子育て狂騒曲
企画原稿
Main HPへ戻る 子育てあいうえお F


そのほかの新刊企画・原稿+資料集
(1)モンスタママの子育て狂騒曲
(2)ジジババ・ゴミ論(統合性の確立に失敗した老人たち)
(3)母親に「死ね」と言った娘
(4)家庭内宗教戦争(お前は誰の、女房だ!)
(5)見たぞUFO!


モンスタママたちの
         子育て狂騒】

(付録:ママ診断)

父親族よ、あなたの妻たちは、ここまで狂っている!

   ママ診断……静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」に11か月にわたって
   連載された記事です。……●



【はじめに】

●ドロ沼の母親狂騒曲

 埼玉県在住の、Tさん(母親、年長男児をもつ)から、こんなメールが、届いた。 

 「うちの住んでいるところは、新興住宅地。文化性は、まったく、なし。母親のステータスも、ダンナの職種で決まる。
 S放送局や、T銀行、N自動車に勤めるダンナが多いこともある。で、そういうところに勤めるダンナをもつ、妻たちが、いばるわけ。
 で、近くに、このあたりでも有名な、……というか、名門というか、そういう小学校がある。名前はSS小学校。入試が近づくと、その話ばかり。『どうして、あんな子が受けるの?』『あんな子が合格するくらいなら、私、この町を出る!』『幼稚園には、内緒で、SSを受けるそうよ。先生に言いつけてやる』と。
 出るは出るは、低次元な話ばかり。若い母親たちが、集まれば、こんな話ばかりしている。あとはそしてお決まりの、悪口、中傷。
 『あの人、子どもが受験するならするで、一言、言ってくれればいいのに、礼儀知らず。今度は、○○会から、排除よ』

 『Xさんは、幼稚園へ迎えに行くだけなのに、いつもY車(大型の外車)よ。歩いても、五分もかからないのに。でも、幼稚園への寄付は、たったの一万円だったそうよ』
 このあたりでは、SS小学校に合格した子どもを、『勝ち組』。落ちた子どもを、『負け組』といって、差別する。そこらの学習塾でも、差別する。SS小学校の子どもだと、ハイハイと言って、即、入塾。
 しかしそれ以外の小学校の生徒だと、塾長もとつぜん、ふんぞりかえって、『うちはア……』と、しぶってみせる。

 イヤーな雰囲気の地域。
 私は転勤族だから、北は函館から、南は、博多まで、みんなよく知っている。しかし埼玉県のここは、最低。最悪。『このあたりが地球の中心』と思っているような人ばかり。バカみたい。外から見れば、ただの新興住宅地なのに。

 私、奈良にも住んだことあるが、奈良は最高! 京都も近いし。ああいうところの、奥深い文化に接したことがない連中ばかり。
 子どものことで、見栄やメンツを張るなんて、つまらない。私は、自由人。そういう目で見ると、みんな????。本当に、いやになってしまう。先生、こういう地域を、どう思う?」
(たいへん過激な文章だったので、林の方で、要約)

●子どもが親を育てる

 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。……私が、このことを知ったのは、こうした親どうしの、ドロドロのウズに巻き込まれたとき。
 それは想像を絶するほど、低次元な世界だった。
 しかしTさん、そういう親でも、二年、三年と、子育てで苦労すると、やがて人間的な丸みや深みができてくる。つまり、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。
 だから大切なことは、(今の母親たち)を見て、それがすべてとは思ってはいけないということ。大切なことは、そういう母親たちが、少しでも、前に向って、伸びることを、手助けすること。どの母親も、そういう意味では、すばらしい母親になる可能性をもっている。
 私も、幼児教育をして、40年になるが、当初より、「幼児教育は、母親教育」ということを、見抜いていた。
(ここが、私のすごいところ。エヘン!)

 だから今、あなたがなすべきことは、そういう母親たちを、つまりは反面教師として、自分の姿を見ていくこと。すでにあなたは、そういう視点をもっている。つまりあなたは、そういう意味で、ほかの母親たちを、一歩、リードしている。
 もしあなたがリードしていなければ、あなたは今、ほかの母親たちと同じことをしていたかもしれない。あなたは子どもを育てながら、実は、その向こうにある、(人間)を見ている。そしてその反射的効果として、(自分)を見ている。
 今のあなたのまわりの(現状)を否定するのではなく、まず(現状)とは、そういうものであることを知る。すべては、そこから始まる。わかりやすく言えば、「今の若い母親たちは、ダメだ」と、言うのではなく、あなたの立場で言うなら、そういう母親たちの中に、自分の愚かな姿を見て、それをバネとして、前に進むこと。
 私は、もう、そういう修羅場を、ゴマンと見てきた。恐らく、一歩離れたところにいる、学校や園の先生たちは、そういう世界を知らないだろう。どの母親も、先生の前では、別人のように振る舞ってみせる。

 しかし、ね、Tさん。それが人間のドラマのおもしろさということになる。私たちは、不完全で、どうしようもない人間。その人間が、懸命に、無数のドラマを展開している。そこでどうだろう。
 「同じ人間」と思うのではなく、こちらのほうが一歩上に出て、あたかも自然動物園の中の動物を観察するような目をもってみたら。そうすれば、母親どうしの醜い狂騒も、これまた、ほほえましく見えてくるもの。
 より高い視点に立ってみると、それまでの世界が、小さく、つまらないものに見えてくる。「自分を伸ばす」ということは、そういうことをいう。
 およばずながら、私は、あなたのような人のために、こうした文章を書いている。どうか、どうか、これからも私のマガジンを読んでほしい。私はいつか、必ず、この荒野の先に何があるか、それを見てやる。そしてみなさんに、報告してやる。
 さあ、あなたも、魂の自由人として、心の中の荒野を歩いてみたら……。その世界は、スリリングで、楽しい。実に、楽しい。いっしょに、前に向って、歩いていこう。

So take my hands 
To walk this land with me.
To walk this golden land with me.
(ポールニューマン主演、パットブーンが歌った、「栄光への脱出」より)


【第1章】

子育て狂騒曲


子育て失敗危険度
あなたは、だいじょうぶ?


                     はやし浩司



「狂騒する子どもの世界」

狂った親たちの世界をえぐりだしながら、新しい教育観を提言。このままでは本当に日本はだ
めになる。そういう切実な危機感からこの本を書いた。

Sec.1……常識からはずれる親たち
Sec.2……子どもをダメにする親たち
Sec.3……親バカにならないために


 この原稿は、2000年ごろ、つまり今から年前に12年前に書いたものです。
ある出版社からの依頼があり、それで書き始めたものです。
が、当時、この原稿を世に発表する勇気がなく(?)、今日に至ってしまいました。

 もう一度、(現在)という視点で、書きなおしながら、子育ては今、どうあるべきかを考えなおしてみたいと願っています。
なおこの種の原稿の常として、登場する人物、話の内容は、すべてフィクションです。
……というふうに、一応、断っておきます。

他人から聞いた話を、自分のエピソードに仕上げたり、反対に自分のエピソードを、他人から聞いた話に仕上げたりしています。
あるいは2つの話を1つにまとめたり、1つの話を2つに分けたりした部分もあります。
親類の話を他人の話にしたり、その逆のこともあります。

 そんなわけで、もし読者の方の中に、「これは私の話だ」と思う人がいても、どうか、それは誤解であることを、ご理解ください。
私はいかなるばあいも、現在、関わりのある人や、交際している人の話を書くということはしません。

                     はやし浩司


***********************************



第一章……常識からはずれる親たち

 子育てはまさに迷いの連続。迷いのない子育てはないし、迷って当たり前。しかし迷っているうち、ふと袋小路に入ってしまうことがある。問題はそのとき。

 迷いながらも、どこかに指針があれば、その方向に出口を見出すことができる。しかしその指針がないと、迷うまま、まっ暗な世界に入ってしまう。そしていつの間にか、とんでもない非常識なことをしながら、それが非常識だとさえわからなくなってしまう。そんな失敗例を集めたのが、第一章、「常識からはずれる親たち」。

 私はそれを皆さんに伝えながらも、こうした非常識な親を笑っているのではない。楽しんでいるのでもない。こうした失敗は(失敗という言葉は好きではないが……)、だれにでもあるもの。まただれにでも起こりえるもの。決して他人のことではない。第一章は、そんなあなたの指針となることを願って書いた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第二章……子どもをダメにする親たち

 放任がよいわけではないが、子どもというのは、親が子どもに向かって何かをすればするほど、別の方向に行く。そこで親は、また子どもに向かって何かをする。あとはこの悪循環。気がついたときには、親も子どももにっちもさっちもいかない状態になる。

 が、問題は、この悪循環ではない。問題は、その途中でそれに気がつく親はまずいないということ。たいていの親は、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」「うちの子にかぎって」と無理に無理を重ねる。これが子どもをますます悪い方向においやる。そんな失敗例を集めたのが、第二章、「子どもをダメにする親たち」。

今、あなたの子どもが幼児なら、これから先、失敗しないため。今、何か問題があるなら、これ以上その問題を悪くしないため。そそして今、その問題の最中にあるなら、その問題を解決するため。第二章は、それをあなたに知ってほしくて書いた。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第三章……親バカにならないために

 ほとんどの親にとっては、子育てははじめて。しかも一人だけ。多くても、二人、あるいは三人。ある母親はこう言った。「やっと親らしくなれたと思ったときには、子育てはもう終わっていた」と。

 そこで私が登場……、というと、何とも手前ミソのような感じがしないでもない。しかし私ほど、子育ての最前線で数を踏んだ人間もいない。私の頭の中には、無数の成功例と、同じ数だけの失敗例が入っている。そういう経験から得た知識をまとめたのが、第三章、「親バカにならないために」。

 本来ならこうした子育て論こそ、私が書きたいところ。私の子育て論というより、私の前を通りすぎた無数の親や子どもの経験といたほうがよいかもしれない。そこには無数の汗と涙が凝縮している。第三章はそれをあなたに伝えたくて書いた。
 
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

給食もレストラン感覚で!
非常識が常識(失敗危険度★★★)

●「足の裏をみるのですかア」

 「最近の母親たちはバッグを平気でベッドの上に置く」と、ある小児科の医師が怒っていた。が、それだけではない。「子どもをベッドに寝させてください」と言うと、今度はスリッパをはかせたままベッドの上に……! そこで看護婦が、「スリッパをぬがせてください」と言うと、その母親は、「足の裏をみるのですかア」と。

●最近の親たち

 こういう非常識な母親はいくらでもいる。幼稚園へ入園するについても、最近の母親で、「入れていただけますか?」と聞く親はまずいない。当然入園できるという前提で、幼稚園へやってくる。中には幼稚園へやってきて、見学だの、体験学習だの、さらには給食の試食までしていく親がいる。帰りぎわに主任の教師が、恐る恐る、「入園はどうしますか?」と聞くと、「もう二、三か所、あちこちの幼稚園を回って決めるワ」と。私にもこんな経験がある。

●「一回休みましたから」

 そのころ園長の指示で、希望者だけを集めて特別講座を開いていた。わずかだったが、別に講座費(月額3000円)をとっていた。が、それがよくなかった。5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)のクラスだけが、月3回になってしまった。それについて、その母親から、「補講してほしい」と。しかしたまたま月3回になったのは、私の責任ではない。そこで「補講はしません」というと、今度はその父親が電話に出てきて、こう言った。「月4回ということで、講座費を払っている。3回しかしないというのは、サギだ。ついては、お前をサギ罪で訴える」と。市内で歯科医師をしている父親からの電話だった。

 あるいは同じころ、たまたま月1回を病気か何かで休んだ子ども(年長男児)がいた。よくあることだが、あとでみると、講座費がちょうど4分の3の、2250円になっていた。いや、そのときはそれに気づかず、「お金が足りませんが……」と言うと、その母親は平然とこう言った。
「一回休みましたから」と。

●給食もレストラン感覚で

 もっともこの程度の非常識はこの世界では常識。先日も神奈川県のU幼稚園で講演をさせてもらったのだが、その園長がこっそりとこう教えてくれた。「今では、昼の給食もレストラン感覚で出してやらないと親は納得しないのですよ」と。「子どもに給仕をさせないのですか?」と聞くと、「とんでもない! スープでヤケドでもしようものなら、親が怒鳴り込んできます」と。

 今、子育ての世界では、非常識が常識になってしまっている。しかも何が常識で、何が非常識なのか、それさえわからなくなってきている。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

何をお高くとまってんの!
神経質になる母親たち(失敗危険度★★★★)

●「あなたの教育方針は何か」

 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学していたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。しかしその母親は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考えているか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。

●幼児と教育論?

 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教室の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あれこれ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家に帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?

●「失礼」を知らない母親たち

 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通うことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につくのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいた。

さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言うのでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、それすら口で言うほど簡単なことではない。

●「フン、何をお高くとまってんの!」

 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでしょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。

●初対面のときとは別人

 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキのなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。会うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、どこかインギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたが、私は「返事はあとで」とその場は逃げた。親の希望が高すぎるときは、安易に引きうけるわけにはいかない。

 で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったらどうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。私が「息子さん能力とは関係ありません」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れてみせる!」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あまりあとに、脳内出血でなくなってしまった。私と女房は、妙にその事実に納得した。「うむ……」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

私の考えが絶対に正しい!
自分の世界で子育てをする母親たち(失敗危険度★★)

●「林先生は、ちゃんと指導していない」

 年中児になると、子どもというのは、とくに教えなくても文字を書けるようになる。もちろん我流だが、それはそれとしてこの時期はおお目に見る。で、ある日私が子ども(年中男児)の書いた文字に大きな花丸をつけて返したときのこと。その日の夕方、母親から抗議の電話がかかってきた。「あんなメチャメチャな字に、花丸などつけないでください!」と。そしてその電話のあと園長にまで電話をかけ、「林先生は、ちゃんと指導していない。どうしてくれるのか」と迫った。

●祖父が教師へ飛び込んできた

 これに宗教がからむと、さらにやっかいなことになる。ある日赤ペンで、その子ども(年中女児)の名前を書いたときのこと。あとからその子どもの祖母から抗議の電話があった。いわく、「赤字で名前を書くとはどういうことですか。もし万が一、うちの孫に何かあったら、あなたのせいですからね!」と。何でも赤字で名前を書くのは、不吉なことなのだそうだ。またこんなことも。

 ある日、私が肩が痛いと言うと、「なおしてあげる」と申しでてきた子ども(小五男児)がいた。「ありがたい」と思って頼むと、その子どもは私の肩に手をかざして、何やらを念じ始めた。で、私が「そんなのならいい。どうせなおらないから」と言うと、その子どもは笑いながら手を離した。私も笑った。

が、その翌日、まず祖父が教室へ飛び込んできた。「貴様は、うちの孫に何てことを教えるのだ!」と。つづいて母親までやってきて、「うちの宗教を批判しないでください!」と。その家族はある宗教団体の熱心な信者だった。さらに……。

●「あなたはせっかくのチャンスをムダにした」

 クラスの生徒の家庭に不幸があるたびに、「私なら何とかできます」と申し出てきた女性(四一歳)がいた。私の知人の姉にあたる人だった。話を聞くと、「私なら救うことができます」と。そのときもそうだった。子ども(小二)が、重い小児ガンになっていた。私も何とかしたいと思っていたので、つい気を許して、「お願いします」と言ったが、それからがたいへんだった。

その女性はまず箱いっぱいの書籍をもってきた。みるとその教団の教祖が書いた本だった。
が、それで終わらなかった。ついで、そのガンの子どもの家を紹介してほしいと迫ってきた。しかし、それはまずい。相手の人は、相手の人で、毎日壮絶な苦しみと戦っている。そういう家族に、本当に救えるのならまだしも、宗教をすすめるのは、まずい。しかしその女性にはそれがわからない。私はていねい断ったのだが、こう言った。「あの子は私の力で治せる。あなたはせっかくのチャンスをムダにした」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子はやればできるはず!
身のほど知らず(失敗危険度★★★★★)

●それを言ったら、おしまい

 子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親から、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もありますから」と言いそうになるときもある。が、それを言ったら、おしまい。

●三割削減

 学習内容が全体で三割程度削減されることになったときのこと。それについて、「このあたりには私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校では、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子どもだった。そういう子どもの親が三割削減の心配をする? むしろ三割削減を喜ぶべきではないのか。

そう言えば、名古屋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラス
でも中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ることはないよ」と。

●親の過剰期待

 が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、「やってここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。

 誤解、その一……むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。しかし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそういう無理は長続きしない。(勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の中で、子どもはますますできなくなる。

 誤解、その二……勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになるという誤解。しかしダビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と。意欲をともなわない勉強は、身につかないということだが、実際には逆効果。子どもは時間ツブシや、フリ勉がうまくなるだけ。しかも小学校の低学年で一度、勉強から逃げ腰になると、以後、それをなおすのは不可能といえるほど、なおすのがむずかしくなる。

 誤解、その三……訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算や漢字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし計算力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからといって、国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年中児ともなると、ペラペラと本を読む子どもが出てくる。しかしだからといって、その子どもは国語の力があるということにはならない。たいていは文字を音に変えているだけ。

●一人の母親がやってきた

 しかし母親にはそれがわからない。夏休みになる少し前、一人の母親が私をたずねてきた。私の本の読者だというので、私もその気になっていたが、会うとこう言った。「うちの子は言葉も遅れた。二年生になるとき、特別学級(養護学級)をすすめられているが、今のところ何とか断ることができた。何とか学校の勉強についていきたいので、先生(私)のところで夏休みのあいだだけでもいいから、めんどうをみてくれないか」と。

●ワークブックがぎっしり!

 で、その子どもに会うと、カバンの中に難しいワークブックがぎっしりと詰まっていた。ふつう、J社、G研、O社のワークブックは買ってはいけない。J社のワークブックは、難解な上に、問題がひねってある。G研やO社のワークブックは、問題の「落差」が大き過ぎる。

 たとえば同じ見開きのページの中でも、左上の一番の問題は、眠っていてもできるような簡単な問題。が、右下の最後の問題は、「こんな問題、できる子どもがいるのだろうか?」と思うほどむずかしい問題であったりする。つまり落差が大き過ぎる。

こうしたワークをかかえたら最後、子どもの学習はそこでストップしてしまう。その子どものワークブックはそのJ社のものばかりだった。しかも、問題量が多いというか、こまかい字のものばかり! 親としては、問題量が多いということは、それだけ「割安」と考えるのかもしれないが、それも誤解。ワークブックはスーパーで買う食品と同じに考えてはいけない。

●ワークブックが足かせに

 ついでながら、子どものワークブックを選ぶときは、(1)動機づけ、(2)達成感の二つを大切にする。動機づけというのは、子どもをその気にさせること。達成感というのは、いわば満足感のことだ。この二つをクルクルまわりながら、子どもは勉強好きになる。

 私が「ワークブックはすべて捨てなさい」と言うと、その母親は目を白黒させて驚いた。さらに私が、「子どもには内緒で、幼児用のワークブックを使わせます」と言うと、さらに白黒させて驚いた。そして「では、指導していただかなくて結構です」と言って、そのまま去っていった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけできればいいの!
ガツガツママのモチ拾い(失敗危険度★★★★)

●基礎教養

 「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。ある母親は娘(小二)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研究会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、クラス対抗のお母さんバレーも指導していた。そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その母親のまわりには、その基礎教育があった。が、一方、その基礎教養がまったくない親がいる。ないまま、受験教育だけが「教育」と信じ、それだけに狂奔する。Rさん(三五歳)がそうだ。

●なりふりかまわない子育て

 Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫はある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小二男児)の教育には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も四つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、英語教室、それに水泳教室、と。水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだが、当然のことながら家計はパンク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それだけではない。夫の一か月の給料でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近では子どもの学習用にと、中古だがコピー機まで購入している。

●モチまきのモチ?

 Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をたいらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾っている女性のようでもある。「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもない。いや、そういう人にしてみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。

●私はハタと困った

 私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんから子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。最近、子ども(小二男児)が、Rさんの言うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接してみると、その子どもには、いわゆるツッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、キレやすい性格など。動作そのものまで、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、まちがいなく非行化する。

●私は超能力者?

私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どういう問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のようだ」と言われるが、三〇年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。方法は簡単。

 まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そしてその子どもがその後どうなっていったかを知る。さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校三年生まで、教えている。しかも問題のあった子どもほど、印象に強く残っている。あとはそれを思い出しながら、親に話せばよい。そういう意味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまった。「それを親に言うべきか、どうか」と。

●間の距離が遠すぎる

 ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、その子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話してもムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のしようがない。それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするようなものだ。もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするようなものだ。間に感ずる距離が、あまりにもある!

 Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。このタイプの親というのは、もともと一本スジの通った哲学がないから、成績がさがったらさがったで、今度は私の責任をおおげさに追及する。それがわかっているから、その子どもの指導を引き受けることができない。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれないと告げると、私の説明を半分も聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

昔は子殺しというのも、あったからねえ!
女性の三悪(失敗危険度★★★★)

●人間そのものを狂わす

 嫉妬、虚栄心、母性本能を、女性の三悪という。ここで母性本能を悪と決めつけるのは正しくないかもしれないが、性欲や食欲と同じように考えてよい。この本脳があるからこそ、親は子を育てるが、使い方をまちがえると、人間そのものを狂わす。そういう意味で、三悪のひとつに加えた。

(1)まず嫉妬……こういう話は、プライバシーの問題がからむため、ふつうは正確には書かない。しかしそれにも限度がある。あまりにもふつうでない話のため、あえて事実を正確に書かねばならないときもある。こんな話だ。

●ライバルの子どもを足蹴り

 H市の郊外にU幼稚園という小さな幼稚園がある。あたりは高級団地で、そのレベルの家の子どもたちがその幼稚園に通っていた。そこでのこと。その母親は自分がPTAの会長であることをよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていた。そして自分のライバルの子ども(年中女児)を見つけると、執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。まずその女の子の横をそれとなく通り過ぎながら、足でその女の子を蹴飛ばす。その勢いで倒れた女の子を、「どうしたの?」と言いながら抱くフリをしながら、またカベに投げつける……。年中児なら、かなり詳しくそのときの状況を話すことができる。

 その女の子は、その母親の姿を見ただけで、まっさおになっておびえるようになったという。当然だ。そこでその女の子の母親が「どうしたらいいか」と相談してきた。いや、その前に、その母親は相手の母親に、それとなく抗議したというが、相手の母親は、とぼけるだけで、話にならなかったという。しかも相手の母親の夫というのは、ある総合病院の外科部長。自分の夫は、同じ病院でもヒラの外科医。夫の上司の妻ということで、強く言うこともできなかったという。

●珍しい話ではない

 こういう話は、この世界では珍しくない。嫉妬がからむと、人間はとんでもないことをする。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、狂うときがある。これも実話だが、ある母親は同じ団地に住む別の母親の子ども(四歳児)を、エレベータの中で見つけると、いつも足蹴りにしていじめていた。そのためその子どもは、エレベータを見るだけでおびえるようになったという。

問題は、なぜ、そこまで母親というのは狂うかということ。先にあげた母親は、幼稚園でもPTAの会長をしていた。多分会合の席なのでは、それらしい人物として振舞っていたのだろう。考えるだけでもぞっとするが、しかし人には、その人でない部分がある。この話を叔母にすると、叔母はこう言った。「昔は子殺しというのもあったからねえ」と。母親も嫉妬に狂うと、相手の子どもを殺すことまでする……?

 つぎに(2)虚栄心。「世間」という言葉を日常的に使う人ほど、虚栄心の強い人とみる。いつも他人の目の中で、自分を判断する。価値観というのが、いつも相対的なもので、他人より財産があれば、豊かと感じ、そうでなければ貧しいと考える。子どもにしても、このタイプの母親には、「飾り」でしかない。もともと自己中心性が強いため、親意識も強い。「私は親だ」と。そしてその返す刀で、子どもに向っては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる。

●他人の不幸を喜ぶ親

 このタイプの母親には、他人の不幸ほど、楽しい話はない。ここに書いたように価値観が相対的であるため、他人が不幸であればあるほど、自分がより幸福ということになる。Tさん(三五歳女性)がそうだった。幼稚園へはいつも、ものすごい着物でやってきた。そして若い先生に会ったりすると、その場できどった言い方で、こう言った。「アーラ、先生、お元気そうザーますね。まあ、すてきな香り、よいご趣味ザーますわね」と。私はてっきりすごい家柄の母親だとばかり思っていた。そしてこんなこともあった。

 幼稚園で遠足に行くことになったときのこと。母親たちの間で、昼の弁当はどうするかという話がもちあがった。二、三人の親が、サンドイッチはどうかしらと提案したそのとき、Tさんはあたりをおさえるようにして、こう言った。「ア〜ら、(幼稚園生活で)最後の遠足ザーますから、皆さんで仕出し弁当か何かを頼んだら、いかがザーますかしら」と。

 で、どういうわけだかそのときは反対する人もなく、その仕出し弁当になってしまった。何でもTさんの知人がそのお弁当を作ってくれるという。値段は「割安」とは言ったものの、当時の平均的な弁当の二倍以上の値段だった。私はそのとき三〇歳少し前。年上の母親には何も言えなかった。

●豪華な着物

 そのTさんだが、子どもへの執念にも、ものすごいものがあった。たとえば誕生会は、市内のレストランで開いていた。しかも招待するのは、そのレベルの人たちばかり。私にも招待の声がかかったが、何を着ていこうかと迷ったほどである。そしてさらに秋の遊戯会でのこと。そのクラスで、浦島太郎をすることになった。

が、Tさんは、「どうしてもうちの息子に、乙姫様をやらせたい」と申し出てきた。男の子が乙姫様というのもおかしいという声もあったが、結局Tさんに押し切られてしまった。が、驚いたのは最後のリハーサルの日のこと。Tさんがもちこんだ着物は、日本舞踊で使うような、これまた豪華な着物だった。これには担任の若い先生も驚いて、「そこまではしない」ということになったが、Tさんは悪びれる様子もなく、こう言った。「うちには
昔からのこういった着物がありますザーますの。皆さんにもお貸ししましょうかしら、ホホホ」と。Tさんは、ただ着物をみせびらかしたかっただけだった。

●私はわが目を疑った!

 私は少なからずTさんに興味をもった。大会社の社長の夫人か。それとも大病院の院長の夫人かと思った。が、ある日のことだった。それは偶然だった。私が何かの用事で、ふらりとある大型スーパーの、そのまたある売り場へ行ったときのこと。そこで私はわが目を疑った。(こう書くからといって、そういう人がザーます言葉を使ってはだめだと言っているのではない。誤解がないように!)何とそのTさんが、頭にタオルを巻いて、その店で裏方の仕事をしていたのだ。髪の毛も、幼稚園へくるときとは、まったく違っていた。それに目がねまでかけていた。それを見て、私は声をかけることもできなかった。何か悪いものをみたように感じ、その場をそそくさと離れた。

 そして(3)母性本能……前にも書いたが、母性本能があるから悪いといっているのではない。この本脳というのは、扱い方が本当にむずかしい。母親自身もそうなのだろうが、まわりのものにとっても、である。この母性本能が狂い始めると、親と子が一体化する。これがこわい。

●子どもは芸術品

 母親にとっては、子どもは芸術品。それはわかる。だから子どもを批評したり、けなしたりすると、子ども以上に、母親はそれを不愉快に思う。それもわかる。が、それにも限度がある。こんなことがあった。

 M君(年中男児)は、かん黙症の子どもだった。かん黙症といっても、全かん黙と、場面かん黙がある。私はこのほか、条件かん黙というのも考えている。ある特定の条件下になると、かん黙してしまうのである。M君もそんなタイプの子どもだった。何かの拍子に、ふとかん黙の世界に入ってしまった。そのときもそうだった。順に何かの発表をさせていたのだが、M君の番になったとたん、M君はだまりこくってしまった。視線をこちらに合わせようともしない。やさしく促せば促すほど、逆効果で、柔和な笑みを一方で浮かべながら、ますますかたくなに口を結んでしまった。

●M君の問題点

 実はそのとき私はM君の母親に、それとなくM君の問題点を見てもらうつもりでいた。教育の世界では、ドクターが患者を診断して診断名をくだすような行為はタブー。こういうケースでも、「あなたの子どもはかん黙児です」などとは、言ってはならない。わかっていても、知らぬフリをする。フリをしながら、それとなく親に悟ってもらうという方法をとる。M君のケースでも、私はそう考えた。で、その少し前、M君の母親に会ったとき、そのことについて話すと、M君の母親はそのまま激怒してこう言った。「うちではふつうです。うちの子は、新しい環境になじまないだけです!」と。それで私はその日は母親に参観に来てもらうことにした。が、その日にかぎって、ほかに三、四人の母親も参観に来ていた。それがまずかった。

 じりじりとした時間が流れていくのが、私にはわかった。ふつうならそこで隣の子にバトンタッチして、その場を逃げるのだが、そういう問題点を母親にも見てほしかった。それでいつもより時間をかけた。私「あなたの番だよ、どうかな?」、M「……」、私「こちらを見てくれないかな?」、M「……」、私「もう一度言うから、よく聞いてね?」、M「……」と。

●激怒したM君の母親

 こういうとき親のほうから、「どうしてでしょう?」という問いかけがあれば、そのときから指導ができる。問いかけがなければそれもできない。少し時間はかかるが、親自身が子どもの問題点に気づくのを待つしかない。私はM君の母親の心の中を思いやりながら、時間が過ぎるのを待った……。が、そのときだった。

 M君の母親がものすごい勢いで子どもたちのほうの席へやってきた。そしていきなりM君の腕をつかむと、M君をそのままひきずるようにして、部屋の外へ出て行ってしまった。本当にあっという間のできごとだった。ただ最後に、M君の母親が、「M! 行くのよ!」と言ったのだけは、よく覚えている。

 が、それですんだわけではない。M君の母親からその夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたの指導方法はうちの子にあっていません」と。私は平謝りに謝るしかなかった。M君の母親は、こう言った。「うちの子をあんな子にしたのは、あなたの責任です。ちゃんと話せていたのに、話せなくなってしまった。どうしてくれるんですか! 明日園長に話して、責任をとってもらいます」と。いろいろあって、私にも微妙な時期だったので、私は「それだけは勘弁してください」としか、言いようがなかった。

●自分で行き着くところまで行くしかない

 しかし今でもときどきあのM君を思いだすときがある。そしてこう思う。親というのは、結局自分で行き着くところまで行って、はじめて、自分に気がつくしかない、と。またその途中で、それに気づく親はいない。いても、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。「うちの子に限って、問題はない」と思う親もいる。子育てにはそういう面がいつもついて回る。それは子育ての宿命のようなものかもしれない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あんたはそれでも日本人ですかア!
アルツハイマー病(失敗危険度★)

●アルツハイマー病という病気
 アルツハイマー病(アルツハイマー型痴呆症)という恐ろしい病気がある。近年、急速にその原因が究明されてきて、その治療薬もどんどん進歩している。だから以前ほど深刻に考える人は少ないかもしれない。しかし恐ろしい病気であることには違いない。

 そのアルツハイマー病の初期症状は、記憶力低下、被害妄想、短気、人格の変化などだそうだ(東京慈恵会医科大学・笠原洋勇氏)。が、その初期症状の、そのまた初期症状というのもあるそうだ。たとえばがんこになる、自己中心性が強くなる、繊細さが消えて、ズケズケとものを言うなど。アルツハイマー病になる人はともかくも、(案外、本人はハッピーな気持ちかもしれないが)、その周囲の人が迷惑をする。いや、家族はそれなりに納得してつきあうが、そのまた周囲というか、親しくもないが、他人とも言えない人たちが迷惑をする。たとえば学校の先生。ふつうの迷惑ではない。ズケズケとものを言うのは、本人の勝手だが、言われたほうはキズつく。Jさん(四五歳)という母親がいた。

●飛躍する論理
 ある日Jさん(四〇歳女性)が、血相を変えて私の事務所へやってきた。そしてこう言った。
「私、頭にきたから、三〇年来の友人と今度、絶交した」と。よほどのことがあったのだろうと思って理由を聞くと、こう言った。「Uさんは日本人のくせに、エトロフ島はロシアの領土だと言うのよ。許せない」と。私はとっさに「そんなことで!」と思ったが、つづけてJさんは、「エトロフ島には、アイヌ民族の墓があるのよ。日本人の祖先でしょ」と。

 論理がどんどんと飛躍していって、つかみどころがない。が、私が「まあ、どうでもいい問題ですね」と言うと、今度は私に向かって、「先生、あんたはあちこちで講演なさっているということですが、それでも日本人ですかア!」と食ってかかってきた。私は「人にはそれぞれ違った考え方があるから、それはそれとして尊重してあげればいい」という意味でそう言っただけなのだが…
…。

●発症率は五%

 問題は発症率だが、四〇歳前後で発症し始め、五%前後というのが通説になっている。五%といえば、二〇人に一人ということになる。それに四〇歳前後といえば、ちょうど子どもが中学生くらいになった年齢に相当する。ということは、仮に三〇人クラスで計算すると、親の数は六〇人。何と一クラスに、三人はそういう症状をもった親がいるということになる。

実際、このタイプの親にかかわると、かなりタフな神経をもっている教師でも、かなり痛めつけられる。ある中学教師は、父母懇談会の席で、ある母親に、「あんたのような教師が教師をしていると、日本が滅ぶ」と言われた。あるいは「最近の子どもたちが荒れるのは、先祖を粗末にする教師がふえたからだ。学力がさがったのも、そこに原因がある。あなたにも責任をとってほしい」とも。

●私の経験から

 このタイプの母親は(父親もそうだが、私は職業上、圧倒的に母親に接する機会のほうが多いので、父親のケースは、ほとんど知らない。またことアルツハイマー病についていうなら、女性の発症率は男性の三〜四倍だそうだ)、どこか心がかよいあわないといった感じになる。こちらが親密な話をしようとしても、うわの空。何か質問をしても、不自然で、ぶっきらぼうな反応しかない。

 私「夏休みには、どこかへ行くのですか?」
母「主人の稼ぎしだいですわ」
私「計画は……?」
母「計画なんてものはね、破るためにつくるものでしょ。あんた先生なのに、そんなこともわからないの!」
私「……」と。

●突然解雇!
 そんなある日、一人の女性教師から電話がかかってきた。何でも突然クビを切られたというのだ。話を聞くと、庭で園児を指導していると、園長が突然やってきて、「あんたは来週から、もうこの園にはこなくていい」と言ったという。その教師は興奮してそのときの状況を話してくれた。よほど悔しかったのだろう。自分のほうから過去の業績をあれこれ話してくれた。

 しかしこういう解雇のし方は、労働基準法に照らすまでもなく不当である。で、私もそのことが気になって、別の幼稚園の園長に電話をかけ、その女性教師の勤める幼稚園の園長の様子を聞くことにした。が、電話をかけると、その園長はこう教えてくれた。「あの、D幼稚園のD園長ね、あの園長、最近少し様子がおかしいですよ。まともに相手にしてはいけません」と。そういうこともある。

●それでもやけどする

 もっともこういう仕事を三〇年以上もしていると、問題のある母親は、直感的にかぎ分けることができる。昔から『さわらぬ神にたたりなし』というが、かかわらないことこそ賢明。ただ淡々と、事務的に会って別れる。へたに首をつっこむと、それこそおおやけどをする。……と言いつつ、そのおおやけどをすることが多い。

●印象に残ったSさん

 私がSさん(四二歳女性)をおかしいと最初に思ったのは、私がトイレから出たときのことだ。Sさんはトイレのドアの外で立って私を待っていた。まだ洗った手から水がポタポタと落ちるような状態だったし、トイレの中の臭いが体にまとわりついているような状態だった。私なら人を待つとしても、そういうところでは待たない。相手が当惑することが、簡単に予想できるからだ。

が、Sさんは、そのトイレのドアのところで私を待っていた。そして「このワークでいいか」と聞いてきた。「子どもに与えるワークは、これでいいか」ということだった。私はSさんをすぐ別の部屋に招いたが、そのとき感じた不快感は、Sさんと別れるまでずっと消えなかった。

●奇怪な行動

 そのSさん。大病院の精神科の医師を夫にもっていたが、それ以後、信じられないような奇異な行動が目だった。あとでこの話を別の友人に話すと、「まさかア」と絶句してしまったが、たとえば……。
(この話を、当時つきあっていた出版社の知人に話すと、その知人は、こう言った。
「まさか……」と。しかし事実は事実。)

 事務所でひとりで待たせておいたりすると、インスタントコーヒーなどを盗んでもって帰ってしまうのである。それも封を切ったようなコーヒーをである。あるいは懇談会の席で、「Gさんのダンナさんは、この前飲酒運転をして、警察に逮捕されたんですってね」とか言ったりしたこともある。

この事件のときは、さすがのGさんも堪忍袋の緒が切れて、裁判ザタになる寸前まで、話がこじれた。が、こういうSさんのような母親が、父母会などに出てくると、それこそ話がめちゃめちゃになってしまう。いろいろなことがあった。

●Sさん語録

そのSさんは無数の「Sさん語録」を私に残してくれた。

○子どもは一人。多くて二人。三人以上はダ作。日本人の平均的給与でカバーできるのは、二人まで。三人以上は、国が預かるようにすればよい。
○コンピュータ教育は人間をダメにする。コンピュータに頼れば頼るほど、人間の思考と記憶は退化する。
○幼児期からしっかり教育すれば、どんな子どもでも東大へ入れる。入れないのは、幼児期の教育がまちがっているから。
○サッカーは、人間をダメにする。ボールと能力はよく似ている。能力を左右に動かしても、人間の能力は向上しない。

また政治問題にも詳しく(?)、こんなことも言った。
○韓国や中国の現在の繁栄は、日本のおかげだ。日本が指導したから、今のように繁栄できるようになった。韓国や中国は日本の占領に感謝すべきだ。
○アメリカは日本を植民地化しようとしている。一方、日本政府は、アメリカの六〇番目の州に立候補している。
○日本は満州を占領したが、もともとあの土地には人は住んでいなかった。だから占領しただけ。だれも文句を言うべきではない。
○太平洋の半分は日本のものだ。アメリカと日本で半分ずつ分けるべきだ。太平洋の中央に境界線を引けばよい、ほか。

●人格障害

ある時期Sさんは、毎日のように私のところへやってきて、とっぴもない議論をふっかけてきた。が、そのうち私のほうが疲れてしまい、逃げ腰になった。が、そういう私の姿勢を敏感に察知して、こなくなったと同時に、今度は私の悪口を言いふらすようになった。Sさんの友人のTさん(三七歳)はこう言った。

 「Sさんに反論すると、Sさんは顔を真っ赤にして怒りだします。だからこわくて反論できません。機嫌をそこねないように、こちらも『そうです、そうです』とだけしか言いようがないです」と。

 それからほぼ一五年。聞くところによると、Sさんは自宅のマンションに閉じこもったまま、一歩も外へ出てこないという。あれこれトラブルを引き起こすので、夫が外へ出したがらないとのこと。どういう病気であるかは断定できないが、しかしおおよその推察はつく。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

やめるということは、クビ切りだ!
去り際の美学(失敗危険度★)

●リセット症候群

 この世の中、人との出会いは、意外と簡単。その気になれば、それこそ掃いて捨てるほど(失礼!)ある。携帯電話やインターネットの普及が、その背景にある。しかし問題は別れるときだ。別れるときに、その人の真価がためされる。

 もっとも今は、その別れ方も電子化している。ちょうどパソコンのスイッチを消すかのように、まったくゼロに戻して別れてしまう。こういった別れ方を「リセット症候群」と呼ぶ人もいる。別れ方そのものが、サバサバしている。たとえば卒業式にしても、昔は皆が泣いた。先生も生徒も、そして親たちも泣いた。しかし今はそれがすっかりさま変わりした。

 もっともドライといえばドライなのが、ブラジルからやってきた日系人家族だそうだ(K小学校校長談)。ある日突然学校へやってきて子どもを入学させる。そしてある日突然、同じようにいなくなる、と。日本人もドライになったとはいえ、まだそこまでドライではない。ないが、それに近い状態になりつつある。

●「怒りで手が震えたよ」

 私と二〇年来の友人に、学習塾を経営しているF君がいる。ちょうど同じ年齢で、あれこれ情報をもらっている。そのF君は温厚な人物だが、そんなF君でも、しばしば憤まんやるかたなしといったふうに電話をかけてくることがある。いわく、「月末の最後の最後の授業が終わって、さようならとあいさつをしたとたん、生徒から紙切れを渡された。見ると、『今日でやめます』と母親の字でメモ書き。怒りで手が震えたよ」と。

 この世界の外の人にはわからないかもしれないが、「やめる」という話は、塾の教師にとっては、クビ切り以外の何ものでもない。そういう話をメモですまそうとする母親たちの心理が、F君には理解できない。生まじめな男だけに、ショックも大きいのだろう。いや、私にも似たような経験はあるが、しかしこの世界はそういう世界だと割り切ってつきあっている。いちいち目くじらを立てていたら、精神がもたない。F君もそう言っているが、しかしこちら側にもこちら側のやり方がある。そういうふうにやめた生徒は、一切、アフターケアはしない。それはまさに人間関係のリセット。ゼロにする。メールがこようが、電話がかかってこようが、そういったものには一切、答えない。

●皆はどうなのか?

 ……と考えて、ふと今、医院を経営するドクターたちのことが頭を横切った。考えてみればドクターたちも、同じ立場ではないか。患者である私たちは、必要なときに医院へ行き、必要でなければ、たとえ「また来い」と言われていても、行かない。あのドクターたちは、私のような患者のことをどう思っているのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。もっともドクターと塾の教師は、立場がまったく違う。ドクターは、その身分や収入がしっかりと公的に保証されている。しかし塾の教師はそうでない。

……と考えて、今度は理容店を経営するいとこのことを思い浮かべた。客とはいいながら、その客ほど、浮気な客はいない。毎月定期的に来るともかぎらないし、メモどころか、何も連絡しないまま、別の店に乗りかえていくことだってある。いくらそれまでていねいに散髪していたとしても、だ。そのいとこは、そういう客をどう思うのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。

●塾は人間関係で決まる

 考えてみれば、塾の教師たちがどう感じようとも、子どもを塾へやるというのは、親たちからすれば、医院や理容店へ足を運ぶようなものかもしれない。「入るのも親の自由。やめるのも親の自由」と。となると、F君のように、怒るほうがおかしいということになる。が、教育は病気や商売とは違う。どこか違う。

 いくら「塾」といっても、そこは教師と生徒の人間関係で成りたつ。この「関係」があるため、医院や理容店とは、違って当然。また「やめる」という感覚が、これまた違って当然。いやいやそういうふうに「違う」と思うこと自体、手前ミソかもしれない。医院のドクターだって怒っているかもしれない。理容店のいとこだって怒っているかもしれない。怒っていても、皆、平静を装っているだけかもしれない。

●非常識な別れ方

 で、非常識な別れ方を列挙してみる。私の経験から……。

 私に、「今度、BW(私の幼児教室)から、K式幼児教室に移ろうと思いますが、先生、あのK式幼児教室をどう思いますか?」と聞いてきた母親がいた。私ははじめ、冗談を言っているのかと思ったが、その母親は本気だった。

 別の教室にすでに入会届けを出したあと、(そういう情報はあらゆるところからすぐ入ってくるが……)、私に「先生、来月からどうしたらよいか、一度相談にのってくださいな」と言ってきた母親がいた。

 「私は息子に、何度もBW(私の教室名)をやめるように言っているのですが、どうしてもいやだと言っています。先生のほうからもやめるように言ってくださいませんか」と電話で言ってきた母親もいた。

 反対にある日突然、道路ですれ違いざま、「今週でBWをやめます」と言っておきながら、その一か月後、また電話がかかってきて、「来週からまた行きますから」と言ってきた母親もいた。

●美しく別れる

 こうした母親たちからは、私は神様に見えるらしい。喜んでいいのか悪いのか……。どんなことをしても、また言っても、私は許すと思っているらしい。しかし私とて、生身の人間。生きる誇りも高い。だからこうした母親たちとは、その後、交友を再開したということはない。(だからこうしてここに書いているのだが……。)またこれから先も、何らかのかかわりをもつということもない。(だからこうしてここに書いているのだが……。)

 何ともきわどい話を書いてしまったが、こと子どもの教育については、いかに美しく分かれるかについて、親はもう少し慎重であってもよいのではないか。塾のみならず、今では教育そのものが自動販売機になりつつある。「お金を入れれば、だれでも買える」と。しかしこうしたドライな見方は、結局は教育そのものまでドライにする。そしてそれは結局は、子ども自身をドライにし、人間関係までドライにする。そうなればなったで、さらに結局は、子ども自身が何か大切なものを失うことになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

子どもにはナイフを渡せ!
誤解と無知(失敗危険度★★★)

●墓では人骨を見せろ?

 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょうか」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?

 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚いた。

●子どもにはナイフをもたせろ?

 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわからない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくしてから、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひっこめざるをえなかったのだろう。彼はナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にある。

(注:この教育評論家はその後、麻薬を常用していたとかで、息子氏とともに、逮捕されている。)

●ゴーストライターの書いた本

 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家がいた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのことだった。もう三〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になったことがある。

●タレント教授の錬金術

 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そして本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこんだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」と。もちろん私はそれを断った。

が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになっていた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五〜六冊あった。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思われないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあふれていた。

●インチキと断言してもよい

 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになっている。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されているかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうしたインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身にある。

●私の反論

 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せたからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論しておく。

 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったとき、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまちがえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育ての世界ではまさに邪道!

 また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。

 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだしも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといって、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち

 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういうとんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹くたびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あんたさ、英語教育に反対してよ!
おめでたママ(失敗危険度★★★★★)

●英語教育は日本語をだめにする?

 こんな相談も。「今度うちの小学校でも英語教育が始まったが、今、英語なんか教えてもらったら、うちの子(小三男児)の日本語がおかしくなってしまう。英語教育には反対してほしい」と。こう書くと、まともな日本語で母親が話したかのように思う人がいるかもしれないが、実際にはこうだ。「今度、英語ね、ほら、小学校で、英語。ありゃ、うちの子に、必要ないって。あんな英語やらやあ、さあ、かえって日本語、ダメになるさ。あんたさ、評論家ならさ、反対してよ」と。日本語すらまともに話せない母親が、子どもの国語力を心配するから、おかしい。

●この子には、力があるはずです

 が、子どもの受験のことになると、ほとんどの親は自分の姿を見失う。数年前だが、一人の中学生(中一男子)が、両親に連れられて私のところにやってきた。両親は、ていねいだが、こう言った。「この子には、力があるはずです。今までB教室といういいかげんな塾へ行っていたので、力が落ちてしまった。ついては、先生に任せるから、どうしてもS高校へ入れてほしい」と。

 S高校といえば、この静岡県でも偏差値が最上位の進学高校である。そこで私は一時間だけその中学生をみてみることにした。が、すわって数分もしないうちに、鉛筆で爪をほじり始めた。視線があったときだけ、何となく頭をかかえて、勉強しているフリはするものの、まったくはかどらない。明らかに親の過関心と過干渉が、子どものやる気を奪ってしまっていた。私は隣の部屋に待たせていた両親を呼んで、「あとで返事をする」と言って、その場は逃げた。

●「はっきり言ったらどうだ」

 数日置いて、私はていねいな手紙を書いた。「今は、時間的に余裕もないから、希望には添えない」という内容の手紙だった。が、その直後、案の定、父親から猛烈な怒りの電話が入った。父親は電話口の向こうでこう怒鳴った。「お前は、うちの子は、S高校は無理だと思っているのか。失敬ではないか。無理なら無理と、はっきり言ったらどうだ」と。

●デパートの販売拒否

 本当にこのタイプの親は、つきあいにくい。どこをどうつついても、ああでもない、こうでもないとつっかかってくる。公立の、つまり税金で動いている学校ですら、選抜試験をするではないか。私のような、まったく私立の、一円も税金の恩恵を受けていない教室が、どうしてある程度の選抜をしてはいけないのか。

 ほとんど親がそうだが、私が入会を断ったりすると、まるでデパートで販売拒否にでもあったかのように、怒りだす。気持ちはわからないわけではないが、つまりは、それだけ私たちは「下」に見られている。しかし昔からこう言うではないか。『一寸の虫にも五分の魂』と。そういうふうにしか見られていないとわかったとたん、私たちだって、教える気はうせる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

学校の先生が許せない!
自分を知る、子どもを知る(失敗危険度★★★★)

●汝自身を知れ

 自分を知ることはむずかしい。スパルタの七賢人の一人、ターレスも、『汝自身を知れ』という有名な言葉を残している。つまり自分のことを知るのはそれほどむずかしい。理由はいくつかあるが、それはさておき、自分の子どものことを知るのは、さらにむずかしい。

 一般論として賢い人には、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは賢い人が見えない。もっと言えば、賢い人からは愚かな人がよく見えるが、愚かな人からは賢い人が見えない。かなり心配な人(失礼!)でも、自分が愚かだと思っている人はまずいない。さらにタチの悪いことに、愚かな親には、自分の子どもの能力がわからない。これが多くの悲喜劇のモトとなる。

●「ちゃんと九九はできます」

 学校の先生に、「どうしてうちの子(小四男子)は算数ができないのでしょう」と相談した母親がいた。その子どもはまだ掛け算の九九すら、じゅうぶんに覚えていなかった。そこで先生が、「掛け算の九九をもう一度復習してください」と言うと、「ちゃんと九九はできます」と。掛け算の九九をソラで言えるということと、それを応用して割り算に利用するということの間には、大きなへだたりがある。が、その母親にはそれがわからない。九九がソラで言えれば、それで掛け算をマスターしたと思っている。子どもに説明する以上に、このタイプの親に説明するのはたいへんだ。その先生はこう言った。

 「親にどうしてうちの子は勉強ができないかと聞かれると、自分の責任を追及されているようで、つらい」と。私もその気持ちはよく理解できる。

●神経質な家庭環境が原因 

が、能力の問題は、まだこうして簡単にわかるが、心の問題となるとそうはいかない。ある日、一人の母親が私のところへきてこう言った。「うちの子(小一男子)が、おもらししたのを皆が笑った」というのだ。母親は「先生も一緒に笑ったというが、私は許せない」と。だから「学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、その子どもにはかなり強いチック(神経性の筋肉のけいれん)もみられた。その子どもがおもらしをしたことも問題だが、もっと大きな問題は、ではなぜもらしたかということ。なぜ「トイレへ行ってきます」と言えなかったのかということだ。もらしたことにしても、チックにしても、神経質な家庭環境が原因であることが多い。

●ギスギスでは教育はできない

学校という場だから、ときにはハメをはずして先生や子どもも笑うときがあるだろう。いちいちそんなこまかいことを気にしていたら、先生も子どもも、授業などできなくなってしまう。また笑った、笑われたという問題にしても、子どもというのはそういうふうにキズだらけになりながら成長する。むしろそうした神経質な親の態度こそが、もろもろの症状の原因とも考えられる。が、その親にはわからない。表面的な事件だけをとらえて、それをことさらおおげさに問題にする。

●子どもを知るのが子育ての基本

 まず子どもを知る。それが子育ての基本。もっと言えば子どもを育てるということは、子どもを知るということ。しかし実際には、子どもを知ることは、子育てそのものよりも、ずっとむずかしい。たとえば「あなた」という人にしても、あなたはすべてを知っているつもりかもしれないが、実際には、知らない部分のほうがはるかに多い。「知らない部分のほうが多い」という事実すら、気がついていない人のほうが多い。

人というのは、自らがより賢くなってはじめて、それまでの愚かさに気がつく。だから今、あなたが愚かであるとしても、それを恥じることはないが、しかし、より賢くなる努力だけはやめてはいけない。やめたとたん、あなたはその愚かな人になる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った
汝(なんじ)自身を知れ(失敗危険度★★★★)

●自分を知ることの難しさ

自分を知ることは本当にむずかしい。この私も、五〇歳を過ぎたころから、やっと自分の姿がおぼろげながらわかるようになった。表面的な行動はともかくも、内面的な行動派、「私」というより、「私の中の私」に支配されている。そしてその「私の中の私」、つまり自分は、「私」が思うより、はるかに複雑で、いろいろな過去に密接に結びついている。

●「ぼくは何も悪くなかった」

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

●問題の本質は?

 ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

●自分であって自分でない部分

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一緒に抗議に行ってほしい!
過関心は百害のもと(失敗危険度★★★★★)

●問題は母親に

 ある朝、一人の母親からいきなり電話がかかってきた。そしてこう言った。いわく、「学校の席替えをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子どものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こういうことは許せない。先生、学校へ一緒に抗議に行ってくれないか」と。その子どもには、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、そういうことはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほうだ。こんなこともあった。

●ささいなことで大騒動

 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついているなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。その夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなかった。

●まじめ七割

 しかし問題は、席替えでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかということ。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどうしのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払っていたら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ七割、いいかげんさ三割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

●度を超えた過関心は危険

 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもをつぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズだらけになりながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しようとしているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさまたげる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけをみてくれればいい!
何を考えている!(失敗危険度★★★★★)

●アンバランスな生活

 どうしようもないドラ息子というのは、たしかにいる。飽食とぜいたく。甘やかしと子どもの言いなり。これにアンバランスな生活が加わると、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。「アンバランスな生活」というのは、たとえば極端に甘い父親と極端に甘い母親で、子どもの接し方がチグハグな家庭。あるいはガミガミとうるさい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような環境をいう。

こういう環境が日常化すると、子どもはバランス感覚のない子どもになる。「バランス感覚」というのは、ものごとの善悪を冷静に判断し、その判断に従って行動する感覚をいう。そのバランス感覚がなくなると、ものの考え方が突飛もないものになったり、極端になったりする。常識はずれになることも多い。友だちの誕生日に、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入れた子ども(中二男子)がいた。さらにこういう子ども(小三男児)さえいる。学校での授業のとき、先生にこう言った。

●「くだらねえ授業だなあ」

 「くだらねえ授業だなあ。こんなくだらねえ授業はないゼ」と。そして机を足で蹴飛ばしたあと、「お前、ちゃんと給料、もらってんだろ。だったら、もう少しマシなことを教えナ」と。

 実際にこのタイプの子どもは少なくない。言ってよいことと悪いことの区別がつかない。が、勉強だけはよくできる。頭も悪くない。しかしこのタイプの子どもに接すると、問題はどう教えるではなく、どう怒りをおさえるか、だ。学習塾だったら、「出て行け!」と子どもを追い出すこともできる。が、学校という「場」ではそれもできない。教師がそれから受けるストレスは相当なものだ。

●本当の問題 

 が、本当の問題は、母親にある。N君(小四男児)がそうだったので、私がそのことをそれとなく母親に告げようとしたときのこと。その母親は私の話をロクに聞こうともせず、こう言った。「あんたは黙って、息子の勉強だけをみてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。その母親の夫は、大病院で内科部長をしていた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

いらんこと、言わんでください!
女の修羅場(失敗危険度★★★★)

●子どもは芸術品

 母親たちのプライドというのは、男たちには理解できないものがある。その中でも、とくに子どもは、母親にとっては芸術作品そのもの。それをけなすとたいへんなことになる。こんなことがあった。

 スーパーのレストランで、五歳くらいの子どもが子どもの顔よりも大きなソフトクリームを食べていた。体重一五キロ前後の子どもが、ソフトクリームを一個食べるというのは、体重六〇キロのおとなが四個食べる量に等しい。おとなでも四個は食べられない。食べたら食べたで、腹の調子がおかしくなる。で、その子どもと目が合ったので、思わず私はその子どもにこう言ってしまった。「そんなに食べないほうがいいよ」と。が、この一言がそばにいた母親を激怒させた。母親はキリリと私をにらんでこう叫んだ。「あんたの子じゃないんだから、いらんこと、言わないでください!」と。またこんなことも。

●江戸のカタキを長崎で討つ

 母親というのは、自分で自分の子どもを悪く言うのは構わないが、他人が悪く言うのを許さない。(当然だが……。)たとえ相手が子どもでも許さない。これは実際あった話だが、(ということを断らねばならないほど、信じられない話)、自分の子ども(年長男児)をバカと言った相手の子ども(同じ幼稚園の年長男児)を、エレベータの中で足蹴りにしていた母親がいた。そこで蹴られたほうの母親が抗議すると、最初は、「エレベータが揺れたとき、体がぶつかっただけだ」と言い張っていた。が、エレベータがそこまで揺れることはないとわかると、こう言ったという。

「おたくの子がうちの子を、幼稚園でバカと言ったからよ」と。江戸のカタキを長崎で討つ、というわけであるが、これに親の溺愛が加わると、親子の間にカベさえなくなる。ある母親はこう言った。「公園の砂場なんかで、子どもどうしがけんかを始めると、その中に飛び込んでいって、相手の子どもをぶん殴りたくなります。その衝動をおさえるだけでたいへんです」と。

●「お受験」戦争

 こうした母親たちの戦いがもっとも激しくなるのが、まさに「お受験」。子どもの受験といいながら、そこは女の修羅場(失礼!)。どこがどう修羅場ということは、いまさら書くまでもない。母親にすれば、「お受験」は、母親の「親」としての資質そのものが試される場である。少なくとも、母親はそう考える。だから自分の子どもが、より有名な小学校に合格すれば、母親のプライドはこのうえなく高められる。不合格になれば、キズつけられる。

 事実、たいていの母親は自分の子どもが入学試験に失敗したりすると、かなりの混乱状態になる。私が知っている人の中には、それがきっかけで離婚した母親がいる。自殺を図った母親もいる。当然のことながら、子どもへの入れこみが強ければ強いほどそうなるが、その心理は、もう常人の理解できるところではない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

部屋の中はまるでクモの巣みたい!
砂糖は白い麻薬(失敗危険度★★)

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えるとわかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだった。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらもったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君は一日、一〇〇〜一二〇グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケットをくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないものを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量はイチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与えると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。

たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード

 ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそい。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。子どもの食生活を安易に考えてはいけない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

こちらの頭のほうがヘンになる
イメージが乱舞する子ども(失敗危険度★★★)

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしません
でした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊をあげる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

妻の身分も夫しだい!
銀行寮の掟(おきて)(失敗危険度★★)

●ある銀行の現実

 ここは県庁所在地になっているS市の郊外。不況、不況と言われながらも、大銀行だけは別。家族寮なども、ちょっとしたホテル並の豪華さを誇る。そこでのこと。部長の息子と、課長の息子が同じ中学を受験することになった。こういうとき、部長の息子が落ちて、課長の息子が合格したりすると、さあたいへん。課長の息子は入学を辞退するか、その寮を出なければならない。私が「何もそこまで……」と言うと、ある母親はこう言った。「それは現実を知らない人の言うことです」と。

●夫たちの地位で妻の地位も決まる

 何でもその家族寮では、夫たちの地位に応じて妻たちの地位も決まるという。会合でも、中央にデ〜ンと座るのが、部長の妻。あとはそれに並んで、次長、課長とつづく。ヒラの妻は一番ハシ。年齢や教養には関係ない。もちろん容姿も関係ない。また廊下ですれちがうときもそうだ。相手がどんなに若くても、相手がどんなにそうするにふさわしくない女性(失礼!)でも、夫の地位が自分の夫の地位よりも高いときには、道をあけなければならない。

 「そういう世界だから、どの母親も、子どもの受験にはピリピリです」と。具体的にはこうだ。まず上司の息子や娘と同じ学校は受験しない。上司の息子や娘が不合格になった学校は受験しない。受験する学校の名前は最後の最後まで秘密にする、と。

●日本人独特の上下意識

 ……私はこの話を聞いたとき、別のところで、「こんなことをしているから日本の銀行は、国際競争力をなくした」と思った。日本人のほとんどは、日本は先進国だと思っている。たしかに豊かで、経済力はある。しかしその中身といえば、アフリカの××部族のそれとそれほど違わない。少なくとも、世界の人はそう見ている。日本の社会の中にどっぷりとつかっている人には、それがわからない。その一つが、日本人独特の上下意識。日本人はたった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩と考える。そしてその間にきびしい序列をつける。言いかえると、こうした意識があるかぎり、日本はいつまでも奇異な目で見られる。日本異質論は消えない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

こんなオレにしたのは、お前だろ!
溺愛ママ(失敗危険度★★)

●子どもを溺愛する母親

 親が子どもを溺愛する背景には、親側の情緒的未熟性や精神的な欠陥がある。つまりそうした未熟性や欠陥を代償的に補うために親は子どもを溺愛するようになる。つまり子どもを溺愛す親というのは、どこかに心の問題をもった人とみてよい。が、親にはそれがわからない。わからないばかりか、溺愛を親の深い愛と誤解する。だから人前で平気で、その溺愛ぶりを誇示する。こんなことがあった。

●溺愛を「愛」と誤解?

 高校のワンゲル部の総会でのこと。指導の教師が父母たちに向かって、「皆さんはお子さんたちが汚してきた登山靴をどうしてますか?」と聞いたときのこと。一人の母親がまっさきに手をあげてこう言った。「このクツが無事息子を山から返してくれたと思うと、ただただいとおしくて頬ずりしています!」と。

 あるいは幼稚園で、それはそれはみごとな髪型をしてくる子ども(年中女児)がいた。髪の毛を細い三つ編みにした上、さらにその、三つ編みを幾重にも重ねて、複雑な髪型をつくるなど。まさに芸術的! そこである日、その母親と道路であったので、それとなく「毎日たいへんでしょう?」と聞いてみた。が、その母親は何ら臆することなく、こう言った。「いいえ、毎朝、三〇分もあればすんでしまいます」と。毎朝、三〇分!、である。

●溺愛児の特徴

 親が子ども溺愛すると、子どもは子どもで溺愛児特有の症状を示すようになる。(1)幼児性の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心的になる)、(3)服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、(4)柔和でおとなしく、満足げでハキがなくなるなど。ちょうど膝に抱かれたペットのように見えることから、私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。が、それで悲劇が終わるわけではない。

●カラを脱がない子ども 

子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば子どもには、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行する。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてあるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内騒動をともなう。
子「こんなオレにしたのは、お前だろ!」
母「ごめんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。

 しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げない子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」(テレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そうなる。
 
 溺愛ママは、あなたの周辺にも一人や二人は必ずいる。いて、何かと話題になっているはず。しかし溺愛は「愛」ではない。代償的愛といって、つまるところ自分の心のすき間うめるための愛。身勝手な愛。一方的な愛。もっと言えば、愛もどきの愛。そんな愛に溺れてよいことは、何もない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あの思い出を全部消せ!
理由なき怒り(失敗危険度★★)

●原稿を読んでもらったが……

 その母親がどんなメンツにこだわっているか、それは外からではわからない。わからないから失敗もする。しかし今になっても、「どうして?」と首をかしげるような事件もあった。

 ある日のこと。その日はたまたま公開授業の日だった。園長も顔を出していた。で、私は一通りの授業をほぼ終えたあと、一人の父親に前で助手をしてもらうことにした。その父親は母親とともに最前列にいた。私はその父親に教材と原稿を渡し、それを子どもたちの前で読んでもらった。

●執拗な電話

 その授業はその授業なりに、わきあいあいの雰囲気でなされた。その父親は少し照れてはいたが、それは当然のことだ。じょうずかへたかと言われれば、じょうずなはずがない。が、その夜から、母親からものスゴイ剣幕の電話。「よくもうちの主人に恥をかかせてくれたわね!」と。母親だって一緒に笑っていたはずだ。が、そうではなかった。それはそれで理解できたので、私はていねいに謝ったが、その程度では母親の怒りをしずめることはできなかった。

 その電話はその夜だけでも、ネチネチと一時間以上もつづいた。翌日の夜もやはり一時間以上つづいた。三日目になると、さすがに私の女房も電話のベルが鳴るたびに、体を震わせておびえるようになった。が、その三日目には電話はなかった。が、そのまた翌日から、ほとんど毎日、その母親から電話がかかってきた。私が「では、どうすればいいですか」と聞くと、「あの思い出を全部消せ!」とか、「時間をもとに戻せ!」とか、メチャメチャなことを言いだした。

●電話におびえた女房

 当時の私はまだ二五歳そこそこ。今ならもう少し賢い言い方で電話をかわしたかもしれないが、そのときはそうではなかった。私はともかくも、女房は電話のベルが鳴るたびに、体をワナワナと震わせた。

●いまだに謎

 ……で、今でも、なぜあの母親がああまで怒ったのか、私には理解できない。ただそのあとその母親は、ある種の精神病になって入退院を繰り返したという話を風のたよりに聞いたことがある。その病気と関係があったのかもしれない。あるいはそれとは別に、うつ状態になっていたのかもしれない。

うつ状態になると、そういったとんでもない被害妄想をもつこともあるという。もっとも今でもその母親がまとも(?)なら、こんな文章はとてもここに書けない。もし私がこんな文章を書いたのがわかったら、その母親は私を殺しにくるかもしれない。私の記憶に残っている母親の中でも、最高に恐ろしい母親だった。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

インターネットの時代に(失敗危険度★★)

●深刻な話はメールではしない

 インターネットでメール交換している母親がふえている。私の周辺でも、ほとんどの母親たちが、毎日のようにそれを楽しんでいる。が、そのメール交換にも、いろいろな落とし穴がある。たとえば文字でメールを送ると、相手は相手の感情でその文字を読む。これがこわい。冗談のつもりで、「バカだなあ」と書いたとする。が、相手はそのときの気持ちでその文を読む。読んで「バカとは何だ!」となる。だからメールを書くときは、極力そういう誤解を生じさせないような配慮が必要だ。ニコニコ笑ったような絵文字を添えたりするのも、一つの方法だ。私のばあいは、深刻な話はインターネットではしないようにしている。

●「何だ、こんな失礼なメールは!」

 またメール交換は手軽であるだけに、どうしてもぶっきらぼうになる。手紙だと、相手の名前を書き、つぎに「拝啓」とか書いたりする。時候のあいさつもする。メールにはそれがない。いきなり本文に入ったりする。だから相手は相手のそのときの感情でそのメールを読む。たまたま気分が悪かったりすると、「何だ、こんな失礼なメールは!」となる。

●無断転送はタブー

 が、何といっても、これはあくまでも私の主観的な考えだが、あの「転送」ほど、こわいものはない。インターネットでは、手紙の世界ではタブーになっている転送が、それこそクリック一つでできてしまう。そして一度転送されたメールは、つぎつぎと転送され、あっという間に無数の人たちの間に流れてしまう。これがこわい。……というより、転送はタブーだという常識が、まだわかっていない人が多い。中には私からの私信を平気で転送する人がいる。いや、実際には、他人のメールを平気で転送してくるような人には、こわくて返事も書けない。「林さんだけにM子のメールを見せてあげますね」と書いてあったりすると、心底ゾーッとする。「私のメールもこうして転送されるのだろうな」と。こんなこともあった。

●こわくて返事も書けない

 私はときどき、自分の書いたエッセイを、不特定多数の人に送っている。そのときもそうだった。私は一人の女性(三九歳)についてのエッセイを送った。その女性は「自分の息子を愛することができない」と言って悩んでいた。そのことについて書いた。

で、私がエッセイを送った読者の中に、Uさん(四一歳・女性)という女性がいた。市役所の職員ということだった。が、Uさんは、そのエッセイをズタズタに分断し、その分断した個所ごとに、コメントを添えて、そのまま数人の仲間に転送してしまった。そしてあろうことか、それぞれの仲間たちがさらにコメントをつけ加え、そして最終的にはそれが私のところに回送されてきた。中に、「美人はとくね」と、私のエッセイを皮肉ったコメントまで書き添えてあった。

 私は回送されてきた自分のエッセイを見て、怒りで体が震えた。私はしがないモノ書きだが、自分の女房でもここまでさせない……と、そのときはそう思った。で、怒りをそのUさんにぶつけたかったが、それもできなかった。そういうふうに転送することに罪悪感を覚えない人には、こわくて返事も書けない。書けば書いたで、またどんなふうに他人に転送されるか、わかったものではない。

●「どうして返事をくれないのか!」

 しかしもちろんUさんにはこちらの気持ちなどわかるはずもない。それからたびたびメールで、「どうして返事をくれないのか!」というようなことを言ってきた。回数にすれば、五〜六回はあっただろうか。しかし私の怒りが収まったときには、Uさんへの友情はすっかり消えていた。返事を書いて人間関係を修復しようと思う前に、そういうことがわずらわしくなった。

 もちろんUさんは私の生徒の親ではない。これからもつきあうつもりはない。ないから、ここにこうしてあえて事実を書いた。

●インターネットの問題点

 話を戻す。メール交換にはまだいろいろ問題がある。北海道に住む読者からのメールでも、沖縄に住む読者からのメールでも、受け取る段階では、その「距離感」がまったくない。それは当然のことだが、さらに、親しさにも距離感がない。一〇年前の友人も、つい先日知りあった友人も、同じようなレベルで接近してくる。何というか友情の蓄積感がない。最初のメールこそていねいでも、二度目からのメールでは、一〇年来、あるいは三〇年来の友人のような書き方をする。(私もそうだが……。)で、そこで人間関係が互いにわからなくなってしまう。

 これは私だけの錯覚かもしれないが、たとえばA出版社のA氏と、B出版社のB氏と交互にメールを交換していたとする。互いに一、二度しか面識がなく、会話もそれほどしたことがないとする。するとメールを交換しているうちに、A氏とB氏が区別つかなくなってしまうのだ。もしその上、名字が同じだったりすると、さらに区別つかなくなってしまう。実のところ、多くの母親からメールをもらうと、そういう混乱がよく生ずる。懸命にその母親の顔を思い浮かべながらメールを書くのだが、それにも限度がある。メール交換にもいろいろな問題があるようだ。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

パンツのウンチで恥をかかせるとは!
結婚するというのは冗談です(失敗危険度★★)

●やがて大騒動になるとは!

 乱暴な子どもというのは、いる。「こんにちは」と言いながら、足でこちらを蹴飛ばしてくる。「さ
ようなら」と言いながら、また蹴飛ばしてくる。丸井さん(年中女児)もそうだった。そこである日、
丸井さんが私をいつものように蹴飛ばしてきたので、すかさずこう言った。「丸井さん、ぼくは君
がおとなになっても、結婚しないからな。結婚するなら、あの大野さんとする」と。たまたま大野
さんの顔が目に入った。だからそう言った。が、この一言が、やがて大問題になるとは!

●「もちろん冗談です」
 それからちょうど一週間後のこと、同じクラスの母親の一人に会うと、その母親がこう言っ
た。「先生、大野さんの件ですけどね。何でも大野さんが、私はおとなになったら、林先生と結
婚するんだと、真剣に悩んでいるというのですよ」と。大野さんが私の冗談を真に受けてしまっ
たらしい。「まずかった……」と思っていると、たまたまその日、大野さんの父親が大野さんを迎
えにきていた。そこで立ち話だったが、私はこう言った。「実のところ、大野さんといつか結婚す
ると言ってしまいましたが、あれはもちろん冗談です。ご本人は本気にされてしまったようです
が、どうかお許しください」と。

●私の失敗談
 が、その夜のこと。夕食を終えて、そろそろ風呂の用意をと考えていたら、玄関先で人の気
配が……。出てみると、大野さんの父親と母親がものすごい剣幕で立っているではないか。「ど
うしたのですか?」と声をかけると、「説明してほしい」「どういうことですか」と。父親は、「大野さ
ん」というところを、自分の妻のことだと思ってしまったらしい。私が大野さんの妻に結婚の話を
した、と。

私はこの幼児教育の世界へ入ってからというもの、子どもでもすべて名字で呼んでいる。それ
が誤解を招いた。つまり父親は、私が母親とただならぬ関係にあると誤解した。こんな失敗を
したこともある。

●ウンチのついたパンツ
子どもを指導するとき、「○○をするな」とか「○○をしなさい」とかいう命令は、できるだけ避け
たい。これは私の教育理念の一つでもある。で、たとえば授業中フラフラと歩いているような子
どもには、私はこう言う。「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」と。そしてそれで
も立っていたら、さらに「おしりがかゆいのか?」と真顔で聞いたりする。そのときもそうだった。
小学三年生のK君が、フラフラと歩いていた。そこで「ウンチがついているなら、立っていてい
い」と。ところがそのあとハプニングが起きた。私がそう言い終わらないうちに、別の子どもが、
K君のおしりに顔をうずめて、「先生、本当にくさ〜い」と。

 その夜K君の父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのことで、皆に
恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。

 これらの話は、この本のタイトルとは関係ない。つまり私の失敗談ということになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ
 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理
 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。裏を返していう
と、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこ
らの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理が
まかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗
で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある
が、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校
長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤと
した風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。
……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!
 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。身長の高い低
い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のよう
な、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まる
で違う。アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを
問題にしたら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外とい
うにふさわしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさ
げて歩いていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?
 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に(失敗危険度★★)

●死を理解できるのは、三歳以後
 「死」をどう定義するかによってもちがうが、三歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。
飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子ども(三歳男
児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(三歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と
言った子ども(三歳男児)もいた。子どもが死を理解できるようになるのは、三歳以後だが、し
かしその概念はおとなとはかなり違ったものである。三〜七歳の子どもにとって「死」は、生活
の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族
の死すら平気でやり過ごすことがある。

●死への恐怖心
 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼ
っちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終を迎えたとき、
子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。ちなみに小学五
年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、八人全員が、「こわくない」
「私は死なない」と答えた。一人「六〇歳くらいになったら、考える」と言った子ども(女子)がい
た。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいや
だ」「それは困る」と答えた。

●死は厳粛に
 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそ
れを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知
る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。もてあそんで
もいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼っていた小鳥が死
んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイと捨てれば、子どもは
「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれではすまない。

死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていね
いにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、
子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

●死をとおして生きることの大切さを
 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという
目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなこと
も頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

どうして生徒なんか紹介するのよ!
すべて計算づく(失敗危険度★★)

●母親族たち
 母親たちを総称して、「母親族」という。決してバカにしているのでも、また差別しているのでも
ない。一人ひとりの母親をみていると、どの母親もすべて違う。しかし全体としてみると、その母
親にはどこか共通点があるのがわかる。そういう母親像を最大公約数的にまとめて、「母親
族」という。それはちょうど、若者たちをみて、「若者族」、老人たちをみて、「老人族」というのに
似ている。決して気分を悪くしないでほしい。で、その中の一例。

●母親族の特徴
(1)サービスも、三回つづくと、当たり前……ある音楽教室でのこと。レッスン時間はレッスン
時間としてあるのだが、たまたま隣の部屋があいていた。そこで学校帰りの子どもについて、
早く来た子どもはその部屋を自由に使ってもよいということにした。宿題がある子どもは宿題
を、レッスンをしたい子どもはレッスンを、と。最初のころこそ、親も子どももどこか遠慮がちに
その部屋を利用していたが、三か月もすると様子が変わってきた。その日のレッスンでない子
どもまでやってくるようになった。その上、三〇分とか一時間という常識的な時間ではなく、中に
は数時間もいる子どもまで出てきた。そこで半年ぐらいたったある日のこと、その音楽教室の
先生は、その部屋を閉鎖した。が、母親たちは納得しなかった。中には怒って、「約束が違う」
と、音楽教室をやめてしまう母親すらいた。

(2)すべてが計算づく……これはある英会話教室の話だが、この不況下、その教室でも生徒
集めに苦労をしていた。その教室では、生徒数が一〇人前後いないと、講師に払う時間給が
赤字になるのだが、生徒数はたったの四人。が、その講師の先生は、アメリカの州立大学を
優秀な成績で卒業した女性。教え方もうまい。しかし三か月たっても、半年たっても、生徒はふ
えなかった。クラスを閉鎖しようと経営者は何度も考えたが、その講師を手放すのは忍びなか
った。で、結局ほぼ一年間、その状態がつづいたが、やっと一人、新しい生徒が入ってくること
になった。が、そのときのこと。その新しい生徒は、先の四人の中の一人が紹介した子どもだ
ったのだが、生徒の親どうしの間で、争いが起きたというのだ。「どうして新しい生徒なんか紹
介するのよ。生徒がふえれば、それだけうちの子たちがていねいに教えてもらえないでしょ!」
と。親たちは協力しあって、新しい生徒がふえることに抵抗していたのだった。

(3)こまかい授業設定……これは学習塾での話。その塾では、小学五年生のクラスだけで、
それぞれ別々の四クラスがあった。週二回のレッスンだったので、計八クラスということにな
る。が、小学五年のG君だが、ほとんど毎週のようにレッスン日の変更を申し出てきた。「今度
の火曜日に行かれないので、明日の月曜日にしてほしい」とか。受付の女性はそのつど、その
申し出に応じていたが、ある日、出席日数をチェックしてみて驚いた。どの子どもも、週二回、
月八回のレッスンになっていたが、G君だけは、毎月九〜一〇回になっていた。変更をうまくや
りくりしながら、レッスンの回数をふやしていたのだ! つまり塾というところは、月単位で運営
するところが多い。だから月によっては、四週あるクラスと、五週あるクラスがうまれる。五週あ
るときは調整休みをするのだが、その間をうまく行ったり来たりすると、月八回のレッスンを、
九回にしたり一〇回にしたりできる。……とまあ、ふつうの人なら、こんなこまかい計算はしな
い。しかしG君の母親はした。しながらレッスン日をふやしていた。

●母親族こそ犠牲者
 結論から先に言えば、今、子育てそのものが、個人の欲得の追求の場になっている。エゴイ
ズムが、その底流ではげしくぶつかりあっている。「自分の子どもさえよければ、それでいい」
「何とか自分の子どもだけでも」と。そしてそれが日本全体を包む大きな流れであるとするな
ら、その流れの中で翻弄されている母親族こそ、本当の犠牲者なのかもしれない。だれもそう
いう母親族を責めることはできない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一緒に学校へ抗議に行ってほしい!
親の身勝手(失敗危険度★★★★)

●「しっかりめんどうをみろ」
 三〇人もいれば、いろいろな生徒がいる。たとえあなたの子どもに問題がないとしても、多い
か少ないかと言えば、問題のある子どものほうが多いに決まっている。中には親ですら、手に
負えない子どももいる。そういう子どもを三〇人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどう
をみろ」はない。もっと言えば、あなたという親から見れば、先生とあなたの関係は一対一かも
しれないが、先生のほうから見れば、一対三〇になる。たとえばあなたは「一〇分くらいの相談
ならいいだろう」と思って電話をするかもしれないが、三〇人ともなると、それだけで計五時間と
なる。五時間である! が、親にはそれがわからない。どの親も、「私だけ」と思って行動する。
あるいは自分や自分の子どものことしか考えない。こんなことがあった。

●一〇〇%完ぺきな授業はない
 ある日一人の母親が血相を変えて私の家にやってきた。そしてこう言った。「今日、学校で席
決めのとき、先生が『好きなどうし並んでもよい』と言ったという。ウチの子(小二男児)のよう
に、友だちがいない子どもはどうしたらいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こ
れから学校へ抗議に行くので、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断った。

すべての子どもに対して満点の指導など、実際には不可能だ。九〇%の子どもによかれと思
ってしても、残りの一〇%の子どもにはそうでないときもある。たまには自分の子どもが、その
一〇%に入るときもある。そういうことでいちいち目くじらを立てていたら、学校の先生だって指
導ができなくなる。

●本当の問題
 学校や学校の先生に対して完ぺきさを求める親というのは、それだけで依存心の強い人と
みる。もし教育は親がするもの、その責任は親がとるものという考えがもう少し徹底すれば、こ
うした過関心は、少しはやわらぐはず。このタイプの親は、「何とかせよ」と学校や学校の先生
に迫ることはあっても、その責任は自分にあるとは思わない。席決めを問題にした親にしても、
先生の発言よりも、むしろその子どもに友だちがいないことこそ問題にすべきではないのか。
「なぜ友だちがいないのか?」と。また友だちがいないからといって、それは先生の責任ではな
い。子ども自身が自分で、「ぼくには好きな子がいない」とでも言えば、それはそれでわかる
が、そうでなければ、先生にそこまで把握することは不可能。家へ帰ってから子どもが親に、
「ぼくには友だちがいない」と訴えたとしても、それは子ども自身の問題と考えてよい。

 子どものことに関心をもつのは、それはしかたないことだが、しかしそれが過関心になり、こ
まかいことが気になり始めたら、心の病気の初期症状と思ったらよい。ほうっておけば、あなた
は育児ノイローゼになって、自らの心を狂わすことになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただより高いものはない
親のエゴ、親の計算(失敗危険度★★)

●身内や親戚は教えない
 昔から『ただより高いものはない』という。教育の世界ほどそうで、とくに受験勉強のような「危
険物」は、割り切ってプロに任せたほうがよい。実のところ、私も若いころ、受験塾の講師もし
たことがあるが、身内や親戚、あるいは親しい知人の子どもについては、引き受けなかった。
理由はいくつかある。

 まず受験勉強ほど、その子どものプライバシーに切り込むものはない。学校での成績を知る
ということは、そういうことをいう。つぎに成績があがればよいが、そうでなければ、たいていは
人間関係そのものまでおかしくなる。ばあいによっては、うらまれる。さらに身内や親類となる
と、そこに「甘え」が生じ、この甘えが、金銭関係をルーズにする。私も一度だけ、遠い親戚の
子ども(小二のときから中二まで)預かったことがある。F君という男の子だった。

●F君との出会い
 F君が最初に私のところにやってきたのは、小学一年生のときのことだ。今でいう学習障害
児と言ってもよいような子どもだった。女房の遠い親戚にあたる子どもだったので、頼まれるま
ま引き受けた。いや、本来なら親戚の子どもは引き受けないのだが、母親は私の熱心なファン
だと言った。それで引き受けた。

●月謝は半額
 で、親戚ということで、月謝は当初から半額だった。正確には、当時八〇〇〇円の月謝(一ク
ラス五人程度、週一回)の半額の四〇〇〇円だった。が、そういう子だったから、半年もしない
うちに、母親から「週二回みてほしい」と言ってきた。そこで私は時間を何とかつくり、週二回、
教えることにした。しかし効果はほとんどなかった。こうなると、私のほうが立場が悪くなる。物
価もそれなりに上昇したが、F君だけは月謝を据え置いた。いや、何度か断りたいと思ったが、
親戚ということで、それもできなかった。その状態が三年、四年とつづいた。で、いよいよ中学
というとき、思うような結果が出せなかったので、私のほうから申し出て、週三回にしてもらっ
た。もちろんふやした分は、ただである。母親は感謝したが、しかしそれも最初だけだった。

●通常の月謝で……
 こうして計算してみると、すでにそのころ月謝は、通常の四分の一以下になっていた。が、そ
れでも何とかF君との人間関係はつづいた。が、私を激怒させる事件が起きた。何とF君が、同
じ教室で、数歳年下の子どもをいじめていたのである。そのいじめ方については、ここに書く必
要はないと思う。が、その事件を目撃して、私はF君への思いが消えた。(今から思うと、F君も
犠牲者だったのかもしれない。毎週三回も、いやいやながら私の家に足を運んでいたのだか
ら……。)

で、ある日、母親に、通常の月謝にしてほしいと申し出た。いや、その直前に、たまたま母親の
ほうから、週三回を、さらに週四回にしてほしいという申し出があった。私は、「通常の月謝で
教えさせていただけるなら、引き受ける」というようなことを言った。が、この言葉がどういうわけ
だか、母親を怒らせた。F君の母親は、「それなら結構です」と言って、そのまま私の教室を去
っていった。

 何とも割り切れない別れ方だったが、以後、そのF君の母親もF君も、いっさい音信はない。
葬儀の席か何かで会ったことがあるが、母親は私には視線を合わせようともしなかった。

●無料の受験特訓
 もう一つ、こんなこともあった。

私はほんの数年前まで、高校を受験する受験生については無料で教えていた。受験指導はあ
くまでも「指導」であって、教育とは異質のものと考えていたからだ。方法はこうだ。

 この静岡県では、中学三年が、受験期としてたいへん重要な意味をもつ。だからその時期を
迎えた子どもは、毎年七月から一一月まで、毎晩七時ごろから一一時ごろまで教えた。教えた
といっても、つきっきりで指導したわけではない。ときどき生徒の様子をうかがい、わからないと
ころだけを教えた。

しかしこの方法を長い間つづけていると、どこからか情報がもれて、その教室を目的に私のと
ころへやってくる生徒がふえ始めた。最初のころこそ、気前よく迎えていたが、それが四人、五
人となると、さすがの私も負担に思い始めた。が、ある夜こんなことがあった。

●無料レッスンを請求した子ども
 そろそろ七月という暑い初夏の夜だった。その年は何かとあわただしく、七月からの無料学
習(私は受験特訓と呼んでいたが)、その日程の調整がつかなかった。中学三年生はそのと
き、五人ほどいた。うち一人だけが幼児教室のOBで、残りは中学三年生になってから、入って
きた生徒だった。私は週一回、二時間という教室でそれまで教えていた。その夜のことだ。

 帰りまぎわになって、一人の中学生がこう言った。「今年はいつから受験特訓を始めてくれる
のですか?」と。私は驚いた。私は一度も、私のほうからそういう連絡をした覚えはない。あくま
でも私の好意であって、それをするかしないかは、私が決めるものだとばかり思っていた。そこ
で、「始める? ……どうして?」と聞くと、その中学生はこう言った。「お母さんが聞いてこいと
言った」と。

●ガラガラと音とをたてて……
 とたん、私の中からやる気がガラガラと音をたてて崩れていくのを感じた。この生徒たちは、
(無料の!)受験特訓を目的に、中学三年になってあわてて私のところへきたのだ。しかし毎
晩、四〜五時間の指導を、半年近くもする受験塾がどこにあるだろうか。そのとき生徒五人か
ら手にしていた月謝を合計しても、学生による家庭教師代より少ない。私は思わず、「今年は
忙しいからな……」と言ったのだが、もう一人の中学生も、不機嫌な顔をしていた。見ると「約
束が違う」というような表情だった。

 私はその年は七月になっても、受験特訓を始めなかった。八月になっても、受験特訓を始め
なかった。が、九月になると、その中の三人が私の教室をやめると言い出した。しかたないこと
だ。もともとそういう生徒だった。

 で、九月になった。私は二人の生徒だけで、一一月まで受験特訓をした。一一月というのは、
最後の校内模試が終わる月であった。内申書の成績はこの試験を最後に決まる。静岡県で
は、当時は、この内申書でほとんどが入学先の高校が決まるしくみになっていた。
 その翌年から、私は受験特訓をやめた。おかげで生徒は、一人もいなくなったが……。

●受験勉強はしごき
 受験指導というが、子どもの側からみると、「しごき」以外の何ものでもない。子どもの側で考
えてみれば、それがわかる。勉強がしたくて勉強する子どもなど、いない。偏差値はどうだっ
た、順位はどうだった、希望校はどこにするとやっているうちに、子どもの心はどんどんと離れ
ていく。だからいくら教える側が犠牲的精神をふるいたたせても、率直に言えば、親に感謝され
ることはあっても、子どもに感謝されることは、まずない。受験勉強というのは、もともとそういう
もの。「教育」という名前を使う人もいるが、ここに書いたように、受験指導は「指導」であって、
教育ではない。もともと豊かな人間関係が育つ土壌など、どこにもない。

●受験勉強はプロに任す
 長い前置きになったが、そこで本論。中に子どもの受験勉強を、親類や知人に頼む人がい
る。そのほうが安いだろうとか、ていねいにみてもらえるだろうとか考えてそうする。しかし実際
には、冒頭に書いたように、ただより高いものはない。相手がプロなら、成績がさがれば、「ク
ビ!」と言うこともできるが、親類や知人ではそういうわけにもいかない。ズルズルと指導しても
らっているうちに、あっという間に受験期は過ぎてしまう。そんなわけで教訓。受験勉強は、多
少お金を出しても、その道のプロに任せたほうがよい。結局はそのほうが安全だし、長い目で
見て、安あがりになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

費用もかえって安いのじゃないかしら?
七五三の祝いを式場で?(失敗危険度★★★)

●費用は一人二万円
 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝い
を、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な
着物を着た女の子(六歳ぐらい)が、中央にすわり、これまた結婚式場のように、列席者がそ
の前に並んでいた。費用は一人二万円くらいだそうだ。レポーターが、やや皮肉をこめた言い
方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その母親はこう言った。「家でするより楽
で、費用もかえって安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房
 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。私たちは、結婚式すらしてない。と言うよ
り、できなかった。貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだっ
たが)、私が今の女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、
「香港へ行きたい」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでお
しまい。実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。反対
に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけ
でも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも
流れてしまった。さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」
 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。「何か、おかしいわ」と。つづけて私も言っ
た。「おかしい」と。すると女房がまたこう言った。「私なら、あんな祝い、招待されても行かない
わ」と。私もそれにうなずいた。いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなも
のだったかもしれない。しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。子どもを大切の思うということ。そのことと、こうした祝いを盛大に
するということは、別のことである。こうした祝いをしたからといって、子どもを愛したことにも、
大切にしたことにはならない。しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。むし
ろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。「自分は大切な人間だ」と思う
のは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢心である。その慢心がつのれ
ば、子どもは自分の姿を見失う。こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

 さらに……。子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでな
ければ、結局はその子ども自身が、……? この先は、私の伯母のことを書く。

●中途半端な人生
 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。自転車屋
の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。店の窓ガラスさえ
拭いたことがないという。そういう女性がどうこうというのではない。その人はその人だ。が、問
題はなぜその女性がそうであったかということ。その理由の一つが、その女性が育った家庭環
境ではないか。その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。農家の出身だが、子ども
のころ畑仕事はまったくしなかったという。そういう流れの中で、その女性はそういう女性になっ
た。

●虚栄の世界で
 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。娘と息子が
いたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊を習わせ
た。金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。あとは一事が万
事。

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。たしかに
その女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったのかどうか
ということになると、それは疑わしい。結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、
さりとて上流階級の奥様にもなれず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。

●子どもはスポイルされるだけ?
 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。
ダメになる。それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期
待するほうがおかしい。友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。

 で、その女性にはつづきがある。その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。五月の
節句になると、軒下に花飾りをつけた。そして近所に、甘酒を配ったりした。家計は火の車だっ
たが、それでもそういうしきたりはやめなかった。友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」
という苦情が届いたこともある。

●子どもというのは皮肉なもの
 子どもというのは不思議なものだ。お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。ドラ息子
化する。親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。苦労がわかる子どもになるから、
やさしくもなる。学習面でも伸びる。もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗
りこえる忍耐力も、そこから生まれる。「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいこと
は言うまでもない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論
 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい
 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)

●摩擦はつきもの
こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命
のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新
聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚
問題を考えたものではない。が、その直後から、一〇人近い人からはげしい抗議が届いた。私
は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を
書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そ
のものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。

が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離
婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうした
コラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似
たような事件があった。

●「一方的にものを言わないでほしい」
同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の
外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎
朝六時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いて
きた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にも
のを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。

●いじめられる側にも問題
 二〇年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、と
もかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに二度ほどかりだされて意見を述
べることになったが、そのときのこと。そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おや
っ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめら
れる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身
の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。

いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマン
だけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがあ
る。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りさ
れても、それに抗議することができない、など。そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」
と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テ
レビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」という
のまであった。

●個人攻撃をしているのではない!
 こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできな
い。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、もの
の本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。いじめにして
も、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集
中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例
外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なく
ない。こんなことも……。

●学校の先生もたいへん!
 まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝い
にきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、四つも五つも行かせてい
るバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。当
時(今でもそうだが)、子どもを塾へ四つや五つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、
音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってし
まった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局
この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去る
ことになってしまった。

 視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見
失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あなたのご主人は、どちらの大学ですか?
学歴に興奮する親たち(失敗危険度★★★★)

●おもしろい習性(失礼!)
 親というのは、自分で自分の子どもをバカと呼ぶのは平気だが、しかし他人に言われるのを
許さない。それはそうだが、それと同じように、自分の子どもが評価される場に落とされると、
独特の心理状態になる。動物的な嫉妬心や闘争心が刺激されるらしい。

その一つ、親、とくに母親は、学歴の話になると、興奮状態になる。これは親が共通してもつ習
性(?)ではないか。夫の学歴、自分の学歴、さらに子どもの学歴となると、興奮状態になる。
なぜそうなのかということは、別として、これをうまく利用して、金儲けにつなげている人たちが
いる。いわゆる受験屋と呼ばれる人たちである。

●ある教育機器メーカーの戦略
 ある教育機器メーカーの説明会でのこと。私も興味があったので、招待状をもって、その会
にでかけた。予定では九時三〇分に始まるということだったが、行ってきると、黒板に、「一〇
時から」と書いてあった。そこでしばらく待っていると、うしろのほうからヒソヒソ話が聞こえてき
た。サクラである。主催者の教育機器メーカーが送り込んだサクラである。

耳を傾けると、「あなたのご主人は、どちらの大学ですか?」「あなたのお子さんは、将来、公
立、それとも私立?」と。とたん、会場の中におかしな緊張感が漂い始めた。しかしそれこそま
さに、その会社のねらいである。サクラが、「あの中学はむずかしいそうよ」「進学塾では役に
たたないそうよ」と言い出した……。

●親たちは興奮状態に!
 それに拍車をかけるように、一〇時からの説明会では、まずビデオが映し出された。N研とい
う東京の進学塾が制作したビデオだが、子どもの受験勉強の様子、受験会場に行く様子、受
験しているときの様子、そして合否発表の様子がつぎつぎと映し出された。意味のないビデオ
だが、しかし合否発表のところでは、受験に落ちて、泣き崩れる母親や子どもの姿が、これで
もかこれでもかとつづいた。時間にすれば、約一〇分間程度だったが、会場がますます異様な
雰囲気になるのがわかった。しかしそれこそがまさにその会社のねらいでもあった。

 やがてその会社の教育機器の説明会が始まり、それが終わると同時に、ワンセット二四万
円もする教材が、飛ぶように売れていた。驚いたというより、それはあきれんばかりの光景だっ
た。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

近所に人に息子の制服をみられたくナ〜イ!
見え、メンツ、世間体(失敗危険度★★★★★)

●家庭教育の元凶
 見え、メンツ、それに世間体。どれも同じようなものだが、この三つが家庭教育をゆがめる。
裏を返せば、この三つから解放されたら、家庭教育にまつわるほとんどの悩みは解消する。

まず(1)見え。「このH市では出身高校で人物は評価されます」と、断言した母親がいた。「だ
からどうしてもうちの子はA高校に入ってもらわねば、困ります」と。しかし見えにこだわると、親
も苦しむが、それ以上に、子どもも苦しむ。
 
つぎに(2)メンツ。ある母親は中学校での進学校別懇談会には、「恥ずかしいから」と、一度も
顔を出さなかった。また別の母親は、子どもが高校へ入学してからというもの、毎朝、自動車で
送り迎えしていた。「近所の人に、子どもの制服を見られたくないから」というのが、その理由だ
った。また駅の近くの親戚の家で、毎朝、制服に着がえてから、通学していた子どももいた。
が、こういう姿勢は子どもの自尊心を傷つける。
 
最後に(3)世間体。見えやメンツにこだわる親は、やがて世間体をとりつくろうようになる。「ど
うしてもうちの子どもにはA高校を受験してもらいます」と言った親がいた。私が「無理だと思い
ますが」と言うと、「一応、そういうところを受験して、すべったという形を作っておきたいのです」
と。不登校児になった子どもを、親戚の叔父に預けてしまった親すらいた。こうした親は何とか
「形」だけは整えようとするわけだが、ここから多くの悲喜劇が生まれる。私のような立場の人
間が、「世間は、あなたのことを、そんなに気にしていませんよ」と言っても、ムダ。このタイプの
親は、世界は自分を中心にして回っているかのように錯覚している。あるいは世界中が自分に
注目しているようかのように錯覚している。

●「しかたないので、C中学にしました」
 見えやメンツ、それに世間体を気にするということは、結局は自分を飾るということ。そういう
親には共通点がある。自分の周囲をウソで塗りかためる。たとえば……。

「私はどこの中学でもいいと思っているのですが、息子がどうしてもA中学と言いますので、先
生、息子の願いをかなえてあげてください」と。そこでその息子にそれとなく聞くと、「ぼくはどこ
でもいいけど、ママがそうしてもA中学にしろと言ってうるさい」と。あるいは「学校の先生はB中
学でも合格できると言っているのですが、息子はどうしてもC中学のほうがいいと言って私の言
うことを聞きません。しかたないので、C中学にしました」と。このときも息子に聞くと、「先生がB
中学は無理だと言ったので、C中学にした」と。さらにこんな例もある。
 
Tさん親子の間には、息子が中学生になるころから、会話という会話はほとんどなかった。食
事も別々、廊下ですれ違っても目をそむけあう。どんな会話をしても、すべて一触即発。そんな
関係であるにもかかわらず、Tさん(四五歳女性)は、ことあるごとにその息子が東京のT理科
大学に入学したことを自慢していた。「猛勉強をしてくれたおかげで、T理科大学に入ってくれま
してね」と。Tさんの家の居間には、息子の卒業証書が高々とかかげられている。もちろん息子
はほとんど家には帰っていないのだが……。

●私は私、人は人という人生観
他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は「自分」を犠牲にすることになる。が、これほどつ
まらない人生もない。自分の人生をドブへ捨てるようなもの。しかしそれは同時に、他人の目か
ら見ても、それほど見苦しい人生はない。笑うとか笑われるとかいうことになれば、そのほうが
笑われる。皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。

この見えやメンツ。それに世間体と闘う方法があるとすれば、それは「私は私、人は人」とい
う、人生観をもつこと以外にない。が、これは容易なことではない。人生観というのはそういうも
ので、一朝一夕には確立できない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

でも、あの子はD小学校ですって!
ブランドにこだわる親たち(失敗危険度★★★)

●テーマはブランド
 参観日のあと、母親たちが校門の内側に立ってワイワイと話し合っている。教育の話かとお
もいきや、そうではなかった。一人の母親がもっていたブランドのバッグについてだった。「どこ
で買ったの?」「わあ、ステキ!」「いくらだった?」「あら、いいわネ〜。私もこんなほしいわ」「あ
ら、あなたのも、ステキじゃない」と。

●人間の思考回路
 人間には思考回路というのがある。人というのは、一度自分の頭の中にその思考回路をつく
ると、その思考回路にそって、ものを考えたり、行動したりするようになる。脳の神経細胞のシ
ナプス(神経細胞の接合部)※が、そのようにできあがったためと私は勝手に考えている。たと
えば暴力団の男たちは、何か問題が起きると、暴力を使ってそれを解決しようとする。私のよ
うなモノ書きは、何か問題がおきると、文を書いてそれを解決しようとする。それが思考回路で
ある。

●ブランドで選ぶ幼稚園
 同じように、ブランドにこだわる親というのは、そのときどきにおいて、ブランドにこだわるよう
になる。そのほうが本人も楽ということもある。で、一度その思考回路ができあがると、その思
考回路からはずれたことをするのは容易なことではない。それはそれとして、このタイプの親
は、子どもの教育でもまた、ブランドを重視する。幼稚園でも、学校でも、ブランドで選ぶなど。
中身ではない。あくまでもブランドだ。それはもう信仰のようなもの。理由など必要ない。ブラン
ドのある幼稚園や学校なら、安心し、そうでなければ不安になる。そしてその返す刀で、(子ど
もの中身が変わったわけではないのに)、それ以外の幼稚園や学校へ通っている子どもを
「下」にみる。「うちの子はA小学校よ。でも、あの子はD小学校ですって」と。

●しかし失敗も多い
 が、いつもいつもうまくいくとは限らない。このタイプの親は、反対に自分の子どもが、その
「下」に落とされると、奇怪な行動をとり始める。毎朝、車で自分の息子を送り迎えしていた母
親がいた。息子の学校の制服を近所の人に見られると恥ずかしいというのが、その理由だっ
た。もう一〇年も前のことだが、毎朝、学校の制服を、駅前の喫茶店で着替えさせていた親す
らいた。プライドをキズつけられると、親はそこまでする。こうした親の心理を理解できないわけ
ではないが、その結末はいつもおかしい。そして悲しい。

※……人の大脳には、一〇〇億の神経細胞があると考えられ、その一個ずつの神経細胞
に、約一〇万個のシナプスがあると考えられている。すると大脳全体で、一〇の一五乗のシナ
プスがあることになり、その数はDNAの遺伝子情報の一〇の九乗〜一〇乗を超えることにな
る(新井康允氏)。人間の思考が、DNAの設計図の外にあることがこれでわかる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

A中学では、うちの子は不幸になります!
占いにこる親たち(失敗危険度★★★★)

●かわいそうな人たち
 占いや運勢にこる人というのは、自分で考えることのできない、かわいそうな人とみてよい。
一見、人間は知的な生き物に見えるが、イヌやサルと、それほど違わない。「思考」ということ
になると、「思考していない人」のほうが、「思考している人」より、はるかに多い。

だいたいにおいて、他人の運命が読み取れるような人が、駅前の路地や喫茶店、さらにはデ
パートの通路などで、若い女性を相手に占いなどするだろか。自分で自分を占い、お金をどん
と儲けて、豪邸で遊んで暮らせばよい。自分で自分を占うことはできないというのなら、仲間の
占い師にみてもらえばよい。ああいったものは、一〇〇%インチキ。そう断言して、まちがいな
い。

●私も預言者?
 ただ私は、数一〇分も子どもと接すると、その子どもの能力や性質、さらには問題点やこれ
から先その子どもがそうなり、どういう問題を引き起こすかが手にとるようにわかる。しかしこれ
は超能力のようなものではなく、経験だ。三〇年も毎日子どもをみていると、そういうことができ
るようになる。しかし私は、たとえわかっていても、それは言わない。親に頼まれても言わない。
万が一、まちがっていたら……という迷いがあるからだ。それに治療法も用意しないで、診断
名だけをくだすのは、良心のある人間のすることではない。が、そういった連中は、平気で、相
手の運命を、あたかも知り尽くしたかのように口にする。

先日もテレビを見ていたら、『浄霊』と称して、若い娘にこう言っていたインチキ霊媒師がいた。
「あなたの体に乗り移っている悪霊は悪質です。ほうっておくと、あなたの命すらあぶない」(〇
二年四月)と。こういうことを平気で口にすることができる人は、人格そのものが崩壊した人と
みてよい。

●子どもの教育も占いで……
 若い女性ならまだしも、母親の中にも、いくらでもいる。そして子どもの教育すら、そういう占
いや運勢に頼っている……! こういう親を前にすると、会話そのものがかみ合わない。

 「先生、A中学と、B中学の件ですが、私は息子をB中学へ入れたいのですが……」
 「どうしてA中学ではだめなのですか? 距離も近いでしょう」
 「それが先週、うちの主人がG神社で占ってもらったら、A中学では、子どもが不幸になるとい
うのです」
 「不幸って?」
 「いじめにあったりして、結局は転校することになるって。そういう結果が出ました」と。
 そういうとき、私の頭の中では、私の思考回路がショートを起こす。バチバチと火花が飛び散
る。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

立派な社会人になれ!
いい学校から、いい家庭へ(失敗危険度★★★★)

●いい家庭を!
 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る
親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主
義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家
庭」であり「家族」。そのよい例が、単身赴任。私が学生時代には、「短期出張」と言った。商社
のばあい、六か月以内の短期出張は、単身赴任が原則。しかし六か月で短気出張が終わると
はかぎらない。いわゆる出張のハシゴというので、一度外国へ出ると、数年は日本へ帰ってこ
られなかった。

それについて、ある日オーストラリアの教授がこう聞いた。「日本には短期出張について、法的
規制はないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラ
バラにされて何が仕事か」と騒いだ。日本の常識は、決して世界の常識ではない。が、こんな
家族もある。

●すばらしい家族
 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。
そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親
は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画
をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、中学二年生のときに、市内で個
展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。

●親子関係を破壊する子育て
 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破
壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でも
ふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親は
こう言った。「いえ、私は嫌われてもかまいません。息子さえいい中学へ入ってくれれば。息子
もそれで私を許してくれるでしょう」と。

このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレ
ているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出
てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れかわり、仮想世界に住みながら、そこが
仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを
大切だと思い込んでしまう。

●友だちの数が財産
 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友
だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族
のきずなこそ財産だよ」ということになる。

欧米が何でもよいわけではないが、欧米と日本とでは、家族に対する考え方そのものが違う。
たとえばオーストラリアでは、学校の先生も親も、子どもには、「よき家庭人になれ」と教える。
「よい市民になれ」と言うときもある。カナダでもアメリカでもそうだ。フランスでもドイツでもそう
だ。しかしこの日本では、「社会で役にたつ人」、あるいは「立派な社会人」が教育の柱になって
いる。「社会」という言葉は、「全体」という言葉の代名詞と考えてよい。この違いが積もりに積も
って、日本の単身赴任になり、それに驚いたオーストラリアの学生になった。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は、まだ何とかなる!
あきらめは悟りの境地(失敗危険度★★★)

●子育てはあきらめの連続
 親の欲望には際限がない。子どもができなければできないで悩むが、少しでもできるようにな
ると、「もっと……」と考える。たとえば中学への進学。「せめてC中学、それが無理ならD中学」
と言っていた親でも、子どもがC中学へ入れそうだとわかってくると、今度は「B中学」と言い出
す。しかしこういう親はまだラッキーなほうだ。中には、D中学、E中学と、どんどんと志望校をさ
げていかなければならないときがある。しかし一度こういう状態になると、あとは何をしても空回
り。親があせればあせるほど、子どもの力は落ちていく。「そんなはずはない」「まだ何とかな
る」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかな
くなる。

要するにどこであきらめるかだが、受験にかぎらず、子育てをしていて、あきらめることを恐れ
てはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。またあきらめることにより、その先に道が開
ける。しかもその時期は早ければ早いほどよい。もともと子育てというのはそういうもの。

●自分で失敗するしかない
 ……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うの
は適切でないかもしれないが)とはっきりとわかるまで、自分が失敗するとは思っていない。「う
ちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつく
ところまで行かないと気がつかない。

子どもの限界にできるだけはやく気づくこと。それがわかれば親も納得し、その段階であきら
める。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならでき
るか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだった
か」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。たとえば子どもに向か
って、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。
それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

●あなたなら耐えられるか?
 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あ
なたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差
値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入四○○万円程度の男」と。ま
たそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ!」「何だ、この点数は!」とあなたを
叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに
近い。

●親は身勝手?
 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を
読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親
は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだ
が、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり
始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめて
みてほしい。それで道は開ける。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

字がヘタだから、書道に!
悪筆、言ってなおらず(失敗危険度★)

●年長児でわかる悪筆
 年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきり
とわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子
どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズ
な丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。

ちなみに縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは
一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を
描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くという
のは、それだけたいへんということ。

●書道教室へ行けばうまくなる?
 悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。運筆能力のない
子どもでも、書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになる。が、今度は時間
ばかりかかるようになる。学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけないな
ど。以前、M君(小二)という男の子がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わ
っても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」
と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て驚いた。文字がめちゃめちゃ
なんていうものではなかった。しかしそれがM君の本来の文字だったのだ。

●運筆能力はぬり絵で
 運筆能力を養うためには、ぬり絵がよい。ぬり絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。ぬり
絵をしながら子どもは、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとす
る。そうなればしめたもの。(ぬり絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろ
うとするから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもにはぬり絵をさ
せる。あとあと文字がきれいに書けるようになる。

 なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。
鉛筆は、親指と人さし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそ
れが正しいもち方と決めてかかってもいけないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち
方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約五〇%。クレヨンをもつ
ようにしてもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわめて変則的なもち方をするのがわか
っている(筆者調査)。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ああ、運動をつづけてよかった
ふつうこそ最善(失敗危険度★★★)

●なくしてから気づく
 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づ
き、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさ
もまたしかり。

 私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったの
は奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは
変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでい
い」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登
校を繰り返した。中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつ
ど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。

●子どもは下から見ろ
 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点)を見ろ」というのではない。
「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不
思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性
(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小
便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、
黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたという。私は幸運にも、生ま
れてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの気持
ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えるようになった。

●健康であることの喜び
 私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外
は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年も
していると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友
人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁
だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」
と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通しているのではないか。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか?
それ以上、何を望むか(失敗危険度★★)

●子育てで失敗した
 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言
う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに
答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」
と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そう
いう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではない
か。それ以上、何を望むのか」と。

●母親とのきずなが虐待の原因?
 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査
によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何ら
かの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に
走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、そ
れ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというの
は、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、
「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめてマレ
だ。

●子育てが人生を豊かに
 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつ
まらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子ども
は私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入
れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん
悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてく
れた。もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠
に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのようなさみ
しさを覚える。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろ
いろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たち
のおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に
進めばよい。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

いつになったら、できるの! 
己こそ、己のよるべ(失敗危険度★★★)

●自由とは、「己による」こと
 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

●考えさせない過干渉ママ
 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。私、
子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」、母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。
おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」、私、再び、子どもに向かって、「楽し
かったかな」、母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いな
さい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫
と、今でいう「できちゃった婚」をした。どこか不本意な結婚だった。だから子どもが何か失敗す
るたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱ってい
た。

●行動させない過保護ママ
 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、「すぐ風邪をひく」。

●責任をとらせない溺愛ママ
 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親は、「子ども(小六男児)が合宿訓練に
でかけた夜、涙がポロポロと出て眠れなかった」と言った。私が「どうしてですか?」と聞くと、こ
う言った。「あの子は私がいないと何もできない子です。みんなにいじめられているのではない
かと思うと、かわいそうで、かわいそうで……」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害
事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪い
と言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、
ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

口がうまい親ほど、要注意!
あせる親は結論も早い(失敗危険度★★★)

●口がうまい親ほど……?
 あるおけいこ塾の講師が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親
ほど、要注意。そういう親ほど、やめ方がきたない」と。たとえば「先生の教え方はすばらしい。
うちの子がおとなになるまで、お世話になりますと言う親ほど、ある日突然、ハイ、さようならと
やめていく」と。別の塾の教師も、同じようなことを言っていた。「口がうまい親ほど、気をつけて
いる」と。「どうしてですか?」と聞くと、「口のうまい親は、やめたとたん、今度は悪口をあちこち
で言い始める」と。

私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関
係。この信頼関係があれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。もっと
も私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということになる。
が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、体中
が震えると言う先生もいる。

●教育は人間関係
 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書けない。私の世界では、親はい
つもスポンサーであり、また私のよき理解者である。いわばお客さんのようなもの。そういうお
客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いていたら、仕事(商
売)にならない。しかしこれだけは言える。

 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができること。ものの売り買いとは
違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だから
教育を商売と同じように考えることはできない。そこでいくつかのポイントがある。これは親側
からみたポイントということになる。

●先生とつきあうポイント

(1)先生とつきあうときは如水淡交……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、
避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深まるとい
うことは、ない。

(2)過剰な期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。神様のように思っている
人もいる。そしてそれに甘える形で、やりたい放題のことをする人がいる。しかし先生が聖職者
と思うのはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をのぞけば、あなたやあな
たの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということもない。怒るときには怒
る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提でつきあう。

(3)別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別
れ際を美しくする。美しい別れ方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくするとい
うことにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ方まで
おおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう思った
とたん、信頼関係は半減する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ!
先生の悪口は言わない(失敗危険度★★★)

●良好な人間関係が基本
 教育もつきつめれば人間関係。それで決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教
育の基本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の
悪口は言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに
相槌(づち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、そ
れは先生の耳に入る。必ず、入る。子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠し
ごとができない。親よりも、園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この
種の会話には敏感に反応する。

●先生も人間
 一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そう
いうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文
を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。もしあなたが教師で、生
徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ」と。そのときあな
たはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタだから、今度校長先生
に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそう
いう言葉に耐えられるだろうか。

●学校の問題は、先生がいないところ
 教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、
いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた
「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係で
ある。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。

●結局は子どもの損に
 あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなく
なる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが…
…)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に
入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いか
らでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

学ぶものは山に登るごとし
知識と学力(失敗危険度★★★)

●知識と学力は別
 もの知りの人が、賢い人ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、これを
混同すると、教育そのものが混乱する。たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にし
たとしても、その子どもが賢い子どもということにはならない。いわんや算数ができるとか、頭
のよい子ということにもならない。が、もしその子どもが、「車が三台では、そのタイヤの数は一
二」と、即座に計算できれば、算数のできる子どもということになる。その計算方法を自分で考
えだしたとしたら、さらに頭のよい子ということになる。

●知識教育が教育?
 ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。
教育の体系そのものがそうなっている。たとえば学校でも、「わかったか」「覚えたか」「ではつ
ぎ……」という教え方が基本になっている。アメリカやオーストラリアでは、「どう思う?」「それは
いい考えだ」という教え方が基本になっている。また入試内容にしても、学力をためすというよ
りは、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的
にはこの構図は明治以来、変わっていない。

その結果というか、今でこそやや少なくなったが、三〇年前にはどこの進学高校にも、いわゆ
る頭のおかしい「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は成
績の数字だけという子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部
(「一流」という言い方は本当にいやだが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしなが
ら、そのときはそのときで、「こんなことでいいのか」と、少なからず疑問に思ったことがある。

●学ぶことは苦しい
 では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一
番よく知っている。あなたが今、三五歳なら三五歳でよい。あなたは二〇歳のときから今まで
の一五年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを
新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。

そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではない。するとたいていの人は、何もないことに気
づくはず。もともと学ぶということにはある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、
「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。「学ぶということは楽ではない」と。だからたいていの
人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力とはそういうもので
あり、また学力を養うということはそういう苦痛との戦いでもある。つまりそれだけたいへんだと
いうこと。教育のテーマそのものと言ってもよい。ここでもう一度、あなたにとって子どもの教育
とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

私こそ親のカガミ!
代償的過保護(失敗危険度★★★★★)

●代償的過保護
 本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが引き金
となって、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下
において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば自分の心
のスキ間をうめるための、過保護もどきの過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護
と思えばよい。

 代償的過保護の特徴は、(1)親としての支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりに
したいという欲望が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを
人間というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まない
などがある。そしてそういう愛を、理想的な愛と誤解することが多い。「私こそ、親のカガミ」と言
った母親すらいた。

●子どもを自分の支配下に
このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでい
るケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わ
からないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。もともとはわがま
まな性格の人とみてよいが、それゆえにものの考え方がどうしても自己中心的になる。「私は
絶対正しい」と思うのはその人の勝手だが、その返す刀で、相手を否定したり、人の話に耳を
傾けなくなる。がんこになることも多い。

●お前には学費が三〇〇〇万円かかった!
ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強
引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつ
ど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もい
るし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が三〇〇〇万円かかったから、それ
を返すまで家を出るな」と。

結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。ことあるごとに、
「親を粗末にすると、バチが当たるぞ」と教えている親もいる。そうでない親には信じられないよ
うな話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの
親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その中の一部に、こ
の代償的過保護的な部分があるかもしれない。もしそうならそうで、あなたの中のどの部分が
代償的過保護であり、あるいはどこから先がそうでないかを、冷静に判断してみるとよい。

●自分に気づくだけでよい
この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつくだけで、問題のほとんどは解決したと
みる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的過保護を繰り返す。そしてその結果と
して、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立できないひ弱な子どもにしたりする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は生まれつきそうです!
勉強が苦手な子ども(失敗危険度★★★★★)

●勉強が苦手な子ども
 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣ってい
る子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不
良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。最近よく話題になる子どもに、
学習障害児(LD児)という子どももいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応
用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。

●症状をこじらせない
 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもの
のところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっている
ということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということその
ものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっ
ている子どももいる。

原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、
「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、
「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる
人などいない!)

●コースからはずれたらダメ人間?
 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあ
って、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」
というのは、国際的な基準からしてという意味。)こういうばあいでも、本来なら子どもの能力に
あわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。ス
ポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがい
る一方、不得意な子どもがいる。いてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方が
できない。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。このことが、本来何でもないはず
の問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルを
はってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の
子育てはゆがんでいる。

●落第を喜ぶアメリカの親たち
……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強
などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもの勉強は子どもの視点で考える。たとえばア
メリカでは、学校の先生が親に、子どもの落第を勧めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」
だ。ウソでも誇張でもない。事実だ。子どもの成績がさがったりすると、親のほうから落第を頼
みにいくケースも多い。アメリカの親は、「そのほうが子どものためになる」と考える。しかし日
本ではそうはいかない。そうはいかないところに、日本の子育ての問題がある。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

やる、やらないも能力のうち
馬に水を飲ますことはできない(失敗危険度★★)

●無理に水を飲ますことはできない
 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

●動機づけを決める帯状回?
 大脳半球の中心部に、間脳とか脳梁とか呼ばれている部分がある。それらを包み込んでい
るのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海
馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組
織がある。つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして
説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維
持などを維持するための機関と考えられていた。しかし最近の研究では、それぞれにも独立し
た働きがあることがわかってきた(伊藤正男氏ほか)。)

●やる気が思考力を決める
 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分
担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起
こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を
飲ませることはできない』のである。

●乗り気にさせるのが伸ばすコツ
 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。新井氏はこう書いている。「考えるにしても、一生懸
命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結
果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが
帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。
 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

子どものうしろを歩くとイライラする!
子育てじょうずな親(失敗危険度★★★)

●子どものリズムをつかめ
 子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てがじょうずな親」
「子育てがへたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親を
いう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。

 結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がな
い。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致
していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。

●子育てじょうずな親
 子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。
子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子ど
もと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌
を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌
う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じた
りする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。

●リズムは妊娠したときから始まる
 そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形
を変えて、そのつどあらわれる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそ
ういうリズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも
遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。

リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ば
すためと思い、がまんする。数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合う
ようになってくる。子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子ども
のリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てがじょうずな親という。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

子どものことは私が一番よく知っている!
子どもの横を歩く(失敗危険度★★★★)

●親意識
 親意識の強い人は、「子どものことは私が一番よく知っている」と、何でもかんでも親が決め
てしまう。子どもの意思など、まったくの無視。たとえばおけいこごとを始めるときも、またやめ
るときもそうだ。「来月から、○○音楽教室へ行きますからね」「来月から、今の教室をやめて、
△△教室へ行きますからね」と。子どもは親の意向に振りまわされるだけ。

●妊娠したときから始まる
 こうした子育てのリズムは、親が子どもを妊娠したときから始まる。ある母親は胎教と称し
て、毎日おなかの子どもに、クラッシックや英会話のテープを聞かせていた。また別の母親は、
時計とにらめっこをしながら、その時刻になると赤ちゃんがほしがらなくても、ミルクを赤ちゃん
の口につっこんでいた。さらにこんな会話をしたこともある。ある日一人の母親が私のところに
きて、こう言った。

 「先生、うちの子(小三男児)を、夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思うのですが、どう
でしょうか?」と。その子は、ハキのない子どもだった。母親はそれを気にしていた。そこで私が
「お子さんは行きたがっているのですか?」と聞くと、「それが行きたがらないので、困っている
のです」と。こうしたリズムは、一事が万事。そこでこんなテスト。

●子どもの横を歩く
 あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころ、(1)あなたは子どもの前を、子どもの手
を引きながら、ぐいぐいと歩いていただろうか。それとも(2)子どものうしろや横に回りながら、
子どものリズムで歩いていただろうか。(2)のようであれば、よし。しかしもし(1)のようであれ
ば、そのときから、あなたとあなたの子どものリズムは乱れていたとみる。今も乱れている。そ
してやがてあなたは子どもとこんな会話をするようになる。

 母、「あんたは、だれのおかげでピアノを弾けるようになったか、それがわかっているの。お
母さんが毎週、高い月謝を払って、あなたを音楽教室へ連れていってあげたからよ」、子、「い
つ、だれが、お前にそんなことをしてくれと頼んだア!」と。

 そうならないためにも、子どもとリズムを合わせる。(子どもはあなたにリズムを合わせること
はできないので。)今日からでも遅くないから、子どもの横かうしろを歩く。たったそれだけのこ
とだが、あなたはすばらしい親子関係を築くことができる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

知識や知恵を身につけさせるのが教育?
早期教育と先取り教育(失敗危険度★★★)

●子育てはリズム
 よく誤解されるが、早期教育が悪いのではない。要は「やり方」の問題。たとえば極端な例と
して、胎教がある。まだおなかの中にいる赤ちゃんに、何らかの教育をほどこすというのが胎
教だが、胎教そのものよりも、問題とすべきは、そうした母親の姿勢そのもの。まだ子どもが望
みもしないうちから(望むわけがないが……)、親が勝手に教育を始める。子どもの意思など、
まったく無視。こういうリズムは一度できると、それがずっと子育てのリズムになってしまう。そ
れが悪い。まだ子どもが興味をもたないうちから、ほら数だ、ほら文字だとやりだす。最近はや
っている英会話もそうだ。こうしたやり方は、子どもに害になることはあっても、プラスになること
は何もない。

●幼稚園児に英語の文法?
 またたいていの親は、小学校でするような勉強を、先取りして教えるのを早期教育と誤解して
いる。年中児に漢字を教えたり、英語の文法を覚えさせたりするなど。「アイは、自分のことだ
から、一人称。わかる? ユーは相手のことだから、二人称。わかる?」と。

もっとも漢字をテーマにすることは悪いことではない。漢字を複雑な図形ととらえると、漢字は
おもしろいテーマだ。それを使った応用はいくらでもできる。私もよく子どもたちの前で、漢字を
見せるが、漢字を教えるのではなく、漢字のおもしろさを教える。たとえば「牛」「馬」という漢字
をみせて、牛の絵や馬の絵を描かせたりするなど。

ここに先取り教育と、早期教育の違いがある。ただこの日本では、「知識や知恵を身につけさ
せるのが教育」ということになっている。そして早期教育とは、知識や知恵をつけさせることだと
多くの親は思っている。これは誤解というよりも、偏見と言ったほうが正しいかもしれない。

●人間の方向性を決めるのが幼児教育
 幼児教育が大学教育より重要であり、奥が深いことは、私にはわかる。それを認めるかどう
かは、幼児教育への理解の深さにもよる。たいていの人は、幼児イコール幼稚、さらに幼稚な
教育をするのが、幼児教育と思い込んでいる。しかしこれは誤解である。……というようなこと
を書いてもしかたないが、その幼児教育をすることは、これは早期教育でも、先取り教育でも
ない。この時期、人間の方向性が決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育ということにな
る。その幼児教育が必要か必要でないかということになれば、そういった議論をすること自体、
バカげている。

 こみいった話になったが、幼児の教育を考えるときは、早期教育、先取り教育、それに幼児
教育の三つは、分けて考えるとよい。混同すればするほど、子どもの教育が見えなくなる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ほら、英語教室、ほら、算数教室!
知識と「考えること(思考)」は別(失敗危険度★★)

●知識と思考は別
 たいていの親は、知識と思考を混同している。「よく知っている」ことを、「頭のよい子」イコー
ル、「よくできる子」と考える。しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえば幼稚園児でも、掛け
算の九九をペラペラと言う子どもがいる。しかしそういう子どもを、「頭のよい子」とは言わな
い。「算数がよくできる子」とも言わない。中には、全国の列車の時刻表を暗記している子ども
もいる。音楽の最初の一章節を聞いただけで、曲名をあてたり、車の一部を見ただけで、メー
カーと車種をあてる子どももいる。しかし教育の世界では、そういうのは能力とは言わない。「こ
だわり」とみる。たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、こうしたこだわりをも
つことが知られている。

●考えることは苦痛
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、考えること自体
を避けようとする。あるいは考えること自体から逃げようとする。一つの例だが、夜のテレビを
にぎわすバラエティ番組がある。ああいった番組の中では、見るからに軽薄そうなタレントが、
思いついたままをベラベラというより、ギャーギャーと言いながら騒いでいる。彼らはほとんど、
自分では何も考えていない。脳の、表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して言
葉にしているだけ。つまり頭の中はカラッポ。

●考えることを奪う教育
 パスカルは「パンセ」の中で、『人間は考えるアシである』と書いている。この文を読んで、「あ
ら、私もアシ?」と言った女子高校生がいた。しかし先にも書いたように、「考える」ということ
は、もっと別のこと。たとえば私はこうして文章を書いているが、数時間も書いて、その中に、
「思考」らしきものを見つけるのは、本当にマレなことだ。(これは多分に私の能力の限界かも
しれないが……。)つまり考えるということは、それほどたいへんなことで、決して簡単なことで
はない。そんなわけで残念だが、その女子高校生は、そのアシですら、ない。彼女もまた、ただ
思いついたことをペラペラと口にしているだけ。

 多くの親は、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」と子どもに知識をつけさせることを、教育と
思い込んでいる。しかし教育とはもっと別のこと。むしろこういう教育観(?)は子どもから「考え
る」という習慣をうばってしまう。そのほうがはるかに損なことだと私は思うのだが……。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は頭がいい?
計算力は早数えで(失敗危険度★★)

●計算力は早数えで決まる
 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみる。早く数
えることができる子どもは、五秒前後の間に、二〇回前後の音を数えることができる。そうでな
い子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どうしても遅くなる。

●訓練で早くなる
 そこで子どもが一〜三〇前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよい。最
初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン……」になり、さらに
「イ、ニ、サ……」となる。さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、ピッ……」と、信号にかえて数え
ることができるようになる。これを数の信号化という。こうなると、五秒足らずの間に、二〇個く
らいのものを、瞬時に数えることができるようになる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎
となる。たとえば、「3+2」というとき、頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算
するなど。

 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うちの子は計算
が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習をしてみるとよい。た
だし一言。

●算数の力は別
 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数の力
があるということにはならない。たとえば小学一年生でも、神業にように早く、難しい足し算や引
き算をする子どもがいる。親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪いというのではな
い)、それは少し待ってほしい。計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単
なことではない。子どもというのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得を
した、損をした」という日常的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもを
して、算数ができる子どもにする。そういう日常的な経験も大切にする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

心のゆがみのない子どもが、すなおな子ども
家庭教育の誤解(失敗危険度★★★★★)

●誤解
 家庭教育にはたくさんの誤解がある。その中でもとくに目立つ誤解が、つぎの五つ。この誤
解を知るだけでも、あなたの子育ては大きく変わるはず。

(1)忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に向けさせた
い」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。子ど
もにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末
するとか、風呂場の排水口にたまった毛玉を始末するとか、そういうことができる子どもを忍耐
力のある子どもという。

(2)やさしさ……大切にしているクレヨンを、だれかに横取りされたとする。そういうときニッコリ
と笑いながら、そのクレヨンを譲りわたすような子どもを、「やさしい子ども」と考えている人がい
る。しかしこれも誤解。このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをためやすく、いろいろな問
題を起こす。

子どもにとって「やさしさ」とは、いかに相手の立場になって、相手の気持ちを考えられるかで決
まる。もっと言えば、相手が喜ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子どもという。そのやさ
しい子どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがあるとパパが喜ぶわね」「これを買
ってあげるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日常的にいつもだれかを喜ばすように
しむけるとよい。

(3)まじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのではない。まじめ
というのは、自己規範のこと。こんな子ども(小三女子)がいた。バス停でたまたま会ったので、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう言った。「これから家で夕食を食べます
から、いらない。缶ジュースを飲んだら、ごはんが食べられなくなります」と。こういう子どもを「ま
じめな子ども」という。

(4)すなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考えている人は
多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、つぎの二つをいう。一つは、心の状
態(情意)と、顔の表情が一致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔をする。悲
しいときには悲しい顔をする、など。情意と表情が一致しないことを、「遊離」という。不愉快に
思っているはずなのに、笑うなど。教える側からすると、「何を考えているかわからない」といっ
た感じの子どもになる。こうした遊離は、子どもにとっては、たいへん望ましくない状態と考えて
よい。たとえば自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)がいる。このタイプの子どもの心は、
柔和な表情をしたまま、まったく別のことを考えていたりする。

 もう一つ、「すなおな子ども」というときは、心のゆがみがない子どもをいう。何らかの原因で
子どもの心がゆがむと、子どもは、ひがみやすくなったり、いじけたり、つっぱたり、ひねくれた
りする。そういう「ゆがみ」がない子どもを、すなおな子どもという。

(5)がまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむときは、がまん
はかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(三歳児)がいた。子ど
もは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、父親はそれを「わがまま」と決
めつけて、いつも無理にふとんの中に押し込んでいた。

がまんさせるということは、結局は子どもの言いなりにならないこと。そのためにも 親側に、一
本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう意味で、子どものがまんの問題は、決して
子どもだけの問題ではない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は何を考えているかわからない!
仮面をかぶらせるな(失敗危険度★★★★)

●仮面をかぶる子ども
 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶ
ったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その
仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわ
い。

●心と表情の一致
 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が
日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込
むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいる
が、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。そしてその結果、仮
面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる
前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、
わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、
つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。

●言いたいことを言わせる
 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。しかし平気な親もいる。「バカ!」と言うこと
を許せというのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけ
ない。

●子どもの心は風船
子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表
れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放さ
せることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれ
ば、改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満六歳でこうした症状が一度出たら、
子どもをなおすのに六年かかると思うこと。満一〇歳で出たら、一〇年かかると思うこと。心と
いうのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注
意する。 


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あなたはダメな子ネー!
いつも前向きの暗示を(失敗危険度★★★★★)

●前向きの暗示を!
 「あなたはどんどんよくなる」「あなたはさらにすばらしい子になる」という、前向きの暗示が、
子どもを伸ばす。また前向きに伸びている子どもは、ものごとに積極的で攻撃的。何か新しい
ことを提案したりすると、「やる」「やりたい」とか言って、くいついてくる。これは家庭教育の常識
だが、しかし問題は、子どもにというより、親にある。

 親自身がまず子どもを信ずること。「うちの子はすばらしい子だ」という思いが、子どもを伸ば
す。心というのはそういうもので、長い時間をかけて、子どもに伝わる。言葉ではない。そこでテ
スト。

●「年齢はいくつ?」
 あなたが子どもを連れて街の中を歩いていたとする。すると向こうから高校時代の同級生が
歩いてきた。そしてあなたの子どもを一度しげしげと見たあと、「(年齢は)いくつ?」と聞いたと
する。そのときあなたはどのように感ずるだろうか。

 自分の子どもに自信のある親はこういうとき、「まだ」という言葉を無意識のうちに使う。「まだ
五歳ですけど……」と。「うちの子はまだ五歳だけど、すばらしい子どもに見えるでしょ」という気
持ちからそう言う。しかし自分の子どもに自信のない親は、どこか顔をしかめながら、「もう」と
いう言葉を使う。「もう五歳なんですけどねえ」と。「もう五歳になるが、その年齢にふさわしくな
い」という気持ちからそう言う。もちろんその中間ということもあるが、もしあなたが後者のような
なら、あなたの心をつくりかえる。でないと、あなたの子どもから明るさがますます消えていく。
そうなればなったで、子育ては大失敗。ではどうするか。

●うしろ向きに考える中学生
 子どもというのは、一度うしろ向きになると、どこまでもうしろ向きになる。そして自ら伸びる芽
をつんでしまう。こんな子ども(中学女子)がいた。ここ一番というところになると、いつも、「どう
せ私はダメだから」と。そこでどうしてそういうことを言うのかと、ある日聞いてみた。すると彼女
はこう言った。「どうせ、○○小学校の入試で落ちたもんね」と。その子どもは、もうとっくの昔に
忘れてよいはずの、しかも一〇年近くも前のことを気にしていた。こういうことは子どもの世界
ではあってはならない。

 そこでどうだろう。今日からでも遅くないから、あなたもあなたの子どもに向かって、「あなたは
すばらしい子」を言うようにしてみたら……。最初はウソでもよい。しかしあなたがこの言葉を自
然な形で言えるようになったとき、あなたの心は今とは変わっているはずである。当然、あなた
の子どもの表情も明るくなっているはずである。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あなたには本当のことがわかっていない
子どもの心を大切に(失敗危険度★★★★★)

●無理は禁物
 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせよ恐怖
症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して
無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人
がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をす
ればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それ
がわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなも
のがアドバイスしても、ムダ。「あなたには本当のところがわかっていない」とか、「うちの子ども
のことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

●こわい悪循環
 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。もしそ
んな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入
れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。

●ウリのつるにナスビはならぬ
 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ち
は、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこ
と。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれない
が、子育てというのは、もともとそういうもの。(


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は問題をよく読みません
音読と黙読は違う(失敗危険度★★)

●子どもの読解力
 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。
読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集め
て、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょ
う」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。

●音読と黙読
 話は少しそれるが、音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度自
分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳(ウェルニッケの言語
中枢)がそれをつかさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して
文の内容を理解する。つまり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限
らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで
子どもが文字をある程度読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法
は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。国立国語研究所の調査によると、黙読にする
と、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちるそうだ。

●読解力は、学習の基本
 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別
の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」
ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、も
っとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがるということはよくある。決して軽くみてはいけない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

隠しごとがないのが、いい親子?
逃げ場を大切に(失敗危険度★★★★★)

●逃げ場で心をいやす
 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の
ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近
くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。

またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴
がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した
子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出る
ので、区別できる。)

●逃げ場は神聖不可侵
 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

●子どもの人格を守る
 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。「隠しごとがないほど、
いい親子」と言う人さえいる。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが
老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカ
バンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そ
ういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

友を選ぶか、親を選ぶか?
友を責めるな(失敗危険度★★★)

●行為を責める
 あなたの子どもが、あなたからみて好ましくない友だちとつきあい始めたときの鉄則がこれ。
「友を責めるな、行為を責めよ」。イギリスの格言だが、たとえばどこかでタバコを吸ったとす
る。そういうときは、タバコは体に悪いとか、タバコを吸うことは悪いことだと言っても、決して相
手の子どもを責めてはいけない。名前を出すのもいけない。この段階で、たとえば「D君は悪い
子だから、つきあってはダメ」などと言うと、それは子どもに、「友を選ぶか、親を選ぶか」の、
二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた(親)を選べばよいが、そうでなければあ
なたと子どもの間に大きなキレツを入れることになる。あとは子ども自身が自分で考え、その
「好ましくない友だち」から遠ざかるのを待つ。こういうケースでは、よく親は、「うちの子は悪くな
い。相手が悪い」と決めてかかることが多いが、あなたの子どもがその中心格になっていると
考えて対処する。が、それでもうまくいかないときがある。そういうときは、つぎの手を使う。

●信じて伸ばす
 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そこであ
なたは子どもの前で、相手の子どもをほめる。○○君は、おもしろい子ね。ユーモアがあって、
お母さんは大好きよ」とか。あなたのそういう言葉は必ず相手の子どもに伝わる。その時点で、
相手の子どもは、あなたの期待にこたえようとし、その結果、あなたの子どもをよい方向に導
いてくれる。いうなればあなたはあなたの子どもを通して、相手の子どもを遠隔操作するわけ
だが、これは子育ての中でも高等技術に属する。

●一度こわれた心はもどらない 
ほとんどの親は、子どもが非行に向かうようになると、子どもを叱ってなおそうとする。暴力や
威圧を加える親もいる。しかし一度こわれた子どもの心は、そんなに簡単にはなおらない。もし
そういう状態になったら、今より症状を悪化させないことだけを考えながら、一年単位で子ども
の様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果になるので注意する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

無理をする→ますますさがるの悪循環
子どもを知る(失敗危険度★★★★)

●親の欲目
 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で
見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれ
だが、こうした親の目は、えてして子どもの本当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。

●やってここまで
 ある子ども(小六男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。またある夜一人の父親が、A君(中
一)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまっ
た」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの
中心にいた、などなど。こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しい
が、子どもの学力となると、さらに難しい。

たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強
の量が少なかっただけ」とか、「調子が悪かっただけ」と。そう思いたい気持ちはよくわかるが、
しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものばあい、(やる・やらない)も力の
うち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。

●子どもを受け入れる
 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしても
し後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほど
よい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成
績はますますさがる。要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それ
まで見えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」という
のは、そういう父親をいう。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

それでは子どもがかわいそう
負けるが勝ち(失敗危険度★★)

●親どうしのトラブルは日常茶飯事
 この世界、子どもをはさんだ親どうしのトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ザタ、さらには裁判ザタになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子ど
もが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親どうしのつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人はい
る。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうま
ともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

●最初に頭をさげる
 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから…
…」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

●つきあいの大鉄則
 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あな
たのすべてを知っていただろうか。それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういう
人たちから苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負ける
が勝ち」。これは親どうしのつきあいの大鉄則と考えてよい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

どうしてうちの子を泣かすのですかア!
子育ては子離れ(失敗危険度★★★★★)

●そのうちメソメソと……
 子育てを考えたら、その一方で同時に、子離れを考える。「育ててやろう」と考えたら、その一
方で同時に、「どうやって手を抜くか」を考える。そのバランスよさが子どもを自立させる。こん
なことがあった。

 帰りのしたくの時間になっても、D君(年中児)はそのまま立っているだけ。机の上のものをし
まうようにと指示するのだが、「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そこであれこれ手
振り身振りでそれを示すと、D君はそのうちメソメソと泣き出してしまった。多分そうすれば、家
ではだれかが助けてくれるのだろう。が、運の悪いことに、その日にかぎって、たまたま母親が
D君を迎えにきていた。D君の泣き声を聞くと教室へ飛び込んできて、私にこう言った。「どうし
てうちの子を泣かすのですかア!」と。

●遅れる「核」形成
 このタイプの親は、子どもの世話をするのを生きがいにしている。あるいは手をかけること
が、親の愛の証(あかし)と誤解している。しかし親が子どもに手をかければかけるほど、子ど
もはひ弱になる。俗にいう「温室育ち」になり、「外に出すとすぐ風邪をひく」。

特徴としては、(1)人格の「核」形成が遅れる。ふつう子どもというのは、その年齢になるとその
年齢にふさわしい「つかみどころ」ができてくる。しかしそのつかみどころがなく、教える側から
すると、どういう子どもなのかわかりにくい。(2)依存心が強くなる。何かにつけて人に頼るよう
になる。自分で判断して、自分で行動をとれなくなる。先日も新聞の投書欄で、「就職先がない
のは、社会の責任だ」と書いていた大学生がいた。そういうものの考え方をするようになる。
(3)精神的にもろくなる。ちょっとしたことでキズついたり、いじけたり、くじけたりしやすくなる。
(4)全体に柔和でやさしく、「いい子」という印象を与えるが、同時に子どもから本来人間がもっ
ているはずの野生味が消える。

●何でも半分
 人間の世界を生き抜くためには、ある程度のたくましさが必要である。たとえばモチまきのと
き、ぼんやりと突っ立っていては、モチは拾えない。生きていくときも、そうだ。そのたくましさ
を、どうやって子どもに身につけさせるかも、子育てでは重要なポイントとなる。もしあなたの子
どもが、先のD君のようであるなら、つぎのような格言が役にたつ。

 「何でも半分」……子どもにしてあげることは、何でも半分にして、それですます。靴下でも片
方だけはかせて、もう片方は自分ではかせる。あるいは服でも途中まで着させて、あとは子ど
もに任す、など。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

白砂糖は白い麻薬
子どもの体で考える(失敗危険度★★)

●缶ジュースを四本!
 体重一五キロの子どもがかん缶ジュース一本飲むということは、体重六〇キロの人が同じ缶
ジュースを四本飲むのに等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲ん
だで、腹の中がガボガボになってしまう。しかし無頓着な人は、子どもに平気で缶ジュースを一
本与えたりする。ソフトクリームもそうだ。横からみると、子どもの顔よりも大きなソフトクリーム
を子どもに与えている人がいる。それがいかに多い量かは、一度あなたの顔よりも大きなソフ
トクリームを特別に注文してみればよい。そういうものを一方で子どもに与えておいて、「うちの
子は小食で困ります」は、ない。(ちなみに約半数の親が、子どもの小食で悩んでいる。好き嫌
いがはげしい。食が少ない。ノロノロ食べるなど。)

●「いらんこと、言わんでください!」
 私は職業がら、そういう親子を見ると、つい口を出したくなる。先日もファミリーレストランで、
アイスフロートのジュースを飲んでいる子ども(年長児)を見かけたので、にこやかに笑いなが
らだったが、「そんなにたくさん飲まないほうがいいよ」と声をかけてしまった。が、それを聞い
た母親はこう叫んだ。「いらんこと、言わんでください!」と。いらぬお節介というわけだ。

●砂糖は白い麻薬
 ほかにスナック菓子、かき氷しかり。世界を歩いてみても、日本ほどお菓子の発達(?)した
国は少ない。もっとも味についていえば、アメリカ人のほうが、日本人よりはるかに甘党で、健
康に害があるとかないとかいうことになれば、日本ではそれほど心配しなくてもよいのかもしれ
ない。しかし一時的に甘い食品(精製された白砂糖が多い食品)を大量に摂取すると、インスリ
ンが大量に分泌され、それが脳間伝達物質であるセロトニンの分泌を促し、脳に変調をきたす
ことが知られている。そしてそのため、脳の抑制命令が阻害され、子どもは突発的に興奮しや
すくなったりするという。「白砂糖は白い麻薬」と言う学者もいる。もう二〇年ほど前に、アメリカ
で問題になったことだが、もしあなたの子どもが日常的に興奮しやすく、突発的に暴れたり、ヒ
ステリー状態になることが目立つようだったら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっ
ては、たった一週間砂糖断ちしただけで、別人のように静かになるということはよくある。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

作文は大嫌い!
こまかい指導は、子どもをつぶす(失敗危険度★★★)

●型にこだわる日本人
 文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や書き順は言うにお
よばず、逆さ文字、左右反対の鏡文字など。このとき大切なことは、こまかい指導はしないこ
と。日本人はとかく「型」にこだわりやすい。トメ、ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の
名残をこうまでこだわらねばならない必要はない。

……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美しさを否定するのか」と言う人が必ずい
る。あるいは「はじめに書き順などをしっかりと覚えておかないと、あとからたいへん」と言う人
もいる。しかし文字の使命は、自分の意思を相手に伝えること。「美しい」とか「美しくない」とい
うのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソコンが発達してくると、書き順とは
何か、そこまで考えてしまう。

●ルールよりも中味
 一〇年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた作文を見て、私は
びっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなものがいっぱいあった。そこで私がそのクラ
スの先生(小三担当)に、「なおさないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。「シェークスピ
アの時代から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。またルール
(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。

●「メチャメチャな文字に、丸をつけないでほしい」
 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸をつけないでほし
い。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切なことは、「文字はおもしろい」「文字は楽
しい」という思いを子どもがもつこと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。このタイ
プの親や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に今、「作文は
大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子どもは少ない。よく日本のアニメは世
界一というが、その背景に子どもたちの作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれな
い。

 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところはなおせばよい。
またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子どもを勉強好きにする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

育児から解放されたい!
子どもは甘えるもの(失敗危険度★★★★)

●自然な「甘え」
 スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、
「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受
けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい
柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、
そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

●抱かれない子ども
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど
感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨
床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

●原因は「抱っこバンド」?
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

わかっていたら、どうしてもっと早くアドバイスしてくれなかったのだ!
行きつくところまで行く(失敗危険度★★★★★)

●「うちの子にかぎって……」
 子育ては、失敗してみて、それが失敗だったとはじめて気づく。その前の段階で、私のような
ものがあれこれ言ってもムダ。ほとんどの親は、「うちの子に限って」とか、「まだ何とかなる」と
考えて、無理に無理を重ねる。が、やがてそれも限界にくる。

●燃え尽きる子ども
 よくある例が、子どもの燃え尽き(バーントアウト)。概してまじめで、従順な子どもがなりやす
い。はげしい受験勉強をくぐりぬけ、やっとの思いで目的の学校へ入学したとたん、燃え尽きて
しまう。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス中、二
〜三人。二年生で、五〜六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一クラス
四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみる
か、少ないとみるか? 

●初期症状を見落とすな
 燃え尽きは初期症状を的確にとらえ、その段階で適切に対処することが大切。登校前に体
や心の不調や、無気力、倦怠感を訴えたりする。不登校の初期症状に似た症状を示すことも
ある。そういうとき親が、「そうね、だれだってそういうときがあるよ」と言ってあげれば、どれだ
け子どもの心は救われることか。が、親にはそれがわからない。ある母親はあとになって、私
にこう言った。

「無理をしているという気持ちはどこかにありましたが、目的の高校へ入ってくれれば、それで
問題のすべては解決すると思っていました」と。もっともこういうふうに反省できる親はまだよい
ほうだ。中には、「わかっていたら、どうしてもっと早くアドバイスしてくれなかったのだ」と、私に
食ってかかってきた父親がいた。

●子どもの心を守る大原則
 結論を先に言えば、結局は親というのは、自分で行き着くところまで行かないと、自分で気づ
かない。一度(無理をする)→(症状が悪化する)→(ますます無理をする)の悪循環に入ると、
あとは底なしの泥沼状態に陥ってしまう。これは子育てにまつわる宿命のようなものだ。そこで
大切なことは、いつどのような形で、その悪循環に気づき、それをその段階で断ち切るかという
こと。もちろん早ければ早いほどよい。そしてつぎのことに気をつける。

(1)あきらめる……「あきらめは悟りの境地」という格言を以前、私は考えたが、あきらめる。

(2)今の状態を保つ……「何かおかしい」と感じたら、なおそうと考えないで、今の状態をそれ
以上悪くしないことだけを考える。

(3)一年単位でみる……子どもの「心」の問題は、すべて一年単位でみる。「心」の問題はその
つど一進一退を繰り返すが、それには一喜一憂しない。

 これは燃え尽きに限らず、子どもの心を考えるときの大鉄則と考えてよい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

何を偉そうなことを!
子どもを叱れない親(失敗危険度★★★★★)

●こわくて叱れない
ある雑誌社から原稿依頼があった。「子どもを叱れない親がふえているが、それについて記事
を書いてほしい」と。それについて……。

子どもをこわくて叱れないというのであれば、すでに断絶状態にあるとみる。原因は(1)リズム
の乱れ(親側がいつもワンテンポ早い)、(2)価値観の衝突(親側が旧態依然の価値観に固執
している)、それに(3)相互不信(「うちの子はダメだ」という思いが強い)。この状態で子どもを
叱れば、あとはドロ沼の悪循環!

●親の三つの役目
親には三つの役目がある。(1)ガイドとして子どもの前を歩く。(2)保護者(プロテクター)として
子どものうしろを歩く。(3)友(フレンド)として子どもの横を歩く。日本人はこのうち三番目が苦
手、……というより、「私は親だ」という親意識だけがやたらと強く、子どもを友として見ることが
できない。

●今の状態をより悪くしない
もしあなたが子どもをこわくて叱れないというのであれば、まず子どものリズムで歩き、親の価
値観を一方的に押しつけるのをやめる。そしてここが重要だが、子どもを対等の友として受け
入れる。英語国では、親子でも「お前はパパに何をしてほしい?」「パパは、私に何をしてほし
い」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。また一度断絶状態になったら、
「修復しよう」などとは考えないで、今の状態をより悪くしないことだけを考えて対処する。

●叱ることはむずかしい?
 「叱る」というのは、本当のところは、たいへんむずかしい。子どもを叱るというのは、叱る側
にそれだけの「人格」がなければならない。たとえば教える立場でいうと、よく宿題を忘れてくる
子どもがいる。宿題ならまだしも、テキストや鉛筆すら忘れてくる子どもがいる。しかし私は、ど
うしてもそういう子どもを叱ることができない。理由は簡単だ。私自身もよく忘れ物をするから
だ。自分でもできないのに、どうして子どもを叱ることができるのか。それともあなたは、あなた
の子どもに向かって、「正しいことをしなさい」「まちがったことをしてはだめだ」と子どもを叱るこ
とができるとでもいうのか。もしそうなら、きっとあなたはすばらしい人だ。

●何を偉そうなことを!
 私は幼児を教えるようになって、もう三〇年になるが、どういうわけだか「叱る」ということにつ
いて、おおきな抵抗を感ずる。ときどきは叱ることもあるが、そのたびに心のどこかで、「何を
偉そうなことを」と思ってしまう。先日も図書館の中で騒いでいる高校生がいた。その高校生た
ちを注意してやろうと考えたが、たまたま日本がかかえる不良債権のことが頭の中を横切っ
た。「七〇〇兆円とか八〇〇兆円とかいう、ぼう大な借金をつぎの世代に残して、何を偉そうな
ことを言えるのか」と。とたん注意してやろうという気持ちが吹き飛んでしまった。……そういう
意味でも、子どもを叱るというのは、とてもむずかしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい
自己中心ママ(失敗危険度★★★)

●もともとはわがままな性格
自己中心性の強い母親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしまう。
もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。

 このタイプの母親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子ども
に押しつけようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきなが
ら、子どもが何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手にかえたりす
る。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。 

●バランス感覚
 こうした自己中心的な子育てが日常化すると、子どもから「考える力」そのものが消える。依
存心が強くなり、善悪のバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を静
かにして、その判断に従って行動する感覚のことをいう。このバランス感覚が欠落すると、言動
がどこか常識ハズレになりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(小一
男児)や、友だちの誕生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)が
いた。さらに「核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私
は結婚して、早く未亡人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。

●家族のカプセル化
 ところで母親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向
かってどんどんと積極的に伸びていく母親。もう一つは自分の世界の中だけで、さらにものの
考え方を先鋭化する母親である。外の世界に向かって伸びていくのはよいことだが、反対に自
分のカラを厚くするのは、たいへん危険なことでもある。こうした現象を「カプセル化」と呼ぶ人
もいる。一度こうなると、いろいろな弊害があらわれてくる。

たとえば同じ過保護でも、異常な過保護になったり、あるいは同じ過干渉でも、異常な過干渉
になったりする。当然、子どもにも大きな影響が出てくる。五〇歳をすぎた男性だが、八〇歳の
母親の指示がないと、自分の寝起きすらできない人がいる。その母親はことあるごとに、「生ま
れつきそうだ」と言っているが、そういう男性にしたのは、その母親自身にほかならない。

●悪循環に注意!
 子育てでこわいのが、悪循環。子どもに何か問題が起きると、親はその問題を解決しようと
何かをする。しかしそれが悪循環となって、子どもはますます悪い方向に進む。とくに子どもの
心がからむ問題はそうで、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状
はさらに悪くなる。

 自己中心的なママは、この悪循環におちいりやすいので注意する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

別居か、さもなくば離婚
祖父母との同居(失敗危険度★)

●好かれるおじいちゃん
 祖父母との同居について、アンケート調査をしたことがある。その結果わかったことは、「好
かれるおじいちゃん、おばあちゃん」の条件は、(1)健康であること、(2)やさしいこと、(3)経
験が豊富であること、(4)控えめであることだった(一九九三年・浜松市内で約五〇人の同居
世帯で調査)。

●子どもが生まれる前から同居が望ましい
 反対に同居する祖父母との間のトラブルで一番多いのが、子育て上のトラブル。母親の立場
でいうと、一番苦情の多かったトラブルは、「子どもの教育のことで口を出す」だった。「甘やか
しすぎて困る」というのが、それに続いた。さらに「同居をどう思うか」という質問については、子
どもが生まれる前から同居したばあいには、ほとんどの母親が、「同居はよかった」と答えてい
るのに対して、途中から同居したばあいには、ほとんどの母親が、「同居はよくない」と答えて
いた。祖父母との同居を考えるなら、子どもが生まれる前からがよいということになる。

●たいていは深刻な問題に
 そこで祖父母との間にトラブルが起きたときだが、間に子どもがからむと、たいていは深刻な
嫁姑戦争に発展する。母親もこと自分の子どものことになると、妥協しない。祖父母にしても、
孫が生きがいになることが多い。こじれると、別居か、さもなくば離婚かというレベルまで話が
進んでしまう。そこでこう考える。これは無数の相談に応じてきた私の結論のようなもの。

(1)同居をつづけるつもりなら、祖父母とのトラブルを受け入れる。とくに子どもの教育のこと
は、思い切って祖父母に任す。甘やかしなどの問題もあるが、しかし子育て全体からみると、
マイナーな問題。メリット、デメリットを考えるなら、デメリットよりもメリットのほうが多いので、割
り切ること。

(2)子どもの教育は任せる分だけ祖父母に任せて、母親は母親で、前向きに好きなことをす
る。そうした前向きの姿勢が子どもを別の面で伸ばすことになる。

(3)祖父母の言いたそうなことを先取りして子どもにいい、祖父母には「助かります」と言いな
がら、うまく祖父母を誘導する。

(4)以上の割り切りができなければ、別居を考える。
 大切なことは、大前提として、同居を受け入れるか入れないかを、明確にすること。受け入れ
るなら、さっさとあきらめるべきことはあきらめること。この割り切りがまずいと、母親自身の精
神生活にも悪い影響を与える。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

おとなになりたくない!
すばらしいと言え、親の仕事(失敗危険度★)

●どうしたらいいか
 こんなことがあった。その息子(高一)が、家業である歯科技工士の仕事を継ぐのをいやがっ
て困っているというのだ。そこで「どうしたらいいか」と。

 今、子どもたちの間で、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりという奇妙な現象が起きている。
自分の将来に不安や恐怖心をもつと、子どもはおとなになるのを無意識のうちにも拒否するよ
うになる。そして幼児期に使ったおもちゃや本を取り出し、それを大切そうにもちあるいたりす
る。一人の小学生(小六男児)が、ボロボロになったマンガの本をかばんの中に入れていたの
で、「それは何だ」と声をかけると、その子どもはこう言った。「どうちぇ、読んではダメだと言う
んでチョ、言うんでチョ」と。この子どものケースでは、父親に原因があった。父親はことあるご
とに、「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ」「毎日五、六時間は勉強しなければならないぞ」
と、その子どもをおどしていた。こうしたおどしが、子どもの心をゆがめていた。

●「ペコペコする仕事なんか、いやだ」
 で、私は先にあげた高校生を家に呼んで、理由をたずねてみた。するとその高校生はこう言
った。「あんな歯医者にペコペコする仕事なんか、いやだ。それにオヤジは、いつも『疲れた、
疲れた』と言っている」と。

 そこで私は母親にこう話した。「これからは子どもの前では、家の仕事は楽しい、すばらしい
と言いましょう」と。結果的にその子どもは今、歯科技工士をしているので、私のアドバイスはそ
れなりに効果があったのかもしれない。

●未来に希望を!
 子どもを伸ばす秘訣は、未来に希望をもたせること。あなたはすばらしい人になる、あなたの
未来はすばらしいものになると、前向きの暗示を与える。幼児でもそうだ。少し前、『学校の怪
談』というドラマがあった。そのため「小学校へ行きたくない」という子どもが続出した。理由を聞
くと、「花子さんがいるから」と。やはり幼児には、「学校は楽しいよ」「友だちがいっぱいできる
よ」「大きな運動会をするよ」と、言ってあげねばならない。そして……。

 子どもには、「お父さんの仕事はすばらしいよ」と言う。いや、言うだけでは足りないかもしれ
ない。生き生きと楽しそうに仕事をしている前向きの姿勢をどんどんと見せる。そういう姿勢が
子どもを伸ばす。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

考えるだけムダ?
思考と情報を混同する日本の教育(失敗危険度★★)

●何も考えていない
 思考と情報の加工は、まったく別のもの。たとえばこんな会話。A「今度の休みにはどこかへ
行くの?」、B「そうだな。伊豆へでも行こうか」、A「伊豆なら、下田まで足をのばしたら」、B「そ
れはいい……」と。

 このAとBは、一見考えているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分に
蓄えられた情報を、そのつど加工して外に出しているにすぎない。しかしふつうの人は、こうい
うのを「思考」と誤解している。錯覚と言ってもよいかもしれない。

●思考には苦痛がともなう
 思考にはある種の苦痛がともなう。それは複雑な数学の問題を解くような苦痛である。だか
らたいていの人は、無意識のうちにも、できるだけ思考するのを避けようとする。あるいは他人
の思考をそのまま受け入れてしまう人がいる。カルト教団の信者がそうである。徹底した上意
下達方式のもと、「上」からの思想をそのまま脳の中に注入され、彼らはそれを自分の思想と
錯覚している。それはちょうど教えられるまま、英会話を暗記している幼稚園児のようなもので
ある。「ハウ・アー・ユー?」と言ったりすると、即座に「アイ・アム・ファイン」と答えたりする。英
語をペラペラと口にすると、見たところ賢い子どもに見えるが、その実、意味など何もわかって
いない。何も考えていない。いわんや英語ができる子どもということにはならない。

●賢い子どもとは
 そういう視点で子どもの世界をのぞくと、また別の見方ができる。たとえば年中児にもなると、
本をスラスラと読む子どもが出てくる。一見、国語力のある子どもに見えるが、その実、その本
の内容はほとんど理解していない。ただ文字を音に変えているだけ。

 あるいはたいへんもの知りの子どもがいたとする。口だけは達者で、まさにああ言えば、こう
言う式の反論もしてくる。しかしだからといって、その子どもは頭のよい子ということにはならな
い。賢い子どもということにもならない。もっと言えば、情報が多いからといって、思考力がある
ということにはならない。

●思想は宝石のようなもの 
先にも書いたように、思考するということは、それ自体たいへんなことである。そして思考をした
からといって、何かの「考え」にたどりつくことができるとはかぎらない。それはちょうど砂場の中
で、小さな宝石を見つける作業に似ている。まさに見つかればもうけものという世界。だからこ
れまたたいていの人は、「考えるだけムダ」と考える前に、考えることをやめてしまう。

 話は飛躍するが、日本の教育の最大の欠陥は、「思考」と「情報」を混同し、情報を与えるこ
とを教育と誤解している点である。このことは日本という島国を一歩離れてみるとすぐわかるこ
とだが、それについてはまた別のところで書く。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ほら、カバン、カバン!
国語力を豊かにするために(失敗危険度★)

●会話環境と言葉
 「ほら、カバン、カバン! ハンカチは! バス、バス……、ほら、帽子!」と、こんな話し方を
していて、子どもに国語力が育つはずがない。こういうときは、たとえめんどうでも、「あなたは
カバンをもちます。ハンカチはもっていますか。もうすぐバスが来ますから、急いでしたくをしな
さい。帽子を忘れないでください」と。こうした会話環境があってはじめて、子どもは国語力を身
につけることができる。が、こんな方法もある。

●バツグンの表現力
 一人、バツグンの国語力のある子ども(年長女児)がいた。作文力をみたら、小学四〜五年
生程度の力があったのではないか。紙芝居を渡しても、その場でスラスラと物語をつくってみ
せた。そこで母親にその秘訣を聞くと、こう話したくれた。

 母親の趣味はドライブ。そこでほとんど毎日、それもその子どもが乳幼児のときからドライブ
に連れていったのだが、そのとき母親は、自分の声で吹き込んだ物語のテープを聞かせつづ
けたという。物語は、子ども向けのものから、もう少し年齢の大きい子ども向けのものまで、い
ろいろあったという。

 確かにこの方法は効果的である。別の母親は、芥川竜之介の難解な小説(「高瀬舟」)を吹
き込んだカセットテープをその子ども(小一)に、毎晩眠る前に聞かせた。数か月もすると、そ
の子どもはその物語をソラで言えるようになったという。

●読み聞かせのコツ
 この方法にはいくつかのコツがある。テープに録音するにしても、やはり一番よいのは、母親
の声。物語は何でもよいが、読んで聞かせる目的なら、二〜四年レベルの高いものでも構わ
ない。大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売っている。そういうところで、教科書を
手に入れるとよい。値段も安いし、内容もよく吟味されている。また国語にかぎらず、社会や理
科、あるいは道徳の教科書でもよい。子どもが興味をもっていることなら一番よいが、あまりこ
だわる必要はない。

 さて冒頭の話だが、子どもの国語力の基本は、あくまでも親、なかんずく母親の国語力によ
る。あなたも子どもの前では、正しい日本語で話してみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

交通事故に気をつけてね
寸劇指導法(失敗危険度★)

●指示は具体的に
 具体性をともなわない指示は、子どもには意味がない。よい例が「友だちと仲よくするのです
よ」とか、「先生の話をよく聞くのですよ」とかなど。こういうことを言っても、言う親の気休め程度
の意味しかない。こういうときは、たとえば「これを○○君にもっていってあげてね。○○君は喜
ぶわ」とか、「今日、学校から帰ってきたら、終わりの会で先生が何と言ったか、あとでママに話
してね」と言いかえる。「交通事故に気をつけるのですよ」というのもそうだ。

●下水溝で遊んでいた子ども
 交通事故について話す前に、こんな例がある。その子ども(年長男児)は何度言っても、下水
溝の中に入って遊ぶのをやめなかった。母親が「汚いからダメ」と言っても、効果がなかった。
そこでその母親は、家庭排水がどこをどう通って、その下水溝に流れるかを説明した。近所の
家からはトイレの汚水も流れこんでいることを、順に歩きながらも見せた。子どもは相当ショッ
クを受けたようだったが、その日からその子どもは下水溝では遊ばなくなった。

●迫真の演技で
 交通事故については、一度、寸劇をしてみせるとよい。私も授業の中で、ときどきこの寸劇を
してみせる。ダンボールで車をつくり、交通事故のありさまを迫真の演技でしてみせるのであ
る。……車がやってくる。子どもが角から飛び出す。車が子どもをはね飛ばす。子どもが苦し
みながら、あたりをころげまわる……と。気の弱い子どもだと、「こわい」と泣き出すかもしれな
いが、子どもの命を守るためと考えて、決して手を抜いてはいけない。迫真の演技であればあ
るほど、よい。たいてい一回の演技で、子どもはこりてしまい、以後道路へは飛び出さなくな
る。

 もしあなたの子どもが、何度注意しても同じ失敗を繰り返すというのであれば、一度、この寸
劇法を試してみるとよい。具体的であるがために、説得力もあり、子どももそれで納得する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

娘は地元の大学でないと困ります!
設計図タイプの親(失敗危険度★★★★)

●将来は医師か弁護士に
 親が自分の子どもに夢や希望を託すのは、悪いことではない。それがあるから親は子どもを
育てる。子育てもまた楽しい。しかしそれが過剰になったとき、過剰期待となる。が、さらにそれ
が進んで、中には、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に子どもをあてはめようとする親
がいる。「やさしくて思いやりのある、スポーツマンタイプの子ども」「高校はS高校で、大学はA
大学。将来は医師か弁護士」と。しかし……。

●独特の話し方
 設計図をもっている親は、独特の話し方をする。たとえばこんな言い方。「私はどこの高校で
もいいと思っていますが、うちの子はS高校へ入りたいと言っています。そんなわけで、どうかう
ちの子の希望をかなえさせてあげてください」と。そこで子ども自身に聞くと、「ぼくはどこでもい
いけど、お母さんがS高校でなくてはダメと言っている」と。

 あるいはこんなことを頼んできた親もいた。いよいよ娘(高三)が大学受験というときになった
ときのこと。私に「娘は地元の大学でないと困ります。私から言っても言うことを聞きませんの
で、先生、あなたのほうから説得してください。なお、私がこうして先生に頼んだことは内密に」
と。

●結局は親のエゴ
 このタイプの親は、自分の頭のどこかに描いた設計図に合わせて、自分の子どもの外堀を
埋めるような形で、子どもをしばりあげていく。そして結果的に、自分の思いどおりの子どもを
つくろうとする。親にしてみれば、自分だけがそういう育て方をしていると思っているが、教える
側は無数の親と接している。そしてそういう親たちをパターン化することができる。その一つ
が、このタイプの親ということになるが、もっともそれでうまくいけばよいが、親の思いどおりに
いくケースは一〇に一つもない。

ある子ども(中三男子)は、ある日母親にこう叫んだ。「ぼくの人生だから、ぼくの好きなように
させてよ!」と。たいていはそんな衝突を繰り返しながら、親子はやがて離れていく。

●子どもは「モノ」にあらず
 子どもはたしかにあなたから生まれ、あなたの子どもかもしれないが、同時に、別個の人間
である。古い世代の人の中には、まだ子どもを「モノ」のように思っている人も多い。が、しかし
こうした意識は、きわめて原始的ですらある。もしあなたがここでいう設計図タイプの親なら、自
分自身の中の原始的な親子観を疑ってみたらよい。子どもはあなたの思いどおりにはならな
いし、ならなくて当たり前。またならなかったからといって、嘆くこともない。現に今、あなただっ
て、あなたの親の設計図どおりにはなっていないはずだ。だったら、自分の設計図を子どもに
当てはめないこと。もともと親子というのは、そういうもの。そういう前提で、自分の子育て観を
改める。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれます!
互いに別世界(失敗危険度★★★)

●子育てに尺度はない
 子育てには尺度はない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そう
いう意味では、親は独断と偏見の世界にハマりやすい。こんなことがあった。

F君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手でわがまま。ゲームに
負けただけで、机を蹴っておお暴れしたりした。そこである日、私は母親にこう言った。「もっと
家事を分担させ、子どもを使いなさい」と。が、母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」
と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと聞くと、こう言った。「ちゃんと箸並べと靴並べ
をしてくれます」と。

●「うちの子は何もしてくれないんですよ」
 一方、こんな子どももいた。ある日道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町
の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事
は、すべてY君の仕事だった。が、ある日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。
「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。

 箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれな
い」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はF君とY君に接したので、その違いがよけいに
強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。

●互いに信じられない
 こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもで
も、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにも
かかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースもある。そして互いに互いのこと
が信じられない。

私が「A君(年長児)は、幼稚園へ行くとき、身の回りのしたくはすべて自分でしているのだそう
ですよ」と言うと、そうでない子どもをもつ親は、「信じられません」と言う。また反対に、「B君
(年長児)は、幼稚園へ行くとき、服をまだお母さんに着せてもらっているそうですよ」と言うと、
そうでない子どもをもつ親も、やはり、「信じられません」と言う。尺度というのはそういうもの
で、親はいつも自分や自分の子どもを基準にして考える傾向がある。言いかえると、いかにし
て自分の尺度を疑ってみるかも、子育てでは重要なポイントとなる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

エサを「ホレホレ」と見せつけて手なずける
恩を着せない(失敗危険度★★★★★)

●日本型子育て法
 日本人の子育てには、ひとつの大きな特徴がある。もう二五年ほど前のことだが、アメリカ人
の教育家が日本人の子育てを批評してこう言った。「日本人は自分の子どもに依存心をもた
せることに、あまりにも無頓着すぎる」と。つまり日本人は子どもを育てるときも、親に依存心を
もたせるように育てる。そしてその結果、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコ
ール、よい子とする。反対に独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」として嫌う。

●ペットを手なずけるように
日本人は、子どもに依存心をもたせるような育て方をする。それはちょうどペットの犬を飼いな
らすような方法と言ってもよい。たとえば犬を飼いならすとき、エサを「ホレホレ」と見せつけな
がら、「(主人の)言うことを聞いたらあげるよ」と言う。同じように日本人も、まず子どもに何か
よい思いをさせたあと、「もっとよい思いをしたかったら、(親の)言うことを聞きなさい」としつけ
る。たとえばある女性(六四歳)は、小学五年生になった孫(男児)に、電話でこう言った。「お
ばあちゃんのところへ遊びにきてくれたら、小遣いをあげるよ。ほしいものを買ってあげるか
ら、おいでよ」と。

こういう言い方になれてしまっている人には、何でもない言葉に聞こえるかもしれないが、そう
でない人には、かなり不愉快な言い方に聞こえるはず。たとえばオーストラリアでもアメリカで
も、こういう言い方はしない。子育てのし方が基本的な部分で違う。相手が子どもでも、「食事
がほしかったら、それなりの仕事をしなさい」としつける。いわんや孫をエサで釣るようなことは
しない。

●「先生はわかってくれているからいい」
 その依存心は、相互的なもの。「産んでやった」「育ててやった」と親は子どもに恩を着せる。
着せながら、親は子どもに依存する。一方子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらっ
た」と恩を着せられる。着せられながら、子どもは親に依存する。

 こうした依存性の強い人は、万事に「甘い」。何かにつけて、してもらうのが当たり前という考
え方をする。考え方も、甘い。ある子ども(小五女児)はこう言った。「明日の遠足は休むと、学
校の先生に連絡したの?」と私が聞くと、「今日、足が痛いと言ったから、先生はわかってくれ
ているはず」と。そこでまた私が、「休むなら休むで、しっかりと連絡したほうがいいんじゃない
の?」と言うと、「先生はわかってくれているからいい」と。

●「だから何とかしてくれ」
 もう一つの特徴として、このタイプの子どもは、「だから何とかしてくれ」言葉をよく使う。たとえ
ば何か食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア、(だから何とかしてく
れ!)」というような言い方をする。「先生、おしっこオ、(だから何とかしてくれ!)」というのもそ
うだ。

子どもだけではない。ある女性(七〇歳)はことあるごとに、彼女の息子(四五歳)にこう言って
いる。「私も歳をとりましたからね」と。しかも電話でそれを言うときは、今にも消え入りそうな
弱々しい声で言うという。こうした言い方は、先に書いた、「だから何とかしてくれ」言葉そのも
のと言ってよい。その女性は、息子に「歳をとったから、何とかしろ」と言っている。

日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそれくらい依存心の強い国民と
いうことになる。長くつづいた封建時代の中で、骨のズイまで、自由(自らに由る力)を奪われ
たためと私は考える。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」と。

●日本人は依存型民族?
 一方、自立心の旺盛な子どもは、攻撃的にものごとに取り組む。生きざまそのものが攻撃的
で、前向き。このことについては前にも書いたので、問題はそのつぎ、つまりどうすれば自立心
の旺盛な子どもにすることができるか、である。

が、この問題は、冒頭にも書いたように相互的なもの。子どもに自立心をもってほしかったら、
親自身が自立しなければならない。が、たいていは親自身に、その自覚がない。親自身が「甘
え」の中にどっぷりつかっているため、自分が依存型の人間であることに気づかないことが多
い。あるいは反対に、依存的であることを、むしろ美化してしまう。よい例が、森進一が歌う『お
ふくろさん』である。大のおとなが、夜空を見あげながら、「ママ〜」と涙をこぼす民族は、世界
広しといえども、そうはない。そういう歌が、国民的な支持を受けているということ自体、日本人
が依存性の強い国民であるというひとつの証拠と考えてよい。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そのためにもまずあなた自身が自立する。その
第一歩として、子どもには恩を着せない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子はどうして勉強しないのかしら?
母親が一番保守的?(失敗危険度★★)

●ワーク選びの基準
 本来、地位や名誉、肩書きとは無縁のはずの、いわゆるステイ・アト・ホーム・ワイフ(専業主
婦)が、一番保守的というのは、実に皮肉なことだ。この母親たちが、もっとも肩書きや地位に
こだわる。子供向けの同じワークブックでも、四色刷りの豪華なカバーで、「○○大学××教授
監修」と書かれたものほど、よく売れる。中身はほとんど関係ない。中身はほとんど見ない。見
ても、ぱっと見た目の編集部分だけ。子どものレベルで、子どもの立場で見る母親は、まずい
ない。たいていの親は、つぎのような基準でワークブックを選ぶ。

(1)信用のおける出版社かどうか……大手の出版社なら安心する。

(2)権威はどうか……大学の教授名などがあれば安心する。

(3)見た目の印象はどうか……デザイン、体裁がよいワークブックは子どもにやりやすいと思
う。

(4)レベルはどうか……パラパラとめくってみて、レベルが高ければ高いほど、密度がこけれ
ばこいほど、よいと考える。中にはぎっしりと文字がつまったワークブックほど、割安と考える親
もいる。

●インチキ教授たち
 しかしこういうことは大手の出版社では、すでにすべて計算ずみ。親たちの心理を知り尽くし
た上で、ワークブックを制作する。が、ここに書いた(1)〜(4)がすべて、ウソであるから恐ろし
い。大手の出版社ほど、制作は下請け会社のプロダクションに任す。そしてほとんど内容がで
きあがったところで、適当な教授さがしをし、その教授の名前を載せる。この世界、肩書きや地
位を切り売りしても、みじんも恥じないようなインチキ教授はいくらでもいる。出版社にしても、
ほしいのは、その教授の「肩書き」。「中身」や「力」ではない。だいたいにおいて、大学の教授
ともあろう人が、子どものワークブックなどにかかわるはずがない。

●ワークブック選びは慎重に
 今でもときどき、テカテカの紙で、鉛筆では文字も書けないようなワークブックをときどき見か
ける。また問題がぎっしりとつまっていて、計算はおろか、式すら書けないワークブックも多い。
さらにおとなが考えてもわからないような難解な問題ばかりのワークブックもある。見た目には
よいかもしれないが、こういうワークブックを子どもに押しつけて、「うちの子はどうして勉強しな
いのかしら?」は、ない。

 私も長い間、ワークブックの制作にかかわってきたが、結論はひとつ。かなり進歩的と思わ
れる親でも、こと子どもの教育となると、保守的。保守的な面を批判したりしても、「そうは言っ
てもですねエ……」とはねのけてしまう。しかしこの母親たちが変わらないかぎり、日本の教育
は変わらない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

お母さんが苦労するのは、お父さんのせいよ
父親は母親がつくる(失敗危険度★★)

●互いに高次元な立場で!
 こう書くと、すぐ「男尊女卑思想だ」と言う人がいる。しかしもしあなたという読者が、男性な
ら、私は反対のことを書く。

 あなたが母親なら、父親をたてる。そして子どもに向かっては、「あなたのお父さんはすばらし
い人よ」「お父さんは私たちのために、仕事を一生懸命にしてくれているのよ」と言う。そういう
語りかけがあってはじめて、子どもは自分の中に父親像をつくることができる。もちろんあなた
が父親なら、反対に母親をたてる。「平等」というのは、互いに高次元な立場で認めあうことを
いう。まちがっても、互いをけなしてはいけない。中に、こんなことを言う母親がいる。

●父親の悪口を言う母親
 「あなたのお父さんの稼ぎが悪いから、お母さん(私)は苦労するのよ」とか、「お父さんは会
社で、ただの倉庫番よ」とか。母親としては子どもを自分の味方にしたいがためにそう言うのか
もしれないが、言えば言ったで、子どもはやがて親の指示に従わなくなる。そうでなくてもむず
かしいのが、子育て。父親と母親の心がバラバラで、どうして子育てができるというのか。こん
な子どもがいた。

●男を男とも思わない
男を男とも思わないというか、頭から男をバカにしている女の子(小四)だった。M子という名前
だった。相手が男とみると、とたんに、「あんたはダメね」式の言葉をはくのだ。男まさりというよ
り、男そのものを軽蔑していた。もちろんおとなの男もである。そこでそれとなく聞いてみると、
母親はある宗教団体の幹部。学校でもPTAの副会長をしていた。一方父親は、地元のタクシ
ー会社に勤めていたが、同じ宗教団体の中では、「末端」と呼ばれるただの信徒だった。どこ
かボーッとした、風采のあがらない人だった。そういった関係がそのまま家族の中でも反映さ
れていたらしい。

●夫婦像をつくるのは親
 で、それから二〇年あまり。その女の子のうわさを聞いたが、何度見合いをしても、結婚には
至らないという。まわりの人の意見では、「Mさんは、きつい人だから」とのこと。私はそれを聞
いて、「なるほど」と思った。「あのMさんに合う夫をさがすのは、むずかしいだろうな」とも。

 子どもはあなたという親を見ながら、自分の親像をつくる。だから今、夫婦というのがどういう
ものなのか。父親や母親というのがどういうものなのか、それをはっきりと子どもに示しておか
ねばならない。示すだけでは足りない。子どもの心に染み込ませておかねばならない。そういう
意味で、父親は母親をたて、母親は父親をたてる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

日本の子どもは何もしない
使えば使うほどよい子(失敗危険度★★★★)

●子どもは使え
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●「日本の子どもはスポイルされている」
 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポ
イルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君
は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生
が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生です
ら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなもの
がある。

●ドラ息子の症状
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。
目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由
をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣
そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ
消費的な行動が多くなる。(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依
存心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目
立つ。(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って
行動することができない、など。
あなたの子どもをドラ息子、ドラ娘にしたくなかったら、とにかく使うこと。それ以外にあなたの
子どもをよい子にする方法はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司







【第2章】

ママ診断

ママ診断@

あなたは過保護ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 


 (注意) 横軸の(1)は、満6歳児を表します。

          1……満6・0歳(年長児)  
          2……満7・0歳(小1児)
          3……満8・0歳(小2児)
          4……満9・0歳(小3児)
          5……満10・0歳(小4児)
          6……満11・0歳(小5児)
          7……満12・0歳(小6児)
          8……満13・0歳(中1児〜)

             以下、同じ。



●過保護な子どもって、どんな子?

 過保護といっても、内容はさまざま。食事面で過保護にするケース、行動面で過保護にする
ケースなど。しかしふつう過保護というときは、精神面での過保護をいう。子どもにつらい思い
や苦しい思いをさせない。あるいは子どもがそういう状態になりそうになると、すぐ助けてしまう
など。「(近所の)A君は乱暴な子だから、あの子とは遊んではダメ」「あの公園にはいじめっ子
がいるから、あそこへは行ってはダメ」と、交友関係をせばめてしまうのも、それ。こういう環境
にどっぷりとつかると、子どもは俗にいう、『温室育ち』になる。

●過保護児の特徴

 過保護児の特徴は、@依存心が強く、自立した行動ができない。わがままな反面、目標や規
則が守れず、自分勝手になる。鉛筆を落としても、「鉛筆が落ちたア〜」と言うだけで、自分で
は拾おうとしない。A幼児性が持続し、人格の「核」形成が遅れる。年齢に比べて幼い感じが
し、教える側からみると、「この子はこういう子どもだ」というつかみどころがはっきりしない。B
何ごとにつけ優柔不断で、決断力がない。生活力も弱く、柔和でやさしい表情はしているもの
の、野性的なたくましさに欠ける。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑いながら、それをあけ
渡してしまうなど。そのためいじけやすく、くじけやすい。ちょっとしたことで、すぐ助けを求めた
りする。よく『温室育ちは外へ出ると、すぐ風邪をひく』というが、それは子どものこういう様子を
言ったもの。

●過保護の背景に。親の心配

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」がある。この心配が種となって、親は
子どもを過保護にする。このテストで高得点だった人は、まずその種が何であるかを知る。もし
「うちの子は何をしても心配だ」ということであれば、不信感そのものと戦う。(過保護にする)→
(心配な子になる)→(ますます過保護にする)の悪循環の中で、あなたの子どもはますます、
その心配な子どもになる。

 ひとつの方法として、今日からでも遅くないから、「あなたはいい子」「あなたはどんどんいい
子になる」を子どもの前で繰り返す。最初はどこかぎこちない言い方になるかもしれないが、あ
なたがそれを自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもは、その「いい子」になる。そ
ういう意味では、子どもの心はカガミのようなもの。長い時間をかけて、あなたの子どもはあな
たの口グセどおりの子どもになる。

●子育てから手を抜くことを恐れない

 つぎに子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。そのためにも、子育てか
ら手を抜くことを恐れてはいけない。私が作った格言に、『何でも半分』(子どもにしてあげるこ
とは、何でも半分でやめる)とか、『あと一歩、その手前でやめる』(すべてをしてあげない)とか
いうのがある。やり過ぎてはいけないということだが、教える立場でも、こんなことが言える。私
もときどき、バカなフリをして子どもに自信をもたせ、バカなフリをして子どもに自立を促すこと
がある。「こんな先生に習うくらいなら、自分でやったほうがまし」と子どもが思えば、しめたも
の。親もある時期がきたら、そのバカな親になればよい。

●キズだらけになって成長する

 要するに子どもというのは、キズだらけになりながら成長する。子どもがキズつくのを恐れて
はいけない。親としてはつらいところだが、そのつらさにじっと耐えるのも、親の務めということ
になる。

とくに子どもどうしのトラブルは、一に静観、二に静観、三、四がなくて五にほかの親に相談、
と考える。「ほかの親」というのは、同年齢もしくは、やや年齢が高い子どもをもつ親のこと。そ
ういう親に相談すると、たいてい、「うちもこんなことがありましたよ」「あら、そうですか」というよ
うな会話で、問題は解決する。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断A

あなたは権威主義ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●親意識の背景に権威主義

 「私は親だ」という意識を「親意識」という。たとえば子どもに対して、「産んでやった」「育てて
やった」と考える人は多い。さらに子どもをモノのように考えている人さえいる。ある女性(六〇
歳)は私に会うとこう言った。「親なんてさみしいものですね。息子は横浜の嫁に取られてしまい
ましたよ」と。息子が結婚して横浜に住んでいることを、その女性は「取られた」というのだ。 

日本人はこの親意識が、欧米の人とくらべても、ダントツに強い。長く続いた封建制度が、こ
うした日本人独特の親意識を育てたとも考えられる。

●上下意識と権威主義

 その親意識の背景にあるのが、上下意識。「親が上で、子が下」と。そしてその上下意識を
支えるのが権威主義。理由などない。「偉い人は偉い」と言うときの「偉い」が、それ。日本人は
いつしか、身分や肩書きで人の価値を判断するようになった。  

 ふつう権威主義的なものの考え方をする人は、自分のまわりでいつも、人間の上下関係を意
識する。「男が上、女が下」「夫が上、妻が下」と。たった一年でも先輩は先輩、後輩は後輩と
考える。そして自分より立場が上の人に向かっては、必要以上にペコペコし、そうでない人に
はいばってみせる。私のいとこ(男性)にもそういう人がいる。相手によって接し方が、別人のよ
うに変化するからおもしろい。

●親意識は親子を断絶させる

 この親意識が強ければ強いほど、子どもにとっては居心地の悪い世界になる。が、それだけ
ではすまない。子どもは親の前では仮面をかぶるようになり、そのかぶった分だけ、心を隠
す。親は親で子どもの心をつかめなくなる。そしてそれが互いの間に大きなキレツを入れる…
…。

 昔は「控えおろう!」と、三つ葉葵の紋章か何かを見せれば、人はひれ伏したが、今はそうい
う時代ではない。親が親風を吹かせば吹かすほど、子どもの心は親から離れる。このテストで
高得点だった人は、あなたというより、あなたが育った環境を思い浮かべてみてほしい。あなた
自身もその権威主義的な家庭環境で育ったはずである。そして今、あなた自身があなたと親
の関係がどうなっているか、それを冷静に見つめてみてほしい。たいていはぎくしゃくしている
はずである。たとえうまくいっている(?)としても、それはあなた自身も権威主義的なものの考
え方にどっぷりとつかっているか、あるいは親に対して服従的もしくは親離れできていないかの
どちらかである。

●変わりつつある日本人の意識

 こうした私のものの考え方に対して、とくに男性の立場から、「父親の権威は必要だ」と反論
する人は多い。「父親は家の中でもデ〜ンとした存在感さえあればいい」と。いや、父親どころ
か、「夫の権威」にこだわる人さえいる。今でも「女房や子ども食わせてやる」と暴言を吐く夫は
いくらでもいる。が、こうしたものの考え方は、これからの日本ではもう通用しない。

 そのひとつのあらわれというべきか、家事をまったく手伝わない夫がまだ五〇%以上もいる
一方(国立社会保障人口問題研究所調査・二〇〇〇年)、そうした夫に不満をもつ妻がふえて
いる。厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」(九八年)によると、
「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回九
三年のときよりも、一〇ポイント近くも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。今、日本人
は、大きな転換期にきているとみてよい。

●親は友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。「親には三つの役目がある。親は、ガイドとして子ど
もの前を歩く。保護者として子どものうしろを歩く。そして友として子どもの横を歩く」と。日本人
は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、友として横を歩くのがヘタ。高得点だった人は、
今日からでも遅くないから、子どもと一緒に横を歩いてみてほしい。今まで聞こえなかった子ど
もの声が聞こえてくるはずである。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断B

あなたは過干渉ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●口うるさいのは過干渉ではない

 口うるさいことを過干渉と誤解している人がいるが、口うるさい程度なら、それほど子どもに
影響はない。過干渉が過干渉として問題になるのは、@親側に、情緒的な未熟性があるとき。
親の気分で、子どもに甘くなったり、反対に極端にきびしくなったりするなど。とらえどころのな
い親の気分は、子どもの心を不安にする。ばあいによっては、子どもの心を内閉させ、さらに
ひどくなると萎縮させる。年中児(満五歳児)でも、大声で笑えない子どもは、一〇人のうち、一
〜二人はいる。

●独特の会話

 つぎにA親の価値観を、子どもに一方的に押しつけるとき。過干渉ママは独特の会話をす
る。たとえば先生が子どもに向かって、「この前の日曜日はどこへ行ったの?」と声をかける
と、すぐその会話に割り込んできたりする。「おじいちゃんの家に行ったでしょ。どうして行ったと
言えないの!」と。そこで先生がさらに子どもに向かって、「楽しかった?」と声をかけると、また
割り込んできて、「楽しかったでしょ。楽しかったら、楽しかったと言いなさい!」と。

●過干渉の背景には親の不安や不満

 親が子どもを過干渉にする背景には、子育て全体にわたる不安や不満がある。そしてさらに
その背景には、何らかの「わだかまり」があることが多い。望まない結婚であったとか、望まな
い子どもであったとか、など。妊娠や出産時の心配や不安、さらには生活苦や夫への不満が
わだかまりになることもある。このわだかまりが形を変えて、子どもへの過干渉となる。 

 言いかえると、子どもに過干渉を繰り返すようであれば、そのわだかまりが何であるかを知
る。問題はわだかまりがあることではなく、そのわだかまりに気がつかないまま、わだかまりに
振りまわされること。同じパターンで同じ失敗を繰り返すこと。わだかまりは、あなたの心を裏
からあやつる。これがこわい。

●過干渉児の特徴

 過干渉児の特徴としては、@子どもらしいハツラツさが消え、ハキのない子どもになる。(反
対に粗放化するタイプの子どももいるが、このタイプの子どもは、親の過干渉をたくましくやり
返した子どもと考えるとわかりやすい。よくあるケースとしては、兄が萎縮し、弟が粗放化すると
いうケース。)A自分で考えることが苦手になり、ものの考え方が極端になったり、かたよったり
するようになる。常識ハズレになり、してよいことと悪いことの区別がつかなくなるなど。薬のト
ローチを飴がわりになめてしまうなど。B心が萎縮してくると、さまざまな神経症を発症し、行動
ものろくなる。また仮面をかぶるようになり、いわゆる「何を考えているかわからない子」といっ
た感じになる。

●情緒不安と戦う

 このテストで高得点を取った人は、まず自分の情緒を安定させること。『親の情緒不安、百害
あって一利なし』と心得る。が、それより大切なことは、子どもをもっと信ずること。子どもという
のは、なるようにしかならないものだが、同時に、何もしないでもちゃんと育っていくもの。昔の
人は『親の意見とナスビの花は、千にひとつもアダ(ムダ)がない』と言ったが、これをもじると、
『親の不安とナズビの茎は、千に一つも役立たない』となる。あなたが不安に思ったところで、
子どもは悪くなることはあっても、よくなることは何もない。

●不安の悪循環を切る

 ふつうは(不安になる)→(ますます心配な子になる)→(ますます不安になる)の悪循環の中
で、子どもはますますその心配な子どもになる。こうした悪循環を心のどこかで感じたら、思い
きって目をつぶる。目をつぶって子どもに任すところは任す。もっとはっきり言えば、あきらめ
る。過干渉ママにしてみれば、清水の舞台から飛びおりるほどの勇気がいることかもしれない
が、子どもに明るい顔をもどしたかったら、そうする。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断C

あなたは気負いママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●気負いが強いと子育てで失敗しやすい

 「いい親子関係をつくらねばならない」「いい家庭をつくらねばならない」と、不幸にして不幸な
家庭に育った人ほど、その気負いが強い。しかしその気負いが強ければ強いほど、親も疲れ
るが子どもも疲れる。そのため結局は、子育てで失敗しやすい……。

●子育ては本能ではなく学習

 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。たとえば一般論として、人工飼育され
た動物は、自分では子育てができない。「子育ての情報」、つまり「親像」が、脳にインプットさ
れていないからである。人間とて例外ではない。「親に育てられた」という経験があってはじめ
て、自分も親になったとき子育てができる。こんな例がある。

●娘をどの程度抱けばいいのか?

 一人の父親がこんな相談をしてきた。娘を抱いても、どの程度、どのように抱けばよいのか、
それがわからない、と。その人は「抱きグセがつくのでは……」と心配していたが、彼は、彼の
父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまりその人は父親というものがどうい
うものなのか、それがわかっていなかった。しかし問題はこのことではない。

●だれしも心にキズをもっている

 だれしも、と言うより、愛情豊かな家庭で、何不自由なく育った人のほうが少ない。そんなわ
けで多かれ少なかれ、だれしも、何らかのキズをもっている。問題は、そういうキズがあること
ではなく、そのキズに気づかないまま、それに振りまわされることである。よく知られた例として
は、子どもを虐待する親がいる。

 このタイプの親というのは、その親自身も子どものころ、親に虐待されたという経験をもつこと
が多い。いや、かく言う私も団塊の世代で、貧困と混乱の中で幼児期を過ごしている。親たちも
食べていくだけで精一杯。いつもどこかで家庭的な温もりに飢えていた。そのためか今でも、
「家庭」への思いは人一倍強い。が、悲しいことに、頭の中で想像するだけで、温かい家庭とい
うのがどういうものか、本当のところはわかっていない。だから自分の息子たちを育てながら
も、いつもどこかでとまどっていた。たとえば子どもたちに何かをしてやるたびに、よく心のどこ
かで、「しすぎたのではないか」と後悔したり、「してやった」と恩着せがましく思ったりするなど、
どこかチグハグなところがあった。

 ただ人間のばあいは、たとえ不幸な家庭で育ったとしても、近くの人たちの子育てを見たり、
あるいは本や映画の中で擬似体験をすることで、自分の中に親像をつくることができる。だか
ら不幸な家庭に育ったからといって、必ずしも不幸になるというわけではない。

●つぎの世代に不幸を伝えない

 子どもに子どもの育て方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに子ども
を育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。これは子育ての基本だが、しかし
気負うことはない。あなたはあなただし、あなたの子どももいつかあなたを理解するようにな
る。そこで大切なことは、たとえあなたの過去が不幸なものであったとしても、それはそれとして
あなたの代で切り離し、つぎの世代にそれを伝えてはいけないということ。その努力だけは忘
れてはならない。

●肩の力を抜く

 このテストで高得点だった人は、一度自分の過去を冷静に見つめてみるとよい。そして心の
どこかに何かわだかまりがあるなら、それが何であるかを知る。親とけんかばかりしていたと
か、家が貧しかったとか、そういうことでもわだかまりになることがある。この問題だけはその
わだかまりが何であるかがわかるだけでも、半分は解決したとみる。そのあと少し時間がかか
るかもしれないが、それで解決する。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断D

あなたは学歴信仰ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●結局は学歴……?

 「学歴信仰はもうない」という人もいる。が、身分による差別意識はまだ根強く残っている。ど
こにどう残っているかは、実はあなた自身が一番よく知っている。日本人は肩書きや地位のあ
る人にはペコペコする反面、そうでない人は、ぞんざいにあつかう。またこの日本、公的な保護
を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は受けない。そういう不公平を親たちは毎日肌で感
じている。だから親はこう言う。「何だかんだといっても、結局は学歴ですよ」と。


●変わる子どもの意識

 「信仰」というのは、「信じて疑わない」こと。「勉強は必要なものだ」「いい大学を出ることは大
切だ」と。しかしそう思うのは親の勝手だが、それを子どもに押しつけてはいけない。価値観の
衝突は、えてして互いの間に大きなキレツを入れる。たとえば同じ戦争でも、宗教がからむとそ
の戦争は悲惨なものになる。互いに容赦しない。

 が、今、子どもを取り巻く環境は大きく変わりつつある。それに合わせて子どもの意識もまた
変わりつつある。昔でいう出世主義を唱えても、子どもたちはそれについてこない。それにか
わって自分らしく生きるということが、より重要視されている。たとえばそれがよいのか悪いの
かという議論はさておき、フリーター希望の高校生が、日本労働研究機構の調査(二〇〇〇
年)によれば、一二%もいる。が、それだけではない。

●学歴にしがみつく人たち

 学歴で生きる人は、結局はその学歴で苦しむことになる。Y氏(四五歳)がそうだ。Y氏はこと
あるごとに、S高校の出身であることを自慢していた。会話の中に、それとなく出身校を織り込
むというのが、彼の言い方だった。「今度、S高校の同窓会がありまして」とか、「S高校の仲間
とゴルフをしましてね」とか。が、S氏の息子がいよいよ高校受験ということになった。が、息子
にはそれだけの「力」がなかった。だから毎晩のように、S氏と息子は、「勉強しろ!」「うるさ
い!」の大乱闘を繰り返していた。

●変わる世界の教育

 一方アメリカでは、入学後の学部変更は自由。大学の転籍すら自由。勉強したい学生は、よ
り高度な勉強を求めて、大学間を自由に転籍している。しかもそれが今、国際間でもなされ始
めている。彼らにしてみれば、最終的にどこで学位を認められるかは重要なことだが、そんな
わけで「出身校」には、ほとんどこだわっていない。大学教育のグローバル化の中で、やがて
日本もそういう方向に向かうのだろうが(向かわざるをえないが)、少なくともこれからは学歴
や、地位、それに肩書きをぶらさげて生きるような時代ではない。

●父親のようになりたくない

 むずかしい話はさておき、このテストで高得点をとった人は、あなたの学歴信仰が今、あなた
と子どもの間に大きなキレツを入れ始めていないかを疑ってみる。価値観の衝突というのはそ
ういうもので、キレツ程度ならまだしも、それがやがて断絶ということにもなりかねない。

 実のところ今、中高校生でも、親子が尊敬しあい、楽しく会話をしあっている子どもなど、さが
さなければならないほど、少ない。約八〇%の中高校生が、「父親のようになりたくない」(七
九%)、「母親のようになりたくない」(七二%)と答えている(平成一〇年「青少年白書」)。学歴
信仰がその原因とは言えないが、しかしそうでないとはもっと言えない。

●受験期に悪化する日本人の親子関係

 子どもが受験期を迎えるまでは、日本のばあい、親子関係がほかの国とくらべても、とくに悪
いということはない。しかし子どもが受験期を迎えると、親子関係は急速に悪化する。なぜそう
なのかというところに、日本の子育ての問題点が隠されている。一度あなたも、自分の心にメ
スを入れてみてはどうだろうか。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断E

あなたは溺愛ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●三種類の愛

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

 つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。
一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる

 三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識
したとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英
語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、ま
た子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさ
に真の愛ということになる。

 それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいてい
は親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不
和、騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを
溺愛するようになる。

●溺愛児の特徴

 溺愛児は親の愛だけはたっぷりと受けているため、過保護児に似た症状を示す。@幼児性
の持続(年齢に比して幼い感じがする)、A人格形成の遅れ(「この子はこういう子だ」というつ
かみどころがはっきりしない)、B服従的になりやすい(依存心が強いわりに、わがままで自分
勝手)、C退行的な生活態度(約束や目標が守れず、生活習慣がだらしなくなる)など。全体に
ちょうどひざに抱かれておとなしくしているペットのような感じがするので、私は「ペット児」(失
礼!)と呼んでいる。柔和で、やさしい表情をしているが、生活力やたくましさに欠ける。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのはその年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長していく。たとえば
幼児だと、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を
中間反抗期と呼ぶ人もいる。幼児期から少年少女期への移行期と考えるとわかりやすい。し
かし溺愛児にはそれがなく、そのためちょうど問題を先送りする形で、体だけは大きくなる。そ
していつかそれまでのツケを払う形で、一挙にそのカラを脱ごうとする。しかしふつうの脱ぎ方
ではない。

 たいていはげしい家庭内騒動、あるいは暴力をともなう。が、子どもの成長ということを考え
るなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラを脱げない子どもは、そのまま溺愛児として、たと
えば超マザコンタイプの子どもになったりする。結婚してからも実家へ帰ると母親と一緒に風呂
へ入ったり、母親のふとんの中で寝るなど。昔、冬彦さん(テレビドラマ『ずっとあなた
が好きだった』の主人公)という男性がいたが、そうなる。

●じょうずな子離れを!

 溺愛ママは、それを親の深い愛と誤解しやすい。中には溺愛していることを誇る人もいる。
が、溺愛は愛ではない。このテストで高得点だった人は、まずそのことをはっきりと自分で確認
すること。そしてつぎに、その上で、子どもに生きがいを求めない。子育てを生きがいにしな
い。子どもに手間、ヒマ、時間をかけないの三原則を守り、子育てから離れる。 

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断F

あなたは神経質ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●『まじめ七割、いいかげんさ三割』

 子育ては『まじめ七割、いいかげんさ三割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のようなも
の。この遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。

 たとえば参観授業のようなとき、親の鋭い視線を感じて、授業がやりにくく思うことがある。と
きにはその視線が、ビンビンとこちらの体をつらぬくときさえある。そういう親の子どもは、たい
ていハキがなく、暗く沈んでいる。ふつう神経質な子育てが日常的につづくと、子どもの心は内
閉する。萎縮することもある。(あるいは反対に静かな落ち着きが消え、粗放化する子どももい
る。このタイプの子どもは、神経質な子育てをやり返した子どもと考えるとわかりやすい。)

●子育ての三悪

 子育ての三悪に、スパルタ主義、極端主義、それに完ぺき主義がある。スパルタ主義という
のは、きびしい鍛練を主とする教育法をいう。また極端主義というのは、やることなすことが極
端で、しかも徹底していることをいう。おけいこでも何でも、「させる」と決めたら、毎日、それば
かりをさせるなど。要するに子育ては自然に任すのが一番。人間は過去数一〇万年もの間、
こうして生きてきた。子育てのし方にしても、ここ一〇〇年や二〇〇年くらいの間に、「変わっ
た」と思うほうがおかしい。心のどこかで「不自然さ」を感じたら、その子育ては疑ってみる。

●こわい完ぺき主義

 完ぺき主義もそうだ。このタイプの親は、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に無理やり
子どもをあてはめようとする。こまごまとした指示を、神経質なほどまでに子どもに守らせるな
ど。このタイプの親にかぎって、よく「私は子どもを愛している」と言うが、本当のところは、自分
のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の欲望を満足させるために、子どもを利用してい
るだけ。

●子育ての基本は自由
 
 子育ての基本は、子どもを自立させること。そのためにも子どもは「自由」にする。自由とはも
ともと、「自らに由(よ)る」という意味。つまり子どもには、@自分で考えさせ、A自分で行動さ
せ、そしてB自分で責任を取らせる。過干渉や過関心は、子どもから考えるという習慣を奪う。
過保護は自分で行動するという力を奪う。また溺愛は、親の目を曇らせる。たとえば自分の子
ども(中三男子)が万引きをして補導されたときのこと。夜中の間にあちこちを回り、事件その
ものをもみ消してしまった母親がいた。「内申書に書かれると、進学にさしさわりがある」という
のが、その理由だった。

●家庭はいやしの場に

 子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」へと
変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あまり
こまごまとしたことは言わないこと。アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの上に
座るよりも、気がねせず、カボチャの頭のほうがよい』と書いている。このテストで高得点だった
人ほど、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。

●子どもには自分で失敗させる

 また子どもに何か問題が起きたりすると、「先生が悪い」「友だちに原因がある」と騒ぐ人がい
る。しかしもし子どもが家庭で心をいやすことができたら、そのうちのほとんどは、そのまま解
決するはずである。そのためにも「いいかげんさ」を大切にする。「歯を磨かなければ、虫歯に
なるわよ」と言いながらも、虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。痛い思いをしてはじめて、
子どもは歯をみがくようになる。「宿題をしなさい」と言いながらも、宿題をしないで学校へ行け
ば、先生に叱られる。叱られれば、そのつぎからは宿題をするようになる。そういういいかげん
さが、子どもを自立させる。たくましくする。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断G

あなたは自己中心ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●一方的な押しつけ

 自己中心性の強い母親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしま
う。もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。

 このタイプの母親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子ども
に押しつけようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきなが
ら、子どもが何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手にかえたりす
る。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。

●常識ハズレの子どもたち 

 こうした自己中心的な子育てが日常化すると、子どもから「考える力」そのものが消える。依
存心が強くなり、善悪のバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を静
かにして、その判断に従って行動する感覚のことをいう。そのため言動がどこか常識ハズレに
なりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(小一男児)や、友だちの誕
生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)がいた。さらに「核兵器
か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私は結婚して、早く未亡
人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。

●プライドが強い人ほど注意
 
 家庭へ入った母親の最大の問題点は、自ら「家庭」というせまい世界に閉じこもってしまうこ
と。そしてその中でものの考え方を極端化したり、絶対化したりする。とくに高学歴の母親やプ
ライドが高い母親ほど、この傾向が強い。本来ならそうならないためにも、風通しをよくしなけ
ればならないのだが、このタイプの親にかぎって人づきあいはほとんどしない。あるいはして
も、儀礼的。特定の人と、表面的なつきあいしかしない。「私は正しい」と思うのはその人の勝
手だが、相手に向かっては、「あなたはまちがっている」とはねのけてしまう。

●自分の常識を疑う

 そこでこのテストで高得点だった人は、子育てそのものが、どこか常識とかけはなれていない
かを疑ってみる。子育てというのは、理屈どおりにはいかない。子どもは設計図どおりにはい
かない。あるいはあなたの思いどおりにはいかない。そういう前提で、子育てのあり方全体を
考えなおす。が、問題はさらにつづく。

●カプセルに閉じこもる親

 母親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向かってど
んどんと積極的に伸びていく母親。もう一つは自分の世界の中だけで、さらにものの考え方を
先鋭化する母親である。外の世界に向かって伸びていくのはよいことだが、反対に自分のカラ
を厚くするのは、たいへん危険なことでもある。こうした現象を「カプセル化」と呼ぶ人もいる。
一度こうなると、いろいろな弊害があらわれてくる。

 たとえば同じ過保護でも、異常な過保護になったり、あるいは同じ過干渉でも、異常な過干渉
になったりする。当然、子どもにも大きな影響が出てくる。五〇歳をすぎた男性だが、八〇歳の
母親の指示がないと、自分の寝起きすらできない人がいる。その母親はことあるごとに、「生ま
れつきそうだ」と言っているが、そういう男性にしたのは、その母親自身にほかならない。

●こわい悪循環

 子育てでこわいのが、悪循環。子どもに何か問題が起きると、親はその問題を解決しようと
何かをする。しかしそれが悪循環となって、子どもはますます悪い方向に進む。とくに子どもの
心がからむ問題はそうで、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状
はさらに悪くなる。

 自己中心的なママは、この悪循環におちいりやすいので注意する。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断H

あなたは世間体ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●見栄、メンツ、世間体

 見栄、メンツ、世間体。どれも同じようなものだが、この三つから解放されたら、子育てにまつ
わるほとんどの問題は解決する。言いかえると、多かれ少なかれ、ほとんどの親はこの三つの
しがらみの中で、悩み、苦しむ。が、日本人ほど、世間体を気にする民族は少ない。長く続い
た封建時代の結果、そうなったと考えられる。「皆と同じことをしていれば安心だが、そうでなけ
ればそうでない」と。
 
見栄やメンツもそうだ。『武士は食わねど高ようじ』という言葉に代表されるように、個人よりも
「家」の見栄やメンツが重んじられた。そしてその見栄やメンツをけがすことを、「恥」として、忌
み嫌われた。こうしたものの考え方は、今でも古い世代を中心に、この日本には根強く残って
いる。

●他人の目の中で生きる日本人
 話を戻すが、世間体を気にすればするほど、親もそして子どもも、他人の目の中で生きるよ
うになる。子どもの見方も相対的なものになり、「うちの子は、A高校だから優秀だ」「隣の子は
B高校だから、うちの子より劣っている」と。が、それだけではすまない。ある母親は息子(中
三)の進学高校別の懇談会には、一度も出席しなかった。「(そんな高校では)恥ずかしい」とい
うのが理由だったが、こうしたものの考え方は、親子のきずなを決定的なほどまでに粉々にす
る。こんな例もある。

●うちは本家だから……

 あるとき一人の母親がやってきて、こう言った。「うちは本家だから、息子には、A高校以上の
大学へ入ってもらわねば困るのです」と。「どうしてですか」と私が聞くと、「親戚の手前もありま
すから」と。子ども自身が、世間体を気にすることもある。一人の高校生がこう言った。「先生、
M大学とH大学、どっちがかっこいいですかね?」と。そこで私が「どうしてそんなことを気にす
るのか」と言うと、「結婚式の披露宴なんかもありますから」と。まだ恋人もいないような高校生
が、結婚式での見てくれを気にしていた!

●恥ずかしいからやめてくれ!

 「私は私」「うちの子はうちの子」「他人がどう思うとも、私は自分の子どもを信ずる」という割り
きりが、子育てをわかりやすくする。子どもの心を守る。そしてそういうものの考え方が、一方で
親子のきずなを深める。こんなことがあった。 

 ある男性が彼の母親に、それまでの会社勤めをやめ、幼稚園の教師になると告げたとき、
彼の母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れてしまった。「恥ずかしいから、それだけは
やめてくれ!」と。その男性はこう言う。「私は母だけは私を信じ、私を支えてくれると思いまし
た。が、母は『あんたは道を誤ったア!』と。それまでは母を疑ったことはないのですが、その
事件以来、母とは一線を引くようになりました」と。

 ここでいう「ある男性」というのは、私自身のことだが、だからといって私は母を責めているの
ではない。母は母として、当時の常識の中でそう言っただけだ。

●いかにその人らしく生きるか

 生きる美しさは、いかにその人らしく生きるかで決まる。また生きる実感もそこから生まれる。
言いかえると、他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は自分の人生をムダにすることに
なる。

 このテストで高得点だった人は、一度自分の人生観を洗いなおしてみたらよい。世間体という
のはそういうもので、一度気にし始めると、それがその人の生き方の基本になってしまう。私の
母も八五歳をすぎたというのに、いまだに「世間」という言葉をよく使う。「世間が笑う」「世間体
が悪い」と。その年齢になったら、もう他人の目などは気にせず、「私は私」という人生を貫けば
よいと思うが、母にはそれができない。が、はた(世間)から見ても、それほど見苦しい人生ほ
ない。皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断I

あなたは完ぺきママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●子育てはリズム

 子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、子どもを妊娠したときから始まる。リズムが
あることが悪いというのではない。問題はそのリズムがあっていないとき。どんな名曲でも、二
つの曲を同時に演奏すれば、騒音でしかない。そのリズムは、親子を外から観察すると、すぐ
わかる。

●子どものリズムと親のリズム

 子どもが「ほしい」と泣き出す前にミルクを与える親がいる。しかし泣き出してから、おもむろ
にミルクを用意する親もいる。子どもが歩くようになると、子どもの手をぐいぐいと引きながら、
子どもの前を歩く親がいる。しかし子どもの横かうしろに回りながら、子どもの歩調にあわせて
歩く親もいる。子どもがさらに大きくなると、子どもが「したい」と言う前に、おけいこ教室の申し
込みをする親がいる。しかしそのつど子どもの意思を確かめながら、申し込みをする親もい
る。やめるときもそうだ。子どもの意思などお構いなしにやめる親がいる。しかしそのつど子ど
もと話しあいながらやめる親もいる。

●リズムは一事が万事

 こうしたリズムは一事が万事。形こそ違うが、いつも同じパターンで繰り返しつづく。こんなこ
とがあった。一人の母親が私のところへきて、こう言った。

 「うちの子は、ああいう(グズな)子でしょ。だから夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思
うのですが、どうでしょうか」と。そこで私が「本人は行きたがっているのですか?」と聞くと、「そ
れが行きたがらないので困っているのです」と。

●子どものリズムで考える
 
 子どもを伸ばす秘訣は、子どものリズムでものを考えること。もしあなたが「うちの子はグズで
……」と思っているなら、それは子どもがグズなのではなく、あなたがあなたの子どもをそういう
子どもにしただけ。何でもかんでも子どもの一歩先を歩こうとすると、子どもはグズになる。しか
し一歩、あとを歩くだけで、あなたの子どもはまったく別の子どもになる。要は親が子どものリ
ズムにあわせるということだが、これがむずかしい。リズムというのはそういうもので、その人
の生活のリズムそのものになっていることが多い。中には子どもの世話をすることを、生活の
「柱」にしている人がいる。口では「世話がかかってたいへん」とこぼしながら、手をかけること
を生きがいにしている!

●不信感を疑ってみる

 親がせっかちになる背景には、母親自身の性格もあるが、一方で子どもへの根深い不信感
がある。こんなテストがある。

 あなたと子どもが通りを歩いていたら、偶然、高校時代の友人が通りかかったとする。そのと
きその友人があなたの子どもをしげしげと見て、「いくつ?」と、年齢を聞いたとする。そのとき
自分の子どもに自信のある親は、「まだ一〇歳よ」と、「まだ」という言葉を無意識のうちにも使
う。自信のない親は、「もう……」と言って顔をしかめたりする。あなた自身はどうか、頭の中で
想像してみてほしい。

 もし後者のようなら、子どもをなおそうと思うのではなく、あなた自身の心を作りかえることを
考える。このタイプの親は、たいてい子どもの悪い面ばかりをみて、よい面をみようとしない。
「あそこが悪い」「ここが悪い」と、欠点ばかりを指摘する。もしそうなら、今すぐそういう子育て
観は改める。

●謙虚な姿勢が子どもの心を開く

 このテストで高得点だった人は、生活全体を一度見なおしてみる。そして今日からでも遅くな
いから、子どもと歩くときは、子どものうしろを歩く。アメリカでは、親子でもこんな会話をしてい
る。母「あなたはママに今日、何をしてほしいの?」、子「ママは今日、ぼくに何をしてほしい
の?」と。こういう謙虚さが子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

ママ診断J

あなたは過関心ママ?

 
(注:この表が見にくいときは、後続の、「ファミリス版」のほうで、ご覧ください。)






 







●過関心は子どもをつぶす

 子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、しかしそれが度を超すと、過関心になる。
こんなことがあった。
 
 ある日一人の母親が私のところへやってきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、
『好きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うちの子(小二男児)のように友だちがいない子ども
はどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮に欠ける行為だ。これから学校へ抗議に
行くので、あなたも一緒に来てほしい」と。さらに……。

 子どもが受験期になると、それまではそうでなくても、神経質になる親はいくらでもいる。「進
学塾のこうこうとした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼる」と言った母親もいたし、「子ども
のテスト週間になると、お粥しかのどを通らない」と言った母親もいた。しかし過関心は子ども
の心をつぶす。が、それだけではすまない。母親の心をも狂わす。

●育児ノイローゼ

 子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑う。症状としては、ささ
いなことで極度の不安状態になったり、あるいは激怒しやすくなるのほか、つぎのようなものが
ある。@どこか気分がすぐれず、考えが堂々巡りする、Aものごとを悲観的に考え、日常生活
がつまらなく見えてくる。さらに症状が進むと、B不眠を訴えたり、注意力が散漫になったりす
る、C無駄買いや目的のない外出を繰り返す、D他人との接触を避けたりするようになる、な
ど。

 こうした症状が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●汝(なんじ)自身を知れ

 過関心にせよ、育児ノイローゼにせよ、本人自身がそれに気づくことは、まずない。気づけば
気づいたで、問題のほとんどは解決したとみる。そういう意味でも、自分のことを知るのは本当
にむずかしい。『汝自身を知れ』と言ったのはキロン(スパルタの七賢人の一人)だが、哲学の
世界でも、「自分を知ること」が究極の目的になっている。

 で、このタイプの親は明けても暮れても、考えるのは子どものことばかり。子育てそのものに
すべての人生をかけてしまう。たまに子どものできがよかったりすると、さらにそれに拍車がか
かる。いや、その親はそれでよいのかもしれないが、そのためまわりの人たちまでその緊張感
に巻き込まれ、ピリピリしてしまう。学校の先生にしても、一番かかわりたくないのが、このタイ
プの親かもしれない。

●生きがいを別に

 子育ては人生の「大事」だが、しかし目標ではない。そこでこう考える。『子育ては子離れ』と。
子育てを考えたら、一方で手を抜くことを考える。手を抜くことを恐れてはいけない。子どもとい
うのは不思議なもので、手を抜けば抜くほど、たくましく自立する。要するに「程度を超えない」
ということだが、それがまた親子のきずなを深める。あのバートランド・ラッセル(イギリスの哲
学者、ノーベル文学賞受賞者)もこう言っている。『子どもに尊敬されると同時に子どもを尊敬
し、必要な訓練はほどこすけれども、決して程度を超えない親のみが、家族の真の喜びを与え
られる』と。

●一人の人間として

 あなたが母親なら、母親ではなく、妻でもなく、女性でもなく、一人の人間として、生きがいを
子育て以外に求める。ある母親は、娘が小学校へ入学すると同時に手芸の店を開いた。また
別の母親は、医療事務の講師をするようになった。地域の会に積極的に参加するようになった
人もいるし、何かのボランティア活動をするようになった人もいる。そういう形で、つまり子育て
以外のところで、自分を燃焼させる場をつくり、その結果として子育てから遠ざかる。

(ご注意)これらのテストを個人として、ご利用いただくことに
ついては、何ら異存はありませんが、印刷などして
大量に利用されるときは、必ず、はやし浩司まで
ご一報の上、許可を求めてください。

Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司










戻る
戻る