新規ページ012
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F

(1)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
【子どもと遊びについて】
子どもは、ほめて伸ばせ!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「子どもの遊び」については、いろいろな原稿を書いてきた。
過去に書いた原稿を、集めてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「遊びが子どもの仕事」(中日新聞発表済み) 

「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずと
も、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。
オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。
日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室
の外で身につける。
実はこの私がそうだった。

 私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。
今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。
それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。
けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。
性教育もそこで学んだ。

 ……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。
自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。
いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。
しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。

 ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。
縄張りもあったし、いがみあいもあった。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社
会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。
石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。
相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。

しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。
あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。
目と目であいさつぐらいはした。
つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技
場の外で争っても意味がない。
つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。

 寺の境内にはひとつの秩序があった。
子どもどうしの上下関係があった。
けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。
そして私たちはそれに従った。
親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を
出さなかった。

仲間意識もあった。
仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。
しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。
だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代と
それを結びつけて、簡単に理解することができる。

もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。
「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どものいたずら

 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。
パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。
時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。

母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をして
いるのだ」と。

ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。
絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。
善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。

 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。
アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。
で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかま
せた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。
で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。
この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。
……と思う。

 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。
作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。
で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、そ
れをテープに録音して、聴かせていました」と。
母親の趣味は、ドライブ。
外出するたびに、そのテープを聴かせていた。

 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。
子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。
その敏しょう性。

一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。
その子どもは、とにかくすばしっこかった。
で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。
雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。
子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●笑い(笑いの科学と効能)

 ついでに、「笑い」について。
何度も書いてきたので、ネットでさがし、その一部を紹介する。
 私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。
ときには、50分のレッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ
かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なお
す」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしま
う。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもと遊び やる気論 カテコ
ールアミン ほめることの重要性 子どもはほめて伸ばす 子どもは笑わせて伸ばす やる気
と遊び 遊びで生まれるやる気 社会性 はやし浩司 子どものやる気)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●ほめることの重要性byはやし浩司

+++++++++++++++++

ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。
このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。
その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。

+++++++++++++++++

++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

 親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会
適応力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。父親
の育児参加も同様の効果があった。「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初とい
う。東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。

 調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半に
なる09年まで追跡。親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調
べた。子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」な
ど5分野30項目で評価した。

 その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼
児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。また、
ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽
たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける−−などが社会適応力を高
める傾向があった。

 一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2
歳半の時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。母親の育児負担感が低かったり、
育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。

 調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知
られていたことを、科学的に明らかにできた。成果を親と子双方の支援に生かしたい」と
話す。【須田桃子】

++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司 
子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)

++++++++++++++++++++

●2007年4月の原稿より

【子どもを伸ばす】

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜ
っぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、
重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激
するか、だ。そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネス
をとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学
者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価という
ことになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言え
ば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状
回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。こ
れを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、
人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も
変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわ
からない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はが
んばる。が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ
私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、
利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自
我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの
外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れ
れば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限
の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そうい
う危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだ
ろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その
我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考え
てみよう。

(自我の追求)

 教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけ
がうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種
をまいて、引き出す』の要領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほどいい
子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせ
ること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。し
かしこれは誤解。まったくの誤解。

 3つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱってい
く原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)

 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感をもた
せすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかし
い。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はた
から見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食
もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだっ
たらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)
や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなって
いった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に
立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかというこ
と。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きがいを決めるのは、帯状回?

 脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。脳のこの部分は、人間が原始動物であった
ときからあるものらしい。イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。

その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。最近の研究によれば、
どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかって
きた(伊藤正男氏)。

 たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。反対にみなの前でけなされた
りすると、不快感を覚える。その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感
や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。

一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、
何をするのも苦痛になる。

 これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。たとえば他人
にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。しかし反対に、他人をい
じめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。この感覚は、きわめて原始的なもので、つ
まりは理屈では説明できないような感覚である。しかしそういう感覚を、人間がまだ原始
動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。もし人間が、もと
もと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚を
もっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。

 こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。新皮質
部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。たとえば正直に生きたとする。す
ると、そのあとすがすがしい気分になる。このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだ
が、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられるか」と
か考える。そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。

 そしていよいよ帯状回の出番である。帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の
判断を受けて、やる気を引き起こす。「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そういう前向き
な姿勢を生み出す。そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、
思考や行動を活発にしたりする。

●私のばあい

 さて私のこと。こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるというこ
とは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。(中には、「コノヤロー」と怒っ
ている人もいるかもしれないが……。)

さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活
発化する。そしてそれが私のやる気を引き起こす。そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。が、読者が減ったり、ふえな
かったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれ
が帯状回の機能を低下させる。

 何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子ど
ものやる気を考えることができる。よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほめて伸
ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機能そのもの
が、そうなっているからである。

 さてさて私のマガジンのこと。私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらなければな
らない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。どこか絶壁に立たされたかのような緊張
感がある。では、その緊張感はどこから生まれるのか。

●ほどよいストレスが、その人を伸ばす

 ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。そして脳や筋肉により多くの酸素
を送りこみ、危急の行動を可能にする。こうしたストレス反応が過剰になることは、決し
て好ましいことではない。そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低
下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。しかし一方で、ほどよいストレスが、
全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。

 たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万
円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで
違う。子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、
いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子ど
ものよって、感じ方はまったく違う。

私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れる
ことができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることがで
きない。100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。しかし445人
に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。

●子どものやる気

 子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程
度の緊張感を与える。しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるよう
な緊張感でなければならない。私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきているよう
に感ずる。ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。あるいは交通事故にあ
うかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思う。

 人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、
前に進むものか。そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。ただ
パンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。今、こうして自
分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないか
と。よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。
手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるは
ずもない。

ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の顔」
と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわか
らない。多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それ
はサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いている
と思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、
動かされているだけ? 

同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされて
いるだけかもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャック
とローズを思い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心
をとらえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に
翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意
思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。

いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、
もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。このことは、子
どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期
は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、
子どもは急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこう
いう子だ」という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残るようになる。
(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは脳の中の、辺縁系に
ある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆ
るふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さ
や闘争心も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。

子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し
高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動い
ている。もちろん方向性が違うということはある。ある子どもは、作文で、あるいは別
の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。反
対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子ども
もいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎ
ない。

 となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局
はそのハバの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、
本当に私は私なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私
ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、
もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつか
ってしまったようだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。こ
れから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カ
ップヌードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じら
れて、そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出し
て、近くのコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」
ではない。だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をす
る。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入
れる。となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないという
ことになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そ
のことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連
絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそうい
う意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」
というのか、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には
楽器をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若
さで華やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を
使って、コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴
きあうのと、それほど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、
「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その
裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現したらいい
のかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その裏から基本的
に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言葉をつくらないとい
けないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分が
ある。「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。いわばコンピ
ュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラムと考えるとわ
かりやすい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。そのスイッチを
機能的に動かすのが、OSということになる。人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナ
プスも、このスイッチにたいへんよく似ている。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と
表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その
範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、そ
れは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったよ
うな感じだ。とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷や
してから考える。
(02−10−27)※

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人
の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的と
いうわけだ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜62)も、『パ
ンセ』の中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」
ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、釈迦
が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行すること。ひた
すら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死ぬまで精進しろ。そ
れが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」とい
うことになる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あな
たの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をは
かってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたとい
う政治家が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出な
くてはいけない。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」
と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こ
る。そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことにな
る。しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」
があることになる。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然
(ばくぜん)としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、
ループ状態に入ってしまう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じこ
とを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒントとなった
のが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』である。彼は、こう書いてい
る。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたこと
がない」と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」
ということか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もちろんこれは
私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。しかしあ
えて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。書くこと
イコール、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今の
ところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。書いた
のは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。

++++++++++++++++++++

〜02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。

それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。

最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に
生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というの
である。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『いじ
めは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)



Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子どものやる気論
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



++++++++++++++++



子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



++++++++++++++++



●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみら
れる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」
という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことが
あった。



 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)

+++++++++++++++++++++

もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。

+++++++++++++++++++++

【子どもの中の子ども】

++++++++++++++++++++

子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

++++++++++++++++++++

●乳幼児の記憶

+++++++++++++

子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

+++++++++++++

「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。

++++++++++++++++

わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。

++++++++++++++++++++

では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

++++++++++++++++++++

● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)




Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●興味ある事実

++++++++++++++

脳の中で、麻薬反応!
はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、
自分の子どもの笑顔を見たとき、
麻薬を服用したときと似たような
反応が起きるという。

++++++++++++++

時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。

『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。母親の子
への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理の解明に
役立つと期待される』と。

これに関して、以前、こんな原稿を書いたのを思い出した。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものオナニー(自慰)

 受験をひかえた受験生が、毎晩(毎日)、オナニーにふけることは、珍しくない。

 財団法人、「日本性教育協会」の調査(1999年)によれば、

 マスターベーションの経験者  中学生……41・6%
                高校生……86・1%
                大学生……94・2%(以上、男子)

                中学生…… 7・7%
                高校生……19・5%
                大学生……40・1%(以上、女子)

 ということだそうだ。この割合は、近年増加傾向にあるが、とくに若年化が進んでいることが
知られている。

 たとえば男子中学生のばあい、マスターベーション経験者は、87年には、30・3%だったの
が、99年には、41・6%に増加している。性交経験者も、男子高校生だけをみても、11・5%
(87年)から、26・5%(99年)へと、増加している。

 そのオナニー(自慰、マスターベーション、手淫などとも呼ばれている)について、ある母親か
ら、相談があった。「中学3年生になる息子が、受験をひかえ、オナニーばかりしているようだ
が……」と。

 オナニーをすると、脳内で、麻薬様物質が放出されることがわかっている。現在、数10種類
ほど、発見されているが、大きく分けて、エンドロフィン系と、エンケファリン系に大別される。

 わかりやすく言えば、性的刺激を加えると、脳内で、勝手にモルヒネ様の物質がつくられ、そ
れが陶酔感を引き起こすということ。この陶酔感が、ときには、痛みをやわらげたり、精神の緊
張感をほぐしたりする。

 問題は、それが麻薬様の物質であること。習慣性があるか、ないかということになる。

 モルヒネには、習慣性があることが知られている。しかしエンドロフィンにしても、エンケファリ
ンにしても、それらは体内でつくられる物質である。そのため習慣性はないと考えられていた。
が、動物実験などでは、その習慣性が認められている。つまり、オナニーも繰りかえすと、「中
毒」になることもあるということ。

 その相談のあった中学生も、受験というプレッシャーから、緊張感を解放するため、オナニー
にふけっているものと思われる。そして相談のメールによれば、中毒化(?)しているということ
になる。

 オナニーの害については、「ない」というのが、一般的な意見だが、過度にそれにふけること
により、ここでいう中毒性が生まれることは、当然、考えられる。

 男子のばあいは、手淫(しゅいん)ということからもわかるように、好みの女性の裸体を思い
浮かべたり、写真やビデオをみながら、手でペニスを刺激して、快感を覚える。

 女子のばあいは、好みの男性に抱きつかれる様子を想像しながら、乳首や、クリトリス、膣を
刺激しながら、快感を覚える。

 男子のばあい、中に、肛門のほうから前立腺を刺激して、快感を得る子どももいる。

 さらに病的になると、依存症に似た症状を示すこともある。中学生や、高校生については、知
らないが、セックス依存症のおとな(とくに女性に多い)は、珍しくない。「セックスしているときだ
け、自分でいられる」と言った女性がいた。

 しかしこうした、エンドロフィンにしても、エンケファリンにしても、オナニーだけによってつくら
れるものではない。

 スポーツをしたり、音楽を聞いたりすることでも、脳内でつくられることが知られている。善行
を行うと、脳の辺縁系にある扁桃体でも、つくられるこも知られている。スポーツをした人や、ボ
ランティア活動をした人が、そのあと、よく「ああ、気持ちよかった」と言うのは、そのためであ
る。つまり、同じ快感を得る方法は、ほかにもあるということ。

 私のばあいも、夜中に、自転車で、30分〜1時間走ってきたあとなど、心地よい汗とともに、
気分がそう快になる。さらに翌朝、目をさましてみると、体中のこまかい細胞が、それぞれザワ
ザワと、活動しているのを感ずることもある。

 こうした方向に、子どもを指導しながら誘導するという方法もないわけではない。しかし中学
生ともなると、親の指導にも、限界がある。私の意見としては、子どもに任すしかないのではな
いかということ。

 こと、「性」にまつわる問題だけは、この時期になると、もう、どうしようもない。子ども自身がも
つ自己管理能力を信ずるしかない。現在の私やあなたがそうであるように、子どももまた、この
問題だけは、だれかに干渉されることを好まないだろう。
(はやし浩司 マスターベーション 自慰 オナニー 子どもの自慰 子供の自慰)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

もう一作、添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●やる気

+++++++++++++++++++

このところ、忙しい。
そのせいか、疲労気味。
こうしてパソコの前に座っても、
ものを書く気があまり起きない。

気力の減退。
それについて、記録する。

+++++++++++++++++++

 東洋医学(漢方)では、体力と気力は、同一源のものとして考える。天の気(呼吸)と、地の気
(飲食物)が、合体して、人精となる。

 この人精(じんせい)が、エネルギーの根源というわけである。「精」は、「精力の精」「精神の
精」と考えると、わかりやすい。少し前まで、何かのことでがんばっている人を見かけると、「精
が出ますねえ」と、声をかけたりした。(最近は、この言い方を、あまり耳にしないが……。)

 だから体力や気力が落ちてきたときは、第一義的には、おいしいものを食べて、適度な運動
を繰りかえすのがよいということになる。

 が、やる気は、それだけで起きてくるというものではない。伊藤氏の「思考システム」によれ
ば、思考は大脳新皮質部の「新・新皮質」というところでなされるが、それには、帯状回(動機
づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという(伊藤正男)。

 さらに最近の研究によれば、脳内のカテコールアミンと呼ばれるホルモンが、やる気に大きく
関係していることもわかった(澤口俊之「したたかな脳」)。その中のノルアドレナリンは、集中
力、ドーパミンは、思考力に関係しているという(同書)。

 つまりこうした作用が総合的に機能して、やる気が決まるということらしい。

 で、私の今の状態は、どうか?

 何を考えても、「どうでもいいや」という思いが、先に立ってしまう。めんどうというより、むなし
さが先に立ってしまう。ラマンチャの男(ドンキホーテ)が、風車を相手に、ひとりで戦っているよ
うなもの。所詮(しょせん)、相手は、風車!

 実際、「あなたの書いていることは、学問的には一片の価値もない」と言ってきた、大学の教
授がいた。(この話は、本当だぞ!)。「田舎のおばちゃんたちを相手に、講演をして、どういう
意味があるのか」とも。(この話も、本当だぞ!)

 そのときは、怒り、心頭に達したが、今になって思うと、「そのとおりだな」と納得する。私のし
ていることは、どうせ、その程度。

 そういう思いが、私から、どんどんとやる気を奪っていく。

 だから、やる気がないのではなく、書く気がわいてこないということになる。そのほかの面で
は、やる気はある。気力はある。

 今朝も、犬のハナの体を、シャップーで洗ってやった。午後に客人がくるので、居間の掃除も
した。腕につけるブレスレットの修理をした。言うなれば、書くのを、後まわしにしただけ。しかし
こうしてパソコンに向かって座っていると、「ああ、これが私の時間だ」という思いは、強くもつ。
それにおかしなことだが、こうしてサクサクと動くパソコンを相手にしていると、気持ちよい。

 ……ということで、昼まで、まだ3時間弱もある。今日から、マガジンの6月号の原稿を書くこ
とにした。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気 気力 帯状回 カテコールアミン 動機づけ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最近の大脳生理学の進歩には、めざましいものがある。
ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)とか、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう、
脳の活性度を映像化する装置を使うと、脳の働きが、リアルタイムで観察できるという。

今回の、アメリカ・ベイラー医科大の研究チームによる発見も、そうした機器を用いてわかった
ものだろう。

それにしても、すごいことがわかるようになってきたものだ。
わかりやすく言えば、「心」の状態が、科学的かつ計数的に把握できるようになった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 赤ちゃんの笑顔 母親の反応 
脳科学)




Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


(2)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
【ストレスと免疫機能低下】

●新陳代謝(サイトカインと冷え)

++++++++++++++++

ストレスがたまると、新陳代謝機能が低下する。
よく知られた常識である。
昨日(午後)の私が、そうだった。
身をもって、体験した。

まず(肩こり)。
左肩(後背部)の一部が、局所的に痛くなった。
左手をもちあげるのも苦痛……という状態だった。
つづいて胸の右上部に、軽い痛みを覚えた。

狭心痛?
それとも心筋梗塞の前兆?
……いろいろ考えたが、本当のところ、狭心痛がどういうものか、私は知らない。

で、そのあとのこと。
「寒い」というのではない。
たしかに昨日は、寒かったが……。
芯から、体が冷え始めた。
体の中心部に「氷」が入っている。
そんな感じだった。

アシスタントとして、いっしょに働いているワイフが、あれこれ気を使ってくれた。
が、手足が、氷のように冷たい。
ストーブの前に立っても、冷たい。
ガタガタ……。
ブルブル……。
荒い呼吸を繰り返すが、体は一向に温まらない。

「燃料不足かな?」とも思った。
このところ、ダイエットのため、食事の量をぐんと減らしている。
が、家に帰るとき、車のヒーターをつけても、寒かった。
ワイフに、「お前は寒くないか?」と聞くと、「そんなに……寒くない」と。

「???」

家に帰り、すぐランニングマシンに乗る。
30分間、運動をする。
ふだんなら、20分前後で汗が出始める。
が、汗は出なかった。
そのかわり、体の芯にたまった(冷え)が、消えていくのが、自分でもよくわかった。
30分後。
全快?

「どう?」とワイフが言った。
「暑いくらいだ」と私。

部屋の中は、ストーブの熱気で、暑いほどだった。
はじめてその(暑さ)が、わかった。
で、結論。

ストレスは、よくない。
新陳代謝を抑制する。
それを自分の体を通して、経験した。

要するに、朗らかに生きる。
楽しく生きる。
ストレスが増加すると、サイトカインという悪玉脳内ホルモンが分泌される。
それが脳内の免疫機能を低下させる。
最悪のばあいは、がん細胞をそのまま増殖させてしまうという。
(がん細胞は日々に生まれ、日々に破壊されている。)

なお最近の研究によれば、こういうこと。

その免疫機能を司る中枢部は、視床下部の上部あたりにあるという。
その部分を何らかの薬剤で刺激すれば、免疫機能はフル活動になるという。
(詳しくは、別の原稿で書いた。これは記憶による。)

あとでサイトカインについて、もう一度、詳しく調べてみる。
サイトカインは、どのような作用を人体にもたらすのか。

+++++++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

サイトカインについて書いた、私の原稿を
探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●S君の生き方(Immunocyte & Cytokine)
A cytokine brings the effect that multiple functions, that is, a single cytokine varies in the 
condition of the target cell.
(2008年6月発表の原稿より)

+++++++++++++++

昨夜、T県T市に住んでいる、S君と
電話で、1時間ほど、話す。

大学の同窓生である。

彼も、4、5年前、内臓にガンを患い、
現在も、「闘病生活をしている」(同君)
とのこと。

「毎月、いろいろな検査を受けている」
「毎週、リハビリに通っている」
「毎日、いろいろな薬をのんでいる」と。

しかし生き方が、すばらしい。
何ごとにつけ、前向き。

「ぼくはクラシック音楽が好きだから、
チケットはいつも、何枚ももっている」と。

心配して電話をかけたつもりだったが、
かえって私の方が、教えられた。

「なあ、林君、ガンなんて、治せば
いいんだよ。すぐ死ぬというわけでも
ないからね。ていねいに検査を受けていれば、
転移も、それでわかる。わかったとき、対処
すれば、まにあうよ。これで最初のガンから
5年になるから、あと10年は生きられるよ。
これからの10年は、(もうけもの)と
思って生きるよ」と。

「悪いのは、ストレスだよ。ストレスが、
ガンを引き起こすと考えていいよ。
ぼくの周囲でガンになった人を見てもね、
何らかのストレスが引き金になったと
思われるのが、多い。ストレスが免疫細胞の
力を弱めてしまうんだよ。ガン細胞なんて
ものはね、みな、もっているんだよ」とも。

次回の同窓会には出ることを約束して、
電話を切る」

++++++++++++++++

●ストレス

++++++++++++++++

以前、ストレスについて書いた原稿を
さがしてみた。

++++++++++++++++

●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。
もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、どんなにこの世は、住みやすいことか。
いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶものは、その(わずらわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。
これは恐らく、人間が、原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。
ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何かで、つついてみるとよい。
ミミズは、頭をひっこめる。
(実際に、私はこのことをミミズをつついてみて知った。)

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。
俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。
その反応は「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

そこで人間は、自分の心を調整するため、(1)攻撃、(2)防衛のほか、つぎの3つの心理的反
応を示す。
(3)同情(弱々しい自分をことさら強調して、同情を求めようとする)、
(4)依存(ベタベタと甘えたり、幼児ぽくして、相手の関心をひく)、
(5)服従(集団の長などに、徹底的に服従することで、居心地のよい世界をつくる)、ほか。。

(1)攻撃というのは、自分の周囲に攻撃的に接することにより、居心地のよい世界をつくろうと
するもの。
具体的には、つっぱる子どもが、それに当たる。
「ウッセー、テメエ、この野郎!」と、相手に恐怖心をもたせたりする。
(自虐的に、自分を攻撃するタイプもある。
たとえば運動を猛練習したり、ガリ勉になったりする。)

(2)防衛というのは、自分の周囲にカラをつくり、その中に閉じこもることをいう。
がんこになったり、さらには、行動が自閉的になったりする。
症状がひどくなると、他人との接触を避けるようになったり、引きこもったり(回避性障害)、家
庭内暴力に発展することもある。

大切なことは、こうした心の変化を、できるだけその前兆段階でとらえ、適切に対処するという
こと。
無理をすれば、「まだ、前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、症状は、一気に悪化
する。
症状としては、心身症※がある。

こうした心身症による症状がみられたら、家庭は、心をいやす場所と考えて、(1)暖かい無視
と、
(2)「求めてきたときが与え時」と考えて対処する。
「暖かい無視」という言葉は、自然動物愛護団体の人が使っている言葉だが、子どもの側から
見て、「監視されていない」という状態をいう。
また「求めてきたときが与え時」というのは、子どもが自分の心をいやすために、何か親に向か
って求めてきたら、それにはていねいに答えてあげることをいう。

++++++++++++++++++++

●心身症診断シート

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、心身症という。
脳の機能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。
ふつう子どもの心身症は、(1)精神面、(2)身体面、(3)行動面の三つの分野に分けて考え
る。

 精神面の心身症……精神面で起こる心身症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。
混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプ
に分けて考える。
ほかに感情面での心身症として、赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんし
ゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の心身症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。
一般的には精神面での心身症に先だって、身体面での心身症が現われることが多い。

 行動面の心身症……心身症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。
忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするなど。
ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行動
(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじめ
など。

こうして書き出したら、キリがない。
要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この心身症を疑ってみる。

ただし一言。こうした症状が現われたときには、子どもの立場で考える。
子どもを叱ってはいけない。
叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。
心身症は、ますますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

+++++++++++++++++++++

●母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    

 それはささいな事故で始まった。
まず、バスを乗り過ごしてしまった。
保育園へ上の子ども(四歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。
次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。
しかも熱湯。すんでのところで、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。
次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。
何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。
あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。
もし病院で診察を受けたら、うつ病と診断されたかもしれない。
しかしAさんは病院へは行かなかった。
子どもを保育園へ預けたあと、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるよう
になった。
食事の用意は何とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。
そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。
昔からの米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしてい
た。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。
「先生、先日は通りで会ったのに、あいさつもしなくてごめんなさい」と。
私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別に気にしませんでした」と言ったが、今
度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。
そしてこう言った。
「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。
どうしたらいいでしょうか」と。
冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1) 生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2) 思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)
(3) 精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)
(4) 睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(5) ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(6) ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(7) 同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(8) 他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(9) 過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(10)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

 こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。
あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまったり、
さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。
Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。
Aさんも、子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心で
あった。
それではいけない。
子育ては重労働だ。
私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。
この原稿は、そのときの手紙をまとめたものである。

++++++++++++++++++

 この原稿の中で、とくに私が強調したかった、重要な部分は、つぎ。

「……しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、その人の処理能力を超えたようなときは、
免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイン)を放出して、脳内ストレスを引き起こ
すとされる」と。

そこでもう一度、免疫細胞とサイトカインについて、調べてみる。

●免疫細胞

+++++++++++++以下、「免疫プラザ」HPより+++++++++++

免疫細胞の戦いの流れ
免疫細胞には役割分担があり、互いに連絡を取り合ってチームプレーで戦っています。
侵略者の敵を見つける者、敵襲来の情報を伝達する者、攻撃開始を命令する者、武器を作る
者、攻撃する者、攻撃の始まりや終わりを告げる者、それらの者を元気づける者など、それぞ
れが独自の役割を持って、実に多彩な連携のもと敵をやっつけます。

+++++++++++++以上、「免疫プラザ」HPより+++++++++++
+++++++++++++以下、「瀬田クリニック」HPより+++++++++

●Tリンパ球

  がん細胞を直接、攻撃、排除する免疫反応の中心となる細胞はTリンパ球です。
血液中の主にTリンパ球を体外で培養しながら活性化し、数も大幅に増やし、その上で元の患
者さんの体内に戻すと いうことを主眼とした治療法を活性化自己リンパ球療法といいます。

  試験管内ではTリンパ球を極めて強く活性化することが出来、かつ活性化に使用する薬剤
の副作用を蒙ることなく治療を行うことが出来ます。
活性化や刺激の方法についてもいろいろな変法が考案され、実施されています。 

●樹状細胞

  樹状細胞とはがん細胞の目印である抗原をリンパ球に伝えて、攻撃を司令する細胞です。
Tリンパ球が敵と戦う兵隊とすると、樹状細胞は司令官のような役目を担っています。

血液中の単球を体外で処理して、樹状細胞に分化させることが可能で、さらに、抗原としてが
ん細胞から抽出した蛋白質や合成したペプチド(小さい蛋白)を貪食させ、細胞表面に提示さ
せます。
このようにして抗原を提示した樹状細胞を、体に注射することで、生体内にがん細胞を攻撃す
る細胞傷害性Tリンパ球(CTL)を誘導することができ、樹状細胞療法といいます。

++++++++++++++以上、「瀬田クリニック」HPより+++++++++++

●サイトカイン

++++++++++++++以下、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

サイトカインは細胞表面の膜上にある受容体(それ自体がチロシンキナーゼまたはチロシンキ
ナーゼと共役するものが多い)に結合して働き、それぞれに特有の細胞内シグナル伝達経路
の引き金を引き、結果的には細胞に生化学的あるいは形態的な変化をもたらす。

サイトカインは多機能的、つまり単一のサイトカインが標的細胞の状態によって異なる効果を
もたらす。
例えば免疫応答に対して促進と抑制の両作用をもつサイトカインがいくつか知られている。

またサイトカインは他のサイトカインの発現を調節する働きをもち、連鎖的反応(サイトカインカ
スケード)を起こすことが多い。
このカスケードに含まれるサイトカインとそれを産生する細胞は相互作用して複雑なサイトカイ
ンネットワークを作る。

たとえば炎症応答では白血球がサイトカインを放出しそれがリンパ球を誘引して血管壁を透過
させ炎症部位に誘導する。
またサイトカインの遊離により、創傷治癒カスケードの引き金が引かれる。

サイトカインはまた脳卒中における血液の再還流による組織へのダメージにも関与する。
さらに臨床的にはサイトカインの精神症状への影響(抑鬱)も指摘されている。

サイトカインの過剰産生(サイトカイン・ストームと呼ばれる)は致死的であり、スペイン風邪やト
リインフルエンザによる死亡原因と考えられている。
この場合サイトカインは免疫系による感染症への防御反応として産生されるのだが、それが過
剰なレベルになると気道閉塞や多臓器不全を引き起こす(アレルギー反応と似ている)。

これらの疾患では免疫系の活発な反応がサイトカインの過剰産生につながるため、若くて健康
な人がかえって罹患しやすいと考えられる。

++++++++++++++以上、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

 サイトカインといっても、いろいろあるようだ。
大切なことは、前向きに、生き生きと生きることによって、
免疫細胞を活性化させるということ。

悪玉ストレスは、極力、避けるということ。

S君はこうも言っていた。

「運命は、受け入れるしかない。
運命をのろってもしかたない。
どうにもならない。受け入れて前向きに生きれば、自然と免疫細胞も活性化されて、ガンも治
るよ」と。

たいへんすばらしい教訓を受けた。
電話を切ったあと、そう感じた。

S君、ありがとう!
(以上、2008年6月記……もう4年も過ぎた! ←これは余談。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 免疫細胞 サイトカイン はやし
浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし
浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 免疫細胞 サイトカイン はやし浩司 
家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 
ストレス 免疫 免疫機能の低下 免疫機構 サイトカイン 孤独 強力なストレス はやし浩司
 絶望 孤独 心のがん細胞 ガン細胞)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう一作。
視床下部について。
2008年6月記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【生の源泉】

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not 
all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに、視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲をコントロール
していることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、太った
り、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、コントロール
していることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、脳の各部に発しているのではない
かと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、「生的エネルギ
ー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、確認されてい
る。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている組織であ
る。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

 しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、それだけ性欲も強
いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、その一例かもし
れない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、悪の道に
走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に置いたが…
…。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究でがんばるのも、そのバリエー
ションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、そのバリ
エーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、なまめかしい女性の
形をした瓶に、形を変えただけで、現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られ
ている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、それらが急速に普及し
た背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、それもよく
わかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、まるでちが
う。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモンなどが、
食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

 そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

 しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。
それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」、
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、「今、前頭前
野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、適確により分けること
ができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを設置してみたりす
る。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかもしれないが、実
際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

【補記】

●丸山ワクチンと脳下垂体※

●丸山ワクチン

 「丸山ワクチン」というワクチンがある。
当初、あのワクチンは、「ただの水」と酷評された。
「だからいくら注射しても、がんには効かない」と。
多くの科学者や医師が、その使用に反対した。

 が、そのあとも丸山ワクチンでがんが治ったという人が続出した。
脳腫瘍が消えてしまった人もいる。

そこでいろいろ調べてみると、丸山ワクチンが、人間が本来的にもつ
免疫機構を刺激することがわかってきた。
そのスイッチとなる部分は、脳下垂体にあるという(伝聞)。
その結果、免疫機構が働き出す(伝聞)。
わかりやすく言えば、丸山ワクチンが免疫機構を目覚めさせるということになる。
だから、ほんの少量でよいということらしい(伝聞)。

一説によれば、数千万分の1ミリグラムとか、あるいはもう1桁多い、一億分の
1ミリグラムでもよいとか(伝聞)。
(このあたりの話は、あくまでも参考として読んでほしい。)

(注※……脳下垂体について
視床下部は、その下部に大豆大の脳下垂体を持っている。
ヒトの場合、脳下垂体は、前葉、後葉に分かれている。
脳下垂体の後葉は、上部にある視床下部の一部が延びたもので、進化の過程で、水中から
陸上に進出し、体内の水分調節を必要とするために発達した脳の一部であるという(以上、維
持評論家、菊池一久氏のHPより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 脳下垂体 丸山ワクチン 免疫
機構 免疫機能)

Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)

In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. 
Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal 
part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、強力なシグナルが発せられ
ている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、そのシグナル
に含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)のエネルギー」と呼んでい
る。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターにかけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、辺縁系を構成す
る。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性をもったエネルギ
ーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きなものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかにあるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲についても、同じよ
うに考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、「私であって私でない部分」を、分
けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の前とあととでは、異性観
が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって私でない」部分かということに
なる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を分けることによって、つ
ぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に合ったも
のを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、その女性をウラから操って
いるために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧をするのは、私の意思によ
るもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、きわめて少ないということがわか
ってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、それとも若々し
い赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることになる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、少しさみしい気が
する。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして懸命にものを考え、文章を
書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

【私とは?】(What is "Me"?)

At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have 
found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

 ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 
慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評
論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 
Japan はやし浩司 視床下部 免疫機構)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●ストレス→神経症→「私」論

 あちこちから自分の原稿を集めているうちに、話が、(あちこち)に飛んでしまった。
最終的には、何と「私論」まで、飛躍してしまった。

 要するに、ストレスはよくない。
東洋医学でも、『病は気から』という。
「気持ち」のもちようが、その人の健康に重大な影響をもたらす。

 ここ数日、たしかに私の精神状態はよくなかった。
それが低体温症……つまり芯から体が冷えるという症状をもたらした。
肩こりも、そのせいらしい。
……ということで、今日(2012年2月4日土曜日)は、午前10時起き。
寒気も取れ、肩こりも取れた。
よかった。

 みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司




(3)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
●子どもとゲーム

(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a report, 
regarding TV games and its possible dangerousness to children.)

+++++++++++++++++

「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!

イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++

【ロンドン27日・時事通信】

イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼす影響に
関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにした。

ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される可能
性もありそうだ。

報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。
ゲームによって子供は暴力に対して鈍感になるなどと結論づけた。
また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについてのみ、年齢制限が設けられている
が、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)

+++++++++++++++++

この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、その危険性を説いた教授がいた。

が、その直後から、その教授のところには、抗議の嵐!

どうして? 

一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様のような存在になっている。

どうして?

危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)

明らかに、どこかヘン。
おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。

あるいはあなた自身が、あのテレビゲームをしてみればよい。

数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。

「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。

隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、カウンセラーまで配置される状況になっ
ている。
(知っているか?)

が、この日本では、野放し! まったくの野放し!

私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、書いてから9年にもなるのに、いまだに、
抗議の書き込みがあとを絶たない。

どうして?

いったい、この日本は、どうなっているのだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム 子
供とゲーム ゲームの問題性 テレビゲーム はやし浩司 ゲームの危険性 子どもの脳 ポ
ケモンカルト はやし浩司 ポケモン・カルト)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司


(4)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F

●占星術というカルト

*********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司     2月 8日号
 ================================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page019.html
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【占星術というカルト】

●「占いを信ずる」……「はい」(27・0%)!

++++++++++++++++++++

雑誌「MOM」にこんな調査結果が載っていた。

「占いは好きですか」……「はい」と答えた人(79・0%)

「占いを信じますか」……「はい」と答えた人(27・0%)
          ……「いいときだけ、信じる」と答えた人(57・1%)
           (以上の両者を合計すると、84・1%!)

「どんな占いが好きですか」……星座占い(51・8%)
             ……手相(17・9%)
             ……タロット・カード(11・8%)
              (以下、血液型、生年月日、姓名判断、四柱推命……とつづく)

++++++++++++++++++++

●雑誌「MOM」

 雑誌「MOM」は、雑誌名からして、女性向けのもの。
ここに出てきた数字は、女性、とくに育児まっさかりの母親を対象にしたものと考えられる。
が、それにしてもというか、私はここに出てきた、「27%」「星座占い」という数字と言葉に驚い
た。
約3人に1人の女性(母親)が、占いを信じていることになる。
しかも「星座占い」という、訳の分からないものを信じている人が多いという。

●占星術

 占星術は、立派な宗教である。
とくに占星術とイスラム教の間には、密接な関係がある。
占星術イコール、イスラム教、イスラム教イコール、占星術と考えてよい。
それについては、以前、いろいろな原稿を書いてきた。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星
術」である。
今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。
星が見えるところ、すべての世界に、それがある。
興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。
ならば、その万物の構成要素から、神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基
本になっている。
わかりやすく言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。
だからそれら万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。
ついで、それらと一体として連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕
生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。
原理的には、男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではない
のか。
例がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。
つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごして
いると考えるからである。
イスラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたよう
に、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。
少なくとも、占星術では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべき
である。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断す
る、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星
術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを
参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。
あるいは生物という単位で、ものを考えるべきではないのか。
たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよい。
もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業によるも
の。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住むア
リ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、
つまり天空という平面で見ているにすぎない。
星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。
サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。
宇宙船で、100光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。
1000光年も先に行けば、もっと、変わる。
星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。
占星術イコール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占
星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれ
だけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄
することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよ
いと言うのなら、それはそれでかまわない。
そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論
 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 
Japan はやし浩司 カルト 狂信)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。
占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。
つまり占星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべて
が一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性があ
る。
事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。
つまり、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめ
ながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソ
クを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。
……というより、それはあなたの宗教性による。
意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それ
を超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。
笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。
信仰心といっても、おおざっぱに言えば、2種類ある。
ひとつは、教えを重要視するもの。
もうひとつは、超自然的なパワーを盲信するもの。
前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。
色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。
宗派によっても、ちがう。
しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存在を、信
仰の中心に置く。
「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。
あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教が生まれる。
そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係によって、発展し
たり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。
どこかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。
ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国
でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私
の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。
こと「星」について言えば、日本人は、元来、無頓着な民族と言える。
星座、それにつづく天文学については、それについて研究したという史料は、ほとんどといって
よいほど、残っていない。
(これは多分に、私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。
(発達したのではなく、発展した。誤解のないように。)
もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい(占い)に飛びついた。
占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを
埋めていた。
私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、その年の計画を
立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのも
のがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。
そして今に見る、占星術、全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。
占星術師なる人物が、テレビに顔を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わし
い。
占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義と結
びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。
あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体
は、表向きは、なりを潜めている。
が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかっ
たものではない。
忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。
しかもその信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)
している。
それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。
また外見上、いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件であ
る」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星
術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評
論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 
Japan はやし浩司 イスラム教と占星術 狂気性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力をなくした人々

 宗教性と理性は、常に対立関係にある。
とくに注意したいのが、宗教がもつ神秘性。
この神秘性に毒されると、理性そのものが破壊される。

このあたりで、もう一度、しっかりと結論を出しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教とは何か(カルトについて考える)

【宗教VSカルト論】BYはやし浩司

●インチキ予言

 「2011年の5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。

そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。
 その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。

『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロ
ルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

 ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審
判の日」と予言して一躍話題の人となった。
その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末
の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。

●終末論

 キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になる
こともある。

つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。

 が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。

 とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのつどユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism」として、独立した。

●思い込み

 現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。
 が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。

人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信」。

 アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。

4〜5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。

●エアーポケット

 不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。

 が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。

たとえば「家庭内宗教戦争」。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)

 こういう時代なのかもしれない。
今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は多い。
夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。
いや、本当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしま
う。
そして気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。
そして夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。
価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、どうでもよい部分については、それなりにうまくい
く。
しかし基本的な部分では、わかりあえなくなる。

 その妻は、夫にこう言った。
 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。
それがかろうじて、こうして何とか、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおか
げよ。
それがわからないのオ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。
彼らが言うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そん
なの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)
することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむけ
る。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろん
のこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。
「接するだけでも、バチが当たる」と教えているところもある。

●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。
あと少しで、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。
その一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。
もともとは、さらに大きな母体団体から分離した団体だと聞いている。
わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼ばれる信者たちだけが、別のSS教を
つくって独立した。
それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に
集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。
それが約1時間。それが終わると、集会、勉強会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せ
なくなりました。
週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。
 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、
勧誘を始めたことです。
 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の
勝手ではないか」と思うかもしれない。
しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。
今は、どんなことを言っても、受けつけません。
親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。

●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味
はない。
原因のほとんどは、その信者自身にある。
もっと言えば、そういう教団に身を寄せねばならない、何かの事情が、その人自身に、あったと
みる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。
仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えているよう。
その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそうになっ
てしまう。

 何のための人生?
 なぜ生きているのか?
 どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにある?
 どこに求めればよいのか?
 何もできないむなしさ。

力なさ。
そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。
社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。
何のために、どう生きたらよいのか。
心配ごともつきない。
自分のことだけならともかくも、子どもはどうなるのか?

 国際情勢は?
 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。
いくら「私は私だ」と叫んでも、その私はどこにいるのか?
 生きる目的は何か?
 それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。
その穴のあいたところに、ちょうどカギ穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。
 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。
彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとたん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感
が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。
とたん、孤独感も消える。すばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にす
る。

 しかし……。
 それは錯覚。
幻想。
幻覚。
亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。
思想を注入してもらうかわりに、自らの思考力をなくす。
だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。
あるいは教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。
さらに足の裏を診断してもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお
金を教団に寄付した信者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。
そういう信者でも、会って話をしてみると、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人であ
る。
「どこかおかしのか?」と思ってみるが、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠
陥のない人は、いない。

●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係
は、すでに破壊されたとみてよい。
夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になったと考えてよい。
親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。
親はともかくも、子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚
を禁止している。
またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養を第一に考えて
いる。
 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始め
た」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。
富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言った。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明し
てみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どう
だ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。
会社の経営者としては、すでに適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすか
の、どちらかを覚悟しなさい。
夫婦でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひ
たすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。
無理をしても、ダメ。
それこそ5年、10年単位の時間が必要です。
頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。

●常識の力を大切に!

 今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。
信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。
どう自分たちを守ればよいのか。

 私は、常識論をあげる。
常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。
おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。
「おかしいものは、おかしいと思おうではないか。
それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。
これも方法は、簡単。ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。
ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩をする。
もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。
(おかしなもの)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。
習慣といってもよい。
何を見ても、ふと考えるクセをつける。
そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ!
 みなさんといっしょに、戦うぞ!
 世の正義のため、平和のため、平等のために!

 ……と少し力んだところで、このつづきは、またの機会に!

(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●信者がいるから宗教団体は生まれる

 先の原稿を書いてからだけでも、もう7年になる。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上にな
る。

 が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。

 宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。

●スピリチュアル?

 ……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。

 原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・2007・12・20)。

 いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉
がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされ
る。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

 「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷
居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

 たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られた
り、物品を買わされたりする、と。

 「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間
に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もい
たという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行く
と、この種の本が、ズラリと並んでいる。

 「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。
釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。
ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。
そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー
教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術?
 ばか!
 アホ!
 インチキ!

 あのね、占星術は、立派なカルト。
そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気
づかねばならない。
私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり!
 反論するのも、いや!
 ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

 10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3〜6年生)が、
占い、まじないを信じていた。
今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になってい
るとも考えられる。

 子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

 年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの指導では

 学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。

 それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。
 が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱ
りと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)

●宗教について

●霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じ
た」とか言う。
これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならな
い。
数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。
しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。
非公式の調査でも、約七〇〜八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。
「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。
で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はい
くらでもいる。
またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。
たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年
秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできな
い。
だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

 私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、もの
の考え方を一八〇度変えなければならない。
これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。
宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。
「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。
もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。
見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。
で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。
それから霊の存在を信じても遅くはない。
何と言っても、霊の世界は無限(?)

 時間的にも、空間的にも、無限(?)
 そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?)
 
 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。
だからこの世界を、まず大切にしたい。
神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。
ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。
人間として懸命に生きる。
そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがって
いる。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼り
たくない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(1)

 小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかっ
た。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもお
かしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった
少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

 そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまっ
た。

 「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずが
ない。いたとしたらインチキだ。

 一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコー
ナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇
〇万件とは!

 あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占
い」とは……?

 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。
 たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向
論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与え
られているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではない
か。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が
地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

 私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」と
は思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、
それはもう神や仏ではない。
悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?

 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解
できる。
さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でし
なさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

 人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自
ら努力することをやめてしまう。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。
しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(4)

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。
こんな失敗をしたことがある。
一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。
「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私はこう言った。
 「バチなんてものは、ないのだよ。
それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

 翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。
「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。
その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。
一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「
先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。
私は「真理」のことだと思ってしまった。
そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。
実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。
その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだと
わかった。

 さらに別の日。
一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。
夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。
そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声
で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。
その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。
そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
だから宗教を否定しても意味がない。
それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。
その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。
それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。
そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。
その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。
「先生、神様って、いるの?」と。
私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。
おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。
あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。
そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。
霊魂や幽霊についても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来
世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。
信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。
「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。
いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われ
て、はじめて知った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。
無間地獄。だれにも心を許さない。
だれからも心を許されない。
だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。
だれも愛さない。
だれからも愛されない。
……あなたは、そんな孤独を知っているか?

 もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。
あなたは何をしたいか。
どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。
あなたの中のあなた自身を信ずればよい。
あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わってい
る。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。
ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。
ウソをつかない。
飾らない。虚勢をはらない。
あるがままを外に出してみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。
ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。
人を助けてみる。人にものを与えてみる。
聞かれたら正直に言ってみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。
が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周
囲の人を温かく、心豊かにする。
一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たく
し、邪悪にする。
だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。
静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。
言いたいと思うことを言えばよい。
ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れ
ることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。
大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさな
いこと。

 手始めに、空を見てみよう。
あたりの木々を見てみよう。
行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよ
う。
つっぱることはない。
いじけることはない。
すねたり、ひがんだりすることはない。
すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。
そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。
しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。
「お前は、ひとりで寝たいのか?
 ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。
すると本当の私がこう答えた。
「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。

 そこで家に帰った。
帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。
自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。
しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。
と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。
あなたの心に、がまんすることはない。
ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。
あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。
みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。
本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をい
う。
みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無
間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年10月23日の朝に

 ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。
 言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。

 が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。

 そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道
をすることになる。

 若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。

 現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちが
いない」と思う。

 だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。

 要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくる
はず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 カルト 予言 預言 信仰とは 
はやし浩司 宗教論 宗教 はやし浩司 占い まじない)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年01月03日朝

 今朝は、占いからはじまり、宗教について考えてみた。
この文章の中に出てくる、「富山市U市の男性」というのは、「新潟県X市の男性」である。
よく覚えている。
私の家まで、2度も来てくれた。
またそのあと、毎年、新潟産の米を届けてくれた。

 もう10年近くも前のことである。
今、その男性を思い浮かべながら、「元気だろうか?」と思った。
遠い昔のような気もするが、ごく最近のできごとのような気もする。

 大切なことは、思考力。
自分で考えるという思考力。
最後に、思考力について書いた原稿を掲載する。
こうしたカルトと闘うためには、思考力しかない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力とは何か

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。 

「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、
「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、
さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけ
たモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。
それほど楽なことではない。
それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。
いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。
しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。
子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

 もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救
われる。
大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテル
を張られてしまう。
だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。
が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じよう
な苦痛がついて回る。

 それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。
そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。
一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性

……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。
とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。

●退化性

……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。
それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。
思考も同じ。

●先鋭化

……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。
ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。
もちろんこのほか、年齢的な問題もある。
私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。
集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。
そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止す
る人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。
個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。
概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。
それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 思考力 パンセ パスカル カル
トと闘う 宗教と神秘主義 はやし浩司 宗教論 霊について スピリチュアル インチキ)2012
/01/03記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================



(5)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
●西浦温泉 「葵」にて・


*********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司     2月 10日号
 ================================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page020.html
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【西浦温泉・たつき別館、葵(旅館)へ】(はやし浩司 2012−01−03)

<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/W6qQFpGbG2k" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

●01月03日、火曜日

 ただ今、車の中。
JR浜松駅から、愛知県蒲郡(がまごおり)まで。
そこから名鉄電車に乗り換え、西浦まで。
JR浜松駅から、1時間ほど。

 今日はその中にある、『葵』という旅館に一泊。
案内書では、『たつき別館・葵』となっている。
1日1組限定という、ペントハウス(特別室)に泊まる。

西浦温泉は、ほぼすべての旅館を回った。
今回は、その中の、『葵』。
とくに理由はないが、「露天風呂付きに部屋」という文句に、
引かれた。

●義兄の訪問

 先ほど、義兄が年始のあいさつに来てくれた。
ちょうど出かけるところで、簡単な会話しかできなかった。
……ゆっくりと話をしたかった。

今度の日曜日に、山荘で食事をいっしょに楽しむことにした。
「一席、もうけますから」と言うと、喜んで、それに応じてくれた。
今朝は、それで失礼した。

 玄関先へ出たときには、朝の運動がちょうど終わったとき。
汗をぬぐいながら、「これから西浦温泉へ行ってきます」と言うと、「いいねエ〜」と。

●家を出る

 「家を出る」ということは、とても大切なこと。
「出る」だけでも、刺激になる。
けっして家の中に引っ込んでいてはいけない。
ボケる。
うつ病になる。

「50代では、年50泊、60代では、年60泊……」を目標にする。
あくまでも「目標」だが、60泊というと、週1泊以上ということになる。
が、幸運なことに、私にとっては、それほど無理な回数ではない。
どこかへ講演に行くときは、講演先のどこかに、かならず一泊するようにしている。
それがだいたい、週1回ほどになる。

ともあれ、これはあくまでも努力目標。
しかしそれくらいの目標を立てないと、どうしてもダラけてしまう。
ジジ臭くなってしまう。

●G神社

 JR浜松駅へ向かう途中、G神社の前を通る。
境内に、車が一列になって並んでいるのが見えた。
「車の初詣」!
私たちはそう呼んでいる。
(正確には、「車のお祓い」というのだそうだ。)
一列に並んだ車の前を、神主らしき男性が、何やらお祓いをしながら歩いていた。

 が、こんな調査結果を何かの本で、読んだことがある。

 そうした「車の初詣」をしたからといって、事故率が下がるわけではない。
お祓いをしてもらった車も、そうでない車も、事故になる確率は同じ。
理由がある。

●迷信

 その前に……。
私たちは、こうした迷信とは、まったく無縁の世界に生きている。
若いころから、そうだった。

私は、こうした宗教的行為を、「迷信」と断言する。
が、そう断言するには、勇気が必要。
「迷信」と断言するということは、そういった「力」との決別を意味する。
私たちだけで、生きていかねばならない。
だれも助けてくれない。
万が一のときも、だれにもすがれない。

 が、今はちがう。
64歳にもなって、何かに遠慮してものを書くのも、いやになった。
だから「迷信」と断言する。
はっきり、断言する。

 冷静に考えてみれば、わかるはず。
運転する「人間」に、お祓いをするなら、まだ理解できる。
金属でできた車に、お祓いをして、どうなる?
神社にしても、最初から断ったらよい。
いくら信者が「やってくれ」と願ったとしても、断ったらよい。
「車には、できません」と。

 また「お祓いをしてもらったから、安全」と思ってはいけない。
そう思うことによって、かえって油断が生まれる。
反対に「私たちを守ってくれるものは、何もない」と思うのも、悪くない。
そう思うことによって、運転が慎重になる。
どちらであるにせよ、事故になる確率は同じ。

詳しい調査をしたら、ひょっとしたら、「車の初詣」をした車のほうが、事故率が高いという結果
が出るかもしれない。

●生き様

 ならば人生の途中で、そうした迷信を捨てることができるかというと、それはできない。
迷信が、生き様の基盤になってしまう。
そういう人たちは、捨てたとたん、不安になる。
車について言えば、不安で、運転もできなくなる。
だから一度依存したら最後、死ぬまで依存するしかない。
宗教いうのは、そういうもの。

 もしどうしても……、ということであれば、生き様そのものを変えなければならない。
「依存」から「自由」へ。
「自由」というのは、「自らに由(よ)る」という意味である。
それまで「依存」で生きてきた人が、ある日を境に「自由」に生きるなどということはできない。

●功徳(くどく)

 こんな調査結果もある。

 「金持ちになれる」をキャッチフレーズに、戦後、勢力を拡大した宗教団体があった。
「この信仰をすれば、庭の枯れ木に、札束の花が咲く」と。

 が、実際に調査してみると、その宗教団体の信者のほうが、貧しい人が多かったという。
それについては、2つの考え方ができる。
ひとつは、もともと貧しい人たちが多かったということ。
もうひとつは、彼らが言うところの「功徳(くどく)」などというものは、もとからなかったということ。

今では、日本人全体が金権教の信者のようなもの。
欲得のかたまりのようなものだから、功徳(=信仰によって得られる利益)を、金権に換算する
人は少なくない。
もとから宗教に対する、心構えがズレている。

金権を求めるために、信仰をしてはいけない。
またそんなことに「力」を貸す神や仏がいるとするなら、それこそ、その神や仏は、エセ。
ニセモノ。
そんな神や仏は、相手にしてはいけない。

 私が釈迦なら、こう言うだろう。

『バラモンよ、拝んで金が儲かると思ってはいけない。
拝んで権力が手に入ると思ってはいけない。
拝むなら自分の心に拝め。
蔵の財より、心の財。
それを求めよ』と。

●JR浜松駅

 正月の3日。
JR浜松駅は、混んでいた。
電車の中も混んでいた。
途中から席に座れたが、豊橋の、2、3駅手前でのこと。
「やはり車で来るべきだった……」と、ふと、心の中でそう思った。

●JR蒲郡(がまごおり)

 蒲郡(がまごおり)に、着いた。
が、ここで問題、発生。
時計を見ると、午後1時30分。
このまま行けば、旅館へは、午後3時前に着いてしまう。
案内書には、「チェックイン可能時間、15:00〜」とある。

 「どうしようか?」と聞くと、ワイフは「水族館でも見てこようか」と。
が、外は寒々とした冬の景色。
蒲郡には、その水族館がある。
「西浦の駅で、時間をつぶそう」と私。
「そうね」とワイフ。

●西浦

 西浦へは、午後2時、少し前に着いた。
宿へ電話をすれば、迎えに来てもらえるはず。
「どうしようか?」と、またワイフ。
「早く行って、ロビーで待とう」と、私。

●歩く

 私たちはしばらく歩くことにした。
駅前で子ども連れの男性に道を聞くと、「この先、『力寿司』という寿司屋があるから、そこを右
へまっすぐ行けばいいよ」と。

 私たちは教えられたとおりに、歩き始めた。

 ……西浦の町は、いつ来ても、元気がない。
多くの店は、正月なのか、それともふだんからそうなのかは知らないが、みな、シャッターを下
ろしていた。
私たちは、寿司屋の前を右に折れると、そのまま西浦温泉のほうに向かって歩き出した。

●八王子神社

 途中、左手に立派な社(やしろ)が見えてきた。
場違いなほど立派な、社だった。
私たちはその神社にひきつけられるように、境内へと入っていった。

「八王子神社」と、大きく石碑に彫り込んであった。
私とワイフは、石段を上り始めた。
何度も「立派な神社だね」と。

●境内

 境内で写真を撮っていると、白い着物を着た男性が、親しげに近づいてきた。
「どちらから?」と。
「浜松です」と答えると、うれしそうに、あれこれと説明してくれた。

 由緒ある神社だった。
境内には、ほかに3、4人の人たちがいた。
掃除をしたり、あと片づけをしたりしていた。

 帰るとき、ワイフがまた同じことを言った。
「こんなところに、こんな立派な神社があるなんて……」と。

●親切な男性

 街道を歩いていると、(幡豆(はず)街道という)、うしろから軽のバンが追いかけてきた。
私たちの横に止まると、中から70歳くらいの男性がこう言った。
「乗せていってあげるよ」と。

 先ほどまで神社にいた男性だった。

「はあ……」と私。
「西浦温泉まで、乗せていってあげるよ」と。

 私とワイフは、そのままバンに乗った。

男「まだ、だいぶあるよ」
私「すみません……。いえね、私、こうして見知らぬ人に車に乗せてもらうのは、この40年で、
はじめてではないかと思います」
男「ははは……」と。

 そう、この40年間で、はじめての経験だった。
他人を乗せたことはあるが、見知らぬ人に乗せてもらったことはない。
が、居心地は悪くなかった。
先ほどの神社で、賽銭として、もっていた小銭をすべてはたいた。
そのご利益?

●旅館「葵」

 一文字で、「葵」。
立派な旅館だった。
玄関を入ると、フロントまで一直線の赤いジュータンが敷いてあった。

 ここで訂正……「ペントハウス(最上階)」を思ったが、フロントからつづきになっている、一番
奥の部屋だった。
露天風呂付きの部屋。
ドアを開けると、下足置場だけで一部屋分あるほど、中は広かった。
「すごい部屋だな」と。

 仲居さんが、露天風呂の使い方を、あれこれ説明してくれた。

●温泉

 私たちはいつものように一服すると、そのまま大浴場へ。
大浴場には、私、1人だけだった。
ラッキー!
こういうのを私は子どものころ、「一番風呂」と呼んでいた。
町の銭湯で、そういう言葉を使った。

●銀波荘

部屋からは、渥美湾が一望できた。
少し前に泊まった、銀波荘がすぐ前の眼下に見えた。
その銀波荘の料理は、超一級。
料金も高かったが、それだけの価値はあった。
そんな話をしながら、ワイフと遠くの景色を眺めた。

 別の旅館に泊まりながら、隣の旅館をほめるというのも、どうかと思う。
が、銀波荘の料理には、驚いた。
一品、一品に、奥深い趣向がこらされていた。

●人間関係

 ここへ来る電車の中で、ワイフとこんな話をした。
人間関係について。

 都会に住んでいる人は、あまりそういう話はしない。
理解できないだろう。
しかし人間関係が濃密な田舎に住んでいると、それがよくわかる。
こういう話。

 たとえばA、B、C、D、Eさんの5人がいたとする。
五角形を頭の中で描いてみればよい。
そのとき、対角線を描くと、計10本の線が引ける。
具体的には、A−B、A−C、A−D、A−E、B−C、B−D、B−E、C−D、C−E、D−Eと。
それぞれが、別の人間関係を形成する。
実際には、双方向性ができるから、20本の線ということになる。
A−Bの関係と、B−Aの関係が、異なるときがある。
Aさんは、Bさんが好き。
が、Bさんは、Aさんが嫌い、と。
だから20本。
こうして地方の田舎では、複雑な人間関係が形成される。

●評価

 たとえば同じBさんを、Aさんは、ほめちぎる。
が、同じBさんを、今度はCさんが、ボロクソに叩く。
同じ人物なのに、人によって評価が、まったくちがう。
ときに、その評価が180度、異なるときがある。

 もちろんこの私についても、だ。
Aさんは、私のことを、よい人だと言う。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。

 が、私は同じ「私」なのに、Bさんは、私のことを、ボロクソに叩く。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。

 そのときたいへん興味深いのは、そういう評価は、若いころはまだ流動的ということ。
が、50歳を過ぎると、それが固定化してくる。
ボロクソに叩く人は、それこそ20年前、30年前の話を持ち出して、叩く。

 が、それだけではない。
心のどこかにもっていた(わだかまり)が、50歳や60歳を過ぎたころ、一気に噴き出す。
そのため評価の仕方も、極端になりやすい。

●人間のクズ

 たとえば、こんな例。

 A氏とB氏は、ほぼ同じ年齢。
が、A氏は、よい家柄の御曹司。
B氏には、その家柄がない。

 それもあって、A氏は、子どものころからB氏を、「下」に置いていた。
B氏は、「下」という立場に甘んじていた。
こうして20年、30年と過ぎる。

 が、そのころから、B氏はA氏をボロクソに叩くようになった。
「あいつは、人間のクズ」と。
が、肝心のA氏は、いまだにそれに気づいていない。
「私は尊敬されるに値する人間だ」と。

 が、ここで先にも書いたように、おもしろい人間関係が形成される。
ふつうは、「好意の返報性」といって、相互に似たような人間関係になる。
A氏がB氏をよい人と思っていると、B氏もまたA氏のことを、よい人と思うようになる。
日本でも昔から、『魚心あれば、水心』という。
英語の格言にも、「相手は、あなたが思うように、あなたのことを思う」というのがある。
ふつうなら、そうなるのだが、先にも書いたように、人間関係はそれほど単純ではない。
とくに濃密な近隣関係にある世界においては、そうだ。

●おもしろい人間関係
 
 で、そのA氏を、C氏は、高く評価している。
「Aさんは、すばらしい人だ」と。

 理由を聞くと、「先祖を大切にしているから」と。
A氏は、毎年、盆暮れになると、名古屋からやってきて、墓参りをきちんとする。
が、A氏は、C氏をボロクソに叩く。
「あいつは、墓参りすら、きちんとやっていない」と。

 A−Cの関係と、C−Aの関係が、中身において、ちがう。
それがここに書いた「おもしろい人間関係」ということになる。

●表面(おもてづら)

 が、さらに興味深い現象が、起きる。
そういう関係にもかかわらず、(たいへん複雑に入り組んだ関係にもかかわらず)、それぞれの
人たちは、みな、見た目には、よい人間関係をつづけている。
表面(おもてづら)と、裏面(うらづら)を、巧みに使い分けている。
まさに面従腹背。
ボロクソに叩きながらも、だからといって、喧嘩しているわけではない。
いっしょに飲み食いをしたり、ときには、いっしょに旅行もしたりする。

 都会に住んでいる人には信じられないような話かもしれない。
しかしこの浜松という、人口80万人の都市においてすらも、そういう現象が起きる。
それをワイフは、「おもしろい」と言う。
私も「おもしろい」と言う。

私「だけどね、ぼくは、そういうことができない」
ワ「そうね、あなたには、できないわね」
私「そうなんだよ。裏で悪口を言いながら、表では仲よくつきあう……。とてもぼくにはできない」
ワ「私もできないわ」
私「だからね、ぼくのばあいは、その人の悪口を書いたばあい、その人とは、つきあわないこと
にしている」と。

 そう、それは事実。
私は一度でも、その人のことを悪く書いたばあいには、(たとえその人とわからないように書い
たばあいでも)、その人とは縁を切ることにしている。
それをしないと、脳みそがバラバラになってしまう。

 だから……当然のことだが、その人の悪口を書くときは、最後の最後……。
……というより、めったに書かない。
そんなことをすれば、筆が汚れる。
自分の住む世界を狭くする。

●『道徳的未熟児』?

 たった今、あちこちのニュース・サイトに目を通した。
その中に、こんなのがあった。
朝鮮中央通信(北朝鮮)が、こんな論評を出している。
いわく、

『朝鮮中央通信は3日、「大国葬を迎えた朝鮮民族の胸を刃物で刺す日本の道徳的未熟児」と
いう論評で、隣国の大国葬をともに悲しみ慰めることができないとしても、朝鮮民族声援の弔
問までも遮断する日本当局の行為は卑劣だと主張した』(ヤフーNEWS)と。

 ごちゃごちゃと書いている部分は、無視してよい。
あの国の言っていることは、いつも常識をはずれている。
が、この中にある、『道徳的未熟児』という言葉だけに注目してほしい。
(『道徳的未熟児』だぞ!
この私たち日本人が!)

 こうして世界中にニュースが配信されたから、私もあえて書く。
「道徳的未熟児」とは、いったい、どういう子どもや人をさして言うのか。

 ためしに「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみてほしい。
一例も、ヒットしないはずである。
「未熟」という言葉はよく使う。
しかし子どもや人をさして、「未熟児」とは言わない。
また言ってはならない。
(この原稿は別として。)

 私は幼児教育歴43年になるが、「未熟児」などという言葉は使ったことも、口に出して言った
こともない。
講演などでも、一度もない。
(当然のことだが……。)

タブーというより、禁句。
禁句と意識する以前の、禁句。

 こういう言葉を、堂々と使う北朝鮮が、恐ろしい。
1.どういう子どもをさして、未熟児というのか
怒れるよりも先に、あきれる。
それとも北朝鮮には、未熟児はいないというのか。
子どもの3分の1以上が、栄養失調と言われている。
そういう子どもたちが、未熟児になる心配はないのか。
 ともかく、この言葉には、驚いた。
私たちがけっして口にしてはいけない言葉。
それが「未熟児」。
もともと私の思考回路の中にさえ、ない。
そういう言葉が、こうして堂々と、活字になっている!

 私はそれに驚いた。

●露天風呂

 夕食前に、2度目の露天風呂に入った。
雲ひとつない、紺碧の夜空だった。
月が美しく、星もまばたきもせず、その横に散らばっていた。
それを見ながら、決心した。
「露天風呂を作ろう!」と。

 以前から計画していたが、二の足を踏んでいた。
とくに理由はないが、その時間がなかった。
しかし作ろうと思えば、1日で、できる。
板を敷き、その上に、風呂釜を置く。
風呂釜は何でもよい。
友人のTH氏は、ドラム缶を置いて、風呂にしている。
(本物のドラム缶だぞ!)

 この温泉の露天風呂は、陶器でできた瓶(かめ)。
どこかにそれを売っている店もあるはず。
……しかし、お湯を抜くときはどうすればよいのか。
陶器に穴をあけるのも、たいへん。

ウ〜ン?

●「はやし浩司 未熟児」

 たった今、「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみた。
これは念のため。
万が一にもその言葉を使っていたら、私は自分の評論生命を絶たねばならない。
そう思いながら、検索をかけてみた。

 ヤフーの検索で、557件、ヒットした。
「未熟」という言葉で、ヒットした。
「未熟児」という言葉は、やはり一度も使ったことがない。
それがわかった。

で、その2件目に、つまり557件中、上から2件目で、「脳の未熟化」について書いた原稿が見
つかった。
こんな旅行記に、その原稿を載せるのもどうかと思うが、ここに転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「脳の未熟化」(澤口俊之著「したたかな脳」)

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。
 私も、そう思う。
 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。
ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。
いろいろな原因が考えられているが、要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」
(養老孟子)になってきたということ。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んだという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。
服装や、かっこうはともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。
最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあることがわかって
きました」(同書、P34)と。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。
しかもその発達時期には、「適齢期」というものがある。
言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくると、発達を停止してしまう。
「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適切にその能力を伸ばさな
いと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験によればの話だが、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満
4・5歳から5・5歳。
この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることができる子どもになる。そう
でなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。
遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。
一度、定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。
わからないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完
成されると考えてよい。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。

(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳 はやし浩司 教育 林 
浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言語能力

 その言語能力で気になるのが、最近の若い人たちの話し方。
鼻から息を抜きながら、フガフガした言い方をする。
たとえば、「いらっしゃいませ」を、「ヒラッアシャハイ、ムァーセ」と。

 幼児教育の世界には、「発語障害」という言葉がある。
が、そのどれにも属さない。
ということは、後天的に、こうした言い方は、クセとしてその人に定着する。
若い女性に多い。
「このままでいいのか?」と、考えたところで、思考停止。

 言葉というのは、そういうもの。
いつも大衆が、その流れを決めていく。

が、好きか嫌いかと聞かれれば、私は嫌い。
聞きづらいという点で、私はそういう言い方が、嫌い。
日本語が基本的な部分で、壊れつつある。
そんな危機感さえもっている。

 フロントでチェックインしていたとき、同時に並んだ若い女性たちが、みな、そんな話し方をし
ていた。

●夕食

 夕食は、海賊焼き。
伊勢エビ、アワビなどの豪華品に、あとは定番。
量は多すぎるほど。
満足したというより、楽しかった。
凝(こ)った懐石料理もよいが、私はこのタイプの夕食のほうが楽しい。
肩も凝らない。

●露天風呂

 夕食後、私は再び、露天風呂へ。
ワイフはDVD鑑賞。
これもいつもの定番。

 月に白いモヤのような雲が、かかり始めた。
そんなことを考えながら、ぼんやりと空をながめる。
無我の時。

 よく誤解されるが、私はいつも、ものを考えているわけではない。
ものを書いていないときの私の頭の中は、カラッポ。
いつも馬鹿話ばかりしている。
ふだんの私を見たら、あなたはこう思うだろう。
「この男は、馬鹿?」と。
(実際、馬鹿なのだが……。)

 それが私の特技かもしれない。
ものを書いているときの私の脳みその中は、モヤモヤでいっぱいになる。
が、そうでないときの私の脳みそは、カラッポ。
モヤモヤとカラッポ、それをいつも繰り返している。
そのときが、そうだった。

露天風呂に入っているとき、私の脳みその中は、カラッポだった。
完全にカラッポだった。

●近視主義者

 ワイフは、「今を楽しもう」と言う。
私は、悲観論者。
自分の末路を考えると、どうしても悲観的になる。
このちがいは、どこから生まれるのか。

 が、私はワイフが楽観論者とは思っていない。
現実主義者でもない。
私は「近視主義者」と呼んでいる。
いつも目先のことしか、考えない。
目先のことしか、見えない。
つまり未来を予測しながら生きるということを、しない。
「何とかなるわ」が、ワイフの口癖。

 そういうワイフを、うらやましいと思うときもある。
そういうときは、こう思う。
「ぼくのような変人には、ワイフのような妻がいちばん似あっている」と。
 
 が、そうでないときもある。
私の未来的な絶望感を理解できないときがある。
老後のことを心配したりすると、すかさず、こう言い返す。
「忘れなさいよ」と。
そういうときは、たいへん苛(いら)立つ。
「忘れることができないから、悩んでいるのだ!」と。

 が、結局のところ、……いつも、最終的にはいつもそうなるが、ワイフが正しい。
私が負けを認め、それでおしまい。

 ……この文章をワイフが読むかどうかは、わからない。
わからないが、正直に告白する。
負けを認める。

私が恐れていることは、自分の老後のことではない。
孤独死とか、無縁死でも、何でもよい。
そんなことは、どうでもよい。
私が恐れているのは、いつか、ワイフがいなくなったときの世界、である。
はたして私は、そんな世界に耐えられるだろうか。

●10年、早ければ……

時刻は、午後9時を、少し回った。
ワイフは相変わらず、DVDを見ている。
聞き慣れない言葉である。
ドイツ語のようでもあるが、ドイツ語でもない。
「No」という意味で、「ネイ」と言っている。

雰囲気からして、オランダの映画?
北欧の映画?
よくわからない。
……というか、この世界には、私の知らないことのほうが、多すぎる。
だからときどき、こう思う。
気がつくのが、もう10年、早ければよかった、と。
10年早ければ、もっと新しいことを知ることができた、と。

 が、今は、ちがう。
脳みその働きそのものが、鈍くなってきた。
片端(かたっぱし)から新しいことを知り、同時に、片端から忘れていく。
これではいつになっても、前に進むことができない。
このはがゆさ。
このもどかしさ。

 DVDの主人公たちは、私たち日本人がもっている価値観と、まったく異質な価値観をもって
いる。
それを知るためには、彼らとともに生活しなければならない。
苦楽を共にしなければならない。

 反対の立場で考えてみると、それがよくわかる。
たとえば「家・意識」。
アメリカ人やオーストラリア人に、日本人がもつ「家・意識」を説明しても、理解できない。
彼らがそれを知るためには、また理解するためには、日本に住み、日本人といっしょに生活し
なければならない。

●知的優越感

 知的優越感というのは、確かにある。
私も、ある時期、それを強く感じた。
「私は、君たちの知らない世界を知っている」と。

が、今はそれも色あせ、老後の中で、ごちゃ混ぜになってしまった。
ただその一方で、私から見ると、化石のような人に出会うことは、多くなった。
その人が「化石」というのではない。
私の中に残っている「化石」そのままだから、「化石のような人」という。

 少し入り組んだ話になるが、許してほしい。

 若いときに(外の世界)へ出た人と、反対に、生まれも育ちも、そしてそれ以後も、ずっと(内
の世界)に住んでいる人がいる。
(外の世界)へ出た人には、(内の世界)がよく見える。
が、ずっと(内の世界)に住んでいた人には、当然のことながら、(外の世界)がわからない。
わからないまま、(内の世界)を基準にして、ものを考える。
(外の世界)を想像したりする。

 こう書くと、(内の世界)に住んでいる人は、こう反論するかもしれない。
「外国のことはよく知っている」「ときどき外国へ旅行する」「テレビでもよく紹介されるから、それ
を見ている」と。

 しかし(外の世界)を知るということと、観光客として、外国を訪れるということの間には、天と
地ほどの開きがある。
(外の世界)の人だって、観光客には、自分たちの世界を見せない。
さらに中には、私にこう言う人もいる。
「君は、外国かぶれしている」と。

●化石

 そこで私自身を振り返ってみる。
もし私があのまま日本の会社に入り、そのまま60歳を迎えていたら、私はどうなったか、と。
「あのまま」というのは、99・9%の日本人がそうであったように、(外の世界)を知らないまま、
日本だけに住み、日本の中で生活をしていたら、という意味である。
が、これについては、何も、想像力を働かせなくてもよい。
そういう人を、あなたの周辺から探してみれば、それでよい。
探して、そういう人が、どういうものの考え方をしているかを、知ればよい。
つまり、それが(あのままの私)ということになる。

 が、最近は、そういう人たちが、私には、「自分自身の化石」に見えるようになった。
先に「化石のような人」と書いたのは、そういう意味。
「過去の自分のまま」という意味で、そう言う。

で、私と彼らはちがう……というのは、あくまでも結果論にすぎない。
ここでいう「化石」というのは、私自身の内部で、核になっている「私」を意味する。
固くて、心の中で石のようになっている。
だから「化石」。

●因習

 もう少し具体的に話そう。

 私は子どものころ、学校が休みになると、決まって母の実家のある田舎で過ごした。
そこには、古い因習が、ぎっしりと詰まっていた。
そこはまさに、(情の世界)。
すべてが「情」を中心に動いている。
(だからといって、因習や情を否定しているわけではない。誤解のないように!)

 しかしそれが因習とわかったのは、ずっと後になってからのこと。
30代、40代になってからのこと。
が、もし私があのまま(外の世界)を知らないでいたら、私自身が因習を因習とも気づかないま
ま、私はそれをそのまま踏襲していただろう。
事実、そのあたりにそれ以後も住み、そこで暮らした人たちは、そっくりそのまま因習を踏襲し
ている。

●智に働けば……

 が、ここでいつも、厚い壁にぶち当たる。
そういう化石のような人たちに出会うと、(けっしてそういう人たちが、「下」とか、そういうことを
書いているのではない。誤解のないように)、言いようのない無力感を覚える。
あまりにも遠くに住んでいて、どこからどう説明したらよいのか、わからなくなる。
実際には、不可能。
つまり私を理解するのは、不可能。
だから私のほうが、先に引いてしまう。
引いて、私のほうが、彼らに合わせる。

 「そうですね」「そのとおりです」と。

 が、それはむずかしいことではない。
私の中にある「化石」を、そのまま引き出せばよい。
ちょうど机の引き出しから、古い本を取り出すように、だ。
あとはその化石を見ながら、相手に合わせていけばよい。

 ところで夏目漱石は、『草枕』の冒頭で、こう述べている。

『智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される』と。

 理性だけを主張していると、他人との衝突がふえる。
しかし相手の情に同調していると、自分を見失ってしまう、と。

 たしかにそうだ。
相手に合わせるのは、むずかしいことではないが、いつも後味が悪い。
いや〜な気分になる。

●01月04日

 今日は1月4日。
時刻は午前8時30分。
西浦駅に向かうバスが、9時に出るという。
今、そのバスを待っている。

 まぶしいばかりの白光。
昨夜は遅くまで波の音が聞こえたが、今は、それもない。
窓の外の波を見ると、岸のほうから太平洋側に向かって、動いている。
今日も、北風。
寒い1日に、なりそう。

 そうそう、昨日、オーストラリアのB君からメールが届いた。
南オーストラリア州では、ここ2日ほど、気温が41度を超えているという。
41度!

 もっともオーストラリアでは、空気がカラカラに乾燥しているから、41度といっても、日陰に入
れば、涼しさを感ずる。
夜も寝苦しいということはない。
が、心配なのは、ブッシュ・ファイア(山火事)。
大平原が、それこそ関東平野分ほど、燃えたりする。
それが気圧の移動とともに、あちこちを燃やし尽くす。
それがこわい。

●旅の終わり

 あわただしいが、これで旅行記はおしまい。
西浦温泉、たつき別館、『葵』にて。
2012年の英気を、ここで養う。

 はやし浩司・晃子
はやし浩司 2012−01−04

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 西浦 葵 たつき別館 西浦温泉 葵)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================


(6)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
●己こそ己のよるべ

*********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司     2月 6日号
 ================================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page018.html
★メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
★2009年、2010年、連続、カテゴリー部門・人気NO.1に選ばれました。

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●小学2年生に(かっこ)のある計算式の計算方法を教える。

5−(3−2)=4、ですね。
そんな計算式の計算法を教えてみました。

(1)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/BSP9vR55aMY" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(2)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/dbTbwbP2O3I" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

(3)
<iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/1w2kZROjnIY" 
frameborder="0" allowfullscreen></iframe>


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012−01−01夜記)

++++++++++++++++++++++++

年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。

思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。

ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。

人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。

子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。

その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。

では、私は、どうなのか?

これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。

最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。

が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。

要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。

そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。

もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。

ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。

では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。

+++++++++++++++++++++++++

【己こそ、己のよるべ論】

●ジョン・レノン

ジョン・レノンは、つぎのように言っている。

★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's Yoko's story . That's 
what I'm saying now. Produce your own dream. If you want to save Peru, go save Peru. It's 
quite possible to do anything, but not to put it on the leaders and the parking meters. Don't 
expect Jimmy Carter or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or 
Jesus Christ to come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great 
masters and mistresses have been saying ever since time began. They can point the way, 
leave signposts and little instructions in various books that are now called holy and 
worshipped for the cover of the book and not for what it says, but the instructions are all 
there for all to see, have always been and always will be. There's nothing new under the sun. 
All the roads lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You 
can wake you up. I can't cure you. You can cure you. 
……John Lennon, In Music/John Lennon 

君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。その
ことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルー
へ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パ
ーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。

ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、ある
いはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだ
よ。自分でしなければ、いけないよ。

それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼ら
はみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできる
よ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方とい
うのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。

太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のため
にはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だ
けが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)

●仏教では

 ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あたなを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中日新聞に掲載記事より

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使
った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになる
の!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを
殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を
叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その
原点をふみはずして、子育てはありえない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫し
てしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれて
いなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やして
いる。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけ
で、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」
と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するように
なる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追
い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラ
になった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗
教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を
伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブ
ッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法を
よりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や
教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダの
やり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたも
って、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、その
ことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れ
むために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書
店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き
方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそ
が、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しか
しその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、その
うちのひとつであるということは常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原
典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いて
いる。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っ
ていない。
いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。

しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。
(だからといって、仏の心に甘えてはいけないが……。)
そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分から離れたからといって、バチなど与えな
い。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしな
い。
大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだろう
か。
バチなど与えるだろうか。
ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドア
を閉ざす。
「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。
時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一
巻三二頁)と言っている。
友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて
迎えあう関係をいう。
夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。
すでにその前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。
あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。
そういう人でも、つぎの鉄則だけは守ってほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。

(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。

(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにし
てほしいということ。読んで、決して、損はない。

(02−7−24)

【注】

 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。
話し言葉のままと言ってもよい。
もともと吟詠する目的で書かれた文章である。
それが法句経の特徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解で
きる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。
寺の僧侶が読む経典にしても、ほとんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。
肝心の中国人が聞いてもわからないのだからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいな
い。
いるわけがない。

(サンスクリット語の当て字によるものというのが、その理由である。
たとえば、サンスクリット語では、「ナム」=「帰依する」、「ミョウホウ」=「不思議な」、「レンゲ」
=「因果な物語」を、それぞれ意味する。
それぞれに漢語(中国語)の漢字を当てた。

だから「南無妙法蓮華」は、「不思議な因果な物語」という意味になる。
南無も、妙法も、蓮華も、すべて当て字。)

そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうやうや
しく読みあげる。
そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。
日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそ
れ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。

中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏
教は、釈迦の説いた本来の仏教ではない)を唱えていたが、それが世界の常識。
こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本ということになる。

 たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてある
が、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。
むしろ法句経の中には、釈迦が来世を否定しているようなところさえある。
法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。
そういう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。
「チベット密教そのもの」と主張する学者もいる。

 チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりす
る。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。
みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩をたいているところを見たことがあると
思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。
釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。
外のものによって、完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。
バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッ
タ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。

 仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろ
うか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去
論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教 ダンニパダ ゴー
タマ・ブッダ はやし浩司 木片を焼いて バラモン はやし浩司 中村元 中村 元 原始仏教
 北伝仏教 大乗仏教 はやし浩司 パーリ原本協会)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2003年6月、今から9年ほど前に
こんなことを書いていた。

宗教とは何か。
それについて書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●未来と過去

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後
は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。
が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。
10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」と
いう程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。
イエス・キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベ
ット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしても
できない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまい
ということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるも
のはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 1年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

【前向きの人生、うしろ向きの人生】

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。
偉そうなことは言えない。
しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。
しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。
自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。
その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だった。
くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を5人ほど雇うほ
どまでになった。
が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで
追い込まれた。
(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから二年後に他界している。)

 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。
が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。
その人には、私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。
「母は、異常なまでにケチになりました」と。
たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出し
たという。
「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。
値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。
つぎからつぎへと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。
波があることが悪いのではない。
波がなければないで、退屈してしまう。
船が止まってもいけない。
航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。
同じところをぐるぐる回ること。
もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。
死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。
雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。
唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がいる。
しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。
いくら釣りがうまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率
を暗記しても、それがどうだというのか。
そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。
昨年、私はある会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた
女性だった。
乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。
私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。
「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。

「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばら
しい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。
しかしそういう航海からは、ドラマは生まれない。
人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。
そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。
人生の大波小波は、できれば少ないほうがよい。
そんなことはだれにもわかっている。
しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。
その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。
そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。
信仰があるから、人は信仰するのではない。
あくまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。
よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなければ、神など生まれなかった。
もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明するのだろうか。
これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。
ひょっとしたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。
しかし嘆くことはない。
そのあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。
たとえば昆虫が進化して、昆虫人間になるということも考えられる。
その可能性はきわめて大きい。
となると、その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。
隕石の衝突が恐竜の絶滅をもたらしたという。
となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。
そのときの恐竜には神はいなかったのかということになる。
数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数十万年など、マバタキのよう
なものだ。
お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。
しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。
数億年と数十万年の違いは大きい。
モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年ほど
前のこと。
たったの6000年である。
それ以前の数十万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。
この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多い。
だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。
そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書い
たのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。
(だからといって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)
仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というの
は、そういうものを期待してするものではない。

ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つ
まり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。
キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているので
は……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。
仏や神の意思ではない。
またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。
ドラマもそこから生まれる。
 
が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。
毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その一人と言ってもよい。
同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。
たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。
そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。
いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが
……)、さらに困る。
もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格
で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。

「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。
そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。

が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。
またその女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。
その女性の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。
この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。
まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。
ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。
何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないこと
と言ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。
どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。
そしてどうすれば、うしろ向きに生きなくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。
そういう人生は敗北だと思っている。
が、いつか私はそういう人生を送ることになるかもしれない。
そうならないという自信はどこにもない。
保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようにな
るかもしれない。
私とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。
歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという
間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。
しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。
生きる価値もそこから生まれる。
もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。

……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。
電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察する。
先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目
的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考え
ているのだろう」と。
そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。
その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと考えている人も多い。
中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。
クシャクシャになったオートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。

人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。
愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでし
まうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。
しかしふと油断すると、いつの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていく
のがわかる。
それは実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということ
になる。
何も考えなければ、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。
それは体の健康と同じで、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。
ゴータマ・ブッダは、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。
精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始める。
そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。
つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(以上、2003年06月13日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自分の力で生きる

 生きることは、孤独なこと。
自由に生きようと思えば思うほど、
またひとりで生きようと思えば思うほど、
孤独。

が、孤独を恐れてはいけない。
孤独であるのが、当たり前。

 最後にマザーテレサの言葉をあげる。
あのイエス・キリストも孤独だった、と。
マザーテレサは、そう説いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも
受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身
も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も
孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹というこ
とになる。

(終わりに)

 マザー・テレサのこの言葉には、本当に勇気づけられる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 孤独論 マザーテレサ hunger 渇き イエスキリスト はやし浩司 マザーテレサ
 キリストも孤独だった イエス・キリスト 孤独論 はやし浩司 マザー・テレサ)

(はやし浩司 2012−01−01夜記)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【KO氏より、はやし浩司へ】

貴兄のブログで菅前首相、吉田前工場長を絶賛されているので驚き、嬉しく思いました。
特に菅前首相は史上最悪の首相と様々な分野で評価されていますので。

私は東工大機械工学卒で菅さんの後輩、吉田さんの先輩に当たります。
菅さんも自分の行為は歴史が評価するというようなことを言っていますが、まさにそういうことに
なるのだと思います。
私は早期退職、セミリタイア状況で、技術アドバイザーとして週に2日程度活動しております。
また高校OB会の地元の会長をやって(やらされて)おります。
原発関係ではあの清水前社長や天野IAEA事務局長が、高校先輩になります。

宇宙飛行士の古川さんは後輩ですが、彼のことだけは嬉しいことでした。
環境・エネルギー関係そしてハワイについてのブログをUPしていますので、お時間のある時に
見ていただけたら幸甚です。

【GTさんから、はやし浩司へ】

はやしさん、こんばんは。
GTです。
日本はお正月ですね。
韓国は、旧正月なので、今日から普通の生活が始まっています。
はやしさんも韓国に住まれていらっしゃったんですね。
当時だったら、反日感情も大変だったのではないでしょうか?
いろんな経験をされていて、すばらしいです。
お返事ありがとうございました。

温かい無視ってそういう事だったんですね。
実際信じて待つって大変なことですよね。
義母なんかは未だにこれができなくて、息子(私のだんな)は責任感がないようです。
下の子が何かをやろうとしていると、すかさず「こうするんだよ〜」と口を出すので、下の子も
「ハルモニ(おばあちゃん)いや!」って、言います。
自力でやりたがっているので。
端から見ているとよく見えるけれど、実際私はどうなのか客観的に見てみる必要があります
ね。
基本的に待つようにしていますが、時間がかかってつい教えようとすると、怒り出してしまって、
そうなると、「あ、待っているべきだったのに」と気づくことがあります。
ほんとに子供が親を教育してくれていますね。

それから、はやしさんの「そのうちおさまってくる」という言葉を信じて、今年は下の子を保育園
に送らないと腹をくくって、関わっていこうと覚悟を決めました。
聞いてくださってありがとうございました。

にっちもさっちもいかない状態が楽になりました。
ありがとうございました。

GTより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●励まし

 私は毎日、こういう読者の方たちに支えられている。
またそれがあるからこそ、こうしてものを書くことができる。

KOさん、GTさん、ありがとうございました!
今年も、がんばります。
よろしくお願いします。

●菅直人前首相

 たいへん恥ずべきことだが、私は「菅直人前首相」を、「管直人前首相」を書いていた。
正しくは、「管」ではなく、「菅」。
KO氏は、以下の私の書いた原稿に、先に転載したコメントを寄せてくれた。
もう一度、そのとき私が書いた原稿を、掲載する。
日付は、2011年09月12日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本を救った、菅直人前首相と吉田昌郎所長

+++++++++++++++++

あの日、あのとき、菅直人前首相は、
日本を救った。
それはまぎれもない事実である。

読売新聞は、以下のように内幕を伝える。

+++++++++++以下、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

 枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所
事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発か
ら全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

 東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済
産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題
に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そ
ういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話した
という。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関
に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見
方を示した。

 菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った。

 枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人
が首相で良かった」と評価した。

+++++++++++以上、読売新聞、2011−9−12+++++++++++

●菅直人前首相の大英断

 東京工業大学出身の菅直人前首相であったからこそできた、大英断である。
もしあのとき東京電力が、福島第一原発を放棄していたら、菅直人前首相が言うように、「東
京ですら、人っ子1人、いない状態になっていた」。

 もう一度、読売新聞の記事を整理してみる。

(1)東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、
との意向を伝えられたと語った。

(2)が、東電側は、これまで全面撤退の申し出を否定している。

(3)しかし政府側は、東電側が全面撤退を申し出てきたと、全員が認識した。
いわく、『枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有して
いる。そういう言い方だった」と指摘した』と。

 つまり東電側は、そういう言い方をしてきた。
その後の東電側の動きを重ね合わせてみると、東電側は、事故直後早々と、「全面撤退」を考
えていたことがわかる。
「政府側の安全基準を満たしていたから、(私たちには責任はない)」(報道)などという発言も
そのひとつ。

(4)原発の直接責任者である吉田氏は、「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要
との見方を示した。

 これはあとになってわかることだが、吉田氏は、東電側のあいまいな指示を無視、海水を注
入しつづけ、原子炉の爆発を防いだ。
もしあの段階で、吉田氏の英断がなければ、福島第一原発は大惨事を招いていたはず。

(5)ここからがとくに重要。
読売新聞は、つぎのように伝えている。

『菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について
明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と
幹部らに迫った』と。

●福島第一原発・吉田昌郎所長

 「The Wall Street Journal」(2011年5月27日)、日本語版は、以下のように伝える。

++++++++++++以下、The Wall Street Journal++++++++++++

本社の停止命令に背いて注水を続けていた福島第1原発の吉田昌郎所長、彼の判断をどう評
価すべきか、社会人としていろいろ考えた人が多かったのではないだろうか。
同所長は、会社の命に背いて注水を続けたことに加え、その報告を怠って政府や国会を混乱
させたことの責任を問われ処分されるという話だ。
昨日、テレビに大写しになった吉田所長は、うつろな顔をしていた。
会社の判断を無視したのは確かだ。
しかし、会社の注水停止判断は、技術者なら誰でも認めるような明らかな間違いだったのだ。
確かに、もう少し早く報告できただろうという気はする。

++++++++++++以上、The Wall Street Journal++++++++++++

 この吉田氏の行為に対して、菅直人前首相は、『視察後、首相が名指しで謝意を表明したの
は東京から同行した武藤栄副社長ではなく、吉田所長だったそうだ』(日本経済新聞・4月8
日)とある。

 なお東京電力側が海水の注入をためらったのは、一度「海水」を注入すると、原子炉そのも
のが使い物にならなくなるからである。
東京電力側は、あの場に及んでも、そんなことを心配していた(?)。

●もしあのとき……

 もしあのとき菅直人前首相ならびに、吉田昌郎所長の英断がなければ、日本は完全に沈没
していた。

 事実を、よく見てほしい。

 100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を
起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。

 電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質
が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(横尾試算「原発事故」宝島社)。

 数千発分だぞ!

ちなみに、チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射性物質が放出されたという(京大グル
ープ調査。)

 が、もしあのとき福島第一原発が放棄されていたら、原子炉の爆発は避けられなかった。
それが4機+2機。
つぎつぎと爆発。

 それで計算すると、11万京ベクレルx4=44万京ベクレル(以上、瀬尾試算、「原発事故」宝
島社)
チェルノブイリの比ではない。
東京都も含めて、東北地方には、人はだれも住めなくなっていた!

 その深刻さを鑑みるにつけ、菅直人前首相、吉田昌郎所長を、日本を救った大英雄と言わ
ずして何という。
ともに東京工業大学出身であったからこそ、こうした判断ができた。
だから、枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間は
あの人が首相で良かった」と評価した。

●後書き

 やがてあの事故が、詳細に検証される日がやってくるだろう。
そしてそれがわかったとき、みな、こう言うにちがいない。

 「菅直人さん、ありがとう! 吉田昌郎さん、ありがとう!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の英雄 日本を救った2人
の英断。)

以上、2011年09月12日の原稿より

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なぜ、菅直人前首相ではだめだったのか?

 菅直人前総理大臣が、首相の座を降り、ちょうど4か月になる。
(菅直人氏は、2011年09月02日に、内閣総理大臣を辞職。)
が、この4か月、日本は、よくなったのか。
何か、変わったのか。

 現在は、野田佳彦首相が、総理大臣職を引き継いでいる。
が、私はいまだに野田佳彦首相が、どんな人物なのか、よくわからない。
顔が見えてこない。
見えてこないから、批評のしようがない。

ただここで言えることは、野田佳彦首相が、菅直人氏をやめさせてまで、首相になる価値のあ
る人物だったかどうかというになると、私はそうは思わない。

談合政治?
八方美人?
無色透明で、言葉はうまいが、中身がない?
当たり障りのない、無難政治家?
長期政権をねらっている?
こうした(?)マークを、野田佳彦首相には、10個ほど並べたい。

 これはあくまでも仮定の話だが、あの3・11震災時に、もし野田首相が事故を取り仕切って
いたとしたら、この日本はどうなっていたか。
それを想像するだけでも、ぞっとする。
東京電力と保安院の言い分に押され、福島第一原発は、放棄。
そのあと発電所はつぎつぎと爆発、メルトダウン。

 最近になって、事故直後、菅直人前首相が、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという報道
が伝わっている。
「感情をむき出しにするような人物は、首相として失格」と。

 バカヤロー!

 あの時点において、感情をむき出しにしない首相はいない。
むき出しになってくれたからこそ、東京電力側は、菅直人前首相の言うことを聞いた。
菅直人前首相の命令に従った。

 こう書くと、福島県の人たちには申し訳ない。
が、今、福島県以外の人たちが、(私たち静岡県人も含めてだが)、事故以前とほとんど変わ
りない生活ができているのは、菅直人前首相、ならびに吉田昌郎所長のおかげである。
そのことを思えば、ささいなミスや失敗など、腸から出るガスのようなもの。

 菅直人前首相は、「いつか、私の正しさは歴史が証明してくれる」というようなことを言ってい
る。
それはその通りで、その歴史は、すでに今、始まりつつある。
読売新聞(11−09−12)の記事は、それを証明する、貴重な証拠のひとつということになる。
私たちはこの事実を、後世の人たちに伝えていかねばならない。

 菅直人前首相、吉田昌郎所長、あなたがたは日本を救った、大英雄である。
大恩人である。
ありがとう!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論
 はやし浩司 菅直人首相 英雄 大英断 吉田昌郎 英雄 日本を救った恩人 福島第一原
発事故 はやし浩司 英雄 菅直人)

●GTさんへ

 GTさんは、子どもの母子分離不安について、相談してきた。
それに対して、私は2つのポイントをあげた。

(1)温かい無視
(2)求めてきたときが、与えどき、と。

 その「温かい無視」について、「では、具体的にはどうすればいいのか?」と。
それについて、GTさんには、つぎのような返事を書いた。

【はやし浩司より、GTさんへ】

GT様へ

こんばんは。

こちらは昨日まで寒くてしかたありませんでした。
韓国はもっと寒いかと思います。

「温かい無視」は、子育ての鉄則のひとつです。
要するに、子どもの側に視点を置き、子どもが親の鋭い
視線を感じないようにするということです。

どうしても今の時期は、過関心、過干渉に
なりやすいので、注意します。

子どものやりたいようにやらせながら、しかし愛情だけは
しっかりともつということです。

ラッセルは、「限度」という言葉を使いました。
「限度をわきまえろ」と。

子どもに任すところは任す。
親の思い通りにならないことについては、じっとがまんし、耐える。
その耐える部分が。愛情ということになります。

(子どもを愛するということは、つらいことですよ。)

韓国という地で、がんばっておられるGT様を尊敬します。
何かとたいへんだろうと思います。

私も1967年、交換学生として、韓国に行きました。
テグ、ソウルなどを転々としました。
ヤンセイ大学、テグ大学などなど。

男のくせに、リファ女子大学(ソウル)にも行きました。
宿舎はなんと、ナムサンにあった、(今でもあるそうですが)、
タワーホテルでした。

当時の韓国は、本当に貧しかったです。
ミョンドンの大通りも、ロープに裸電球をぶらさげただけの明かりしか
ありませんでした。

ただ、焼肉がおいしかったです。

(当時の日本人には、焼肉は高級料理で、とても食べられませんでした。)

いろいろ思い出があります。
では、

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 冒頭にあげた、GTさんからのメールは、その返事。

 GTさん、今年もよろしくお願いします。
2011年から2012年をまたいだ、もう1年のつきあいということになりますね。
では、今夜は、これで失礼します。
どうか、お元気で!

はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                     
 
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m〜= ○
.       ○ 〜〜〜\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================


(7)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
【少子化の中で、スポイルされる子どもたち】

ドラ息子、ドラ娘論byはやし浩司】

●甘やかしと、きびしさ

+++++++++++++

極端な甘やかしと、極端なきびしさ。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもを
ドラ息子、ドラ娘にする。
甘やかしにより、規範そのものが崩れる。
一方、アンバランスなきびしさが、子どもを反抗的にする。

わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、
キレる……。

+++++++++++++

 一方で甘やかす。
子どもに気を使う。
過干渉というよりは、子どもの機嫌を取る。
『子どもをだめにするためには、子どものほしがるものを何でも与えよ』という。
しかしこのタイプの親は、『子どもがほしがる前に、何でも与えてしまう』。

しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。
はじめは、小さなすき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。
(甘やかす)→(ますますきびしく接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくな
る。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。
 
 このタイプの親には、共通点がある。

(1) 溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)

(2) 育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)

(3) 飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)

(4) 視野が狭い(目先のことしか、考えていない)

(5) 見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)

(6) 代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたい)

(7) 親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)

 これらの特徴と併せて、

(8)一貫性がない。

そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびしく接したりする。

A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。

 A君の父親は、もの静かな人だった。
一方、母親は派手好き。
裕福な家庭で、生まれ育った。
ほしいものは、何でも買い与えられた。

 A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。
近くに祖父母もいて、A君の世話をした。
A君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。

 母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えてい
た。
A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。
いや、するにはしたが、とても手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげ
さに喜んでみせたり、ほめたりした。
「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。

 が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。
あと片づけをしない、ほしいものが手に入らないと、怒りを露骨に表現するなど。
母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。
A君は、それに泣いて抗議した。

 A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。
夫の収入だけでは足りなかった。
A君の母親は、実家の両親から、毎月、5〜8万円程度の援助を受けていた。
夫には内緒、ということだった。

 A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。
そのためA君の母親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。
そのころすでにA君は、オーバーヒート気味だったが、母親は、それに気づかなかった。
「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさせた。

 A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。
好き嫌いがはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。
簡単なゲームをさせても、ルールを守らなかった。
そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえしたりした。

 人格の完成度が遅れた。
他人の心が理解できない。
自己中心的。
ほかの子どもたちとの協調性に欠けた。
幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをしたが、そうでないと
きは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。

 小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。
そのころになると、母親にも乱暴を繰りかえすようになった。
母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。
ものを投げつけることも重なった。
が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。
学校の宿題をするだけで、精一杯。その宿題すら、母親に、手伝ってしてもらっていた。

 ……という例は、多い。
今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないと
いうこと。

『溺愛は、親を盲目にする』。
A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。

 こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処で
きる。
アドバイスもできる。
しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんには、問題があります」とは、
現実には、言えない。
言ったところで、そのリズム、つまり子育てのリズムを変えることは、不可能。
親にとっても、容易なことではない。
そのリズムは、子どもを妊娠したときから、はじまっている。
そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。

 が、やがて行き着くところまで、行き着く。
親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなくなる。
が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。
「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、親は親で、がんばる。

 A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。
小学5、6年になるころには、まさに王様。
食事も、ソファに寝そべって食べるようになった。
母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届けた。
母親は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与えてい
た。
「機嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。

 本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。
が、A君の父親は、静かで、やさしい人だった。
家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。
仕事から帰ってくると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
 
 ……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに
気づくか、それが大切。
早ければ早いほど、よい。
できれば3、4歳ごろには、気づく。
(それでも遅いかもしれない。)

 というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。
そのリズムを変えるのは、容易なことではない。
1年や2年はかかる。
あるいは、もっと、かかる。
さらに親自身がもつ、子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。
それこそ行き着くところまで行き、絶望のどん底にたたき落とされないかぎり、親も、それに気
づかない。

 ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのも
のを、もみ消してしまった。
あちこちを回り、お金で解決してしまった。
また別の子ども(高1男子)は、無免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。
そのときも、母親が、一晩で、事件そのものをもみ消してしまった。

こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。
で、やっとそのころになると、自分の(まちがい)に気づく。
それまでは、気づかない。
ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その1人かもしれない。
が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には関係ない」と、無視する。
これは子育てがもつ、宿命のようなもの。

 そこで教訓。

 あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。
責めるべきは、あなた自身。
反省すべきは、家庭環境そのもの。
あなたの育児姿勢。
家庭のリズム。
あなたの人生観、それに子育て観。
 子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。
なおるはずもない。
この問題は、そういう問題である。

+++++++++++++++

ドラ息子、ドラ娘について書いた
原稿を、いくつか添付します。
一部ダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++

●子どもをよい子にしたいとき
 
●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。
それを一口で言ってくれ。
私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。
「あんたの本を、何冊も読む時間など、ない」と。
私はしばらく間をおいて、こう言った。
「使うことです。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。
子どもは使えば使うほど、よくなる。
使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。
それだけではない。
忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。
「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」と。
わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。
そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教
えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、料理の手伝いはしない、食事のあと、食器を洗わ
ない。
片づけない。
シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。
朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。
つまり、「日本の子どもは何もしない」と。

反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。
「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝
っている」と。
ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。

自分のことはするが他人のことはしない。
他人は自分を喜ばせるためにいると考える。
ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。
自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。
あるいは自分より先に行くものを許さない。
いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。

目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。
あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。
生活習慣そのものがだらしなくなる。
その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。

他人に対して無礼、無作法になる。
依存心が強い割には、自分勝手。
わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。

ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。
本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。
生活への耐性そのものがなくなることもある。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。
子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。
寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。
風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。
そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。
そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。
その子どものお母さんは、こう話してくれた。
「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。
こういう子どもは、学習面でも伸びる。
なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っている
こと自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子ども
は伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。
「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。
買物といっても、食材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。
洗濯も今では全自動。
料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされると、かえってじゃま。
テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。
子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをす
ることをいう。
たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。
そしてそれをあなたの子どもが見つけたとする。
そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。
しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省
したほうがよい。
やらせることがないのではない。
その気になればいくらでもある。
食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。
そこで洗わせる。
フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出
る。
庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。
そういう雰囲気で包むことをいう。
何をどれだけさせればよいという問題ではない。
要はそういう子どもにすること。
それが、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。
子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。

(1)生活感のある生活に心がける。

ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせる。
あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意識を
もたせる。

(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。

(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。

(4)生活のルールを守らせる。

(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、

(6)バランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。

あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグにな
っている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。
チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。
ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。

●子どもの金銭感覚

 年長(6歳)から小学2年(8歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。
その金銭感覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。
が、それだけではない。
子どもはこの時期を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。
そしてそれがそれから先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、100倍して考えるとよい。
たとえば子どもの100円は、おとなの1万円に相当する。
1000円は、10万円に相当する。
親は安易に子どもにものを買い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってか
らの、1万円、10万円に相当する。
「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、
将来どうなるか。もう、言べくもない。

さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくなったが、それでも「高価なものを買って
あげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。
あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。
が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。

それだけではない。
ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。
ある子ども(小2男児)は、こう言った。
「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行ってもらう」と。
そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてしまう」と。
その子どもは、「おくれる」と言うのだ。

最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによって、自分
のステイタス(地位)を守ろうとする。
物欲の内容そのものが、昔とは違う。
変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーンが出てき
た。

援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。
「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。
しかも金銭感覚そのものが、マヒしている。
もっているものが、10万円、20万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。
あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。
1000円のものだろうか。
それとも1万円のものだろうか。
お年玉には、いくら与えるだろうか。
与えるとしても、それでほしいものを買わせるだろうか。
それとも、貯金をさせるだろうか。
いや、その前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。

どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。
5、6歳の子どもに、1万、2万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校生
や大学生になったとき、あなたは100万円、200万円のものを買い与えなくてはならなくなる。
つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。
あなたにそれだけの財力と度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめ
たほうがよい。
やがてあなたの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。
そうなればなったで、苦労するのはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。

●ドラ息子症候群

 英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。
こういう例は、教育の世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしな
いのでしょうか」は、ない。
もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小3)は、そんなタイプの子ども
だった。

 口グセはいつも同じ。
「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。
何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。
しかもそれがうるさいほど、続く。
そして自分の意にかなわないと、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。
約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってないようなもの。
他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。
「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。
バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。

こうも言った。
「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。
M君の家は昔からの地主で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。
教えることそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっ
とほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。
そうそうこんなこともあった。

受験を控えた中3のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまっ
た。
悪質な万引きだった。
それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その
夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。
そして彼が高校二2生になったある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼ん
でいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。
折ったら、ヒロシはどうする?」と。

そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその
万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
 とたん私は彼に飛びかかっていった。
結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を狂ったように責めた。
(私も全身に打撲を負った。念のため。)

「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。
が、M君の父親が、私を救ってくれた。
うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。

「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがとう」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ドラ息子

 ドラ息子かどうかは、早い子どもで、年中児の中ごろ(4歳半)前後でわかるようになる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。

また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。
友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳の
ときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

 で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂
場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。
その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、
その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが
口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、
学習面でも伸びる。なぜか。

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っている
こと自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子ども
は伸び悩む。

●補記(2012−03−02)

 ドラ息子、ドラ娘と評してよい子どもは、少なくない。
もちろん程度の差もある。
が、症状がひどくなると、少しでも自分の意に反したような状況、状態になると、はげしい(かん
しゃく発作)を引き起こす。

 かんしゃく発作そのものは、「家庭教育の失敗」(育児辞典)と、位置づけられている。
私が「失敗」と言っているのではない。
心理学や育児の辞典に、そう書いてある。
(以前、「失敗」と書いたことに対し、「他人の子育てについて、失敗とは何ごとか」と抗議してき
た人がいた。
それであえて、ここでこのように書いておく。)

 突発的に狂乱状態になり、暴れたり、暴言を吐いたりする。
親や先生に向かって暴言を吐いたり、ときには、そのまま家(教室)を出ていってしまったりす
る。

 が、そのとき2つの問題点があげられる。

(1)子ども側の問題

 親が自分の子どもをドラ息子、ドラ娘にするについて、それなりの(原因)があることが多い。
たとえばLD児であったり、自閉症であったりなど。
親がそうした子どもの問題に神経質になるのはしかたないとしても、それがときとして過剰にな
りやすい。
まさに「腫れ物に触れるような育児」を繰り返す。
気をつかい、つねに機嫌を取る。
ほんの少しでも子どもが機嫌をそこねたりすると、「ごめんね」を繰り返す。
(親が、子どもに、だぞ!)
これがもとからあった障害を、複雑化する。

(2)親側の問題

 ドラ息子、ドラ娘は、親の育児姿勢が原因である。
が、その親自身にも問題があることが多い。
情緒的な欠陥、精神的な未熟性が原因となり、過保護、過関心、溺愛へと走る。
子どもに対し、育児姿勢が極端化する。
つまりベタベタの子育てを繰り返す。
これが子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。

 で、私の経験から、こんなことが言える。

 先にも書いたように、ドラ息子、ドラ娘の問題は、子どもの問題ではない。
家庭環境の問題である。
親自身に問題があることもある。
それだけに、「子どもを直す」ということは、容易なことではない。
……というより、不可能。
家庭のリズムそのものを、変えなければならない。

 大切なことは、その前の段階で、それに気づき、子どもをドラ息子、ドラ娘にしないこと。
またそのためには、風通しのよい育児環境をもつこと。
他人の家庭をのぞき、他人の子育てを知る。
意見を聞き、参考にする。
「私の子育てがいちばん正しい」とか、「私の子どものことは、私がいちばんよく知っている」と、
豪語する親ほど、「失敗」しやすい。

 ドラ息子であるか、ドラ娘であるかは、何度も書くが、満4・5歳前後には、はっきりする。
エリクソンが説くところの、幼児期前期(自律期)までの育児環境が、決定的な影響を与える。

 なお指導の場では、ドラ息子、ドラ娘に対しては、「無視する」という方法で、対処する。
相手が幼児や小学生では、叱っても意味はない。
自分を客観的に評価する力そのものが、ない。
そのため本人自身が、それを自覚するということはない。

要するに、「わがままを言っても、無駄」という雰囲気を、少しずつ作りあげていく。
その時期は早ければ早いほどよい。
小学生になってからだと、それがその子どもの性格として定着してしまう。
さらに高学年になると、暴力を伴うようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ドラ息
子 ドラ息子症候群 スポイルされる子どもたち はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 
Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 どら息子 どら娘 どら息
子症候群 わがままな子ども はやし浩司 自分勝手 気分屋 子育ての失敗 はやし浩司 
日本の子ども 子どもは使う ドラ息子の症状 ぜいたく 機嫌)






(8)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
【弱体化する日本人の精神構造】

●夢

 映画の見すぎかもしれない。
週に1度は見ている。
そのせいか、このところ私が見る夢は、かなりアクション映画ぽい。
今朝は、こんな夢を見た。

 どこかの道を、4輪サンドバギーを、体で押しながら歩いていた。
昔の東海道。
美しい川沿いをしばらく歩いたあと、山道にさしかかった。
その向こうに、なだらかだが、一直線につづいた道が見えた。
長い道で、500メートルはあった。

 が、ふとうしろを振り返ると、1組の親子連れが歩いていた。
1人は母親。
もう1人は、その娘らしかった。
2人とも、着物を着ていた。
私はサンドバギーにエンジンをかけながら、こう思った。
乗せていってあげよう、と。
が、バックミラーを見ると、2人の姿が消えていた。

 追いはぎか何かに、誘拐されたらしい。
私はサンドバギーにまたがり、道を戻った。
案の定、そこで脇道にそれる細道が見つかった。
私はサンドバギーで、その細道を突き抜けた。

 ……しばらく行くと、空き地が見つかった。
古いお堂があった。
先ほど見た2人は、近くの大木に、縄で縛られていた。
私は懐から、ピストルを取り出した。
構えた。
バリバリと連射できる、最新型のピストルである。

 が、そこで見た男たちは、みなやさしそうな顔つきをしていた。
悪党には見えなかった。
穏やかそうな雰囲気で、石の上に座り、みなで何やら話しこんでいた。

「???」と思ったところで、目が覚めた。

●分析

 サンドバギーには乗ったことがない。
ピストルは、オーストラリアにいたころ、何度か使ったことがある。
友人が、射撃の名手で、撃ち方をときどき教えてもらった。
私は夢の中で、タイムスリップしていた。
時は、江戸時代。
あの親子は、江戸時代の人たちということになる。
その親子が誘拐された?

 ……つまりこのあたりに、私の心の問題が隠されている。
ものごとを危機的な状況の中で考えやすい。
こういう感覚を、心理学の世界では、強迫観念という。
それに持病の(?)、不安神経症がからむ。
私がいう「悪夢」というのは、それをいう。

私はほとんど毎日のように、その悪夢で目が覚める。

●週刊現代vs週刊ポスト

 週刊現代(週刊誌)と、週刊ポスト(週刊誌)の、静かな戦争がつづいている。
週刊現代は、ものごとを大げさに書く。
(私は大げさとは思っていないが……。)
3・11震災、それにつづく原発事故。
さらには、都心で予想される直下型地震、さらには経済危機、などなど。
それについて、週刊ポストは、「煽(あお)り雑誌」といって、非難している。
(週刊ポストが、週刊現代を名指しして、そう書いているわけではない。
誤解のないように!)

 煽りか、煽りでないか。
それは「現状」を見ればわかる。
だれも煽られていない。
何も煽られていない。

 むしろこの静けさのほうこそ、不気味。
そこにある危機を、見ようともしない。
あえて目を伏せる。

そういうのを知ると、私はむしろ、もっと煽ってもよいのではと考えている。
日本人はキバを抜かれてしまった。
抜かれた上、その戦い方まで忘れてしまった。
昔は「平和ボケ」と言った。
今は、「NO(脳)みそ化」(はやし浩司)という。
思考力を失ったから、NO(脳)みそ。
自分で考えない。

●菅直人前首相

 あの3・11大震災のあとのこと。
菅直人前首相は、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという。
それが今、問題になっている(?)。
「首相として、ふさわしからぬ行動だった」と。

 が、本当にそうか。
直後、福島第一原発事故が起きた。
それについて、当時官邸では、3000万人の避難計画も考えられていたという。
 
 そんな最中、冷静でいられる人などいるだろうか。
首相という責任ある立場の人物なら、なおさら。
怒鳴り散らしたといっても、自分のために怒鳴り散らしたのではない。
日本という国が、消えてしまうかもしれない。
そういう危機感があったからこそ、怒鳴り散らした。
菅直人前首相を擁護すれば、そういうことになる。

 ものごとは常に最悪のばあいを考えて、行動する。
あとは消去法的に、段階を追い、レベルをさげていく。
医師の診断法に似ている。

 もしあなたが血を吐いたとする。
そのときも、最悪の病気をまず疑う。
がんなら、がんでもよい。
が、それでないとわかれば、つぎの病気を疑う。
それを週刊ポストは、「煽り」というらしい。

●マグニチュード7?

 たとえば東京都心では、マグニチュード7の地震が心配されているという(「週刊現代」)。
だれも「マグニチュード7」という言葉を使っていない。
気象庁ですら、「そんなことは言っていない」という。
「マグニチュード6以上〜」ということで、「マグニチュード7」という言葉が生まれた。
「マグニチュード7」という地震は、最悪の地震である。

 それがもし東京都内で起きれば、東京都は壊滅的な被害を受ける。
「週刊現代」の今週号は、それを特集している。
これも「煽り」ということになる。
が、私はそうは思わない。
『備えあれば、憂いなし』。
ものごとは常に最悪のばあいを考えて、準備する。
アハハと笑っているほうが、おかしい。

●気迫

 話は少し脱線する。

 今日、日本でゆいいつ最後まで残った、半導体メーカーが倒産した。
「とうとう」と書くべきか、「ついに」と書くべきか。
が、私は驚くというより、ある種の無力感を覚えた。
30年以上パソコンとつきあってきただけに、残念でならない。
理由の第一は、韓国のメーカーとの戦いに敗れたこと。

が、こんなことは、10年前、20年前に、わかっていたこと。
迫力そのものが、ちがう。
言うなれば、日本のそれは、殿様商法。
韓国のそれは、無法地帯をいく、荒くれ商法。
もとから気迫がちがう。

●浜松

 私が浜松に移り住んだときのこと。
私はこの浜松では、値段を「値切らない」ことを知って、驚いた。
ものの売買は、定価通り。
売る方も、買う方も、定価通り。
(岐阜のほうでは、「正札(しょうふだ)」という言葉を使う。)
郷里の岐阜県では当たり前の、「駆け引き」すらしない。

 たとえば岐阜県では、こういうものの買い方をする。

私「いくら?」
店「1本、500円」
私「じゃあ、2本で、800円にしてよ」
店「それはきびしい。無理だなア〜」
私「わかった。3本まとめて買うから、1000円にしてよ」
店「……ウ〜ン、まあ、いいでしょう」と。

 最終的には、1本、333円で買い、私のほうの勝ちということになる。

 浜松の人は知らないかもしれないが、これを駆け引きという。

 そういう浜松の人は、ほかの地方から来た人から見ると、おとなしく見える。
みな、そう言う。
つまりこの日本の国内だけでも、これだけ「性質」がちがう。
中国人や韓国人から見れば、日本人は、飼いならされた羊のように見えるかもしれない。

●危機感

 いつも強迫観念をもっている私を基準にするのも、どうかと思う。
が、現在の日本人に欠けるのは、この危機感。
日本全体が、ぬるま湯につかったような状態になっている。
お人好し。
競争すら、しない。

 たとえば夜のテレビチャンネルを、あちこち押してみればよい。
たいていいつもどこかで、韓流ドラマを放映している。
半面、韓国では、日本映画にすら、いまだに規制されている。
先日もどこかのニュースサイトには、こうあった。

「日本人は、韓流スターに、莫大なギャラを払い、竹島占領の手助けをしている」と。

 飛躍した意見のようにも聞こえるが、私にはそういう日本人が、バカに見える。
ホント!

●男児の女児化

 子どもの世界でも、似たような現象が見られる。
以前、こんな子ども(小4男児)がいた。
A君としておく。

 そのA君、見るからに穏やか。
やさしい。
体格はふつう以上だが、歩き方も、どこかナヨナヨしている。
男女の逆転現象が起きるようになって、20年以上になる。
いじめられて泣くのは男児、いじめて泣かせるのは女児。
小学校の低学年児について言えば、今では常識。
そんな中にあっても、A君はさらに、「やさしかった」。

 原因は母親にあった。
過保護と溺愛、それに過干渉が、慢性化していた。
「乱暴な遊びはさせません」
「ゲーム機はもたせません」
「戦いごっこは、禁止です」と。

 一度、おもちゃの刀(プラスチック製)を見せたときのこと。
私が何かを話しかける前に、横にいた母親が、それを先に取りあげてしまった。

 が、そういう母親にかぎって、そのつど、私にこう聞いてくる。
「うちの子、どうでしょうか?」と。
たいていの親は、顔を合わせると、そう聞く。

が、これほど答えにくい質問はない。
私は「何も問題はありませんよ」と、そのつど、答えるしかなかった。
程度の差こそあれ、今、このタイプの子どもが、主流になってきている。

●タイ

 日本人の精神構造が弱体化していると感じたのは、もう20年前も前のこと。
息子と2人で、タイへ行った。
そのとき、それを感じた。

 ここには書かなかったが、その国のもつ緊張感を知りたかったら、兵士を見ればよい。
タイで見た兵士は、みな引き締まった体で、鋭い目つきしていた。
私は帰国直後、浜松の航空ショーを見に行ったのを覚えている。
そこで見た自衛官は、どの人も、ごくふつうのサラリーマンに見えた。
そのときこう思った。
「これではとても、戦争にならない」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
この(以下の)原稿をBLOGに
載せたのは、2010年となっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本人の危機意識(日本人の繁栄ボケ)

++++++++++++++++

日本は中国に抜かれて、世界第三位の
経済国になった(GDP)。
しかし国民1人当たりの所得では、
すでにシンガポールに抜かれている。
2020年ごろには、韓国にも抜かれる
だろうと言われている。

恐ろしいのは、その予想時期が、徐々に
早まっていること。
日本が中国に抜かれるのは、2015年
ごろと言われていた。
ほんの1、2年前のことである。
それが今年、つまり2010年に抜かれた。

のんきなエッセイストたちは、「生活の
中身が大切」などと言っている。
中国に抜かれても、韓国に抜かれても、
「大切なのは、生活の質」と。

こういうことばかり言っているから、日本は
どんどんと抜かれていく。
抜かれていくだけではない。
やがて食料の輸入もままならなくなるだろう。

20〜30年ほど前には、「平和ボケ」という言葉を
よく耳にした。
が、今は、「繁栄ボケ」。
「経済ボケ」でもよい。

日本の学校では、いったい、何を教えているのか?
社会科の授業で、何を教えているのか?
日本人がこの「現代」という世界で生き抜くための、
その知識と経験を教えるのが社会科の授業ではないのか。
どうすればこの先、日本が生き延びていくことができるか、
それを教えるのが社会科の授業ではないのか。

つまり日本の教育では、この部分だけが、スッポリと
抜け落ちてしまっている。
つまり危機意識が、まったくない。
愚にもつかないような「知識」だけを、一生懸命、
子どもの頭の中に、詰め込んでいる!

その結果が、今。
今年は去年以上に、就職難という。
学生たちが就職先を求めて、右往左往している。
が、考えてみれば、こんなバカげた世界は、日本を
おいて、ほかにない。

就職先がなかったら、自分で仕事を作ればよい。
それこそリヤカーでも引いて、自分で稼げばよい。
私は、そうしたぞ!
リヤカーを引いて、ある画家の絵を売り歩いたぞ!
つまりそういうたくましさが、ない。
仕事はもらうものと思っている。
与えられるものと思っている。

加えて、「外国へ行きたくない」という若者が多いのには、
驚いた。
日本人全体が、ものの考え方が内向きになってしまった。
こういうときだからこそ、仕事を求めて、ブラジルや
インド、シンガポールへ飛び出して行けばよい。
中国でも韓国でもよい。

飽食とぜいたく。
それに少子化。
日本の若者たちが、キバを抜かれてしまった。
今では天下国家を論ずる若者は、ほとんどいない。
大学生でもいない。

その理由はといえば、すべて教育にある。
以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

+++++++++++++++++

今からちょうど10年前、2000年ごろに書いた原稿です。

この中で、1人の女子学生が、つぎのように述べていることに注目してほしい。
人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。
私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」(中日新聞投稿欄)と。

+++++++++++++++++

●日本の将来を教育に見るとき 

●人間は甘やかすと……?

 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強
で苦労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさが
すヒマもない。
(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。
また別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。
私たちは言われるまま、まじめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。
人間は甘やかすと、ここまで言うようになる。

●最後はメーター付きのタクシー

 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことが
ある。
息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。
それはちょうど四〇年前の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。
あの国では誰もがギラギラとした脂汗を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。
若者とて例外ではない。
タクシーの運転手がこんな話をしてくれた。

若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。
そしてそれで白タク営業をする。料金はその場で客と交渉して決める。
そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、それでお金をためる。
さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼ぐ。
最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。

●日本には活気があった

 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれ
ていた。
子どもたちとて例外ではない。
私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行った。
そこでその磁石で金属片を集める。
そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。
それが結構、小づかい稼ぎになった。
父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。
が、今の日本にはそれはない。
「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私のところへやってきて、私とこん
な会話をした。

学「どこか就職先がありませんか」、
私「君は何ができる?」、
学「翻訳ぐらいなら、何とか」、
私「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか
書いてくれば、仕事が回ってくるかもしれない」、
学「カッコ悪いからいやだ」、
私「なぜカッコ悪い?」、
学「恥ずかしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」

 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。
「恥ずかしい」と言う。
結局その学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることにな
った。
もちろんその費用は親が出した。

●子どもを見れば、未来がわかる

 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。
言いかえると、今の日本の若たちを見れば、日本の未来がわかる。
で、その未来。
最近の経済指標を見るまでもない。
結論から先に言えば、お先まっ暗。
このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国になってしまう。
いや、おおかたの経済学者は、二〇一五年前後には、日本は中国の経済圏にのみ込まれて
しまうだろうと予想している。

事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くなっている。
たとえばアメリカでは、今では日本の経済ニュースは、シンガポール経由で入っている(NB
C)。
どこの大学でも日本語を学ぶ学生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえている(ハー
バード大学)。
私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎた。
そのツケを払うのは、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことなの
か。
私たちが子どものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようとして
いる。

(参考)

●日本の中高生は将来を悲観 

 「二一世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。

日韓米仏四カ国の中高生を対象にした調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をし
ていることが明らかになった。
現在の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで
生きること」。
学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で
最低だった。

 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが二〇〇〇年七月、東京、ソウル、ニュー
ヨーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。

「二一世紀は希望に満ちた社会になる」と答えたのは、米国で八五・七%、韓仏でも六割以上
に達したが、日本は三三・八%と際立って低かった。
自分への満足度では、米国では九割近くが「満足」と答えたが、日本は二三・一%。
学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低だった。

 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。
米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。
人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名
誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)だった。

 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が二〇・二%だ
ったのに対し、米国は七八・八%。
「国のために貢献したい」でも、肯定は日本四〇・一%、米国七六・四%と米国の方が高かっ
た。
ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利益よりわが国の利益がもっと重要
だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なことも浮かんだ。

 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。
将来の夢や希望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。
一九八〇年代からの傾向で、豊かになったことに伴ったのだろう」と分析している。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●10年前

 10年前(2000年ごろ)に私が書いた原稿を、どうか読み直してみてほしい。
そしてそれから10年。
何が変わったか?
日本が、その結果、どうなったか?
そういう視点で、もう一度、読み直してみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本人の危機意識 社会の責任 繁栄ボケ 経済ボケ 危機感 はやし浩
司 タイ ギラギラ 日本人の弱体化)
2010年9月13日記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●希望する職種

 先に日本青少年研究所の調査結果をあげた。
その中にこうある。

「 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。
米国は医師や政治家、フランスは弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。
人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽しむ」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名
誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三二・四%)だった」と。

 この結果を、もう少しわかりやすくしてみる。

【希望する職業】

日本……公務員や看護士
アメリカ……医師や政治家
フランス……弁護士
韓国……医師や先端技術者

【人生の目標】

日本……人生を楽しむ(61・5%)
アメリカ……地位と名誉(40・6%)
フランス……円満な家庭(32・4%)

 これだけ見ても、これからの日本がどうなるか、おおかたの予想がつく。


(9)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
●天皇の元首制について

【橋下大阪市長の船中8策について、考える】はやし浩司 2012−03−10

(1)天皇元首制
(2)道州制
(3)明治維新の位置づけ

●つぎは、YOUTUBE1万本!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

YOUTUBEへの動画アップ数が、3500本を超えた。
3500本!
どういうしくみになっているかは、わからない。
しかしそれだけの動画を、YOUTUBEは、無料で、保存、配信してくれる。
YOUTUBEという会社には、どんなコンピューターが置いてあるのか。
1本を、1GBとしても、1GBx3500=3500GB=3・5テラバイト!
私の分だけで、3・5テラバイト!
すごいことだと思う。

……というか、どういうしくみになっているのか。
どういうしくみで、動画を保存しているのか。
YOUTUBEという会社は、本当に不思議な会社だと思う。

おかげで……というか、今では全世界から、アクセスがある。
YOUTUBEでは、過去30日分のアクセス数が、国別で示される。
それによれば日本が一番多いが、ついでアメリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジル、フラン
ス、台湾……とつづく。
国内、半分、外国、半分……といったところ。

で、外国の人たちは、主に、私の動画を、日本語の勉強に使っているよう。
フランスで教師をしている人からは、「方法をまねさせてもらっている」というメールが、届いた。
また中国の人からは、「息子の家庭学習に利用させてもらっている」というメールが、届いた。
そういったメールや動画は、そのつど「BW公開教室」のほうで、紹介させてもらっている。
興味のある人は、そちらのほうを見てほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『シャーロック・ホムズ』

 夕方、時間が空いた。
それを計算しながら、ワイフがこう言った。
「映画、見に行かない?」と。

 即座にOK!
このところワイフは、帳簿の整理で忙しい。
昨夜も、徹夜だった。
その気分転換。

 で、今日から公開された、『シャーロック・ホームズ』を見てきた。
このシリーズは、すべて見ている。
取って付けたような謎解き映画だが、それが結構、おもしろい。
星はすこしきびしく、3つの、★★★。

●3500本!

 で、再び、YOUTUBEの話。

 動機や理由はともかくも、3500本という数字には、まちがいはない。
いつの間にか、その数になった。
が、この先も、どんどんとふえていく。(……UPしていく。)
今の仕事をつづけているかぎり、ふえていく。(……UPしていく。)

 授業参観に来られない親たちのために、そうしている。
「宣伝」という意識は、もうない。
考えるとしたら、自分の死後。
「死んでも残るだろうか?」と。

 しかしこういうことは言える。
日本人よ、もっと目を日本の外に向けよう。

●NHK

 NHKの音楽番組に、たとえば「♪みんなの歌」や「♪名曲アルバム」がある。
ときどきそういう番組の一部が、YOUTUBEにUPされる。
が、ことNHKに関していうなら、即、削除される。……されてしまう。
実際には、NHKがYOUTUBEに抗議し、YOUTUBEのほうからユーザーに削除させているよ
う。
たいてい1か月もたたないうちに、「NHKからの申し立てにより……削除されました」という表示
が出る。

 著作権法というものがあるかぎり、これはやむを得ない措置かもしれない。
しかし、私にはどうしても納得できない。

 それがわからなければ、世界地図を見てほしい。
そこにある日本は、小さい。
本当に小さい。
島国。
私がはじめてオーストラリアへ行ったときのこと。
こんなことがあった。

 オーストラリアの学生たちが、私にこう聞いた。
「君は、どの島から来たのか?」と。

 そこで私はムッとして、こう答えた。
「島ではない。本州(メイン・コンチネント)だ」と。
そしたらまわりにいた学生たちが、ドッと笑った。
私が冗談か何かを言ったと思ったらしい。
(私は本気だったが……。)

 が、やはり日本は島国だった。
小さな島国だった。
その島国の放送局。
その放送局が著作権をもつ音楽。
そんなものを、いちいち著作権がどうのこうのといって、削除しているほうが、おかしい。
むしろ逆で、多少の著作権侵害程度のことには目を閉じ、日本の音楽を、世界に紹介したほう
が得。
日本という国を、世界に知らしめる。
その方が、得。

世界の人口は、日本の60倍!
60倍だぞ!
日本の国内で、クギ(頭)の叩きあいをして、どうする。
どうなる。

 逆に、この日本国内には、世界中の音楽が、怒涛のごとく流れ込んできている。
このままだと日本の文化は、どんどんと隅に追いやられるだけ。

●ケツの穴

 半々とはいえ、私の動画は、外国の人たちが見ている。
YOUTUBEは、つねに世界が相手。
きれいごとを言っていたのでは、世界に勝てない。
日本ではまだ少ないかもしれないが、すでに学校単位で、1000本以上もの動画をUPしてとこ
ろは、いくらでもある。
大学によっては、すべての講義を録画、UPしているところもある。

 結論から先に言えば、どうして日本人は、こうまで出るクギ(頭)を叩きたがるのか?
日本のような小さな国の中で、足の引っ張りあいをしている。
私はそういう人を、子どものころ、こう言った。
「ケツの穴が、小さい」(失礼!)と。

 さらに言えば、学校にしても、塾にしても、私のように、ビデオで授業を録画し、それをYOUT
UBEにUPしたらよい。
みなが、無料で、それぞれの授業を家庭で受けることができるようになる。
まさにインターネット・スクール!
授業料をとり、教室の中だけで授業をするという時代は、そろそろ終わりにきている。

●島国根性

 つまりこの問題は、日本人が民族的にもつ「島国根性」と密接にからんでいる。
「おらが島国の、お山の大将」。
こんなきれいごとばかり言っているから、日本はどんどんと遅れていく。
日本から技術が流出していく。
人材も去っていく。

 私も三井物産、元社員。
日本の外では、食うか食われるか。
血みどろの戦いが、繰り広げられている。
それが世界。

 一方、私は30年以上も前から、教育改革を訴えてきた。
たとえば当時ですらも、小学校入学直後には、ほとんどの子どもたちは、「算数、好き」と言っ
ていた。
が、1年もたたないうちに、ほとんどの子どもたちは、「算数、嫌い」と言い出す。
中学で学ぶ、英語にしても、そうだった。
が、この現実は、今も、同じ。
何も変わっていない。

 何かが、おかしい。
何かが、まちがっている。
が、それを具体的に訴える場所がなかった。
市販の教材を制作するという方法もあったが、それにも限界があった。
(無数の市販教材を世に出してはきたが……。)
で、今は、YOUTUBEということになった。
YOUTUBEを使えば、東京という関所を通らなくても、直、世界に、自分のしていることを伝え
られる。

 現在、私がYOUTUBEで紹介している「公開教室」は、教材からして100%、私のオリジナ
ルである。
学校の授業を、先取りしているものは、ほとんどない。
まねをしているものも、ほとんどない。
逆に、学校の方が、まねをしている。
そういう例は、多い。

 とにかく、1万本が目標!
やるしかない!

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【維新の会について、考える】

●「維新」という言葉にだまされてはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 「維新」というと、何やら「革命的なもの」を連想する。
が、「維新」は革命でもなんでもない。
その言葉に酔ってはいけない。
だまされてはいけない。

 英語では「明治維新」は、「Meiji Restoration」と訳されている。
ルイ18世の王政復古と同列に考えられている。
つまり「明治・王政復古」。
「王政(天皇制)への復古」を、「維新」という。

 橋下大阪市長は、はたしてジャンヌダルクの再来なのか。
それともヒットラーの再来なのか。

私たちはここで今一度、冷静にならなければならない。
盲目的な追従こそ、危険。
時期が時期だけに、危険。
橋下大阪市長は、いったいどういう人物なのか?

 それを判断する前に、もう一度、自分の頭の中を整理してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●天皇元首制

 橋下大阪市長は、「天皇を元首に」と考えているらしい。
元首?

●天皇制について

 少し前(2011年の末)、こんな原稿を書いた。
それをそのまま紹介する。
当時は、「女性天皇」が、話題になっていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●女性天皇

 週刊誌(新聞広告)は、相変わらず女性天皇の問題について論じている。
すでに国民の70%以上(各種世論調査)が、女性天皇を支持している。
が、ここで重要なのは、天皇自身の意思。
天皇自身はどのように考え、願っているのか。
私たちはもう少し天皇の気持ちを、大切にすべきではないのか。

 即位に際しても、そうだ。
日本国の象徴であるということは、想像を絶する重責である。
そんな重責を、天皇自身の意思を無視したまま、一方的に押しつけるのも、どうか。
あるいは一度でも、「重責を担(にな)っていただけますか」と、天皇に聞いたことがあるのだろ
うか。
それもしないで、外野席だけが、ワイワイと勝手に騒ぐ。
ワイワイと騒いで、「これが結論です」と、一方的に天皇家の人たちに、押しつける。
天皇にしても、天皇である前に、1人の人間としての「人権」がある。
その人権を踏みにじりながら、後継問題を論じて、どうする?
どうなる?

 さらに一歩踏み込めば、こうも言える。
「どうして日本人は、こうまで『格式』にこだわるのか」と。
今は、もう、そんな時代ではない。
もっと皆が、(もちろん天皇家の人たちも含めて)、自由に自分の意見を言い、したいようにす
る。
その結果としてなら、女性天皇が誕生しても、何もおかしくない。
国民も、(もちろん私も)、喜んでそれを支持する。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育
評論 はやし浩司 沼津 第三十八番地 丸天 はやし浩司 三島 ドーミンイン・ホテル は
やし浩司 リビドー 性的エネルギー 心的エネルギー 天皇の人権 皇室問題 はやし浩司 
天皇 天皇の意思 女性天皇 皇位継承問題)2011/12/08記

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

似たような内容だが、2010年にも
こんな原稿を書いていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●北朝鮮

 北朝鮮では、どうやら三代目独裁者が決まりつつある。
それについて、韓国や中国につづいて、アメリカまでもが、「おかしい」と
言い出している。

「世襲で指導者を決めるのは、おかしい」と。
(中国は「認める」というような発言を繰り返しているが・・・。)

 が、この日本は、ただひたすら沈黙。
何しろこの日本には、天皇制という制度がある。
へたに「おかしい」と言おうものなら、世界中から、「じゃあ、お前のところは何だ!」とやり返さ
れてしまう。
だから沈黙。
沈黙あるのみ。

 ただこういうことを書いても、この日本では公開処刑になることはない。
一応の言論の自由は、保障されている。
が、北朝鮮でこんなことを書けば、即、公開処刑。

しかしたった65年前には、そうでなかった。
天皇制を批判しただけで、即、投獄。
獄死する人も、少なくなかった。
ひょっとしたら、つぎの65年後には、またそうなるかもしれない。
それを忘れてはいけない。

●天皇制について

 もう少し、自分のことを書く。

 田舎の小さな自転車屋だったが、3代つづいた「本家」。
そのせいもあって、昔から、私の家は、「林家」と、「家(け)」がつけられていた。
大正時代の昔のことは知らない。
しかし私が中学生のころには、斜陽の一途。
家計はあってないようなもの。

 最近になって私の実家が、伝統的建造物に指定されたとか。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物として残したわけではない。
改築したくても、その資金がなかった。

 が、その社会的負担感には、相当なものがある。
「お前は、林家の跡取りだから、しっかりと責任を果たせ」と。
だから結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り続けてきた。
当時はまだ、そういう時代だった。

 で、この話と天皇制とどう関係があるか?

 つまり天皇もたいへんだろうな、ということ。
まわりの人たちは、「天皇だから幸福なはず」という『ハズ論』だけで片づけてしまう。
しかし当の天皇自身はどうなのか。
皇族の人たちは、どうなのか。
その社会的負担感には、相当なものがあるはず。
街の中を、ひとりで自由に歩くこともできない。

 「生まれながらにして天皇」というのは、かわいそうというより、酷。
自分の人生を自分の意思で生きることができない。
つまり私が書きたいのは、こういうこと。

一度は、天皇や皇族の人たちにこう問うてみる。
「たいへんな重責とは思いますが、引き受けていただけますか?」と。
そのとき天皇が、「いいですよ」と言えば、それでよし。
しかしそうでなければ、別の生き方をみなで、用意する。
私は何も、天皇制に反対しているわけではない。
天皇個人の人格と人権に、もっと配慮してもよいのではと考えている。
(以上、2010年10月27日記)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●世界の皇族たち

 学生時代、私は、世界の皇太子や王子と同じカレッジで過ごしたという経験がある。
1庶民としては、稀有な経験をさせてもらった。
そういう経験を、「世にも不思議な留学記」として、発表した(中日新聞)。
そのときの原稿を、そのままここに載せる。

皇族(王族)と呼ばれる人たちの気持ちを理解する、その手掛かりにはなるのではないか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

隣人は西ジャワの王子だった【1】

●世話人は正田英三郎氏だった

 私は幸運にも、オ−ストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究生
活を送ることができた。

 世話人になってくださったのが正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。

 おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。私の寝泊りした、インター
ナショナル・ハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。
西ジャワの王子やモ−リシャスの皇太子。
ナイジェリアの王族の息子に、マレ−シアの大蔵大臣の息子など。
ベネズエラの石油王の息子もいた。

 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。
「インドネシア語か、それとも家族の文字か」と。

 「家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあった。
また「マレ−シアのお札には、ぜんぶうちのおやじのサインがある」と聞かされたときにも、驚い
た。
一人名前は出せないが、香港マフィアの親分の息子もいた。
「ピンキーとキラーズ」(当時の人気歌手)が香港で公演したときの写真を見せ、「横に立ってい
るのが兄だ」と笑った。

 今度は私の番。
「おまえのおやじは、何をしているか」と聞かれた。
そこで「自転車屋だ」というと、「日本で一番大きい自転車屋か」と。
私が「いや、田舎の自転車屋だ」というと、「ビルは何階建てか」「車は、何台もっているか」「従
業員の数は何人か」と。

●マダム・ガンジーもやってきた

 そんなわけで世界各国から要人が来ると、必ず私たちのハウスへやってきては、夕食を共に
し、スピ−チをして帰った。
よど号ハイジャック事件で、北朝鮮に渡った山村政務次官が、井口領事に連れられてやってき
たこともある。

 山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンに来ていた。
その前年にはマダム・ガンジ−も来たし、『サ−』の称号をもつ人物も、毎週のようにやってき
た。
インドネシアの海軍が来たときには、上級将校たちがバスを連ねて、西ジャワの王子のところ
へ、あいさつに来た。
そのとき私は彼と並んで、最敬礼する兵隊の前を歩かされた。

 また韓国の金外務大臣が来たときには、「大臣が不愉快に思うといけないから」という理由
で、私は席をはずすように言われた。
当時は、まだそういう時代だった。
変わった人物では、トロイ・ドナヒュ−という映画スタ−も来て、一週間ほど寝食をともにしてい
ったこともある。
『ル−ト66』という映画に出ていたが、今では知っている人も少ない。

 そうそう、こんなこともあった。たまたまミス・ユニバースの一行が、開催国のアルゼンチンか
らの帰り道、私たちのハウスへやってきた。
そしてダンスパ−ティをしたのだが、ある国の王子が日本代表の、ジュンコという女性に、一目
惚れしてしまった。
で、彼のためにラブレタ−を書いてやったのだが、そのお礼にと、彼が彼の国のミス代表を、
私にくれた。

 「くれた」という言い方もへんだが、そういうような、やり方だった。
その国では、彼にさからう人間など、誰もいない。
さからえない。
おかげで私は、オ−ストラリアへ着いてからすぐに、すばらしい女性とデートすることができた。
そんなことはどうでもよいが、そのときのジュンコという女性は、後に大橋巨泉というタレントと
結婚したと聞いている。

 ……こんな話を今、しても、誰も「ホラ」だと思うらしい。
私もそう思われるのがいやで、めったにこの話はしない。
が、私の世にも不思議な留学時代は、こうして始まった。一九七〇年の春。
そのころ日本の大阪では、万博が始まろうとしていた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

アン王女がやってくる!【6】

●セントヒルダでのダンスパーティ
 
 暑さがやわらいだある日。ビッグニュースが、ハウスを襲った。

 エリザベス女王が、アン王女を連れて、メルボルンへやってくるというのだ。
しかもアン王女が、セントヒルダ(女子)カレッジで、ダンスパーティをするという。

 オーストラリアの学生たちは、「ぼくが、アンをものする」と、それぞれが勝手なことを言い始
めた。
アン王女はそのときハイティーン。
美しさの絶頂期にあった。

 しかし、そのうち、セントヒルダへ行けるのは、限られた人数であることがわかってきた。
今度は、誰が行けるか、その話題でもちきりになった。
が、結局は、行けるのは、王族や皇族関係者ということになってきた。

 私にも寮長のディミック氏から打診があったが、断るしかなかった。
だいたいにおいて、ダンスなど知らない。
一度、サウンド・オブ・ミュージックという映画の中で、その種のダンスを見たことがあるだけ
だ。
それに衣装がなかった。

 それまでもたびたびハウスの中で、夜会(ディナーパーティ)はあったが、私は、いつも日本の
学生服を着て出席していた。
日本を離れるとき、母が郷里の仕立て屋でスーツを作ってくれたが、オーストラリアでは、着ら
れなかった。
日本のスーツは、何と表現したらよいのか、あれはスーツではない。
毛布でつくったズタ袋のような感じがした。

 その日の午後。選ばれた学生は、うきうきしていた。
タキシードに蝶ネクタイ、向こうではボウタイと呼んでいたが、それをしめたりはずしたりして、
はしゃいでいた。
五、六人の留学生に、同じ数のオーストラリア人の学生。

 留学生はともかくも、オーストラリア人の学生は、皆、背が高くハンサムだった。
体をクルクルと丸めてあいさつをする、あの独特のあいさつのし方を、コモンルームで何度も
練習していた。
「王女妃殿下様、お会いできて、光栄に存じます」とか。
人選からはずされた連中は連中で、「種馬どもめ」と、わざと新聞で顔を隠して、それを無視し
ていた。

 そのとき仲のよかったボブが、横から声をかけてくれた。

「ヒロシ、お前は行くべきだ。イギリスなど、日本の経済協力がなければ、明日にでも破産する」
「ああ、しかしぼくには、あんな服がない……」
「服? ああ、あれね。あれは全部、貸衣装だ。知らなかったのか。コリンズ通りへ行けば、いく
らでも借りられる」
「貸衣装?」
「そうだ。今度、案内するよ」
「ああ、君の親切に感謝する」と。

●そしてエリザベス女王は帰った……

 夜になって、ローヤルパレードの通りを歩いてみた。いつものように静かだった。
特に変わったことはなかった。
行きつけのノートン酒場も、ふだんのままだった。
いつもの仲間が、いつものようにビールを飲んでいた。

 途中、セントヒルダカレッジのほうを見ると、カレッジ全体に、無数のライトがついていた。
それがちょうどクリスマスツリーのように輝いていた。
私はそれを見ると、何か悪いことをしたかのように感じて、その場をそそくさと離れた。

 その翌日の夕方。
エリザベス女王とアン王女は、メルボルンを離れた。カレッジから少し離れたミルクバーのある
通りが、その帰り道になっていた。
私たちはその時刻に、女王が通り過ぎるのを待った。

 夕暮れがあたりを包んでいた。
暗くはないが、顔がはっきり見える時刻でもなかった。
女王は大きなオープンカーに乗って、あっという間に、通り過ぎていった。
本当に瞬間だった。
と、同時に、女王の話も、アン王女の話も、ハウスから消えた。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

王子の悩み【11】

●王子や皇太子は皆、偽名!

 ハウスの留学生は、各国の皇太子や王子、あるいは、皇室や王家の子息ばかりだった。
ほかの連中は、その国のケタはずれの金持ちばかり。
このことは前にも書いた。

 しかし日本へ帰国したあと、その国から来た人に、そういう男を知っているかと聞いても、皆、
「知らない」「そんな男はいない」と言う。
そんなはずはない。
そこである日、それも五年ほどもたってからのことだが、同じハウスにいたオーストラリアの友
人にそのことを聞くと、こう教えてくれた。

 「ヒロシ、君は知らなかったのか。彼らは皆、偽名を使っていた」と。
つまり警護上の理由で、ハウスでは、偽名を使っていたというのだ。
しかも私が彼らの仲のよい友人だと思っていた男たちは、友人ではなく、それぞれの国の大使
館から派遣された、護衛官であったという。

 もちろん私は本名で通した。
護衛官など、私にはつくはずもない。
が、こんなことがあった。

 ハウスでは、毎晩二人一組で電話交換をすることになっていた。
外からかかってきた電話を、それぞれの部屋につなぐ係だ。
その夜は、私とM国の王子が当番になっていた。
しかし彼は約束の時間になっても来なかった。

 そこで私は彼の部屋に電話をつなぎ、「早く来い」と命令をした。
しかしやってきたのは、彼の友人(あとで護衛官とわかった男)だった。
私は怒った。
怒ってまた電話をつなぎ、「君が来るべきだ。
代理をよこすとは、一体、どういうことだ」と叱った。

 やがて「ごめん、ごめん」と言ってその王子はやってきたが、それから数日後のこと。
その友人が私の部屋にやってきて、こう言った。
「君は、わが国の王子に何をしているのか、それがわかっているのか。
モスリム(イスラム教)には、地下組織がある。
この町にもある。
じゅうぶん気をつけろ」と。
その地下組織では、秘密の裁判はもちろんのこと、そこで有罪と決まると、誘拐、処刑まです
るということだった。

 その王子。
どういうわけだか、私には気を許した。
許して、いろいろなことを話してくれた。彼の国では、日本の女性とつきあうことが、ステータス
になっているとか、など。
夜遊びをしたこともある。
モグリの酒場に忍び込んで、禁制の酒を一緒に飲んだこともある。

 が、一見、華々しく見える世界だが、彼は、王子であるがゆえに、そこから生ずる重圧感にも
苦しんでいた。
ほんの一時期だけだったが、自分の部屋に引きこもってしまい、誰にも会おうとしなくなってし
まったこともある。
詳しくは書けないが、たびたび奇行を繰り返し、ハウスの中で話題になったこともある。

●「あなたはホテルへ帰る」

 そうそう私が三〇歳になる少し前のこと。
私は彼の国を旅行することになった。
旅行と言っても、ほんの一両日、立ち寄っただけだが、彼が王族の一員として、立派に活躍し
ているのを知った。
街角のところどころに、王様と並んで、彼の肖像画がかかげられていた。

 それを見ながら、私がふと、タクシーの運転手に、「彼はぼくの友だちだ」と言うと、運転手は
こう言った。
「王子は、私の友だち。あなたの友だち。みんなの友だち」と。
そこで私が「彼と一緒に勉強したことがある」と言うと、「王子は、私とも勉強した。あなたとも勉
強した。みんなと勉強した」と。

 そこでさらに私が、「彼の家へ連れていってほしい。彼をびっくりさせてやる」と言うと、「あなた
はホテルへ帰る。私は会えない。あなたも会えない。誰も会えない」と。
まったく会話がかみ合わなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ルイス・アレキサンドリア【17】

●ハウスでのパーティ

 話が前後するが、私がハウスへ入ったちょうど、その夜のこと。
ハウスでダンスパーティがあった。
私にすれば、右も左もわからないというような状態だった。

 私はミスインターナショナルの一行だと聞いていたが、ミスユニバースだったかもしれない。
一九七〇年のはじめ、アルゼンチンのブエノスアイレスであったコンテストだ。

 その一行が、ハウスへやってきて、ダンスパーティを開いた。
その中に「ジュンコ」という日本の女性もいた。その女性はその後、大橋巨泉というテレビタレ
ントと結婚したと聞いているが、それはともかくも、その夜にルイスに会ったわけではない。
その翌日の夕方、インドネシアの西ジャワの王子が、ルイスを私に紹介してくれた。

 私はもともと、もてるタイプの男ではない。
どこから見ても、おもしろくない顔をしている。
背も低い。
メガネもかけている。
その上、まだ言葉もじゅうぶん、話せなかった。

 その私がルイスと、それから一週間の間、毎日、デートを繰り返した。
今から思うと不思議な気がする。
現実にあったことというよりは、夢の中のできごとという感じがする。
いつも誰かが車で私たちをあちこちへ案内してくれていた。
だれの車だったか、どうしても思い出せない。

 王子の車だったかもしれない。
運転してくれていたのは、多分、インドネシアの大使館の館員だったと思う。
私たちはその車で、インドネシアレストランへ行ったり、美術館を回ったり、スライドパーティに
行ったりした。
スライドパーティというのは、誰かが外国を旅行した際に撮ってきたスライドを、見せてくれると
いうパーティだった。

●ルイス・アレキサンドリア

 ルイスは背が高く、美しい人だった。
ただ当時の私は、そういう女性の美しさを理解するだけの「力」がまだなかった。

 金沢の下宿を飛び出して、まだ一週間もたっていなかった。
写真ですら、そういう女性を見たことがない。
だから私はルイスに圧倒されるまま、つまり何がなんだかわからないまま、デートを重ねた。
私にしてみれば、観光気分だった。

 しかもルイスが私に親切だったのは、それは彼女のボランティア精神によるものだと思ってい
た。
が、一週間たち別れるとき、ルイスは、私の目の前でスーッと涙をこぼした。
そしてそのとき、ルイスは、私に一本の金色のかんざしをくれた。
コンテストでもらった賞品だと、ルイスは言った。
私はそれに戸惑ったが、それほど深く考えなかった。少なくとも私は笑って、ルイスと別れた。

 ルイスはインドネシアへ帰ってから、数回手紙をくれたが、私は返事を書かなかった。
毎日が嵐のように過ぎていく中で、やがて私はルイスのことを忘れた。
が、ある日。
半年ぐいらいたってからのことだが、自分の部屋で何もすることもなくぼんやりしていると、引き
出しの中に、そのかんざしがあるのがわかった。

 私はそのかんざしを手にとると、どういうわけだか、そのかんざしをナイフで削りはじめた。
キラキラと金色に輝くかんざしだった。
私はメッキだとばかり思っていた。
が、いくら削っても、その金色の輝きは消えなかった。

 私はそれを知ったとき、何とも申し訳ない気持ちに襲われた。
私はルイスの心を、もてあそんだのかもしれない。
当時の私は自分の心がどこにあるかさえわからないような状態だった。
静かに女性の心を思いやるような余裕は、どこにもなかった。
そんな思いが、心をふさいだ。

 ルイス・アレキサンドリア。
これは彼女の実名だ。

 彼女は当時、ジャカルタの旅行代理店に勤めていた。
もしルイスの消息を知っている人がいたら、教えてほしい。
あるいはもしルイスを知っている人がいたら、「あのときのヒロシは、今、浜松に住んでいる」と
伝えてほしい。
今度は、私が、日本料理をごちそうする番だ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

非日常的な日常【19】
 
●ケタ違いの金持ちたち

 王族や皇族の子弟はもちろんのこと、公費留学生は別として、私費で留学してきたような連
中は、その国でもケタ違いの金持ちばかりだった。

 アルジェリアのレミ(実名)、ベネズエラのリカルド(実名)などは、ともにその国の石油王の息
子だった。
フィージーから来ていたペイテル(実名)もそうだった。
しかしその中でも異色中の異色は、香港から来ていたC君という学生だった。
実名は書けない。
書けないが、わかりやすく言えば、香港マフィアの大親分の息子ということだった。

 彼の兄ですら、香港の芸能界はもちろんのこと、映画、演劇などの興行を一人で牛耳ってい
た。
ある日C君の部屋に行くと、彼の兄が「ピンキーとキラーズ」(当時の日本を代表するポップシン
ガー)や布施明と、仲よく並んで立っている写真があった。
彼らが、香港で公演したときとった写真ということだった。

 いつかC君が、「シドニーにも、おやじの地下組織がある。何かあったら、ぼくに連絡してくれ」
と話してくれたのを覚えている。

●インドネシア海軍の前で閲兵

 こういう世界だから、日常の会話も、きわめて非日常的だった。
夏休みに日本でスキーをしてきたという学生がいた。
話を聞くと、こう言った。

 「ヒロシ、ユーイチローを知っているか」と。
私が「ユー……」と口ごもっていると、「ユーイチロー・ミウラ(三浦雄一郎、当時の日本を代表
するスキー選手)だ。ぼくはユーイチローにコーチをしてもらった。君はユーイチローを知ってい
るか?」と。
しかも「日本の大使館で大使をしている叔父と、一緒に行ってきた」などと言う。

 そういう世界には、そういう世界の人どうしのつながりがある。
そしてそういうつながりが、無数にからんで、独特の特権階級をつくる。
それは狂おしいほどに甘美な世界だ。

 一度、ある国の女王が、ハウスへやってきたことがある。
息子の部屋へ、お忍びで、である。
しかしその美しさは、私の度肝を抜くものだった。
私は紹介されたものの、言葉を失ってしまった。
「これが同じ人間か……」と。

 あるいはインドネシア海軍がメルボルン港へやってきたときのこと。
将校以下、数一〇名が、わざわざバスに乗って、西ジャワの王子のところへ挨拶にやってき
た。
たまたま休暇中で、ハウスにはほとんど学生がいなかったこともある。
私はその王子と並んで、最敬礼をする将校の前を並んで歩かされた、などなど。

●やがて離反

 が、私の心はやがて別の方へ向き始めた。
もう少しわかりやすく言えば、そういう世界を知れば知るほど、それに違和感を覚えるようにな
った。
私はどこまでいっても、ただの学生、あるいはそれ以下の自転車屋の息子だった。

 一方、彼らはいつもスリーピースのスーツで身を包み、そのうちのまた何人かは運転手つき
の車をもっていた。
そういう連中と張りあっても、勝ち目はない。
仮に私が生涯懸命に働いても、彼らの一日分の生活費も稼げないだろう。

 そう感じたとき、それは「矛盾」となって私の心をふさいだ。
最近になって、無頓着な人は、「そういう王子や皇太子と、もっと親しくなっておけばよかったで
すね」などと言う。
「旅行したら、王宮に泊めてもらいなさい」と言う人もいる。
今でも手紙を書けば、返事ぐらいは来るかもしれない。

しかし私はいやだ。
そういうことをしてペコペコすること自体、私にとっては敗北を認めるようなもの。

 やがて私は彼らとは一線を引くようになった。彼らもまた、私がただの商人の息子とわかる
と、一線を引くようになった。
同じ留学生でありながら、彼らは彼らにふさわしい連中と、そして私は私にふさわしい連中と、
それぞれグループを作るようになった。
そしてそれぞれのグループは、どこか互いに遠慮がちになり、やがて疎遠になっていった。

(以上、「世にも不思議な留学記」より。
さらに読んでくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html )

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●正田英三郎氏との思い出

 東京へ行くたびに、そして正田英三郎氏に会うたびに、正田氏は、東京商工会議所の近くの
ソバ屋へ連れていってくれた。
ときどき坂本二郎氏(坂本竜馬の直系のひ孫氏)も、いっしょだった。
そのときいろいろな話を聞いた。
が、その内容については、ここには書けない。

 ただ今にして思うと、なぜ、正田氏が、商工会議所の中に自分の部屋をもっていたかが、理
解できる。
大通りをはさんで、目の前は、皇居。
美智子妃殿下にとっても、たいへんつらい日々がつづいていた。
ただいつもこう思っていた。

 「いつか、それなりの人間になったら、正田氏を浜松へ招待しよう」と。
が、その日は最後まで、来ることはなかった。
私は正田氏の訃報を、この浜松で、聞いた。
それで終わった。

 だからこそ、余計にこう思う。
私たち日本人は、もう少し謙虚になってもよいのではないか、と。
「一度は、天皇家の人たちに、重責を担っていただけますかと聞くのは大切」と書いたのは、そ
ういう理由による。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

明治維新は、本当に、バラ色の「維新」だったのか。
それについて考えてみたい。
これを読んでもらえば、「維新」という言葉がもつ幻想を、
少しは訂正してもらえるはず。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【明治維新後の日本の教育】

●学校に通う意味・青年の意識調査より

●内閣府(2009年)の調査結果より

なぜ、あなたは学校に通うか?
その答がつぎ。

++++++++++++++++++

●日本は「友達との友情をはぐくむ」、韓国は「学歴や資格を得る」、アメリカ、イギリス、フラン
スは「一般的・基礎的知識を身に付ける」がもっとも高い。

●「友達との友情をはぐくむ」:

日本(65.7%)、
韓国(41.2%)、
イギリス(40.2%)、
アメリカ(39.2%)、
フランス(16.3%)

●「自由な時間を楽しむ」:
日本(32.5%)、
アメリカ(26.8%)、
イギリス(22.7%)、
韓国(14.7%)、
フランス(11.2%)

●「職業的技能を身に付ける」:
イギリス(44.6%)、
フランス(43.5%)、
アメリカ(42.8%)、
韓国(37.0%)、
日本(30.6%)

●「一般的・基礎的知識を身に付ける」:

アメリカ(79.1%)、
フランス(66.9%)、
イギリス(63.0%)、
日本(55.9%)、
韓国(44.9%)

詳しくは……
http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/worldyouth8/pdf/gaiyou.pdf

++++++++++++++++++

●意識のちがい

 高等教育に対する意識のちがい。
それが内閣府の調査結果によく表われている。
平たく言えば、日本の青年は、「遊ぶため」。
欧米の青年は、「社会へ出てから、生きていかれる人間になるため」。
「職業的技能を身につけるため」という意識が強い。

 役にたつかたたないかということになれば、日本の教育は役にたたない。
かなり改善されたとはいえ、英語教育がそうだった。(……今も、そうだ。)
つまり日本の教育は、英語にかぎらず、社会にしても、国語にしても、数学にしても、理科にし
ても、将来、その道の学者になるためには、たいへん機能的にできている。
が、将来、学者になる子どもは、いったい、何%いるのか?
「基礎学力」という名前に隠れて、その一方で、「教育とは役にたつものではない」という、非実
用主義が常識化している。

●役にたつ教育へ

 アメリカの中学では、たとえば数学にしても、「中古車の買い方」というテーマで学習に入る。
その過程で、小数計算の仕方や、金利の損得の判断などを順に教えていく。
が、この日本では、一次方程式だの、一次関数だの、はたまた合同だの相似だの……。
私など高校を出てから、方程式なるものを、日常生活の場で使ったことなど、ただの一度もな
い。
サインやコサイン(私たちの時代には、中学2年で、サイン、コサインを勉強した)にしても、さら
に、ない。

 が、これは教育の問題ではない。
それを学ぶ子どもたちの意識の問題ということになる。
子どもたちを育てる親の意識の問題ということになる。
「なぜ、子どもを大学へやるか?」と聞かれたら、親は何と答えるだろうか?
今でも、大半の親は、こう答えるにちがいない。

「学歴を身につけるため」と。

●身分制度の名残(なごり)

 江戸時代から明治時代へ。
今は、坂本龍馬に踊らされているから、わからないかもしれない。
なにやら坂本龍馬が、革命の旗手であったかのようにとらえられている。
しかし明治維新は、「革命」でも何でもない。
英語では、「Restoration」と訳されている。
つまり「王政復古」。
坂本龍馬は、民衆のために戦った人ではない。
民主主義を求めて戦った人でもない。
「王政復古」、つまり「天皇の復権」のために戦った人に過ぎない。

 そういう歴史的背景も学ばず、「龍馬ブーム」!
もし徳川時代がまちがっているというのなら、一度、封建時代を精算したらよい。
が、それもしない。

 わかりやすく言えば、明治維新は、徳川家から天皇家への、首のすえかえに過ぎなかった。
その一例が、現在の学歴制度に残っている。
つまり身分制度。
当時の為政者たちがもっとも腐心したのは、江戸時代の身分制度をいかにして、明治政府に
バトンタッチするか、であった。
が、方法がなかったわけではない。

 明治時代が11年も過ぎたころでさえ、東京大学の学生の75%以上が、華族、氏族の師弟
で固められた。
たいはんの庶民は、尋常小学校どまり。
それ以上となると、父親の1か月の給料をもってしても、教科書すら買うことができなかった。

 また県知事(県令)は、当時の自治省から派遣されるしくみになっていた。
選挙など、形だけ。
(現在でも、大きくみれば、その流れの中にある。)

++++++++++++++++++

以前、書いた話と同じになりますので、
以前書いた原稿を、転載します。
一部重複しますが、許してください。

++++++++++++++++++

【学歴制度】

● 5か条の御誓文

+++++++++++++++++++

1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、 政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、 みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、 みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、 これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、 新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

+++++++++++++++++++++

●平等

 明治維新の中でもっとも注目すべきは、『四民平等』。
が、あの時代。
「平等」などということは、もとからありえなかった。

 天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。

それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもの希望

 話は少し脱線する。
まず、傍証。
傍証の補強。

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。
韓国は特技系の仕事に関心がある。
米国では特技や専門技術系の職業に人気があり、普通のサラリーマンになる願望が最も弱
い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。
しかも今、どんな公務員試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。
さらに公務員試験を受けるための予備校まである。
そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。
もちろん退職金も、年金も、満額支給される。
さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。
そこに5年間勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。
ごくふつうの自衛官ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。
(だからといって、その人個人を責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。
H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。
「市役所の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。
「お前も、公務員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。
しかしこの日本では、今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。
数がふえるだけならまだしも、公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員
たちによって管理されることを意味する。
自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。
ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。
しかし本当に、そうか。
あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。

(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】

 ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ど
もが、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。
日本と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。
しかし日本や韓国の子どもには、それがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。
いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけても、子どもたちは、こう言う。
「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。
幸福になるにも、無数の道がある。
子どもの世界も、同じ。
そういう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。
しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。
現状にそぐわなくなってきている。
明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。
仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強するという
ことも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。
こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥である。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。
「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」という目
的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。
「私は、もう終わりましたから」と。
私が、「お母さん、あなたたちも勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。
新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。
なのに、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。
そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使った。
「革命」という意味をこめたが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。
ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったにちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。
しかし一般庶民にとっては、教科書や本すら、満足に購入することができなかった。
だから結局、大学まで出られるのは、士族や華族、一部の豪族にかぎられた。
明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約75〜80%が、士族、華族の師弟
であったという記録が残っている。
(たった6・4%の士族、華族が、約75〜80%を占めていたのだぞ!)

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の県令(知事)となって、派
遣されていった。
選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。
変っていないことは、実は、あなた自身が、一番、よく知っている。
たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そして国会議員の大半も、み
な、元中央官僚である。
(だから、それがまちがっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。
あるいは大半の日本人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らない
のではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 
私もこの国に住んで、56年になるが、つくづくと、そう思う。

++++++++++++++++++++++

つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
今まで書いてきたことの、ベースとなった原稿です。

++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

 インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。
どこかの国のカルト信仰を笑う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。
その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。
そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。
学校出の教師の給料が、15〜30円、県令(現在の県知事)の給料が、250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。
そして今に見る、学歴制度ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚
政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。
各県にある教育委員会が、支部本山。
そして学校が、末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。
教育はだれの目にも必要だったし、学校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。
どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の学歴制度は、明らかに行き過ぎ
ている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。
そうでない人は、何かにつけて、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。
多すぎる。
親たちは日常の生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。
だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。
それだけ公教育の荒廃が進んでいるということになる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。
今の、この時点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子ど
もたちが、苦しみ、そして傷ついていることか。
そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今も、ひきずっていることか。
それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。
ウソだと思うなら、あなたの、あるいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。

(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省 はやし浩司 県令 士族 華族)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。
(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。
年長児の大半も、自分の鼻先をさす。
しかし年中児になると、それが乱れる。
つまりこの部分については、子どもは年中児から年長児にかけて、いつの間にか、教えられな
くても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。
よく誤解されるが、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はる
かに多い。
どれくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多い
かしれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。
あるいは子どもというのは、「教えることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。
しかしむしろ子どもの教育にとって重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。
だれが育てるというのでもない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、
必要以上にエリート意識をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはってい
く。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。
全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれないもんね」と。
「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしまう。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。
あるいは何を教えていないだろうか。
そして子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。
それを少しだけここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 
幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会 はやし浩司 県令 自治省 坂本龍
馬)

●最後に……

 日本の教育は、基本的な部分で、おかしい。
その(おかしさ)は、ここに書いたとおりである。
だから青年たちは、「遊ぶ」。
もとから学ぶという意識もないまま、遊ぶ。
その結果が、内閣府の調査結果ということになる。

 もう一度、冒頭の数字を、じっくりとながめてみてほしい。
あなたにも、そのおかしさが、わかるはず。
2010/07/19記


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【橋下大阪市長の暴走】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

長い前置きになった。
さて、本題。
私は、「維新」という名前に違和感を覚えながらも、橋下大阪市長の言動に注目してきた。

が、このところ、どうも様子がおかしい。
「維新の会」といい、自らを平成の坂本竜馬と位置づける(?)。
先にも書いたが、「維新」イコール、「革命」ではない。
そんなことを念頭に置きながら、橋下大阪市長の言動を分析してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

が、その前にもう一作。
道州制についても、自分の考えを再確認してみたい。
日付は、2006年5月になっている。
内容が一部、先に書いた原稿とダブるが、
許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●最近の話題から

++++++++++++++++

憲法改正、それに道州制の導入など。

このところ、世間の動きが、
急にあわただしくなってきた。

++++++++++++++++

 憲法改正の焦点は、何といっても天皇制。
現在の「象徴天皇」から、「国家元首」としての位置づけを、明確にしようというもの。

 しかしこれには、私は、明確に、反対しておきたい。
そもそも、どうして現行の「象徴天皇」ではいけないのか? 
日本が、本当に民主主義を、標榜(ひょうぼう)するなら、「天皇元首制度」は、まさに、その民
主主義の理念を根底から、否定するものと考えてよい。

 つぎに道州制の導入だが、当然のことながら、各道、各州には、「長」が選ばれることにな
る。
この世界では、「首長(くびちょう)」という。
これについて、「道州に、国の権限を大幅に移譲し……」とあるが、それを額面どおりに読んで
はいけない。

 現在の今ですら、全国の都道府県知事の大半が、元中央官僚。
副知事の大半も、国会議員の大半も、また大都市の市長の大半も、元中央官僚。

 明治時代には、士族、華族、とくに元大名の師弟は、こぞって東大から自治省をめざした。
そしてその自治省から、全国へ県令(現在の県知事)となって散っていった。

 それから100年。この図式は、今も、何も変わっていない。

 仮にもしここで道州制になったら、道、州の「長」は、さらに元官僚たちによって、独占される
ことになる。
わかりやすく言えば、「国の権限を大幅に移譲し……」というのは、選挙で選ばれた政治家た
ちの影響力を弱め、官僚たちによる国の支配を、さらに強固にしようというものである。

 その頂点に、元首としての天皇を置く。

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。
私が学んだ、オーストラリアの大学でのテキストでは、「日本は、官僚主義国家」となっていた。
「君主(ロイヤル)官僚主義国家」となっていたのもあった。

 当時の私は、それに猛反発したが、今は、ちがう。
「なるほど、そうだったのか」と思うようになった。
同じ「民主主義」という言葉を使うが、オーストラリアでいう民主主義と、日本でいう民主主義と
は、まるでちがう。
どうちがうかということについて書き出したら、キリがないが、ともかくも、ちがう。

 今、ここで天皇を元首にした道州制を導入したら、それこそ、まさに「王政復古」。
1660年にチャールズ2世が、なしとげたあの王政復古そのものということになる。

 英語では、その「王政復古」を、「the Restoration」という。
同じく、明治維新も、外国の文献では、「the Meiji Resoration」と翻訳されている。
日本では、「維新」というが、それはいわば、言葉の煙幕のようなもの。
時の政府は、その煙幕を張って、国民をだました。

 そこで、もしここで、天皇が元首になり、今の状態のままで、道州制が導入されたら、外国で
は、「the Heisei Resoration(平成王政復古)」と呼ばれるようになるだろう。
またまた明治王政復古に、逆戻り!

 戦後、日本は、当初は押つけられたものであったかもしれないが、アメリカ型西欧文明を、受
け入れた。日本国憲法も、その過程で生まれた。

 しかしここにきて、急速に、復古主義が、台頭してきた。
その種の本も、よく売れている。
(その本の売れ方も、どこか不自然だが……。)
「武士道こそ、日本が誇るべき精神の根幹」と説く人も多い。
憲法改正も、道州制の導入も、その流れの中にある。

 行政改革、つまり官僚制度の是正は、ことごとく暗礁に乗りあげてしまっている。
なぜそうなったのかということについては、今さら、改めて書くまでもない。

 もちろん私も、みながそれでよいと言うのなら、それで構わない。
が、それには前提がある。
「それでよい」と言う前に、みなが、もっと考えなければならない。
考えた末に、「よい」というのなら、私も従う。

 しかし、みなは、考えているのか? 
本当に考えているのか? 
大半の人たちは、政治の話を口にしただけで、顔をそむけてしまう。
そういう状態の中で、「まあ、いいだろう」というように、安易な結論を出すことは、日本の将来
にとって、たいへん危険なことである。

 そのツケを払うのは、結局は、つぎの世代の人たちということになる。
今、官僚となり、わが世の春を謳歌している人たちも、「つぎの世代」、つまりあなたの子ども、
あるいは孫の立場になって考えてみてほしい。

 本当に、それでよいのか、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 憲法
改正 天皇元首制 道州制の導入 日本の民主主義 民主主義)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2007年12月の原稿を、もう1作。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●何か、おかしいぞ、教育再生会議!
(The regenerated consultative conference of the 
education)

*The Liberalization of the Education

The Japanese government has been trying to control our minds all the time since the end 
of the WW2. There they have two main consultative organs, conducted by the government. 
How can they choose the members of the organs under what kind of standard they choose 
with? The Japanese government is heading toward conservatism or the way to the right-
wing like way of thinking. We need more freedom! Or do they want the Restoration of the 
Imperial Rules?

+++++++++++++++++

「空理空論」という言葉がある。
「まず、国家統制ありき」という姿勢もある。

この両者がからんで、「教育再生会議」となった。

世界の流れは、「教育の自由化」。

それに向かって、まっしぐらに進んでいる。

なにゆえに、日本の政府は、そして文科省は、こうまで教育の自由化を恐れるのか?

国民を、どう統制しようとしているのか?

とくに気になるのが、道徳教育(?)。

「道徳を(徳育)として教科化する」という。

これに対して、日本教育再生機構のY理事長は、「実現すれば道徳の時間に、おかしな平和や
人権などを教えることができなくなる」と、さっそく歓迎の意思表示。

「教科書がないから道徳は形骸(けいがい)化している。
教科書があれば何を教えるのかのコンセンサスが得られ、教育内容の水準が確保できる」と
コメントを寄せている。

しかし政府は、いったい、どういう基準で、諮問機関のメンバーを選んでいるのか?

自分たちにとって都合のよい、YESマンばかり集めて、あらかじめ用意したお膳立てに従っ
て、結論を出す。

あとはそれをもとに、「控えおろう!」と。

日本というより、日本政府は、またまた右寄りの路線に向かって、舵を切ろうとしている。

いいのか、日本! このままで!

++++++++++++++++

 「自由化」イコール、「バラバラ」という意味ではない。
またそうであってはいけない。
しかしそんなことは、常識。
明治の昔なら、いざ知らず、国民は、そんなバカではない。
アホではない。

 教科書の国定(検定も同じ)にしても、それをしているのは、先進国の中では、この日本だ
け。

 「まず、国家統制ありき」……それがこうした諮問機関の大前提。
そのおかしさに、私たち日本人が、まずそれに気づくべきではないのか。

 無数の試行錯誤の中で、失敗もあるだろう。
挫折、頓挫もあるだろう。
ときには、はげしい衝突もあるだろう。
しかしそういう山坂を越えて、日本人も、「自由」の意味を知る。
「自由」を手に入れることができる。

 いくら政府や文科省が、日本人を統制しようとしても、日本人の心は、もう別の方向を求め
て、歩き出している。
それがわからなければ、尾崎豊の「卒業」を、一度でもよいから、聴いてみることだ。

 何が、徳育教育だ! 

教科書ができれば、「実現すれば道徳の時間に、おかしな平和や人権などを教えることができ
なくなる」(?)。

 「おかしな平和や人権」とは何か? 
それを「おかしい」と言うほうが、おかしい。
「平和」や「人権」は、守って守って、守り抜いてこそ、平和であり、人権なのである。
戦時中は、「平和」とか、「人権」という言葉を口にしただけで、「非国民」と呼ばれ、問答無用
に、逮捕、投獄された。
多くの人は、拷問まで受けた。

 そういう歴史を、日本よ、日本人よ、忘れたか! 
またそういう反省もなく、「おかしい」とは、何ごとか! 
恥を知れ!

 「道徳」についても、世界の心理学者たちは、もっと科学的な視点から、考え始めている。
マズローの「道徳論」に、一度は目を通してみればよい。
しかし「孔子」だの、「論語」という言葉が出てくるところが、恐ろしい。
さらに「武士道こそが、日本が世界に誇るべき、精神的バックボーン(背骨)」と説く人までい
る。
またそうした本が、売れに売れまくっている。

 さらにさらに、天皇を「象徴」から、「元首」にという動きもある。
憲法改正は、おおむね、その方向に向かって進みつつある。
どうして21世紀の現在、「王政復古」なのか? 
しかもこの日本で!

 だいたい「再生」とは何か? 
何からの「再生」なのか? 
まさか戦前の状態にもどることを言っているのではないだろう。
このところ、私は、この言葉に、不気味さを覚えるようになっている。

【参考:以下、ヤフー・ニュース・07年12月26日版より】

 政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は25日、首相官邸で開いた総
会で第3次報告を正式に決定し、福田康夫首相に提出した。
社会人教員の増員や校長の権限強化、現在の学制「6・3・3・4制」の弾力化などの項目の実
現を掲げ、6月の2次報告でも提言した徳育の教科化を再び盛り込んだ。

 安倍前内閣時代の昨年10月に発足した再生会議は一通りの検討作業を終え、来年1月に
も総括的な最終報告をとりまとめる。

 首相は総会後、記者団に対し、「よくまとめてくださった。
3次報告でまとまった基本的な考え方を、中央教育審議会(中教審)で具体化することになる」
と述べた。

 「社会総がかりで教育再生を」をテーマにした3次報告には、「学力の向上に徹底的に取り組
む」などの7つの柱が掲げられた。

 小中一貫校の制度化検討や小学校からの英語教育実施なども提言されたが、当初目玉と
なっていた、児童・生徒が自由に学校を選択し、その数に応じて学校に予算配分する「教育バ
ウチャー(利用券)制」は、モデル事業としての実施を検討することにとどまった。

 第3次報告は、採用者の2割以上を教員免許を持たない社会人とする▽徳育の教科化▽大
学の授業の3割以上を英語で行う−などを求めているが、専門家からは賛否の声が上がっ
た。

 教員免許を持たない社会人を教員に採用することについて、日本教育大学院大学の河上亮
一教授は、「実現すれば教育現場の意識改革になるのではないか」とみている。
教育学部を卒業した教員が多い現状よりも多様な人材が教壇に立つ方が活性化するとの考
えからだ。

 文部科学省によると、全国の小中学校の教職員は70万人おり、再生会議の報告通りにす
るなら総数で14万人の社会人を迎え入れなければならないが、河上氏とは対照的にある県
の教育委員会幹部は「民間は善、公務員は悪という発想による提言だ。
待遇面で教員は決して恵まれていない。
優秀な人材が多数集まるとは思えない」と批判する。

 道徳を「徳育」として教科化することについて、日本教育再生機構の八木秀次理事長は「実
現すれば道徳の時間におかしな平和や人権などを教えることができなくなる」と歓迎。
「教科書がないから道徳は形骸(けいがい)化している。
教科書があれば何を教えるのかのコンセンサスが得られ、教育内容の水準が確保できる」と
している。

 一方で河上氏は「徳育を教科にするのなら、自分のためだけでなく、人のために尽くすことは
大切だということを社会の共通認識にする努力が必要だが、現実的には難しい」と教科化には
懐疑的だ。

 大学の授業の3割を英語で行うことは可能か。

 福島県立会津大学はコンピュータ理工学部の単科大学で、教員の4割が外国人。
授業の多くは英語で行われ、卒業論文も英文だ。
第2外国語をなくし、英語の時間を増やしている。
同大は「コンピューターは米国で発展したもの。
プログラムを理解するために英語に習熟することは不可欠な対応」と英語での授業の必要性
を説く。

 一方で、横浜国立大学の鈴木邦雄副学長は、「3割の授業を行うのは大学院なら可能だろう
が、学部で行うのは難しいのではないか。
英語の授業を用意しても、学生が履修しなかったら意味がない」と話している。

 再生会議の委員の一人、中嶋嶺雄氏が学長を務める国際教養大学(秋田県)は、すべて英
語で行う。
しかし、英語に関心の高い学生が多く入学する一方で、授業についていけない学生もいるとい
う。(櫛田寿宏)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育再生会議 第3次報告)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●さて、本論

 2012年2月に入り、新聞各紙は、橋下大阪市長の言動を、いっせいに報道し始めた。
そのまま紹介する。

『維新の会、遺産全額徴収も検討 「国家元首は天皇」明記

 橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会が事実上の次期衆院選公約「維新八策」で掲げる相
続税強化策に関し、不動産を含む遺産の全額徴収を検討していることが9日分かった。
資産を残さない「一生涯使い切り型人生モデル」を提唱、消費を促す税制に転換し、経済活性
化を図る狙い。
ただ内部に異論もあり、協議を継続する考えだ。

 国家元首は天皇と明示することも判明。
同会は10日、大阪市で開く全体会議で協議した上で、八策の概要を公表する方針だ。
現段階で数値目標はほとんど打ち出していないほか、実現可能性が疑われる項目もあり、24
日開講の政治塾でも精査を続ける』と。

●船中八策?

 さらに産経新聞は、つぎのように伝える。

『橋下氏「元首は天皇陛下」 参院議員に「船中八策」説明

 地域政党「大阪維新の会」を率いる橋下徹大阪市長は17日、参院予算委員会のメンバーと
会談。
橋下氏は、維新が次期衆院選公約として策定中の「維新版・船中八策」(維新八策)に盛り込
んだ首相公選制について、実現後も「あくまで国家元首は天皇陛下だ」との考えを示した。

 維新八策の骨子公表後、橋下氏が国会議員と議論したのは初めて。
日本では憲法上、国家元首の規定はないが、内閣法制局の見解で天皇陛下とされており、大
統領制と同じ国民の直接投票となる首相公選制導入後の元首の規定について、疑問の声が
上がっていた。

 会談では、外山斎委員(民主)が首相公選制について「大統領制とほとんど変わらない。
国家元首は首相になるのか」と質問。
橋下氏は「国民が直接選ぶことと(選ばれた首相が)国家元首であるということに論理的な必
然性はない。
天皇制のもとにおいて、国家元首は天皇陛下だ」と明言した。

 一方、維新八策で示された参院廃止についても質問が集中した。
片山虎之助委員(たちあがれ日本)は「廃止するなら衆議院がいい」と冗談を飛ばし、「改憲が
必要で簡単にはいかない」と牽制(けんせい)。
山本一太理事(自民)は「衆院も参院も廃止して一院制にすると言ってほしい」と要望した。

 橋下氏は「大阪府庁と大阪市役所が100年戦争をやってきたのと同じ状況が、衆院と参院
でもあると感じた」と皮肉り、「衆参という形は国民が望んでいない」と持論を述べた。
(産経新聞 2月18日(土)7時55分配信)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●結論

 橋下大阪市長については、もう少し言動を注意深く追いかけてみたい。
冒頭に書いたように、橋下大阪市長は、ひょっとしたら、ジャンヌダルクの再来かもしれない。
そうであれば、こんなうれしいことはない。
が、同時に、ひょっとしたら、ヒットラーの再来かもしれない。
そういう心配も、ないわけではない。

 けっして油断してはいけない。
ゲーテやシラーを生んだドイツで、その後、ヒットラーが誕生している。
第一次大戦後のドイツをうまく誘導し、ヒットラーはヒットラーになった。
今の日本の現状とよく似ている。

 失われた10年が25年になった。
社会は疲弊し、工業も先細り。
おまけに3・11大震災。
1000兆円を超える、国の借金。
あのギリシャの、100倍!

 貿易も赤字。
笛吹けど踊らずの日本経済。
どこもかしこも、不景気。
さらに少子高齢化。
『♪右を見ても、左を見ても、真っ暗闇じゃ、ござんせんか』と。

 こういうときほど、人々の心のスキをついて、超過激な政治集団が勢力を伸ばす。
英語には『悪魔は善人の顔をしてやってくる』という諺がある。

 もちろん橋下大阪市長については、わからない。
わからないが、慎重であるに越したことはない。
浮かれてブームに乗れば、やけどをするかもしれない。
ただのやけどではない。
大やけど。

 そういう警告の念をこめ、このエッセーを書いた。

 たとえば天皇の元首制と、官僚制度の是正は、基本的な部分で矛盾している。
奈良時代の昔から、官僚たちは、「天皇」という絶対的な権威者を頂点に置き、日本の政治を
牛耳ってきた。

 一方で天皇の元首制を唱え、他方で官僚政治の是正(=民主主義の完成)を説くのは、論理
的に矛盾している。
橋下大阪市長は、それに気づいているのだろうか?


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


(10)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F
●子どもとゲーム脳(資料)

***************資料*****************


【韓国・朝鮮日報紙の記事より】(はやし浩司 2012−05−05)

●子どもとゲーム脳

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

どういうわけか、この日本では、「子どものゲーム」が、
ほとんど問題にならない。
……というか、話題にもならない。

が、隣の韓国では、ゲーム中毒の子どもが続出し、その
更正施設まである。

日本人と韓国人の脳の構造は、ちがうのか。
が、それはない。
つまり(ちがい)があると考えるほうが、おかしい。

ちがわないとするなら、どうしてこの日本では、「ゲーム」が、
問題にならないのか。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●朝鮮日報紙

 このほど朝鮮日報紙が、たいへん骨太の記事を掲載した。
読みごたえのある長編の論文である。
ひとつひとつを吟味していたら、何日もかかるかもしれない。
が、どの一部を取りあげても、かなり衝撃的な内容である。
私たち日本人も、この論文のもつ重大性を、しっかりと認識しなければならない。

 じっくりと読んでみたい。

(資料)以下、韓国朝鮮日報紙から転載********************
**


【1】


 幼児期のゲーム中毒は、脳の正常な発達を阻害する。嘉泉医科大学のキム・ヨンボ教授は
「人が頻繁に通る道路が先に舗装されるのと同じで、発達が旺盛な幼児の脳も、刺激を多く受
ける部分が特に発達する。幼児期にゲーム中毒に陥ると、脳が視覚的な刺激だけに集中する
ようになり、嗅覚や触覚などほかの感覚処理能力が低下する」と指摘する。

 2010年には米国アイオワ州立大学の研究チームが「1日2時間以上ビデオゲームで遊ぶ子ど
もは、注意欠陥・多動性障害(ADHD)を発症する可能性が2倍高くなる」と発表した。同研究チ
ームは「子どもがゲームに集中するのは、画面が目まぐるしく切り替わるのが原因」と指摘し、
ゲームに熱中する子どもたちは学校の授業をつまらないと感じるようになると説明した。また
「ゲームに集中すると、休みなく押し寄せる刺激に脳が適応するようになる。たばこによって、
がんを発病する危険性が高まるように、ゲームによってADHDを発症する可能性が高まる」とも
説明した。

 さらに問題なのは、ゲーム中毒に陥って脳が損傷すると、中毒になる前の正常な状態に戻る
のが困難という点だ。韓国科学技術研究院(KIST)脳科学研究所のシン・ヒソプ所長は「麻薬
中毒者は治療を受けると、ひとまず正常な行動を取るが、再び麻薬に接すると、一般の人に
比べ麻薬に対する欲求がかなり強くなる。ゲーム中毒もこの症状と同じ」と指摘した。

 国内外でさまざまな議論があるものの、日本の脳神経科学者、森昭雄・日本大学教授は『ゲ
ーム脳の恐怖』という著書で「脳の神経回路は通常、10歳以前に形成されるが、幼児期にビデ
オゲームばかりやっていると、ゲームをやめることができなくなる」という論理を展開した。同教
授は「幼児期に形成された脳の神経回路のせいで、ゲームをやめることができず、ゲーム機を
見ただけで自然に手が動くようになる。ゲームをする年齢は中学生以降、できれば大学生にな
ってからが望ましい」と主張している。


【2】


 午後2時。目を覚ますと窓の外が明るい。すぐにパソコンの前に座る。電源を入れっぱなしの
パソコンのチャットウィンドウに友人たちが残したメッセージを読みながら、ゲームトーク(音声
メッセージをやり取りできるプログラム)を立ち上げ、ヘッドフォンををセットする。長い言葉は
必要なかった。

 「よく寝たか。ゲームを始めよう」

 いつアクセスしても、友人10人ほどがログインしている。私の『スタークラフト』(オンラインゲー
ムの一種)の通算戦績は10万戦7万5000勝。この世界で私を知らない人はいない。かなり実力
のある友人たちと2対2で対戦した。私はいつものごとく「ザーグ」(「プロトス」「テラン」と共にスタ
ークラフトの3種族の一つ)を選択し、仲間はプロトスを選んだ。相手も同じ種族を配置する。私
は兵力を減らしてドローン(ワーカー)を増やす「12ドローン」という戦略を準備し、偵察したとこ
ろ、相手は兵力を強化する「9ドローン」の戦略を使っていることが分かった。

 ヘッドフォンのマイクで仲間に序盤の戦闘を避けるよう伝えると、防御に専念した。12ドローン
戦略は、序盤の防御さえうまく行えば、絶対に9ドローン戦略に勝てる。頭の中には数百、数千
パターンの状況に対応する戦略が思い浮かぶ。思ったより時間がかかったが、9分40秒で無
難に勝利した。

 何時間経過したのか分からない。空腹を感じ、中華料理店にチャジャン麺(ジャージャー麺、
日本のラーメンのように庶民的な食事メニュー)とチャンポン、そして焼き餃子を注文した。い
つの間にか、暴食した後に眠る習慣がついた。きょうも14時間ほどゲームをしたようだ。普段も
このくらいはプレーしている。

 私はこの4年間、親に学費を負担してもらい江原道の大学に籍を置き、小遣いをもらって生
活している。だが、大学に行った日数は1カ月に満たない。4年の間、勉強するために親が借り
てくれた部屋でゲームばかりしていたことを告げたら、親は何と言うだろうか。不安が募り、暴
食しなければ眠れなかった。いつの間にか、70キロ後半だった体重は113キロにまで増えた。

 ゲームの世界では、まさに戦績が序列だ。年齢が上でも、ゲームが下手なら敬意を払うこと
はしない。強い人が指揮を執ってこそ勝てるからだ。ゲーム仲間の中には工場や飲食店で
時々働く人もいるが、皆私と似たような状況だ。


【3】


 科学者たちは最近、ゲーム中毒に陥った子どもたちの脳が麻薬中毒の脳の状態と同じで、
認知能力や感情をコントロールする機能が大幅に低下するという事実を明らかにした。このよ
うな子どもたちはさらに暴力的になり、ひどいケースでは注意欠陥・多動性障害(ADHD)のよう
な精神疾患を発症することもあるという。ゲームが子どもたちの脳を破壊しているというわけ
だ。

 ビデオゲームが子どもたちに有害かどうかという問題は、世界中で絶えず議論されている。
ゲームが子どもたちの創意・工夫能力や運動能力を発達させるという肯定論もあるが、子ども
の脳がゲームによって破壊されるという反対論も根強い。2010年にはこのような議論が米国の
最高裁にまで持ち込まれたが、「児童の脳に長期的に悪影響を及ぼすという科学的な証拠が
ない」との理由でで結論は出なかった。

 だが昨年11月、科学専門誌「ネイチャー」が発行する精神医学専門誌「トランスレーショナル・
サイキアトリー」に、ゲーム中毒に陥った青少年の脳は麻薬中毒の脳の状態に似ているとの研
究結果が掲載され、状況は一変した。ビデオゲームが子どもたちの脳に変化を及ぼすという
事実が、科学的に初めて立証されたのだ。

 ベルギー・ゲント大学のシモン・クーン博士による国際共同研究チームは、ベルギー、英国、
ドイツ、フランス、アイルランドで14歳以下の少年少女154人の脳を撮影し分析を行った。その
結果、ゲームで遊ぶ時間が調査対象の平均値(1週間に9時間)を上回る少年少女の脳は、左
側の線条体が非常に大きくなっていた。この部分は、脳の中でも快楽に関わる部分で、麻薬
中毒に陥ると肥大化することが分かっている。

 先日、中国・上海精神健康センターは、オンライン科学誌「公共科学図書館(PLoS)ワン」
に、ゲームに熱中するインターネット中毒者の脳で、白質の損傷が確認されたと発表した。白
質とは、感情処理や注意・集中、意思決定、認識コントロールなどをつかさどる領域を結ぶ神
経線維で、コカインのような麻薬を常習的に乱用すると、この部分が損傷する。

 韓国でも09年に同様の研究結果が発表された。盆唐ソウル大学付属病院のキム・サンウン
教授(核医学科)は、ゲーム中毒者の脳について、コカイン中毒者と同様の異常が認められる
ことを明らかにした。脳の眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ=前頭葉のうち眼球周辺の一
部分)の機能に異変が生じるという。キム教授は「眼窩前頭皮質は、合理的な意思決定や衝
動性のコントロールと密接に関わっている領域。ゲーム中毒や麻薬中毒に陥った人は、この
部分に異変が生じ、将来のことについて考えることができず目先の利益だけを追求するように
なる」と説明した。

 ゲーム中毒によって脳が変化すると、行動にも変化が現れる。嘉泉医科大学のキム・ヨンボ
教授は「前頭葉は仮想と現実を区別し、刺激を自制する働きを担う。ゲームによる短期的な快
楽・刺激が大幅に増えれば、前頭葉が正常に反応しなくなり、その結果、我慢できず深く物事
を考えずに行動するADHDを発症する恐れがある」と指摘する。昨年12月には、ドイツのボン
大学の研究チームが「生物心理学」誌に掲載した論文で、1週間に平均15時間、1人称シュー
ティングゲーム(ゲームの中の主人公になりきり、的を狙って銃を発射するゲーム)を行った場
合、前頭葉中部の活動がゲームをしない人に比べて弱まることが確認されたと発表した。前頭
葉中部は、恐怖や攻撃性をコントロールする部分だ。ゲームの影響で脳が暴力に対して鈍感
になることが、立証されたわけだ。

 韓国国内の脳科学者たちは「ゲーム中毒は一方的に規制したところで根本的な解決は困難
だ。政府とゲーム業界が一丸となって、暴力的なゲームが子どもたちの脳に与える影響につい
て研究し、解決策を見いださなければならない」と口をそろえた。


【4】


 ソウルに住む主婦イ・ジャヨンさん(35)=仮名=は、タブレット型パソコン「iPad」に夢中の娘
ヘインちゃん(3)に絵本を与えたとき、とても驚いた。ヘインちゃんが絵本を指でタッチし、ドラッ
グするなど、「iPad」を操作するように扱っていたからだ。さらに、「iPad」のように画面が変わる
などの反応がないことに気づくといら立ち、絵本を投げつけて泣き叫んだ。

 イさんが子どもに「iPad」を与えたのは教育的な目的からだった。ハングル教育用アプリケー
ションのクイズゲームなどを利用し、ハングルを楽しく覚えさせようと思ったのだ。ヘインちゃん
は一日に何時間もハングルの勉強に集中し、IT(情報技術)機器を上手に使いこなすなど、最
初は成功したかのように見えた。外出するときも来客時にも、「iPad」で静かに勉強する娘を、
イさんはえらいと感心していた。

 しかし数カ月後、事態の深刻さに気づき始めた。同年代の友人が遊びに来ても、ほかの子ど
もたちが人形やおもちゃのロボットで遊んでいても、ヘインちゃんは「iPad」に夢中だった。初め
は目を輝かせていたハングルの学習も進展がなく、同年代の子どもたちに比べ言語駆使能力
も遅れを取るようになった。最近イさんは、ヘインちゃんから「iPad」を取り上げるために毎日が
「戦争」だ。イさんは「一瞬の間違った考え方が子どもをだめにしてしまったのではないかと思う
と、とてもつらい」と話した。

 スマートフォンやタブレット型パソコン、携帯ゲーム機などが広く一般家庭に普及し、子どもた
ちの周囲にはゲームがあふれている。言葉を学び、同世代の子どもたちとの集団生活を学ば
なければならない幼児が「ゆりかご」からゲーム中毒の危険にさらされている。初めてゲーム機
に触れるときから時間制限などの管理をきちんと行っていればゲーム中毒を防ぐことはできる
が、保護者がゲーム中毒の深刻さを知らずに放置していると、子どもたちは文字を読んだり、
言葉を習うよりも前からゲームの画面が与える面白さに目がくらみ、ゲーム中毒への道を歩み
始める。

 カトリック大学ソウル聖母病院のキム・デジン教授は「ゲームをすると、楽しみや快楽を与え
るホルモン、ドーパミンの量が増加し、脳がこれに作用することで、ゲーム以外の楽しみを感じ
られなくなってしまう。そして、大人になってからも本能であるかのようにゲームを求めてしまう
危険性がある」と話した。専門家たちは、ゲームを始める時期をできるだけ遅らせることが望
ましいと話す。しかし実際に、ゲームに初めて触れる年齢は下がり続けている。

 幼児用ゲームの内容が暴力的だったり、扇情的ではないからといって安心してはいけない。
インターネット夢希望広場のイ・ヒョンチョセンター長は「美しく穏やかそうなゲームが最も危険
だと考えるべきだ。実際に幼いゲーム中毒者の場合は『子ども用』ゲームから始まって、次第
に暴力性や扇情性が強いゲームに移行するケースが多い」と話した。

 あまり認識されていないが、幼児・小児期のゲーム中毒が青少年になってから深刻化するケ
ースも多い。今年中学校2年のチョ君(14)の母親は「10年前に戻ることができれば…」と毎日
後悔している。4歳のときからコンピューターを上手に使いこなしていたチョ君は、共働きの親
が放置している間に、メイプルストーリー、スタークラフトのような、中毒性の強いゲームに没頭
するようになった。そのためチョ君の父親がパソコンに暗証番号を設定し使えないようにする
と、今度はインターネットカフェに出掛けるようになった。チョ君のゲーム中毒で離婚の危機に
まで追い詰められた母親は、勤めていた会社を辞めてチョ君の治療に専念するという。母親は
「一人でゲームをさせるというのは、子どもに刃物を持たせるのと同じくらい危険なことだと今に
なって分かった」と話した。


【5】


 ギョンス(仮名)=ソウル市江西区加陽洞=は今年4歳だが、言葉をうまく話せない。「水」「お
菓子」「ママ」のような短い単語を発するだけで、うまく文章にして話せない。実際、ギョンスの一
日の生活の中では言葉があまり必要ない。同年代の友だちとも遊ばず、家に親戚や客が来て
も見向きもしない。

 ギョンスは1歳を過ぎたばかりのときからゲーム機で遊び始めた。有名なインターネットカフェ
の運営を手掛ける母親は、結婚後に夫と不和になり、パソコンに没頭するようになった。ギョン
スにはゲーム機を与え、一人で遊ばせた。ギョンスは今、オンラインゲームもスマートフォンの
ゲームも自由に操作する。言葉を覚えるよりも、同世代の友人と過ごすよりも、ゲームに没頭
した。母親がゲーム中毒に陥ったギョンスの深刻な症状に気づいたときには、時すでに遅しだ
った。ゲームを取り上げようとすると泣き叫び、母親をたたくなど、ギョンスは乱暴な行動も見
せた。

 一日中ゲームに没頭していたギョンスの脳は、世の中との間に壁を作ってしまった。言葉を
学び、社会性を身に付け、人間らしい性格を育み、素質を啓発すべきギョンスの脳には、ゲー
ム以外の何も入り込むことはできなかった。

 子どもが喜んで遊ぶからと、深く考えずにゲーム機を与える親、IT機器を上手に使いこなす
子どもを「IT神童」と勘違いする親、ゲームでもほかの子に負けてはならないとライバル意識の
強い親たちが「幼児ゲーム中毒」の悪影響に頭を抱えている。パソコン、ゲーム機、スマートフ
ォンが各家庭にあふれている昨今、幼い子どものゲーム中毒をめぐり親子げんかをしたことが
ない家庭はほとんどないだろう。

 特に、ゲームに初めて触れる年齢が年々下がっており、ゲーム中毒が韓国の子どもたちに
及ぼす影響が次第に増大している。また、幼い子どもほどゲームをする時間が長くなっている
のも実情だ。

 昨年ゲーム等級委員会が行った実態調査によると、ゲームに初めて触れた平均年齢は
2009年の5歳から、昨年は4.8歳へと低下し、1週間にゲームを利用する平均回数も、3−7歳の
幼児・児童(3.7回)が、9−18歳の青少年(3回)より多いことが分かった。また、1週間に7回以
上ゲームをする幼児・児童も13.5%と、青少年(11.4%)に比べ多かった。チャンセム精神科相
談センターの関係者は「病院を訪れる幼児のゲーム中毒者が毎年30%程度増加している」と
話した。

 ゲーム中毒は、視力・成長発達障害など身体的問題を引き起こすが、最も恐ろしいのは、幼
児の脳を破壊してしまうという点(こと)だ。

 関東大学明知病院神経精神科のキム・ヒョンス教授は「3−6歳児の脳の発達過程では、脳
梁(左右の大脳半球を接続する部分)が著しく発達し、高次的な判断力、思考力、注意集中力
と関連する前頭葉が急速に成長する時期。幼児期のゲーム中毒は前頭葉の機能に相当な影
響を及ぼし、脳の非正常的発達を招く恐れがある」と警告した。

 さらに中毒性も幼児の方が強いと指摘する。ディディム・クリニック(ソウル市蘆原区)のチェ・
サンチョル院長は「幼児期のゲーム中毒は、成長過程でいつでも再発する可能性があると言
えるほど中毒性が強く、精神健康の問題を引き起こす可能性もある」と警告した。



***********************以上、韓国朝鮮日報紙から転載




(11)
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F







【検索用】 教育評論 教育評論家 子育て格言 幼児の心 幼
児の心理 幼児心理 子育て講演会 育児講演会 教育講演会 講師 講演会講師 母親講演会 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩
み心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育
児疲れ 子育てポイント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼
児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House 
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス
 現場からの子育てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 
知能テスト 生活力テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最
前線の子育て論 子育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 
はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学
習 学習指導 子供の学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜
松中日文化センター BW教室 はやし浩司の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 
育児アドバイス 子育てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 
子育て調査 子育て疲労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ペー
ジの目次から選んでください はやし浩司のホームページ 悩み調査 はやし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポ
ケモンカルト ポケモン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論
 クレヨンしんちゃん野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家
族主義 子どものチェックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留
学生 金沢大学法文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザ
ー・育児相談 混迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし
浩司 ママ診断 過保護 過干渉・溺愛 過関心 教育論 子どもの巣立ち論 メルマガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・
子育てはじめの一歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東
洋医学基礎 目で見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアド
バイス 教育相談 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てス
トレス 最前線の子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交
換学生 三井物産元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在
住 はやし浩司 浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 B
W教室 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司
 無料マガジン 子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ 
コージ 林浩司 はやしひろし はやしこうじ 林浩二 浩司 東洋医学 経穴 基礎 はやし浩司 教材研究 教材 育児如同播種 育児
評論 子育て論 子供の学習 学習指導 はやし浩司 野比家の子育て論 ポケモン カルト 野原家の子育て論 はやし浩司 飛鳥新社
 100の箴言 日豪経済委員会 給費 留学生 1970 東京商工会議所 子育ての最前線にいるあなたへ 中日新聞出版 はやし浩
司 林浩司子育てエッセイ 子育てエッセー 子育て随筆 子育て談話 はやし浩司 育児相談 子育て相談 子どもの問題 育児全般 
はやし浩司子どもの心理 子育て 悩み 育児悩み 悩み相談 子どもの問題 育児悩み 子どもの心理 子供の心理 発達心理 幼児
の心 はや
し浩司 幼児の問題 幼児 相談 随筆家 育児 随筆家 育児エッセー 育児エッセイ 母親の心理 母親の問題 育児全般 はやし浩
司 林浩司 林こうじ はやしこうじ はやしひろし 子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 
不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 浜松市はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 
頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依
存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層
住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 
過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、
読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
へ)東洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩
司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司


戻る
戻る