【乳幼児期の記憶はどこにあるのか?】
(子どもの能力を引き出すために)
●乳幼児期の記憶
乳幼児期の記憶は、私が学生のころは、「ない」とされていた。
が、それがとんでもないまちがいであったことを証明したのが、ワシントン大学のメルツオフ※
である。
しかもその記憶は、おとなの私たちとは比較にならないほど、まさに怒涛のように脳の中に記
憶される。
まわりの空気、匂い、音、母親の肌のぬくもり、息づかいなどなど。
そしてそれがやがてその子供の心の基礎となる。
目を閉じてやすらかに眠る乳児。
けっして、軽く考えてはいけない。
(注※……乳幼児の記憶)
「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。
「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。
これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。
現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えら
れると考えられている(新井康允氏ほか)。
しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだ
けということになる。
現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。
たとえば幼児期に親に連れられて行った場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような
景色だ」と思うようなことはよくある。
これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考
えるとわかりやすい。
●相互作用
では、その一方で、あの乳幼児(新生児を含む)も、周囲のおとなたちに対し、いろいろな働
きかけをしていることも、最近、わかってきた。
わかりやすく言えば、あの赤ちゃんが、(あかちゃんがだぞ!)、おとな(とくに親)を、操ってい
る!
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識してい
るわけではない。
無意識のうちに、そうする。
さらに親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
それについても、脳内で麻薬を与えたときと同じような領域で反応が起き、脳内が高揚した状
態になるためと説明されている※。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。
(注※……母親の陶酔感)
時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー 医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。
母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理
の解明に役立つと期待される』と。
●おっぱい
ここではさらに話を一歩、進める。
どうすれば、乳幼児期の記憶をさぐることができるか。
またどうそれを教育の場で、応用することができるか。
最近、私は、こんな発見をした。
4、5歳児の幼児でも、女性の乳房(おっぱい)に対して、強く反応する子どもと、そうでない子
どもがいることがわかった。
最初は子ども(生徒)たちをからかうつもりで、おしゃぶりを私の机の上に置いてみた。
そのおしゃぶりに対する反応が、子どもによって、微妙にちがう。
まったく関心を示さない子どももいれば、トローッと甘い顔つきになる子どももいる。
条件反射的に、口をもぐもぐさせる子どももいる。
そこで私は、「こういうのを使ったことがある人?」と聞く。
が、ほとんどの子どもは、「使ったことはない!」と答える。
弟や妹が使っていると答える子どもは、いる。
しかし自分は、使ったことはない、と。
さらに「お母さんのおっぱいを飲んだことがある人?」と聞く。
が、このばあいも、ほとんどのこどもは、「ない」と答える。
そんなはずはないと思い、何度も念を押し、聞く。
が、それでも「ない」と答える。
(ただし中には、5、6歳になるまで、母親のおっぱいをのんだり、吸ったりしている子どももい
る。)
で、私自身の記憶をさぐってみる。
「私は、どうなのか?」と。
あるいはあなた自身は、どうか。
私のばあいも、母親のおっぱいを吸った記憶は、ない。
ぼんやりと何かしら記憶しているようには感ずるが、直接的にはない。
が、ここにあげた子どもは、まだ4、5歳。
そんな子どもでも、「ない!」と。
が、さらに不思議なことがある。
●口唇期
ときどき何かのことでふざけているようなとき、私は子どもたちにこう聞く。
「おっぱい、好きな人?」と。
すると、ほとんどの子ども(5、6歳の年長児)は、吐き捨てるようにこう答える。
「嫌い!」と。
4、5歳の年中児でも、そう答える。
そこで私は強い口調で、こう言う。
「ウソを言うな。好きだったら、好きと言え」と。
すると何人かは、恥ずかしそうにこう言う。
「……好きだよ……」と。
が、おおっぴらに、「好き!」と答える子どもは、いない。
もっともフロイト流に考えれば、「おっぱいが好き」(=おっぱいに特別の関心をもつ)という子
どもは、口唇期に何かの(こだわり)をもっていることが多いという。
依存性が強く、ストレスに弱いとされる(渋谷昌三「心理学」)。
●心理テスト
渋谷昌三氏は、「心理学」(西東社)の中で、こんな興味深いテストを紹介している。
そのまま紹介させてもらう。
++++++++++++++++++++++++
Q:つぎの5つは、赤ちゃんの身の回りにあるものです。
それぞれを頭の中で、思い浮かべてみてください。
もっとも印象深いのは、それですか?
(1)ほ乳瓶、(2)おしゃぶり、(3)おまる、(4)おむつ、(5)ガラガラ
++++++++++++++++++++++++
このテストによって、心の別室(はやし浩司)に抑圧された「隠蔽(いんぺい)記憶」をさぐるこ
とができるという。
乳幼児でも、おとなでも、自分にとって不快な記憶は、心に別室をつくり、それを押し込めてし
まう。
それを心理学の世界では、「抑圧」という。
そこでその中身が何であるかを知る。
このテストも、そのひとつというわけである。
どれにいちばん関心があるかを知り、その隠蔽記憶をさぐる。
で、渋谷昌三氏は、つぎのように、診断している(同書)。
(1)ほ乳瓶やおしゃぶりを選んだ人……依存心が強く、ストレスに弱い正確です。
(2)おまるやおむつを選んだ人……まじめで几帳面で、強情なところもあり、倹約家の面もあ
ります。
(3)ガラガラを選んだ人……虚栄心が強く、めだちたがり屋。
渋谷昌三氏は、つぎのように説明している。
『それぞれのものは、口唇愛期(誕生、1歳未満)、肛門愛期(1歳〜3歳)、エディプス期(3〜
6歳)※に対応したものです。
どの時期に(こだわり)をもっているかで、ちがう性格が形成されるといわれています」(以上、
同書)と。
つまり、記憶というのは、視覚的なものとはかぎらないということ。
いわばガスのようになって、脳の中に残る。
そのガスが、さまざまな形で、その人の性格を作る基盤になっていく。
「形」としての記憶がないからといって、「記憶がない」と考えるのは、正しくない。
(注※……エディプス、エディプスコンプレックス)
ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。
ギリシャ神話である。物語の内容は、つぎのようなものである。
テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタ
との間に生まれた子どもを、山里に捨てる。
しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王子として育てられる。
それがエディプスである。
そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。
そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王と
なり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。
が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。
つまりエディプスは、実父を殺し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。
そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。
エディプス自身も、自分で自分の目をつぶし、放浪の旅に出る……。
この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)にも取りあげられ、
「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思 想のキーワード」(講談社現代新書))。
つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支
配下にある」(同書)と。
わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライバルとして父親を憎む
ようになるという。
(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するということも、これに含まれる。)
この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのことに
疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。
母親からの異常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてなく
なることが多い。
●ガスを知る
「ガスを知る」という経験は、日常生活の中でもよくする。
たとえば街角で、どこかで見たことのある人に会ったとする。
そのときのこと。
どこで会ったかも覚えていない。
名前も覚えていない。
どういう関係だったかも覚えていない。
が、その瞬間、つまり会った瞬間、不快な思いに満たされることもあれば、反対に、懐かしさが
こみあげてくることもある。
これは知覚できる意識が反応する前に、脳の奥深いところにガスのようにたまっている記憶
が先に反応するためと考えてよい。
『坊主、憎ければ、袈裟まで憎い』というのも、そのひとつ。
ときとして、そのガスが、印象を決めてしまう。
乳幼児期の記憶は、言うなれば、脳の中でガス状になってたまる。
もちろん論理や分析、あるいは言葉や映像を伴った記憶ではない。
ぼんやりとしている……という意味で、「ガス」という言葉を使った。
そういう記憶である。
言い換えると、乳幼児と接するときは、ガスがどのように記憶されているか、それに注意を払
えということになる。
モノを買い与えるとか、どこかへ連れていくとか、そういうことではない。
(おとなには、そういう記憶ほど、強く印象に残るかもしれないが……。
またそういうのをもって、「記憶」と考えやすいが……。)
ガスである。
その場の雰囲気、温もり、環境、安心感や不安感などなど。
ぼんやりとしていて、実体がない。
が、こうしたことを理解することにより、即、それを教育の世界でも役立てることができる。
たとえば何かを教えるときも、教える内容や、できる・できたではなく、雰囲気。
「楽しかった」という思いだけを大切に、つくっていく。
それがやがて、子どもを伸ばす原動力になっていく。
以前に書いた原稿をいくつか、参考までに、ここに載せておく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 隠蔽記憶 抑圧 エディプス は やし浩司 ディプスコンプレックス はやし浩司 ワシントン大学 メルツオフ メルツォフ ベイ ラー はやし浩司 母親の脳内反応 麻薬 陶酔感 はやし浩司 ベイラー医科大学 乳幼児 の記憶)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●子どものやる気論(参考原稿、2010年10月記より)
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)
●ほめる
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子どもは、ほめて伸ばす。
これは家庭教育の大鉄則!
++++++++++++++++
●灯をともして引き出す
欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を
意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」と
いう単語に由来する。
その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。
発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。
●脳内ホルモンが脳を活発化させる
このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。
このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よく
みられる現象である。が、それだけではない。
ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。
●子どもをほめるときは本気で
ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。
その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。
こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返
報性」という言葉がある。
子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。
●「先生、肩もんでやるよ。」
で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。
「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。
K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こ
んなことがあった。
いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K
君は、少し恥ずかしそうにこう言った。
「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。
私はだまって、K君の好意を受けた。
(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)
+++++++++++++++++++++
もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。
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【子どもの中の子ども】
++++++++++++++++++++
子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。
++++++++++++++++++++
●乳幼児の記憶
+++++++++++++
子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。
+++++++++++++
「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。
「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。
これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに なる。
現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは 記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ かりやすい。
++++++++++++++++
わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。
やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。
では、「私の意思」とは何か?
それについて書いた原稿が
つぎのもの。
++++++++++++++++
●意思
最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。
たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。
(かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)
そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし まう。
……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。
……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。
やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。
しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと いうことになる。
……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。
「私」とは何か?
ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。
このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。
50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな る。
たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。
しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動 かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。
「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。
……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。
が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。
++++++++++++++++
そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。
子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。
少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。
++++++++++++++++
●子どものやる気
+++++++++++++
子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?
そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!
++++++++++++++
人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。
この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を 分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。
たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験 がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。
サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。
つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。
そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし まうと、簡単には変えられないということになる。
そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。
最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと しよう。
そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ うになる。
あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。
心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。
つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割 には、効果があがらないということになる。
このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。
何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。
このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。
ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。
「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。
わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。
そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。
これはたいへん重要なことである。
というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好 きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。
実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある 隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。
たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印 象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静 かに待つ。
(このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)
しかしカテコールアミンとは何か?
それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)
【補記】
一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)
それにはいくつか、理由がある。
勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。
あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追 いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。
本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親 は、パニック状態になってしまう。
かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)
【補記】
子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。
私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子 どもにとっても、幸福なことかもしれない。
しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。
大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。
++++++++++++++++++++
では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。
++++++++++++++++++++
● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.
++++++++++++++++++++
おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)
脳の奥深くに視床下部というところがある。
視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。
たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。
たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。
ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。
が、それだけではない。
コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)
フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)
こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。
しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)
性欲を例にあげて考えてみよう。
女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)
その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。
もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。
で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。
それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。
しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。
「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。
しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)
(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。
つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。
さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)
(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。
地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。
つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。
もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)
ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。
スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。
ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。
話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。
(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)
こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。
が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。
たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。
たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。
そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。
しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。
そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。
ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。
「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。
つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。
もちろん性欲についても同じ。
……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。
まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。
それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。
以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。
一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)
++++++++++++++++
では、いよいよ核心?
「私」とは何か。
また教育の世界では、「私」をどう考えたら
よいのか。
私は、ひとつの仮説を考えた。
++++++++++++++++
●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains.
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )
+++++++++++++++++
電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。
私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。
「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。
私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。
「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。
しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?
ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。
+++++++++++++++
昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。
仮説(1)
人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。
仮説(2)
その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。
これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。
仮説(3)
この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。
やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。
つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。
仮説(4)
この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。
以上が、私の仮説である。
具体的に考えてみよう。
たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。
具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。
そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)
「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。
その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。
「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。
そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。
これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。
こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。
その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。
たとえば性欲で考えてみよう。
男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。
たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。
つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。
では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。
私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。
こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。
たとえばここに1人の女性がいる。
朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。
こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。
もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。
しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。
++++++++++++++++++
こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。
たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。
しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。
さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。
この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。
しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分 視床下部 大脳前頭前野)
++++++++++++++++
教育の世界では、表面的な子どもだけを
見て、教育してはいけない。
教師のひとつひとつの行動、言動が、
どのように子どもの中に形成されていくか。
それを観察しながら、教育する。
あるいは反対に、その子どもが、その
子ども自身の中の、どのような「私」に
コントロールされているか、それを
的確に判断しながら、教育する。
それが教育の原点ということになる。
++++++++++++++++
【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have
found in these ten years.
●いよいよ核心?
++++++++++++++++++
「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。
大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。
食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。
では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。
実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。
こんな例で考えてみよう。
毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。
そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。
つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)
雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。
が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。
もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。
私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。
が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。
「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。
つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。
結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。
わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。
では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。
ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。
2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。
で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。
もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。
基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。
が、2人の人は、こう話しあった。
「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。
もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。
もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。
さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。
その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!
「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。
「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。
たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。
が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。
そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!
「私」とは何か?
つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。
もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。
しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。
繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!
さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。
言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!
+++++++++++++++++
【補記】
ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!
ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)
先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。
で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。
この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 教育の原点)
Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司
●言語能力
ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。
言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。
私も、そう思う。
つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。
が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。
先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。
「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。
これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。
つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ ることがわかってきました」(同書、P34)という。
その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適 切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。
それを「適齢期」という。
私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。
この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。
で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの ではないか。
この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。
澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評
論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist メルツオフ メルツォフ 乳幼児の記憶 視床下部 辺縁系 扁桃核 扁桃 体 カテコールアミン はやし浩司)
Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司
【参考原稿】
【新生児の謎】
●人間の脳の大きさは、母体の産道(骨盤)の大きさに比例する
+++++++++++++++++
進化の過程で、人間の脳は、より
大きくなってきた。
350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス) ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクゥス) ……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積 ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容量……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)
+++++++++++++++++
胎児は母体の産道(骨盤の間)をくぐり抜けて、生まれる。
そのときもし胎児の頭の大きさが、産道よりも大きければ、胎児は、母胎の産道をくぐり抜ける
ことができない。
だから『人間の脳の大きさは、母体の産道の大きさに比例する』。
胎児の頭が大きくなればなるほど、母体の産道の直径は大きくなければならない。
もし胎児が産道をくぐり抜けることができなければ、胎児が死ぬか、反対に母親が死ぬかのど
ちらかになる。
が、反対に、母体の産道が大きくなればなるほど、胎児の頭も大きくなるかといえば、それは
言えない。
たとえば人間以外のほかの動物のばあい、頭よりも体のほうが大きい。
またその多くは、2体以上の子どもを出産する。
頭の大きさが問題になることは、ない。
つまりほかの動物のばあい、母体の産道の大きさは、頭というより、体の大きさによって決ま
る。(その反対でもよいが……)。
が、人間だけは、いびつなまでに、頭だけが大きい。
なぜか?
●頭を大きくするために
人間の脳を、今以上に大きくするためには、母体の産道を大きくするか、胎児そのものを、人
工胎盤で育てるしかない。
よくSF映画の中にも、そういうシーンが出てくる。
大きな水槽の中で、胎児が人工飼育(?)されているシーンである。
水槽の中に胎児が浮かび、へその緒は、水槽外の栄養補給装置とつながっている。
この方法であれば、胎児は何の制約も受けず、自分の頭、つまり脳を大きくすることができる。
いくら大きくなっても、出産時の問題は起きない。
「あれはSF映画の中の話」と思う人もいるかもしれないが、現在の科学技術だけをもってして
も、けっして、不可能ではない。
現在でも、一度体外に取り出した女性の卵子に、人工授精させ、再び母体に戻すという方法
は、ごくふつうのこととしてなされている。
あと50〜100年もすれば、こうした方法、つまり人工胎盤を用いた育児法が、ごくふつうのこ
ととしてなされるようになるかもしれない。
●2つの問題
が、ここで2つの問題が起きる。
厳密には、3つの問題ということになるが、3つ目は、このつぎに書く。
ひとつは、こうして生まれた子どもは、頭が大きくなった分だけ、つぎの代からは、自然分娩に
よる出産がむずかしくなるだろうということ。
代を重ねれば重ねるほど、むずかしくなるかもしれない。
「ぼくは人工胎盤で生まれたから、ぼくの子どもも、人工胎盤で育てる」と。
そう主張する子どもがふえることも考えられる。
もうひとつの問題は、『頭が大きくなればなるほど、脳の活動は鈍くなる』ということ。
脳というのは、コンピュータの構造に似ている。
とはいうものの、シナプス間の信号伝達は、電気的信号ではなく、化学反応によってなされる。
この(化学反応)という部分で、脳は大きくなればなるほど、信号伝達の速度が遅くなる。
言いかえると、脳は小さければ小さいほど、信号伝達の速度が速い。
このことは昆虫などの小動物を見ればわかる。
こうした小動物は、知的活動は別として、人間には考えられないような速い動きをしてみせる。
つまり頭を大きくすることによって、より高度な知的活動ができるようになる反面、たとえば運
動能力をともなう作業的な活動になると、かえって遅くなってしまう可能性がある。
歩くときも、ノソノソとした動きになるかしれない。
ひょっとしたら、頭の反応も鈍くなるかもしれない。
これら2つの問題は、克服できない問題ではない。
が、もうひとつ、深刻な問題がある。
●豊かな感情は人間の財産
人工胎盤で育てられた子どもは、はたして人間的な感情をもつだろうか?
豊かな感情は、安定した母子関係の中ではぐくまれる……というのが、現在の常識である。
とくに生後直後から、満2歳前後までに、その子どもの感情、つまり情緒的発達は完成される。
しかし胎児のばあいは、どうだろうか。
胎児は母親の母体内にいる間、母親の愛情を感ずることはないのだろうか。
が、これについては、「感じている」と考えるのが、自然である。
最近の研究によれば、誕生直後の新生児ですら、実は母親に向かって(働きかけ)を行ってい
ることがわかってきた。
たとえば新生児は新生児で、本能的な部分で、自らの(かわいさ)を演出することによって、親
の愛情を自分に引きつけようとする。
つまり新生児の側からも、働きかけがあるということになる。
それまでは、たとえば愛情表現にしても、母親から新生児への一方的なものと考えられてき
た。
「母親から新生児への働きかけはあっても、新生児からの働きかけはない」と。
母親から新生児へ、新生児から母親へ。
こうした相互の(働きかけ)を、「ミューチュアル・アタッチメント(Mutual Attachment)」という。
が、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、誕生直後から始まると考えるのには、無理があ
る。
あらゆる生物は、もちろん人間もだが、その成長過程において、連続性を維持しながら成長す
る。
誕生と同時に、突然、「ミューチュアル・アタッチメント」が始まるというわけではない。
胎児は胎児であるときから、「ミューチュアル・アタッチメント」は始めていると考えるのが、自然
である。
となると、人工胎盤のばあい、胎児は、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、できないという
ことになる。
人工胎盤の中の胎児は、暗くて冷たい、孤独な世界でもがき、苦しむということになる。
いくら働きかけをしても、それに応えてくれる母親は、そこにいない!
仮に100歩譲って、何とか情緒面の問題を克服して誕生したとしても、今度は、そういう子ども
に対して、卵子の提供者でしかない母親が、母親としてのじゅうぶんな愛情を感ずることができ るかどうかという問題もある。
母親は10か月という長い期間、自分の胎内で子どもを育てるうちに、母親としての愛情を自覚
する。
あるいは出産の苦しみをとおして、その愛情を倍加させる。
もちろん夫の役割も無視できない。
妻の出産を喜ぶ夫。
そういう姿を見て、母親である妻は、さらに子どもへの愛情を倍加させる。
こうしたプロセスを省略した子どもが、はたして、感情豊かな子どもに成長するかどうかというこ
とになると、あ・や・し・い。
●人間の脳
ところで進化の過程で、人間の脳は、より大きくなってきたと言われている。
ちなみに、猿人、原人、旧人、新人、現代人の脳容積はつぎのようになっている。
350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス) ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクトゥス)……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積 ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容積……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)
ここで私は、「進化」という言葉を使ったが、実のところ現代人の祖先というのは、定かではな
い。
ただ言えることは、人間(ヒト)は、猿(サル)から進化したのではないということ。
反対に、たとえばチンパンジーにしても、やがて人間のように進化するということは、ありえな
い。
人間は、人間。
猿は、猿。
それぞれが、完成された個体である。
もちろん人間がここまで進化する過程の中では、猿人→原人→旧人→新人のそれぞれの段
階で、無数の新種が生まれ、そして絶滅していった。
たとえばよく知られた例として、ネアンデルタール人がいる。
ネアンデルタール人は、人間の祖先であるホモサピエンスとそれほど能力的には差がなかっ
たものの、今から1万数千年前に、絶滅している。
●未熟化する新生児
仮に産道の大きさはそのままで、胎児の頭だけが大きくなったら、どうなるか。
先にも書いたように、胎児は、母親の産道をくぐり抜けることができなくなる。
そうなれば母体である母親が死ぬか、胎児が死ぬかの、どちらかしかない。
が、ほかに方法がないわけではない。
胎児の頭がまだ、産道をくぐり抜けることができる大きさの段階で、出産するという方法であ
る。
つまり新生児としては未熟だが、その段階で母体から離され、そのあと、母体の外で育てる。
現に新生児の体重は、3200グラム弱(平均)とされているが、(平均体重は、この10年、
年々減少傾向にあるが……)、その1か月後には、体重は、約1・5倍に増加する。
2か月で2倍になる新生児も少なくない。
つまり人間の子どもの出産は、きわめて微妙な時期を選んでなされることが、これでわかる。
もし出産時が、1か月早ければ、新生児は、特別な介護なくしては生きていくことすらむずかし
い。
一方、もし1か月遅ければ、体重が増加し、ついで頭も大きくなり、出産そのものがむずかしく
なる。
ちょうどよいころに、ちょうどよい、……というギリギリのところで母親は子どもを出産する。子ど
もは、うまく産道をくぐり抜ける。
が、疑問は、残る。
なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか、という疑問である。
新生児のばあい、少なくとも生後6か月まで、保護者による手厚い保護がないかぎり、自分で
生きていくことはおろか、動き回ることすら、できない。
●進化論への疑問
ここにも書いたように、人間は人間として、今に見る人間に進化した。
「今の今も進化しつづけている」と説く人もいるが、反対に、「同時に退化しつづけている」と説く
人もいる。
突然変異というのは、まさに両刃の剣。
突然変異によって進化することもあるが、それまでの重要な遺伝子を喪失することもある。
つまり進化と退化は、相互に関連し合いながら、同時進行的に進むと考えてよい。
が、それはさておき、人間が今に見る人間になるについて、「ダーウィン的な進化論では説明
できない進化」と説く学者も少なくない。
進化論の世界では、「10万年に1回の、ささいな変化」でも、「突然変異」とみるのだそうだ。
が、こと人間に関していえば、ほぼ20万年単位で「大・突然変異」を繰りかえし、今に見る人間
になった。
たとえば「人類の祖先は、420万年前からずっと二足歩行していたにもかかわらず、350万年
前の猿人の脳容量は、ほとんどチンパンジーと変わっていない」(「るい・NETWORK・生物 史」)そうだ。
「二足歩行するようになったから、脳容積が大きくなった」という従来の常識にも、よくよく考えて
みればおかしいということになる。
そこで現われたのが、「作為説」。
「つまり人間は、その進化の過程で、何ものかによって、作為的に改良された」という説であ
る。
この説を説く学者も少なくない。
『……スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラーク氏は、進化論についてこう述
べています。
「人間が下等な生命形態から、段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形において
も人間をサルに関連づけるものは何もない。人間は突然に、今日と同じ形で出現した」』(指 摘:「宇宙GOGO」HPより)と。
「なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか」という疑問についても、未
熟なまま生まれるというように、だれかによって操作されたとも、考えられなくはない。
そのだれかとは、だれか?
このあたりから、話が、SF的になる。
あるいはどこか宗教的になる。
実際、こうした説に基づいて活動しているカルト教団もある。
だから私の話は、ここまで。
この先のことは、皆さんの判断に任せるが、UFOが存在し、当然、宇宙人が存在するというこ
になれば、私たち人間が、その宇宙人によって何らかの(作為的な改良)を受けたことがある のではないかと考えても、おかしくない。
とくに(脳)については、そうである。
なぜ私たちの脳は、こうまで飛躍的に進化してしまったのか?
わずか5500年以前には、私たちは火の使い方すら知らない新石器人間であったことを考え
るなら、この疑いは大きくなることはあっても、小さくなることはない。
(注)自分で読み返しても、稚拙な内容の文章だと思う。
文章もへたくそだし、つっこみも甘い。
が、私はここを出発点として、さらにこの問題について、考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 産道 胎児の大きさ 胎児の頭 人間の脳 はやし浩司 人間の脳の大きさと産道の大きさ はやし浩司 脳の進化 はやし 浩司 子どものやる気 やる気論 オペラント)
●認知理論
【浜名湖かんざんじ荘にて】(はやし浩司 2012−03−07)
今日は、舘山寺温泉にある、浜名湖かんざんじ荘へやって来た。
毎月のように世話になっている。
職員の人たちとも、すっかり顔なじみ。
それだけに居心地がよい。
気楽。
何度も書くが、浜名湖周辺で一泊……ということを考える人がいたら、この「浜名湖かんざん
じ荘」がよい。
窓からの景色(眺望)は、浜松イチ。
料理も最高。
浴場からの景色も、これまた最高。
あとは料金と相談。
この上と言えば、ホテル・ウェルシーズンがある。
さらにその上には、九重(ここえ)もある。
私はいつも「じゃらん」を利用している。
料金も格安。
本気度も、120%。
満足度も、120%。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●認知理論(Cognitive Theory)
「認知療法」とか、「認知的不協和理論」というのは、わかりやすい。
「認知行動理論」とか、「認知行動療法」というのもある。
それらのベースになっているのが、「認知理論」ということになる。
わかりやすく言えば、「行動理論」に対して、「認知理論」がある。
人間と言うのは、(ほかの動物もみなそうだが)、ある一定の状況下で、同じ条件が加わると、
共通した行動をする。
こうした行動反応を、体系化、理論化したものが、「行動理論」ということになる。
それに対して、「心(精神)」も、ある一定の状況下で、同じ条件が加わると、共通した心理反
応を示す。
こうした心理反応を、体系化、理論化したものが、「認知理論」ということになる。
というか、「心」の問題を、知的に分析、体系化したものと考えたほうがわかりやすい。
「心」というと、どうしても、「感情的」「情緒的」に考えやすい。
が、これでは科学としては、体系化できない。
そこで心の働きを、脳のメカニズムとして理解しようとして生まれたのが、認知理論ということに
なる。
近年のコンピューターの発達が大きく影響していることは言うまでもない。
脳も情報処理機関のひとつにすぎないというわけである。
『……人間の行動原理を解明する『行動理論』に対して、人間の認知的プロセスやその原理を
解明しようとする『認知理論』があり、認知行動療法のベースには、外的刺激や客観的状況の 意味をどのように解釈して受け容れるかという、『認知理論』が関係している。
認知理論は認知科学(認知心理学)の分野に包摂される仮説理論であり、脳内の情報処理プ
ロセスや知識の獲得・変容に対して強い関心・研究意欲が注がれるようになっている。
だが、心理臨床としての認知行動療法が最終的に目指すのは、『認知傾向の改善(考え方の
変容)』だけではなく『不適応行動の改善(適応行動の獲得)』であることも忘れてはならないだ ろう』(心理学用語辞典BLOG)と。
●心
もちろん「脳」と「コンピューター」は、ちがう。
たとえば感情。
私たち人間には、喜怒哀楽の「情」がある。
その情が総合されて、私たちの「心」を作る。
そういったものすべてを、コンピューター的に理解することはできない。
が、それも、「今はまだできない」というのが正しい。
さらに脳科学が進めば、「心」もまた、知的領域、つまり認知理論の中で説明できるようになる
かもしれない。
事実、今では、「感情ホルモン説」が、常識化している。
「喜怒哀楽の情も、脳内ホルモンによって作られる」と。
「恋のホルモン」と呼ばれる、フェニルエチルアミンを例にあげるまでもない。
ともかくも、「認知」の英語は、「cognitive」。
ラテン語の「I know」、つまり「私は知っている」に由来する。
だったら、「己を知る方法(セオリー)」でも、よいのではないか。
が、その点、日本語というのは、生まれながらの心理学。
日常会話の中に、そうした用語が織り込まれている。
(わだかまり)(こだわり)(ひがみ)(いやみ)(しがらみ)(いじけ)(つらみ)(取り越し苦労)(ぬか
喜び)(ねたみ)(みじめ)(ひもじい)……など。
泣き方ひとつ取り上げても、(さめざめ)(しくしく)(おいおい)(はらはら)(ほろほろ)(めそめそ)
などがある。
ほかにも心の変化、状態を表す言葉は、ズラリとある。
英語に訳したら、そのまま心理学用語になる。
たとえば「固着」という心理学用語がある。
うつ病の診断基準のひとつになっている。
それなどは、「こだわり」と考えれば、わかりやすい。
さらに日本へ伝来した仏教にしても、「宗教」というよりは、「心理学」。
人の心を体系化したもの、それが仏教。
私はそう解釈している。
で、これらを知的に理論化したものが、「認知理論」ということになる。
わかりやすく言えば、「心の反応理論」?
ただし運動や行動とちがい、「心」には、実体がない。
直接、その動きを証明することができない。
だから「仮説理論」(前述)ということになる。
……というのが今までの常識。
が、最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
たまたま今朝も原稿を整理していたら、こんな論文が出てきた。
いわく『赤ちゃんの泣き声を聞くと、母親の脳内では、麻薬を得たときと同じような反応が脳の
ある領域で起きる※』と。
「母性愛」というのは、仮説にすぎない。
が、その母性愛にすら、科学のメスが入るようになった。
(注※……母親の反応)
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー 医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。
母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理
の解明に役立つと期待される』(時事通信、2008年7月13日)と。
認知心理学は、今、ここまで進んでいる。
先の「固着(こだわり)」にしても、今では脳内の活動の様子を、リアルタイムで観察することが
できる。
それによれば、脳の一部が、過剰に興奮状態になっているのがわかるという。
それが「固着」と。
すごい!
●己を知る
といっても、現実の世界で、「己を知る」のは、簡単なことではない。
話は、ぐんと現実的になるが、許してほしい。
こんな事件が、20年ほど前にあった。
ある家の妻(そのとき結婚10年目ほど)が、突然、隣の家の温水器を、スコップで叩いて壊し
てしまった。
隣の家の温水器は、灯油、つまりボイラーで湯をわかすしくみになっていた。
それが時折、着火するときボワーッ音を出し、湯をわかす。
その嫁は、それが「うるさい!」と。
その少し前から、その家の夫が、妻をたしなめてはいたが、妻は、「ときどきではない。一晩
中だ」と言って、騒いでいた。
もっとも、この程度のトラブルなら、どこにでもある話。
その妻は、小学生の娘(当時小2)に、こう言いつけた。
「ボイラーが鳴る時刻と、時間を調べろ」と。
娘は几帳面にも、何時間にもわたって、それを調べ、記録した。
妻が、ボイラーをスコップで叩いて壊したのは、その直後のことだった。
で、この事件は、当然のことながら、隣人との弁償問題に発展した。
夫の実家の両親も、かけつけた。
いろいろ関係があり、私もその場に呼ばれた。
で、その妻は、どこかおかしいということになった。
が、それからがたいへんだった。
病院の精神科へ行く、行かないで、今度は、夫との大騒動に発展してしまった。
ふつうの騒動ではない。
近所中に聞こえるほどの大声で、怒鳴りあった。
が、妻は、夫や夫の両親が、車に乗せようとしても、それをがんとして拒否した。
「私は、どこもおかしくない!」と。
そのとき私は、それを知った。
その女性(妻)は、私自身の姿でもあった。
脳のCPU(中央演算装置)がズレるため、自分で自分の姿を客観的に知るということは、むず
かしい。
むずかしいというより、不可能。
「私は正常」と思いつつ、そうでない行動に走ってしまう。
つまり「己を知ることは、それくらいむずかしいこと」と。
●ダイエット
では、どうすれば、己を知ることができるか。
ひとつのヒントとして、最近、私はこんなことに興味をもっている。
たまたま現在、ダイエット中(減食+運動中)。
先週、体重計に乗ったら、68キロ弱。
ギョッとし、直後から、ダイエットを始めた。
食事の量を減らし、運動の量をふやした。
おかげで(?)、現在は、66キロ台。
もっとも1〜2キロ程度なら、すぐ減る。
目標は64キロ。
苦しいのは、これから。
で、そのダイエット。
言うまでもなく空腹感との闘い。
が、そのメカニズムがおもしろい。
認知理論を応用し、それについて少し考えてみたい。
●満腹中枢と摂食中枢
脳の脳下垂体に、満腹中枢と摂食中枢がある。
血中の血糖値を監視する。
満腹中枢は、言うまでもなく、満腹感を感知する。
摂食中枢は、空腹感を感知する。
この両中枢で興味深いのは、その2つがあるということ。
2つしかないということ。
中間がない。
たとえば車のガソリンメーターは、アナログでも、またデジタルでも、その中間値を示す。
私の車(プリウス)は、10段階のバーで表示する。
が、脳のばあいは、満腹か、空腹か、だけ。
ガソリンタンクにたとえるなら、満タンになったときと、空になったときだけ、それを感知する。
では、中間のときは、どうなのか。
原理的には、脳はそれについては感知しないということになる。
中間のときは、満腹感もなければ、空腹感もない。
食欲のことは忘れ、そのときの作業に集中できる。
そこで私はこう考えた。
「食事といっても、空腹感を消す程度に食事をとればいい」と。
満腹感を覚えるほど、食事を食べる必要はない。
空腹感、つまり視床下部にある摂食中枢を刺激しない程度のところまで食べればよい。
理屈で考えれば、そうなる。
その一例として、先日、バスの中で小便をした話を書いた。
文にするようなエピソードではないが、あえて紹介する。
「……2年ほど前のこと。
バスの中で、はげしい尿意を催した。
あるところから、あるところへ行く途中である。
ふつうなら途中下車をして……ということになるが、バスの便数そのものが少ない。
1日、数本しかなかった。
そこで私は、客がほとんどいなかったこともあり、バスの中ですることにした。
(この話は以前にも書いたが……。)
もっていたペットボトルのお茶を飲み干すと、それをもって、最後部の座席に移った。
私は最初、こう思った。
「こんな小さなペットボトルで、だいじょうぶかな?」と。
ペットボトルは、せいぜい300mL程度の大きさ。
そのときのこと。
尿意を減らすだけなら、全量、放出する必要はない。
ほんの少しでよい。
膀胱に、仮に70〜80%の尿が残っていたとしても、尿意はそれで消える。
実際、少し出したところで、尿意は消えた。
目的を達すると、前部の席に戻った。
ワイフが心配そうに、「どうだった?」と聞いた。
「うまくいった」と、私は答えた。
今回、ダイエットしながら、そのときのことを思い出した。
「全量、食べる必要はない。半分程度食べておけばよい。やがて空腹感は消える」と。
恐らく膀胱の感知能力も、視床下部のそれと同じではないか。
満タンか、どうか。
それだけを感知する。
仮に満タン状態を、(100)とすると、(80)とか(70)のときは、それを忘れていることができ
る。
が、満タン状態になったときだけ、尿意を覚える。
●私のダイエット法
そこで私のダイエット法。
要するに、満腹感を覚える必要はない。
空腹感だけを消せばよい。
そのためには、全量を食べる必要はない。
「腹8分」というが、「腹3分」とか「腹4分」にする。
そこでとどめる。
そのあたりで、空腹感は消えるはず。
……あまりよいたとえではないかもしれない。
「認知理論」というよりは、体のメカニズム。
が、心の動きも、こうして客観的に理解できる。
どう自分を知り、どうコントロールしたらよいか、それがわかる。
●私のこと
では、「心」のばあいは、どうか。
たとえば「不安」を例にあげてみる。
私のばあい、明らかに不安神経症。
強迫観念も強い。
いつも何かに追い立てられている。
ピーターパンに出てくる、フック船長に似ている。
時計を飲み込んだワニに、いつも追いかけられている。
カチコチ、カチコチ……、と。
その原因といえば、乳幼児期の基本的信頼関係の構築の失敗。
家庭というより、戦後のあのドサクサ期。
家庭教育の「カ」の字もないような時代に、私は生まれ育った。
父や母にしても、食べていくだけで精一杯。
親子で豊かな愛情を、はぐくむなどというようなことは、ありえなかった。
私はいまだに、その亡霊と闘っている。
不安神経症であるにせよ、強迫観念症であるにせよ、(実際のところ病名など、どうでもよいこ
とだが)、そのあたりに原因がある。
が、そういった「己」を知ることにより、症状を、自分でコントロールすることができるようになっ
た。
それが「認知」、つまり「I know」の意味ということになる。
●アスペルガー児
認知理論そのものは、要するに心理学全体を構成する「背骨」のようなもの。
大切なのは、それをどう理解し、臨床の場で、心の問題で悩んだり、苦しんでいる人を、どう助
けていくかということ。
「認知療法」というのも、ある。
……というか、そのための「認知理論」ということになる。
が、教育の場では、少しちがった考え方をする。
たとえばアスペルガー児と呼ばれる子どもがいたとする。
高次自閉症と位置づけられている。
「高次」というのは、知的な意味では、問題がないということをいう。
むしろ鋭い感性や、特殊な分野に並はずれた才能を示すことが多い。
そのアスペルガー児。
少し経験のある教師なら、瞬間見ただけで、そうであるとわかる。
が、わかっても、わからぬフリをする。
診断名など、口が裂けても言わない。
言ってはならない。
教師には、診断権はない。
医師にしか、ない。
(だからといって、医師の診断能力が完全かというと、それはない。
症例にしても、現場の教師のほうが、はるかに数多く、また長時間、経験している。)
そこで教師のばあいは、(今、そこにいる子ども)を前提に、教育を始める。
診断名など、どうでもよい。
忘れる。
原因となると、さらにどうでもよい。
重要なことは、親から、不安を取り除いてやること。
そのためには、バカなフリをする。
親から見て、「この先生は、何も知らない」と思わせる。
またそう思わせておけばよい。
その上で、親には、こう告げる。
「何も心配ありませんよ。家では〜〜してあげてくださいね」と。
あとは、自分のなすべきことに全力を尽くす。
……こういう書き方は、たいへんデリケートな問題を含む。
が、事実だから、書く。
が、私のばあい、軽い情緒障害であれば、親がまだ気がついていない段階で、それを「なお
す」ことができる。
たとえば場面かん黙児など。
現在も、幼稚園などでは、まったくしゃべらなかった子どもだったが、私の指導でしゃべるように
なった子どもが、2人いる。
方法は簡単。
ゲラゲラ笑わせながら、その笑いの渦の中に、その子どもを巻き込んでいく※。
●注※……笑いの科学)
ついでに……。
最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。
「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。
たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。
がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。
子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なお
す」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしま う。
●性(さが)
「認知療法」ということになれば、それはその子どもがおとなになるのを、待つしかない。
自分で、自分の問題点を知る。
「どうして、私はこうまでがんこなのか」
「どうして、私は他人の言葉で、こうまで傷つきやすいのか」
「どうして、私は冗談を理解できないのか」
「どうして、私は言葉どおりに、ものを考えるか」と。
その上で、自分の過去を知り、ついで、「アスペルガー」という言葉を知る。
「ああ、私は、子どものころ、アスペルガー児だったのだ」と。
が、実際には、ほとんどの人は、仮にそういった問題(障害)をかかえていたとしても、それに
気がつくことはない。
気がつかないまま、一生を終える。
先に書いた、私の不安神経症にしても、強迫観念症にしても、さらに原因はといえば、母自身
の過去と結びついている。
私自身の心にしても、「母親譲り」ということになる。
母にしても、不安神経症だった。
強迫観念症だった。
が、その母が、自分でそれに気づいていたかどうかということになると、「?」。
私の印象では、それはなかったと思う。
母は母で、死ぬまで自分のそういった「性(さが)」と闘っていたように思う。
それを指して、母は、よく「業(ごう)」という言葉を使った。
が、それでもそれに気づいていたとは、思っていない。
母は母で、13人の兄弟がいた。
その中で、下から4、5番目。
豊かな親子関係など、結びようもなかった。
大正生まれとはいえ、私以上に、基本的信頼関係の構築とは、無縁の世界に住んでいた。
そこで認知療法ということになるが、私たちはそうした情報を、自分で手に入れるしかない。
それを手がかりに、自分で自分を判断する。
自分自身の治療につなげる。
●ボイラーを叩いて壊した妻
で、ボイラーを叩いて壊した妻の話。
その妻のばあい、どうすれば「治るか」ということは、重要ではない。
どうすれば己に気がつくか。
それが先。
その妻のように、通常の常識ある社会生活がむずかしくなったようなばあいに、「障害」という
名前がつく。
妄想性が強い人だったので、病院にかかれば、「妄想性人格障害」という診断名がついたかも
しれない。
何かのことに一度こだわると、その瞬間から、妄想がかぎりなくふくらんでしまう。
「わざと音を大きくしている」
「わざと自分の睡眠を妨げている」
「私はこのまま不眠症になってしまう」と。
ふつうなら、(「ふつう」という言葉は、慎重に使わねばならないが)、たとえそうであっても、つ
ぎの「行動」には移らない。
「思い」と「行動」の間に、距離感のある人を、人格の完成度の高い人という。
そうでない人を、人格の完成度の低い人という。
それをコントロールするのが、「理性の力」。
大脳の前頭連合野が支配する領域である。
が、妄想が限度を超える。
それが突発的な錯乱状態を呼び起こす。
行動に走る。
私が見たときには、夫がもっていたバットで、それを壊した。
で、そういうときというのは、先にも書いたように、脳のCPUそのものが、ズレている。
そのため、「私が正しい」と言い張る。
実際、「私は正しいことをしている」と思い込んでいる。
(反対に冷静になると、そのときの自分を「正しい」と思うよう。
多重人格性をもった人と大きくちがうのは、その両者を、自分としっかりと認識しているというこ
と。
叩いて壊したという、記憶もしっかりとある。)
そこでその妻には、そういった行動が、心の病気によるものであることを、わからせる必要が
ある。
それが「認知療法」ということになる。
つまり妄想がふくらみ、コントロールができなくなったとき、本人自身が、こう思えばよい。
「ああ、これは病気だ」
「これは本当の私ではない」
「こういうときは、行動してはいけない」と。
それができるようになれば、あとは時間が解決してくれる。
やがて自分で自分をコントロールできるようになる。
(追記:先の事件からすでに、20年近くになる。
現在その妻は、50歳前後になるはず。
以後、遠ざかっているので、どうなったかは、わからない。)
●DVD『アナザー・プラネット(Another Planet)』
むずかしい話がつづいたので、話題を変える。
先ほど、DVD『アナザー・プラネット』を見た。
SF映画だが、先日見た『メランコリア』と、どこかよく似た映画だった。
が、この『アナザー・プラネット』は、ハッピーエンドで終わる。
どうハッピーエンドで終わるかは、DVDを見ないとわからない。
かなりの論理力が必要。
……最後のシーンで、主人公の女性、ローダは、自分の分身に出会う。
ふと振り返ると、そこにもう1人の自分が立っている……。
……ということは、つまり自分の分身に出会うということは、『アナザー・プラネット』のほうでは、
男性は、死んだはずの妻や子どもと出会っているということになる。
だからハッピーエンド。
が、ヒントは、ここまで。
あとはDVDを見ての、お楽しみ!
……『惑星ソラリス』(旧作)も、おもしろかった。
1970年代後半の映画だったが、実際に見たのは、1990年ごろ。
あのとき受けた強烈な印象は、今でも忘れない。
『アナザー・プラネット』は、その後続版(?)、SF映画と位置づけてよいのでは?
●認知理論
話を戻す。
脳の働きを、コンピューター的に解釈することは、たしかにおもしろい。
たとえば私は、脳には、コンピューターのCPUがもっているような、クロック数のようなものがあ
るのではないかと思っている。
子どもを観察していると、それがよくわかる。
子どもたちのそれは、おとなのそれよりも、何倍も速い。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2008年の10月に、私はこんな原稿を
書いた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●2008年10月21日
+++++++++++++++++++++++
4、5年前に、『マズローの欲望段階論』について
書いた。
その原稿を読みなおしながら、今日、自分で「なるほど」と
思った。
しかし自分で書いた原稿を読みなおして、「なるほど」は、ない。
つまりそれだけ記憶力が弱くなったということか。
+++++++++++++++++++++++
●「愚か」になる人たち
同年代以上の人たちを見ていて、ときどき、こう感ずることがある。
「この人たちは、日々に愚かになっているのに、それに気づいているのだろうか」と。
「愚かになる」というのは、知的能力の総合的な低下を、いう。
知識や経験のみならず、知恵や思考力そのものを失うことをいう。
しかしこれは脳のCPU(中央演算装置)の問題。
脳みそ全体の機能が衰えてくれば、知的能力の低下そのものも、わからなくなる。
自分が愚かになりつつあることすら、わからなくなる。
わからないならまだしも、知的能力が低下していても、「自分は、まとも」と誤解する人もいる。
私の知人に、今年、85歳になる男性がいる。
軽い脳梗塞を繰り返していることもあり、話し方そのものが、かなり、おかしい。
ろれつが回らない。
そんな男性でも、あちこちに電話をかけて、説教がましいことを言う。
私のところにも、かかってきた。
「親のめんどうは、最後まで、しっかり見ろよな」とか、何とか。
一応言っていることは(まとも)だから、それなりの会話はできるが、繊細な話しあいは、でき
ない。
深い話もできない。
そのため私のほうは、適当に話を聞いて、適当に合わせるということになる。
が、これはそのまま、私自身の問題ということになる。
遠い未来の話ではない。
5年とか、10年とか、それくらい程度の、先の話ということになる。
●愚かさの確認
どうすれば、自分の(愚かさ)を、自分で知ることができるか。
あるいはどうすれば、(愚かになっていく程度)を、自分で知ることができるか。
肉体的な衰えは、たとえば体力テストなどで、かなり正確に知ることができる。
同じように、知的能力の衰えも、たとえば知能テストなどで、かなり正確に知ることができる。
しかしそれを知ったところで、自分では、けっして、そうは思わないだろう。
たとえば昨夜も、こんなことがあった。
たまたま帰省している息子がパソコンをいじっていた。
音楽を、二男のインターネット・ストーレッジ(倉庫)から、ダウンロードしていた。
私もキー操作に関しては、かなり速いほうだ。
そう思っていたが、息子は、それこそ目にも止まらぬ速さで、キー操作をしていた。
私が、パチパチ……なら、息子は、その間に、パパパ……と、キーをたたく。
「この画面は何だ?」と質問している間に、すでに数枚先の画面を表示してしまう。
脳みそのクロック数そのものが、ちがう。
私のは、たとえて言うなら、1・0GH(ギガヘルツ)。
息子のは、たとえて言うなら、3・1GH(ギガヘルツ)。
クロック数そのものがちがうから、自分で自分の(愚かさ)を知ることはない。
しかし息子には、それがわかる。
もたもたしている私の指先を見つめながら、「イーxxx」と。
使っているソフトが、「イーxxx」という意味らしい。
では、自分の脳みそのクロック数を知るためには、どうしたらよいのか。
●子どもとの競争
ひとつの方法としては、知能テストもある。
しかしこの方法では、思考力のある・なしはわかるが、クロック数まではわからない。
そこでもうひとつの方法として、子どもと競争するという方法がある。
実のところ、私はいつも、この方法で自分のクロック数を確かめさせてもらっている。
レベル的には、中学生〜高校受験用の問題がよい。
そういった問題で、子どもと競争する。
ただし私のように、仕事上、毎回訓練しているほうが、有利。
問題を見ただけで、解答の道筋が見えてしまう。
(子どものほうは、最初、手さぐり状態になる。)
……ウ〜〜ン……
何かよい方法はないものか。
たとえば脳みその中を走る電気信号を、計数的にとらえることはできないものか?
たとえば右脳のA点から出た信号が、左脳のB点に達するまでの時間を計測する、とか。
「あなたは、0・03秒かかりました」「あなたは、0・13秒かかりました」とか、など。
そこであなたの脳みそのクロック数は、「0・02GH」「0・003GH」と。
家庭でできる方法としては、(1)速算、(2)早読みなどでもわかるかもしれない。
(これも訓練で、速くなるだろうが……。早読みにしても、声の大きさによっても、変化するにち
がいない。)
脳みそのクロック数が落ちてくると、「アウ〜〜」「エ〜〜ト」という言葉が多くなり、話し方も、
かったるくなる。
昔、大平総理大臣という人がいたが、ああなる。
が、結論から先に言えば、脳みそも、肉体の健康と同じ。
鍛練してこそ、能力を維持できる。
……ということで、今日は、これから仕事に行く。
もちろん自転車で。
夜は、ワイフとデート。
楽しみ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi 脳のクロック数)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●脳の操作
私はすでに4年も前に、「クロック数」を考えていた。
さらにそれにつづいて、これはあくまでも今の段階では仮説だが、そうした信号は、視床下部
あたりから発せられているのではないかという原稿も書いた。
自分の脳みそをコンピューターにたとえ、分析していくことは、たしかにおもしろい。
指先でコンピューターを操作するように、自分の脳を、自分の意思で操作する。
これからは、そういう研究がさらに進むはず。
それが「認知理論」、あるいは「認知心理学」ということになる。
●就寝
そろそろ就寝タイム。
先ほど、ワイフと私はこんな会話をした。
「ぼくたちは、広い宇宙を、2人で最後の航海をしているみたいだね」と。
残り少ない人生。
いろいろあった。
ありすぎて書ききれない。
若いときは、喧嘩ばかりしていた。
仕事ばかりしていた。
孤立無援というか、3人の子育ても、すべて私たちだけでした。
毎日、追い詰められてばかりいた。
が、今、私たちはそういった重圧感から解放された。
私の実家の問題も、数年前に、片づいた。
息子たちも、片づいた。
私たちが望んでいた形のようにはいかなかったが、ともかくも片づいた。
今は、そんなわけで、自由。
人生も晩年になって、はじめて自由。
「若いときは、デートをしたくても、できなかった」とワイフ。
「だから、今、しよう」と私。
地球という宇宙船は巨大だが、漆黒の宇宙を航行する宇宙船であることにはちがいない。
その宇宙船に乗り、最後の航海をつづけている。
行き先は……私にもわからない。
どこにいるかも、わからない。
航行しているというよりは、漂流している?
ともかくも、私たちはその宇宙船の上で、最後の航海をしている。
……この航海が、どこでどう終わるかは、まだわからない。
わからないが、とにかくその日まで、生きていく。
生きていくしかない。
「その日が来たら、いっしょに死のう」と私。
「そうね」とワイフ。
……湿っぽい話になってしまったが、私たちには、その湿っぽさはまったくない。
ワイフは、いつもこう言う。
「私たちは、すべきことは、ちゃんとしたのよ」と。
親たちのめんどうも、みた。
息子たちのめんどうも、みた。
やるべきことは、きちんとした。
だまされたことは、何度かある。
しかし、人をだましたことはない。
私の人生に、後腐れはない。
では、おやすみ!
はやし浩司 2012−03−08
浜名湖かんざんじ荘にて
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 認知心理学 はやし浩司 認知 理論 認知理論とコンピューター はやし浩司 脳のクロック数 視床下部 脳の回転 はやし 浩司 浜名湖かんざんじ荘にて はやし浩司 笑いの科学 笑いの効用 はやし浩司 免疫力 の増加 2012−03−07)
Hiroshi Hayashi+++++++March 2012++++++はやし浩司・林浩司
●TOYOTAのプリウス事件は何だったのか
【スーパータスカー(Super Tasker)】(マルチタスク人間)
●同時に複数の仕事を、問題なくこなせる人間
●スーパーマルチ人間
一見まともだが、よくよく考えてみると、おかしい。
どう考えても、おかしい。
そんなニュースが、今日(2012年3月初旬)、あちこちのニュースサイトに載った。
称して「スーパータスカー(Super Tasker)」。
つまり複数の仕事を同時にこなせる、「スーパーマルチ人間」。
しかも「人間の40人に1人が、スーパーマルチ人間」とか?
●映画の世界
映画の世界でも、超能力(スーパーパワー)がブームになっている。
スーパーマンからはじまり、スパイダーマン、スターウォーズなどなど。
ハリーポッターやドラキュラ、バンパイアも、その仲間に入る。
神や悪魔をテーマにしたものも、多い。
超能力者そのものを扱った映画も、多い。
が、それはあくまでも映画の世界の話。
現実には、ありえない。
ありえないが、このところその境目、つまり現実と空想の境目が、ぼんやりしてきた。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが、現れた。
何かしら、ふつうの人間とはちがう、特殊能力をもった人間ということらしい。
おおかたの人は、その記事を読んで、そう思った。
私も、そう思った。
●遺伝子?
30年も前なら、「バカな」と言って吐き捨てたかもしれない。
が、最近は、そうでない。
「ひょっとしたら、ありえるかもしれない」と。
そういうふうに考える人が多くなった。
超能力を売り物にした、カルト教団となると、今では無数にある。
そんなとき、「スーパーマルチ人間」なるものが現れた。
遺伝子がちがうのか?
そう考えた人もいるかもしれない。
が、そう考えるのは、待った!
●論理の穴
結論を先に言えば、論理の欠落。
この論文には、論理の欠落、つまり「穴」がある。
それについては、これからゆっくりと書くことにする。
私はこの種の論文を読むたびに、アメリカ人の脳みそを疑う。
ユタ大学に籍を置く研究者の論文ということだから、一応の敬意を払う。
慎重に読む。
しかしどう考えても、おかしいものは、おかしい。
……ということで、この原稿を書き始めた。
まず、その原本を紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ITPROサイトより
ITPROサイト(アメリカIBM)に、こんな興味深い記事が載っていた。
++++++++++++以下、ITPRO サイトより++++++++++++++
'Supertaskers' can safely use mobiles while driving
「スーパータスク人間」と呼ばれる人は、運転中でも、携帯電話を使うことができる。
A small minority of individuals show no loss of reaction time or mental skills when combining
mobile phone use and motorway driving.
小数の人は、道路を運転中でも、携帯電話を、反応時間や精神的なスキルの損失なしで使う
ことがわかった。
By Martin James, 30 Mar 2010 at 12:01(2010年3月20日付け)
A University of Utah study into the effects of mobile phone use on people's driving skills has
come to the expected conclusion that using a phone while driving can be highly dangerous.
ユタ大学の研究によれば、運転中に携帯電話を使用することは、きわめて危険であるという結
論になった。
Or at least that's the case for most of us. The study also made the entirely unexpected
discovery that for one in 40 of us, there were no signs of impairment whatsoever.
ほとんどの人にとってはそうかもしれないが、その一方で、40人に1人は、そういう影響を受け
ない人がいることがわかった。
これは予期しない結果でもあった。
University psychologists Jason Watson and David Strayer tested 200 subjects in two
motorway driving simulation tests, one of which also involved having a hands-free mobile phone conversation that required them to memorise words and solve maths equations.
大学の心理学者ジェイソン?ワトソンとデビッド?ストレイヤーは、200人について、道路での運
転シミュレーションテストを行った。
一方で、ハンズフリーの携帯電話で話してもらい、同時に、単語を覚えさせたり、数学の方程
式を解かせたりした。
For the vast majority of the test subjects, the researchers recorded an average 20 per
cent increase in braking response time, a 30 per cent increase in following distance, an 11 per cent drop in memory performance and a three per cent drop in the ability to do maths problems.
ほとんどの人のばあい、ブレーキ反応は、20%遅くなり、つぎの(加速反応も)30%遅くなっ
た。
また記憶力は11%、数学の問題を解く力は、3%落ちた。
However, the five 'supertaskers' not only showed no appreciable difference in following
distance, braking time and maths ability, but remarkably they actually displayed a three per cent improvement to memory performance.
しかし「スーパータスカー」と呼ばれる人たちは、ブレーキ時も加速時においても、これといった
違いを見せなかった。
数学の力も落ちなかった。
そればかりか、記憶力においては、3%の向上が見られた。
"According to cognitive theory, these individuals ought not to exist," Watson says in a
statement. "Yet, clearly they do, so we use the 'supertasker' term as a convenient way to describe their exceptional multitasking ability."
「認知理論」によれば、こうしたスーパータスカーと呼ばれる人は存在しないことになっている。
それについてワトソン氏は、「が、彼らはできる。こうしたマルチタスク能力をもっている人を、ス
ーパータスカーと呼ぶことができる」と。
However, with the study likely to be taken as justification for self-proclaimed 'supertaskers'
to continue to take risks by using their mobiles while driving, Watson had a word of caution.
が、こうなると自称「スーパータスカー」という人を、正当化することになるかもしれない。
つまり運転中に、携帯電話を使っても、危険はない、と。
ワトソン氏は、それについては、つぎのように、警告している。
"Given the number of individuals who routinely talk on the phone while driving, one would
have hoped that there would be a greater percentage of supertaskers," he commented.
その数字を明らかにすると、より多くのスーパータスカーが生まれることになると、彼はコメント
している。
The findings will be published later this year in the Psychonomic Bulletin and Review.
調査結果は、レビューで今年後半に公開されることになっている。
(以上、マーティン?ジェームズ、12:01 2010年3月30日記)
++++++++++++以上、ITPRO サイトより++++++++++++++
●スーパータスカー(マルチタスク人間)
要約すれば、約40人に1人は、たとえば車の運転中でも、問題なく、同時に複数の仕事がで
きるということらしい。
(だからといって、そういう人間を認めることはできない。
運転中に携帯電話をかける行為を、正当化する根拠になってしまう、と。)
●マルチタスクvsシングルタスク
今まで、私は「マルチ人間」というときは、複数の才能を同時にもっている人のことをいうと理
解していた。
レオナルド・ダ・ビンチを例にあげるまでもない。
たとえば、画家でありながら、同時に音楽家であるとか、そういう人間をいう。
その一方で、ひとつの分野にしか、才能を示さない人がいる。
(ふつうは、みな、そうだが……。)
そういう人を「シングルタスク人間」と呼んでよいかどうかということについては、わからない。
どんな人も、加齢ともに、思考回路を完成し、脳の働きを自動化していく。
画家は画家として、その道を完成させようとする。
音楽家は音楽家として、その道を完成させようとする。
完成度が高まれば高まるほど、『二兎を追う者は……』となる。
……というか、時間の限界を感ずるようになる。
残された時間をどう使うか……ということを考えていくと、どうしても的(まと)を、ひとつにしぼ
らざるを得なくなる。
「あれも、これも……」というわけにはいかない。
シングルタスク、イコール、「悪い」ということでもない。
が、ここでいう、「スーパータスク人間(スーパータスカー)」と呼ばれる人は、私が考えていた
「マルチタスク人間」とは、別の人であるようだ。
複数の分野ですぐれた才能を示す人ということではない。
つまり脳みその中で、複数の仕事をこなせる人という意味らしい。
●コンピューター
コンピューターの世界では、マルチタスクは、今や常識。
ワープロを操作しながら、同時に、動画を動画サイトへUPすることができる。
あるいはファイルのコピーをすることもできる。
初期(1980年代)のころのパソコンには、それができなかった。
ひとつの作業が終わってから、(つまりそれが終わるまで待ってから)、つぎの作業に移行し
た。
ここでいう「スーパータスク人間」という考え方は、たぶんにコンピューターの概念に影響され
たものと思われる。
コンピューターは複数の作業を同時にこなすことができる……だから人間にも、そういう人がい
るのではないか、と。
で、この実験が始まった……らしい。
が、この実験には、素人の私が考えても、おかしな点(=疑問点)はいくつかある。
●熟練者vs初心者
たとえば「運転」といっても、熟練者と初心者がいる。
熟練者は、ほとんど何も考えず、運転できるだろう。
手や足が、状況に応じて、勝手に動く。
が、初心者にとっては、そうではない。
状況に応じて、そのつど考えなければならない。
そうしたちがい、つまり熟練者と初心者を一緒くたにし、統計として調査結果を出したことに、そ
もそもの大きなミスがある。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
●慣れ
たとえば私は今、こうしてものを考えながら、キーボードを叩いている。
慣れた人には、何でもない行為である。
考えたことが、そのまま文字となり、モニター上にそれが現れる。
さらに言えば、私などは、キーボード操作に、かなり慣れているから、こうしてキーボードをたた
きながらも、午後からの仕事に段取りを、同時に考えることができる。
が、初心者にとっては、そうではない。
どこにどのキーがあるか、それをさがすだけでも、たいへん。
考えるヒマがないというよりは、考えそのものをまとめることができない。」
さらに言えば、同じ運動でも、道路を歩くのと、ルームウォーカーの上を歩くのとではちがう。
道路を歩くときは、あちこちに注意を払わなければならない。
一方、ルームウォーカーの上を歩くときは、ほとんど何も考えない、イコール、数学の問題を解
きながらでも歩くことができる。
自動車の運転も、それと同じに考えてもよい。
つまり「慣れ」。
心理学の世界では、「思考回路ができることによる自動化」という。
ほとんど何も考えないで運転できる人なら、運転をしながら、数学の問題を解くことができるは
ず。
反対に、そうでない人は、そうでない。
そうした「慣れ」も計算に入れ、スーパータスク人間かどうかを判断しなければならない。
少なくとも、自動車の運転というかぎられた範囲だけで、その人がスーパータスク人間かどうか
を、判断していけない。
では、どんなとき、スーパータスク型人間と判断してよいか。
●スーパータスク型人間
話は少し脱線するが、私が「スーパータスク」なるものを自覚するのは、通訳のときである。
日本語と英語を同時に考える。
しかしこれはけっして、楽な作業ではない。
脳の中でも、日本語を司る分野と、英語を司る分野はちがう。
日本語は、左脳、英語は右脳と言われている。
つまり通訳のときは、その両方を、同時に働かさねばならない。
そこで英語を話しているとき、いきなり日本語を聞いたり、あるいはその逆のことがあると、脳
がそのあと、ふつうでない疲労感を覚えることがある。
最近では、英文を日本語に翻訳していると、若いときには感じなかった疲労感を覚える。
だから洋画でも、字幕を見て楽しむときは、字幕だけを見て楽しむ。
英語を聞いて楽しむときは、逆に、字幕を見ないで、楽しむ。
それをしないと、ここにも書いたように、そのあと、ガクンと疲れる。
で、右脳と左脳は、太い電線のようなものでつながっている。
「脳梁」と呼ばれる部分である。
この脳梁を通し、右脳と左脳は、たがいに情報を交換することができる。
が、加齢とともに、この脳梁の働きが悪く(?)なる。
さらにたいへんなのが、同時通訳。
訳文を考えていたのでは、同時通訳などできない。
ほぼ無我の状態で、勘で通訳する。
このばあい、その脳梁の働きのよい人を、「スーパータスク人間」という(?)。
少なくとも、日本語と英語を同時に処理できる。
あるいは左脳が司る論理や分析をしながら、右脳が司る抽象的概念や図形を同時に処理で
きる。
運動分野にしても、そうだ。
自動車の運転という運動をしながら、別の脳を独立させることができる。
論文の内容は、どうやらそういうことらしい。
●Cマーク
少し頭が混乱してきた。
この原稿を読んでいるみなさんも、そうだろう。
で、結論。
天下のユタ大学の研究者の研究にケチをつけて悪いが、私なら、この論文に、「C」マークを
つける。
200人の人について調べたということだが、この実験だけでは、必要十分条件の「十分」の部
分を満たしていない。
この実験結果が正しいということを証明するためには、つぎの2つのことを証明しなければな
らない。
(1)この実験で、スーパータスク人間と証明された人は、ほかのさまざまな分野でも、それがで
きることを証明しなければならない。
たとえば読書をしながら、電話で客との応対ができる。
料理をしながら、数学の問題が解ける、とかなど。
(2)被験者200人の選び方にも問題がある。
どういう基準で選んだのか。
先にも書いたように、熟練者と初心者の区別、(こうした研究調査では、きわめて基礎的な部
分だが……)、その区別をしていない。
また分野を、「運転」にかぎっているのも、問題である。
近くのラーメン屋の親父さんは、客と雑談を交わしながらでも、うまいラーメンと作ることがで
きる。
考えようによっては、ラーメン屋の親父は、「スーパータスク人間」ということになる。
が、それも「慣れ」、つまり心理学でいうところの「自動化」と考えれば、何でもない。
あるひとつの行動の自動化ができれば、その行動は、それほど意識しなくても、できるようにな
る。
そこで2番目に、この実験で、「スーパータスク人間ではない」と判断された、残り160人につ
いて、ほかの分野でも、シングルタスク人間である(イコール、スーパータスク人間ではない)と いう証明をしなければならない。
以上、2つの条件を満たして、はじめて、必要十分条件ということになる。
たまたま運転中の作業だけを調べ、マルチタスク人間がいると結論づけるのは、きわめて非
論理。
非論理というより、危険。
こんなインチキな論文が、世界中のネットに流れること自体、バカげている。
●プリウス事件
……ということで、どう考えても、この論文は、おかしい。
私は、TOYOTAのプリウス事件(急加速問題)以来、私はアメリカ人の研究者の脳みそを疑
ってみるようになった。
そこらの高校生でもしないような、ミスを、平気でする。
インチキまではしないが、(見落とし)が多い。
運転中に、単語を暗記できたり、数学の問題ができるからといって、「スーパータスク人間」と
いうのは、論理的に無理(アナ)がある。
●認知理論
ここで「認知理論」という言葉が出てきた。
心理学では、よく使われる言葉である。
それについては、たくさんの原稿を書いてきた。
しかし「認知理論によれば……」(論文)というところが、よく理解できない。
「そんな理論、あったかなア〜?」と。
私が書いた原稿を探してみる。
あくまでも参考に……。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●結婚はしてみたけれど……(認知的不協和)
++++++++++++++++
結婚はしてみたけれど、こんなハズではなかった……という
夫婦は多い。
心理学でいえば、「認知的不協和」ということになる。
++++++++++++++++
●認知的不協和
「個人のもつ認知に矛盾やアンバランスが生じたことを、
アメリカの心理学者のフェスティンガーは、認知的不協和と
名づけた」(大村政男著「心理学」ナツメ社、P172)とある。
日常的によく経験する。
先日もあるところへ旅行した。
その旅行先で、昼食にとある食堂へ入った。
しかし立派だったのは、店構えだけ。
値段ばかり高く、まずかった。
で、その食堂を出て、しばらく歩くと、そこに
行列のできた食堂が何軒かあった。
レジの前には、順番待ちの客が、ズラリと並んでいた。
それを見て、「こういうところで食べればよかった」と、
少なからず、後悔した。
言うなれば、これも認知的不協和?
●結婚相手
しかしこれが結婚相手となると、ことは深刻。
子どもができれば、なおさらである。
そういうとき、人間は、認知的不協和から
「脱出」するため、4つのパターンから、
その一つを選ぶ(参考:同書)。
(1)この人しか私にはいないと、自分を納得させ、ほかの人と比較しない。
(2)離婚はしたくないので、がまんする。
(3)相手を育てるのは私と考え、ともに前向きに努力する。
(4)相手のよいところをさがし、それだけを評価するようにする。
この4つのパターンは、「心理学」を参考に、私が適当に考えたものである。
が、結婚生活というのは、実際には、もう少し複雑。
そのつど、この4つのパターンが、交互に、あるいは同時に、夫婦を襲う。
ときに自分を納得させ、ときにがまんし、また別のときには、あきらめる……。
この連続。
が、まずいのは、何と言ってもストレス。
認知的不協和も、ある一定の限度内なら、生活のスパイスとなる。
が、その限度を超えると、とたんにストレスとなって、その人を襲う。
おおまかにいえば、つぎのサイクルを踏む。
(平穏期)→(緊張期)→(爆発)→(沈静期)→(平穏期)……と。
しかしこれもどちらかというと、仲がよい夫婦のばあい。
ずっと(平穏期)のままという夫婦も、(緊張期)のままという夫婦もいるにはいるが、
そういう夫婦のほうが、あ・ぶ・な・い。
ただ周期の長さには、個人差がある。
2〜3か月ごとに(爆発)を迎え、大喧嘩する夫婦もいる。
1〜2年ごとに(爆発)を迎えるという夫婦もいる。
あるいは小刻みなサイクルを繰り返しながら、大きなサイクルを繰り返すという
夫婦もいる。
若い夫婦ほど、サイクルが短いということになるが、それにも個人差がある。
●夫婦喧嘩
要するに夫婦喧嘩(=爆発)も、しかたの問題ということ。
だから昔から、こう言う。
『夫婦喧嘩は、犬も食わぬ』と。
つまり何でも食べる犬でも、夫婦喧嘩は食べない、と。
「仲のよい夫婦ほど夫婦喧嘩をし、一時的ですぐ和合するから、仲裁に入るのは
愚かである」(広辞苑)という意味。
大切なことは、こう考えること。
どんな夫婦にも、認知的不協和はつきもの。
あとは、どううまくつきあっていくかということ。
それが夫婦ということになる。
(付記)
最近、気がついたが、結果として離婚していく夫婦には、ある共通のパターンがある。
同時にそれぞれが、離婚に向かうというケースは、少ない。
そのとき、先に離婚を覚悟するほうを、離婚側とする。
どちらかというと不本意ながら、離婚をさせられるほうを、被離婚側とする。
ふつうは被離婚側が気がつかないうちに、離婚側が、離婚を覚悟を決めてしまう。
そしてある程度……というか、その覚悟がしっかりできた段階で、離婚側が、
被離婚側に、離婚話を持ち出す。
「離婚する」「離婚させてください」と。
定年離婚と呼ばれる離婚には、こうしたケースが多い。
で、そのときのこと。
離婚側のほうには、微妙な変化が現れる。
相手が夫であれ、妻であれ、(妻であることのほうが多いが……)、
(1)電話などでの応対が、ぞんざいになる。
(2)きめのこまかい交際をしなくなる。(何かものを送っても、礼のあいさつがない。)
(3)小さな悪口を、それとなく会話にまぜる。
(4)軽蔑したような表現が多くなる。
(5)会話の内容が事務的になり、しっくりとかみ合わなくなる。
で、しばらくそういう状態がつづき、部外者が「?」と思っていると、そのまま
離婚……ということになる。
たとえば数年前、私はある知人に電話をした。
その知人は、その町の中心部で事務所を開いたのだが、それがすぐ行き詰ってしまった。
そのことを知っていたので、その知人の妻に電話をしたとき、「ご主人も、たいへんですね」
と私は言った。
それに対して知人の妻は、「……あの人は、何をしても、ドジばっかり……」と。
小さい声だったが、どこか吐き捨てるような言い方だった。
で、あとで知ったのだが、そのすぐあと、知人夫婦は離婚していた。
●結婚論
一般論からいうと、(あるいは私の経験論ということになるが)、年齢が若いときに、
ラブラブの状態で結婚した人ほど、皮肉なことに、認知的不協和は起こりにくい。
一方、晩婚型で、計算高く結婚した人ほど、認知的不協和は起こりやすい。
年齢が高い分だけ、それだけ相手をよく見ているかというと、そうでもない。
あるいは、いくら知ったつもりでいても、人間を知りつくすのは、それほどまでに
むずかしいということ。
このことは、結婚歴40年近い、私にとっても、そうである。
いまだにワイフについて、わからないところがある。
(ワイフにしても、そうだろう。)
だからやはり結婚というのは、電撃に打たれるような衝撃を感じて、何も考えず、
ラブラブのまま、結婚するのがよいということになる。
盲目的な結婚が悪いというのではない。
どうせ、みな、盲目なのだから……。
♪Wise men say, only fools rash in. But I can't help falling love with you…
(愚かモノだけが、結婚に突進すると賢者は言う。しかし私はあなたに恋をするのを
止めることができない……。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパータスク型人間 認知理 論 認知的不協和)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(参考までに、2002年に書いた原稿より)
●右脳教育
++++++++++++++++++++++
右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。
たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。
しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。
ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。
それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。
右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。
脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。
そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。
イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。
++++++++++++++++++++++++
アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。
「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。
一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。
これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。
++++++++++++++++++++++++++
●右脳教育への警鐘
論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考
えられる子どもが、少なくなってきています。
そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。
+++++++++++++++++++++
【親が右脳教育を信奉するとき】
●左脳と右脳
左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。
(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像
化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現
場でもしばしば経験する。
●こだわりは能力ではない
たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。
しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車 種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。
たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小 節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。
●論理や分析をつかさどるのは左脳
そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え られなくもない。
言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人 の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。
●右脳教育は慎重に
右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右 脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる 研究家がいる(福岡T氏ほか)。
●少年Aは直観像素質者
あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇 〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」 (「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。
少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。
その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで
目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの 非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。
要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。
++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
●才能とこだわり
自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列
車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種 からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけ で、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。
こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世
界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。 たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは 一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみ
る。
たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳
君殺害事件」を起こした少年である。
彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されている。
直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしまうこと
ができる子どもをいう。
少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、
この子を生んで」文藝春秋)。
そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になったとされる。
と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技 術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの は、才能ではない。
つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。
まさにそれだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感
性、理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそ うした背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではな い。
脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい る。
印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。
ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当て
た子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。
ある程度の計算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理
解できなかった。
1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。
1000円程度のものを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなか
った。
母親は、S君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばった
が、しかしそれはS君の「力」ではなかった。
教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。
「教育することによって、伸ばすことができること」を、才能という。
が、それだけでは足りない。その方法が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければなら
ない。
またそれができるから、教育という。
つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。
こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。
多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわることで、さらに自分の才能を伸ばすことができ
る。
現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわ
り」かもしれない。
時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたな
い「こだわり」ということになる。
が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能となって、世界的に評価されるよ
うになった人もいる。
あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そうい
う「こだわり」をもった子どもだったかもしれない。
そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02―11−27)※
(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども
子供 才能とこだわり 思考のバランス)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【アメリカ人の脳みそ】(TOYOTAのプリウス急加速問題)
アメリカ人の脳みそを疑うようになったのは、
(それ以前からも、疑っていたが……)、
あのプリウスの急発進問題が起きてから。
大学とは名ばかり。
もちろん優秀な教授や学生が集まる大学も多いが、
そうでない大学も、少なくない。
南イリノイ大学もそのひとつ。
その大学に、デービッド・ギルバート教授という教授がいる。
彼は、プリウスの急加速を、実験で証明できたと主張した。
が、その方法が、稚拙。
幼稚。
バカげている。
『ギルバート教授は、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に、5ボルトを加えてショートさせた状
態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することなく、急加速現 象がみられた』とした。
それに対して、トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤ
ーの絶縁状態を破壊する必要があった、としている。
つまりギルバート教授は、わざと電線をショートさせ、急加速現象を起こしてみせた。
そしてそれでもって、「トヨタのプリウスは、欠陥車」と結論づけた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
以下、当時、私がBLOGに書いた原稿。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●アメリカ人の論理力(TOYOTAのプリウス問題)
●アメリカ人の友人たちへ(To my friends in USA as to TOYOTA recall problem)
You have almost lost the last friend in Asia!
++++++++++++++++++++++
今度のTOYOTA問題を通して、君たちは、
アジアにおける最後の友人を失いつつある。
それを私たちは、とても残念なことに思う。
You have almost lost the last friend that had remained to be so in Asia through the
TOYOTA problems, about which we feel very sorry.
より多くの日本人が、反米的になりつつある。
新米的であった私でさえ、アメリカに、大きく失望した。
そして今では、こう言うようになってしまった。
「アメリカなど、クソ食らえ!」と。
More and more Japanese are becoming anti-American and even I, whom I supposed myself
to be a pro-American, do not hesitate to say, "Down with USA".
再現性のない、インチキ実験?
報道映像の捏造?
さらには保険金目当ての、にせ事故?、などなど。
日本では、急加速は、一例も報告されていない。
それもそのはず。
この日本で、両足を、ブレーキとアクセルの両方にのせて運転する人はいない。
「事故の95%は、運転手によるもの。
車によるものは2%にすぎない」(アメリカ国家ハイウェイ安全局(NHTSA)会長)。
リコール後も、600万台のプリウスについて、60件の苦情があったとか。
(600万台につき、60件だぞ!
0・001%!
GM車やフォード車については、どうなのか?)
それについて、「NHTSAは、さらなる改善策をTOYOTAに命じた」とか。
アメリカよ、少しは、冷静になれ。
これを「日本叩き」と言わずして、何という?
A very doubtful experiment, which was proved to be a fake,
A fabricated report on TV,
False accidents reported in the Congress...,
and more over it is strange that none of these sorts of accidents are reported in Japan.
No stupid men put both feet on each a brake pedal and accelerator pedal at the same time
in Japan.
Be calm!
NHTSA has ordered Toyota to provide a different solution, since 60 complains are reported
among 6 million TOYOTA cars.
Isn't this "Japan Bashing"?
+++++++++++++++++++++
●TOYOTA問題
今回の一連のTOYOTA騒ぎは、何のか。
よくわからないが、ことの発端は、1教授のインチキ実験。
南イリノイ大学の、ギルバート教授。
彼はコードの絶縁体を意図的にはがし、それでもって、急加速を再現してみせた。
「(絶縁体がはがれるなどいうことは)、通常の状態では起こらない」というのが、一般的な常
識。
そこで今度は、同教授は、5ボルトの電圧をかけ、「同じようなことが起こる」と実験してみせ
た。
しかし急加速問題は、何もTOYOTAで始まったわけではない。
同じような実験をすれば、ほかのメーカーの車でも、同じような反応を起こすことがわかった。
また似たような急加速は、TOYOTA車以外でも、アメリカでは、繰り返し、起きているという。
つまりこれは、TOYOTA車の問題というよりは、アメリカ人の車の乗り方に問題があると考え
たほうが、正しい。
当初、「アクセルとブレーキを同時に踏むと……」という報道が流れたとき、私には、その意
味がよくわからなかった。
「アクセルとブレーキを同時に踏むとは、どういうことなのか」と。
そのまま解釈すれば、アメリカ人というのは、両足を、アクセルとブレーキの両方に、足を載せ
て運転しているということになる。
しかし日本人は、そういう乗り方をしない。
そのためにアクセルもブレーキも右側(アメリカでは左側)に、寄せて並べてある。
●疑問
つぎつぎと新事実が、明るみになってきている。
が、今は私もまだよくわからないでいる。
報道された記事だけを集めておく。
後日、もう少し事実が明らかになった段階で、このつづきを書いてみたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)疑問だらけのデービッド・ギルバート教授の実験
トヨタ自動車は1日付の米議会あて書簡で、南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授が先
週の公聴会で示した見解に反論した。
同教授は、2月23日の下院エネルギー・商業委員会の公聴会で、自ら行った実験でトヨタ車に
発生したとされる急加速の状況を再現できたと証言、トヨタの電子系統に問題があるとの見解 を示していた。
ASSOCIATED PRESS
南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授(2月23日の公聴会で) は、プリウスの急加速
を、実験で証明できたと主張した。
この証言に対し、トヨタは書簡で、独自の調査と同社が調査を委託した技術コンサルティング
会社エクスポネント(米カリフォルニア州)の調査結果に基づいて反論を展開した。
トヨタはトヨタ側の実験でもギルバート教授と同じ結果が得られたが、他のメーカーの車でも同
じ状況が生じたと主張し、同教授の証言は誤解を招くと批判した。
エクスポネントは43ページに及ぶ報告書で、ギルバート教授の実験を他のメーカーの5車種
で行ったところ、すべて同じ状況が発生したことを明らかにし、実験のような状況は「きわめて 可能性の低い欠陥が重なった場合にしか生じない」と結論づけた。
ギルバート教授は23日の証言で、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に5ボルトを加えてショ
ートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することな く、急加速現象がみられた、とした。
トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現するには、2本のワイヤーの絶縁状態
を破壊する必要があった、としている。
ギルバート教授から、トヨタとエクスポネントの実験結果に対するコメントは得られなかった。
トヨタの広報担当マイク・マイケルズ氏は、ギルバード教授の調査を「誤解を招く不適切なも
の」とし、「システムをいじりまわしている」と批判した(以上「ウォール・ストリート・ジャーナル日 本語版より)。
★以上の原文
Toyota Motor Corp. rebutted the findings of a study presented at a congressional hearing
last week that claimed to replicate undetected sudden acceleration in its vehicles and called into question the company's electronics.
TOYOTAは、反証をあげた。
Based on its own study and one undertaken by the Menlo Park, Calif., engineering research
firm Exponent, which has been hired by Toyota, the car maker said it was able to duplicate the result in Toyota vehicles found by David W. Gilbert, a professor at Southern Illinois University-Carbondale who testified at a House hearing. But Toyota said it also created the same response in vehicles made by competitors, which it said rendered Mr. Gilbert's findings misleading.
ギルバート教授がしたようなことをすれば、ほかのメーカーの車でも、同じようなことが起きるこ
とがわかった。
"We have reproduced the engine revving and engine speed increase in Toyota's vehicles,"
Toyota said in a statement dated March 1 and sent to congressional committees. "At the same time, we have also confirmed that a substantially similar kind of engine speed increase phenomenon occurs with the other manufacturers' vehicles."
Toyota said the tests Mr. Gilbert performed would not happen "in the actual market." To
achieve Mr. Gilbert's results, Toyota said it had to cut and breach the insulation on two wires.
TOYOTAは、このような急加速は、TOYOTA車だけにかぎったことではなく、ギルバートの行
ったようなテスト(=2本の線の絶縁体をはがし、接触させるようなこと)は、通常の状態では起 きないと言った。
Mr. Gilbert said he will provide an official response but declined to comment on the findings
by Exponent and Toyota. He said he may travel to California to meet with the research concern.
In the last week, Toyota has endured three bruising congressional hearings questioning its
belated response to reports of sudden acceleration in its vehicles. While Toyota executives acknowledged the company failed to quickly respond to safety issues in the past, the company has maintained that faults in its electronics are not behind incidents of unwanted acceleration.
TOYOTAは、安全問題に迅速に答えなかったことは認めるものの、電子部品には欠陥はない
と主張した。
Consumer safety advocates continue to challenge Toyota on that point, charging that the
rise in acceleration reports-which have been linked to 52 deaths-is correlated to the installation of an electronic throttle control system in Toyota and Lexus models beginning in 2002.
消費者安全協会は、52人の死亡について、TOYOTA車との関連を追究する。
Mr. Gilbert, who testified before the House Commerce and Energy Committee Feb. 23, said
he was able to replicate sudden acceleration without creating an error code in the vehicle's onboard computer by introducing five volts into the gas-pedal circuitry of a Toyota Avalon. In his report, Mr. Gilbert said his findings "question the integrity and consistency" of Toyota' s computers to detect malfunctions.
5ボルトの電圧をかけたら、急加速現象が起きた。
In a 43-page report, Exponent, the research firm hired by Toyota to investigate its vehicles
electronics, applied Mr. Gilbert's test to five models including a Honda Accord and a BMW 325i and found all five reacted similarly. Toyota added that it tested three competitor vehicles and found they experienced the same engine revving and speed increase when their electronics were similarly altered.
同じような急加速現象は、ほかのメーカーの車でも報告されている。
"For such an event to happen in the real world requires a sequence of faults that is
extraordinarily unlikely," Exponent said in its report.
Toyota spokesman Mike Michels described Mr. Gilbert's research as "misleading and
irrelevant." Mr. Gilbert was "gaming the system," Mr. Michels said.
ギルバートの報告は、誤解を招くもの。
また車をもてあそんでいるだけ。
Separately, the National Highway Traffic Safety Administration said Thursday it has
received more than 60 complaints from Toyota owners who report they are still experiencing sudden unintended acceleration despite having their vehicle repaired by a Toyota dealer under the car maker's recalls.
TOYOTA のリコール後も、60件の苦情が、国家ハイウェイ安全局(NHTSA)に届いてい
る。
"Officials are contacting each and every consumer to learn more about what they say is
happening," the agency said.
現在、調査中。
If it appears that the remedy provided by Toyota isn't addressing the problem, NHTSA said
it has the authority to order Toyota to provide a different solution.
"We are determined to get to the bottom of this," said David Strickland, administrator of
the auto-safety agency.
国家ハイウェイ安全局(NHTSA)は、TOYOTAに、ほかの解決策を用意するよう、命じている
(以上、ウォールス・トリート・ジャーナルより)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
【ニューヨーク時事・3月16日】
トヨタ自動車は15日、米カリフォルニア州サンディエゴ近郊の高速道路で急加速を引き起こし
たとされるハイブリッド車「プリウス」について、技術者らが関連部品の徹底的な検査のほか、 走行テストなど多岐にわたる検証を行ったものの、車両に急加速を引き起こすような異常は見 られなかったとの暫定調査報告をまとめた。
調査は米道路交通安全局(NHTSA)関係者と米議員らの立ち会いの下、10、11の両日実施
された。
トヨタは暫定報告で、
(1)アクセルペダルは正常に機能した。
(2)前輪ブレーキは著しく摩耗していたが、後輪ブレーキとハンドブレーキは良好な状態だっ
た。
(3)正規品のフロアマットは留め金には固定されていなかったが、アクセルペダルを妨害もしく
は接触するような状態は確認されなかった。
(4)エンジン点火装置は正常だった。
(5)変速レバーも正常だった。
(6)アクセルペダルとブレーキペダルを同時に踏んだ場合、エンジン出力が減退する機能も正
常に作動した−などと説明した(以上、時事通信より)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
【ワシントン】米下院エネルギー・商業委員会が23日開いたトヨタ自動車の大量リコール(回収・
無償修理)問題をめぐる公聴会で、急加速を経験したとして証言したロンダ・スミスさんのトヨタ の「レクサスES350セダン」が、現在も使用されており、何のトラブルも起こしていないことが分 かった。
米高速道路交通安全局(NHTSA)の広報担当者が24日明らかにした。
●公聴会で証言したロンダ・スミスさん
同スポークスマンによれば、NHTSAが先週、同車の新しいオーナーに聞いたところ、「走行距
離3000マイル弱のところで購入し、何のトラブルも経験せずに走行距離は2万7000マイルにな った」と答えたという。
スミスさんは証言で、2006年にテネシー州のハイウェーで制御不能の急加速に見舞われ、時
速100マイル(約160キロ)になった恐怖の経験を涙ながらに語った。
その後、スミスさん夫妻は同車を売却した。
報告を受けたNHTSAの検査官は、フロアーマットがアクセルペダルに引っかかったことが原
因と判断した。
しかしスミスさん夫妻は、フロアーマットのせいではないと主張。スミス夫人は、車が速度を上
げる前にクルーズ・コントロール・ライトが点滅したことから、電子制御系の問題と考えている (以上、ウォール・ストリート・ジャーナル)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
ただ、2005年のNHTSA調査によると、自動車事故の約95%は運転者のミスによるもの
で、自動車の問題で起こるのは約2%にすぎない。
米自動車工業会のマッカーディ会長は同公聴会で、この報告を引用する予定だ。
同会長はまた、車の衝突データを集めるのにNHTSAがもっと多くの資金を必要としていること
を訴える方針だ(以上、ウォールストリート・ジャーナル)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)
先週、米カリフォルニア州のハイウェイで起きたトヨタのハイブリッド車プリウスの急加速事件
で、連邦当局の調査によってブレーキに特殊な損耗パターンが見つかり、運転者の説明に疑 問が浮かび上がっている。
関係している3人が語った。
先週8日、サンディエゴ近くのインターステート8号線で青の2008年型プリウスを運転していた
ジェームズ・サイクス氏(61)は緊急電話をかけて、何もしないのにスピードが時速90マイル (144キロメートル)まで上がったとオペレーターに伝えた。
最終的にはカリフォルニア・ハイウェー・パトロールのパトカーが同車に横付けし、止めることが
できた。
サイクス氏は走行中およびその後に、高速走行中に力いっぱいブレーキを踏み込んだと話し
た。
しかし、関係者によれば、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)とトヨタの専門家が共同でこ
の車を調査したが、高速走行中に一定時間力いっぱいブレーキが踏み込まれた痕跡は見つ からなかった。
ブレーキは変色し、損耗が見られたが、その摩擦パターンは運転者が断続的に普通程度の
力でブレーキを踏んだことを示唆しており、サイクスさんが言うような踏み込みはうかがえなか ったという。
これ以上の詳細は明らかではない。NHTSA当局者は12日、調査に関するコメントを拒否し
た(以上、ウォール・ストリート・ジャーナルより)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 TOYOTA問題 急加速問題 トヨタのリコール リコール問題 南イリノイ大学 デービッド・ギルバート教授 はやし浩司 アクセルとブレーキ トヨタ プリウス 急発進 急加 速)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●アホの上塗り(How are you ashamed of yourselves, Mr. NHTST, USA?)
To: NHTSA, USA
What has been the "TOYOTA" problem?
Please re-read my article which I wrote in 2010.
In that article, I wrote, "Be ashamed NHTSA!"
I also agein write here, "Be ashamed, NHTSA!"
+++++++++++++++++++++++++
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?
++++++++++++++++++++
このたび、TOYOTAの「シロ」が、確定した。
まず、YOMIURIの記事から。
+++++++++++++以下、YOMIURI+++++++++++++++
ラフード米運輸長官は8日の記者会見で、末娘からの問いあわせに"お墨付き"を与えたこと
を明らかにした。
末娘は、昨年、トヨタ自動車の2011年型ミニバン「シエナ」を購入したという。
長官は、「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべ
きだ』と答えた」と語った。
「我々が、トヨタ車が安全と感じているという例だ」とも述べた。
長官は昨年2月、議会で「トヨタ車の運転をやめるように」と発言していた。
+++++++++++++以上、YOMIURI+++++++++++++++
●ラフード米運輸長官
こんな記者会見程度で、TOYOTAが被った損害が、解消できるのか?
それで責任を果たしたことになるのか。
このラフード米運輸長官は、アホ中のアホ。
TOYOTA車に、宇宙線をあててまで、欠陥を探し出そうとした、その張本人である。
「車に、宇宙線」だぞ。
それもNASAと協力して?!
ラフード米運輸長官は、「論理学」の「ロ」の字も知らない、アホ。
アホ長官。
●2010年に書いた原稿より
昨年(2010)に、私が書いた原稿を、もう一度、よく読んでみてほしい。
ここに書いた「アホ」の意味が、よくわかってもらえるはず。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10−04−01)
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?
(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の私の原稿が、あちこちの
サイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。
++++++++++++++++++++
交通事故の95%は、運転手の操作ミスによるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの不適切な操作によるもの。
ところで、こんな仰天ニュースが、読売新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。
+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++
【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)と全米科
学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受けて事故原因の調査 に乗り出すことが30日、明らかになった。
米ワシントン・ポスト紙が報じた。
トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月かけて
行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影響を与 えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行う考えだ。
+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++
●悪玉づくり
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立てあげたいら
しい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼したという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?
ハア〜〜〜?
電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。
つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。
●疑問
(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、その放射
線とやらは、どこから発せられたのか。
そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるはず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。
(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授のそれと、
どこもちがわない。
「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。
(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したとか?
TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与える
かもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほうがよい。
(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠とはならな
い。
もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こぞって、
放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。
●論理学(必要・十分条件)
もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。
【問】
ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、どれをめくってみ
るか。
1枚目……(△)
2枚目……(□)
3枚目……赤の(●)
4枚目……青の(●)
単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。
しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明されたわけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。
この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)であったとしても)、この命
題の証明には、影響を与えない。
では、どれをめくればよいのか。
1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがっていることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。
これが「論理」である。
●必要・十分
話を戻す。
「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、TOYOT
Aの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。
(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)
さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA車に、ま
んべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」も証明しな ければならない。
まだある。
「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、証明しなけれ
ばならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。
また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。
「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?
●振り上げた拳(こぶし)
調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせなくなってし
まった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?
バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、アクセル
とブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数でも
よい。
最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。
●統計的調査(補足)
ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリ
カには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。
たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。
そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。
(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。
たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。
これが基礎データ。
つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数値に近けれ
ば、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因があるということになる。
同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)と、ほかの
メーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。
●車の欠陥
交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通安全局
(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。
そこで改めて数字を拾ってみる。
現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交通安
全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。
もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題にする前に、
車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。
さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしている。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必要があ
るのでは?
●放射線?
それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題は起きて
いないという。
(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでいる。)
つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証明しな
ければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータでもあれ
ば、話は別だが……。)
また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響を
与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめて十分
となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)
●だいじょうぶか、アメリカ!
私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。
なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が与え
る影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。
NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!
……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明でき
た」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。
言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。
(はやし浩司 ラフード米運輸長官 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTS A) NASA 放射線の影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYO TA ハイブリッド車)
●終わりに
ラフード米運輸長官は、こう言ったという。
「娘は決定的な保証を欲しがった。だから、(安全当局に)チェックした上で、『買うべきだ』と答
えた」と。
それに応じて、日本の経団連は、「安全性のお墨付きをもらった」とはしゃいでいる。
が、これもおかしい。
日本の車、社会、経済に与えた影響は、計り知れない。
それをさておき、「お墨付き」とは?
どうして日本は、ここまで隷属するのか。
シッポを振るのか。
本来なら、「コノヤロー!」と激怒し、損害賠償を請求してよい事案である。
どうしてそれをしないのか?
つまりラフード米運輸長官のこの程度のリップサービスで、日本人のあのときの(怒り)をご破
算にしてすませてはいけない。
またそれですむような話ではない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【結論】
「スーパー・マルチタースク人間」かどうかは、運転中だけのテストではわからない。
スーパー・マルチ・タースク人間と言えるためには、ほかの分野でのテストでも、それが証明さ
れなければ、ならない。
自動車の運転のような、慣れによって自動化できる技術を尺度にし、それ以外の作業ができ
るからといって、マルチ人間ということにはならない。
従って、ユタ大学が行った、この実験とその結果は、「C」マーク。
「アメリカの大学」「教授」「大学がした実験」という言葉に、幻想をもってはいけない。
またそういう権威付けにだまされてはいけない。
(はやし浩司 David Gilbert South Illinois Fake はやし浩司 Jason Watson David Strayer
家庭教育 ニセ科学 エセ論文 偽論文 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 スーパー マルチ人間 スーパータスカー はやし浩司 マルチ型人間 シングルマルチ TOYOTA プリ ウス 論理の穴 論理の矛盾 論理学 はやし浩司 必要十分条件 はやし浩司 Super Tasker スーパータスク人間 スーパータスク型人間 はやし浩司 マルチ人間)2012/03/06ま とめ
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【子どものやる気論】について
●「遊びが子どもの仕事」(中日新聞発表済み)
「人生で必要な知識はすべて砂場で学んだ」を書いたのはフルグラムだが、それは当たらずと
も、はずれてもいない。
「当たらず」というのは、向こうでいう砂場というのは、日本でいう街中の公園ほどの大きさがあ
る。
オーストラリアではその砂場にしても、木のクズを敷き詰めているところもある。
日本でいう砂場、つまりネコのウンチと小便の入りまざった砂場を想像しないほうがよい。
また「はずれていない」というのは、子どもというのは、必要な知識を、たいていは学校の教室
の外で身につける。
実はこの私がそうだった。
私は子どものころ毎日、真っ暗になるまで近くの寺の境内で遊んでいた。
今でいう帰宅拒否の症状もあったのかもしれない。
それはそれとして、私はその寺で多くのことを学んだ。
けんかのし方はもちろん、ほとんどの遊びもそうだ。
性教育もそこで学んだ。
……もっとも、それがわかるようになったのは、こういう教育論を書き始めてからだ。
それまでは私の過去はただの過去。
自分という人間がどういう人間であるかもよくわからなかった。
いわんや、自分という人間が、あの寺の境内でできたなどとは思ってもみなかった。
しかしやはり私という人間は、あの寺の境内でできた。
ざっと思い出しても、いじめもあったし、意地悪もあった。
縄張りもあったし、いがみあいもあった。おもしろいと思うのは、その寺の境内を中心とした社
会が、ほかの社会と完全に隔離されていたということ。
たとえば私たちは山をはさんで隣り村の子どもたちと戦争状態にあった。
山ででくわしたら最後。
石を投げ合ったり、とっくみあいのけんかをした。
相手をつかまえればリンチもしたし、つかまればリンチもされた。
しかし学校で会うと、まったくふつうの仲間。
あいさつをして笑いあうような相手ではないが、しかし互いに知らぬ相手ではない。
目と目であいさつぐらいはした。
つまり寺の境内とそれを包む山は、スポーツでいう競技場のようなものではなかったか。競技
場の外で争っても意味がない。
つまり私たちは「遊び」(?)を通して、知らず知らずのうちに社会で必要なルールを学んでい
た。が、それだけにはとどまらない。
寺の境内にはひとつの秩序があった。
子どもどうしの上下関係があった。
けんかの強い子どもや、遊びのうまい子どもが当然尊敬された。
そして私たちはそれに従った。
親分、子分の関係もできたし、私たちはいくら乱暴はしても、女の子や年下の子どもには手を
出さなかった。
仲間意識もあった。
仲間がリンチを受けたら、すかさず山へ入り、報復合戦をしたりした。
しかしそれは日本というより、そのまま人間社会そのものの縮図でもあった。
だから今、世界で起きている紛争や事件をみても、私のばあい心のどこかで私の子ども時代と
それを結びつけて、簡単に理解することができる。
もし私が学校だけで知識を学んでいたとしたら、こうまですんなりとは理解できなかっただろう。
だから私の立場で言えば、こういうことになる。
「私は人生で必要な知識と経験はすべて寺の境内で学んだ」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どものいたずら
ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。
パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。
時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども(小3)がいた。
母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をして
いるのだ」と。
ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。
絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。
善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。
その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。
アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。
で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかま
せた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。
で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。
この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。
……と思う。
また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。
作文力だけをみたら、小学校の3、4年生以上の力があったと思う。
で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、そ
れをテープに録音して、聴かせていました」と。
母親の趣味は、ドライブ。
外出するたびに、そのテープを聴かせていた。
今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。
子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。
その敏しょう性。
一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。
その子どもは、とにかくすばしっこかった。
で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。
雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。
子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●笑い(笑いの科学と効能)
ついでに、「笑い」について。
何度も書いてきたので、ネットでさがし、その一部を紹介する。
私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。
ときには、50分のレッスンの間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。
最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。
「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。
たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。
がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。
子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なお
す」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしま う。
私は、そういう経験を、何度もしている。
大声で、ゲラゲラ笑う。
たったそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくということ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 子どもと遊び やる気論 カテコ ールアミン ほめることの重要性 子どもはほめて伸ばす 子どもは笑わせて伸ばす やる気 と遊び 遊びで生まれるやる気 社会性 はやし浩司 子どものやる気)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●ほめることの重要性byはやし浩司
+++++++++++++++++
ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。
このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。
その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。
+++++++++++++++++
++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++
親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会
適応力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。父親
の育児参加も同様の効果があった。「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初とい
う。東京都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。
調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半に
なる09年まで追跡。親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調
べた。子に対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」な
ど5分野30項目で評価した。
その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼
児に比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。また、
ほめる以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽
たたかない▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける−−などが社会適応力を高
める傾向があった。
一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2
歳半の時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。母親の育児負担感が低かったり、
育児の相談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。
調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知られて
いたことを、科学的に明らかにできた。成果を親と子双方の支援に生かしたい」と話す。【須田 桃子】
++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司
子どもはほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)
++++++++++++++++++++
●2007年4月の原稿より
【子どもを伸ばす】
●やる気論
人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜ
っぺき)性。
大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、
重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激
するか、だ。そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。
自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネス
をとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学
者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価という
ことになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言え
ば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状
回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。
しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。こ
れを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、
人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も
変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわ
からない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はが
んばる。が、それがなければ、そうでない。
さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ
私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、
利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自
我が原動力になっていることはまちがいない。
つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの
外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れ
れば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限
の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そうい
う危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだ
ろうと思う。
そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その
我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考え
てみよう。
(自我の追求)
教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけ
がうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種
をまいて、引き出す』の要領である。
忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほどいい
子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子どもに楽をさせ ること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くするコツ」と考えている。し かしこれは誤解。まったくの誤解。
3つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱってい
く原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。
(絶壁性)
酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感をもた
せすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も多い。
そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかし
い。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。
とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。
小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はた
から見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食
もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだっ
たらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)
や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなって
いった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に
立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。
つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかというこ
と。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●生きがいを決めるのは、帯状回?
脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。脳のこの部分は、人間が原始動物であった
ときからあるものらしい。イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。
その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。最近の研究によれば、
どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかって
きた(伊藤正男氏)。
たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。反対にみなの前でけなされた
りすると、不快感を覚える。その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感
や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。
一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、
何をするのも苦痛になる。
これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。たとえば他人
にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。しかし反対に、他人をい
じめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。この感覚は、きわめて原始的なもので、つ
まりは理屈では説明できないような感覚である。しかしそういう感覚を、人間がまだ原始
動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。もし人間が、もと
もと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚を
もっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。
こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。新皮質
部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。たとえば正直に生きたとする。す
ると、そのあとすがすがしい気分になる。このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだ
が、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられるか」と
か考える。そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。
そしていよいよ帯状回の出番である。帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の
判断を受けて、やる気を引き起こす。「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そういう前向き
な姿勢を生み出す。そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、
思考や行動を活発にしたりする。
●私のばあい
さて私のこと。こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるというこ
とは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。(中には、「コノヤロー」と怒っ
ている人もいるかもしれないが……。)
さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活
発化する。そしてそれが私のやる気を引き起こす。そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。が、読者が減ったり、ふえな
かったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれ
が帯状回の機能を低下させる。
何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子ど
ものやる気を考えることができる。よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほめて伸
ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機能そのもの が、そうなっているからである。
さてさて私のマガジンのこと。私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらなければな
らない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。どこか絶壁に立たされたかのような緊張
感がある。では、その緊張感はどこから生まれるのか。
●ほどよいストレスが、その人を伸ばす
ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。そして脳や筋肉により多くの酸素
を送りこみ、危急の行動を可能にする。こうしたストレス反応が過剰になることは、決し
て好ましいことではない。そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低
下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。しかし一方で、ほどよいストレスが、
全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。
たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万
円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで
違う。子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、
いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子ど
ものよって、感じ方はまったく違う。
私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れる
ことができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることがで
きない。100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。しかし445人
に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。
●子どものやる気
子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程
度の緊張感を与える。しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるよう
な緊張感でなければならない。私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきているよう
に感ずる。ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。あるいは交通事故にあ うかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思う。
人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、
前に進むものか。そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。ただ
パンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。今、こうして自
分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないか
と。よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」なのか。
手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)がない。あるは ずもない。
ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の顔」
と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。
たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわか
らない。多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それ
はサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いている
と思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、
動かされているだけ?
同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされて
いるだけかもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャック
とローズを思い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。
その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心
をとらえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に
翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意
思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。
いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、
もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。このことは、子
どもたちを観察してみると、わかる。
幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期
は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、
子どもは急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子はこう
いう子だ」という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残るようになる。 (それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは脳の中の、辺縁系に ある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)
で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆ
るふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さ
や闘争心も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。
子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し
高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動い
ている。もちろん方向性が違うということはある。ある子どもは、作文で、あるいは別
の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。反
対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子ども
もいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎ
ない。
となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局
はそのハバの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、
本当に私は私なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私
ではないのか。
……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、
もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつか
ってしまったようだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。こ
れから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カ
ップヌードルか、パンか。
そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じら
れて、そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。
さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出し
て、近くのコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」
ではない。だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をす
る。
が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入
れる。となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないという
ことになる。
こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないことになる。そ
のことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。
北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連
絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそうい
う意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。
……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」
というのか、と。
街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には
楽器をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわりは若
さで華やいでいる。
「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。
楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を
使って、コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴
きあうのと、それほど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、
「私」ではない。
私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その
裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。
ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現したらいい
のかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その裏から基本的 に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言葉をつくらないとい けないね」と。
ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分が
ある。「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。いわばコンピ
ュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプログラムと考えるとわ かりやすい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまりにすぎない。そのスイッチを 機能的に動かすのが、OSということになる。人間の脳にある神経細胞からのびる無数のシナ プスも、このスイッチにたいへんよく似ている。
そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳のOS」と
表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに支配され、その 範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。
では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、そ
れは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。
たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったよ
うな感じだ。とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷や
してから考える。
(02−10−27)※
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●私とは何か
「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人
の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的と
いうわけだ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜62)も、『パ ンセ』の中で、こう書いている。
「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」
ともある。
この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、釈迦
が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行すること。ひた すら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死ぬまで精進しろ。そ れが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。
となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」とい
うことになる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あな
たの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をは
かってほしい」と。
このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。
しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたとい
う政治家が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出な
くてはいけない。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」
と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。
これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こ
る。そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことにな
る。しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」
があることになる。
そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然
(ばくぜん)としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、
ループ状態に入ってしまう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じこ
とを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。
そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒントとなった
のが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』である。彼は、こう書いてい る。
「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたこと
がない」と。
思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」
ということか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もちろんこれは
私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。しかしあ えて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。書くこと イコール、考えることと言ってもよい。
「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今の
ところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。書いた
のは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていない。
++++++++++++++++++++
〜02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。
それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。
最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。
「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。
++++++++++++++++++++
東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核に
生ずる傷によって起きる」と結論づけている。
松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」というの
である。
傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。
中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。
『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『いじ
めは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。
今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どものやる気論
【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)
●ほめる
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子どもは、ほめて伸ばす。
これは家庭教育の大鉄則!
++++++++++++++++
●灯をともして引き出す
欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す る。
その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。
発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。
●脳内ホルモンが脳を活発化させる
このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。
このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみら
れる現象である。が、それだけではない。
ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。
●子どもをほめるときは本気で
ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。
その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。
こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」
という言葉がある。
子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。
●「先生、肩もんでやるよ。」
で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。
「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。
K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことが
あった。
いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。
「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。
私はだまって、K君の好意を受けた。
(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)
+++++++++++++++++++++
もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。
+++++++++++++++++++++
【子どもの中の子ども】
++++++++++++++++++++
子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。
++++++++++++++++++++
●乳幼児の記憶
+++++++++++++
子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。
+++++++++++++
「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2
000年12月)。
「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。
これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに なる。
現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは 記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ かりやすい。
++++++++++++++++
わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。
やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。
では、「私の意思」とは何か?
それについて書いた原稿が
つぎのもの。
++++++++++++++++
●意思
最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。
たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。
そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。
が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。
たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。
(かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)
そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし まう。
……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。
……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。
やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。
しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと いうことになる。
……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。
「私」とは何か?
ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。
このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。
50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな る。
たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。
しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動 かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。
「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。
……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。
が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。
++++++++++++++++
そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。
子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。
少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。
++++++++++++++++
●子どものやる気
+++++++++++++
子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?
そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!
++++++++++++++
人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。
この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を 分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。
たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験 がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。
サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。
つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。
そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし まうと、簡単には変えられないということになる。
そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。
最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと しよう。
そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ うになる。
あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。
心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。
つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割 には、効果があがらないということになる。
このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。
何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。
このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。
ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。
「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。
わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。
そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。
これはたいへん重要なことである。
というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好 きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。
実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある 隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。
たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印 象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静 かに待つ。
(このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)
しかしカテコールアミンとは何か?
それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)
【補記】
一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)
それにはいくつか、理由がある。
勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。
あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追 いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。
本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親 は、パニック状態になってしまう。
かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)
【補記】
子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。
私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子 どもにとっても、幸福なことかもしれない。
しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。
大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。
++++++++++++++++++++
では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。
++++++++++++++++++++
● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.
++++++++++++++++++++
おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)
脳の奥深くに視床下部というところがある。
視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。
たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。
たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。
ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。
が、それだけではない。
コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)
フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)
こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。
しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)
性欲を例にあげて考えてみよう。
女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)
その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。
もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。
で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。
それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。
しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。
「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。
しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)
(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。
つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。
さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)
(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。
地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。
つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。
もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)
ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。
スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。
ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。
話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。
(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)
こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。
が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。
たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。
たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。
そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。
しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。
そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。
ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。
「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。
つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。
もちろん性欲についても同じ。
……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。
まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。
それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。
以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。
一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?
●北朝鮮の人工衛星(光明星1号)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
今日、北朝鮮の人工衛星について書いた。
アクセス数が多かったこともあるが、
書き足りなかった点もあるので、改めて
書き足してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
ここ数日、週刊現代誌に載っていた、北朝鮮の人工衛星なる模型が気になってしかたない。
現在、ピョンヤンの「電子工業館」に展示してある模型は、前回、北朝鮮が打ち上げた人工衛
星、「光明星1号」の模型という。
模型だから、本物ではない。
しかしまったくの、創造物とは言い難い。
もちろん、おもちゃではない。
こうした展示館で模型を飾るときは、常識として、できるだけ本物に近いものを並べる。
たいていは、予備に作った本物を並べる。
古今東西、どこの展示館でも、そうしている。
だから週刊現代誌で紹介されている人工衛星は、かぎりなく本物(?)に近いものと考えてよ
い。
しかし疑問がいくつかある。
●スプートニック1号、2号
北朝鮮の人工衛星を見て、まず気がつくのは、その形状。
一見して、旧ソ連が打ち上げた、スプートニック1号および2号にそっくり。
球形で、アンテナが斜め後方に4本、伸びている。
スプートニック1号および2号の写真と、北朝鮮の人工衛星の写真を並べて、紹介する。
なおスプートニック1号、2号というのは、スプートニク計画により、1950年代後半に旧ソ連
によって地球を回る軌道上に打ち上げられた、人類初の無人人工衛星をいう。
(1950年代だぞ!)
この3枚の写真を見比べただけでも、北朝鮮の人工衛星がいかに「おもちゃ風」であるかが
わかる。
おもちゃでなければ、サッカーボール。
あるいはクラブやディスコの天井につり下げてある、ミラーボール。
週刊現代誌は、「おもちゃイムニダ」と皮肉っている。
●疑問(1)アンテナ
アンテナを見たとき、最初にこう思った。
「これはラジカセのアンテナ?」と。
よく見ると、1本のアンテナが3段に分かれている。
携帯用のアンテナなら、伸縮できるように、3段にしたりする。
しかし人工衛星では、それは必要ではない。
仮に必要であるとしても、いったい、だれがどのようにして伸したり、縮めたりするのか。
が、さらに詳しく見ると、3段になったアンテナが、その接続部で、溶接らしきものがほどこし
てあるのがわかる。
写真でも見ても、それぞれの部分が、不揃いにふくらんでいる。
ついでにもう1枚。
私の家にあったラジカセのアンテナの写真も、ここに並べておく。
みなさん自身の目で、確認してみてほしい。
仮にこれが人工衛星であるとしても、数百億円もかけて宇宙へ飛ばす価値があるのだろう
か。
反対に、数百億円もかけて飛ばすくらいなら、もう少しその価値のあるものを打ち上げるので
はないだろうか。
この矛盾を、どう考えたらよいのか。
●着色の謎
謎はまだつづく。
宇宙では、温度の差が問題となる。
たとえば月面では、昼は+120℃、夜はー150℃になる。
月は自転をしているので、昼の蓄熱と夜の冷却が繰り返され、まだ温度差は小さい。
では、宇宙ではどうか。
回転していなければ、太陽の光の当たる表面は、限界温度、裏はー270℃近くになる。
そのため人工衛星は、温度を平均化するため、回転するようにできている。
とくに人間が居住するような人工衛星は、そうである。
が、もし機器を積んだだけの人工衛星であれば、「熱」だけを考えればよい。
電子機器は、「冷え」には強いが、「熱」には弱い。
そこで人工衛星は、スプートニック1号、2号のように、熱を反射するため、ピカピカに磨かれ
る。
ところが、である。
北朝鮮の人工衛星は、ピカピカどころか、着色してある。
わざわざ着色した理由は何なのか。
つまりここが不自然。
●本物と模型
私は子どものころから、プラモデルを作るのが趣味だった。
そのプラモデル。
よくできたプラモデルほど、本物に近い。
たとえば飛行機にしても、それぞれの部品には意味がある。
意味のない部品は、ない。
「こんなところに、こんなものがついている。何だろう……」と考えていくと、かならず、その答が
ある。
とくに戦闘機のばあいは、無駄がない。
もちろん飾りもない。
(塗装は別だが……。)
一方、たとえばガンダムのようなプラモデルは、言うなれば、「ウソの塊(かたまり)」。
もっともらしい部品は無数についているが、みんなウソ。
そこにある部品の意味を考えても意味は、ない。
すべてが作者の想像力から生まれた、「飾り」である。
つまり本物をもとにしたプラモデルと創作をもとにしたプラモデルのちがいは、ここにある。
で、人工衛星のばあいは、どうか。
……とあえて問題を提起するまでもなく、無駄なものは、いっさい、ない。
飾りも、いっさい、ない。
戦闘機のような塗装も、ない。
そんな必要もないし、そんなことをすれば、重くなるだけ。
その人工衛星に着色がしてある?
タイルごとに、2色が使われている?
しかも人工衛星の本体は、球形ではなく、多面体。
昔見た、ウルトラマンの映画にも、こんな人工衛星は出てこない。
●つづく疑問
もう一度、スプートニック2号の写真を見てほしい。
スプートニック2号は、ロケット本体に、きちんと格納してある。
つまりこの状態で宇宙へ飛んでいく。
つまり宇宙へ届いたら、カプセルが開き、人工衛星は外へ放たれる。
が、問題は、そのとき。
人工衛星が宇宙へ放たれると同時に、当然、アンテナは、傘を開くように開かれる。
そこでスプートニック1号の写真をよく見てほしい。
アンテナの付け根部分である。
たぶんバネ式になっていて、アンテナが開く構造になっているのがわかる。
かなり複雑な構造をしている。
一方北朝鮮の光明星1号は、見るからにラジカセのアンテナ風。
自動的に開くとか、そういった構造になっていないことがわかる。
「どうやって宇宙で開くのだろう」と考えるだけ、ヤボ。
このアンテナでは、宇宙で、開くことはできない。
が、展示してある光明星1号のそれは、ちゃんと開いている。
●結論
北朝鮮の人工衛星は、どう見ても人工衛星ではない。
アンテナひとつとりあげても……というか、私たちの家にあるラジカセのアンテナと見比べてみ
ればよい。
取りつけ方、形状ともに、そっくり!
恐らく今回打ち上げるミサイルにしても、似たようなものが積んであるのだろう。
重さは、100キロという。
北朝鮮は、世界に公開すると言っている。
だったら、その衛星本体を見せればよい。
ちがうかな?
【団塊の世代(バブル世代)は、若者の敵?】
●ジジババ老害論
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
少し前、こんな記事を書いた。
「最近、団塊の世代〜に対する、若い人たちからの風当たりが強くなってきているのを感じま
す。
「敵」とか、そんなふうに位置づけられているようです。
(若い人たちは、私たちのことを、「バブル世代」と呼び、経済の繁栄をつぶした世代と考えて
いるようです。)
そんな中、1人の老人(77歳)が、赤信号で横断した男性を注意し、殴り殺されるという事件が
起きました」(以上、はやし浩司)と。
私は当然、殴り倒した男性のほうが非難されるべきと思っていた。
が、若者たちの意見は、逆。
「注意した方の老人のほうが悪い」と。
これには驚いた。
驚いて、自分の意見を書いた。
団塊の世代は、若者の敵?。
それについて、多くの人から、(大半が若い人たちからだが)、コメントが届いた。
その中の1つを、そのまま紹介させてもらう。
(ほかにも多くのコメントが届いたが、感情的な意見であったり、あるいは文章として体(てい)
をなしていないので、その中の1つを、そのまま紹介させてもらう。)
+++++++++++++++++
(東京・KS氏より)
団塊世代は、年上という理由のみで、偉そうにしています。
若者を見下している!!
注意することは良いことです。
しかし、注意の仕方が悪いです。
団塊世代は敬語を使えないのかね?
「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」。
当然でしょう。
事実を認めず、それを若者にぶつける貴方みたいな人がいるから、バブル世代、団塊世代は
敵に回されるんです。
勿論全てのバブル、団塊世代の人ではありませんが・・・
また、東京に「大井川」駅は存在しません。
恐らく「大井町」駅の間違いですね。(以上、東京・KS氏より)
++++++++++++++++
●ジジババ老害論
ここに紹介したKS氏の意見は、けっして一部の若者の意見ではない。
おおかたの若者たちが、そう考えている。
60〜70%の若者たちが、同じように考えていると理解してよい。
称して、「ジジババ老害論」。
そのときに書いた原稿を、もう一度、再掲載する。
KS氏が言うように、私たち団塊の世代も、反省すべき点があるなら、謙虚に反省する。
私には、そういう視点が欠けているのかもしれない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
つぎの原稿の日付は、2012年1月20日になっている。
今日は、4月06日だから、3か月前の原稿ということになる。
団塊の世代、および老人組と呼ばれる人たちは、一度、私の原稿をじっくりと読んでみてほし
い。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(以下、2012年1月20日に書いた原稿より)
【ジジ・ババ・ゴミ論】はやし浩司 2012−01−20
(六趣輪廻の因縁で、闇路に迷う愚痴人間)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●ゴミ?
少し前、「ジジ・ババ・ゴミ論」について書いた。
私が「ゴミ」という言葉を使っているのではない。
若い人たちの書くBLOGに、そう書いてある。
最近の若い人たちの老人論には、辛らつなものが多い。
「老害論」から「ゴミ論」へ。
まさかと思う人がいたら、一度、若い人たちのBLOGに目を通してみるとよい。
それについては、もう何度か書いてきた。
ここでは「なぜ?」について、書いてみたい。
なぜ、私たちはゴミなのか?
●「将来、親のめんどうをみる」
「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と答える、日本の若い人たちは、世界で
も最下位。
総理府、それにつづく内閣府が、数年おきに、同じ調査をしている。
「青少年の意識調査」というのが、それである。
それによれば、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)
+++++++++++++++++++++++++++++++++
●年老いた親を養うことについてどう思うか
「どんなことをしてでも親を養う」
イギリス66.0%、
アメリカ63.5%、
フランス50.8%、
韓国35.2%、
日本28.3%
(平成9年、総理府の同調査では、19%。)
日本の若い人たちの意識は、28・3%!
アメリカ人の約半分。
「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。
しかし現実は、かなりきびしい。
今どき、「親孝行」という言葉を使う、若い人は、いない!
●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか
『そう思う』:
イギリス70.1%、
アメリカ67.5%、
フランス62.3%、
日本47.2%、
韓国41.2%
+++++++++++++++++++++++++++++++++
平たく言えば、現代の若い人たちは、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と考え
ている。
しかし「経済的に余裕のある若い人」は、ほとんど、いない。
どの人も、目一杯の生活をしている。
結婚当初から、車や家具一式は、当たり前。
中には、(実際、そういう夫婦は多いが)、結婚してからも親からの援助を受けている夫婦もい
る。
金融広報中央委員会の調査によれば、現在、貯蓄ゼロ世帯は、23%。
全国約4000万世帯の、23%。
4世帯につき、約1世帯。
さらに生活保護を受ける世帯が、2011年度、最高を記録した。
その数、150万世帯。
++++++++++++++++++++++++++++++
金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査(2006年)」によれば、
つぎのようになっている。
20代は171万円、
30代は455万円、
40代は812万円、
50代は1154万円、
60代が1601万円、
70歳以上が1432万円。
この調査は「20歳-79歳代の男女10,080人」を対象に調べたもので、
このうち貯蓄を持っているのは全体の、77・1%。
残りの22.9%は貯蓄ゼロ。
貯蓄ゼロの家庭は、年収が300〜500万円未満でも21.1%。
500〜750万円未満の家庭でも16.2%。
+++++++++++++++++++++++++++++
なお、団塊の世代についてみると、8・1%の世帯が、貯蓄ゼロとなっている(「格差脱出研究
所」調べ)。
ただしここに載っている数字にしても、あくまでも、「平均」。
70歳以上だけをみても、中に数億円以上もの金融資産を保有している人たちがいる。
大多数の人は、400〜500万円程度と言われている(某経済誌)。
「親のめんどうをみる」と答える、若い人たちの減少。
それと反比例する形で、「ジジ・ババ・ゴミ論」がある。
両者を関連付けるのは、危険なことかもしれない。
しかし無関係とは、これまた言えない。
●祖父母と同居
私自身は、3世代同居家族の中で、生まれ育った。
生まれたときから、祖父母と同居していた。
と言っても、当時は、それがごく平均的な家族であった。
「核家族」という言葉が生まれ、それが主流になってきたのは、1970年以後のこと。
夫婦と、その子どもだけの、「小さな家族」を「核家族」と言った。
当時はそれが珍しかったが、今では、それが主流。
若い人たちが「家族」というときには、そこには、祖父母の姿はない。
現在、祖父母と同居している家族の割合は、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)
●「祖父または祖母と同居している」
日本(20.6%)、
韓国(5.8%)、
アメリカ(3.1%)、
フランス(1.5%)、
イギリス(1.1%)
これらの数字を並べて解釈すると、こうなる。
(1)日本人は、親と同居している家族が、比較的多い(20・6%)。
子どもが生まれれば、3世代同居家族となる。
ただしこれには地域差が大きい。
地方の農村部では、多く、都市部では、少ない。
(2)老親は、子どもに老後のめんどうをみてもらいたいと考えている(47・2%)。
が、若い人たちには、その意識は薄い。
世界でも、最低レベルとなっている(28・3%)。
(3)「核家族」という家族形態は、欧米化の1態ということが、この数字を見てもわかる。
つまり、家族の欧米化が、現在、急速に進んでいる。
ただし欧米では、各地に「老人村」があるなど、老人対策が充実している。
一方、この日本では、老人対策がなおざりにされたまま、欧米化が進んでしまった。
その結果が、独居老人、さらには孤独死、無縁死の問題ということになる。
●「団塊の世代は敵」?
先日紹介したBLOGの中に、「団塊の世代は敵」と書いてあるのが、あった。
これには驚いた。
私たち団塊の世代は、感謝されこそすれ、「敵」と思われるようなことは、何もしていない。
そのつもりでがんばったわけではないが、現在の日本の繁栄の基礎を作ったのは、私たち。
そういう自負心も、どこかにある。
その私たち団塊の世代が、敵?
こうした感覚を理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要がある。
なぜか?
その理由の第一が、現在の若い人たちは、「貧しさ」を知らない。
生まれたときから、「豊かな生活」がそこにあるのが当たり前……という前提で、育っている。
それは私たちの視点を、逆に、80代、90代の人たちの中に置いてみるとよくわかる。
●「敵」
戦争を体験した人たちは、みな、こう言う。
「日本を守ったのは、俺たち」と。
結果的に日本は敗北し、(守った)という意識は、粉々に破壊された。
しかし「命をかけて」という部分までは、破壊されていない。
が、結果がどうであれ、戦争を体験した人たちが、「命がけで戦った」のは、事実。
で、そういう人たちに、私たち戦後の世代が感謝しているかといえば、それはない。
中には、「自業自得」と、辛らつな言葉を、浴びせかける人もいる。
「勝手に戦争を起こし、ひどいめにあった」と。
もう少し具体的には、こんな事実もある。
私の二男が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
私はこう思った。
「親父(おやじ=私の実父)が、生きていなくてよかった」と。
もし父が生きていたら、その結婚には、猛烈に反対しただろう。
私の父は、そういう人だった。
まじめで、がんこで、純粋だった。
本気で天皇を崇拝し、神国日本を信じていた。
ある日のこと、こんなことがあった。
私が小学3年生のときのことである。
私が「天皇」と呼び捨てにすると、一度も私に対して怒ったことがない父が、私を殴った。
「陛下と言え!」と。
父はその足で小学校へ怒鳴り込んでいった。
「貴様ら、息子に何を教えているかア」と。
そのときの担任が、N先生。
だから小学3年生のときのことだったということを、よく覚えている。
が、そんな父をだれが批判できるだろうか。
現に今、私たち団塊の世代を評して、「敵」という。
同じように、そういう若い人たちを、私たちはどうして批判できるだろうか。
私たちはいつも、過去を踏み台にして、現在を生きている。
その現在に視点を置き、「自己中心的な、現在中心論」で、ものを考える。
そういう視点で見ると、私たち団塊の世代は、この日本の繁栄を、ぶち壊してしまった。
少なくとも、若い人たちは、そういう目で、私たち、団塊の世代をながめている。
●ゴミ
私たちは、否応なしに、ゴミになりつつある。
またそういうふうに扱われても、抵抗できない。
体力も気力も、とぼしくなってきた。
若い人たちから見ると、私たちの世代は、毎日、遊んでばかりいるように見える。
昔、……といっても、もう30年以上も前のことだが、こう言った高校生がいた。
「老人は、役立たず」と。
当時の私は、この言葉に猛烈に反発した。
……そう言えば、それについて書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。
日付は2010年2月になっている。
当時、私はひとつの理由として、「受験競争」をあげた。
受験競争を経験した子どもは、総じて、心が冷たくなる。
私はそれを実感として、現場で、今も強く感じている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ・ゴミ 総理府 内閣府 青年に意識調査 親の面倒 親のめんどう 老後の介護 はやし浩司 団塊の世代 受験と 虐待)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
特集【介護と子どもの意識】(2010年2月の原稿より)
●介護と子どもの意識
+++++++++++++++++
介護問題に隠れて、表に出てこないが、
その裏には、子どもたちの意識の変化
がある。
現在、ほとんどの子どもたちは、「経済的に
余裕があれば、親のめんどうをみる」と
考えている(日本)。
しかし経済的に余裕のある人は、いない。
みな、それぞれが精いっぱいの生活を
している。
つまりこの調査結果を裏から読むと、
「めんどうはみない」となる。
が、ことはさらに深刻である。
(めんどう)どころか、(老人への虐待)が、
深刻化している。
10年ほど前に書いた原稿をさがしてみる。
(10年前ですら、そうだったということを
わかってほしい。)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ジジ・ババ受難の時代
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。
これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババ
への風当たりが強くなってきている。
若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののし
る表現が、最近、目につくようになってきた。
ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOGには、こんな書きこみすらあった。
「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。
おかげで、こちらは2週間も入院。そのジジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。
あんなジジイに、何度も見舞いに来られて、うるさくてしかたねえ。
こっちは、迷惑している」と。
その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。
つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。
そんな感じがする。
老人医療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。
加えて、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。
若者たちは、程度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。
これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。
「現在の日本の繁栄を築きあげたのは、私たちの世代だ」と。
しかしこれは、ウソ。
団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。
たしかに結果的には、そうなった。
つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝手な論理にすぎない。
私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきただろうか。
私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。
結果として日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。
そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。
しかしこれは深刻な問題でもある。
これから先、高齢者はもっとふえる。
やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上になるとも言われている。
そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろうか。
そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。
ジジ・ババは、ゴミ。
ジジ・ババは、臭い。
ジジ・ババは、ムダな人間、と。
そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、
たいへん住みにくい国ということになる。
そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるようになるかもしれない。
では、どうすればよいのか。
……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということ
になる。
が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。
親たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言ってい
るうちに、そうなる。
中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。
反対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いにな
る。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみ
ればよい。
「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。
「親の恩も遺産次第」と考えている若者は、もっと多い。
たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答えている。
つまり「余裕がなければ、みない」※と。
数年置きに、総理府(内閣府)が調査しているので、そのうち、これについての全国的な調査
結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。
私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。
そこでは、30〜40人の老人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をし
ている。
見た目には、のどかで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからな
い。
すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。
補助金を削減し始めている。
10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。
単純に計算しても、今は30〜40人だが、それが90〜120人になる。
そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。
またどのように考えるだろうか。
老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。
ケア・センターでは、老
人たちが、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。
ああいうのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。
高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。
そういう人たちが、手をたたいて、カラオケで童謡を歌っている!
つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。
また、そうであっては、いけない。
わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。
社会とかかわりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。
そういうかかわりあいというか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それ
なりにの(人間)として認められるようになる。
「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄
できたか、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていは
いけない。
私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に!
姿勢を低くして、若者や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。
その努力を今から、怠ってはいけない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
古い原稿を再掲載します。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●本末転倒の世界
「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。
そこで私が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。
それにそれまでにうんと、お金を稼いでおくからいい」と。
そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。
「それだけのお金を残してくれるなら、めんどうをみる」と。
親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者がふえている。
97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。
「親の老後のめんどうを、あなたはみるか」と。
それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%!
この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。
さらに東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている。
このことからもわかるように、若者たちの「絆の希薄化」は、ますます進行している。
一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。
今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均27万円。
この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。
だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。
それこそ爪に灯をともすような生活を強いられる。
が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。
大学という巨大な遊園地で、遊びまくっている!
先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母親がいた。
春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。
毎月の電話代だけでも、数万円も使っていたという。
もちろん子どもたちにも言い分は、ある。
「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。
何をいまさら」ということになる。
「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。
今、行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。
大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。
あるいは
ブランドだけで、大学を選ぶ。
だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学生もいる(新聞の投
書)。
こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。
「先生、私たち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。
どうしたらよいでしょうか」と。
私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。
私があきれていると、その母親は、さらにこう言った。
「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費用だけで
も、月に4万円もかかります」と。
しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができるだろうか。
(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。
月平均になおすと、約26・6万円。
毎月の仕送り額が、平均約12万円。
そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均年収は1005万円。
自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万円。
99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 親の支出額 学費)
+++++++++++++++
つづいて03年(7年前)に書いた
原稿を添付します。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●高齢者への虐待
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
やはり高齢者への虐待が
ふえているという。
これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。
+++++++++++++
医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護
サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11 月〜04年1月期)。
わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があっ
たということになる。
この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。
虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。
夫が虐待するケースもある(12%)。
息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。
これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということ
になる。
で、その虐待にも、いろいろある。
(1)殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2)ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3)食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4)財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。
何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。
こうし
た虐待は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。
最近の若者のうち、「将来親のめんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理
府、内閣府の調査)。
しかし考えてみれば、おかしなことではないか。
今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っている世代はいない。
飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。
本来なら、親に感謝して、何らおかしくない世代である。
が、どこかでその歯車が、狂う。
狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。
私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。
話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こ
んなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。
しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。
言葉の虐待である。
親は、子どものためと思ってそう言う(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言う
のだが……。)
子どもの側で考えてみれば、それがわかる。
子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。
しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場ではない。
心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。
これはもう、立派な虐待以外のなにものでもない。
しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだい
ている。
それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。
子どもの心は、その受験期をさかいに、急速に親から離れていく。
しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。
その結果だが……。
あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。
あなたの周辺には、心の暖かい人もいれば、そうでない人もいる。
概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、今、心の暖かい人であることを、
あなたは知るはず。
一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。
私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、
連続して教えたことがある。
そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期にまたがって、大きく変化する
のを、まさに肌で感じることができた。
この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライ
で、合理的になる。
はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え方を、平気でするよ
うになる。
こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えな
い。
つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。
さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろう
か。……言うことができるだろうか。
あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目で、あなたの子育てをみてみてほし
い。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●抑圧は悪魔を生む
イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。
心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子
どもの心にあてはまる諺はない。
きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、
まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。
その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。
人の目をたいへん気にする子どもで、いつも他人の顔色をうかがっているようなところは、ある
にはあった。
しかしそれを除けば、ごくふつうの子どもだった。
が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。
何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた!
「命」とか、「殺」とかいう文字もあった。
しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。
ほかに首のない死体や爆弾など。
原因は父親だった。
神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。
そしてその日のノルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの
中から引きずり出して、それをさせていた。
神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような
残虐事件は、現場ではいくらでもある。
その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。
一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったと
いうのだ。
この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。
ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。
ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。
ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火を
つけて、殺してしまった子ども(小3男児)もいた。
親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。
異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。
そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。
しかし過負担や過干渉が原因でないとは、もっと言えない。
子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散させようとする。
いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。
一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。
あなたの周囲には、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。
しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいということを、あなたは知ってい
る。
子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方
で、子どもの心をゆがめる。
それを忘れてはならない。
【追記】
受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。
それは事実だが、破壊された子ども、あるいはそのままおとなになった(おとな)が、それに気
づくことは、まず、ない。
この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。
が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。
本当の問題は、「では、なぜ、親たちは、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。
なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。
日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。
学歴のある人は、とことん得をし、そうでない人は、とことん損をした。
こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通して、いやというほど、思い知らされて
いる。だから親たちは、こう言う。
「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。
つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。
しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。
意識を変え、制度を変え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。
決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいことは、「おかしい」と言う。
そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。
少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。
しかしこれだけは言える。
あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、
遅いということ。
そのとき、気づいたのでは、遅いということ。
今ここで、心豊かな親子関係とは、どんな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよ
う。
Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司※
●受験競争の弊害
++++++++++++++++
受験競争の弊害をあげたら、キリがない。
問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。
そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。
+++++++++++++++++
精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、
他人の心情でものを考えられるかということ。
つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調和性などによって決まる。
言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。
そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それ
だけ精神の完成度が、低いということになる。
さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることにより、その人の精神の完成度を知ることが
できる。
子どもも、同じに考えてよい。
子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。
しかしこれは遺伝子と、発育環境の問題。
それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。
が、ここでいくつかの問題にぶつかる。
一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでし
まう要因があること。
二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の
自覚がないこと。
内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。
この受験競争は、どこまでも個人的なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。
子どもにかぎらず、利己的であればあるほど、当然、「利他」から離れる。
そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。
ばあいによっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。
……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そうい
う側面がある。
ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をする子ども
もいるのはいる。
しかしそういう子どもは、例外。
(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化している
だけ。
その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高
邁な人たちかというと、それは疑わしい。
疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)
実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。
(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)
こうして弊害をあげたら、キリがない。
が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。
親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこま
れている。
それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができない。
もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的、迎合
的。
そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。
いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。
今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。
一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか
心が冷たい。
いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会では、生きてい
かれない?
これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。
しかしこうした印象をもつのは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。
子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。
避けてはとおれないこと。
それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな
違いが出てくる。
一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほ
しい。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ある母親からの相談(2010年1月7日)
たまたま今朝、こんな相談が届いていた。
埼玉県K市に住んでいる、MSさんという方からの
相談である。
一部を変えて、そのまま紹介させてもらう。
【MSさんからはやし浩司へ】
はじめまして。
毎日先生のブログを読んでいる者です。
私の子供はもう19才と17才になり、子育てという年齢ではなくなっていますが、それでも、何
かと心に思うことがあり、子育てのブログを読ませていただいております。
今回、長女の成人式の問題と次女の大学受験のことで、私の気持ちがいっぱいになってし
まい、自分を見失ってしまいそうなので、ご相談しました。
先ず、長女の成人式ですが、着物は娘の好みに合わせレンタルしました。
今時のレンタルは早めの申し込みで、記念写真の撮影は昨年3月に済ませており、夫と私の
親にはすでにアルバムを渡しております。
この写真撮影の時、着物を着て帰りましたので、双方の祖父母宅に寄り、振袖姿を披露しまし
た。
ですが、もうすぐ成人式というのに、長女は成人式には出ないと言い出しました。
その時の私のショックは言葉に出来ません。
長女は大学2年で、学費で精一杯の家計ですが、せっかくの成人式なので好きな着物を選ば
せ、トータル20万円もしました。
今、思い起こせば、着物を選ぶ時も、写真撮影の時も、娘はずっと不機嫌でした。
私は娘の様子を見ているだけで吐き気がするほど、気分が悪くなってしまいました。
これも、私がそう育ててしまったのだから・・・
しっかりものの長女のこと、何か出席したくないよっぽどの理由があるはず、もうすでに振袖
姿は見たし、祖父母にも披露し、アルバムも撮影済み。
何が問題なのか? 長女の成人式だもの、本人の好きにすればいい・・・ と自分に言い聞か
せる毎日ですが、なかなか私の気持ちに折り合いが付きません。
これも、許して忘れる・・・でいいのでしょうか?
加えて、次女の大学受験で彼女のストレスが私に向けられ、毎日眼が回りそうです。
不安で不安で仕方ないようです。
私が高卒で、ずっと学歴にコンプレックスを持ち、子供には大学に行ってもらいたいと、小さい
頃から学歴が大事と間違って育ててしまったのがいけないのでしょうね。
夫はいうと、我関せずとばかりに、遠巻きにしております。
こんなことで・・・と笑われてしまいそうですが、中学生の時に、長女、次女とも本当に大変な時
期があり、頭の固い私が変わらざるを得ない事態となりました。
それから、子育てに自身がなくなり、これは共依存なのか?、と思うようになりました。
何かにつけ、私のしていることに自信がないのです。
何か良いアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。
【はやし浩司よりMSさんへ】
まず先の「介護と子どもの意識」を読んでみてください。
今のあなたの考え方も、少しは変ると思います。
簡単に言えば、親の私たちは、子どもに対して(幻想)をもちやすいということ。
その幻想を信じ、その幻想にしがみつく。
「私たち親子だけは、だいじょうぶ」と。
しかし実際には、子どもたちの心は、親の私たちから、とっくの昔に離れてしまっているので
すね。
親は子どもの将来を心配し、「何とか学歴だけは・・・」と思うかもしれない。
しかし当の本人たちにとっては、それが(ありがた迷惑)というわけです。
いまどき、親に感謝しながら大学へ通っている子どもなど、まずいないと考えてよいでしょう。
それよりも今、大切なのは、自分たちの老後の資金を切り崩さないこと。
あなたにかなりの余裕があれば、話は別ですが・・・。
お嬢さんたちもその年齢ですから、今度は、あなた自身の年齢を振り返ってみてください。
そこにあるのは、(老後)ですよ。
今は、まだ(下)ばかり見ているから、まだ気がついていないかもしれませんが、あと5〜10年
もすると、あなたも老人の仲間入りです。
では、どうするか。
つい先日、オーストラリアの友人が、メールでこう書いてきました。
「子どもたちには、やりすぎてはいけない。社会人になったら、お(現金)をぜったいに渡しては
いけない」と。
同感です。
私もずいぶんとバカなことをしましたが、それで私の子どもたちが、私に感謝しているかという
と、まったくそういう(念)はないです。
息子たちを責めているのではありません。
現在、ほとんどの青年、若者たちは、同じような意識をもっています。
だから私の結論は、こうです。
「よしなさい!」です。
娘の晴れ着など、娘が着たくないと言ったら、「あら、そう」ですまし、そんなバカげた儀式の
ために20万円も浪費しないこと。
親の見栄、メンツのために、20万円も浪費しないこと。
それよりもそのお金は、自分の老後のためにとっておきなさい。
子どもというのはおかしな存在で、そうしてめんどう(?)をみればみるほど、子どもの心は離
れていきます。
それを当然と考えます。
20年ほど前になるでしょうか。
ある父親が事業に失敗し、高校3年生の娘に、「大学への進学をあきらめてくれ」と頼んだとき
のこと。
その娘は、父親にこう言ったそうです。
「借金でも何でもよいからして、責任を取れ!」と。
そこで私がその娘さんに直接話したところ、娘さんはこう言いました。
「今まで、さんざん勉強しろ、勉強しろと言っておきながら、今度は、あきらめろ、と。
私の親は、勝手すぎる」と。
率直に言えば、これは「共依存」の問題ではありません。
あなたはまだ「子離れ」できていない。
つまりは精神的に未熟。
それが問題です。
あなたは子離れし、自分は自分で、好きなことをしなさい。
自分で自分で、自分の人生を見つけるのです。
つまりあなたはあなたで前向きに生きていく・・・。
その点、あなたを(遠巻きにして)見ている、あなたの夫のほうが、正解かもしれません。
ずいぶんときびしいことを書きましたが、そのためにも、前段で書いた部分を、どうか読んで
みてください。
私たち自身の老後をどうするか?
お金の使い方も、そこから考えます。
二女の方の学費にしても、子どものほうから頭をさげて頼みに来るまで、待ったらよいでしょ
う・・・といっても、今さら、手遅れかもしれませんが。
本人に勉強する気がないなら、放っておきなさい。
今のあなたには、それこそ重大な決意を要することかもしれませんが、そこまで割り切らない
と、あなた自身が苦しむだけです。
どうせ大学へ入っても、勉強など、しませんよ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●介護問題と子どもの意識
介護保険は、すでにパンク状態。
政府は税金をあげることだけを考えている。
しかしそれよりも重要なのは、子どもの・・・というよりは、日本人の意識を変えていくこと。
今のままでは、日本の介護制度は、その根底部分から崩れる。
「心」がない。
心がない介護制度など、またそれによってできる施設など、刑務所のようなもの。
「死の待合室」と表現した人もいる。
そんな施設に入れられて、だれがそれを「快適」と思うだろうか。
どうして日本人の心は、こうまで冷たくなってしまったのか?
脳のCPUの問題だから、冷たくなったことにすら、気づいていない。
みな、自分は、(ふつう)と思い込んでいる。
またそれが(あるべき本来の姿)と思い込んでいる。
このおかしさ。
この悲しさ。
ここに転載させてもらった、MSさんのケースは、けっして他人ごとではない。
私たち自身、あなた自身の問題と考えてよい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
最後にもう一作。
ある母親の嘆きを、掲載します。
10年ほど前、中日新聞に掲載してもらった
原稿です。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●親が子育てで行きづまるとき
●私の子育ては何だったの?
ある月刊雑誌(Mom)に、こんな投書が載っていた。
『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切
にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。
なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。
旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの?
私はどうしたらいいの?
最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。
子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・五〇歳の女性)と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 私の子育ては何だったの 私の 子育てはなんだったの 親子の断絶 はやし浩司 親子の絆が切れるとき)
●親のエゴに振り回される子どもたち
多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。
ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。
が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。
どうしたらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。
これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だ
け授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どう
したらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やら
せたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。
「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」
と。要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。
●投書の母親へのアドバイス
冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。
そのつど子どもの
意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理 が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。
●親の役目
親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、
(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。
この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視
点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。
この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。
結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。
が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だ
ったの?」という言葉が、それを表している。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 介護問題 子どもの意識 子離れ 子離れできな
い親 私の子育ては何だったの 私の人生は何だったの 私の子育ては、何だったの 親
の悔悟 介護問題 はやし浩司 親のめんどう 親の介護 親の介護問題 内閣府調査 は
やし浩司 受験という虐待)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●終わりに(2012年1月20日記)
ジジ・ババ・ゴミ論と、家族意識の変化。
さらには子どもを取り巻く環境と、家族意識の変化。
こうした問題が混然一体となり、この先、ジジ・ババを取り巻く環境は、さらに過酷なものとな
る。
それには例外はない。
「社会の大勢」というのは、そういうもの。
いかにあなたが部分的に努力したとしても、子どもたちはやがてその「大勢」に呑み込まれて
いく。
むしろ、「うちはだいじょうぶ」「うちの子にかぎって」と、高をくくっている親、家族ほど、あぶな
い。
そういう親ほど、子どもの心の変化に気づいていない。
●では、どうするか
最近の私の結論。
「そういう時流と思い、あきらめ、納得し、受け入れる」。
独居老人、しかたない。
孤独死、無縁死、これまたしかたない。
それ以上に、息子や娘たちには、期待しない。
期待しなければ、失望もない。
だったら、「限度をわきまえる」※。
繰り返しになるが、子どもたちに向かって、「勉強しなさい」と言ってはいけない。
言えば言うほど、責任を取らされる。
その言葉自体が、虐待でもある。
今、親に感謝しながら高校へ通っている子どもは、いない。
ゼロ!
大学生でも、いない。
社会人になってからも、親に車を買わせている子ども(若夫婦)となると、いくらでもいる。
さらには結婚式の費用から、子ども(孫)のおけいこ代まで払わせている子ども(若夫婦)まで
いる。
が、当の子ども(夫婦)は、感謝などしていない。
「生活が苦しい」と言うことはあっても、感謝などしていない。
だから限度をわきまえる。
(してやること)と(してはいけないこと)の間に、明確な一線を引く。
その一線を引くことに失敗すると、親子関係はバラバラになる。
それが全体として大勢を作り、ここに書いた「ジジ・ババ・ゴミ論」が生まれる。
そう、私たちは、ゴミ。
今は、そういう前提で、自分たちの(現在)、そして(未来)を考えたらよい。
その上で、私たちはどうあるべきか。
若い世代とどうつきあっていくか。
それを考える。
(注※)限度論……バートランド・ラッセル(イギリスのノーベル文学賞受賞者)。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれど
も、けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』 と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ジジ・ババ受難時代 ゴミ論 は やし浩司 孤独死 独居老人 無縁老人 日本の子育て 育児論 はやし浩司 子育て限度 論)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
(補足)
●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)
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韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという
(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。
『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」と
いう質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感すること
が、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。
ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。
『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめ
んね』という言葉を聞かされて育った。私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉 は、いざ両親に対してはかけたことがない。言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同) と。
つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。
申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
●保護と依存性
日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。
が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は
依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。
ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。
その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎
月のように、お金を借りに来ました。
『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。
この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話し)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。
家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。
●家族崩壊
申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。
そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」
というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。
が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまっ
た」。
前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、
会っていません」と。
●2つの解決策
家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。
予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母。
つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)
が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。
つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。
で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、けっし
て程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。
●3つのポイント
順に考えてみよう。
(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない
が、現実は、きびしい。
★父親のようになりたくない
平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬し
ていない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。
★親のめんどうをみない
第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という
質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、
イギリス 66.0%、
アメリカ 63.5%、
フランス 50.8%、
韓国 35.2%、
日本 28.3%、であった。
もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としてしていることの(愚かさ)に気づくはず。
●あなた自身のこと
こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。
「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。
が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。
では、どうするか?
結論は、すでに出ている。
『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。
子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。
先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。
「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。
「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。
へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存
はやし浩司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる はやし浩司 MOM 親
の嘆き 私の子育て 何だったのか はやし浩司 私の子育ては何だったのか)
(注)六趣輪廻…… 「六趣輪廻」とは、衆生が煩悩とその行為によって必然的に"趣く"六つの
道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)(以上、2012年1月20日記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●再度、KS氏のコメントより
+++++++++++++++++
(東京・KS氏より)
団塊世代は、年上という理由のみで、偉そうにしています。
若者を見下している!!
注意することは良いことです。
しかし、注意の仕方が悪いです。
団塊世代は敬語を使えないのかね?
「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」。
当然でしょう。
事実を認めず、それを若者にぶつける貴方みたいな人がいるから、バブル世代、団塊世代は
敵に回されるんです。
勿論全てのバブル、団塊世代の人ではありませんが・・・
また、東京に「大井川」駅は存在しません。
恐らく「大井町」駅の間違いですね。(以上、東京・KS氏より)
++++++++++++++++
●「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」
KS氏も、こう断言している。
「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」と。
ほかのコメントには、こうあった。
「団塊の世代は、ノーノーと生きてきた」
「借金を(若者に)押しつけ、遊んでいる」
「老人は、1匹、2匹で数えろ」などなど。
こうしたコメントについては、もう少しあとで紹介することにして、まずKS氏の意見。
(1)団塊世代は、偉そうにしています。
(2)若者を見下している!!
(3)団塊世代は敬語を使えないのかね?
(4)「バブル世代は、経済の繁栄をつぶした世代」。
(5)事実を認めず、それを若者にぶつける貴方みたいな人がいるから、バブル世代、団塊世
代は敵に回されるんです。
個人的には、「団塊世代は敬語を使えないのかね?」という部分に、私は反感を覚えた。
KS氏は、こう書いている。
「信号を無視して渡ってきた男性(息子も同伴)に対して、老人といえども、敬語を使って注意し
ろ」と。
敬語?
どうして敬語なのか。
脳の中で、バチバチと火花が飛ぶ。
反論しようにも、しようがない。
●意識のズレ
意識のズレというのは、恐ろしい。
私も含めてだが、ほとんどの団塊の世代は、そうは考えていない。
「現在の日本の繁栄を築いたのは、私たち」と。
そう考えている。
が、ただ築いたのではない。
自分を犠牲にし、懸命に貧乏のドン底から、はい上がった。
私にしても、1か月に休みが、1日だけという年が、何年もつづいた。
子どもたち(息子や娘たち)にだけは、ひもじい思いをさせたくないと、そんなことばかり考えて
きた。
学費にしても、そうだ。
老後の資金を取り崩し、子どもたちを大学まで送った。
また親たるもの、そうあるべきと信じて疑わなかった。
が、千葉県に住む、EH氏は、こう書いてきた。
「阿呆」というタイトルで、つぎのようにあった。
『老後の自分の面倒を見てもらう為に、愛情もない相手と結婚して、子供を作り、育てるって事
ですかね。そんな世界で生きていて、なんの価値があるのでしょう。
世の中は地球規模で変化をし、進化をしているのです。
夫婦、家族、恋愛... 全ての形が多様化しているのです。新旧色々あって良いじゃないですか。
結局、林先生は御自分の意見が正しいと思い切り主張していて、読んでいてがっかりです。
ちなみに私は、子供がどこでどんな生き方をしても良いと言える親をずっと目指します。
子供には子供の人生があるのですから。
それを家族崩壊とは思いません。
むしろ、親の面倒で子供を縛りつけている方が家族崩壊じゃないのですか?
親の近くにいようが遠くにいようが子供が良い人間で幸せなら、親としても幸せなはず。
林先生は子離れ出来ていないのですね。
そんなに親の面倒を子供が見るのが当たり前だと思うのなら、御自分のお子さんに『私の面倒
をみろ』と、言ったら良いのに!
千葉 E.H.より』と。
たぶん、まだ老親のめんどうをみたことも、介護もしたこともない若い父親が、こういうことを
平然と言ってのけるから、恐ろしい。
また老親のめんどうをみるつもりもないだろうし、介護もするつもりもないだろう。
私がEH氏の親なら、めんどうをみてもらうのも、介護をしてもらうのも、こちらから願い下げる。
想像するだけで、ぞっとする。
EH氏は、こう書いている。
「自分の老後の面倒をみてほしかったら、息子や娘に頼め」と。
「頼め」というところが、恐ろしい。
それともEH氏は、自分の子ども(息子あるいは娘)に対して、日ごろ、こう言っているのだろう
か。
「自分のめんどうをみてほしかったら、親の私に頼め」と。
またそういう親子関係を、「地球規模の変化であり、進歩である」と。
●事件
事件は、そんな最中に起きた。
もう一度、そのときの原稿を取りあげてみる。
団塊の世代以上の、老人組のみなさん、じっくりと読んでみてほしい。
私たちの老後が、いかに悲惨なものになるか、これを読めば、少しはわかるはず。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●殴り殺された老人
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●逆ギレ
今朝のニュースで、一番驚いたのが、これ。
赤信号を無視して歩いている男性を、別の男性が注意した。
それに注意された男性が、逆ギレ。
注意した男性を殴り、殺してしまったという事件。
この種の事件は、ときどきあるが、今回の事件は、つぎの1点で特異性がある。
殴った男性は、そのとき自分の「10代の息子」(報道)と、いっしょだったこと。
MSN・Newsの見出しは、つぎのようになっている。
『赤信号注意され逆上…男性殴り死なせた男の「理不尽」 交錯する怒りと悲しみ』(MSN・NE
WS)と。
以下、MSN・Newsより
+++++++++++++以下、MSN・NEWS+++++++++++++++
東京都品川区の路上で昨年11月、赤信号で横断したことを注意された男が逆上し、注意した
男性を殴って死亡させる事件があった。
傷害致死容疑で逮捕、起訴された男は警視庁の調べに「腹がたってやった」と供述。
その理不尽な行動に、関係者の間で怒りと悲しみが交錯している。(大島悠亮)
息子の前で逆上し…
昨年11月12日午後7時35分ごろ、大手百貨店や飲食店などが立ち並ぶ東京都品川区の
JR大井町駅中央口側の横断歩道。
区内に住む無職、小牧信一さん=当時(77)=は、対面から信号無視をして渡ってきた2人組
の男らを見かけた。
「赤信号ですよ」
小牧さんがこう注意すると、男の1人が「うるせえんだよ」と逆上。
顔を殴られた小牧さんは路上に転倒して頭を強く打ち、意識不明の重体となった。
小牧さんはすぐに病院に搬送されたが、1カ月以上たった12月20日、帰らぬ人となった。
捜査関係者によると、小牧さんを殴ったのは傷害致死容疑で逮捕され、今月13日に起訴さ
れた品川区東大井の会社役員、山根基久夫被告(48)。
そして、傍らにいたのは山根被告の10代の息子だった。
2人は事件後、駅構内を抜け、自宅のある東口方面から逃走。
山根被告は事件がニュースなどで報道されているのを見て、小牧さんが死亡したことも把握し
ていたという。
当初、捜査は難航したが捜査員の執念が実を結ぶ。
事件から数週間がたち、再度、現場周辺の防犯カメラを細かく解析したところ、事件当時、現
場で目撃された男と似た人物を確認。山根被告が浮上した。
+++++++++++++以上、MSN・NEWS+++++++++++++++
●若い人たちの反応
事件の異常性もさることながら、若い人たちの、この事件に対する反応に、私は驚いた。
2チャンネルをのぞいてみると、つぎのような意見が、ズラリと並んでいた。
全体の2分の1から、3分の1以上が、殴られて殺された小牧伸一さんを非難したり、反対に、
殴った山根被告を擁護するもの。
(殴った男性を非難しているのではなく、殴られた男性を非難している!)
●2チャンネルより
2チャンネルへの書き込みを、そのまま紹介させてもらう。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
★子供の前で恥じかかせた爺が悪いわ
まじでむかつく言い方したんだろうな
もしかして赤だと車こなくても待つタイプ?
★勇ましいなおい
★赤信号まじめに待ってる奴って馬鹿でしょw
★これは逆に爺がよっぽど酷かったんじゃないかとすら思ったり
★むしろ良い仕事しただろ 。
老人一匹殺すとか
★メリークリスマス
子供にカッコ良いところみせたかったんだろうな
正論だから腹が立ちともいうよな
忘れられないクリスマスだな
まぁ政府は見殺しにして風評被害にして
関係者は身も心もぬくぬくぶるっちょだし
★信号をいちいち守る歩行者は大体発達障害か何かなんだよな。
★赤信号を守るのは正しいことだが
それを守らない人を注意するのにはリスクが伴うことを教えた
★俺も原チャリ走行してたら、俺を怒鳴りつけながら追いかけてきた爺がいたが、その言い分
が、「カーブで歩行者の領域に入ったのがけしからん」みたいな話だった。
俺が走行時、歩行者が居なかったからショートカットしたんだが、そこにいたわけでもない爺に
罵倒されて頭に来たが殴りはしなかった。
★知らんやつに注意するのはバカとしか言いようがない
この爺はよく今まで生きてたわ
★団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ
★んなわけねえよ。
近所に住んでてあの状況をよくわかってるから言ってるだけ。
あそこはみんな信号無視するから注意するのがおかしいんだよ。
★俺は原付でいつものごとく車の前で止まってたら
いきなり停止線オーバーしてるだろ!って目の前横断してたおっちゃんが怒鳴ってきた
おっちゃん、あんた横断帯とから二メートルも離れたとこ横断してるんですが…
★団塊ってかバブル世代だったな
まあどっちにしても敵だけど
★見ず知らずの人間に文句を言うクソジジイと、見ず知らずの人間を殴って殺すオッサン、ゴ
ミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw
★信号無視ごときでいちいち注意する奴に限って巨悪には何も言えずダンマリなんだよなw
卑屈すぎるわ
★子供連れてるのに人に注意されるようなことをした父親の自業自得だろ
子供の前で尊厳大事にしたかったら人に注意されるような行動をしなければいい
★いちいち注意した老害もゴミ
殴り殺したDQNパパもゴミ
そんなDQNパパに育てられた息子もやっぱりゴミ
★大阪の場合はジジイが率先して信号無視
★だったら親だけを呼んでこっそりよくないですよって言えばいい。
わざわざ恥をかかせようとするような奴はこういう報いを受けるのは当然だわ
★ジジイも信号無視したことあんだろ?
ジジババは他人に厳しく自分に甘いからな
★これはやりすぎだけど、しつこい老人もいる。車のまったく通らない赤信号で歩行者が信号
待ちをするのは愚鈍。
★俺も1回、歩道をチャリで漕ぐのが原則禁止になった月に
歩道を漕いでたら片足引きずってるジジイに大声でキレられて警官呼ばれるまでの騒ぎになっ
たな
警官も、別にどうでもいいじゃんみたいな態度取ってたから今度はジジイが警官に絡んでてわ
ろた
★他人を注意するのは常識知らずで自業自得だな
★77歳のじいさんの言うことなんてほっときゃいいのに
48歳にもなってこんなことで一生台無しにするなんて
ただのあほ、そんだけのことだろ
どっちがいいとか悪いとかどうでもいいし
殴ったほうも殴られたほうも人生終わりなんだよ
★俺の大学のフランス人の先生が、車が来ないのに赤信号で横断歩道を渡らず
待っているのは日本人とドイツ人だけだって笑いながら言ってたな。
信号が何のためにあるかを考えたら、渡らないほうが不合理だとな。
★爺も自業自得だよ。
★いい大人を注意するとかもう最悪ですね
本人は分かっててあえてやってるんですから
バカと言われたと同じです
これはもう殺してくれと言ってるのと同じでしょうね
★ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な気
分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ
(以下、延々と、つづく……)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●意識
最近の若い人たちの意識が、私たちの意識とズレていることは、私自身も強く感じていた。
が、ここまでズレているとは、思ってもいなかった。
若い人たちは、「77歳」という数字だけを見て、「ジジイ」と位置づけている。
その上で、事件の内容を吟味することなく、短絡的に、老人批判を展開している。
「2チャンネル」という、無責任な掲示板での意見だから、本気にとらえる必要はないのかもし
れない。
が、それ故に、かえって、現代の若い人たちの「本音」が、そこにあるとみてよい。
(もし注意したのが、30代、40代の男性だったら、どうだったのか?)
●段階の世代は「敵」
この書き込みの中で、つぎの2つが、気になった。
「団塊」という言葉が、強く私の関心をひいた。
『団塊ってかバブル世代だったな。まあどっちにしても敵だけど』
『団塊と老害だからどっちもν速の敵だろ』と。
「v速」とは、何か。
それはさておき、ここで見られる若い人たちの意識は、180度、私たち団塊の世代のもってい
る意識とちがう。
私たち団塊の世代には、それを意識しながら生きてきたわけではないが、「この日本の繁栄
を築きあげたのは私たち」という自負心がある。
同時に、ぜいたく三昧に明け暮れる若い人たちを見かけると、ときどき、「だれのおかげで、そ
んなぜいたくができるのか、わかっているのか?」と言いたくなるときがある。
が、若い人たちの意識は、私たちの意識とは、ちがう。
私たち団塊の世代をさして、「敵」と。
こうした意識をもっているのは、若い人たちの中でも一部と、私は信じたいが、どうやら一部で
はなさそうだ。
すでにこうした傾向、つまり「世代間闘争」は、あの尾崎豊が、『♪卒業』を歌ったときから、始
まっていた。
●親バカからジジバカへ
総じてみると、団塊の世代には、親バカが多い。
「子どものため……」と、自分の人生を犠牲にした人は多い。
「子どもだけには、腹一杯、メシを食べさせてやりたい」
「ひもじい思いだけは、させたくない」
「学歴だけは、しっかりと身につけさせてやりたい」と。
が、そんな思いや苦労など、今の若い人たちにしてみれば、どこ吹く風。
気がついてみたら、老後の資金を使い果たしていた……。
それが団塊の世代。
が、親バカなら、まだ救われる。
が、それが日本全体に及んだとき、今度は、ジジバカとなる。
私たちは「つぎの世代」を考えながら、この日本はどうあるべきかを、思い悩む。
考える。
が、肝心のつぎの世代にしてみれば、ただの(ありがた迷惑)。
が、私たちの世代には、それがわからない。
「そうではない」という幻想にしがみつきながら、生きている。
が、幻想は、幻想。
それがわからないから、ジジバカ。
私たち団塊の世代は、今、とんでもないジジバカを繰り返している(?)。
それを如実に表現しているのが、つぎの言葉。
少なくとも私がもっている「常識」とは、180度、ちがう。
180度、ひっくり返っている。
『……ちょっとカチンと来る注意のされ方をしたら、嫌味や余計な一言を返して相手も不愉快な
気分にさせるのが常識のある社会人の行動だろ』と。
その若者は、こう言っている。
「カチンと来るような注意のされかたをしたら、イヤミや余計な一言を返し、相手も不愉快な気
分にさせるのは、当然。
それが常識のある、社会人としての行動」と。
●ゴミ
60代、70代の人たちよ、覚悟しようではないか。
現在の若い人たちには、私たち老人に対する畏敬の念など、微塵(みじん)もない。
そういう若い人たちに、私たちの未来を託しても、意味がない。
期待しても、意味がない。
……というのは書き過ぎ。
またそうであってはいけない。
それはよくわかっているが、それが私たちの未来を包む現実。
この先、この傾向は、ますます強くなる。
こんな記述も見られる。
『ゴミみたいな人間が2人消えて良かったじゃんw』と。
現に今、あくまでも風聞でしかないが、医療機関でも、「75歳以上は手術はしない」という考
え方が定着しているという。
現実にそんな規定があるわけではない。
その年齢以上になると、「年齢(とし)ですから……」と、治療を拒否されるケースも多い。
事実、私の兄は、担当のドクターに、こう言われた。
「私は治る見込みのある患者は、治療しますが……」と。
つまり治る見込みのない患者(=兄)は、治療しない、と。
●同情
ただ若い人たちが、忘れていることが、ひとつ、ある。
現在、「若い人たち」と呼ばれている人にしても、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
自分たちだけは、ジジ・ババにならないと信じているかもしれない。
が、かならず、100%、そのジジ・ババになる。
そしてそのとき、そのジジ・ババを取り巻く環境は、今よりも過酷なものとなる。
2050年……つまり38年後には、約3人に1人が、そのジジ・ババになる。
(=1・2人の実労働者が、1人の老人を支える時代になる。)
現在25歳であれば、25+38=63歳!
若い人たちよ、それがあなたの未来だぞ!
そのとき、今、天に向かって吐いた唾(つば)が、自分の顔に落ちてくる。
が、私はけっして、現在の若い人たちのように、「ザマーミロ!」とは言わない。
「かわいそうに」と同情する。
●小牧伸一さん
小牧伸一さん、あなたの死は、けっして無駄にしない。
こういう事例では、注意するほうも、不愉快。
できれば、事なかれ主義でもって、無視したい。
しかしそれがあまりにも目に余った。
「信号を守れ」というのは、相手のことを思って発した言葉。
自分のためではない。
信号を無視すれば、その相手が事故に遭う。
小牧伸一さんは、それを心配した。
だから相手を注意した。
が、心配してもらったほうは、逆ギレ。
あなたを逆に殴った。
こんなバカなことが「常識」というのなら、そちらの常識のほうが狂っている。
殴った男は、本物のバカ。
どうしようもない、つまり救いようがない、バカ。
徹底して法の裁きを受ければよい。
が、残念ながら、今、こういうバカが、ふえている。
言うなれば、これはまさに、善と悪の闘い。
善が勝つか、悪が勝つか……。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●原因はどこにあるのか?
若者たちの意識は、半世紀前と比べただけでも、完全に逆転している。
が、理由がないわけではない。
私が、35歳ごろに書いた原稿を読んでみてほしい。
この原稿の中に、その原因を知る、ひとつの手がかりがある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「団塊の世代は敵」
若い人たちから見れば、日本の繁栄を食いつぶしたのは、私たち団塊の世代ということにな
る。
2チャンネルの投稿を読んでいると、それがよくわかる。
一方、団塊の世代は、(私を含めての話だが)、そうは思っていない。
「この日本を支えてきたのは、私たち」という自負心が強い。
ただひたすら、企業戦士となり、一社懸命でがんばってきた。
家庭を犠牲にした人も多い。
この意識のズレを理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要があ
る。
●飽食と贅沢(ぜいたく)
現在の30代、40代の人たちが生まれたころは、日本経済はまさにバブル経済の真っ最中。
子どもが生まれると、祖父母までやってきて、蝶よ、花よともてはやした。
まさに飽食と贅沢。
それが当たり前の世界だった。
七五三の祝いに、ホテルや料亭を借り切って祝う家も、少なくなかった。
が、こうした育児観を批判する人もいるには、いた。
私もその1人だった。
当時、書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「費用もかえって、安いのじゃないかしら?」
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●七五三の祝いを式場で?
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●費用は一人二万円
テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。
何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。
見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女の子(6歳ぐらい)が、中央にすわり、
これまた結婚式場のように、列席者がその前に並んでいた。
費用は一人二万円くらいだそうだ。
レポーターが、やや皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その
母親はこう言った。
「家でするより楽で、費用もかえって、安いのじゃないかしら」と。
●ため息をついた私と女房
私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。
私たちは、結婚式すらしてない。
と言うより、できなかった。
貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだったが)、私が今の
女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、「香港へ行きた い」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでおしまい。
実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。
反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。
そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけ
でも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも 流れてしまった。
さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。
●「何か、おかしいわ」
その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。
「何か、おかしいわ」と。
つづけて私も言った。
「おかしい」と。
すると女房がまたこう言った。
「私なら、あんな祝い、招待されても行かないわ」と。
私もそれにうなずいた。
いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなものだったかもしれない。
しかしおかしいものは、おかしい。
子どもを愛するということ。
子どもを大切の思うということ。
そのことと、こうした祝いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからと
いって、子どもを愛したことにも、大切にしたことにはならない。
しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。
むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。
「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢
心である。
その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。
こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●反省
ともあれ、こうした世代間闘争というのは、100%、老人組が敗れる。
古今東西、勝ったためしがない。
それもそのはず。
私たち老人組は、生きていくだけで精一杯。
その先にあるのは、「死」。
そこで『老いては子に従え』という。
つまり負けを認めろ、と。
が、私たちの世代の者にとっては、まさに自己否定。
この原稿を読み、「私たちは何のため、だれのためにがんばってきたのだろう」と思っている人
も多いことかと思う。
そう、私たちは、何のため、だれのためにがんばってきたのか。
あるいは子育てといいながら、壮大な無駄をしただけなのか。
これ以上は、グチになるのでは、ここでは書きたくない。
ただ私たち老人組も、反省すべき点は、多い。
たとえば私の近所をざっと見回しても、自分勝手な老人は多い。
多すぎる。
まさに自分のことしか、していない。
とくに元公務員、元準公務員(三公社五現業)の人たちが、ひどい。
豊かな年金をよいことに、まさに悠々自適の老後生活。
私もこの地区に住んで、40年以上になる。
しかしそういう人たちが、たとえば近所のゴミ拾いなどをしている姿を見かけたことがない。
一事が万事というか、そういう姿勢では、若い人たちから嫌われて当然。
老害論をぶつけられても、当然。
この私ですら、腹が立つ。
●老後のテーマ
では、私たち老人組は、どうあるべきか。
結論は、すでに出ている。
あとは、それに向かって、最後の「命」を燃焼させるだけ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW
はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 老害論 ジジババゴミ論 注意さ れ殺された老人 意識のズレ 老人組の生き様 はやし浩司 団塊の世代 悪玉論 団塊の 世代 バブル世代)2012/04/06まとめ
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【ダイエット一考】
(満腹中枢vs摂食中枢byはやし浩司)
●食欲vs性欲
ダイエット、4日目。
かなり苦しい。
少し前、夕食を終えた。
が、量は、いつもの4分の1。
あとは、自宅でとれたハッサクで、腹をごまかす。
食欲と性欲は、よく似ている。
見た目には大きく違うが、脳の中のメカニズムは同じ。
中枢部分は、ともに視床下部にある。
「同居」していると書いて怒る脳科学者はいない。
それくらい近い。
近いだけではない。
たがいに影響しあっている。
(たとえば女性のばあい、食欲を満たすと、性欲がわいてくるそうだ。
反対に男性のばあい、空腹感を覚えると、性欲がわいてくるそうだ。
男の性欲中枢は、摂食中枢の近くにあるという。
反対に女の性欲中枢は、満腹中枢の近くにあるという。※)
●空腹感
その食欲。
昨夜もそうだった。
腹8分というが、腹4分で、止めた。
止めた直後は、苦しい。
「もっと食べたい」という欲望が、ググーッとわいてくる。
が、お茶を飲んでごまかす。
雑談を繰り返し、気持ちをそらす。
やがて血中の血糖値が上昇する。
空腹感が和らぐ。
まさに理性と欲望の死闘。
勝つか、敗れるか。
それでダイエットの成否は決まる。
●満腹感vs空腹感の消失
今回も、おもしろいことに気がついた。
2年ほど前のこと。
バスの中で、はげしい尿意を催した。
あるところから、あるところへ行く途中である。
ふつうなら途中下車をして……ということになるが、バスの便数そのものが少ない。
1日、数本しかなかった。
そこで私は、客がほとんどいなかったこともあり、バスの中ですることにした。
(この話は以前にも書いたが……。)
もっていたペットボトルのお茶を飲み干すと、それをもって、最後部の座席に移った。
私は最初、こう思った。
「こんな小さなペットボトルで、だいじょうぶかな?」と。
そのときのこと。
尿意を減らすだけなら、全量、放出する必要はない。
ほんの少しでよい。
膀胱に、仮に70〜80%の尿が残っていたとしても、尿意はそれで消える。
目的を達すると、前部の席に戻った。
ワイフが心配そうに、「どうだった?」と聞いた。
「うまくいった」と、私は答えた。
今回、ダイエットしながら、そのときのことを思い出した。
「全量、食べる必要はない。半分程度食べておけば、やがて空腹感は消える」と。
要するに、満腹感を覚える必要はない。
空腹感を消せばよい。
そのためには、全量を食べる必要はない。
●権力欲
わからないのが、権力欲。
どうして時の権力者たちは、ああまで権力に執着するのか。
理由がないわけではない。
ふつう権力者の世界は、常に、ALL or Nothing。
「すべてを手に入れるか、すべてを失うか」である。
そういう世界である。
が、独裁者の世界は、やや異なる。
All or Die。
「すべてを手に入れるか、死」である。
独裁者は、独裁者になる過程で、多くの反対者をパージ(粛清)している。
それが明るみになれば、反対に「処刑」ということにもなりかねない。
またそういうケースは多い。
では、民主主義国家の権力者たちは、どうなのか。
程度の差こそあれ、敗れたからといって、自分の地位や立場を明け渡す人は、少ない。
いろいろ立場をこじつけては、その地位を守ろうとする。
ダイエットにたとえるなら、満腹感というのは、ないらしい。
言い換えると、権力欲というのは、際限がないという点で、食欲とはちがう。
●理性
そこで考える。
「権力欲には、理性の力は働くか」と。
答は、「NO!」。
皮肉なことに、権力の座を求めるような生命力の強い人ほど、一方で、貪欲。
強欲。
お金(マネー)と同じで、あればあるほど、さらにそれを求める。
言い換えると、こういうことになる。
権力者と呼ばれる人には、「理性はない」。
逆説的な言い方をすれば、理性による歯止めがきかないからこそ、権力者になれる。
理性による歯止めがきくようなら、もとから権力者など、めざさない。
話はぐんと現実的になるが、アメリカには、こんな常識があるそうだ。
何かの本で読んだことがある。
(1)肥満者は意思の弱い人と判断される。
(2)喫煙者は意思の弱い人と判断される、と。
太っている人や、喫煙者の方は不愉快に思うかもしれない。
が、そういう面もないわけではない。
欲望に溺れるということは、理性によるコントロールが弱いということになる。
今の私が、そうだ。
●メタ認知能力
そこでメタ認知能力の発動。
自分の脳の中で働く、空腹感のメカニズムを、自分で知る。
(血糖値の低下)→(視床下部が認知)→……、と。
わかりやすいのが性欲。
もっとも60歳を過ぎると、ガクンと性欲が減退する。
「沈没(チン没)」という言葉を使う人もいる。
(そう言えば、最近、タレントの加藤何某氏(69歳)が、女性と結婚したという。
女性は、20数歳だという。
その話を聞いて、まず心配したのが、「だいじょうぶだろうか」ということ。
そんな若い女性を、どうやって満足させるのだろう、と。
が、これはいらぬ心配。
それともひがみ?)
性欲などは、一度満足させれば、ばあいによっては、数週間、遠ざかることができる。
が、食欲は、そうはいかない。
車のガソリンと同じ。
十分な量が供給されなければ、ガス欠状態になる。
今の私が、そう。
寒さが、何よりも、こたえる。
……こうして空腹感の中身を、自分を離れたところから分析する。
それがメタ認知能力。
●政治家
食欲や性欲は、わかりやすい(?)。
コントロールできなければ、肥満体になる。
コントロールできなければ、家庭を崩壊する。
それこそまさに、「自業自得」。
しかし権力欲は、そうでない。
1人の強欲者がいると、その何十倍、何百倍もの善良な人たちが犠牲になる。
政治の動きをながめていると、それがよくわかる。
反対にこう思うことも多い。
「あの政治家さえいなければ、もっと政治はよくなるのに」と。
が、そういう政治家ほど、がんばる。
がんばって、めちゃめちゃなことを言ったり、したりする。
●泥沼の世界
では、どうするか。
私は学生時代、多くの政治家と接することができた。
日本から政治家がやってくると、まず領事から電話が入る。
「案内してやってくれませんか」と。
よいアルバイトになった。
日本人の留学生は、あのメルボルン市(人口300万人、当時)でも、私1人だけだった。
中には、よど号ハイジャック事件で北朝鮮に渡った、YM運輸政務次官もいた。
そういったコネを使えば、私は、そのまま政治家の道に入ることもできた。
が、その入り口で、足を止めてしまった。
際限のない世界。
わかりやすく言えば、泥沼。
金と権力、それにどす黒い欲望が渦巻く世界。
それが政治家の世界だった。
20歳そこそこの私にも、それがよくわかった。
結論から先に言えば、権力欲には、ブレーキは働かない。
最後の最後まで、突っ走ってしまう。
そして結果的に、みな、NOTHINGの状態になって終わる。
たとえて言うなら、食べ過ぎて、最後は、体がパンクする。
そうなる。
●ダイエット
夕食から1時間ほどが過ぎた。
先にも書いたように、いつもの4分の1程度。
空腹感さえ消えれば、それでよい。
あとは、それを繰り返す。
で、そのダイエット。
1週間前後もつづけていると、胃袋そのものが、小さくなる。
ほんの少量で、そこそこの満腹感を得られるようになる。
そのあたりが、峠。
体重が減り始めるのも、そのころ。
それまでは、なかなか減らない。
が、減り始めると、1週間に1キロ前後ずつ減っていく。
あとは適正体重。
その適正体重になると、身も、ついでに心も軽くなる。
頭もすっきりとしてくる。
その快感は、ダイエットに成功したものだけが知っている。
いわば(ごほうび)。
それを知っているから、ここはがんばるしかない。
……それにしても、どうして私は定期的にダイエットを繰り返すのか。
年中行事にもなっている。
その分だけ、意思が弱いということになるのか。
が、あえて弁解するなら、こういうこと。
旅行とダイエットは、切っても切れない縁でつながっている。
旅行をすれば、旅館やホテルに泊まる。
そのつど、どうしても食べ過ぎてしまう。
太る。
ア〜ア。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※……食欲と性欲)
食欲中枢と性欲中枢について書いた原稿が、
つぎのもの。
日付は、2009年7月27日になっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●満腹中枢と摂食中枢(男と女)(Man and Woman)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
脳幹に視床下部と呼ばれる部位がある。
その中に、「食欲中枢」と呼ばれる部分がある。
その食欲中枢は、満腹中枢と摂食中枢に分かれる。
満腹中枢というのは、「お腹(なか)がふくれた」という
ことを感じ取る部分。
摂食中枢というのは、「お腹がすいた」ということを
感じ取る部分。
ここまでは私も知っていたが、最近、こんなことを
知った。
女性の性欲本能、つまりSックス中枢は、このうちの
満腹中枢に隣接しているという。
一方、男性の性欲本能、つまりSックス中枢は、
摂食中枢に隣接しているという(「人体の不思議」日本文芸社)。
新しい考え方、ゲット!
(ネット禁止用語に抵触するため、「交尾行為」を、「Sックス」など
というように、表記します。)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●男性と女性のちがい
「人体の不思議」(上述)は、こう書いている。
『……一般に、女性は恋愛をすると食欲を感じなくなることがあるといわれますが、それは、こ
のSックス中枢が活発に働くため、満腹中枢までもが満たされているからとも考えられます。
男性のSックス中枢は、女性とは異なり、空腹を感ずる摂食中枢に隣接しています。
生命の危険を感ずると、男はB起してしまうといわれることもありますが、これもSックス中枢の
位置に関係していそうです。
つまり飢餓で死に直面すると、なんとしてでも種族を保存しなくては、という感情が起こるよう
に脳がつくられているのです』と。
しかも、だ。
第一性欲中枢(異性を求める性欲中枢)について言えば、男性のそれは、女性のそれの約2
倍もの大きさがあるという。
つまりその分だけ、男性のほうが、Sックスに関して、女性より攻撃的ということになる。
なるほど!
で、これで今まで私が感じていた謎のいくつかが、解けた。
男性と女性の、(性)がもつ、基本的な(ちがい)といってもよい。
その理由が、わかった。
●男と女
所詮、人間も動物。
同じというか、どこもちがわない。
動物時代からの本能(脳幹)を、しっかりと保持している。
が、こうした本能、つまり脳自体が構造的にもつ能力のままに行動したら、「人体の不思議」の
中にもあるように、人間社会は、メチャメチャになってしまう。
そこでこうした本能をコントロールするのが、大脳連合野ということになる。
(私はこの仮説を、すでに10年以上も前から、考えていたぞ!)
人間のばあい、大脳連合野の発達がとくに進んでいる。
その大脳連合野が、中心部からわき起きてくる(性欲)を、コントロールする。
それが「知性」ということになる。
それにもし男性のみならず、女性までもが、性欲について攻撃的になったら、それこそたい
へんなこと(?)になってしまう。
人間もいたるところで、交尾を始めるようになるかもしれない。
(反対に女性のように、男性までもが、受動的になってしまっても、困るが……。)
要するに、長い間の進化の過程を経て、人間も、「実にうまく」できているということになる。
●満腹中枢vs摂食中枢
満腹感を感ずる満腹中枢。
空腹感を感ずる摂食中枢。
何かのタンクの警報機にたとえるなら、満タン警報機と、カラ警報機ということになる。
それを脳の中心部にある視床下部という部位が、担当している。
私自身も、実は、こうした機能について、「本で読んで知った」というだけの立場でしかない。
が、それにしてもおもしろい。
が、疑問がないわけではない。
女性のSックス中枢は、満腹中枢の隣にある。
男性のSックス中枢は、摂食中枢の隣にある。
それはわかるが、これらの両社はそれぞれ、どのように関連しあっているのか?
単純に考えれば、女性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に満腹中枢も刺激さ
れ、満腹感が生まれるということになる。
他方、男性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に摂食中枢も刺激され、空腹感
が生まれるということになる。
……あるいは、その反対なのか?
そこで自分自身のことを振り返ってみる。
(私も「男」だぞ!)
腹が減ったときと、満腹のときと、どちらのときのほうが、性欲をより強く感ずるか?
……というより、経験的に、Sックスしたあとなど、よく空腹感を覚えることがある。
(あるいまはげしい睡魔に襲われることも多い。)
「終わったから、食事に行こうか」というような会話を、ワイフとした記憶がある。
……あるいは、その逆かもしれない。
ともかくもどのように影響しあっているのか、それがよくわからない。
あるいは、影響しあうといっても、そのレベルの話ではないのかもしれない。
たとえばここでいう「空腹感」というのは、「危機状態」をさすのかもしれない。
それも極限的な危機状態。
その本にも書いてあったが、生命の危機を覚えたりすると、B起することもあるそうだ。
「最後に種族を残そう」という本能が働くためらしい。
どうであるにせよ、たいへん興味深い。
「私は私」と思って、みな、考え、行動している。
が、実際のところ、脳に操られているだけ。
それだけは確かなようだ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi
林浩司 BW はやし浩司 満腹中枢 摂食中枢 視床下部 はやし浩司 食欲中枢 食欲と 性欲 視床下部 脳下垂体 空腹のメカニズム はやし浩司 空腹 食欲中枢と性欲 満腹中 枢と性欲 男と女のちがい)
(ファミリス 2012年5&6月号)
(一部収録・ノートパソコンなどでは、上下が切れることがあります。)
【子どもの心の発達段階】
(日本自動車工業界・「自動車技術」誌 2012年5月号より)
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児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし
静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜
松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House
/ Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと
英語の木 (CAI) 教材研究 はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス
現場からの子育てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司
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はやし浩司 不登校 登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学
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ー・育児相談 混迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし
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不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 浜松市はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども
頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依
存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層
住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護
過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、
読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心
叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
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