校の送り迎えや、お昼の食事介助などで手がかかるので、
下の子を保育園に入れました。

送るのはおじいちゃんおばあちゃんがしてくれたのですが、あまりにも泣いくので3日ほどで泣く
のが耐えられないとやめさせてしまいました。
次の年、満3歳になった時再び送ったのですが、やはりおじいちゃんとおばあちゃんがやめさ
せてしまいました。
それでも、私があまりにも大変なので、その5月から再び送りました。

今度は時間をやりくりして、私が送りました。
相変わらず泣いていくのですが、保育園の先生の言うとおりがんばって送りました。
2週間ぐらいはお昼ぐらいに帰ってきていました。
しかし、私が顔面神経麻痺にかかってしまい、その後5時まで送っていました。
朝は相変わらず激しく泣いて行き、帰ってくると元気がない、1ヶ月ほど様子を見ていたのです
が、「このこまでおかしくなったらどうする?
嫌がる子を保育園に送っていって、後で精神科に通っている子もいっぱいいる」など、周りに言
われ心配になり、やめさせました。

先生いわく、おじいちゃんおばあちゃんにとってもかわいがられ、甘やかされて育っているので
忍耐力がまだない、とのこと。
園でも「たいくつだ」と先生に言ってばかりで、友達が寄ってきても遊ぼうとしない、お昼寝もしな
い、そうです。

姉の事もあって、お母さんをお姉ちゃんに取られるという心配もあるのかも、とも。
3ヶ月まえから・u梛:・・ぢ回の美術の習い事を始めたのですが(美術というより友達を作るた
め)、本来部屋で子供2,3人と先生とでするのですが、子供が離れようとせず、私が部屋の中
の隅で座ってみていないといけません(先生の提案で)。
少しずつ、しばらくしたら部屋の外に出て行けるようにはなったのですが、「窓からずっとみてい
て」とか途中で「お母さんどこ?」と出てきたりします。
友達と遊びたい気持ちがあって、同じ教室の女の子のお世話?をしたり、ゆずってあげたり。
お母さんが一緒で子供と遊ぶ機会があればいいのですが。

最近の韓国は、1歳過ぎから保育園に通う子が多く、公園にいっても遊ぶ子がいなく、習い事な
ども夕方の時間しかなく(昼間は子もがいないので)、このまま保育園にいかずうちで過ごすの
もどうなのか悩んでいます。

月数の少ない48ヶ月までの文化センターなどのクラス(お母さんと一緒にする)はある事はある
ので、同い年ではない、小さい子達と混ざってでも、したらいいのかなぁとも考えています(来年
は保育園に送らないで)。

家では、「遊ぼう、遊ぼう」と人形遊びやブロックなど私とやりたがります。
一人ではほとんど遊べません。
私もずっととなると疲れて、いやになります。
休日など公園に行っても、別の人がいると遊ばず、「いなくなるまで待ってる」とただ見ていま
す。

うちに来る私の友達などは割りと問題なくいられるのですが、外で会う知らない人やたまにあう
人には警戒心丸出しで、「嫌いだ、いやだ、あっち行け」などと言います。
美術の先生にも、です。

朝は上の子を学校に送りに行く時はおじいちゃんかおばあちゃんに見てもらうのですが、おじ
いちゃんがいるとき(一日おきの仕事をしている)は「お母さん、いってらっしゃい」と送ってくw)?
「譴襪里任垢・△、个△舛磴鵑了・蓮◆岼貊錣帽圓・繊廚筏磴い特紊い突茲泙后・發β腓C・
覆辰燭里念貊錣僕茲討發いい里任垢・△、个△舛磴鵑・蹐覆い・蕕醗貊錣帽圓・擦泙擦鵝・・
w)現状をだらだら書いてしまいましたが、サイトに書いてあるように、対人恐怖症というのもあ
ると思います。

又、スキンシップも「抱っこ、抱っこ」とせがむ時はしてあげているし、十分にしていると思ってい
るのですが、思っている以上に足りないのでしょうか?
上の子も家ではけっこう泣くので、この子もみんながストレスを抱えているようです。
八方塞のように感じて、アドバイスいただけるとうれしいです。
(以上、相談より。)

【はやし浩司より、韓国のKUさんへ】

KU様へ

こんばんは!

現在、出先なので、
あとでゆっくりと返事を書きます。

大切なことは、(現実)と闘うことではなく、(現実)を受け入れることです。
「私は私」と居直ることです。
こと子育てについて言えば、闘っても意味はありません。
居直れば、おのずと、道が前に見えてきます。

あとは静かに、その道(流れ)に身を任せてください。
温かい愛情と、生きていく勇気を見失わずに、ね。

あなたの子どもは、今、あなたに何か尊いことを教えるために、そこにいます。
子どもに教えを乞うてください。

あなたはすばらしい人になれますよ。
どうか、自信をもって、前に進んでください。

またあとで返事を書きます。

はやし浩司

●幼稚園教諭 ……598万円(330万円)

 さきほどあげた「官民格差」で気になったのが、幼稚園教諭の給料。
公立幼稚園の教諭が、598万円。
私立幼稚園の教諭が、330万円。

 本当かな?、と思った。
公立幼稚園の教諭についてではない。
私立幼稚園の教諭についてである。

私が知る範囲では、私立幼稚園の教諭は、330万円も、もらっていない。
月額に換算すると、(12か月で割ると)、27〜8万円。
退職金にしても、定年退職時まで勤める教諭は、ほとんどいない。
だから2000万円以上の退職金など、こと私立幼稚園の教諭に関して言えば、ありえない。

 どこの幼稚園(私立)でも、人件費は、削るだけ削っている。
まず未婚の若い教諭を、インターン(見習い)の形で雇う。
結婚と同時に退職……というのが、暗黙の了解事項になっている。

相場では、そういう若いインターンは、月額10数万円程度。
(手取りで、月額14〜5万円と聞いている。)
ボーナスを入れても、330万円ということは、ありえない。
どこからこんな数字が出てきたのだろう?

 公立幼稚園のばあい、ありとあらゆる労働者の権利が認められている。
産休で3年間休職したとしても、職場を失うことはない。
さらにたいていの教諭は、最終的には園長に昇格したあと、退職する。

 「幼稚園の先生になるなら、公立の幼稚園」というのは、この世界では常識。
役人の言葉を借りるなら、「知的水準の高い教諭は、公立幼稚園。知的水準の低い教諭は、
私立幼稚園」(「週刊ポスト」誌)ということか。

 ……グググーッと怒りがわいてきたが、今夜はここまで。
もちろん一人一人の役人に責任があるわけではない。
責任を感じてほしいと書いているのでもない。
が、このままでは、日本は本当に沈没してしまう。
怒りというより、私は強い危機感を覚える。

●知的水準?

 知的水準とは何か?
あの片山さつき氏は、私の地元で国会議員に当選したあと、東京に戻り、こう言ったという。
「(浜松の)田舎者は、私が土下座すれば、イチコロよ」(雑誌「諸君」)と。

 が、こうした差別意識は、何も片山さつき氏だけのものではない。
ある男は、私にこう言った。
某大銀行の部長職をしていた。
「退職したら、君の故郷のM市にでも行き、市長でもしようかな」と。

 なぜ、人は、こんな愚かなことを言うようになるのか。
そのルーツをずっとたどっていくと、そこにあの「受験競争」が、見え隠れする。
そういう意味では、意識というのは、恐ろしい。
中学生でも、高校生でも、受験競争に勝った(?)とたん、おかしなエリート意識をもち始める。
「勉強ができる人ほど、優秀」と。
返す刀で、「勉強ができないヤツは、劣等」と。

が、それは待ってほしい。
私はこの40年間、受験生と言われる子どもを指導し、側面から観察してきた。
もちろん中には「優秀な子ども」もいる。
しかしそういう子どもほど、最後の最後まで謙虚さを失わない。
推薦で、一流大学の一流学部へと進学していく。
(学校の先生にも、それがわかるから、推薦される。)

 が、すでに小学生のときから、鼻持ちならぬエリート意識をもつ子どもも少なくない。
勉強ができることを鼻にかける。
どうしようもないほどのドラ息子、ドラ娘。
で、ある日私はそんな1人の母親に、こう告げた。
「あのオ〜……」と。
すかさずその母親は、私にこう言った。

「あんたは、黙って息子の勉強だけをみてくれればいい。(余計なこと、言うな!)」と。

 これは本当にあった話である。
親は、浜松市内でいくつかのパチンコ店を経営していた。

 そういうことを経験しているから、「知的水準」という言葉を聞くと、バチバチと頭の中で火花
が飛び散る。
いろいろ書きたいことは、山のようにある。
あるが、今夜はここまで。
要は、人も謙虚さを見失ったら、おしまい。……ということ。

●もう1人の男

 TSUTAYAで、もう1人、気になった男がいた。
60歳くらいの男だった。
私とワイフがTSUTAYAへ入ったときも、そこにいた。
雑誌を取りに行ったときも、そこにいた。
そのあたりを、ブラブラしていた。
今も、そのあたりにいる。

 本を読む気配もなかった。
手に取って読む雰囲気もなかった。
が、私にはすぐわかった。
その男は、ホームレスの男だった。

 最近、このタイプの大型店で、このタイプのホームレスの男を、よく見かけるようになった。
今日のように、寒い夜は、さらにそうだ。

●KUさんへ(母子分離不安)

 KUさんの子どもを考える。

 KUさんは、母子分離不安を心配している。
症状としては、母子分離不安そのもの。
母親がそばにいないと、極度の不安状態になる。
このとき子どもは、2つのタイプに分かれる。

 ワーッと攻撃的に泣き叫んで、母親の後を追うタイプ。
オドオドとしてしまい、混乱状態になるタイプ。
症状から私は、前者を「プラス型」、後者を「マイナス型」と呼んでいる。

 どちらであるにせよ、子どもの側からみて、「捨てられるのでは?」という恐怖心が、母子分離
不安による症状へと結びついていく。
理性ではなく、本能的な部分からの恐怖心であるため、叱ったり説教したりしても意味はない。

 子どもの心というのは、環境の変化に対しては、たいへんタフ。
しかし愛情の変化には、たいへんもろい。
母親が数日、入院しただけで、母子分離不安になってしまったケースがある。
遊園地で一度、迷子になっただけで、母子分離不安になってしまったケースがある。
KUさんのように、……というか、通常のケースとは逆なのだが、下の子が生まれたことによっ
て、上の子が母子分離不安になるケースもある。

 が、KUさんのケースは、もう少し根が深いように考える。

●ユングのシャドウ(影)論

 ユングのシャドウ(影)論をもちだすまでもない。
子どもというのは、親の心をそのまま引き継いでしまう。
たとえば親が、Aさんを内心で嫌っていたりすると、その子どももAさんを嫌うようになる。
Bさんを内心でよい人と思っていたりすると、その子どももBさんのことをよい人と思うようにな
る。

 こんなことがあった。
もう10年近くも前に書いた原稿に、こんなのがある。
親の心を、そっくりそのまま再現してしまう子どもの話である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2000年ごろ、中日新聞出に発表させてもらった原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親の心は子どもの心

 一人の母親がきて、私にこう言った。「うちの娘(年長児)が、私が思っていることを、そのま
ま口にします。こわくてなりません」と。
話を聞くと、こうだ。

お母さんが内心で、同居している義母のことを、「汚い」と思ったとする。
するとその娘が、義母に向かって、「汚いから、あっちへ行っていてよ」と言う。

またお母さんが内心で、突然やってきた客を、「迷惑だ」と思ったとする。
するとその娘が、客に向かって、「こんなとき来るなんて、迷惑でしょ」と言う、など。

 昔から日本でも以心伝心という。心でもって心を伝えるという意味だが、濃密な親子関係にあ
るときは、それを望むと望まざるとにかかわらず、心は子どもに伝わってしまう。
子どもは子どもで、親の思いや考えを、そっくりそのまま受け継いでしまう。
こんな簡単なテスト法がある。

まず二枚の紙と鉛筆を用意する。そして親子が、別々の場所で、「山、川、家」を描いてみる。
そしてそれが終わったら、親子の絵を見比べてみる。
できれば他人の絵とも見比べてみるとよい。
濃密な関係にある親子ほど、実によく似た絵を描く。
二〇〜三〇組に一組は、まったく同じ絵を描く。親子というのは、そういうものだ。

 こういう例はほかにもある。
たとえば父親が、「女なんて、奴隷のようなものだ」と思っていたとする。するといつしか息子
も、そう思うようになる。
あるいは母親が、「この世の中で一番大切なものは、お金だ」と思っていたとする。
すると、子どももそう思うようになる。
つまり子どもの「心」を作るのは親だ、ということ。親の責任は大きい。

 かく言う私も、岐阜県の田舎町で育ったためか、人一倍、男尊女卑思想が強い。
……強かった。
「女より風呂はあとに入るな」「女は男の仕事に口出しするな」などなど。
いつも「男は……」「女は……」というものの考え方をしていた。
その後、岐阜を離れ、金沢で学生生活を送り、外国へ出て……、という経験の中で、自分を変
えることはできたが、自分の中に根づいた「心」を変えるのは、容易なことではなかった。
今でも心のどこかにその亡霊のようなものが残っていて、私を苦しめる。
油断していると、つい口に出てしまう。

 かたい話になってしまったが、こんなこともあった。

先日、新幹線に乗っていたときのこと。
うしろに座った母と娘がこんな会話を始めた。

「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。

どうやらどこかの大病院の院長を夫にもつ妻とその娘が、結婚相手を物色していたようだが、
話の内容はともかくも、私は「いい親子だなあ」と思ってしまった。
呼吸がピタリと合っている。

 だから冒頭の母親に対しても、私はこう言った。
「あなたと娘さんは、すばらしい親子関係にありますね。
せっかくそういう関係にあるのですから、あなたはそれを利用して、娘さんの心づくりを考えたら
いい。
あなたのもつ道徳心や、やさしさ、善良さもすべて、あなたの娘さんに、そっくりそのまま伝える
ことができますよ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親の不安

 KUさんのケースでは、KUさんが日常的に感じている不安感が、そっくりそのまま子どもに伝
わってしまっている。
私はKUさんからのメールを読んだとき、それを最初に感じた。
同時に、もしKUさんの近くに、祖父母がいなかったら、KUさんの子育ては壊れてしまっていた
かもしれない。
KUさんの必死さを感ずるが故に、近くに祖父母がいて、KUさんの子育てを支援していること
を、私は「よかった」と思った。

 もちろんKUさんは、そうしているだろうが、こうしたケースでは、けっして祖父母と対立しては
いけない。
逆に言うと、祖父母と対立するのではなく、協力しあいながら、KUさんが日常的に感じている
であろう不安感、心配、孤立感と闘う。
子どもと闘うのではない。
自分と闘う。

 ……と書くのは簡単なこと。
私はKUさんからのメールを読んだとき、私自身も、ズシンと心が重くなってしまった。
「顔面神経麻痺」「八方ふさがり」という言葉が、今のKUさんの心情を、そのまま象徴してい
る。

●許して忘れる
  
 昨夜、ワイフは、DVDを観ていた。
メル・ギブソン主演の『復讐捜査線』というタイトルのDVDだった。

 娘が暗殺された。
刑事役のメル・ギブソンが、その犯人を追いつめていくというストーリーの映画だった。
その中で、こんなことをだれかが言う。

 「子どもがいる悲しみと、子どもがいないさみしさ。あなたはどちらを選ぶか」と。
それに答えて、メル・ギブソンがこう答える。
「子どもがいる悲しみ」と。
記憶によるものなので、まちがっているかもしれない。
が、それには条件がある。
「良好な親子関係」という条件である。

 それがなければ、……というより、多くの親たちは、子どもをもったことを後悔する。
「子どもなんか、産まなければよかった」と。
というのも、親というのは、良好な親子関係がある間は、子どもを「許して忘れる」ことができ
る。
そうでなければ、そうでない。
親ばかである自分を恥じ、自分を責める。
子どもを「許して忘れる」ことはできる。
しかし自分を「許して忘れる」ことはできない。

 親子関係、つまり子育ての結論は、この一点に集中する。
「良好な親子関係」と。

 メル・ギブソンと娘は、良好な親子関係で結ばれていた。
だからこう答えた。
「子どもがいる悲しみのほうがいい」と。

●親ばか

 「親ばか」という言葉を使った。
親というのは、子どもを許すことはできても、自分を許すことはできない。
親ばかだった自分を恥じる。
責める。
ついでに口を閉じる。

 子どものでき・ふできが問題ではない。
人間性の問題。
世の中には、子どもをだます親は、いくらでもいる。
同時に、親をだます子どもも、また同じほど、いる。
男性や女性をだますのと同じくらい、平気で親をだます。
自分の欲望の追求のために、親を利用する。

 そういう子どもをもった親は、子どもを責める前に、自分を責める。

●明日は、かならずやってくる。

 KUさんのケースでいえば、八方ふさがりでも、何でもない。
袋小路には入ってはいるが、八方ふさがりではない。
大切なことは、自分の子どもだけを見つめ、その「流れ」の中に身を置くこと。
身を置けば、おのずとその先に、道が見えてくる。
いや、見えてこなくても、今日、そして今、この瞬間できることだけを、懸命にする。
明日は、今日の結果として、かならずやってくる。

 世の中、けっして悪い人たちばかりではない。
KUさんが明るく、さわやかに生きていけば、みなもそれに勇気づけられる。
その勇気が希望を生む。
生きる希望を共有することができる。
けっして卑屈になってはいけない。
取り越し苦労や、ヌカ喜びを繰り返してはいけない。
KUさんはKUさんで、ただひたすら前だけを見て、生きていく。
その心が伝わったとき、子どもの心の中からも、不安症状が消える。

●子どもから学ぶ

 どんな家庭も、外から見ると、平和で幸福に見える。
が、問題のない子どもはいない。
問題のない家庭も、これまた、ない。
それぞれがみな、重い十字架を背負い、あえぎながら生きている。

 KUさんがそうというわけではない。
しかし子どもに何か問題が起きると、みな親はこう思う。
「どうして私だけが……」とか、「どうしてうちの子だけが……」と。

 そこで発想を転換してみる。
「子育てというのは、そういうもの」と。
苦労や悲しみは、つきもの。
あって、当たり前。
とたん、気が晴れる。

 大切なことは、子どもから学ぶという姿勢。
子どもが泣いているときも、そうだ。
泣くのを「悪」と決めつけてはいけない。
子どもには子どもなりの理由がある。
「あなたも悲しいのね。お母さんも悲しいのよ」と。
すなおに負けを認め、子どもの立場で、いっしょにものを考える。

●帰る

 TSUTAYAを出た。
車にエンジンをかけると、猛烈な勢いで、窓ガラスから温風が吹き上げてきた。
自動的にフロントガラスの曇りを消す装置が、働いた。
外気は、9度と表示されている。
寒いというより、冷たい。
 
 私たちは一度、家に戻った。
そのまま山荘へ向かう準備を始めた。

●山荘へ

私「KUさんのこと、どう思う?」
ワ「近くに、祖父母がいて、よかったわね」
私「うん、ぼくもそう思う。KUさんひとりでは、たいへんだ」
ワ「夫は、どうしているのかしら?」
私「ぼくも気になっている。でも、夫については、何も書いてない」
ワ「韓国の人かしら?」
私「たぶんね。韓国では、夫婦別称が、当たり前だし……」と。

「KU」というのは、日本名である。

●コンビニ

 途中、コンビニで、遅い夕食を買った。
私は、菓子パン。
ワイフは、日本ソバ。
あと、せんべいなどの菓子類。

 ……それと近く、修善寺(静岡県伊豆半島の温泉地)で、講演をすることになっている。
その講演が終わったら、修善寺温泉に一泊する。
その宿探しを、雑誌でした。
20冊近い、旅行雑誌が出口のところに並んでいた。

 コンビニを出るとき、店員にこう聞いた。

「だめだと思いますが、このページをそこのコピー機で、コピーしてもいいですか」と。
すると店員は、半ばあきれ顔で、「だめです」と。

私「ハハハ、そう言われるとわかっていました。わかっていましたから、聞いてみただけです。
ハハハ」と。

 だめに決まっている。
しかしその雑誌だって、売れなければ、返本するだけ。

●母子分離不安

 KUさんが今、いちばん先にすべきことは、(すでにしているかもしれないが)、同じ障害をもつ
親同士のネットワークに参加すること。
けっして孤立しないこと。
けっして「私だけが……」と思わないこと。

 どういった障害なのかは、メールだけでは、よくわからない。
が、そういった専門のネットワークもあるはず。
今ではネットを使えば、簡単に検索できる。
韓国のことは知らないが、この日本では、そうした子どもへのケアも、かなり充実してきてい
る。
子どもが進むべき道は、けっして一本ではない。
幸福になる道も、けっして一本ではない。

 あとは前だけを見て、先にも書いたように、明るく、さわやかに生きていく。
結果として、母子分離不安の問題など、吹き飛んでしまう。

 子どもが泣きながら後を追いかけてきたら、KUさんは、やさしく抱いてあげればよい。
あれこれ考えないで、子どもの心になって、子どもと悲しさやさみしさを共有してあげればよい。
それと「甘やかす」ということとは、別。
つまりそうしてあげたからといって、甘やかしたことにはならない。

 「甘やかす」というのは、規律のない生活の中で、欲望に溺れさせることをいう。
甘やかしたから、母子分離不安になるというわけではない。
きびしくしたからといって、母子分離不安が治るわけでもない。

●寝支度

 昼寝をしたこともある。
時計を見ると、時刻は、午前0時を越えていた。
ワイフは寝支度を始めた。

 外はかなり寒いはず。
「明日は、凍っていないだろうか……」と。
水が氷れば、山荘は使い物にならなくなる。

 最後に、KUさんへの返事を書くことにした。

【はやし浩司より、KUさんへ】

 お気づきのように、これは母子分離不安の問題ではありません。
またそんな問題は、何でもありません。
10人の子どものうち、2〜3人が経験する、ありふれた問題です。
だからあまり深刻に考えないこと。
自然体で、子どもに接したらよいでしょう。

 それよりも重要なことは、あなたが今、もっているであろう閉塞感、それに基づく、不安や心
配を、どうするかということです。
お子さんたちは、それをそっくりそのまま受け継いでいまっています。
『子どもの心は、親の心の鏡』と考えてください。

 ……と、こんなことを書くと、KUさんは、自分で自分を追い込んでしまうかもしれませんね。
そこでこう考えてみてください。
親になることは、子どもをもつことで、だれでもなれます。
しかし「真の親」となると、そうはいかない。
何度も何度も、絶望のどん底へ叩き落とされながら、親はやがて「真の親」へとなっていきま
す。
私たち夫婦にしても、そうです。
何度も何度も、子育てで行き詰まり、そのつど近くの山に車を走らせ、そこで泣きました。
今でもときどき、泣きます。

 運命がどうのこうのと考える前に、人生も残り少なくなってきました。
だったら、もう運命を受け入れるしかない。
最近は、そう考えるようになりました。
「なるようになれ」というよりは、ありのままをさらけ出して、生きる。
どうもがいたところで、これが私の人生。
完璧な人生、完璧な人間関係、完璧な親子関係など、もとから望むべくもない。
孤独死、無縁死、何でも結構。
人に嫌われようが、悪く思われようが、それも構わない。
生まれが生まれですから……。

 あとは勇気をもち、足を前に一歩、踏み出す、です。
そこにある問題から逃げるのではなく、2人のすばらしいお子さんといっしょに、前を向き、いっ
しょに歩く。

 なおどうしても母子分離不安が気になるようでしたら、こうします。

(1)求めてきたときが与えどき……子どもが何かのアクションを求めてきたら、「与えどき」と思
い、すかさず、(すかさず、です。1〜2秒も間をおかない)、抱いてあげます。
力いっぱい抱くのがコツです。
たいてい数秒〜10秒前後で、子どもは安心し、満足します。

(2)温かい無視
愛情だけは忘れず、そっと距離を置くようにします。
あなたとあなたのお子さんだけのことを考えます。
他人がどうこう言っても気にしないこと。
先にも書きましたが、そうしたところで、「甘やかす」ということにはなりません。
お子さんは、心底、つらいから泣くのです。
わがままとか、そういうふうに考えてはいけません。
「さみしかったのね?」とお子さんをねぎらいながら、愛情を表現してあげてください。
添い寝、抱っこ、いっしょの入浴など、濃密にしてあげてください。
その年齢がくれば、自然と収まってきます。
少なくとも児童期へ入るころには、症状は消えます。

●就寝
 
 山荘ではいつも、枕元で、香を焚くことにしている。
お気に入りは、「オウピアム」。
名前が恐ろしい。
日本語で、「大麻」!

 市販の香で、どこの店でも売っている。
どうか、どうか、誤解のないように。
が、気にはなった。
そこで一度、近くの交番にもっていったことがある。
「こんなのが市販されていますが、だいじょうぶですか?」と。
が、交番の警官は、オウピアムの意味すら、知らなかった。
「調べておきます」と言ったきり、そのままになっている。
それから2年近くになる。
 
 ……どうして「オウピアム」という名前がついているのだろう。
本物の大麻のにおいなど、知る由もない。
常識的に考えれば、においだけ似せて作った、偽物ということになる。
だからときどき「大麻って、こんなにおいなのかなあ」と思う。
(本物だったら、事件になるぞ!)
 
 そうそう、その反対のこともある。
欧米人がみな、驚く。
「日本では、覚せい剤を堂々と売っている!」と。

 英語で「アシド・ミルク(乳酸飲料)」と言えば、「覚せい剤」を意味する。
車の側面などに、「Acid Milk(乳酸飲料)」と書いてある。
それをみて、欧米人は、みな驚く。
 
(枕元でオウピアムの香を焚いているからといって、どうか誤解しないでほしい。)

 では、今夜は、これでおやすみ。
韓国のKUさん、おやすみなさい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評
論 はやし浩司 母子分離不安 よく泣く子ども)





(3)
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【前向きに生きる】

【生きる目的と意味、そしてその生き様】(はやし浩司 2012ー01−01)


●前向きに生きる

 前向きに生きるということは、簡単に言えば、過去を引きずらないということ。
そのためには、つぎの7つを守る。

(1)失ったものを、嘆かない。
(2)去った人を、追わない。
(3)ないものを、ねだらない。
(4)亡くなった人を、思わない。
(5)過去を、くやまない。
(6)失敗を、気にしない。
(7)自分の不幸を、数えない。

 が、それだけでは足りない。
生き様そのものを変える。
自分に対しては、つぎの3つを守る。

(1)あるがままの自分を認める。
(2)負けを認める。
(3)今を原点として、生きる。

 人間は、希望さえあれば、生きていくことができる。
が、希望は、だれにでもある。

今、ここに生きている、そのこと自体が、希望。
目が見える、音が聞こえる、風を感ずることができる……それが希望。
人と心を通わせることができる、ものを考えることができる……それが希望。

その希望は、自ら創り出すもの。
待っていても、やってこない。
日々の弛(たゆ)まない鍛練こそが、希望を生む。
肉体の健康、しかり。
精神の健康、しかり。

 他人に対しては、つぎの5つを守る。

(1)人を、恨んではいけない。
(2)人を、ねたんではいけない。
(3)人に、ねだったり、甘えてはいけない。
(4)人を、うらやましがってはいけない。
(5)人に、へつらい、自分を裏切ってはいけない。

 さらに老後の、しっかりとした設計図をもつ。
そのためには、つぎの4つを守る。

(1)私は私と割り切り、自分を他人と比較しない。
(2)年齢という数字を、気にしない。
(3)最後の最後まで、居直って生きる。
(4)孤独死、無縁死を、恐れない。

 あとは日々、平穏を旨とし、取り越し苦労にヌカ喜びをしない。
時の流れの中に身を置き、その流れに身を任す。
命は、そのまま天に任す。

 朝、起きたときに、やるべきことがある人は、幸福と思え。
今日1日、今週1週間、今月1か月、今年1年、やるべきことがある人は、幸福と思え。 
それを「真の幸福」という。

 前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
さあ、あなたも勇気を出し、足を一歩、前に踏み出そう。
明るい未来に向かって、まっすぐ歩こう!

 『心を解き放てば、体はあとからついてくる』(アメリカの格言)。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 幸福論 前向きに生きる 老後の生き様 過去を振り返らない はやし浩司 失ったものを嘆くな)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●人を恨まない

 H・フォスディック(Henry Fosdick)はこう言った。

 『Hating people is like burning down your house to kill a rat.
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで心が腐る。
だからこう言う。

『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
人を恨めば、人生を棒に振る。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげている。

 が、それでも恨みが消えないときは、どうするか。

●真の自由

 過去を引きずったとたん、人生は監獄になる。
が、だれしも、恨み、つらみはある。
失ったことを嘆き、不運を悔やむ。
が、そういうときは、それから逃げてはいけない。
とことん、恨め。
とことん、憎め。
とことん、過去を悔やめ。
身がボロボロになるまで、恨め、憎め、過去を悔やめ。
恨んで恨んで、憎んで憎んで、悔やみたいだけ悔やめ。
自分を燃やし尽くせ。

 すべてのエネルギーを燃やし尽くしたとき、あなたはその先に、恐ろしく静かな世界を見る。
それはあなたの魂が解放された、無の世界。
そのときあなたは、はじめて、真の自由を知る。

●運命

 今、あなたが苦しんでいるなら、幸いと思え。
あなたが悲しんでいるなら、幸いと思え。
あなたは今、まさに真理のドアを叩いている。
そのドアの向こうでは、真理が、あなたがドアを開いてくれるのを待っている。
息を潜(ひそ)め、静かに待っている。

 大切なことは、苦しみや悲しみから、逃れようとしないこと。
逃れようとしたとたん、運命はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、あなたが苦しみや悲しみに、真正面から立ち向かえば、運命はシッポをまいて、向こうから退散していく。

 方法は簡単。
あるがままを、そのまま受け入れる。
そこに運命があるなら、その運命をそのまま受け入れる。

 書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という。

 もちろん闘うことができる運命であれば、それと闘う。
「逃げろ」という意味ではない。
闘う。
ふんばる。
そこに人間の生きる価値があり、美しさがある。

 が、どうにもならない運命というものもある。
もしそうであれば、負けを認める。
受け入れる。
とたん、あなたはそこに真理が待っていることを知る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ネズミを追い出すために はやし浩司 運命論 真理 負けるが勝ち 希望とは 希望論)

●2012年01月01日

 さあ、ともあれ、2012年は始まった!

 友よ、仲間よ、力を合わせて、前に向かって歩こう。

 馬鹿は、相手にしない。
愚か者は、相手にしない。
欲望の奴隷となり、道を見失った人間は、相手にしない。
どうせ、その程度の、つまらない人生しか歩めない。
そんな愚劣な人間のために、時間を無駄にしてはいけない。

 私たちはそういう人を、憐れんでやろう!

 人生は山登りに、似ている。
下から見れば、低い山でも、登ってみると、意外と遠くまで見渡せる。
それと同じ。
あなたが勇気を出し、山に登れば、下にいる人間が、さらに小さく見える。

 あなたは前だけを見て、前に向かって進めばよい。
ただひたすら前に向かって、進めばよい。
それですべての問題が、解決する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 2010−01−01 はやし浩司 前向きの人生)





(4)
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【運命論vs自由論】

【運命と自由について】(はやし浩司 2012−01−01)

+++++++++++++++++++++++

硬い話をする前に……。

昨夜寝る前に、宝くじの当選番号を調べた。
毎年、10枚だけ、買うようにしている。
その番号、何と、2等と、たったの30番ちがい!
2等は、1億円。

(2等は、37組101799番。
私がもっていたのは、101760〜101769番!)

ハズレはハズレ。
が、宝くじというのは、当たって喜ぶ人より、
わずかにハズれ、悔しがる人のほうが、はるかに多い。
だったら、買わないほうがよい。

ワイフは、「だいぶ、近づいたわね」と喜んでいる。
「次回は、当たるわよ」と。
私は「二度と接近遭遇はないだろう」と。

こうして新春の夢は、フワ〜ッと消えた。

では、硬い話……。

++++++++++++++++++++

●運命論

 2004年12月24日に、運命論について書いた。
今からちょうど7年前になる。
それをそのまま掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●運命論

 ある文学者は、こう言った。
『幸福な家庭は、みな、よく似ている。
しかし不幸な家庭は、みな、ちがう。
一つとて、同じものはない』※と。
どこかの文学者だったが、名前は忘れた。

(※トルストイの「アンナ・カレーニナ」冒頭の言葉。)

 その不幸な家庭。
こんな話がある。

両親は、その女性が3歳のときに、離婚。
原因は、父親の酒乱と借金。
が、そのあとまもなく、父親は、自殺。
その女性が23歳になったとき、実の兄(当時、30歳)も自宅に放火、そして自殺。
言い忘れたが、その女性が叔母のところに引き取られたのが、彼女が、6歳のとき。
しかし叔母の夫(叔父)に、性的虐待を受け、それが理由で、今度は、別の叔母の家に預けられた。
彼女が10歳のときのことだった。

 現在は、浜松市の東にあるT町という町に住んでいる。
この話は、控えめに書いたが、事実である。
今は、無数の心のキズと戦いながらも、その女性は、2人の子どもをもち、幸福な家庭を築いている。

 私は「運命」を否定しない。
その人とは関係のないところで、無数の糸がからんで、その人の人生を決めてしまう。
そういうことは、よくある。
それを「運命」というなら、運命は、ある。

 しかも不幸がつづくときには、不幸は、その人に、つぎつぎと襲いかかってくる。
容赦なく、襲いかかってくる。
いくらそれを払いのけようとしてしても、その人の力には、限界がある。
不安と心配。
悲しみと苦しみ。
それらがこん然一体となって、その人に襲いかかってくる。

 しかしいくら運命があったとしても、最後の最後で、ふんばるのは、その人。
そのふんばるところに、人が生きる美しさがある。
生きる意味がある。

 今、絶望の渕に立たされて、その運命と戦っている人は、ゴマン(5万)といる。
5万どころか、50万、500万といる。
世界という規模でみれば、反対に「私は幸福だ」と自信をもって言える人のほうが、はるかに少ない。

 だから大切なことは、決して、「私だけ」と、思わないこと。
「私だけが不幸だ」と、思わないこと。
みなが、みな、そうだ。
そしてつぎに大切なことは、不幸は不幸として、それを笑い飛ばしながら、生きていくということ。
運命に負けてはいけない。逃げてもいけない。

 悪いことばかりではない。

 運命に向かってふんばればふんばるほど、その人は、より真理に近づく。
不幸は、それ自体は、ありがたくないものだが、しかし、その人に、真理への道を教えてくれる。
何が大切で、何が大切でないか。
そしてなぜ、私たちはここにいて、なぜ生きているか。
それを教えてくれる。

 さあ、恐れることはない。

 あなたも勇気を出して、自分の運命と戦ってみよう。
前に向かって一歩、踏み出してみよう。
明るく、さわやかに! クヨクヨしないで、生きてみよう。
(2012年12月31日夜、一部、改変)

 冒頭にあげた女性だが、たびたび私に手紙をくれた。その手紙の中に、こんなことが書いてあった。

 「私の家庭づくりは、ぎこちないものです。しかし私は、幸福というものがどういうものか、よく知っています。私はその幸福を、毎日、かみしめながら生きています」と。
(以上、2004年記)

(はやし浩司 運命論 幸福論 幸福な家庭 不幸な家庭 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 幸福な家庭は みな よく似ている)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●7年前

 7年前に、今と同じことを考えていたというのは、興味深い(?)。
あるいは私は、この7年間、何も進歩しなかったということか(?)。
基本的な部分では、7年たった現在も、同じ。
同じ運命論をもっている。
ただ誤解しないでほしいのは、運命論といっても、今、流行(はや)りのスピリチュアル風のものではない。
また運命といっても、自分の過去を振り返ってみたとき、そこに残っている足跡をいう。
未来に向かって、あるのではない。
もちろんもろもろの「糸」をていねいに総合すれば、ある程度の未来は予測できる。
しかしあくまでも「予測できる」という範囲のもの。

 仮にある程度、未来が決まっていたとしても、最後の最後ではふんばる。
そのふんばるところに、生きる意味がある。
生きる美しさも、そこから生まれる。 

●死後の世界

 死後の世界については、よく考える。
原稿もたくさん書いてきた。
で、原稿をさがしてみると、ちょうど去年の今ごろ、それについて書いていたことがわかった。
日付は、2010年11月16日になっている。
書いた場所は、昼神温泉にある、ホテル阿智川。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世

 何度も書くが、あの世などというものは、存在しない。
釈迦だって、そんなことは、一言も言っていない(法句経)。
それを言い出したのは、つまり当時それを主張していたのは、バラモン教の連中。
仏教はやがてヒンズー教の中に組み入れられていく。
輪廻転生思想は、まさにヒンズー教のそれ。

 その上さらに、中国、日本へと伝わるうちに、偽経典が積み重ねられた。
盆供養にしても、もとはと言えば、アフガニスタンの「ウラバン」という
祭りに由来する。
それが中国に入り、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となった。

 日本でもつぎつぎと偽経典が作られた。
私たちが現在、「法事」と呼んでいる行事は、そのほとんどが偽経をもとに作られた。
もちろん寺の経営的な収入をふやすために、である。
『如是我聞(これが私が(釈迦から)聞いたことである)』で始まる経典は、まず疑ってかかったほうがよい。

●宝くじと同じ

 話はそれたが、あの世はない。
あるとも、ないとも断言できないが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみて、あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う。
だから私はよく生徒たちに冗談ぽく、こう言う。

 「あの世があるなら、早く行きたいよ。
あの世では働かなくてもいいし、それに食事もしなくていい。
空を自由に舞うことだってできる」と。

●「もうこりごり」

 そんなわけで、人生は1回ぽっきりの、1回勝負。
2度目はない。
この先、どうなるかわからない。
しかし1回で、じゅうぶん。
1回で、たくさん。
「こりごり」とまでは言わないが、それに近い。
「同じ人生を2度生きろ」と言われても、私にはできない。

 たとえば定年退職をした人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたはもう一度、会社に入って、出世してみたいと思いますか」と。
ほとんどの人は、「NO!」と答えるはず。
あるいは、「会社人間はもうこりごり」と言うかもしれない。

●別れ

 たださみしいのは、今のワイフと別れること。
息子たちと別れること。
友人たちと別れること。
ひとりぼっちになること。
 
 そのうち足腰も弱り、満足に歩けなくなるかもしれない。
そうなったら、私はどう生きていけばよいのか。
それを支えるだけの気力は、たぶん、私にはない。
だったら今、生きて生きて、生き抜く。
今の私には、それしかない。

 さあ、もうすぐこのパソコンの寿命は切れる。
何度もコントロールキーと「S」キーを押す。
文章を保存する。
いよいよ晩年になったら、私は同じようなことをするだろう。
ていねいに保存を繰り返しながら、やがて「死」を迎える。

 繰り返しになるが、あの世はない。
……と、今は思うが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
(以上、2010年11月16日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世論

 先の原稿の中で、私は「あの世はない」と、断定的に書いた。
が、最近の私は、ときどきこう考える。
仮にあの世があるとするなら、今住んでいるこの世こそが、あの世ではないか、と。

 つまりどこか別の世界に、本元となる世界がある。
その世界から、私たちは、現在のこの世界に、ときどきやってくる。
ときどきやってきて、極楽や、(天国でもよいが)、地獄を経験する。

 それは別として、ともかくも今は、「ない」という前提で生きる。
もう一度、核心部分を、ここに掲載する。

『……死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う……』

 この考え方は、現在の今も、まったく揺らいでいない。

★Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it away, and in the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, and 
sometimes we lose them there again. ―Stephen King, "The Green Mile"

時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを奪い、運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。そしてときに私たちは、その人すら再び見失う。(S・キング・「グリーンマイル」)

●死の恐怖

 なぜ私たちは、死を恐れるか?
それについては、どこかの国の独裁者を思い浮かべれば、わかる。
ある賢人はこう言った。

『すべてをもつものは、すべてを失うのを恐れる』と。

 仏教でも、一貫して、死の恐怖が大きなテーマになっている。
もう少し掘り下げて言えば、死の恐怖は、どのようにすれば克服できるか。
死の恐怖と対比させながら、生きる意味を教える。
それが仏教ということになる。

 そこで仏教では、やがて「空」の概念にたどり着く。
それについては、私があえてここで説明するまでもない。
が、たいへん興味深いことは、あのサルトルもまた、同じ結論に達している点である。

仏教という観念論。
実存主義という唯物論。
この両者が、同じ結論に達している。
サルトルは、最終的に、「無の概念」という言葉を引き出している。

 それについて書いた原稿がある。
書いた日付は、2009年11月24日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無の概念」(サルトル)について

++++++++++++++++++

【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。
「苦しみ」という代償である。
自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。
わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。
明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。
「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。
自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。
(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。
人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。
わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという例は、少なくない。
そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。
みな、それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。
「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。
いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させることができるか」を考えなければならない。
しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題を解くようなものではないか。
少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。
個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。
自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。
サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。
しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。
そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき(2000年ごろ、中日新聞で発表)

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。
が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。
自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。
苦しかった。つらかった。
しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。
息子をあきらめたのでもない。
息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。
私が感じたのは、まさにその愛だった。
しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●二男に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。
生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。
が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。
一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。
そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。
真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。
ないが、しかし一つの目標にはなる。
息子がそれを、私に教えてくれた。
(以上、2000年ごろ、中日新聞で発表)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はある。
またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。
そういう人は多い。
しかしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。
どこまでも研(と)ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(以上、2009年11月24日)

 さて、あの独裁者。
最近、亡くなった。
恐らく死の直前まで、安穏たる日々は、1日とてなかっただろう。
不安で不安でならなかったはず。
だから病身を奮い立たせ、各地を回った。
「軍事指導」というのは、あくまでも口実。
失うことを、何よりも恐れていた。
(2012年01月01日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念 はやし浩司 自由論 真の自由 サルトル 自由刑 自由からの逃走)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2012年01月01日の朝に

 年越しは、ワイフと長男の、3人で過ごした。
2011年から2012年。
現在、時刻は午前9時。
先ほどまで、自分の書いた原稿を読んでいた。
起きたのは、午前8時ごろではなかったか。
寝室から出ると、まばゆいばかりの朝の陽光が、障子戸を通して居間に注いでいた。
「初日の出は、今年は拝めない」と聞いていたので、「?」と。

 昨年(2011年)は、相良海岸の民宿に一泊し、初日の出を拝んだ。

●運命と自由

 昨夜、こう書いた。

 『……書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という』と。

 振り返ってみると、私はいつもその運命に翻弄されてきた。
いくら声高(こわだか)に、「私は自由だ」と叫んでも、そこにはいつも運命があった。
どうしようもない運命。
その糸の中で、もがいた。
苦しんだ。

 だから……こう書くからといって、どうか誤解しないでほしい。
決して兄や母の死を喜んだわけではない。
しかし兄が他界し、母が他界し、つづいてちょうど母の1周忌に、実家を売却したとき、私は生まれてはじめて、「家」から解放された。
生まれてはじめて、心底、ほっとした。

「家」という「糸」がもつ呪縛感には、ものすごいものがあった。
40代のころは、郷里へ入るときにはいつも、経文の一節を唱えなければならなかった。
『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉を知ったのも、そのころだった。

 怨憎会苦について書いた原稿があるはず。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年08月19日に、こんな原稿を
書いた。
知人の家庭騒動を聞き、書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●魔性との闘い(怨憎会苦※)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)

 仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。

が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。

 で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。

そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。
こんな話を聞いた。

 A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。

 A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、「じゅうぶんな介護をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、「あの土地は、お前にやる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、「あの土地は、私のもの」と騒いだ。

 A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。

 「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という話になってしまいました。
で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、あなたには遺産相続権はありません。つまり部外者ですと説明するのですが、そういう道理すら、通じませんでした」と。

 娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、オレもちゃんと横で聞いた。オレが証人だ」と。

 A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。

 A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと言われたときには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。

 まさに怨憎会苦。
魔性をもった人と関わることの苦しみ。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。

 「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を貸そうとさえしませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。

 A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、ゴマンとある。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースとなると、もっと多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。

恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、貨幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと言われている。
(このあたりについては、私はかつてかなり詳しく、自分で調べた。)

 今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。

 では、どうするか?

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。

つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。

 音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。

そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)

(注※、「怨憎会苦」について)

【補記】怨憎会苦について

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 愛別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる、苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
(以上、2007年07月03日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自由とは何か

 自由とは何か。
一言で表せば、「欲望からの解放」ということになる。

「私」には、無数の「しがらみ」が、まとわりついている。
「私の財産」「私の名誉」「私の家族」「私のお金」「私のモノ」「私の地位」と。
そういったものに縛られている間は、自由など、求むべくもない。

 つまりそうした(しがらみ)をひとつずつ、糸をほぐすようにして、自分から解きほどいていく。
わかりやすく言えば、自分を飾っている衣服を一枚ずつ、脱いでいく。
その結果として、つまり丸裸になったとき、人は、自らを解放させることができる。

 「私」がある間は、魂に、安穏たる日々はやってこない。
仏教では、それを『執着(しょうじゃく)』という言葉を使って、説明する。
その執着を、自ら解き放つ。
わかりやすい例で説明すれば、こうなる。
私の講演などでは、こんなふうに言って、説明する。

 「……こうして私の講演を聞きにきてくださっている方の中には、こんな人もいるでしょう。
家の中に、多額のタンス預金をしている人です。
そういう人は、こういう場にいても、家のことが心配でならないはずです。
『うちの子は、ちゃんと戸締りをして、友だちの家に行っているか』とです。
 
 しかし無一文の人は、そうでない。
家のことは、何も心配しなくていい。

 『私』を簡単に説明すれば、そういうことになります。
へたに『私』があるから、死ぬのが怖いのです。
私の財産、私の名誉、私の家族、私のお金、私のモノ、私の地位と。
が、自分から『私』を取ってしまえば、もうこわいものはない。

 そのときがきても、『ああ、おいでなさったか』と、平穏な気持ちで、それを迎えることができる。
つまり死を克服することができる。
サルトルという哲学者は、それこそが、『真の自由』と説いたわけです。
『無の概念』という言葉も、そこから生まれました……」と。

●真の自由

 大切なことは、そこに苦しみや悲しみがあるなら、(孤独でもよいが)、それから逃げないこと。
真正面から、立ち向かうこと。
それができる人のことを、『真の勇者』という。
(剣を振り回したり、暴力を振るう人は、ただの馬鹿という。)

 運命というのは、(あくまでも私の運命論によるものだが)、それから逃げようとすると、キバをむいて、襲いかかってくる。
が、真正面から立ち向かうと、運命のほうからシッポを巻いて、逃げていく。
臆病で卑怯。
それが運命。

 そして身が燃え尽きるまで、悩み、悲しむ。
とことん、身を燃やし尽くす。
あなたが「もう、だめだ」と思ったその瞬間、あなたは自らを解放することができる。
『真の自由』を手にすることができる。

●2012年1月1日

 さて、今日も1日、始まった。
 
 寒い朝だ。
衣服を着替えるとき、何度も身震いした。
これを(現実)という。
(現実)は(現実)。
私たちはその現実世界の中で生きている。
その現実世界を無視することはできない。

 ……庭にたまった落ち葉を、掃除しなければならない。
帰り道、どこかで朝食をとらねばならない。
家に帰れば、年賀状が待っている。
生徒たちからのものについては、みな、今日中に返事を書く。

 そうそう、楽しみもある。

 1月X日、西浦温泉のA旅館に1泊することになっている。
その旅館の最上階のペントハウスに予約できた。
1日1組だけの、露天風呂付きペントハウスである。
ずいぶんとぜいたくな話に聞こえるかもしれない。

が、これはワイフへの感謝の念をこめた、私からのプレゼント。
この10年近く、モノは買っていない。
ワイフも、いらないと言う。
だからこういう形で、ワイフに感謝している。

 ……つまり私たちはこうした(現実世界)の中で生きている。
またその中でこそ、無数のドラマが生まれる。
無数の人たちが織りなす、無数のドラマ。
そのドラマの中にこそ、生きる意味があり、価値があり、美しさがある。
(現実世界)の中で、たくましく、力強く生きていく。

 その現実感だけは、どんな人生観をもっても、けっして見失ってはいけない。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 2012−01−01 現実世界 運命論 現実社会 運命と自由 解放と運命 はやし浩司 真の勇者 真の自由 魂の解放)

(以上、2012年01月01日、整理、記)





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●己こそ己のよるべ(自由と孤独)

【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012−01−01夜記)

++++++++++++++++++++++++

年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。

思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。

ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。

人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。

子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。

その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。

では、私は、どうなのか?

これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。

最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。

が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。

要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。

そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。

もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。

ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。

では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。

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【己こそ、己のよるべ論】

●ジョン・レノン

ジョン・レノンは、つぎのように言っている。

★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's Yoko's story . That's what I'm saying now. Produce your own dream. If you want to save Peru, go save Peru. It's quite possible to do anything, but not to put it on the leaders and the parking meters. Don't expect Jimmy Carter or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or Jesus Christ to come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great masters and mistresses have been saying ever since time began. They can point the way, leave signposts and little instructions in various books that are now called holy and worshipped for the cover of the book and not for what it says, but the instructions are all there for all to see, have always been and always will be. There's nothing new under the sun. All the roads lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You can wake you up. I can't cure you. You can cure you. 
……John Lennon, In Music/John Lennon 

君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。そのことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルーへ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。

ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、あるいはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだよ。自分でしなければ、いけないよ。

それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼らはみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできるよ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方というのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。

太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のためにはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だけが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)

●仏教では

 ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あたなを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中日新聞に掲載記事より

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫してしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれていなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やしている。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけで、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するようになる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラになった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダのやり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたもって、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつであるということは常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っていない。
いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。

しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。
(だからといって、仏の心に甘えてはいけないが……。)
そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分から離れたからといって、バチなど与えない。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしない。
大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだろうか。
バチなど与えるだろうか。
ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドアを閉ざす。
「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。
時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻三二頁)と言っている。
友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。
夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。
すでにその前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。
あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。
そういう人でも、つぎの鉄則だけは守ってほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。

(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。

(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにしてほしいということ。読んで、決して、損はない。

(02−7−24)

【注】

 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。
話し言葉のままと言ってもよい。
もともと吟詠する目的で書かれた文章である。
それが法句経の特徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。
寺の僧侶が読む経典にしても、ほとんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。
肝心の中国人が聞いてもわからないのだからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいない。
いるわけがない。

(サンスクリット語の当て字によるものというのが、その理由である。
たとえば、サンスクリット語では、「ナム」=「帰依する」、「ミョウホウ」=「不思議な」、「レンゲ」=「因果な物語」を、それぞれ意味する。
それぞれに漢語(中国語)の漢字を当てた。

だから「南無妙法蓮華」は、「不思議な因果な物語」という意味になる。
南無も、妙法も、蓮華も、すべて当て字。)

そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうやうやしく読みあげる。
そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。
日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそれ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。

中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた本来の仏教ではない)を唱えていたが、それが世界の常識。
こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本ということになる。

 たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてあるが、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。
むしろ法句経の中には、釈迦が来世を否定しているようなところさえある。
法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。
そういう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。
「チベット密教そのもの」と主張する学者もいる。

 チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりする。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。
みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩をたいているところを見たことがあると思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。
釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。
外のものによって、完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。
バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。

 仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろうか。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2003年6月、今から9年ほど前に
こんなことを書いていた。

宗教とは何か。
それについて書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●未来と過去

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。
が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。
10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。
イエス・キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなものを、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまいということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 1年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

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【前向きの人生、うしろ向きの人生】

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。
偉そうなことは言えない。
しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。
しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。
自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)がいた。
その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だった。
くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を5人ほど雇うほどまでになった。
が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。
(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから二年後に他界している。)

 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をしていた。
が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。
その人には、私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。
「母は、異常なまでにケチになりました」と。
たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したという。
「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。
値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。
つぎからつぎへと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。
波があることが悪いのではない。
波がなければないで、退屈してしまう。
船が止まってもいけない。
航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。
同じところをぐるぐる回ること。
もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。
死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。
雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。
唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がいる。
しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。
いくら釣りがうまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだというのか。
そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。
昨年、私はある会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた女性だった。
乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。
私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。
「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。

「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばらしい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。
しかしそういう航海からは、ドラマは生まれない。
人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。
そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。
人生の大波小波は、できれば少ないほうがよい。
そんなことはだれにもわかっている。
しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。
その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向きになる。
そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。
信仰があるから、人は信仰するのではない。
あくまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。
よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなければ、神など生まれなかった。
もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明するのだろうか。
これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。
ひょっとしたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。
しかし嘆くことはない。
そのあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。
たとえば昆虫が進化して、昆虫人間になるということも考えられる。
その可能性はきわめて大きい。
となると、その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。
隕石の衝突が恐竜の絶滅をもたらしたという。
となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。
そのときの恐竜には神はいなかったのかということになる。
数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数十万年など、マバタキのようなものだ。
お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。
しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。
数億年と数十万年の違いは大きい。
モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年ほど前のこと。
たったの6000年である。
それ以前の数十万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているのではない。
この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多い。
だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。
そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。
(だからといって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)
仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではない。

ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。
キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどうかを決めるのは、私たち自身である。
仏や神の意思ではない。
またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。
ドラマもそこから生まれる。
 
が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。
毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その一人と言ってもよい。
同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。
たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。
そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。
いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。
もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。

「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。
そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。

が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。
またその女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。
その女性の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。
この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言ってはならない。
まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。
ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。
何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。
どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。
そしてどうすれば、うしろ向きに生きなくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまいと思っている。
そういう人生は敗北だと思っている。
が、いつか私はそういう人生を送ることになるかもしれない。
そうならないという自信はどこにもない。
保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。
私とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うなら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。
歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。
しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。
生きる価値もそこから生まれる。
もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。

……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく気になる。
電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察する。
先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考えているのだろう」と。
そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題から逃げようとしているのではないか。
その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと考えている人も多い。
中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。
クシャクシャになったオートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。

人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。
愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。
しかしふと油断すると、いつの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。
それは実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。
何も考えなければ、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。
それは体の健康と同じで、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。
ゴータマ・ブッダは、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。
精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始める。
そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。
つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(以上、2003年06月13日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自分の力で生きる

 生きることは、孤独なこと。
自由に生きようと思えば思うほど、
またひとりで生きようと思えば思うほど、
孤独。

が、孤独を恐れてはいけない。
孤独であるのが、当たり前。

 最後にマザーテレサの言葉をあげる。
あのイエス・キリストも孤独だった、と。
マザーテレサは、そう説いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。この中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としてのパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

(終わりに)

 マザー・テレサのこの言葉には、本当に勇気づけられる。

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(はやし浩司 2012−01−01夜記)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司






(6)
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【宗教性vs理性】

【占星術というカルト】

●「占いを信ずる」……「はい」(27・0%)!

++++++++++++++++++++

雑誌「MOM」にこんな調査結果が載っていた。

「占いは好きですか」……「はい」と答えた人(79・0%)

「占いを信じますか」……「はい」と答えた人(27・0%)
          ……「いいときだけ、信じる」と答えた人(57・1%)
           (以上の両者を合計すると、84・1%!)

「どんな占いが好きですか」……星座占い(51・8%)
             ……手相(17・9%)
             ……タロット・カード(11・8%)
              (以下、血液型、生年月日、姓名判断、四柱推命……とつづく)

++++++++++++++++++++

●雑誌「MOM」

 雑誌「MOM」は、雑誌名からして、女性向けのもの。
ここに出てきた数字は、女性、とくに育児まっさかりの母親を対象にしたものと考えられる。
が、それにしてもというか、私はここに出てきた、「27%」「星座占い」という数字と言葉に驚い
た。
約3人に1人の女性(母親)が、占いを信じていることになる。
しかも「星座占い」という、訳の分からないものを信じている人が多いという。

●占星術

 占星術は、立派な宗教である。
とくに占星術とイスラム教の間には、密接な関係がある。
占星術イコール、イスラム教、イスラム教イコール、占星術と考えてよい。
それについては、以前、いろいろな原稿を書いてきた。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星
術」である。
今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。
星が見えるところ、すべての世界に、それがある。
興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。
ならば、その万物の構成要素から、神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基
本になっている。
わかりやすく言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。
だからそれら万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。
ついで、それらと一体として連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕
生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。
原理的には、男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではない
のか。
例がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。
つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごして
いると考えるからである。
イスラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたよう
に、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。
少なくとも、占星術では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべき
である。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断す
る、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星
術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを
参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。
あるいは生物という単位で、ものを考えるべきではないのか。
たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよい。
もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業によるも
の。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住むア
リ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、
つまり天空という平面で見ているにすぎない。
星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。
サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。
宇宙船で、100光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。
1000光年も先に行けば、もっと、変わる。
星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。
占星術イコール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占
星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれ
だけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄
することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよ
いと言うのなら、それはそれでかまわない。
そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

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Japan はやし浩司 カルト 狂信)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。
占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。
つまり占星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべて
が一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性があ
る。
事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。
つまり、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめ
ながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソ
クを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。
……というより、それはあなたの宗教性による。
意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それ
を超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。
笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。
信仰心といっても、おおざっぱに言えば、2種類ある。
ひとつは、教えを重要視するもの。
もうひとつは、超自然的なパワーを盲信するもの。
前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。
色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。
宗派によっても、ちがう。
しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存在を、信
仰の中心に置く。
「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。
あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教が生まれる。
そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係によって、発展し
たり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。
どこかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。
ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国
でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私
の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。
こと「星」について言えば、日本人は、元来、無頓着な民族と言える。
星座、それにつづく天文学については、それについて研究したという史料は、ほとんどといって
よいほど、残っていない。
(これは多分に、私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。
(発達したのではなく、発展した。誤解のないように。)
もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい(占い)に飛びついた。
占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを
埋めていた。
私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、その年の計画を
立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのも
のがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。
そして今に見る、占星術、全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。
占星術師なる人物が、テレビに顔を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わし
い。
占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義と結
びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。
あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体
は、表向きは、なりを潜めている。
が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかっ
たものではない。
忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。
しかもその信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)
している。
それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。
また外見上、いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件であ
る」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。

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論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 
Japan はやし浩司 イスラム教と占星術 狂気性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力をなくした人々

 宗教性と理性は、常に対立関係にある。
とくに注意したいのが、宗教がもつ神秘性。
この神秘性に毒されると、理性そのものが破壊される。

このあたりで、もう一度、しっかりと結論を出しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教とは何か(カルトについて考える)

【宗教VSカルト論】BYはやし浩司

●インチキ予言

 「2011年の5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。

そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。
 その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。

『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロ
ルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

 ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審
判の日」と予言して一躍話題の人となった。
その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末
の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。

●終末論

 キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になる
こともある。

つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。

 が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。

 とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのつどユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism」として、独立した。

●思い込み

 現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。
 が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。

人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信」。

 アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。

4〜5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。

●エアーポケット

 不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。

 が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。

たとえば「家庭内宗教戦争」。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)

 こういう時代なのかもしれない。
今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は多い。
夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。
いや、本当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしま
う。
そして気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。
そして夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。
価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、どうでもよい部分については、それなりにうまくい
く。
しかし基本的な部分では、わかりあえなくなる。

 その妻は、夫にこう言った。
 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。
それがかろうじて、こうして何とか、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおか
げよ。
それがわからないのオ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。
彼らが言うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そん
なの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)
することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむけ
る。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろん
のこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。
「接するだけでも、バチが当たる」と教えているところもある。

●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。
あと少しで、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。
その一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。
もともとは、さらに大きな母体団体から分離した団体だと聞いている。
わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼ばれる信者たちだけが、別のSS教を
つくって独立した。
それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に
集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。
それが約1時間。それが終わると、集会、勉強会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せ
なくなりました。
週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。
 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、
勧誘を始めたことです。
 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の
勝手ではないか」と思うかもしれない。
しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。
今は、どんなことを言っても、受けつけません。
親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。

●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味
はない。
原因のほとんどは、その信者自身にある。
もっと言えば、そういう教団に身を寄せねばならない、何かの事情が、その人自身に、あったと
みる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。
仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えているよう。
その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそうになっ
てしまう。

 何のための人生?
 なぜ生きているのか?
 どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにある?
 どこに求めればよいのか?
 何もできないむなしさ。

力なさ。
そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。
社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。
何のために、どう生きたらよいのか。
心配ごともつきない。
自分のことだけならともかくも、子どもはどうなるのか?

 国際情勢は?
 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。
いくら「私は私だ」と叫んでも、その私はどこにいるのか?
 生きる目的は何か?
 それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。
その穴のあいたところに、ちょうどカギ穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。
 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。
彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとたん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感
が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。
とたん、孤独感も消える。すばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にす
る。

 しかし……。
 それは錯覚。
幻想。
幻覚。
亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。
思想を注入してもらうかわりに、自らの思考力をなくす。
だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。
あるいは教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。
さらに足の裏を診断してもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお
金を教団に寄付した信者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。
そういう信者でも、会って話をしてみると、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人であ
る。
「どこかおかしのか?」と思ってみるが、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠
陥のない人は、いない。

●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係
は、すでに破壊されたとみてよい。
夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になったと考えてよい。
親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。
親はともかくも、子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚
を禁止している。
またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養を第一に考えて
いる。
 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始め
た」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。
富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言った。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明し
てみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どう
だ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。
会社の経営者としては、すでに適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすか
の、どちらかを覚悟しなさい。
夫婦でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひ
たすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。
無理をしても、ダメ。
それこそ5年、10年単位の時間が必要です。
頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。

●常識の力を大切に!

 今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。
信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。
どう自分たちを守ればよいのか。

 私は、常識論をあげる。
常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。
おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。
「おかしいものは、おかしいと思おうではないか。
それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。
これも方法は、簡単。ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。
ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩をする。
もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。
(おかしなもの)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。
習慣といってもよい。
何を見ても、ふと考えるクセをつける。
そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ!
 みなさんといっしょに、戦うぞ!
 世の正義のため、平和のため、平等のために!

 ……と少し力んだところで、このつづきは、またの機会に!

(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●信者がいるから宗教団体は生まれる

 先の原稿を書いてからだけでも、もう7年になる。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上にな
る。

 が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。

 宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。

●スピリチュアル?

 ……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。

 原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・2007・12・20)。

 いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉
がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされ
る。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

 「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷
居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

 たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られた
り、物品を買わされたりする、と。

 「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間
に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もい
たという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行く
と、この種の本が、ズラリと並んでいる。

 「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。
釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。
ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。
そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー
教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術?
 ばか!
 アホ!
 インチキ!

 あのね、占星術は、立派なカルト。
そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気
づかねばならない。
私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり!
 反論するのも、いや!
 ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

 10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3〜6年生)が、
占い、まじないを信じていた。
今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になってい
るとも考えられる。

 子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

 年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの指導では

 学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。

 それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。
 が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱ
りと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)

●宗教について

●霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。
これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならな
い。
数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。
しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。
非公式の調査でも、約七〇〜八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。
「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。
で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はい
くらでもいる。
またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。
たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年
秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。
だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

 私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を一八〇度変えなければならない。
これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。
宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。
「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。
もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。
見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。
で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。
それから霊の存在を信じても遅くはない。
何と言っても、霊の世界は無限(?)

 時間的にも、空間的にも、無限(?)
 そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?)
 
 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。
だからこの世界を、まず大切にしたい。
神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。
ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。
人間として懸命に生きる。
そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがって
いる。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(1)

 小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかっ
た。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもお
かしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった
少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

 そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまっ
た。

 「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずが
ない。いたとしたらインチキだ。

 一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコー
ナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇
〇万件とは!

 あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占
い」とは……?

 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

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宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。
 たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向
論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与え
られているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

 私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、
それはもう神や仏ではない。
悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?

 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。
さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でし
なさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

 人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自
ら努力することをやめてしまう。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。
しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(4)

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。
こんな失敗をしたことがある。
一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。
「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私はこう言った。
 「バチなんてものは、ないのだよ。
それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

 翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。
「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。
その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。
一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「
先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。
私は「真理」のことだと思ってしまった。
そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。
実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。
その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだと
わかった。

 さらに別の日。
一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。
夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。
そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声
で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。
その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。
そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
だから宗教を否定しても意味がない。
それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。
その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。
それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。
そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。
その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。
「先生、神様って、いるの?」と。
私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。
おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。
あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。
そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。
霊魂や幽霊についても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来
世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。
信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。
「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。
いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われ
て、はじめて知った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。
無間地獄。だれにも心を許さない。
だれからも心を許されない。
だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。
だれも愛さない。
だれからも愛されない。
……あなたは、そんな孤独を知っているか?

 もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。
あなたは何をしたいか。
どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。
あなたの中のあなた自身を信ずればよい。
あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わってい
る。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。
ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。
ウソをつかない。
飾らない。虚勢をはらない。
あるがままを外に出してみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。
ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。
人を助けてみる。人にものを与えてみる。
聞かれたら正直に言ってみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。
が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周
囲の人を温かく、心豊かにする。
一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たく
し、邪悪にする。
だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。
静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。
言いたいと思うことを言えばよい。
ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れ
ることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。
大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさな
いこと。

 手始めに、空を見てみよう。
あたりの木々を見てみよう。
行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよ
う。
つっぱることはない。
いじけることはない。
すねたり、ひがんだりすることはない。
すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。
そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。
しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。
「お前は、ひとりで寝たいのか?
 ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。
すると本当の私がこう答えた。
「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。

 そこで家に帰った。
帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。
自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。
しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。
と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。
あなたの心に、がまんすることはない。
ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。
あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。
みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。
本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をい
う。
みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無
間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年10月23日の朝に

 ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。
 言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。

 が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。

 そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道
をすることになる。

 若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。

 現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちが
いない」と思う。

 だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。

 要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくる
はず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 カルト 予言 預言 信仰とは 
はやし浩司 宗教論 宗教 はやし浩司 占い まじない)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年01月03日朝

 今朝は、占いからはじまり、宗教について考えてみた。
この文章の中に出てくる、「富山市U市の男性」というのは、「新潟県X市の男性」である。
よく覚えている。
私の家まで、2度も来てくれた。
またそのあと、毎年、新潟産の米を届けてくれた。

 もう10年近くも前のことである。
今、その男性を思い浮かべながら、「元気だろうか?」と思った。
遠い昔のような気もするが、ごく最近のできごとのような気もする。

 大切なことは、思考力。
自分で考えるという思考力。
最後に、思考力について書いた原稿を掲載する。
こうしたカルトと闘うためには、思考力しかない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力とは何か

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。 

「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、
「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、
さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけ
たモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。
それほど楽なことではない。
それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。
いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。
しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。
子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

 もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救
われる。
大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテル
を張られてしまう。
だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。
が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じよう
な苦痛がついて回る。

 それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。
そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。
一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性

……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。
とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。

●退化性

……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。
それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。
思考も同じ。

●先鋭化

……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。
ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。
もちろんこのほか、年齢的な問題もある。
私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。
集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。
そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止す
る人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。
個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。
概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。
それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 思考力 パンセ パスカル カル
トと闘う 宗教と神秘主義 はやし浩司 宗教論 霊について スピリチュアル インチキ)2012
/01/03記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司




(7)
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【欲望論】(本能とは)

●白い太もも(大腿部)

 家を出たとき、若い男と女が道路を歩いていた。
どこか物欲しそうに、しかし怪しげな歩き方だった。
が、何よりも目についたのは、女の白い太もも。
大腿部。
短いパンツに、ロング・ブーツをはいていた。
太ももは、99%、露出していた。
99%。
最後の1%で、左右のパンツがつながっていた。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 2000年に入ってから、ミューチュアル・アッタチメント(相互愛着)という言葉が
使われるようになった。
母親(父親)と乳幼児の関係についていったもの。
つまりそれまでは、母親と乳幼児の関係は、一方的なものと考えられていた。
母親側から乳幼児へ。

 しかしそうではないことがわかってきた。
つまり乳幼児のほうからも、母親側に働きかけがあることがわかってきた。
あの乳幼児が、母親に、である。
わかりやすく言えば、乳幼児は、自ら、自分の(かわいさ)を演出することによって、親
の愛情を自分側にひきつけようとする。
エンゼル・スマイルもそのひとつと言われている。

 このことは逆に考えてみれば、よくわかる。
もし生まれたての赤ん坊が、母親に向かって、こう言ったとする。
「おい、ババア、乳よこせ!」と。

 とたん母親は乳をくれるのをやめてしまうだろう。
つまりその時点で、人類は絶滅の危機に立たされる。

●赤ちゃん返り

 幼児期によく知られた、愛情飢餓による現象に、「赤ちゃん返り」というのがある。
ほとんどは「下の子」が生まれたことにより、「上の子」が、赤ちゃんぽくなる現象をいう。
あの赤ちゃん返りは、本能的な部分に根ざしているため、叱ったり、説教しても意味はな
い。
そういうことをすれば、症状は、ますますひどくなる。
ばあいによっては、慢性的な発熱など、身体的症状などを伴うこともある。

 つまり乳幼児でも幼児でも、無意識のうちに、求める相手を自分に引きつけようとする。
ここにも書いたように、本能に近い部分から命令が発せられるため、本人がそれを意識す
ることはない。

●本題
 
 さて本題。

 太もも(大腿部)を99%見せて歩く、若い女。
明らかに男のS欲(禁止用語)を、刺激している。
しかしもちろん、本人には、その意識はない(……だろう)。
「どうしてそんな服装をしているの?」と聞けば、こう答えるにちがいない。
「ファッションよ」と。
つまり、オシャレ、と。

 しかし私はそうは考えない。
その理由のひとつが、ミューチュアル・アタッチメント。
乳幼児でも、その程度の本能がある。
いわんや思春期の娘、をや。

●無意識下の行動
 
 私の行動には、無意識に支配されるものが多い。
その例として赤ちゃん返りをあげた。
今までに何百という例を見てきた。
その子どもは、外から見たところ、本人の意思で行動しているように見える。

 その延長線上に、あの「太もも」がある。
そう考えたところで、論理的に無理はない。
つまり女性は無意識のうちにも、男性を誘惑するように行動する。
言い換えると、男性のほうが女性のそういった服装を見て、興奮するのではない。
女性のほうが、男性をして、そう思わせるように仕向ける。
先にも書いたように、本能に根ざしているだけに、本人がそれを意識することはない。
無意識のまま、そうする。

●「形あるものは、すべて無」(「新少林寺」)

 映画『新少林寺』で受けた感動が、まだ残っている。
その余韻もあって、過去に書いた原稿をいくつか探してみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束
した希望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。

たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記

(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a 
miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。
人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。
出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。
こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。
その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。
その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。
それが世代性ということになる。
その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。
エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。
何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。
大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。
が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。
「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。
さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。

私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。
我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 
統合性の確立 無私 無我)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。
その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。
この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。

たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなり
ボランティア活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。
孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。
しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。
もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。

認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。
「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。
ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。
それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。
なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。
大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。
60歳をすぎれば、さらにそうである。
我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」
が、一致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。

一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。
(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)
 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)

一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。
 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。
自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。
その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。
それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。

 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、
『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても
暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞ
かし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日
本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905〜1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間か
ら、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、
自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂
信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信する
という例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出
歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハ
ッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、
それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」
をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫
んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、
私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放さ
せることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を
解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の
問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問
題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるとき
がくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の
立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取
り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、
布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概
念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの
問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由
論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていた
ため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。
「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪
う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。
しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐
怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経
験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。
その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイ
と押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、
さすがに私も声が震えた。
息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆ
えに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。
英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しか
しその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。
「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文
なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。
死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うこ
とができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れ
たことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、
しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ
自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。し
かしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実
自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがま
まにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任
をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをい
う。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。
四苦八苦の「四苦」である。
では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」であ
る。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。

(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることに
よる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦し
みをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをい
う。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。

簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、
行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し
前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)
→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、
説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦
しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。
無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり
涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということ
になる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、
コンピュータの中の世界かもしれない。
 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。
 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。
 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。
 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。
釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、
完成されたと言われている。
釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や
法華経などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)

(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

+++++++++++++++++++

もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

+++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、
釈迦は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。

(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。

++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自
由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私
はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。

ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹にな
っている、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。)

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともな
い。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだ
ろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨
みやねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。

……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)

(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディッ
ク)

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人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

+++++++++++++++++++++++++

●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上
古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、
恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みず
からの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもな
く、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8〜10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけ
ていくかということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 新少林寺 空 無の概
念 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 四
苦八苦 仏教 はやし浩司 怒り 恨み)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司



(8)
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【ジジ・ババ・ゴミ論】はやし浩司 2012−01−20

【ジジ・ババ・ゴミ論】

 今朝のニュースで、一番驚いたのが、これ。

 赤信号を無視して歩いている男性を、別の男性が注意した。
それに注意された男性が、逆ギレ。
注意した男性を殴り、殺してしまったという事件。

 この種の事件は、ときどきあるが、今回の事件は、つぎの1点で特異性がある。
殴った男性は、そのとき自分の「10代の息子」(報道)と、いっしょだったこと。
MSN・Newsの見出しは、つぎのようになっている。

『赤信号注意され逆上…男性殴り死なせた男の「理不尽」 交錯する怒りと悲しみ』(MSN・NE
WS)と。

 以下、MSN・Newsより

+++++++++++++以下、MSN・NEWS+++++++++++++++

東京都品川区の路上で昨年11月、赤信号で横断したことを注意された男が逆上し、注意した
男性を殴って死亡させる事件があった。
傷害致死容疑で逮捕、起訴された男は警視庁の調べに「腹がたってやった」と供述。
その理不尽な行動に、関係者の間で怒りと悲しみが交錯している。(大島悠亮)

息子の前で逆上し…

 昨年11月12日午後7時35分ごろ、大手百貨店や飲食店などが立ち並ぶ東京都品川区の
JR大井町駅中央口側の横断歩道。
区内に住む無職、小牧信一さん=当時(77)=は、対面から信号無視をして渡ってきた2人組
の男らを見かけた。

 「赤信号ですよ」

 小牧さんがこう注意すると、男の1人が「うるせえんだよ」と逆上。
顔を殴られた小牧さんは路上に転倒して頭を強く打ち、意識不明の重体となった。
小牧さんはすぐに病院に搬送されたが、1カ月以上たった12月20日、帰らぬ人となった。

 捜査関係者によると、小牧さんを殴ったのは傷害致死容疑で逮捕され、今月13日に起訴さ
れた品川区東大井の会社役員、山根基久夫被告(48)。

そして、傍らにいたのは山根被告の10代の息子だった。
2人は事件後、駅構内を抜け、自宅のある東口方面から逃走。
山根被告は事件がニュースなどで報道されているのを見て、小牧さんが死亡したことも把握し
ていたという。

 当初、捜査は難航したが捜査員の執念が実を結ぶ。
事件から数週間がたち、再度、現場周辺の防犯カメラを細かく解析したところ、事件当時、現
場で目撃された男と似た人物を確認。山根被告が浮上した。

+++++++++++++以上、MSN・NEWS+++++++++++++++

●若い人たちの反応

 事件の異常性もさることながら、若い人たちの、この事件に対する反応に、私は驚いた。
2チャンネルをのぞいてみると、つぎのような意見が、ズラリと並んでいた。

全体の2分の1から、3分の1以上が、殴られて殺された小牧伸一さんを非難したり、反対に、
殴った山根被告を擁護するもの。
(殴った男性を非難しているのではなく、殴られた男性を非難している!)

●2チャンネルより

 2チャンネルへの書き込みを、そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?


★勇ましいなおい


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか


★メリークリスマス
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな
正論だから腹が立ちともいうよな
忘れられないクリスマスだな
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。


★赤信号を守るのは正しいことだが
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない
この爺はよく今まで生きてたわ


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ


★んなわけねえよ。
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…


★団塊ってかバブル世代だったな
まあどっちにしても敵だけど


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw
卑屈すぎるわ


★子供連れてるのに人に注意されるようなことをした父親の自業自得だろ
子供の前で尊厳大事にしたかったら人に注意されるような行動をしなければいい


★いちいち注意した老害もゴミ
殴り殺したDQNパパもゴミ
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ


★ジジイも信号無視したことあんだろ?
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号
待ちをするのは愚鈍。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に
歩道を漕いでたら片足引きずってるジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになっ
たな
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて
ただのあほ、そんだけのことだろ
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。


★爺も自業自得だよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね
本人は分かっててあえてやってるんですから
バカと言われたと同じです
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ


(以下、延々と、つづく……)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●意識

 最近の若い人たちの意識が、私たちの意識とズレていることは、私自身も強く感じていた。
が、ここまでズレているとは、思ってもいなかった。

 若い人たちは、「77歳」という数字だけを見て、「ジジイ」と位置づけている。
その上で、事件の内容を吟味することなく、短絡的に、老人批判を展開している。
「2チャンネル」という、無責任な掲示板での意見だから、本気にとらえる必要はないのかもし
れない。
が、それ故に、かえって、現代の若い人たちの「本音」が、そこにあるとみてよい。

(もし注意したのが、30代、40代の男性だったら、どうだったのか?)

●段階の世代は「敵」

 この書き込みの中で、つぎの2つが、気になった。
「団塊」という言葉が、強く私の関心をひいた。

『団塊ってかバブル世代だったな。まあどっちにしても敵だけど』
『団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ』と。

 「v速」とは、何か。
それはさておき、ここで見られる若い人たちの意識は、180度、私たち団塊の世代のもってい
る意識とちがう。

 私たち団塊の世代には、それを意識しながら生きてきたわけではないが、「この日本の繁栄
を築きあげたのは私たち」という自負心がある。
同時に、ぜいたく三昧に明け暮れる若い人たちを見かけると、ときどき、「だれのおかげで、そ
んなぜいたくができるのか、わかっているのか?」と言いたくなるときがある。

 が、若い人たちの意識は、私たちの意識とは、ちがう。
私たち団塊の世代をさして、「敵」と。
こうした意識をもっているのは、若い人たちの中でも一部と、私は信じたいが、どうやら一部で
はなさそうだ。
すでにこうした傾向、つまり「世代間闘争」は、あの尾崎豊が、『♪卒業』を歌ったときから、始
まっていた。

●親バカからジジバカへ

 総じてみると、団塊の世代には、親バカが多い。
「子どものため……」と、自分の人生を犠牲にした人は多い。

「子どもだけには、腹一杯、メシを食べさせてやりたい」
「ひもじい思いだけは、させたくない」
「学歴だけは、しっかりと身につけさせてやりたい」と。

 が、そんな思いや苦労など、今の若い人たちにしてみれば、どこ吹く風。
気がついてみたら、老後の資金を使い果たしていた……。
それが団塊の世代。

 が、親バカなら、まだ救われる。
が、それが日本全体に及んだとき、今度は、ジジバカとなる。
私たちは「つぎの世代」を考えながら、この日本はどうあるべきかを、思い悩む。
考える。
が、肝心のつぎの世代にしてみれば、ただの(ありがた迷惑)。

 が、私たちの世代には、それがわからない。
「そうではない」という幻想にしがみつきながら、生きている。
が、幻想は、幻想。
それがわからないから、ジジバカ。
私たち団塊の世代は、今、とんでもないジジバカを繰り返している(?)。

 それを如実に表現しているのが、つぎの言葉。
少なくとも私がもっている「常識」とは、180度、ちがう。
180度、ひっくり返っている。

『……ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な
気分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ』と。

 その若者は、こう言っている。

 「カチンと来るような注意のされかたをしたら、イヤミや余計な一言を返し、相手も不愉快な気
分にさせるのは、当然。
それが常識のある、社会人としての行動」と。

●ゴミ

 60代、70代の人たちよ、覚悟しようではないか。
現在の若い人たちには、私たち老人に対する畏敬の念など、微塵(みじん)もない。
そういう若い人たちに、私たちの未来を託しても、意味がない。
期待しても、意味がない。

 ……というのは書き過ぎ。
またそうであってはいけない。
それはよくわかっているが、それが私たちの未来を包む現実。
この先、この傾向は、ますます強くなる。
こんな記述も見られる。

『ゴミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw』と。

 現に今、あくまでも風聞でしかないが、医療機関でも、「75歳以上は手術はしない」という考
え方が定着しているという。
現実にそんな規定があるわけではない。
その年齢以上になると、「年齢(とし)ですから……」と、治療を拒否されるケースも多い。
事実、私の兄は、担当のドクターに、こう言われた。
「私は治る見込みのある患者は、治療しますが……」と。

 つまり治る見込みのない患者(=兄)は、治療しない、と。

●同情

 ただ若い人たちが、忘れていることが、ひとつ、ある。

 現在、「若い人たち」と呼ばれている人にしても、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
自分たちだけは、ジジ・ババにならないと信じているかもしれない。
が、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
そしてそのとき、そのジジ・ババを取り巻く環境は、今よりも過酷なものとなる。
2050年……つまり38年後には、約3人に1人が、そのジジ・ババになる。
(=1・2人の実労働者が、1人の老人を支える時代になる。)

 現在25歳であれば、25+38=63歳!
若い人たちよ、それがあなたの未来だぞ!

 そのとき、今、天に向かって吐いた唾(つば)が、自分の顔に落ちてくる。
が、私はけっして、現在の若い人たちのように、「ザマーミロ!」とは言わない。
「かわいそうに」と同情する。

●小牧伸一さん

 小牧伸一さん、あなたの死は、けっして無駄にしない。
こういう事例では、注意するほうも、不愉快。
できれば、事なかれ主義でもって、無視したい。
しかしそれがあまりにも目に余った。

「信号を守れ」というのは、相手のことを思って発した言葉。
自分のためではない。
信号を無視すれば、その相手が事故に遭う。
小牧伸一さんは、それを心配した。
だから相手を注意した。

 が、心配してもらったほうは、逆ギレ。
あなたを逆に殴った。
こんなバカなことが「常識」というのなら、そちらの常識のほうが狂っている。

 殴った男は、本物のバカ。
どうしようもない、つまり救いようがない、バカ。
徹底して法の裁きを受ければよい。

 が、残念ながら、今、こういうバカが、ふえている。
言うなれば、これはまさに、善と悪の闘い。
善が勝つか、悪が勝つか……。

●もうすぐ浜松

 先ほどJR掛川駅を出た。
あと10分足らずで、浜松に着く。

 ……今回の講演旅行は、これでおしまい。
来週は、M町での講演会がある。

 なお今回は、沼津のご用邸を見学することはできなかった。
来月、沼津で講演する機会があるので、またそのとき見学してみたい。

 では、また。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 金谷 韮山 はやし浩司の講演
会 講演旅行 はまゆう会館 沼津ご用邸)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

(PART2)

+++++++++++++++++++++

昨日、こんな原稿を書いた。
その前に、こんな事件があった。

『……赤信号を無視して歩いている男性を、別の男性が注意した。
それに注意された男性が、逆ギレ。
注意した男性を殴り、殺してしまった』(2011年12月)。

注意した男性が「77歳」だったことが、大きな波紋をもたらした。
若い人たちが投稿を寄せる「2チャンネル」には、無数の意見が寄せられた。
驚いたことは、(殴った男性)を非難する意見ではなく、むしろ(注意した男性)を非難する意見
が、ほぼ半数を占めていたこと。

もう一度、2チャンネルに載っている意見を、ここに掲載する。
「匿名の意見だから、重要視する必要はない」と考えるかもしれないが、それ故に、ここに述べ
られている意見は、現在の若い人たちの「本音」と考えてよい。

+++++++++++++++++++++

●若い人たちの本音(「2チャンネル」より転載)

★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?


★勇ましいなおい


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか


★メリークリスマス
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな
正論だから腹が立ちともいうよな
忘れられないクリスマスだな
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。


★赤信号を守るのは正しいことだが
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない
この爺はよく今まで生きてたわ


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ


★んなわけねえよ。
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…


★団塊ってかバブル世代だったな
まあどっちにしても敵だけど


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw
卑屈すぎるわ


★いちいち注意した老害もゴミ
殴り殺したDQNパパもゴミ
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ


★ジジイも信号無視したことあんだろ?
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号
待ちをするのは愚鈍。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に
歩道を漕いでたら片足引きずってるジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになっ
たな
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて
ただのあほ、そんだけのことだろ
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。


★爺も自業自得だよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね
本人は分かっててあえてやってるんですから
バカと言われたと同じです
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ


(以下、延々と、つづく……)

●信頼関係の欠落

 なぜ、こうまで老人たちが嫌われ始めているか。

 一言で結論を言えば、「信頼関係の欠落」。
若い世代と、古い世代の間には、大きな溝(みぞ)がある。
そしてその2つの世代が、対立関係にあり、それをつなぐ信頼関係がない。
この信頼関係の欠落が、若い世代の憎悪感を、増幅させている。
「ジジ・ババ・ゴミ論」も、そういうところから生まれている。

●若者の視点

 私は職業上、いつも若い人たちの世界で仕事をしている。
下は幼稚園の年中児から、上は高校3年生まで。
1日のサイクルの中で、幅広い子どもたちと接している。

 それもあって、温泉の鏡を見て、自分が老人であることを知ることはあるが、それ以外の場
所で、自分が老人であると思うことは、めったにない。
家庭でも、鏡を見ることはめったにない。

 「若い人間」とまでは思わないが、そんなわけで、自分を老人と思ったことは、まだ、ない。
「そろそろ老人の仲間」という意味で、「老人組」という言葉を使うことはある。

●100万円

 そんな私だから、若い人たちの気持ちも、わからないわけではない。
たとえば月末に郵便局へ行く。
そこで見る光景は、まさに異様な光景。

 足腰の曲がったようなような老人たちが、100万円近い札束を、わしづかみにして帰ってい
く。
私が住むこのあたりは、旧国鉄村と呼ばれるほど、旧国鉄のOBたちが、たくさん住んでいる。
もちろんそのほかの公務員たちも多い。
そういう人たちが、3か月ごとに年金を手にする。
そあいうのを見ていると、この私ですら、「これでいいのか?」と疑問に思ってしまう。
それには理由がある。

●悠々自適の年金生活

 旧国鉄の人たちや公務員が、現役時代、どんな仕事をしていたか……?
それについては、すでに何度も書いてきた。
が、問題は、退職後。

 たとえば私の近所には、多くの空地があった。
(最近は少なくなってきたが……。)
その空地。
ゴミ拾いなどの清掃をするのは、この私しかいなかった。
その私が、ここで、こう、はっきりと断言できる。
ここに住むようになって、35年になるが、いまだかってそういうOBたちが、ゴミ拾いも含め、近
所のために奉仕活動をしているのを、一度も、見たことがない。
「一度も」だ。

 みな、まさに悠々自適の年金生活。
趣味三昧。
そういう人たちの口癖は、いつも同じ。

「私ら、国に収めてきたお金を、返してもらっているだけです」。

●人間選別機関

 その一方で、若い人たちを包む社会は、ますます息苦しくなってきている。
何をするにも、資格、認可、許可、免許、登録。
この私自身が、そう感じているのだから、どうしようもない。

 しかも給料は少なく、仕事は不安定。
そういう若い人たちから見ると、「老人たちだけが、いい生活をしている」となる。
もちろん教育とて、無罪ではない。
現在の若い人たちが、学生のころはといえば、学校はまさに「人間選別機関」。
今の今も、そうだ。

 選別され、上級コースへ入った人は、それでよい。
たとえば医学部を出ると、平均して4〜5年で、年収は2000万円を超える。
が、選別され、下級コースへ入った人は、……もう、ここに改めて書くまでもない。
また全体としてみると、そういう人たちのほうが、多数。

●不公平社会

 2チャンネルに載った意見を読み、驚いた人も多いかと思う。
私も驚いた。
が、1日たった今日、再度読みなおしてみると、「なるほど」と思わない部分もないわけではな
い。
ズレているのは、ズレている。
しかし何故に、私たち老人組が嫌われているかと言えば、そこには、若い人たちなりの理由が
ある。

 今、まさに、若い人たちは、「不公平社会」という社会のひずみの中で、窒息しそうになってい
る。
その閉塞感には、ものすごいものがある。
それに対する、不平や不満、それに怒りが、私たち老人に向けられている。

●還元する老人

 その一方で、自分の命を、つぎの世代に還元しようとしている老人も、少なくない。
「還元」という言葉は、鵠沼市(神奈川県)に住む恩師が、教えてくれた。
池田英雄先生である。

 池田英雄先生は、いつもこう言っている。
「ある年齢を過ぎたら、自分の命を、若い人たちに返していくのです」と。

 そのために、さまざまなボランティア活動がある。
たとえば私のワイフが通っているテニスクラブのコーチは、旧国鉄の職員である。
いつも無償で、コーチをしている。
そういう老人もいるにはいる。

●意識

 信頼関係があれば、若い人たちも素直な気持ちで、老人の注意を聞くだろう。
「赤信号だよ」「ああ、そうですね」と。

 が、それがないから、その時点で、はげしく反発する。
「うるせえんだよ」(報道)と。

 では、どうするか。
若い人たちに向かって、「あなたがたは、おかしい」と言っても、意味はない。
こうした意識というのは、相対的なもの。
若い人たちは若い人たちで、私たちのことを、おかしいと思っている。
そこで大切なのは、信頼関係の構築……ということになる。

●命の還元

 老人たちよ、街に出て、自分たちの命を還元しよう。
人生の先輩として、見せるべき見本を示してやろう。
存在感を、もっとアピールしよう。

 身近なところでは、ゴミ拾いでもよい。
無私、無欲。
私たち老人組だって、役に立つこともある。
そういうことをもっと積極的に、若い人たちに示していこう。
信頼関係は、そういうところから生まれる。

 ともあれ、この問題は、きわめて深刻な問題と考えてよい。
で、もし、今、あなたが、「私だけよければ、それでいい」と考えているなら、それこそまさに自滅
行為。
自殺行為ではない。
自滅行為。

 あなたを待っている死後は、まさに自己否定の世界。
あなたが生きてきたという事実すらも抹消される、自己否定の世界。

 さりとて、若い人たちの言いなりになるのも、どうか。
順に反論してみたい。

●老人組の反論

★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?

……ルールを破り、注意された。
当然のことではないのかな。
むかつく前に、自分を恥じたらどうかな。
私は、赤だと、車が来なくても、待つよ。
それほどまで急がねばならなようなことは、めったにないし……。


★勇ましいなおい

……私もよく注意するが、注意する方も、それなりの覚悟と勇気が必要だよ。
できれば事なかれで、すましたい。
が、それでも目に余るものがあった。
それで注意した。
「勇ましい」のではないよ。
見るに見かねて、注意した。
注意したくて、注意したのではないと思うよ。


★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw

……まじめに生きることがバカなのかな?
だったら、どういう生き方がバカでないのかな?
きちんとした形もないまま、相手をバカと言って切り捨てる。
こういうのを無秩序主義者(アナーキー)というだよ。
どこかの島にでも行って、つまりルールのない世界へ行って、原始生活でもしたらどうかな。


★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり

……「77歳」だったから、問題なのかな?
でもね、年齢は関係ないはず。
老人に、問題をなすりつけないでほしい。


★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか

……君たちは、まだ「1人」かもしれないが、やがて君たちも「1匹」になる。
虫けらになる。
その覚悟は、できているのかな?


★メリークリスマス
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな
正論だから腹が立ちともいうよな
忘れられないクリスマスだな
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし

……それとこれは、問題は別。
正義の人が殴られ、殺された。
どうしてそれが「メリークリスマス」なのかな?
天の神様も、悲しむと思うよ。


★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。

……これを書いた君自身が、前頭連合野の発達障害者ではないのかな?


★赤信号を守るのは正しいことだが
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた

……信号を無視し、交通事故が起きたとする。
それはリスクではないのかな?
この浜松市も、長い間、交通事故ワーストワンだった。
しかし街角に警察官が立つようになって、事故数は、ぐんと減った。
みなが、信号を守るようになったからね。
信号を守るということは、君自身の命を守るということにもなるのだよ。


★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。

……その老人に感謝したらよいと思うよ。
今、君が交通刑務所に入っていないのは、そういう老人がいたおかげだよ。


★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない
この爺はよく今まで生きてたわ

……君たちは、すでに死んでいるよ。
心がね。
その老人は、まだ死んでいないよ。
肉体の生死だけで、(あるいは肉体の老若だけで)、人の死を論じてはいけないよ。
私たちが、こうして、今、その老人の死を無駄にしないように、がんばっている。
肉体の死イコール、魂の死ではないよ。


★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ

……今までの日本は、私たち団塊の世代が作ってきた。
君たちには、それがわからないかもしれない。
が、これからの日本は、君たち若い人たちが作っていく。
どうか、今より、すばらしい日本を築いてほしい。
楽しみにしているよ。


★んなわけねえよ。
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。

……だからこそ、その老人は勇気を奮い立たせ、注意したのではないのかな?


★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…

……その逆の例をあげたら、山のようにある。
君も一度、勇気を出して、暴走族を注意してみたらどうだろうかな。
暴走族の中には、77歳の老人はいないはず。


★団塊ってかバブル世代だったな
まあどっちにしても敵だけど

……どうして団塊の世代が、敵なのかな?
この言葉には、少なからず、私はショックを受けたよ。
私は、その団塊の世代、第1号、昭和22年(1947年)生まれだよ。


★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw

……どちらが、ゴミなのかな?
つまり私たちと、君たちと、どちらがゴミなのかな?


★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw
卑屈すぎるわ

……そんなことないよ。
君たちの未来を憂い、私のように、がんばっている老人組も、結構、多いよ。
私も、巨悪に向かって、毎日のように、吠えつづけているよ。


★いちいち注意した老害もゴミ
殴り殺したDQNパパもゴミ
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ

……「DNQ」の意味がわからない。
だったら、君自身は、そのゴミにならないよう、努力してほしい。


★大阪の場合はジジイが率先して信号無視

……ジジイとか、ジジイでないとか、そういう尺度で、ものを論じないようにしてほしい。
同じ人間だろ。
同じ日本人だろ。
みんなで、この日本をよくしていこうよ。


★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ

……恥をかかせられたら、何をしてもいいのかな?
恥の大切さを説く、「藤原H氏」(国家のH格・著者)が聞いたら、涙を流して喜ぶと思うよ。


★ジジイも信号無視したことあんだろ?
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな

……自分にきびしいから、注意したんだよ。
私はそう解釈しているよ。
損得を考えたら、黙っているよ。


★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。
車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号待ちをするのは愚鈍。

……「世の中を少しでもよくしたい」と、私はしつこく生きているよ。
これからもしつこく、生きていくよ。
77歳までは無理かもしれないけれど、70歳くらいまでなら、がんばれると思う。


★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に歩道を漕いでたら片足引きずって
るジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになったな
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた

……ジジイがおかしいのではないよ。
その警官が、おかしいのだよ。
攻撃する矛先が、ちがうよ。


★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな

……「自業自得」?
「業」の意味を、もう一度、近くのジジイに聞いてみたらどうかな?
その意味は、君たちが想像するよりも、はるかに深いと思うよ。
私も55歳をすぎて、はじめて、その意味がおぼろげながらに、わかるようになったよ。


★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて
ただのあほ、そんだけのことだろ
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ

……君のように賢い人間ばかりになったら、この世界は、本当に住みやすくなるよね。
君は、すばらしい人生を送っているにちがいない。
私もいつか、ものすごく賢い人間になって、世の中の人たちをみな、「アホ」と呼んでみたい。


★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。

……フランス人の先生?
そういう先生が教壇に立っていると思うだけで、ぞっとする。
あのね、フランスではね、図書館でも、たった5〜10分、パソコンを置き忘れただけで、だれか
に持っていかれるそうだよ。
君の論理に従えば、置き忘れた人のほうがバカで、盗んでいった人のほうが利口ということに
なるのかな?

★爺も自業自得だよ。

……その「爺」は、まだ死んでないよ。
君たちのほうが、死んでいるよ。
その「爺」は、「魂」を残したよ。
だから死んでいないよ。


★いい大人を注意するとかもう最悪ですね
本人は分かっててあえてやってるんですから
バカと言われたと同じです
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね

……「信号を無視する人を注意した」。
それがどうして、バカなのかな。
「殺してくれ」と、どうして同じなのかな。


★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ

……どうしてそういう常識が、常識になるのかな。
アインシュタインは、こう言っているよ。
『常識などというのは、その人が18歳にまでもった、偏見のかたまりである』と。
そういう常識しかもてなかった、君に同情するよ。
でもね、大切なことは、自分の常識を常に疑い、同時に、自分の常識を常に磨くこと。
死ぬまで、それがつづくよ。
釈迦は、それを『精進』という言葉を使って説明したよ。
究極の健康法というのがないのと同じように、究極の精神鍛錬法というのはない。
毎日、精進。
精進、あるのみ。
1日でもさぼったら、そのときから下り坂。
肉体の健康と同じだよ。
1日でもさぼったら、そのときから下り坂。
ちがうかな?


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

(六趣輪廻の因縁で、闇路に迷う愚痴人間)(N市教育委員会・子育て講
座用原稿)

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ゴミ?

 少し前、「ジジ・ババ・ゴミ論」について書いた。
私が「ゴミ」という言葉を使っているのではない。
若い人たちの書くBLOGに、そう書いてある。
最近の若い人たちの老人論には、辛らつなものが多い。
「老害論」から「ゴミ論」へ。
まさかと思う人がいたら、一度、若い人たちのBLOGに目を通してみるとよい。

 それについては、もう何度か書いてきた。
ここでは「なぜ?」について、書いてみたい。
なぜ、私たちはゴミなのか?

●「将来、親のめんどうをみる」

 「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と答える、日本の若い人たちは、世界で
も最下位。
総理府、それにつづく内閣府が、数年おきに、同じ調査をしている。
「青少年の意識調査」というのが、それである。
それによれば、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●年老いた親を養うことについてどう思うか

「どんなことをしてでも親を養う」

   イギリス66.0%、
   アメリカ63.5%、
   フランス50.8%、
   韓国35.2%、
   日本28.3%
(平成9年、総理府の同調査では、19%。)

 日本の若い人たちの意識は、28・3%!
アメリカ人の約半分。

 「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。
しかし現実は、かなりきびしい。
今どき、「親孝行」という言葉を使う、若い人は、いない!

●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか

『そう思う』:

   イギリス70.1%、
   アメリカ67.5%、
   フランス62.3%、
   日本47.2%、
   韓国41.2%

+++++++++++++++++++++++++++++++++

 平たく言えば、現代の若い人たちは、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と考え
ている。
しかし「経済的に余裕のある若い人」は、ほとんど、いない。
どの人も、目一杯の生活をしている。
結婚当初から、車や家具一式は、当たり前。
中には、(実際、そういう夫婦は多いが)、結婚してからも親からの援助を受けている夫婦もい
る。

金融広報中央委員会の調査によれば、現在、貯蓄ゼロ世帯は、23%。

全国約4000万世帯の、23%。
4世帯につき、約1世帯。

さらに生活保護を受ける世帯が、2011年度、最高を記録した。
その数、150万世帯。

++++++++++++++++++++++++++++++

金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査(2006年)」によれば、
つぎのようになっている。

   20代は171万円、
   30代は455万円、
   40代は812万円、
   50代は1154万円、
   60代が1601万円、
   70歳以上が1432万円。

この調査は「20歳-79歳代の男女10,080人」を対象に調べたもので、
このうち貯蓄を持っているのは全体の、77・1%。
残りの22.9%は貯蓄ゼロ。

貯蓄ゼロの家庭は、年収が300〜500万円未満でも21.1%。
500〜750万円未満の家庭でも16.2%。

+++++++++++++++++++++++++++++

 なお、団塊の世代についてみると、8・1%の世帯が、貯蓄ゼロとなっている(「格差脱出研究
所」調べ)。
ただしここに載っている数字にしても、あくまでも、「平均」。
70歳以上だけをみても、中に数億円以上もの金融資産を保有している人たちがいる。
大多数の人は、400〜500万円程度と言われている(某経済誌)。

 「親のめんどうをみる」と答える、若い人たちの減少。
それと反比例する形で、「ジジ・ババ・ゴミ論」がある。
両者を関連付けるのは、危険なことかもしれない。
しかし無関係とは、これまた言えない。

●祖父母と同居

 私自身は、3世代同居家族の中で、生まれ育った。
生まれたときから、祖父母と同居していた。
と言っても、当時は、それがごく平均的な家族であった。
「核家族」という言葉が生まれ、それが主流になってきたのは、1970年以後のこと。
夫婦と、その子どもだけの、「小さな家族」を「核家族」と言った。

 当時はそれが珍しかったが、今では、それが主流。
若い人たちが「家族」というときには、そこには、祖父母の姿はない。

 現在、祖父母と同居している家族の割合は、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

●「祖父または祖母と同居している」

   日本(20.6%)、
   韓国(5.8%)、
   アメリカ(3.1%)、
   フランス(1.5%)、
   イギリス(1.1%)
 
 これらの数字を並べて解釈すると、こうなる。

(1)日本人は、親と同居している家族が、比較的多い(20・6%)。
子どもが生まれれば、3世代同居家族となる。
ただしこれには地域差が大きい。
地方の農村部では、多く、都市部では、少ない。

(2)老親は、子どもに老後のめんどうをみてもらいたいと考えている(47・2%)。
が、若い人たちには、その意識は薄い。
世界でも、最低レベルとなっている(28・3%)。

(3)「核家族」という家族形態は、欧米化の1態ということが、この数字を見てもわかる。
   つまり、家族の欧米化が、現在、急速に進んでいる。
   ただし欧米では、各地に「老人村」があるなど、老人対策が充実している。
   一方、この日本では、老人対策がなおざりにされたまま、欧米化が進んでしまった。
   その結果が、独居老人、さらには孤独死、無縁死の問題ということになる。

●「団塊の世代は敵」?

 先日紹介したBLOGの中に、「団塊の世代は敵」と書いてあるのが、あった。
これには驚いた。
私たち団塊の世代は、感謝されこそすれ、「敵」と思われるようなことは、何もしていない。
そのつもりでがんばったわけではないが、現在の日本の繁栄の基礎を作ったのは、私たち。
そういう自負心も、どこかにある。
その私たち団塊の世代が、敵?

 こうした感覚を理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要がある。
なぜか?

 その理由の第一が、現在の若い人たちは、「貧しさ」を知らない。
生まれたときから、「豊かな生活」がそこにあるのが当たり前……という前提で、育っている。
それは私たちの視点を、逆に、80代、90代の人たちの中に置いてみるとよくわかる。

●「敵」

 戦争を体験した人たちは、みな、こう言う。
「日本を守ったのは、俺たち」と。
結果的に日本は敗北し、(守った)という意識は、粉々に破壊された。
しかし「命をかけて」という部分までは、破壊されていない。

 が、結果がどうであれ、戦争を体験した人たちが、「命がけで戦った」のは、事実。
で、そういう人たちに、私たち戦後の世代が感謝しているかといえば、それはない。
中には、「自業自得」と、辛らつな言葉を、浴びせかける人もいる。
「勝手に戦争を起こし、ひどいめにあった」と。
もう少し具体的には、こんな事実もある。

 私の二男が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
私はこう思った。
「親父(おやじ=私の実父)が、生きていなくてよかった」と。

 もし父が生きていたら、その結婚には、猛烈に反対しただろう。
私の父は、そういう人だった。
まじめで、がんこで、純粋だった。
本気で天皇を崇拝し、神国日本を信じていた。
ある日のこと、こんなことがあった。
私が小学3年生のときのことである。

 私が「天皇」と呼び捨てにすると、一度も私に対して怒ったことがない父が、私を殴った。
「陛下と言え!」と。

 父はその足で小学校へ怒鳴り込んでいった。
「貴様ら、息子に何を教えているかア」と。

 そのときの担任が、N先生。
だから小学3年生のときのことだったということを、よく覚えている。

 が、そんな父をだれが批判できるだろうか。
現に今、私たち団塊の世代を評して、「敵」という。
同じように、そういう若い人たちを、私たちはどうして批判できるだろうか。

 私たちはいつも、過去を踏み台にして、現在を生きている。
その現在に視点を置き、「自己中心的な、現在中心論」で、ものを考える。
そういう視点で見ると、私たち団塊の世代は、この日本の繁栄を、ぶち壊してしまった。
少なくとも、若い人たちは、そういう目で、私たち、団塊の世代をながめている。

●ゴミ

 私たちは、否応なしに、ゴミになりつつある。
またそういうふうに扱われても、抵抗できない。
体力も気力も、とぼしくなってきた。
若い人たちから見ると、私たちの世代は、毎日、遊んでばかりいるように見える。
昔、……といっても、もう30年以上も前のことだが、こう言った高校生がいた。

「老人は、役立たず」と。

 当時の私は、この言葉に猛烈に反発した。
……そう言えば、それについて書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。

 日付は2010年2月になっている。
当時、私はひとつの理由として、「受験競争」をあげた。
受験競争を経験した子どもは、総じて、心が冷たくなる。
私はそれを実感として、現場で、今も強く感じている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ・ゴミ 総理府 内閣府
 青年に意識調査 親の面倒 親のめんどう 老後の介護 はやし浩司 団塊の世代 受験と
虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


特集【介護と子どもの意識】(2010年2月の原稿より)

●介護と子どもの意識

+++++++++++++++++

介護問題に隠れて、表に出てこないが、
その裏には、子どもたちの意識の変化
がある。
現在、ほとんどの子どもたちは、「経済的に
余裕があれば、親のめんどうをみる」と
考えている(日本)。
しかし経済的に余裕のある人は、いない。
みな、それぞれが精いっぱいの生活を
している。

つまりこの調査結果を裏から読むと、
「めんどうはみない」となる。
が、ことはさらに深刻である。

(めんどう)どころか、(老人への虐待)が、
深刻化している。

10年ほど前に書いた原稿をさがしてみる。
(10年前ですら、そうだったということを
わかってほしい。)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ジジ・ババ受難の時代

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。

これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババ
への風当たりが強くなってきている。

 若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののし
る表現が、最近、目につくようになってきた。
ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOGには、こんな書きこみすらあった。

 「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。
おかげで、こちらは2週間も入院。そのジジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。
あんなジジイに、何度も見舞いに来られて、うるさくてしかたねえ。
こっちは、迷惑している」と。

 その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。

 つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。
そんな感じがする。
老人医療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。
加えて、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。
若者たちは、程度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。

 これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。
「現在の日本の繁栄を築きあげたのは、私たちの世代だ」と。

 しかしこれは、ウソ。
団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。

 たしかに結果的には、そうなった。
つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝手な論理にすぎない。
私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきただろうか。
私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。
結果として日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。

 そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。

 しかしこれは深刻な問題でもある。

 これから先、高齢者はもっとふえる。
やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上になるとも言われている。
そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろうか。
そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。

 ジジ・ババは、ゴミ。
 ジジ・ババは、臭い。
 ジジ・ババは、ムダな人間、と。

 そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、
たいへん住みにくい国ということになる。
そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるようになるかもしれない。

 では、どうすればよいのか。

 ……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということ
になる。
が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。
親たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言ってい
るうちに、そうなる。

 中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。
反対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いにな
る。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみ
ればよい。

 「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。
「親の恩も遺産次第」と考えている若者は、もっと多い。
たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答えている。
つまり「余裕がなければ、みない」※と。
数年置きに、総理府(内閣府)が調査しているので、そのうち、これについての全国的な調査
結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。

 私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。
そこでは、30〜40人の老人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をし
ている。
見た目には、のどかで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからな
い。

 すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。
補助金を削減し始めている。
10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。
単純に計算しても、今は30〜40人だが、それが90〜120人になる。

 そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。
またどのように考えるだろうか。

 老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。
ケア・センターでは、老
人たちが、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。
ああいうのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。

 高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。
そういう人たちが、手をたたいて、カラオケで童謡を歌っている!
 つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。
また、そうであっては、いけない。

 わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。
社会とかかわりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。
そういうかかわりあいというか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それ
なりにの(人間)として認められるようになる。

 「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄
できたか、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていは
いけない。

 私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に!
姿勢を低くして、若者や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。
その努力を今から、怠ってはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

古い原稿を再掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。
そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。
それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。
「それだけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。
親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。
「親の老後のめんどうを、あなたはみるか」と。

 それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%!

 この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。
さらに東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。
このことからもわかるように、若者たちの「絆の希薄化」は、ますます進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。
今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均27万円。
この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。
それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。
が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。
大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている!

 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。
春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけでも、数万円も
使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。
「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。
何をいまさら」ということになる。
「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。
今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。

大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。
あるいは
ブランドだけで、大学を選ぶ。
だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新聞の投
書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。
「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。
どうしたらよいでしょうか」と。

私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。
私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。
「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけで
も、月に4万円もかかります」と。
しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。

(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。
月平均になおすと、約26・6万円。
毎月の仕送り額が、平均約12万円。
そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均年収は1005万円。
自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万円。
99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 親の支出額 学費)

+++++++++++++++

つづいて03年(7年前)に書いた
原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●高齢者への虐待

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

やはり高齢者への虐待が
ふえているという。

これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。

+++++++++++++

 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護
サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11
月〜04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があっ
たということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。

 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。
夫が虐待するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということ
になる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

(1)殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2)ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3)食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4)財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。
こうし
た虐待は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。
最近の若者のうち、「将来親のめんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理
府、内閣府の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。
今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っている世代はいない。
飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。
本来なら、親に感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。
狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こ
んなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。
言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言う
のだが……。)
子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。
しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場ではない。
心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。
これはもう、立派な虐待以外のなにものでもない。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだい
ている。
それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。
子どもの心は、その受験期をさかいに、急速に親から離れていく。
しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。
あなたの周辺には、心の暖かい人もいれば、そうでない人もいる。
概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、今、心の暖かい人であることを、
あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、
連続して教えたことがある。
そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期にまたがって、大きく変化する
のを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライ
で、合理的になる。
はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え方を、平気でするよ
うになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えな
い。
つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろう
か。……言うことができるだろうか。
あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目で、あなたの子育てをみてみてほし
い。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子
どもの心にあてはまる諺はない。
きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、
まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。
人の目をたいへん気にする子どもで、いつも他人の顔色をうかがっているようなところは、ある
にはあった。
しかしそれを除けば、ごくふつうの子どもだった。
が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた!
「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。
しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。
ほかに首のない死体や爆弾など。
原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。
そしてその日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの
中から引きずり出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような
残虐事件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。
一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったと
いうのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。
ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。
ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。
ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火を
つけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。
異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。
しかし過負担や過干渉が原因でないとは、もっと言えない。
子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。
いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。
あなたの周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。
しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいということを、あなたは知ってい
る。
子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方
で、子どもの心をゆがめる。
それを忘れてはならない。

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。
それは事実だが、破壊された子ども、あるいはそのままおとなになった(おとな)が、それに気
づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。
本当の問題は、「では、なぜ、親たちは、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。
学歴のある人は、とことん得をし、そうでない人は、とことん損をした。
こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通して、いやというほど、思い知らされて
いる。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。
意識を変え、制度を変え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいことは、「おかしい」と言う。
そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。
しかしこれだけは言える。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、
遅いということ。
そのとき、気づいたのでは、遅いということ。
今ここで、心豊かな親子関係とは、どんな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよ
う。


Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司

●受験競争の弊害

++++++++++++++++

受験競争の弊害をあげたら、キリがない。

問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。

そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。

+++++++++++++++++

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、
他人の心情でものを考えられるかということ。
つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それ
だけ精神の完成度が、低いということになる。
さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることにより、その人の精神の完成度を知ることが
できる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。
しかしこれは遺伝子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。
が、ここでいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでし
まう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の
自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。
この受験競争は、どこまでも個人的なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。
子どもにかぎらず、利己的であればあるほど、当然、「利他」から離れる。
そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。
ばあいによっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そうい
う側面がある。
ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をする子ども
もいるのはいる。
しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化している
だけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高
邁な人たちかというと、それは疑わしい。
疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。
親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこま
れている。
それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができない。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的、迎合
的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。
いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。
今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか
心が冷たい。
いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会では、生きてい
かれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。
しかしこうした印象をもつのは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。
避けてはとおれないこと。
それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな
違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほ
しい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある母親からの相談(2010年1月7日)

 たまたま今朝、こんな相談が届いていた。
埼玉県K市に住んでいる、MSさんという方からの
相談である。
一部を変えて、そのまま紹介させてもらう。

【MSさんからはやし浩司へ】

はじめまして。
毎日先生のブログを読んでいる者です。
私の子供はもう19才と17才になり、子育てという年齢ではなくなっていますが、それでも、何
かと心に思うことがあり、子育てのブログを読ませていただいております。

今回、長女の成人式の問題と次女の大学受験のことで、私の気持ちがいっぱいになってし
まい、自分を見失ってしまいそうなので、ご相談しました。

先ず、長女の成人式ですが、着物は娘の好みに合わせレンタルしました。
今時のレンタルは早めの申し込みで、記念写真の撮影は昨年3月に済ませており、夫と私の
親にはすでにアルバムを渡しております。
この写真撮影の時、着物を着て帰りましたので、双方の祖父母宅に寄り、振袖姿を披露しまし
た。

ですが、もうすぐ成人式というのに、長女は成人式には出ないと言い出しました。
その時の私のショックは言葉に出来ません。
長女は大学2年で、学費で精一杯の家計ですが、せっかくの成人式なので好きな着物を選ば
せ、トータル20万円もしました。
今、思い起こせば、着物を選ぶ時も、写真撮影の時も、娘はずっと不機嫌でした。
私は娘の様子を見ているだけで吐き気がするほど、気分が悪くなってしまいました。

これも、私がそう育ててしまったのだから・・・
 しっかりものの長女のこと、何か出席したくないよっぽどの理由があるはず、もうすでに振袖
姿は見たし、祖父母にも披露し、アルバムも撮影済み。
何が問題なのか? 長女の成人式だもの、本人の好きにすればいい・・・ と自分に言い聞か
せる毎日ですが、なかなか私の気持ちに折り合いが付きません。
これも、許して忘れる・・・でいいのでしょうか?

加えて、次女の大学受験で彼女のストレスが私に向けられ、毎日眼が回りそうです。
不安で不安で仕方ないようです。
私が高卒で、ずっと学歴にコンプレックスを持ち、子供には大学に行ってもらいたいと、小さい
頃から学歴が大事と間違って育ててしまったのがいけないのでしょうね。
夫はいうと、我関せずとばかりに、遠巻きにしております。

こんなことで・・・と笑われてしまいそうですが、中学生の時に、長女、次女とも本当に大変な時
期があり、頭の固い私が変わらざるを得ない事態となりました。
それから、子育てに自身がなくなり、これは共依存なのか?、と思うようになりました。
何かにつけ、私のしていることに自信がないのです。 

何か良いアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。

【はやし浩司よりMSさんへ】

 まず先の「介護と子どもの意識」を読んでみてください。
今のあなたの考え方も、少しは変ると思います。

 簡単に言えば、親の私たちは、子どもに対して(幻想)をもちやすいということ。
その幻想を信じ、その幻想にしがみつく。
「私たち親子だけは、だいじょうぶ」と。

 しかし実際には、子どもたちの心は、親の私たちから、とっくの昔に離れてしまっているので
すね。
親は子どもの将来を心配し、「何とか学歴だけは・・・」と思うかもしれない。
しかし当の本人たちにとっては、それが(ありがた迷惑)というわけです。
いまどき、親に感謝しながら大学へ通っている子どもなど、まずいないと考えてよいでしょう。
それよりも今、大切なのは、自分たちの老後の資金を切り崩さないこと。
あなたにかなりの余裕があれば、話は別ですが・・・。

 お嬢さんたちもその年齢ですから、今度は、あなた自身の年齢を振り返ってみてください。
そこにあるのは、(老後)ですよ。
今は、まだ(下)ばかり見ているから、まだ気がついていないかもしれませんが、あと5〜10年
もすると、あなたも老人の仲間入りです。

 では、どうするか。
つい先日、オーストラリアの友人が、メールでこう書いてきました。
「子どもたちには、やりすぎてはいけない。社会人になったら、お(現金)をぜったいに渡しては
いけない」と。

 同感です。
私もずいぶんとバカなことをしましたが、それで私の子どもたちが、私に感謝しているかという
と、まったくそういう(念)はないです。
息子たちを責めているのではありません。
現在、ほとんどの青年、若者たちは、同じような意識をもっています。

 だから私の結論は、こうです。

「よしなさい!」です。

 娘の晴れ着など、娘が着たくないと言ったら、「あら、そう」ですまし、そんなバカげた儀式の
ために20万円も浪費しないこと。
親の見栄、メンツのために、20万円も浪費しないこと。
それよりもそのお金は、自分の老後のためにとっておきなさい。

 子どもというのはおかしな存在で、そうしてめんどう(?)をみればみるほど、子どもの心は離
れていきます。
それを当然と考えます。

 20年ほど前になるでしょうか。
ある父親が事業に失敗し、高校3年生の娘に、「大学への進学をあきらめてくれ」と頼んだとき
のこと。
その娘は、父親にこう言ったそうです。

 「借金でも何でもよいからして、責任を取れ!」と。

 そこで私がその娘さんに直接話したところ、娘さんはこう言いました。
「今まで、さんざん勉強しろ、勉強しろと言っておきながら、今度は、あきらめろ、と。
私の親は、勝手すぎる」と。

 率直に言えば、これは「共依存」の問題ではありません。
あなたはまだ「子離れ」できていない。
つまりは精神的に未熟。
それが問題です。

 あなたは子離れし、自分は自分で、好きなことをしなさい。
自分で自分で、自分の人生を見つけるのです。
つまりあなたはあなたで前向きに生きていく・・・。

 その点、あなたを(遠巻きにして)見ている、あなたの夫のほうが、正解かもしれません。

 ずいぶんときびしいことを書きましたが、そのためにも、前段で書いた部分を、どうか読んで
みてください。
私たち自身の老後をどうするか?
お金の使い方も、そこから考えます。

 二女の方の学費にしても、子どものほうから頭をさげて頼みに来るまで、待ったらよいでしょ
う・・・といっても、今さら、手遅れかもしれませんが。
本人に勉強する気がないなら、放っておきなさい。
今のあなたには、それこそ重大な決意を要することかもしれませんが、そこまで割り切らない
と、あなた自身が苦しむだけです。
どうせ大学へ入っても、勉強など、しませんよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●介護問題と子どもの意識

 介護保険は、すでにパンク状態。
政府は税金をあげることだけを考えている。
しかしそれよりも重要なのは、子どもの・・・というよりは、日本人の意識を変えていくこと。
今のままでは、日本の介護制度は、その根底部分から崩れる。
「心」がない。
心がない介護制度など、またそれによってできる施設など、刑務所のようなもの。
「死の待合室」と表現した人もいる。
そんな施設に入れられて、だれがそれを「快適」と思うだろうか。

 どうして日本人の心は、こうまで冷たくなってしまったのか?
脳のCPUの問題だから、冷たくなったことにすら、気づいていない。
みな、自分は、(ふつう)と思い込んでいる。
またそれが(あるべき本来の姿)と思い込んでいる。

 このおかしさ。
この悲しさ。

 ここに転載させてもらった、MSさんのケースは、けっして他人ごとではない。
私たち自身、あなた自身の問題と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最後にもう一作。
ある母親の嘆きを、掲載します。
10年ほど前、中日新聞に掲載してもらった
原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌(Mom)に、こんな投書が載っていた。

『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切
にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。

旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの?

 私はどうしたらいいの?
 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・五〇歳の女性)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 私の子育ては何だったの 私の
子育てはなんだったの 親子の断絶 はやし浩司 親子の絆が切れるとき)

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。
ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。

これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だ
け授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どう
したらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やら
せたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」
と。要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの
意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。

「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、
(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視
点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。
この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。
結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だ
ったの?」という言葉が、それを表している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 介護問題 子どもの意識 子離れ 子離れできな
い親 私の子育ては何だったの 私の人生は何だったの 私の子育ては、何だったの 親
の悔悟 介護問題 はやし浩司 親のめんどう 親の介護 親の介護問題 内閣府調査 は
やし浩司 受験という虐待)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●終わりに(2012年1月20日記)

 ジジ・ババ・ゴミ論と、家族意識の変化。
さらには子どもを取り巻く環境と、家族意識の変化。
こうした問題が混然一体となり、この先、ジジ・ババを取り巻く環境は、さらに過酷なものとな
る。
それには例外はない。
「社会の大勢」というのは、そういうもの。
いかにあなたが部分的に努力したとしても、子どもたちはやがてその「大勢」に呑み込まれて
いく。

むしろ、「うちはだいじょうぶ」「うちの子にかぎって」と、高をくくっている親、家族ほど、あぶな
い。
そういう親ほど、子どもの心の変化に気づいていない。

●では、どうするか

 最近の私の結論。
「そういう時流と思い、あきらめ、納得し、受け入れる」。

 独居老人、しかたない。
孤独死、無縁死、これまたしかたない。
それ以上に、息子や娘たちには、期待しない。
期待しなければ、失望もない。

 だったら、「限度をわきまえる」※。

 繰り返しになるが、子どもたちに向かって、「勉強しなさい」と言ってはいけない。
言えば言うほど、責任を取らされる。
その言葉自体が、虐待でもある。

 今、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、いない。
ゼロ!
大学生でも、いない。
社会人になってからも、親に車を買わせている子ども(若夫婦)となると、いくらでもいる。
さらには結婚式の費用から、子ども(孫)のおけいこ代まで払わせている子ども(若夫婦)まで
いる。

 が、当の子ども(夫婦)は、感謝などしていない。
「生活が苦しい」と言うことはあっても、感謝などしていない。

 だから限度をわきまえる。
(してやること)と(してはいけないこと)の間に、明確な一線を引く。
その一線を引くことに失敗すると、親子関係はバラバラになる。
それが全体として大勢を作り、ここに書いた「ジジ・ババ・ゴミ論」が生まれる。

 そう、私たちは、ゴミ。
今は、そういう前提で、自分たちの(現在)、そして(未来)を考えたらよい。
その上で、私たちはどうあるべきか。
若い世代とどうつきあっていくか。
それを考える。

(注※)限度論……バートランド・ラッセル(イギリスのノーベル文学賞受賞者)。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれど
も、けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ受難時代 ゴミ論 は
やし浩司 孤独死 独居老人 無縁老人 日本の子育て 育児論 はやし浩司 子育て限度
論)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

(補足)

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)

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韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。
『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感すること
が、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。
ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。
『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉
は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)
と。
つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。

親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。
申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。
 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。
 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。
(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない

 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬し
ていない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という
質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、

  イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。

 もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。
『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。

 へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。

中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。

「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 
はやし浩司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる はやし浩司 六趣 地
獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)

(注)六趣輪廻…… 「六趣輪廻」とは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に"趣く"六つの
道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●葬儀観

++++++++++++++++++

ハナの葬儀をした。
犬が死んで、こんなに悲しいものとは、知らなかった。
思い出すたびに、涙がこぼれる。
何をしていても、涙がこぼれる。

そんな中、いろいろ考えた。
ワイフといろいろ話しあった。

その第一。

私には、葬儀は必要ない。
孤独死、無縁死、何でも構わない。
死去先から火葬場へ。
直葬。
灰にしてもらったあと、近くにいる家族だけで密葬。
簡単な別れ会。
いなければ、いないで結構。
密葬も省略。
別れ会も省略。

そのあと灰は、家族の意思に任せる。

遠くに住む肉親、親類などにも、一切連絡しない。
どこまでも静かに、無言のまま、この世を去る。
私はひとりで生まれ、ひとりで育ち、ひとりで死んでいく。
ワイフと息子に、強く、それを言い伝えた。

ついでにワイフも、そう言っている。
これははやし浩司、晃子の、遺言。
確たる、遺言。

どうせゴミのような人間だから、ゴミはゴミらしく、灰となって、空に舞う。

私とハナ。
どこがどうちがうというのか。
人間と犬。
どこがどうちがうというのか。
どこもちがわない。
同じ。

ハナの葬儀をしながら、それを強く感じた。

++++++++++++++++++

●葬儀

 この先、葬儀など、望むほうが無理。
2050年には、1・2人の日本人が、高齢者1人を支えるようになる。

(疑問……ここでいう「1・2人」というのは、どういう意味か。
「1・2世帯」のことか。
「実労働者が、1・2人」のことか。
早速、調べてみる。)

<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/55/img622f1c4czik9zj.
jpeg" width="659" height="731" alt="img239.jpg">
(表は、「2050年問題・サイト」より、コピー・転載)

 この表を見てもわかるように、2050年には、人口は9000万人に減る。
その一方で、65歳以上の高齢者がふえ、全体の38・9%を占めるようになる。
15〜65歳までが、52・3%。
(「15歳」というのは、中学を卒業する年齢である。)

 52・3を、38・9で割ってみると、1・34という数字が出てくる。
全員が中学を卒業すると同時に働き始めたとしても、1・34人(男女含む)が、1人の高齢者
(65歳以上)を支えることになる。
この表から推計すると、「18歳以上の人が1・2人に対し、高齢者が1人」ということになる。

 と考えると、「1・2人」というのは、単純な割合比であることがわかる。
つまり、男女も含め、すべての人が働いたとしても、1・2人の人が、1人の高齢者を支えるとい
うことになる。

 しかしこんなことは不可能!
つまり1・2人の人が、1人の高齢者を支えるなどということは、不可能。

●2050年

 2050年というと、38年後。
逆算すると、65−38=27歳。
現在(2012年)、27歳の人たちが65歳になったときに迎える、これはまさに近未来の日本の
姿ということになる。
50歳とか60歳の人の話ではない。
現在、30歳前後の人たちの話である。

 現在、30歳前後の人たちが、65歳になるころには、この日本は、超の上にもうひとつ「超」
がつく、超・超高齢者社会になる。
が、このグラフを見てもわかるように、2050年に人口の減少が止まるわけではない。
さらに日本の人口は減りつづける。
高齢者の割合は、さらに高くなる。

 2080年には、2050年までの30年間の変化のままであるとすると、つぎのようになる。

 人口は、さらに3200万人、減る。
高齢者の割合は、さらに10・1%、ふえる。
その結果、日本の人口は、7000万人。
高齢者の割合は、49・0%!

 こんな近未来を前に、葬儀だ何だの言っているほうが、バカげている。
葬儀をする人そのものが、いあんくなる。
 
●無縁仏の増加

 無縁仏が増加しているという。

「無縁仏(むえんぼとけ)とは、供養する親族や縁者のいなくなった死者またはその霊魂、また
はそれらを祭った仏像や石仏などを意味する」(ウィキペディア百科事典)とある。

 で、どれくらい増加しているのか。
あちこちのサイトを調べてみた。
が、どうもはっきりしない。

「都市部で10%」と書いているサイトもあった。
「名古屋市で急増加中」と書いているサイトもあった。
が、都市部よりも、実は、農村部のほうが多いという説もある。

 長野県の北部(北信)の寺ではどこでも、無縁仏だけを集める、慰霊碑の建立が当たり前に
なっているという(友人談)。
若い人たちが都会に出る。
そのまま帰ってこない。
無縁仏がふえる。
そういう流れになっているらしい。

 無縁仏の定義も定かではなく、また納骨が、ごく日常的になされているということもある。
実数の把握がむずかしいようだ。

●居直る

 だったら、居直るしかない。
「どうしよう?」と悩んでいても、道は見えてこない。
先にあげた表を見てもわかるように、これはもう動かしがたい「事実」である。

 「この先、60%の人が、孤独死もしくは無縁死を迎え、発見までの平均日数は、死後6日」と
いう数字まで、出ている(雑誌など)。

 「この先」とは、いつのことを言うのか?
そういう問題もあるが、「60%」でも、まだよいほうかもしれない。
そのうち70%になるかもしれない。
どうであれ、この文章を読んでいるあなたが、その60%に含まれる可能性は、きわめて高い。

 「私には息子がいる」「娘がいる」と、高をくくっている人ほど、あぶない。
息子や娘が、親のめんどうをみる時代は、すでに終わった。
反対に、あなたという親が、いつまでも息子や娘のめんどうをみる時代に入っている。
ウソだと思うなら、あなたの周辺を冷静に観察してみればよい。
年老いた両親が、若い夫婦のめんどうをみているという話はよく聞く。
が、その反対は、ほとんどない。

さらに「親孝行も遺産次第」と考えている若い人たちが、増加している。
「それなりの遺産があれば、めんどうをみる。そうでなければそうでない」と。
(この話とて、すでに20年前の話だぞ。)
私が、ほんの数か月前に聞いた話には、こんなのがある。

 嫁が夫の実家へやってきて、こう言った。
「100万円、よこせ」と。
そこで80歳を過ぎた母親が、「5万円くらいなら……」と言って、5万円を渡すと、その嫁は、そ
の5万円を廊下に叩きつけて帰っていった。
(実の娘ではなく、嫁がだぞ!)

 もっともこんな話は、例外。

●親にめんどうをみてもらう若夫婦

(例1)

 毎週、土日に実家へ帰る若夫婦がいる。
年齢はともに35歳くらい。
子どもは2人(小学生と幼児)。

 若夫婦のほうの生活が苦しい(?)とかで、土日は実家で過ごす。
食費や生活費を、それで浮かす。

(例2)

 韓国へ転勤していった若夫婦がいる。
子どもは2人いる。
が、うち1人(小6女子)が、この冬、受験のため帰国。
母親(=子どもの実母)も、いっしょに帰国。
その代わりにということで、父親の母親(=祖母、85歳)が、韓国へ。
現在、その母親(=祖母)が、韓国で、父親ともう1人の子どものめんどうをみている。

(例3)

 数年前、1人の孫(女子)が、東京の私立大学へ入学。
その女性(父親の実母=祖母)が、学費を負担。
つづいて今度、もう1人の孫(女子)が、同じく東京の私立大学を受験。
息子(=その女性の実子)が、「学費を出してほしい」と。

 下の子ども(=妹)は、こう言っているという。
「お姉ちゃんが出してもらったのだから、私にも出してほしい」と。

 ……今、こういうケースがふえている。
子どもが親のめんどうをみるのではない。
親が、子どものめんどうをみる。
しかもここにあげた親(祖父母)は、みな、80歳を超えている。
話の内容は少し変えてあるが、内容的には、ほぼ実話である。

 だったら、居直る。
居直るしかない。
「孤独死、無縁死、おおいに結構」と。

●代替哲学

 が、死生観というのは、その人自身の哲学になっている。
「はい、わかりました」と言って、簡単に変えられるものではない。
「墓は不要」と口では言いながらも、自分の死後に不安を抱いている人は、多い。

 そこで戒名にしても、七七回忌にしても、自分なりの結論を出しておく必要がある。
それについては、私はたびたびBLOGの中で、書いてきた。

 原稿を探してみる。
みなさんもここに書いたことを参考に、自分で調べてみるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「堂々たる迷信」と題して、こんな原稿を
書いたことがある。

 私たちが当たり前のように考えている、
あの七七回忌にしても、調べれば調べるほど、
あやしげなもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生
浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。

また道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消
愆滅罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府
大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であった
としても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢
訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。
この点が、「十王経」類の特徴である。
と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻首にも、同様の記述が
ある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯がある。

ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達の『預修
十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。

また、訳経の体裁を借りなかった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、
はじめ、礼讃文や儀軌の類として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

 要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経と
いうこと。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。

たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」
が原点(=もと)になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。
没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王
(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ
審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生してい
く事になるため、七回すべてやるわけではない。
一般には、五七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。
これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都
市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。
ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれかに行く事になっており、追加の審理は実質
救済処置である。

もしも地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居た
ならば徳が積まれる仕組みとなっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすため
の受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化し
ている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

 つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。
死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

 ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、抜けて
転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。
これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィ
キペディア百科事典より)。

 わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄
へ送るかを決めるという。

 私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。
しかしこんなのは、まさに迷信。
迷信以上の迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。
極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらあ
る。

 法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀と
いうその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

 「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ち
る」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

 「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっていると
したら、これは問題である。
このおかしさ。
そして悲しさ。

 仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではない
だろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 
初七日 四十九日 法要 偽経 第3の選択 第三の選択 地球温暖化 地球火星化)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「地蔵十王経」

 繰り返す。

 地蔵十王経は、まっかなニセ経典である。
そのことは、だれしも知るところ。
この説を疑う人は、一度、経典を見てみたらよい。
どこからどう読んで、和製経典。

 こんな経典を根拠に、死生観を押しつけられたら、たまらない。
そこで私のばあい、法句経まで遡(さかのぼ)ることを考えた。
仏教徒を名乗るなら、当然のことではないか。
が、日本では、法句経を、どこか侮蔑の念をこめ、「原始経典」と呼ぶ。
「原始だから、未完成」と。
しかしその「原始」にこそ、釈迦仏教の神髄が凝縮されている。

 で、その法句経をどこをどう読んでも、「あの世」の話など、どこにも出てこない。
釈迦自身が、「あると思えばある。ないと思えばない」などと述べている。
「霊魂」に対する考え方そのものが、基本的な部分で、ちがう。

 その原稿を探してみる。
もう少し詳しく書いた原稿があるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世論(2002年7月記)

 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典のひと
つ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。
わかりやく言えば、「ない」と。
「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるかもしれないが、そうした常識
は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てからつくられた常識と考えてよ
い。
もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまった。
そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護摩(ご
ま)をたいているのを見たことがあると思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、それ以外の何ものでもない。
むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」と教えている。

『バラモンよ、木片をたいて、清浄になれると思ってはならない。なぜならこれは外面的なことで
あるから』と。
(パーリ原典教会本「サニュッタ・ニカーヤ」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

さらに「輪廻」。
和式仏教の根幹にもなっている。
2007年の9月には、
つぎのような原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●輪廻(りんね)

++++++++++++++

生まれ変わることができるというのは、
たしかに希望である。

生まれ変われないにしても、30歳とか、
40歳、突然、若くなれるとしたら……。

が、ここで私は、ふと、思いとどまる。

生まれ変わるとしても、条件がある。
今の生活環境以上に、よい生活環境
に生まれ変わるとしたら、それはそれで
よい。

しかしそうでなければ、どうするか?
たとえば現在のK国のような国で
生まれ変わるとしたら、私はごめん。

戦前の日本のような国も、いや。

さらに、だれかが、こう言ったとしたら、
私は、たぶん、それを断るだろう。

「林、もう一度、20歳に戻してやる。
同じ人生を歩んでみろ」と。

人生は一度でたくさん。私はそこまで
は思わないが、中には、こりごり
という人だっているかもしれない。

そんなふうに考えていくと、こうした生まれ
変わり、つまり輪廻(りんね)思想の生まれた
インドでは、輪廻そのものを、大衆は
支持していなかったのではないか?、という
疑問がわいてくる。

カースト制度というきびしい身分制度。その
身分制度の中で、奴隷(シュードラ)は
生まれながらにして奴隷であり、一生、
死ぬまで、奴隷であった。

そんな奴隷の1人に、輪廻思想を説いても、
はたしてその奴隷は、その思想を受け入れる
だろうか。
たぶんその奴隷は、こう言うだろう。

「人生なんて、一度で、こりごり」と。

そこでウパニシャッド哲学(インド哲学)では、
輪廻転生から離脱し、宇宙(神)と一体化する
ことを、「解脱(げだつ)」と呼んだ。

(ちゃんと逃げ道が用意してあるところが、
すごい!)

私たちの魂は、生きたり死んだりを繰り返す。
その魂を、瞑想、つまりヨーガによって、宇宙の
神と一体化させる。

そうすればだれでも、解脱の境地に達する
ことができる。つまり、輪廻転生の輪から、
自分を解放させることができる。

+++++++++++++++

●輪廻思想

 インド哲学を理解するときは、一度、私たちを文明の世界から切り離さなければならない。
私たちが現在もっている常識で、インド哲学を理解しようとしても、理解できない。
そういう部分は、多い。

 これはあくまでも私の推察だが、当時のインドでは、時間についての観念そのものが今とは
ちがっていたのではないか。
たとえば30年、一昔というが、当時のインドでは、100年単位、200年単位で、時代が動いて
いた。

 あるときあなたはひとつの村を訪ねる。
そこで何人かの村人に会う。が、それから30年後。
再び、あなたはその村を訪ねる。
あなたはそこにいる人たちを見て、驚く。
生活もしきたりも、30年前とまったく同じ。

 生活やしきたりばかりではない。そこに住んでいる人たちも、30年前とまったく同じ。
30年前に会った人たちが、そっくりそのまま新しい人たちと置き換わっている。

 私は輪廻思想が生まれた背景には、そういった時代的背景があったと思う。
つまりあなたから見れば、時間の流れというのが、くるくると回っているかのように見える。
そのくるくると回っているという部分から、「輪廻」という言葉が生まれた。

 それについて以前、書いた原稿が、つぎのものである。
一部、重複するが許してほしい。

+++++++++++++++++

【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

+++++++++++++++++++++

過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

+++++++++++++++++++++

●時の流れ

 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。
学校の社会科の勉強で使ったような歴史年表のようなものでもよい。
過去から、現在、そして未来へと、ちょうど、蒔絵のように、それがつながっている。
それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像する人も
いるかもしれない。
過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。あるいは上書きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。
瞬間の、そのまた瞬間に、未来はそのまま過去となっていく。
そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業を、何千回も繰りかえす。
が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となっていく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出された映
像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思うだけの
話。
本当は、どこにもない。
つまり私にとって、時の流れというのは、どこまでいっても、研(と)ぎすまされた、(現実)でしか
ない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インドでは、そ
れがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。
つまり未来は、やがて過去とつながり、その過去は、また未来へとつながっていく、と。
ちょうど、車輪の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。現代
に視点をおくと、理解できない。
たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)というものが、ほとんどなかった。
「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、100年一律のごとく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人と同じ
ような生活を始める。
同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。
人の動きもない。
話す言葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかもグルグ
ルと回転しているかのように見えるはず。
死んだ人がいたとしても、しばらくしてその家に行ってみると、死んだ人が、そのまま若返った
ような状態で、つまりその子孫たちが、以前と同じような生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、みなが、
生活している。
それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリはいる。
しかしそのアリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえしている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という概念が生
まれた。
輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。
それが輪廻思想へと、発展した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。
現代社会では、古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。
10年一律どころか、数年単位で、すべてが変わっていく。
数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。
している仕事もちがう。
こうした社会では、時の流れが、グルグルと回っていると感ずることはない。
ものごとは、すべて、そのつど変化していく。流れていく。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。
もっとわかりやすく言えば、冒頭に書いたように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長
い帯のようになった年表である。
しかしここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在をとらえ、そして未
来を考えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないということ。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私たちは、過去、現在、未来のとらえかたを、見
誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。
それが発展して、前世思想、来世思想となった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。
しかし釈迦自身は、一言も、そんなことは言っていない。
ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』(釈迦生誕地の残る原始仏教典)を読んでみ
ることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自身は、そ
れについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年を経てか
ら、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称「仏」(仏の生まれ変わりたち)によって、書か
れた経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知れぬ
謎が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見することが
できるかもしれない。

 そこでその第一歩。
あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えているか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。

+++++++++++++++++

●再び輪廻について

 たとえば輪廻というほどではないにしても、毎日が毎日の繰り返し……という人生に、どれほ
どの意味があるというのか。
そのことは、老人介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
(だからといって、そこに住む老人たちの人生に意味はないと言っているのではない。誤解の
ないように!)

 毎日、毎日、同じことを繰り返しているだけ。
同じ時刻に起きて、同じ時刻に食事をして、あとは一日中、テレビの前に座っているだけ。

 これは老人介護センターの中の老人たちの話だが、私たちの生活にしても、似たようなも
の。
今日は、昨日と同じ。
今年は、去年と同じ、と。

 これもひとつの輪廻とすると、私たちがつぎに考えなければならないことは、どうすれば、この
輪廻を断ち切ることができるかということ。

 まさか瞑想(ヨーガ)をすればよいと説く人はいないと思う。
(ヨーガというと、あのO真理教を連想し、どうもイメージがよくない。)
しかしだれも、このままでよいとは思っていない。

 そこでひとつのヒントとして、サルトルは、こう説いた。「自由なる意思で、自由を求め、思考
し、自ら意思を決定していくことこそ重要」と。
つまりこの輪廻を断ち切るためには、「私は私」と、その「輪」の中から飛び出すことではない
か。

……と書いたところで、「ウ〜ン」とうなって、筆が止まってしまった。そのことをワイフに話すと、
ワイフも、そう言った。

私「思いきって、オーストラリアへ移住しようか?」
ワ「移住でなくても、2〜3年なら、いいわ」
私「このままだと、ぼくたちの人生も、このまま終わってしまう」
ワ「そうね。自分たちがどうあるべきか、まず、それを考えなくては……」と。


+++++++++++++++++

【未来と過去】

++++++++++++++

前向きに生きるということは、
未来に展望性をもって生きること。

今すべきことは、今する。自分から
取り組んでいく。

生き方が後ろ向きになったとたん、
その人の人生は、萎縮し始める。

++++++++++++++

●回顧と展望

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後
は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。
今度は、私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは
「それまで生きているかなあ」という程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・
キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後四、500年を経て、しかもヒンズー教やチベ
ット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしても
できない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。
小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまい
ということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるも
のはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。
未来でもない。「今」を、だ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世

 7、8年も前のこと。
日本を代表する(?)、仏教哲学者と言われる人が、釈迦の生誕地を訪れた。
仏門に入ったという、あの女性宗教家である。
その女性宗教家が、釈迦の生誕地へ行き、こう述べた(NHKテレビ番組)。

 「こういうところに立ってみますと、釈迦の説いたあの世というものが、どういうものか、よくわ
かりますね」(記憶)と。

 こうしたウソを堂々と言うところが恐ろしい。
釈迦の生誕地で、釈迦の教えをそのものを、平気でねじ曲げている。
何度も書くが、釈迦はそんなことは、一言も言っていない!

 それはさておき、あの世はあるのか、ないのか。
私にもわからない。
が、私は「ない」という前提で、生きている。
宝くじと同じ。
当たることをアテにし、高額のローンを組むバカはいない。
同じように、あるかないか、それすらもわからない(あの世)をアテにし、今を生きるバカは、い
ない。
 
 あの世があるか、ないか。
それは死んでからのお楽しみ。
あれば、もうけもの。

●葬儀観

 大切なことは、自分で考え、自分なりの葬儀観をもつこと。
ただここで誤解してはいけないことがある。

 ただし、葬儀観には、二面性がある。